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めっちゃ分かりやすい説明😊😊
動画とても分かりやすかったです。27:58 新田義貞が挙兵した上野は「うえの」ではなく、「こうづけ」と読みます。今の群馬県ですね。
非常に分かりやすく勉強になりました。
徳政令の画像が小学館版日本の歴史のそれでとても懐かしい。40年近く前、小学生の時に日本史に興味を持つきっかけになった本だった。
家康も吾妻鏡を愛読書にしていたといいますし、御成敗式目は武家諸法度の先祖ともいえる存在なのでしょうね。
御成敗式目は武士階級だけで無く庶民層(農民や労働者)にも広く通ずる、現在我らの生活にも欠かせない法律(刑法や民法)の基本ベースになったのでは無いでしょうか?
泰時有能すぎ
大河ドラマの「太平記」。北条高時を演じた片岡鶴太郎さんは正に「怪演」でしたね。同じ大河ドラマの「北条時宗」では北条時頼を演じた渡辺謙さん、平頼綱を演じた北村一輝さんが印象深かったですね。
北条時宗の妻の祝子役だった西田ひかるさん目当てで、観てました。
いや鎌倉殿の13人、北条時宗、太平記の登場人物をみると面白いです。鎌倉幕府は約100年ちょっとですからね。
@@りょうしん-b3iこの大河3作を見てたら、だいたいの鎌倉幕府の流れはわかりますね。出来れば、貞時の御世をフォローしてくれるドラマがあればなぁ。
北条氏(得宗)が最も栄光に輝いていたのはやはり3代執権泰時から5代時頼の時代まで。その後は時宗の時代、2度の元寇以降、御家人の不満と専制化・内管領の専横が進み、得宗が傀儡化した果てに滅びへの道を辿り、足利・新田両氏の鎌倉襲撃、そして15代高時の遺児二人の死去で完全滅亡。まさに盛者必衰の理を現してしまっていますね…😗。
元寇モンゴルを撃退しても新たな恩賞(領地)を御家人には与える事が出来なかった北条が独裁する鎌倉幕府。だから天下統一果たした豊臣秀吉は、逆に大陸出兵(朝鮮侵攻から明へと)に突き進んだ。現在進行中の戦争も結局は同じですね。
12:15からの逸話は鉢ノ木伝説登場する後家人は佐野源左衛門尉常世
サノゲンザエモンツネヨ神社😃✌️
学生の頃の歴史は年表だの単語だのただの受験の為の暗記する教科にしか思ってなかったけど、大人になり大河や映像をみているとだんだん流れが分かり、興味を持ち出すと歴史が面白く感じるし学生の頃全然記憶できなかった単語もすぐ頭に入る。
人名を見ると俳優の顔が浮ぶようにはなりますが(笑)
ドラマで通史は取り扱わないから、あんまり学業成績とは関係ない。信長の野望とか三国志のゲームにどハマりして、そこだけやたら詳しい人とかいるよね。
q¹
学生の頃の歴史学習とか、そこそこで、いいと思います。私は祖父が海軍軍人であった事もあり、小学生から、雑誌「丸」の愛読家、歴史の授業で、バルチック艦隊との戦いの詳細を述べて、、、先生に引かれてしまいました。プーチン?やめとけ、ロシアより西側がいいって思っているのを武力でねじ伏せようとしても、無理。日本にも親露の鈴木宗男とかいるらしいが、宗男、ロシアにくれてやれ!
因果がまとまっていて分かりやすい。こういうの学生時代に見れたらもっと歴史好きになっていたと思う。
執権北条家と言うと陰謀やら権謀術数のイメージからか文官寄りの人材が多い印象でしたが、泰時なんかは幕府軍の総大将を務める程の武芸の才覚もあったんですね😮
28:50 時行とは「逃げ上手の若君」ですね。
中先代の乱の人やね
ジャンプで松井先生が連載してるやつですね。
ただ何回も足利と戦った末に最期は足利に捕まって首を跳ねられたからな。かえって鎌倉幕府滅亡の時も出家していた北条一族は助命されているので出家していれば長生きしたかもしれない。
でもそれだとジャンプ漫画の主人公にはなれなかったね😅運命とは言え、とても頑張った最後の北条氏だったんだなぁとよくわかりました。
大河北条時宗を回想していて、あのお飾り将軍が吹越満だと今気づいた。
太平記で円喜を演じたフランキー堺さん、ホント演技上手くてはまり役だったな
おんな太閤記で演じた徳川家康も最高でした。
演技とはわかっていても「なんと憎たらしい奴!」と何度も思わされた名演技でした👏
元の侵略を不利に伝える項目が多いが幕府側の侍が有利できちんと撃退してる、元側は船に乗った経験が殆どなく、また騎馬戦が得意だったため陸地での機動戦が出来なかったし上陸する範囲も狭かったため会場に数万人の兵力を残したまま撤退したがそこのに嵐が直撃して大打撃を受けた
中国側からの船団が狭い入り江で船が密集していた所に台風が直撃しましたが、ご指摘の通り停泊での船の繋ぎを誤り振り子の様に揺れて沈没しました。しかし、台風が無ければ半島側から部隊は勇ましく撃退して行きましたが、中国側からの部隊は様々な所から上陸したりして正面以外からも攻められ九州北部は直ぐに制圧されたと思います。
教科書なども、侍の奮戦についてはもう少し書いたほうがいいとは思うけど、あんまり元寇の際の侍達について「強い」という印象を持たせる書き方もどうかと思う。というのも、当時の木造船では例えどの国の船であっても荒波の日本海を渡って列島と大陸間を行き来するのは困難で、さらに船内は軍人達が所狭しと暮らしているような状況で、しかも今の衛生観念からすればとても清潔とは言えない状況だろうから、元軍はもう九州に来るだけで疲労困憊。フィールドも、博多湾周辺の僅かな平野を除いて、得意の騎馬戦の出来ない山だらけ。それどころか当の元軍は、本場のモンゴル人というよりも、その支配下の朝鮮人部隊が多かったため士気も低かったと言われている。対して侍達は、馴染みのある自分たちのフィールドで戦えるワケです。元軍と違って波濤を越えて九州に集まるわけでもないので、体力面や補給面でも侍に断然有利です。侍たちに断然有利な状況なのに、元軍に少なからず苦しめられたからこそ、「やはり武装等の技術面では当時の大陸には及ばなかったのかも?」とか「(侍に有利で)全然フェアじゃない戦いで勝ったのを誇っても意味ないよね」等の識者の思いで、今日の元寇の教え方(「日本が(戦闘力において実質上は)不利だった」みたいな教え方)があるのではないでしょうか。そこでもし「侍のほうが強かった」的な教え方をしてしまうと、それこそ非国際的で間違った歴史認識を学生たちに植え付けてしまうことになるかと思います。◆この動画の、他の方への返信でも書きましたが、戦前の軍人向けの本(昭和7年製なので反幕府などという思想はもう無い時代です)においても、侍への評価はその奮戦を認めるに留まり、決して侍たちが「強かった」とか「有利だった」とは書いていません。むしろ「欠点がいくつもあった」とすら書いています。さらに言えば、もしも侍が元軍に対して辛勝ではなく楽勝だったら、恩賞の問題もそこまで大きくならなかったのではと思います。苦しみ抜いて戦って勝ったのにロクなものが貰えなかったからこそ、侍たちの鎌倉幕府への不信感に繋がったのではないかと思います。
北条氏の先祖は平直方という説があります(時政の出自はよく分かってないみたいですが)そうなると直方の娘と源頼義の子が八幡太郎源義家であることから、それぞれの子孫の頼朝と政子は親戚関係にあったということになるのですが、事実はどうなんでしょう?
泰時の活躍でだれでも知っている御成敗式目が当時では異例の民主主義的な内容(女性の相続権を認めるなど)なのは有名ですが、極楽寺流の北条重時の家訓は素晴らしいですね。後の赤橋守時(足利尊氏の妻・登子の兄)にもつながるのでしょうか。
鎌倉時代の大河ドラマを見るには1991年の大河ドラマ「太平記」、2001年の大河ドラマ「北条時宗」、1979年の大河ドラマ「草燃える」を見たら、北条氏の歴史を見ることができます。1991年は北条高塒、北条守時、北条貞顕。 2001年は北条時頼、北条重時、北条長時、北条政村。 1979年は北条時政、北条義時、北条時房が出てました。北条独裁が極まったのは時頼の時代です。
我が実家は三浦横須賀にありますが、一族の古い寺にたくさんの墓石があります。生き残る為には子孫を繋ぐ運命に逆らわず、継承し尊敬します。無意識にやはり土地が財産であることは間違いない🎵
泰時の政治能力の高さが凄い。 実は、この天才がいたから北条が続いたと思う。
得宗家どんどん劣化していく高時なんか酷い。
実はというよりは、それが一般的な認識と思う
知恵泉では高い評価でしたね
建武式目も鎌倉時代のご成敗式目を見本にしたようです。北条泰時の娘は足利尊氏の高祖父の足利泰氏の母親です。後、尊氏の曾祖父足利頼氏の母親は北条泰時の息子時氏の娘です。
@@義和菊池尊氏は源氏の御曹司であると同時に、北条氏(平家?)の血筋が濃いという。
史上、初めての武家政権だから、上は将軍、補佐役の執権、文官・武官が入り乱れる。 生まれてホヤホヤから、いろんな経験を積んで、美しく立派な白鳥になっていく感じ。 その中で、かの菅原道真と並び立つ位、博識の大江広元、御成敗式目を作った北条泰時がいたことは、貴重だ、と思う。
北条泰時の政治システムの方が安定していたのに得宗家が出てきてからおかしくなってきた感じがするなぁ
「北条時宗が元の使者処刑で元の侵略を招いたじゃないかという批判」は当時の識者或は現代の人が出したか?当時の事なので、使者を処刑せず、元の属国にならなければ侵略されたはず。しかも、使者を処刑の例は世界中いくらでも発生した事を周知の通りだと思います。時代は進んできた今日使者を処刑する事もなくなってしまったけど、
