真田幸村 数々の名言を残し大坂の陣で戦場に散る これが武士の生き様よ!真田日本一の兵
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- เผยแพร่เมื่อ 20 ก.ย. 2019
- 真田幸村 数々の名言を残し大坂の陣で戦場に散る これが武士の生き様よ!真田日本一の兵について紹介しています。
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あっぱれ最高!真田日本一の兵!🎉🎉🎉
大阪市生まれ現上田市民です。必然的に真田好きになるしかありませんもう。真田しかかたん
私の祖父の家の家紋が六文銭で家系図やお墓、お蔵まであってびっくりしました。真田の血が流れてることが嬉しいです。
福谷華奈 真田のどの系統なの?
可哀そうに六文銭はそもそも真田の家紋ではない
@@jdotsystem 六連銭、結び雁金、洲浜ですね。
大阪の陣で短期間で寄せ集め兵に力を発揮させる統率力が桁外れ😮
真田十勇士もこの真田幸村が活躍したからこそ語り継がれて行くのだと思います。👍👍
こういう有名な武将っていつの時代も好かれてるけど、全てが明らかになってなくて謎が残ってるのがまたいい味出してるよね。
現代の社会であれば、中小企業の敏腕経営者というところでしょうか。
堪能させていただきました。
大阪の陣繋がりで後藤又兵衛お願いします!
難波の人間で良かった、彼の戦没地の神社をいつも通行します。これからも永遠に存在します。
武田家ゆかりの武将は、強くて華がある。
大坂冬の陣は1614年ですよ。夏の陣が1615年です。
真田幸村様本当に好き…本当に…
あかん、もう一回真田丸観たくなってきた
一大さんへ
よろしかったら、東映映画『真田幸村の謀略』主演 松方弘樹を観てみて下さい。これは娯楽映画として。脚色もありますが、三谷幸喜シナリオより、より、史実に近いですよ?(笑)
長期勝負ができるなら、『真田太平記』NHK大河 全12巻を(笑)
こちらは、動画の冒頭の、幸村=イケメン説の震源、草刈正雄が『信繁』を演じてます。爽やかです!カッコいいです!
真田太平記一択
Dailymotionで真田太平記が見れるよ
かなりの名作
5:48 虚空蔵山城(こくぞうさん-じょう)
「こくう」ではない。
「こくうぞう」と読むのは名前の由来になる虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)の場合。
幸村自信、大阪夏の陣、のとき、5%いや1%も勝ち目はないと解っていただろう、それでも家康から寝返れば高い地位を与えようと、誘われても、豊臣型につき続けた小学生の頃、偶然読んだ幸村の伝記の漫画を読んだ時からいまにいたるまで幸村はぼくの尊敬の人だった、この漫画は後になって幸村なついての大人のほんを読み始めたとき結構あやしいおころもあったと解ったけど例えば空想の真田十勇士が出てきたり猿飛佐助が幸村最後の時に、彼を、助ける行動をしたとか、詳しくは僕も調べてないけど幸村の架空の子供真田大介が大阪城落城の時父幸村の言葉に従い15の若さで切腹したたとかしかし、幸村について書かれた本を色々やんでいるうちに、真田幸村という男はぼくの中でクローズアップされていきこの人を知れば知るほど、尊敬の度はましていった、面白いことに僕が歴史上尊敬する人には外伝がある源義経は東北平泉では死んでいなく、弁慶をはじめ少数の家臣をつられて北海道にわたり後アイヌの人々も配下にし今の中国北部昔の満州にわたりジンギスカンになったとか、土方歳三も五稜郭の戦いで死なず、明治生き抜き、実は明治政府を影で操っただの、幸村にしても夏の陣で死なず、豊臣秀頼を守って沖縄に逃げてそかで幸せに暮らしたとか、一番始めに歴史のことについて読んだのが幸村の漫画で良かったと今では思ってる小学生のときあの本読んでなければ、僕は歴史好きな人にはなってなかったろう
それでも生きて欲しかったよ。
1,5倍速で聞きやすい
人生の最後の戦いが一番輝いていた時というのがドラマティックです
息子の幸昌もなかなかの器量があったそうだったので、若くして自刃してしまったのは惜しかった
勇者なのが可哀想でした。
流れてるBGMの詳細教えてください
真田幸村の兄の真田信之(信幸)と言う人は大分昔(安土桃山時代)の人なのに92歳迄長生きしたそうです。