使者を処刑したのも元寇のあとらしいしね
長崎円喜は平頼綱が滅ぼされた経緯を知っているのに一家で内管領・侍所所司・寄合の三職を独占し得宗家を凌ぐ権勢だったので幕府への求心力がなくなり、多くの御家人が離反して鎌倉幕府は滅びました。
昭和40年代に宅地造成のため鎌倉の東勝寺跡近辺を掘り返したら黒焦げの人骨が多数出てきたという話を聞いたことがあります。
昔の合戦があった場所はそのようなことが時々あるのですね?鎌倉では他に和田塚がそうでしょうけど、他の地域ではどうでしょうか。
その遺跡、一緒に出土した供養塔の日付からまさに東勝寺合戦の七日供養であったことが分かり、これこそ東勝寺で自刃した北条一族の遺骨であると確定され、各方面からの保存嘆願があったもの叶わず、あっという間にブルドーザーで破壊されてしまったんですよね。
材木座海岸でもたまに昔の人骨が見つかったと聞いたことがあります。
@@かがみ純 材木座や由比ヶ浜で発見された遺骨は矢傷や刀創を受けている骨、頭骨のみの遺体など、1333年の戦いの戦死者を葬った可能性が高いそうですね。他にも中世集団墓(と言うか、おそらく遺体を適当に埋めたような)の遺骨など鎌倉ではしょっちゅう遺骨が発見されてますね。鎌倉八幡宮でも八幡宮造営以前の平安期と推定される墓地が発掘されてます。
@@eh3063 やぐらが点在する鎌倉はなかなか不気味ですが、庶民の死体は道端に野ざらしで、鳥葬、犬葬になっていたと聞くと哀れな感じもします
NHKワールドなら大河ドラマは見られると聞いているけど、ドラマと相撲のためだけにけっこう高額な契約は二の足を踏むわけでして。歴史小説は結構好きですけど、これだって作者の主観が占める割合が高いので、このチャンネルは自分にとってありがたいのです。
北条時頼は三鉢物語で、小学生の頃学んだ気がします😊
ふむふむ、ふむふむと聞いているうちに寝てしまってた😅名前が多すぎて、途中から分かってるようでわかってないような、、平安、江戸、鎌倉と長く続いた時代には、数多く関わった人々が多くて歴史は面白いけど、なかなか覚えられない😭徳川家も全代将軍言えないもんな〜
川端康成で検索したら「北条泰時」の子孫との事です。本当だったらすごいよ
田舎の豪族から執権まで行ったのはいいけど、同じ一族から出た人間は当たり外れがあるし、反発も招くね。人間的には立派な人も、体が弱かったり短命だったり。なかなか末永く安泰とはいかない。
末路(まつろ)とは「人生や組織の、盛りを過ぎた末。なれのはて。」という意味です。 せめて、「栄枯盛衰」とか、末路という言葉を使いたいなら、北条家の陰りが出てくる北条貞時以降に絞って欲しい。
伊豆の小さな豪族だった北条は、同じ伊豆の豪族である伊東に冷飯を喰わされ肩身の狭い立場でした‼️🤗それに伊東のバック背後には、相模の豪族である大庭が控えていたので北条は全く手を出せず思い切った行動を起こせ無かった?それが最終的に他のライバル豪族や御家人達を次々に倒し滅ぼして巨大化して独占して行ったわけですね‼️🤗北条とは盟友関係だった三浦まで滅ぼしてしまって。
将軍→執権→得宗といずれも家臣に実権を握られお飾りにされていくのが政治あるあるとはいえ考えさせられます🤔
令和となって、現在の華族の生きざまを調べて動画をUPして頂きたいです。私の地元の藩主はともかく、家老、次席家老、含めて、生活は困窮していますね。
やはり元寇が滅んだ遠因になってるでしょうね。動画内でも言われてるとおり、外敵の侵入を防いだだけで敵方からの没収地が存在しないから恩賞を与える事が出来ない。これでは御家人の離反を招くのは必須。
霜月騒動で少弐氏とかの貢献組も潰し&幕臣を族滅させてその没収地を転用する、恩賞は死んだからチャラにするわといういつもの蛮族ムーブ… 公家や寺社の荘園に雇用されてる武士も戦わせて御恩あげたけど御家人と武士の区別付かなくなる(御家人らは幕府の御家人という属性が特権だったのに)し、公家・寺社の訴訟も幕府が介入しないといけない西国に異国警護番役任命+常設の見返りに京・鎌倉の番役を免除したけどその負担を非参戦の東国御家人に押し付ける 全国範囲に支配領域広がってるけど恨みを買い過ぎた
別のチャンネルの解説動画では時間がかかったけど、恩賞は与えられたと解説していた。何故なら霜月騒動で敗れた安達側の領地を没収したり、蒙古襲来で活躍したけど霜月騒動で安達側だったから恩賞を支払わずに済んだとか。
霜月騒動で没収した土地が配られたので恩賞はあったそうな
後、モンゴルと講和をしなかったから九州の御家人と非御家人が異国警護番に着いたから、京都と鎌倉の大番役を他の御家人が負担させられた。そして非御家人がモンゴルとの戦争や異国警護番で幕府と関係をもったから、非御家人とトラブルを抱えていた九州御家人が幕府に不満をもった。
竹崎季長は恩賞に有りつけたクチですね(うじきつよしさんが演じてましたが)。
また、新太平記として大河ドラマを作成して欲しいな!以前聞いた、ナレーターの声のリズムがまたまたイイね。
鎌倉滅亡後、美濃に逃れた北条時行が鎌倉奪還の為に起こした中先代の乱かな
今少年ジャンプで、連載中の逃げ上手の若君で、描かれてますね(少年マンガ風にアレンジしてますが)
鎌倉時代わあまり良く分からないけど大河ドラマを見て興味を見て興味出ました
足利将軍家と鎌倉公方は全員北条義時の子孫なので血だけは次代に残したといえる。
義時&泰時も自分の直系男系子孫(鎌倉北条)を女系子孫(源姓足利)が裏切って滅ぼしたのは絶対許せないだろう。あの世で激怒しているかもしれない。
@@義和菊池 泰時 「ワシのY染色体が…」
勉強嫌いで歴史に疎い私、いつも楽しく視聴しています。私は北条時村の直系の子孫らしいのですが、詳しいことはよく知りません。昔のことだから色々解釈はあるでしょうが、滅亡なんかしてない、細々とだけど私はどっこい生きてる北条家の末裔だよって思いました(笑)。
こればっかりは家系図とかない限り証明できないからね。ご先祖様がそう言ったとしてもその親が子に嘘を教えてそのままずっと嘘が子孫にまで伝わるとかもあるし、よくあるのは落胤とかね、後は明治になって名字を貰えた農民が昔栄えた名家の名前を名乗る際に勝手に末裔って言ったのもあるから、特別な物でもない限りわからない話だよ。
多分ね、違うと思うよ。明治時代にそういうの流行ったのよ
新田に攻められて自害滅亡した北条茂時に遺児が居たのですね。
去年、一般人ですが戸籍から作成した家系図にて江戸末期から明治初期の先祖が、天皇家と縁が有る先祖がいると判明した為、今上天皇の直系祖先の検索サイトから、自分の家系が古代から分かります。先祖の父親を辿ると藤原道長である為か?歴史で習った偉人の先祖達が多く丸ごと日本史のようです。北条義時の泰時含め5人の息子が先祖でした。政村も先祖ですから縁が有りますね。😊政村の娘が北条実時に嫁ぎ北条顕時と繋がってます。因みに今上天皇も北条氏の子孫です。先祖の義時の5人の息子の系譜の先祖1人1人のバックには多くの子孫がいます。証明は家系図になりますが、他北条氏の家系の方は沢山でしょうから北条氏の子孫の数は多いと思います。
私は親戚のお寺にあった家系図で知りました。桓武天皇のお名前もあってビックリでしたね。
15:30 いこく「けご」ばんやくに聞こえる
時宗の判断は正しかったと思います。暴風より戦術の正当性が評価されないのは、戦後の影響かと・・・
ところが戦前(1932年)の日本軍人向けの本『海軍読本』においても、神風と列島兵士の奮戦について、神風のほうを高く評価しています。具体的な記述として、「この役は、戦術的に見れば、我が戦法にも多くの欠点があるが、十万の大敵に対し決然として壮烈なる突撃戦を試みたことはーー(以下略)(旧字を改め原文ママ)」と列島兵士の勇猛さをたたえていますが、「大きな欠点」ではなく「多くの欠点」と書いているのに注目です。(もちろん、この本では、神風に対してマイナスな事は一切書いていません。)武士らしく名乗りを上げている隙にやられたり、元軍の爆弾や速射連射に優れた弓による戦術等に対して,我が方の長弓による遅い戦法が不利であったりという欠点。これら二つの欠点は、今日では一般によく知られている事ですが、一応それでも元の部隊を撃退しているワケですし、その二つくらいだけでは「大きな欠点」ではあっても「多くの欠点」とは言えないでしょう。自分の国の戦について、単に「めっちゃいっぱい欠点があったけど勝てたよ!」なんて事を書くのは、どんな本でも普通はあり得ないことでしょう。「相手(元軍)の調子が悪かったから」とか、「元軍の欠点」についても書かれているならまだしも、この『海軍読本』では元軍の不利については書いていません。ですから、ここだけ見ると、日本軍人向けの本なのに、わざわざその士気を下げるような書き方をしているワケです。そのうえで、神風について「我が将士の勇敢なる防戦と、神風たる大颶風とによってーー東洋の無敵艦隊を撃退することが出来た。(仝原文ママ)」と書いています。つまり見方によっては、この『海軍読本』では、「神風の援護がないと、多くの戦術的欠点を持っていた我が国は危なかった」と書いているようにも取れるのです。そういう見方をしなくても、原文を見てままの通り、神風のほうを高めに評価しているのは事実です。なお、私の意見としても、神風(要するに台風)は戦前~終戦直後くらいまでの日本人にとって、日常に介在する明確な脅威であったと認識していますので(現在のような台風対策バッチリの家々が当たり前の世の中では考えにくいかもしれませんが)、やはり昔ながらの神風重視の見方で良いんじゃないかと思っています。◆ちなみにこの『海軍読本』は、実際に重巡洋艦"摩耶"の中の人(田中壽作)が所有していた本です。
アニメ「逃げ上手の若様」のおかげで、足利尊氏・後醍醐天皇・諏訪氏など興味を持って調べる事にしました。
切腹なんてとてもできないな。 自分で終わりを決めてしまうのはあまりにも悲しく凄惨だ
でも武士にとって敵に捕まり公開処刑で斬首され晒し首の辱しめにあうのは本人だけでなく子孫にとっても末代までの恥だからな。
北条氏は泰時以降の執権がみんな短命なんだよな。せめて時宗が長生きしてたらバカ息子も、もう少し政務に励んでたろうに。
西遼・西夏・金・南宋等、敵対した国を容赦なく滅ぼしてきたモンゴル帝国からの国交を断るとは、当時の日本は怖いもの知らずだなぁ(モンゴル帝国の情報を知らなかったのだろうか?)と、世界史の授業中に思ってたり(;=´人`=)
体制の中心が朝廷→藤原氏→平氏→源氏→北条氏→足利氏→織田氏→豊臣氏と変わっていく過程では一旦落ち着いてる様に見えてずっと内乱は続いてるんあじゃないのかな~?徳川政権だけが世界的にみても特殊に内乱の無い体制
この当時の百姓とは多くの姓、則ち全ての人々という意味だった筈
時宗は元寇の後始末まで存命だったら本当の評価がわかった気がする…あと得宗政治の終焉を決定づけたのは貞時だよね
子供の頃は戦国武将で小田原城主の北条氏ってこの北条氏の子孫かと本気で思ってた
ここまでで大河「北条時宗」の話は無しか前半は三浦vs執権家のゴタゴタが多く描かれたし、元寇を挟んで安達vs平の対立も結構目新しかった鎌倉幕府というのはずっと戦乱の中に有るなと鎌倉殿を見ていて改めて思う個人的には金沢流実時を演じた池畑慎之介が好きだったなぁ
北条時政の次女時子が足利義兼に嫁いでいる時子の産んだ子が足利義氏であるそのDNAは室町幕府の15人の将軍に受け継がれているつまり、桶狭間の合戦で討死した今川義元忠臣蔵で大石内蔵助ら赤穂浪士に討たれた吉良上野介も時政の子孫細川元総理も子孫時政の息子義時の娘が、佐々木信綱に嫁ぎ、佐々木泰綱を産んでいる泰綱は六角氏の祖で、その六角氏の庶流に近江青木氏という武家があり、一説では徳川家康の母方の祖母華陽院が、その近江青木氏の子孫青木一宗の娘とういう学説も存在するもしこれが事実ならば、時政のDNAは徳川家にも受け継がれて、今上天皇に受け継がれている如何に北条時政という人物が、その当時数多くの御家人の許に娘を嫁がせたが窺い知れる逸話である北条得宗家は、娘時子の嫁ぎ先の足利家によって滅ぼされたが、北条のDNAは今も存在する
北条義時の息子5人から繋がり子孫で動画を観てコメントに先祖の時子の名前が目に付き読ませて頂きました。とても細かく時政の家系をご存知で敬服致します。母が母の祖母から聞いたと不思議は話は聞いてましたが母方の家系図を一昨年前に作り江戸後期の先祖が天皇家に関わる人物で「歴史ディレクトリ」のサイトで古代からの先祖が確認出来ます。その家系図から時政の娘の北条時子と足利義兼→足利義氏と北条泰時の娘→足利泰氏 →足利頼氏と上杉重房の娘→足利家時と北条時茂の娘→貞氏と釈迦堂殿→足利高義→足利高義の娘と上杉朝定(二橋上杉家)→上杉朝顕 →上杉朝顕の娘と今川泰範→今川範政と上杉氏定の娘→今川範忠 →今川義忠→今川義忠の娘と正親町三条実望→ 正親町三条公兄から繋がっております。縁で友人に吉良上野介の子孫がいます。去年伊豆の国市・願成就院の時政のお墓に母とお参りしました。又家系が分かり宝戒寺に供養をお願い致しました。その後に時子の墓の有る法玄寺と鑁阿寺と順に行きました。先日、横須賀市の三浦義明、義澄、三浦市の義村と鎌倉市の源義朝、又先祖では有りませんが北条政子、源実朝のお墓参りを致しました。読み返し削除と追記をさせて頂きました。🙇♀️
ただ、女系(Y染色体を持たない)子孫なので、あまり注目はされません。後年になると、養子縁組で血統が途絶えてる可能性もありますからね💦
@@giantnioinoba2023 コメント有難う御座います。😊家系図のサイトですが、Wikipediaが元ですが、直系祖先のみで養子は載りません。江戸後期の先祖迄の男系祖先が藤原兼家、道長、頼通でした。調べたら家系から二つの摂関家の血を繋ぐ為に養子に行ったそうです。又多くの歴代の偉人と言われる先祖達が多いのは女系だからと思います。例えば平将門、紫式部、平清盛、藤原清衡、前田利家、明智光秀は娘から繋がり、菅原道真は息子から源義朝は娘と息子からで他の先祖達においても家督を継がないので様々です。染色体等は全く気にせず只、先祖と知ったら感謝して可能な範囲でお参りするだけです。☺️
@@giantnioinoba2023 コメント有難うございます。たまたまで母方の江戸後期の先祖がネットで古代から家系が分かる人物の為に先のサイトで確認しましたら、先祖は藤原北家で男系祖先が藤原兼家、道長、頼通でした。サイトはWikipediaが元で養子を除く直系祖先のみで家系図が作成されてます。男系は家督を継ぎ1系譜ですが、多くの偉人の先祖達がいるのは女系が理由となります。例を上げると平将門、紫式部、藤原清衡、平清盛、前田利家、明智光秀等は娘から、菅原道真は3人の息子から息子と続き娘へ色々で、家系を見ると思いも寄らぬ偉人同士が繋がっていて驚かされます。只、DNAは考えますが、染色体レベルでは考えたことが無く、先祖達がいて今の自分が存在すると思うと感謝しかなく、出来る範囲でお墓が分かればお参りや縁の地を旅してます。😊
意外とさ、平家の方が苗字を変えながらもほそぼそと生きてたんだよね、親族同士の仲が良かったんだわ、もう源氏に至っては今の🇰🇵のキム一族と変わらん😖😖😖
強引に権勢を得た人間の末路なんてそんなものよ足利尊氏があまり強く嫌われないのもわかる話よ
でも足利尊氏兄弟みたく北条や後醍醐天皇など世話になった人を簡単に裏切る奴は人として信用できない。
何で小田原城で秀吉に囲まれた北条氏の説明が無いんだよーって思って調べたら、動画で出てくる北条氏と小田原で籠城した北条氏は全くの別の一族なんですね、何というか、いやー勉強になるなあ。
小田原北条氏は、何とか執権北条氏と縁のある家系にしようとした節はあるようですね。初代北条早雲は伊勢氏なので無関係ですが、女系でも構わんと、二代氏綱が鎌倉北条氏の末裔である神官の娘を娶り、関東を統治するのに北条の名を冠する方がメリットが大きいとして、名乗りだした説があるらしいです。
15:12 高麗は滅亡していない。元の属国になった。
滅ぼうが属国だろうが火傷国家はどうでも良いが途中出てくる地図で塗りつぶしてないから分かると思うんだけど※追記・・・自分の主観ですが考えましたが属国になったら独立国家では無いので滅亡であってるのかな?南宋も滅亡だしね。
@@torneo8180 ダメだこりゃ(笑)
@@torneo8180 属国と滅亡は違うよ?
@@seacret289 確かにそうですね。が、あいつらは万年属国だから国の体を成してないでしょ。なので滅亡としました。
北条高時には、少なくとも三人の息子がおり、長男邦時は17歳で処刑され次男時行は中先代の役を起こしたが、1353年25歳で処刑された。時行には男子はいなかったようだ。もう一人の子は消息不明のようだ。(鈴木由美『中先代の乱』中公新書、2021)参照。
御家人と御内人は江戸時代に当てはめると外様大名と譜代大名。時代が変わるとこんなもんだな。
高時の代で鎌倉幕府が滅んだと思いがちだが、執権は赤橋守時の代まで一応続いた。大河ドラマの『太平記』では勝野洋氏が演じており、幕府と運命を共にしたのが痛ましかった。他のコメントにもあるが、片岡鶴太郎氏の高時は怪演だった。ただ、いくら何でも史実の彼はあんなイカれてはいなかっただろう。さもなくば東勝寺で一族郎党が運命を共にしなかったはずだ。
原作は吉川英治の「私本太平記」ですから、ストーリーもそれに準拠しています。
高時に関しては「逃げ上手の若君」では「無能」ではなく「何も出来なかった」描写がされています。長崎一族の「独裁の終焉」と「幕府滅亡」がほぼ同時期に起きたのも、大きな要因でしょうね。
まあでも足利泰氏や足利頼氏や足利貞氏や足利義詮とかは母親が北条氏なので、足利将軍家の中で濃い濃度で北条の血は生き続けるんですけどね~
これだけ濃い血縁関係で奥さんも北条出身なのに足利尊氏が北条を裏切り、出家した人以外は根絶やしにするとは理解できない。俺が尊氏なら降伏した北条一族の男子は助命し北条の娘を母に持つ息子義詮の家来(側近)にする。
でも尊氏にとっては赤橋登子との婚姻も北条の命令で仕方なくですからね~。尊氏の母は北条じゃないですし、祖父家時は北条のせいで切腹したワケですから、北条に対する後ろめたさなんて無いですよ。後の徳川家康もそうですが、「後ろめたさ」を感じる人に天下なんて獲れません。
@@osakakawachi 俺が足利尊氏なら北条にとって変わる発想がない。これだけ血の濃い関係なんだしクーデター起こすとしても北条高時を追放し義兄(妻の兄)の赤橋守時か英時を祭り上げ自分は脇から支える事で満足してたな。
尊氏が直義タイプならそうしただろうけど、あの尊氏じゃ無理(笑)
御家人との争いから今度は身内(北条家と外戚)内部の争いだからなぁ安達氏なんかこれに巻き込まれですし
鎌倉幕府滅亡は1333年。実に覚えやすい。
イチミサンザン鎌倉幕府
@@962ctrlgfk6 一味散々!