本間喜雄 93ですね
源平時代の三浦義明は89歳で自刃したそうですが、年齢が年齢なので
わざわざ自刃しなくても寿命は尽きそうに思われますがね。
樋口角兵衛をお願いします。
幸村の子孫を政宗が保護してかくまっていたことも紹介してほしかったです。
生きのびる事をかけてですか 知りませんでした
真田信繁を称すなら、毛利勝永も称してほしい毛利勝永活躍なくして真田信繫の活躍はなし、立花宗成に敗れるまで獅子奮迅の活躍をした毛利勝永、戦場では亡くならなかったけど大阪城で自害して果てた忠将です。
個人的には幸村ではなく、信繁で押し通して欲しかった。
作戦会議では籠城戦を主張する大野治長とこちらから打って出ることを主張した真田(&後藤基次、大野治房、毛利勝永ら)だったが実は大野治長は最も真田を評価していた。
大坂冬の陣の前に真田に声をかけたのは大野治長。
真田信繁、後藤又兵衛基次、毛利勝永、長宗我部盛親、明石全澄の5人は5人衆と呼ばれ大阪の中でも別格のオーラと実績を放っていたらしいですね。
よく大坂の陣は真田信繁だけがピックアップされますが、上に書いたメンバー以外にも元上司の蜂須賀に夜襲を決行し「夜討ちの大将…」という札をばら撒いた猛将・塙直之や木村重成、槍の名手・渡辺糺らも武功を挙げましたね。
真田幸村(信繁)は1567年生と言われています。同期の武将は伊達政宗や立花宗茂、黒田長政。だとか
真田源次郎信繁の生き方は腑抜けた現代の奴らよりもよほど清々しい
本戦である大阪冬の陣は武器で決まった。
長射程の大峡筒がある大阪方が当初は優位だったが、
英国から艦砲を調達した時点で徳川優位。
堀を超えて天守まで破壊できるので、外堀も内堀も意味がなくなった。
信之に助命嘆願してもらい仕送りまでしてもったていたのに、高野山を抜け出し豊臣について謀反を起こして信之の顔を潰すとか厚顔無恥にも程があると思うんだが…
子沢山だったので、嫡男の真田大助らを家康に人質として差し出す。その上で豊臣側と戦うべきでした? あと、本当に真田大助が大阪城内で豊臣側と心中させられたのであれば、哀れとしか言いようがありません。
真田太平記で昌幸(丹波さん)が代々、真田家は長男が早死にしてたから
源二郎(信繁)は次男だけど名前を長男にして、源三郎(信之)の
壁、身代わりと言ってた記憶があります。
信之は戦国時代では脅威の長寿を全う出来たが、子が相次いで病死して
老体に鞭打って現役復帰した経緯があるそうです。
Peka Don あの人死ぬまで何回病気になったことか
真田昌幸は三男で仮名は源五郎、弟の信伊の仮名は源次郎です。
他の家でも兄弟で逆になっている例はあったと記憶してます。戦国時代は普通の事だったかも
しれませんね。
どうもです^^
昌幸の兄弟は2人かな?長篠で戦死してますよね。
信繁の長男、大助も大阪で...
合戦中に伊達軍に解説のような罵声を浴びせた信繁であったが、
妻子は伊達に託した(罵声の意味は、パフォーマンスでしょうね)
伊達は幕府にシラ切って匿い、恩赦が出るまで貫いた。
真田幸村は赤備えじゃあないって言ってましたね!🤔
生誕は1567年じゃないの?
どうして論文書くための資料が探しているん時にこんないいビデオが見えないの(*´Д`*)悔しい~~
国道25号線の恵美須町の交差点を奈良方面に数分走ると右手に一心寺が見えますが。その向かいには安居神社が有ります。ここが真田信繁の終焉の地ですが、余り取り上げられません。因みに真田丸の跡は最近の研究で明星学園と言う私学の敷地だと結論がでました。真田山公園と言われる小山は実は前田家が陣を構えた笹山が真田山と言われるようになったのです。
私は明星高校に通っていました。
@@toyonagariver8967 大阪で一番歴史の有る男子のミッションスクールですね。昔は野球とサッカーの強豪でしたね^^あのあたりは関西は元より日本のカトリックの総本山みたいな場所ですからね。大阪大聖堂は元は細川家の屋敷跡で細川ガラシャと高山右近の石像がありますが、細川ガラシャが亡くなった場所でもあります。
@@user-heebong そうです。ありがとうございます。
真田信繁もカッコいいんですが、彼の赤備えは
山県昌景を彷彿とさせるもので、あやかって身
に付けたのではないかと私は思いたいです。
信玄公や昌景公なら幸村と同じ戦法をとった
のではないでしょうか?