腑抜けになった貞時の後が病弱な高時だったのが致命傷になった感じですかね?、霜月騒動くらいから御家人達の恨みを買い続けているから破綻が早くなっただけかもしれませんが
北条氏は子孫が結構生きてらっしゃるんだよね、、、関西の知り合いに末裔がいて、今でも伊豆かどっかで法事があるらしい。
尚、戦国期に関東を治めた後北条氏は早雲が伊勢氏である事から遠縁ではあるものの一応北条氏の血を引いており北条の血は関東に返り咲いた。
聞くところによると女性が残り、毛利家の言わば得宗に嫁ぐ際に男子出生の際は北条家へ渡す約束でその通りになり祖父母に小さい時から育てられたとの内容をその本人から10年ちょっと前に聞きました。ご自身得宗と名乗られていて住まいはニューヨークで、都市開発の会社をお持ちでした。プライベートライブでマライア・キャリーを聴くファンとのことで、私と母に同じCDをくださいました。私は熊本のパワスポ龍王神社八代にお連れしました。過去毛利家(妻が北条家得宗位)は息子を北条家へ手放されたあとは息子は生まれず、オジに当る人が毛利家の継承されたとその北条さんから聞きました。たまにTVにもでたり美空ひばりさんにも会った話とか、尖閣諸島に以前しばらく旗が立っていましたがあれはご自身が立てに行ったと仰っていました。行くというと手伝う人がいたとのこと。来熊は2010〜2011頃で母上様が福岡の大学で古文を教えていたけれど入院したので福岡に来ておられる際たまたま熊本益城町で区画整理の会議の際呼ばれ、当時副会長だった母と会った状態でした。北条家の本が出版される際は聞きとりがあると仰っていました。以上は私が直接聴いた内容でした。 北条さんは一時はカーレースが好きでカウンタックを2台持ってたそうで年齢は若く見えるけど今60前後くらい、ご子息はニューヨークで、当時ラルクアンシエルの人が家に来られるとかも仰せでした。かっこいい感じの方でしたよ。稚拙な文章でごめんなさいm(_ _)m 知る限り書かせて頂きました。
空中元彌チョップの和泉元彌、小森のおばちゃまの片岡鶴太郎、に繋がっていくのであった
30年前、平塚に小さい旅館がありました。末裔だと聞きました。
義時と姫の前(比奈)の子孫は女系を通して足利将軍家につながっている。
ちなみに、赤橋登子の母方の祖父は、時頼の庶子(時宗とは仲が良かったので静かに生きていた。)なので彼女には得宗家の血も入っている。
これを見ると鎌倉は本当に内ゲバ、内ゲバの嵐で最悪です。やっぱり平家が栄華を誇っていた方がまだ良かったかも。
そうなっていたら、その後の関東の地位はずいぶん低いものになり、現代にも影響を与えていたと思う
平家も清盛が叔父一族を殺害したり身内を手にかけてますけどね
「平家にあらずんば人にあらず。」
北条氏って平家じゃ?………
@@tm-te1xk北条も平氏だけど平家ではないよ平家は清盛一門のこと
コメント📝されてる方皆さんよく勉強されてますね 私も趣味は日本史ですが皆さん程知識はありません 勉強になります 埼玉日光仮面72歳
北条さんという苗字の方は、今迄お一人しかお会いした事が無いのですが…やはりあの北条氏と何らかの関係があるのかな…と思っています!殆ど直面しない苗字だから…。
新田義貞の部分が薄い。
物凄く分かり安い説明でいいですね、やはり説明は女のひとが一番、此れからもお願いします。
そして鎌倉滅亡後の北条の命運は時行へと。漫画逃げ若ですね。
弘安の役の詳細は、どこで調べられたものですか?諸説ある中、今では、この説は有力ではなくなっています。日本側の夜襲などで戦力が壊滅的になった元軍に、とどめを刺すように台風が襲来したというのが最近の主流で、台風自体で元軍が壊滅したのではないと言う説が有力になっています。これは我が国の歴史の中で最も重要な部分ですので、こういう動画を作成される際は、慎重に調べていただきたいものです。それと、時宗の評価が分かれていると言う部分にも疑問が残ります。時宗の評価を下げている人たちを調べれば一目瞭然です。我が国を貶めることを目的とした勢力が殆どです。時宗の評価が分かれていると言うくだりは、中立的に見ても、言及する必要のないことだと思います。まあ、作者の歴史観にもよりますから、批判はしません。これは、私自身の見解を述べたまでです。
時宗が一族の者を何人も滅ぼし、元からの死者を処刑したのは事実だろ⁉️そういうところで賛否両論あるんだよ
@@藤原鎌平 学者は色々言うは、賛否両論するのが仕事だからしてどうでも良いが元の使者を殺すのは別に悪い事ではない。何故なら、元の目的は日本を元の属国になれ!な訳だからそれを日本は飲めないのであるからして、追い返すなりするのは当然である=これが無視だろう。元の使者を殺した=どうせ、盲腸半島の使者が余計な事を言って時宗を怒らしたんだろうと判断する。元からの使者を殺そうが歓待しようが属国案を拒否したら日本を攻めてくるのは確定だから無視&殺して日本の意思表示をハッキリした方が良い。そして、おまえら元の提言は拒否するって意味で死者を殺すのはよくある話である。そして粛々と対元に対して防衛準備をしたのだから全く問題は無い身内云々の何人も殺った。は、時宗はその対元に対しての防衛する時に、身内の中に敵が居たらどうすんの?一番ヤバい時に反乱とか起こされたら目も当てれない。身内云々を殺すとかは、時宗の前の時代にも北条はやらかしてあるからして、時宗の時だけ、お前は~というのは的外れな論である。学者はまぬけといいたい。それに、この時代から下った戦国時代でも同じことをしている訳で、筆頭は秀吉とか、北条時宗が異常だったわけでは無い。
テロップの出し方、もう少し工夫して下さい。早くて読み取れません。
創始者の河内源氏の嫡流頼朝が行き過ぎた身内粛清したのと、自分が流人時代に世話になっていた恩があったとはいえ比企氏贔屓してなければ頼家実朝兄弟が代理人同士の争い(比企能員vs北条時政義時親子、政子)、今度は実朝と公暁(頼家遺児、三浦氏の一族が乳母を務めていたの考えると実質北条義時泰時vs三浦義村、公暁自身も実朝に嫡子居なかったから猶子扱いになっていたのである意味では親の敵と思い込まされた親殺し)で争ったりと御家人たちコントロールしているようで自分死んだあとの御家人の歯止めをかけておけるシステム作って置かなかったのが悪い(頼家実朝公暁の悲劇はある意味頼朝のせい)幕府滅亡か終わりの頃には実質源氏嫡流は足利氏になっていたのみると、自分の死後のビジョンが無かった頼朝の限界だったかもしれん同じ幕府創始者の足利尊氏も満年齢53歳で迎えが来ていたものの、嫡男義詮(北条氏の流れ汲んでいる)は尊氏が幕府開いて後に観応の擾乱で父親から呼び出されてそこで経験積んで2代目としての基礎固めと役割果たして(尊氏死後の10年間の南朝弱体化と、北朝の権威回復)、まだ政治を行うには年端の行かない3代目義満のために一度解任されたとはいえ細川頼之という管領を用意してたりと先の視野は頼朝よりはあっただけに(家康は言わずもがな)
後から見るとそうだけど、初めて幕府を作った頼朝にそこまで求めるのは酷なような。頼朝好きの家康は、それを知っていたと思われ、良い教訓にはなった。一般人にとって教訓は、悪いこと(粛清、暗殺繰り返し)をしたら、同じに目にあってもしょうがないということ。(頼朝の場合、子孫が同じような目にあい、一族滅んだ)
@@KN-qd8uf 頼朝も頼朝で幕府立ち上げた後での立ち回り方に問題あったのは事実だし酷というよりは、もう少しどうにかならなかったというのもあるとは思う実朝派を担ぎ上げてくる北条氏(時政も年はかさねてはいるが義時や縁を結んでいる三浦一族は御家人の中でも1、2を争う勢力を持っている、後に北条氏に滅ぼされたまだそれなりに勢力のあった和田氏とも親戚)の抑制(三浦、和田の牽制)に梶原景時や比企能員を選んだつもりだったのが梶原は他の御家人から恨まれやすい立場で比企氏も梶原とは折り合いが良いとも言えなかったので梶原景時の変で切り崩されて残った比企氏を頼家諸共始末されるなら、実朝派の北条三浦和田につけ要られないようにするか、一定の権力か土地は保証する代わりに口出しはさせないとか江戸幕府時代の外様大名みたいな扱いにしておけなかったのかというもっともここで足利氏も梶原や比企同様頼家派に回して北条の敵とみなされて滅ぼされたら元も子もなかったと考えるならそういう意味では結果論とはいえ頼家実朝兄弟含めた自分の血筋はあっけなく終ってからの凡そ100年後にその足利氏や頼朝自身が冷遇していた新田氏による報復も兼ねた幕府崩壊とすると悪い方に転がったようで良い方向にも向かっていたとも
豊臣秀吉がいた頃の北条とは無関係なんですか?無知でスミマセン( ;∀;)
関東と言う土地柄にあやかって名乗ったので純粋な子孫とは言い難い。場所に合わせてネームバリューのある改姓をする(或いは改姓の指示をされる)例は少なくない。森勝信が尾張から豊前に移って、毛利と名乗ったり(秀吉の指示)、九州平定を念頭に信長が家臣の明智を惟任、丹羽を惟住にさせたり、近代では乾退助が東山道を攻めるに際して板垣と名乗り出したりしてる。某近隣の国家で金日成と言う、伝説的なビッグネームを名乗って権力の正当性を固めたのも、それほど古い話ではない。
@@k2830 丁寧なご説明、ありがとうございます。
北条も元を辿れば平氏。
それ、北条も三浦も結構怪しいらしい
@@かがみ純 あくまでそういった異説があるってこと主流になるには至っていない今のところは
時宗は正恩か?
執権北条氏というのは戦国時代や以降出てこないなぁ高家にでもなってそうだ。
足利尊氏や新田義貞に滅ぼされる。
織田信長が、頭を出して来た時の北条は強いとか.なんとか…やっぱり、義経がかわいそうだったね😢
鎌倉殿では有能風な義時だが実際調べてみるとやらかしが多すぎる北条政子と大江広元いなかったら4んでたぞ
遥か遠い先祖らしいですが🙏🏻
横井氏は北条時行の子孫のようです。家紋が鎌倉北条氏と一緒で何代か前(明治時代位までの)の先祖の通字が「時」なら子孫の可能性は高いと思う。因みに足利尊氏は自分は裏切り者のイメージが強く嫌いです。
@@義和菊池 さま そうでしたか〜😃わかりました、ありがとうございます🙏🏻✨
後北条?に続く懲りない面々
単なる津軽の代官に過ぎないはずの安藤氏の相続争いに介入したら気がついたときには幕府対アイヌ戦争になってしまい撤収するはめになった安藤氏の乱のほうが得宗家と長崎家にはダメージだっただろう
こんばんは
え?北条守時は?
守時は16代執権だが名ばかりで実権は高時が握っていました。
太平記をまたつく
太平記をまた作ってもらたいお願いします
赤橋流北条益時の子孫ですけど、末路って失礼で酷くないですか?幕府が終わっても、私の家は公家で続きますよ。
もちろん無礼で失礼な言い回しだが、北条一族全体の話ではなく得宗家は滅んだって結びだから間違いではない。足利将軍家も北条の流れだし。
@@hamuhamu7074 殿ご意見ありがとうございます。 まず、タイトルが執権北条の末路と書いてあるのですが、家の家系には執権になった長時と守時おります。それに守時は得宗家に養子に入っています。ので当てはまりますね。末路は公家でした。鎌倉時代末期に執権になり得宗家の養子になると言うのは、死を覚悟していたのではないかと思います。得宗家は守時に得宗家を裏切らないで助けて欲しいと言う事ですね。それは守時の妹が足利尊氏の妻の登子、公家の嫁になった女子もいます。更に後醍醐天皇第一皇子の姫も身内になっていますが、ここは歴史から消されています。最初はアンチ北条家の動画だと思って観ていましが、私が知らない重時の事が知れたのがとても良いと思いました。ので、👍評価します。我が家ではお正月の元旦に餅つきをして近所の人達におもてなしていました。大昔からの家の行事だったと聞いていましたが、この動画でやっと謎が解けました。多分、重時の教えを800年もの間守っていたのでしょう。今はもうこの行事はやってません。
なにはともあれ、東勝寺の鎌倉北条氏全滅、因果応報自業自得の限りでスッキリ満足です(≧▽≦)
時宗、ろくでもないな。
土地の私有化が飽満状態になり、行き詰まったのが自然の理!である事を知る由もない時代の宿命と判る歴史事案ですね?
めっちゃ分かりやすい説明😊😊
動画とても分かりやすかったです。
27:58 新田義貞が挙兵した上野は「うえの」ではなく、「こうづけ」と読みます。今の群馬県ですね。
非常に分かりやすく勉強になりました。
徳政令の画像が小学館版日本の歴史のそれでとても懐かしい。
40年近く前、小学生の時に日本史に興味を持つきっかけになった本だった。
家康も吾妻鏡を愛読書にしていたといいますし、御成敗式目は武家諸法度の先祖ともいえる存在なのでしょうね。
御成敗式目は武士階級だけで無く庶民層(農民や労働者)にも広く通ずる、現在我らの生活にも欠かせない法律(刑法や民法)の基本ベースになったのでは無いでしょうか?
泰時有能すぎ
大河ドラマの「太平記」。北条高時を演じた片岡鶴太郎さんは正に「怪演」でしたね。同じ大河ドラマの「北条時宗」では北条時頼を演じた渡辺謙さん、平頼綱を演じた北村一輝さんが印象深かったですね。
北条時宗の妻の祝子役だった西田ひかるさん目当てで、観てました。
いや鎌倉殿の13人、北条時宗、太平記の登場人物をみると面白いです。鎌倉幕府は約100年ちょっとですからね。
@@りょうしん-b3iこの大河3作を見てたら、だいたいの鎌倉幕府の流れはわかりますね。出来れば、貞時の御世をフォローしてくれるドラマがあればなぁ。
北条氏(得宗)が最も栄光に輝いていたのはやはり3代執権泰時から5代時頼の時代まで。その後は時宗の時代、2度の元寇以降、御家人の不満と専制化・内管領の専横が進み、得宗が傀儡化した果てに滅びへの道を辿り、足利・新田両氏の鎌倉襲撃、そして15代高時の遺児二人の死去で完全滅亡。まさに盛者必衰の理を現してしまっていますね…😗。
元寇モンゴルを撃退しても新たな恩賞(領地)を御家人には与える事が出来なかった北条が独裁する鎌倉幕府。
だから天下統一果たした豊臣秀吉は、逆に大陸出兵(朝鮮侵攻から明へと)に突き進んだ。
現在進行中の戦争も結局は同じですね。
12:15からの逸話は鉢ノ木伝説
登場する後家人は佐野源左衛門尉常世
サノゲンザエモンツネヨ神社😃✌️
学生の頃の歴史は年表だの単語だのただの受験の為の暗記する教科にしか思ってなかったけど、大人になり大河や映像をみているとだんだん流れが分かり、興味を持ち出すと歴史が面白く感じるし学生の頃全然記憶できなかった単語もすぐ頭に入る。
人名を見ると俳優の顔が浮ぶようにはなりますが(笑)
ドラマで通史は取り扱わないから、あんまり学業成績とは関係ない。信長の野望とか三国志のゲームにどハマりして、そこだけやたら詳しい人とかいるよね。
q¹
学生の頃の歴史学習とか、そこそこで、いいと思います。
私は祖父が海軍軍人であった事もあり、小学生から、雑誌「丸」の愛読家、
歴史の授業で、バルチック艦隊との戦いの詳細を述べて、、、
先生に引かれてしまいました。プーチン?やめとけ、ロシアより西側が
いいって思っているのを武力でねじ伏せようとしても、無理。
日本にも親露の鈴木宗男とかいるらしいが、宗男、ロシアにくれてやれ!
因果がまとまっていて分かりやすい。こういうの学生時代に見れたらもっと歴史好きになっていたと思う。
執権北条家と言うと陰謀やら権謀術数のイメージからか文官寄りの人材が多い印象でしたが、泰時なんかは幕府軍の総大将を務める程の武芸の才覚もあったんですね😮
28:50 時行とは「逃げ上手の若君」ですね。
中先代の乱の人やね
ジャンプで松井先生が連載してるやつですね。
ただ何回も足利と戦った末に最期は足利に捕まって首を跳ねられたからな。かえって鎌倉幕府滅亡の時も出家していた北条一族は助命されているので出家していれば長生きしたかもしれない。
でもそれだとジャンプ漫画の主人公にはなれなかったね😅運命とは言え、とても頑張った最後の北条氏だったんだなぁとよくわかりました。
大河北条時宗を回想していて、あのお飾り将軍が吹越満だと今気づいた。
太平記で円喜を演じたフランキー堺さん、ホント演技上手くてはまり役だったな
おんな太閤記で演じた徳川家康も最高でした。
演技とはわかっていても「なんと憎たらしい奴!」と何度も思わされた名演技でした👏
元の侵略を不利に伝える項目が多いが幕府側の侍が有利できちんと撃退してる、元側は船に乗った経験が殆どなく、また騎馬戦が得意だったため陸地での機動戦が出来なかったし上陸する範囲も狭かったため会場に数万人の兵力を残したまま撤退したがそこのに嵐が直撃して大打撃を受けた
中国側からの船団が狭い入り江で船が密集していた所に台風が直撃しましたが、ご指摘の通り停泊での船の繋ぎを誤り振り子の様に揺れて沈没しました。
しかし、台風が無ければ半島側から部隊は勇ましく撃退して行きましたが、中国側からの部隊は様々な所から上陸したりして正面以外からも攻められ九州北部は直ぐに制圧されたと思います。
教科書なども、侍の奮戦についてはもう少し書いたほうがいいとは思うけど、あんまり元寇の際の侍達について「強い」という印象を持たせる書き方もどうかと思う。
というのも、当時の木造船では例えどの国の船であっても荒波の日本海を渡って列島と大陸間を行き来するのは困難で、さらに船内は軍人達が所狭しと暮らしているような状況で、しかも今の衛生観念からすればとても清潔とは言えない状況だろうから、元軍はもう九州に来るだけで疲労困憊。
フィールドも、博多湾周辺の僅かな平野を除いて、得意の騎馬戦の出来ない山だらけ。
それどころか当の元軍は、本場のモンゴル人というよりも、その支配下の朝鮮人部隊が多かったため士気も低かったと言われている。
対して侍達は、馴染みのある自分たちのフィールドで戦えるワケです。
元軍と違って波濤を越えて九州に集まるわけでもないので、体力面や補給面でも侍に断然有利です。
侍たちに断然有利な状況なのに、元軍に少なからず苦しめられたからこそ、
「やはり武装等の技術面では当時の大陸には及ばなかったのかも?」とか
「(侍に有利で)全然フェアじゃない戦いで勝ったのを誇っても意味ないよね」等の
識者の思いで、今日の元寇の教え方(「日本が(戦闘力において実質上は)不利だった」みたいな教え方)があるのではないでしょうか。
そこでもし「侍のほうが強かった」的な教え方をしてしまうと、それこそ非国際的で間違った歴史認識を学生たちに植え付けてしまうことになるかと思います。
◆この動画の、他の方への返信でも書きましたが、戦前の軍人向けの本(昭和7年製なので反幕府などという思想はもう無い時代です)においても、侍への評価はその奮戦を認めるに留まり、決して侍たちが「強かった」とか「有利だった」とは書いていません。むしろ「欠点がいくつもあった」とすら書いています。
さらに言えば、もしも侍が元軍に対して辛勝ではなく楽勝だったら、恩賞の問題もそこまで大きくならなかったのではと思います。
苦しみ抜いて戦って勝ったのにロクなものが貰えなかったからこそ、侍たちの鎌倉幕府への不信感に繋がったのではないかと思います。
北条氏の先祖は平直方という説があります(時政の出自はよく分かってないみたいですが)
そうなると直方の娘と源頼義の子が八幡太郎源義家であることから、それぞれの子孫の頼朝と政子は親戚関係にあったということになるのですが、事実はどうなんでしょう?
泰時の活躍でだれでも知っている御成敗式目が当時では異例の民主主義的な内容(女性の相続権を認めるなど)なのは有名ですが、極楽寺流の北条重時の家訓は素晴らしいですね。後の赤橋守時(足利尊氏の妻・登子の兄)にもつながるのでしょうか。
鎌倉時代の大河ドラマを見るには1991年の大河ドラマ「太平記」、2001年の大河ドラマ「北条時宗」、1979年の大河ドラマ「草燃える」を見たら、北条氏の歴史を見ることができます。
1991年は北条高塒、北条守時、北条貞顕。 2001年は北条時頼、北条重時、北条長時、北条政村。 1979年は北条時政、北条義時、北条時房が出てました。
北条独裁が極まったのは時頼の時代です。
我が実家は三浦横須賀にありますが、一族の古い寺にたくさんの墓石があります。生き残る為には子孫を繋ぐ運命に逆らわず、継承し尊敬します。無意識にやはり土地が財産であることは間違いない🎵
泰時の政治能力の高さが凄い。 実は、この天才がいたから北条が続いたと思う。
得宗家どんどん劣化していく高時なんか酷い。
実はというよりは、それが一般的な認識と思う
知恵泉では高い評価でしたね
建武式目も鎌倉時代のご成敗式目を見本にしたようです。北条泰時の娘は足利尊氏の高祖父の足利泰氏の母親です。後、尊氏の曾祖父足利頼氏の母親は北条泰時の息子時氏の娘です。
@@義和菊池
尊氏は源氏の御曹司であると同時に、北条氏(平家?)の血筋が濃いという。
史上、初めての武家政権だから、上は将軍、補佐役の執権、文官・武官が入り乱れる。
生まれてホヤホヤから、いろんな経験を積んで、美しく立派な白鳥になっていく感じ。
その中で、かの菅原道真と並び立つ位、博識の大江広元、御成敗式目を作った北条泰時がいたことは、貴重だ、と思う。
北条泰時の政治システムの方が安定していたのに得宗家が出てきてからおかしくなってきた感じがするなぁ
「北条時宗が元の使者処刑で元の侵略を招いたじゃないかという批判」は当時の識者或は現代の人が出したか?
当時の事なので、使者を処刑せず、元の属国にならなければ侵略されたはず。しかも、使者を処刑の例は世界中いくらでも発生した事を周知の通りだと思います。
時代は進んできた今日使者を処刑する事もなくなってしまったけど、
使者を処刑したのも元寇のあとらしいしね
長崎円喜は平頼綱が滅ぼされた経緯を知っているのに一家で内管領・侍所所司・寄合の三職を独占し得宗家を凌ぐ権勢だったので幕府への求心力がなくなり、多くの御家人が離反して鎌倉幕府は滅びました。
昭和40年代に宅地造成のため鎌倉の東勝寺跡近辺を掘り返したら黒焦げの人骨が多数出てきたという話を聞いたことがあります。
昔の合戦があった場所はそのようなことが時々あるのですね?