私は、最後の武田家の武将とみています。
さすがの徳川家康も、三方ヶ原の様な屈辱を大阪夏の陣で再度味わされるとは思っていなかったでしょう。
真田昌幸の幼名が源三郎で長男の信幸(のち信之)が源三郎と名付けられる 当主の幼名が名付けられるのは嫡子(跡継・次期当主)という意味
幸村(信繁)は真田の次男だから源次郎と名付けられる
有名なところでは家康の孫・家光の幼名が竹千代(=家康の幼名)つまり家光は徳川の当主であると幼少時から決まっていたワケ
駿河大納言の謀反など創作でしかない(´・ω・)
↑戦国期を読む時に役立つ知識だぞ( ・∀・)ノ
パパは裏切り者ではないと思います。
真ん中で皆んな真田を欲しがった中、秀吉、徳川どちらが天下をとってもOKという
知略は真田神社にまつられてるだけあると。
徳川の天敵、真田 信繁(幸村)
2度の上田合戦で徳川軍を
散々な目に会わせて、大坂冬
の陣では、真田丸と言う砦を造り、徳川軍をまた散々な目に会わせます。運命の大坂夏
の陣では、旗振りの為の秀頼の出陣が無く、毛利など味方の動きもバラバラで、信繁自ら出陣し、家康の陣の馬印を蹴飛ばすまで追い詰め、あと
一歩のところで、取り巻きの
武士に邪魔されて、仕損じます。この武勇は400年経った
現在も語り継がれています。
真田幸村を嫌いな人いないよね。
敵、味方の見守る中での「・・男は一人もなく候」の口上はかっこ良すぎる。決戦の直前に刃を交えて戦っている敵方で、しかもあまり面識がないであろう伊達政宗のもとに娘さんの身柄を託すなどやることも大胆不敵ですよね。そこが人をひきつけてやまない幸村の魅力かな!
モーツアルトの生まれかわり 男は一人もいなく候事ってのは徳川家に向けた言葉だがな
すいません😢⤵⤵私、この人あんまり好きじゃないです。🙇🙇🙇
ご飯おかわりトンカツ定食 伊達陸奥守のこと?
毛利勝永好きな人は嫌いだと思います
Chan O 何故?勝永公の方が活躍したけど信繁公の方が取り沙汰されてるから?
どうしても井伊直政と被ってしまう時がある💦
奇襲計画で真田幸村が遅刻して多くの仲間の武将が死んでいる
関ヶ原の際散々家康に逆らっておきながら負けるや否や尻尾を振り大阪の陣では大坂城を包囲してる奴らがいた一方で真田は大坂は勝てないのがわかっていながら最後まで秀頼に忠誠を示して死んでいった…
何言うてるんや
大名として家臣と家がある諸大名と九度山に幽閉されてた幸村とじゃ状況が違い過ぎるやろ
秀頼に忠義を尽くして死んだんじゃない
死ぬ場所を求めて大坂方についただけや
真田信繁の身長150代の説がありますが、これは遺伝的におかしい。兄の信之が185cmで現代でも相当な大男で江戸時代まで生き延びることから、そちらの方が信憑性があり、猛将本田忠勝の娘婿で大男として有名な兄信之よりは小柄という程度の意味ではないでしょうか。真田一族が大男の家系で身長が真田幸隆170センチ代、信之180センチ代で、昌幸や信繁だけ小さいのは不可解で、徳川の反逆者としての印象操作と思います。
おそらく、昌幸も170前後、幸村は160−170の当時の高身長だったという、個人的推測です。
大河ドラマ「真田丸」で、初めて、真田信繁が本名だと知りました―――真田のお父ちゃんは凄い戦略家だったのですね―――その息子の幸村ですから。。。関が原で、東西分かれたことで、かろうじて真田家は存続。。。しかし、家督を継いだ兄の事は知らなくても、大坂夏の陣で、家康をビビらせ、華々しく散った幸村のほうが記憶に残るとは、不思議なものです。(お兄ちゃんだって苦労したはずなのに😿)でもまぁ、やはり「真田幸村」カッコいいですね💦😄(淀殿、幸村を信じていればよかったのに(ノД`)・゜・。)