鎌倉では他に和田塚がそうでしょうけど、他の地域ではどうでしょうか。
その遺跡、一緒に出土した供養塔の日付からまさに東勝寺合戦の七日供養であったことが分かり、これこそ東勝寺で自刃した北条一族の遺骨であると確定され、各方面からの保存嘆願があったもの叶わず、あっという間にブルドーザーで破壊されてしまったんですよね。
材木座海岸でもたまに昔の人骨が見つかったと聞いたことがあります。
@@かがみ純
材木座や由比ヶ浜で発見された遺骨は矢傷や刀創を受けている骨、頭骨のみの遺体など、1333年の戦いの戦死者を葬った可能性が高いそうですね。
他にも中世集団墓(と言うか、おそらく遺体を適当に埋めたような)の遺骨など鎌倉ではしょっちゅう遺骨が発見されてますね。
鎌倉八幡宮でも八幡宮造営以前の平安期と推定される墓地が発掘されてます。
@@eh3063 やぐらが点在する鎌倉はなかなか不気味ですが、庶民の死体は道端に野ざらしで、鳥葬、犬葬になっていたと聞くと哀れな感じもします
NHKワールドなら大河ドラマは見られると聞いているけど、ドラマと相撲のためだけにけっこう高額な契約は二の足を踏むわけでして。
歴史小説は結構好きですけど、これだって作者の主観が占める割合が高いので、このチャンネルは自分にとってありがたいのです。
北条時頼は三鉢物語で、小学生の頃学んだ気がします😊
ふむふむ、ふむふむと聞いているうちに寝てしまってた😅
名前が多すぎて、途中から分かってるようでわかってないような、、
平安、江戸、鎌倉と長く続いた時代には、数多く関わった人々が多くて
歴史は面白いけど、なかなか覚えられない😭
徳川家も全代将軍言えないもんな〜
川端康成で検索したら「北条泰時」の子孫との事です。本当だったらすごいよ
田舎の豪族から執権まで行ったのはいいけど、同じ一族から出た人間は当たり外れがあるし、反発も招くね。人間的には立派な人も、体が弱かったり短命だったり。なかなか末永く安泰とはいかない。
末路(まつろ)とは「人生や組織の、盛りを過ぎた末。なれのはて。」という意味です。
せめて、「栄枯盛衰」とか、末路という言葉を使いたいなら、北条家の陰りが出てくる北条貞時以降に絞って欲しい。
伊豆の小さな豪族だった北条は、同じ伊豆の豪族である伊東に冷飯を喰わされ肩身の狭い立場でした‼️🤗
それに伊東のバック背後には、相模の豪族である大庭が控えていたので北条は全く手を出せず思い切った行動を起こせ無かった?
それが最終的に他のライバル豪族や御家人達を次々に倒し滅ぼして巨大化して独占して行ったわけですね‼️🤗
北条とは盟友関係だった三浦まで滅ぼしてしまって。
将軍→執権→得宗といずれも家臣に実権を握られお飾りにされていくのが
政治あるあるとはいえ考えさせられます🤔
令和となって、現在の華族の生きざまを調べて動画を
UPして頂きたいです。私の地元の藩主はともかく、家老、
次席家老、含めて、生活は困窮していますね。
やはり元寇が滅んだ遠因になってるでしょうね。動画内でも言われてるとおり、外敵の侵入を防いだだけで敵方からの没収地が存在しないから恩賞を与える事が出来ない。これでは御家人の離反を招くのは必須。
霜月騒動で少弐氏とかの貢献組も潰し&幕臣を族滅させてその没収地を転用する、恩賞は死んだからチャラにするわといういつもの蛮族ムーブ… 公家や寺社の荘園に雇用されてる武士も戦わせて御恩あげたけど御家人と武士の区別付かなくなる(御家人らは幕府の御家人という属性が特権だったのに)し、公家・寺社の訴訟も幕府が介入しないといけない
西国に異国警護番役任命+常設の見返りに京・鎌倉の番役を免除したけどその負担を非参戦の東国御家人に押し付ける 全国範囲に支配領域広がってるけど恨みを買い過ぎた
別のチャンネルの解説動画では時間がかかったけど、恩賞は与えられたと解説していた。何故なら霜月騒動で敗れた安達側の領地を没収したり、蒙古襲来で活躍したけど霜月騒動で安達側だったから恩賞を支払わずに済んだとか。
霜月騒動で没収した土地が配られたので恩賞はあったそうな
後、モンゴルと講和をしなかったから九州の御家人と非御家人が異国警護番に着いたから、京都と鎌倉の大番役を他の御家人が負担させられた。そして非御家人がモンゴルとの戦争や異国警護番で幕府と関係をもったから、非御家人とトラブルを抱えていた九州御家人が幕府に不満をもった。
竹崎季長は恩賞に有りつけたクチですね(うじきつよしさんが演じてましたが)。
また、新太平記として大河ドラマを作成して欲しいな!
以前聞いた、ナレーターの声のリズムがまたまたイイね。
鎌倉滅亡後、美濃に逃れた北条時行が鎌倉奪還の為に起こした中先代の乱かな
今少年ジャンプで、連載中の逃げ上手の若君で、描かれてますね(少年マンガ風にアレンジしてますが)
鎌倉時代わあまり良く分からないけど大河ドラマを見て興味を見て興味出ました
足利将軍家と鎌倉公方は全員北条義時の子孫なので血だけは次代に残したといえる。
義時&泰時も自分の直系男系子孫(鎌倉北条)を女系子孫(源姓足利)が裏切って滅ぼしたのは絶対許せないだろう。あの世で激怒しているかもしれない。
@@義和菊池 泰時 「ワシのY染色体が…」
勉強嫌いで歴史に疎い私、いつも楽しく視聴しています。
私は北条時村の直系の子孫らしいのですが、詳しいことはよく知りません。
昔のことだから色々解釈はあるでしょうが、滅亡なんかしてない、細々とだけど私はどっこい生きてる北条家の末裔だよって思いました(笑)。
こればっかりは家系図とかない限り証明できないからね。
ご先祖様がそう言ったとしてもその親が子に嘘を教えてそのままずっと嘘が子孫にまで伝わるとかもあるし、よくあるのは落胤とかね、後は明治になって名字を貰えた農民が昔栄えた名家の名前を名乗る際に勝手に末裔って言ったのもあるから、特別な物でもない限りわからない話だよ。
多分ね、違うと思うよ。
明治時代にそういうの流行ったのよ
新田に攻められて自害滅亡した北条茂時に遺児が居たのですね。
去年、一般人ですが戸籍から作成した家系図にて江戸末期から明治初期の先祖が、天皇家と縁が有る先祖がいると判明した為、今上天皇の直系祖先の検索サイトから、自分の家系が古代から分かります。先祖の父親を辿ると藤原道長である為か?歴史で習った偉人の先祖達が多く丸ごと日本史のようです。
北条義時の泰時含め5人の息子が先祖でした。
政村も先祖ですから縁が有りますね。😊
政村の娘が北条実時に嫁ぎ北条顕時と繋がってます。
因みに今上天皇も北条氏の子孫です。
先祖の義時の5人の息子の系譜の先祖1人1人のバックには多くの子孫がいます。証明は家系図になりますが、他北条氏の家系の方は沢山でしょうから北条氏の子孫の数は多いと思います。
私は親戚のお寺にあった家系図で知りました。
桓武天皇のお名前もあってビックリでしたね。
15:30 いこく「けご」ばんやくに聞こえる
時宗の判断は正しかったと思います。暴風より戦術の正当性が評価されないのは、戦後の影響かと・・・
ところが戦前(1932年)の日本軍人向けの本『海軍読本』においても、神風と列島兵士の奮戦について、神風のほうを高く評価しています。
具体的な記述として、「この役は、戦術的に見れば、我が戦法にも多くの欠点があるが、十万の大敵に対し決然として壮烈なる突撃戦を試みたことはーー(以下略)(旧字を改め原文ママ)」と列島兵士の勇猛さをたたえていますが、「大きな欠点」ではなく「多くの欠点」と書いているのに注目です。(もちろん、この本では、神風に対してマイナスな事は一切書いていません。)
武士らしく名乗りを上げている隙にやられたり、元軍の爆弾や速射連射に優れた弓による戦術等に対して,我が方の長弓による遅い戦法が不利であったりという欠点。
これら二つの欠点は、今日では一般によく知られている事ですが、一応それでも元の部隊を撃退しているワケですし、その二つくらいだけでは「大きな欠点」ではあっても「多くの欠点」とは言えないでしょう。
自分の国の戦について、単に「めっちゃいっぱい欠点があったけど勝てたよ!」なんて事を書くのは、どんな本でも普通はあり得ないことでしょう。
「相手(元軍)の調子が悪かったから」とか、「元軍の欠点」についても書かれているならまだしも、この『海軍読本』では元軍の不利については書いていません。
ですから、ここだけ見ると、日本軍人向けの本なのに、わざわざその士気を下げるような書き方をしているワケです。
そのうえで、神風について「我が将士の勇敢なる防戦と、神風たる大颶風とによってーー東洋の無敵艦隊を撃退することが出来た。(仝原文ママ)」と書いています。
つまり見方によっては、この『海軍読本』では、「神風の援護がないと、多くの戦術的欠点を持っていた我が国は危なかった」と書いているようにも取れるのです。
そういう見方をしなくても、原文を見てままの通り、神風のほうを高めに評価しているのは事実です。
なお、私の意見としても、神風(要するに台風)は戦前~終戦直後くらいまでの日本人にとって、日常に介在する明確な脅威であったと認識していますので(現在のような台風対策バッチリの家々が当たり前の世の中では考えにくいかもしれませんが)、やはり昔ながらの神風重視の見方で良いんじゃないかと思っています。
◆ちなみにこの『海軍読本』は、実際に重巡洋艦"摩耶"の中の人(田中壽作)が所有していた本です。
アニメ「逃げ上手の若様」のおかげで、足利尊氏・後醍醐天皇・諏訪氏など興味を持って調べる事にしました。
切腹なんてとてもできないな。 自分で終わりを決めてしまうのはあまりにも悲しく凄惨だ
でも武士にとって敵に捕まり公開処刑で斬首され晒し首の辱しめにあうのは本人だけでなく子孫にとっても末代までの恥だからな。
北条氏は泰時以降の執権がみんな短命なんだよな。せめて時宗が長生きしてたらバカ息子も、もう少し政務に励んでたろうに。
西遼・西夏・金・南宋等、敵対した国を容赦なく滅ぼしてきたモンゴル帝国からの国交を断るとは、当時の日本は怖いもの知らずだなぁ(モンゴル帝国の情報を知らなかったのだろうか?)と、世界史の授業中に思ってたり
(;=´人`=)
体制の中心が朝廷→藤原氏→平氏→源氏→北条氏→足利氏→織田氏→豊臣氏と変わっていく過程では一旦落ち着いてる様に見えてずっと内乱は続いてるんあじゃないのかな~?
徳川政権だけが世界的にみても特殊に内乱の無い体制
この当時の百姓とは多くの姓、則ち全ての人々という意味だった筈
時宗は元寇の後始末まで存命だったら本当の評価がわかった気がする…
あと得宗政治の終焉を決定づけたのは貞時だよね
子供の頃は戦国武将で小田原城主の北条氏ってこの北条氏の子孫かと本気で思ってた
ここまでで大河「北条時宗」の話は無しか
前半は三浦vs執権家のゴタゴタが多く描かれたし、元寇を挟んで安達vs平の対立も結構目新しかった
鎌倉幕府というのはずっと戦乱の中に有るなと鎌倉殿を見ていて改めて思う
個人的には金沢流実時を演じた池畑慎之介が好きだったなぁ
北条時政の次女時子が足利義兼に嫁いでいる
時子の産んだ子が足利義氏である
そのDNAは室町幕府の15人の将軍に受け継がれている
つまり、桶狭間の合戦で討死した今川義元
忠臣蔵で大石内蔵助ら赤穂浪士に討たれた吉良上野介も時政の子孫
細川元総理も子孫
時政の息子義時の娘が、佐々木信綱に嫁ぎ、佐々木泰綱を産んでいる
泰綱は六角氏の祖で、その六角氏の庶流に近江青木氏という武家があり、
一説では徳川家康の母方の祖母華陽院が、その近江青木氏の子孫青木一宗の娘とういう
学説も存在する
もしこれが事実ならば、時政のDNAは徳川家にも受け継がれて、今上天皇に受け継がれている
如何に北条時政という人物が、その当時数多くの御家人の許に娘を嫁がせたが窺い知れる逸話である
北条得宗家は、娘時子の嫁ぎ先の足利家によって滅ぼされたが、北条のDNAは今も存在する
北条義時の息子5人から繋がり子孫で動画を観てコメントに先祖の時子の名前が目に付き読ませて頂きました。
とても細かく時政の家系をご存知で敬服致します。
母が母の祖母から聞いたと不思議は話は聞いてましたが母方の家系図を一昨年前に作り江戸後期の先祖が天皇家に関わる人物で「歴史ディレクトリ」のサイトで古代からの先祖が確認出来ます。
その家系図から
時政の娘の北条時子と足利義兼→足利義氏と北条泰時の娘→足利泰氏 →足利頼氏と上杉重房の娘→足利家時と北条時茂の娘→貞氏と釈迦堂殿→足利高義→足利高義の娘と上杉朝定(二橋上杉家)→上杉朝顕 →上杉朝顕の娘と今川泰範→今川範政と上杉氏定の娘→今川範忠 →今川義忠→今川義忠の娘と正親町三条実望→ 正親町三条公兄から繋がっております。
縁で友人に吉良上野介の子孫がいます。
去年伊豆の国市・願成就院の時政のお墓に母とお参りしました。
又家系が分かり宝戒寺に供養をお願い致しました。その後に時子の墓の有る法玄寺と鑁阿寺と順に行きました。
先日、横須賀市の三浦義明、義澄、三浦市の義村と鎌倉市の源義朝、又先祖では有りませんが北条政子、源実朝のお墓参りを致しました。
読み返し削除と追記をさせて頂きました。🙇♀️
ただ、女系(Y染色体を持たない)子孫なので、あまり注目はされません。
後年になると、養子縁組で血統が途絶えてる可能性もありますからね💦
@@giantnioinoba2023
コメント有難う御座います。😊
家系図のサイトですが、Wikipediaが元ですが、
直系祖先のみで養子は載りません。
江戸後期の先祖迄の男系祖先が藤原兼家、道長、頼通でした。
調べたら家系から二つの摂関家の血を繋ぐ為に養子に行ったそうです。
又多くの歴代の偉人と言われる先祖達が多いのは女系だからと思います。
例えば平将門、紫式部、平清盛、藤原清衡、前田利家、明智光秀は娘から繋がり、菅原道真は息子から源義朝は娘と息子からで他の先祖達においても家督を継がないので様々です。
染色体等は全く気にせず只、先祖と知ったら感謝して可能な範囲でお参りするだけです。☺️
@@giantnioinoba2023
コメント有難うございます。
たまたまで母方の江戸後期の先祖がネットで古代から家系が分かる人物の為に先のサイトで確認しましたら、先祖は藤原北家で男系祖先が藤原兼家、道長、頼通でした。
サイトはWikipediaが元で養子を除く直系祖先のみで家系図が作成されてます。
男系は家督を継ぎ1系譜ですが、多くの偉人の先祖達がいるのは女系が理由となります。
例を上げると平将門、紫式部、藤原清衡、平清盛、前田利家、明智光秀等は娘から、菅原道真は3人の息子から息子と続き娘へ色々で、家系を見ると思いも寄らぬ偉人同士が繋がっていて驚かされます。
只、DNAは考えますが、染色体レベルでは考えたことが無く、先祖達がいて今の自分が存在すると思うと感謝しかなく、出来る範囲でお墓が分かればお参りや縁の地を旅してます。😊
意外とさ、平家の方が苗字を変えながらもほそぼそと生きてたんだよね、親族同士の仲が良かったんだわ、もう源氏に至っては今の🇰🇵のキム一族と変わらん😖😖😖
強引に権勢を得た人間の末路なんてそんなものよ
足利尊氏があまり強く嫌われないのもわかる話よ
でも足利尊氏兄弟みたく北条や後醍醐天皇など世話になった人を簡単に裏切る奴は人として信用できない。
何で小田原城で秀吉に囲まれた北条氏の説明が無いんだよーって思って調べたら、
動画で出てくる北条氏と小田原で籠城した北条氏は全くの別の一族なんですね、
何というか、いやー勉強になるなあ。
小田原北条氏は、何とか執権北条氏と縁のある家系にしようとした節はあるようですね。
初代北条早雲は伊勢氏なので無関係ですが、女系でも構わんと、二代氏綱が鎌倉北条氏の末裔である神官の娘を娶り、関東を統治するのに北条の名を冠する方がメリットが大きいとして、名乗りだした説があるらしいです。
15:12 高麗は滅亡していない。元の属国になった。
滅ぼうが属国だろうが火傷国家はどうでも良いが
途中出てくる地図で塗りつぶしてないから
分かると思うんだけど
※追記・・・自分の主観ですが
考えましたが属国になったら独立国家では無いので滅亡であってるのかな?南宋も滅亡だしね。
@@torneo8180 ダメだこりゃ(笑)
@@torneo8180 属国と滅亡は違うよ?
@@seacret289
確かにそうですね。
が、あいつらは万年属国だから
国の体を成してないでしょ。
なので滅亡としました。
北条高時には、少なくとも三人の息子がおり、長男邦時は17歳で処刑され次男時行は中先代の役を起こしたが、1353年25歳で処刑された。時行には男子はいなかったようだ。もう一人の子は消息不明のようだ。(鈴木由美『中先代の乱』中公新書、2021)参照。
御家人と御内人は江戸時代に当てはめると外様大名と譜代大名。時代が変わるとこんなもんだな。
高時の代で鎌倉幕府が滅んだと思いがちだが、執権は赤橋守時の代まで一応続いた。大河ドラマの『太平記』では勝野洋氏が演じており、幕府と運命を共にしたのが痛ましかった。他のコメントにもあるが、片岡鶴太郎氏の高時は怪演だった。ただ、いくら何でも史実の彼はあんなイカれてはいなかっただろう。さもなくば東勝寺で一族郎党が運命を共にしなかったはずだ。
原作は吉川英治の「私本太平記」ですから、ストーリーもそれに準拠しています。
高時に関しては「逃げ上手の若君」では「無能」ではなく「何も出来なかった」描写がされています。
長崎一族の「独裁の終焉」と「幕府滅亡」がほぼ同時期に起きたのも、大きな要因でしょうね。
まあでも足利泰氏や足利頼氏や足利貞氏や足利義詮とかは母親が北条氏なので、足利将軍家の中で濃い濃度で北条の血は生き続けるんですけどね~
これだけ濃い血縁関係で奥さんも北条出身なのに足利尊氏が北条を裏切り、出家した人以外は根絶やしにするとは理解できない。俺が尊氏なら降伏した北条一族の男子は助命し北条の娘を母に持つ息子義詮の家来(側近)にする。
でも尊氏にとっては赤橋登子との婚姻も北条の命令で仕方なくですからね~。
尊氏の母は北条じゃないですし、祖父家時は北条のせいで切腹したワケですから、北条に対する後ろめたさなんて無いですよ。
後の徳川家康もそうですが、「後ろめたさ」を感じる人に天下なんて獲れません。
@@osakakawachi 俺が足利尊氏なら北条にとって変わる発想がない。これだけ血の濃い関係なんだしクーデター起こすとしても北条高時を追放し義兄(妻の兄)の赤橋守時か英時を祭り上げ自分は脇から支える事で満足してたな。
尊氏が直義タイプならそうしただろうけど、あの尊氏じゃ無理(笑)
御家人との争いから今度は身内(北条家と外戚)内部の争いだからなぁ
安達氏なんかこれに巻き込まれですし
鎌倉幕府滅亡は1333年。実に覚えやすい。
イチミサンザン鎌倉幕府
@@962ctrlgfk6 一味散々!
腑抜けになった貞時の後が病弱な高時だったのが致命傷になった感じですかね?、霜月騒動くらいから御家人達の恨みを買い続けているから破綻が早くなっただけかもしれませんが
北条氏は子孫が結構生きてらっしゃるんだよね、、、
関西の知り合いに末裔がいて、今でも伊豆かどっかで法事があるらしい。
尚、戦国期に関東を治めた後北条氏は早雲が伊勢氏である事から遠縁ではあるものの一応北条氏の血を引いており北条の血は関東に返り咲いた。
聞くところによると女性が残り、毛利家の言わば得宗に嫁ぐ際に男子出生の際は北条家へ渡す約束でその通りになり祖父母に小さい時から育てられたとの内容をその本人から10年ちょっと前に聞きました。ご自身得宗と名乗られていて住まいはニューヨークで、都市開発の会社をお持ちでした。プライベートライブでマライア・キャリーを聴くファンとのことで、私と母に同じCDをくださいました。私は熊本のパワスポ龍王神社八代にお連れしました。過去毛利家(妻が北条家得宗位)は息子を北条家へ手放されたあとは息子は生まれず、オジに当る人が毛利家の継承されたとその北条さんから聞きました。たまにTVにもでたり美空ひばりさんにも会った話とか、尖閣諸島に以前しばらく旗が立っていましたがあれはご自身が立てに行ったと仰っていました。行くというと手伝う人がいたとのこと。来熊は2010〜2011頃で母上様が福岡の大学で古文を教えていたけれど入院したので福岡に来ておられる際たまたま熊本益城町で区画整理の会議の際呼ばれ、当時副会長だった母と会った状態でした。北条家の本が出版される際は聞きとりがあると仰っていました。以上は私が直接聴いた内容でした。 北条さんは一時はカーレースが好きでカウンタックを2台持ってたそうで年齢は若く見えるけど今60前後くらい、ご子息はニューヨークで、当時ラルクアンシエルの人が家に来られるとかも仰せでした。かっこいい感じの方でしたよ。稚拙な文章でごめんなさいm(_ _)m 知る限り書かせて頂きました。
空中元彌チョップの和泉元彌、
小森のおばちゃまの片岡鶴太郎、
に繋がっていくのであった
30年前、平塚に小さい旅館がありました。末裔だと聞きました。
義時と姫の前(比奈)の子孫は女系を通して足利将軍家につながっている。
ちなみに、赤橋登子の母方の祖父は、時頼の庶子(時宗とは仲が良かったので静かに生きていた。)なので彼女には得宗家の血も入っている。
これを見ると鎌倉は本当に内ゲバ、内ゲバの嵐で最悪です。やっぱり平家が栄華を誇っていた方がまだ良かったかも。
そうなっていたら、その後の関東の地位はずいぶん低いものになり、現代にも影響を与えていたと思う
平家も清盛が叔父一族を殺害したり
身内を手にかけてますけどね
「平家にあらずんば人にあらず。」
北条氏って平家じゃ?………
@@tm-te1xk北条も平氏だけど平家ではないよ
平家は清盛一門のこと
コメント📝されてる方皆さんよく勉強されてますね 私も趣味は日本史ですが皆さん程知識はありません 勉強になります 埼玉日光仮面72歳
北条さんという苗字の方は、今迄お一人しかお会いした事が無いのですが…やはりあの北条氏と何らかの関係があるのかな…と思っています!
殆ど直面しない苗字だから…。
新田義貞の部分が薄い。
物凄く分かり安い説明でいいですね、やはり説明は女のひとが一番、此れからもお願いします。
そして鎌倉滅亡後の北条の命運は時行へと。漫画逃げ若ですね。
弘安の役の詳細は、どこで調べられたものですか?諸説ある中、今では、この説は有力ではなくなっています。日本側の夜襲などで戦力が壊滅的になった元軍に、とどめを刺すように台風が襲来したというのが最近の主流で、台風自体で元軍が壊滅したのではないと言う説が有力になっています。これは我が国の歴史の中で最も重要な部分ですので、こういう動画を作成される際は、慎重に調べていただきたいものです。それと、時宗の評価が分かれていると言う部分にも疑問が残ります。時宗の評価を下げている人たちを調べれば一目瞭然です。我が国を貶めることを目的とした勢力が殆どです。時宗の評価が分かれていると言うくだりは、中立的に見ても、言及する必要のないことだと思います。まあ、作者の歴史観にもよりますから、批判はしません。これは、私自身の見解を述べたまでです。
時宗が一族の者を何人も滅ぼし、元からの死者を処刑したのは事実だろ⁉️
そういうところで賛否両論あるんだよ
@@藤原鎌平
学者は色々言うは、賛否両論するのが仕事だからしてどうでも良いが
元の使者を殺すのは別に悪い事ではない。
何故なら、元の目的は日本を元の属国になれ!な訳だから
それを日本は飲めないのであるからして、追い返すなりするのは当然である=これが無視だろう。
元の使者を殺した=どうせ、盲腸半島の使者が余計な事を言って時宗を怒らしたんだろうと判断する。
元からの使者を殺そうが歓待しようが属国案を拒否したら日本を攻めてくるのは確定だから
無視&殺して日本の意思表示をハッキリした方が良い。
そして、おまえら元の提言は拒否するって意味で死者を殺すのはよくある話である。
そして粛々と対元に対して防衛準備をしたのだから全く問題は無い
身内云々の何人も殺った。は、時宗はその対元に対しての防衛する時に、身内の中に敵が居たらどうすんの?一番ヤバい時に反乱とか起こされたら目も当てれない。
身内云々を殺すとかは、時宗の前の時代にも北条はやらかしてあるからして、
時宗の時だけ、お前は~というのは的外れな論である。学者はまぬけといいたい。
それに、この時代から下った戦国時代でも同じことをしている訳で、
筆頭は秀吉とか、北条時宗が異常だったわけでは無い。
テロップの出し方、もう少し工夫して下さい。早くて読み取れません。
創始者の河内源氏の嫡流頼朝が行き過ぎた身内粛清したのと、自分が流人時代に世話になっていた恩があったとはいえ比企氏贔屓してなければ頼家実朝兄弟が代理人同士の争い(比企能員vs北条時政義時親子、政子)、今度は実朝と公暁(頼家遺児、三浦氏の一族が乳母を務めていたの考えると実質北条義時泰時vs三浦義村、公暁自身も実朝に嫡子居なかったから猶子扱いになっていたのである意味では親の敵と思い込まされた親殺し)で争ったりと御家人たちコントロールしているようで自分死んだあとの御家人の歯止めをかけておけるシステム作って置かなかったのが悪い(頼家実朝公暁の悲劇はある意味頼朝のせい)
幕府滅亡か終わりの頃には実質源氏嫡流は足利氏になっていたのみると、自分の死後のビジョンが無かった頼朝の限界だったかもしれん
同じ幕府創始者の足利尊氏も満年齢53歳で迎えが来ていたものの、嫡男義詮(北条氏の流れ汲んでいる)は尊氏が幕府開いて後に観応の擾乱で父親から呼び出されてそこで経験積んで2代目としての基礎固めと役割果たして(尊氏死後の10年間の南朝弱体化と、北朝の権威回復)、まだ政治を行うには年端の行かない3代目義満のために一度解任されたとはいえ細川頼之という管領を用意してたりと先の視野は頼朝よりはあっただけに(家康は言わずもがな)
後から見るとそうだけど、初めて幕府を作った頼朝にそこまで求めるのは酷なような。
頼朝好きの家康は、それを知っていたと思われ、良い教訓にはなった。
一般人にとって教訓は、悪いこと(粛清、暗殺繰り返し)をしたら、同じに目にあってもしょうがないということ。
(頼朝の場合、子孫が同じような目にあい、一族滅んだ)
@@KN-qd8uf 頼朝も頼朝で幕府立ち上げた後での立ち回り方に問題あったのは事実だし酷というよりは、もう少しどうにかならなかったというのもあるとは思う
実朝派を担ぎ上げてくる北条氏(時政も年はかさねてはいるが義時や縁を結んでいる三浦一族は御家人の中でも1、2を争う勢力を持っている、後に北条氏に滅ぼされたまだそれなりに勢力のあった和田氏とも親戚)の抑制(三浦、和田の牽制)に梶原景時や比企能員を選んだつもりだったのが梶原は他の御家人から恨まれやすい立場で比企氏も梶原とは折り合いが良いとも言えなかったので梶原景時の変で切り崩されて残った比企氏を頼家諸共始末されるなら、実朝派の北条三浦和田につけ要られないようにするか、一定の権力か土地は保証する代わりに口出しはさせないとか江戸幕府時代の外様大名みたいな扱いにしておけなかったのかという
もっともここで足利氏も梶原や比企同様頼家派に回して北条の敵とみなされて滅ぼされたら元も子もなかったと考えるならそういう意味では結果論とはいえ頼家実朝兄弟含めた自分の血筋はあっけなく終ってからの凡そ100年後にその足利氏や頼朝自身が冷遇していた新田氏による報復も兼ねた幕府崩壊とすると悪い方に転がったようで良い方向にも向かっていたとも
豊臣秀吉がいた頃の北条とは無関係なんですか?
無知でスミマセン( ;∀;)
関東と言う土地柄にあやかって名乗ったので純粋な子孫とは言い難い。
場所に合わせてネームバリューのある改姓をする(或いは改姓の指示をされる)例は少なくない。
森勝信が尾張から豊前に移って、毛利と名乗ったり(秀吉の指示)、九州平定を念頭に信長が家臣の明智を惟任、丹羽を惟住にさせたり、近代では乾退助が東山道を攻めるに際して板垣と名乗り出したりしてる。
某近隣の国家で金日成と言う、伝説的なビッグネームを名乗って権力の正当性を固めたのも、それほど古い話ではない。
@@k2830 丁寧なご説明、ありがとうございます。
北条も元を辿れば平氏。
それ、北条も三浦も結構怪しいらしい
@@かがみ純
あくまでそういった異説があるってこと
主流になるには至っていない
今のところは
時宗は正恩か?
執権北条氏というのは戦国時代や以降出てこないなぁ高家にでもなってそうだ。
足利尊氏や新田義貞に滅ぼされる。
織田信長が、頭を出して来た時の北条は強いとか.なんとか…
やっぱり、義経がかわいそうだったね😢
鎌倉殿では有能風な義時だが実際調べてみるとやらかしが多すぎる
北条政子と大江広元いなかったら4んでたぞ
遥か遠い先祖らしいですが🙏🏻
横井氏は北条時行の子孫のようです。家紋が鎌倉北条氏と一緒で何代か前(明治時代位までの)の先祖の通字が「時」なら子孫の可能性は高いと思う。因みに足利尊氏は自分は裏切り者のイメージが強く嫌いです。
@@義和菊池 さま
そうでしたか〜😃
わかりました、ありがとうございます🙏🏻✨
後北条?に続く
懲りない面々
単なる津軽の代官に過ぎないはずの安藤氏の相続争いに介入したら気がついたときには幕府対アイヌ戦争になってしまい撤収するはめになった安藤氏の乱のほうが得宗家と長崎家にはダメージだっただろう
こんばんは
え?北条守時は?
守時は16代執権だが名ばかりで実権は高時が握っていました。
太平記をまたつく
太平記をまた作ってもらたいお願いします
赤橋流北条益時の子孫ですけど、末路って失礼で酷くないですか?幕府が終わっても、
私の家は公家で続きますよ。
もちろん無礼で失礼な言い回しだが、北条一族全体の話ではなく得宗家は滅んだって結びだから間違いではない。足利将軍家も北条の流れだし。
@@hamuhamu7074 殿
ご意見ありがとうございます。
まず、
タイトルが執権北条の末路と書いてあるのですが、家の家系には執権になった長時と守時おります。
それに守時は得宗家に養子に入っています。
ので当てはまりますね。
末路は公家でした。
鎌倉時代末期に執権になり得宗家の養子になると言うのは、死を覚悟していたのではないかと思います。
得宗家は守時に得宗家を裏切らないで助けて欲しいと言う事ですね。
それは守時の妹が足利尊氏の妻の登子、公家の嫁になった女子もいます。更に後醍醐天皇第一皇子の姫も身内になっていますが、ここは歴史から消されています。
最初はアンチ北条家の動画だと思って観ていましが、私が知らない重時の事が知れたのがとても良いと思いました。ので、👍評価します。
我が家ではお正月の元旦に餅つきをして近所の人達におもてなしていました。
大昔からの家の行事だったと聞いていましたが、この動画でやっと謎が解けました。
多分、重時の教えを800年もの間守っていたのでしょう。
今はもうこの行事はやってません。
なにはともあれ、東勝寺の鎌倉北条氏全滅、因果応報自業自得の限りでスッキリ満足です(≧▽≦)
時宗、ろくでもないな。
土地の私有化が飽満状態になり、行き詰まったのが自然の理!である事を知る由もない時代の宿命と判る歴史事案ですね?
こんばんは