水を差すようですすみません。お兄さんの信之(信幸)は大阪の陣の直前までは弟の信繁(幸村)より全国的には遥かに有名でした。本多忠勝の娘を正室にしていましたが石田三成と本来はとても親しく、関ケ原の時三成は信之は西軍に味方してくれるはずだと直前まで信じていました。また、大阪の陣の前までは「信之殿には弟がいらっしゃるのか?してお名前はなんと言われるのか?」と諸大名から聞かれていたそうなのですが、大阪の陣の後は「あなたが、あの武勇の誉れ高い信繁殿の兄上か?」と聞かれるようになりました。信之は地団駄踏んで悔しがり、徳川秀忠の前で「私と弟が同じ人数の軍勢で対陣したら、決して負けることはありません。」と言い放ちました。その信之は4代家綱の代まで94歳になるまで生き抜き、真田家を明治維新まで存続させました。自分はお父さんや弟より能力は上だったと思っております。
沙浦レリナ
武田信玄の弟の信繁にあやかりつけられたそう
上杉謙信が日本一と思ってました!違ったんですね。勉強になりました。
左衛門左は決してさえもんのざとは言いません。さえもんのすけです。歴史紀行と名乗る以上はこのような基本的な間違いは感心しません。督はかみ、左はすけ、尉はじょうこれらは官位での呼称では基本です。
「芦屋道満と同居中三重県立図書館、国会図書館検索
すいません!段ボールの甲冑の人が話している部分いりません!
亡くなって 無いそうですね
勝永もやってくれよ
マッシブーン 前やってたで
マッシブーン 動画探しな
影武者!!?
大坂冬の陣って1614じゃなかったっけ?
武士としては強いのに、花の慶次上の真田幸村リーチは弱い
大阪の陣で幸村は六連銭の旗印は使わなかったと思います。
真田家を継いだのは兄の信之、その兄が徳川方にいる以上は使えなかったと思われますがね。
江戸時代に描かれた錦絵の影響だろうけど、これがないと講釈師のバチの鳴りが悪かったんだろうな。
兄の信之こそもっと評価されてもいい人物だけど。
佐藤雅彦 弟の影に隠れてあまり目立たないけど、もっと人の注目集めてもいいぐらいの人だと思う
@@user-wp9jn8fg4l
関ヶ原後に幽閉された父と弟の助命に走り回り、援助をしたのも信之ですし
これほど家族のために奔走した人もいないんじゃないでしょうかね。
佐藤雅彦 下克上の時代にしては家族思いのいい人ですよね、まあ父の昌幸はその優しさにつけ込んで幽閉されてる時にお酒を送ってもらうともっと送ってこいみたいなこと言うような人だったようですし。
@@user-wp9jn8fg4l
その助命に忠勝も関わってたみたいですね。
忠勝は、小松姫が真田家に輿入れしていることを引き合いに出し
「正幸殿と某は義兄弟の間柄、信之とは義理の息子となります」
「その親子を死罪にすることは信義に反します」
「どうか、死罪だけは・・・」
と、言ったかどうかわかりませんが、助命を願い出ていたのは確かで
「もし、願いが聞き入れられなければ、殿との一戦も交える事も辞せず」
と、言ったのが効いたのか、命は助かり流罪になったとか。
HAMAGURI Z 何故本田平八郎と真田昌幸が義兄弟?
僕の部屋に、勝手に入らないで下さい!盗聴も盗撮も辞めて欲しいです!ハッカーも追跡して、犯人の顔を録画したいです!身元知る権利はあるとは思います!
藤堂高虎あたりが重要視されている世相で、もう劣化状態の日の本一。真田は堂々と会戦して勝利したことが一度もない。
しかしながら、それは状況が機を与えなかっただけの話で、希代の戦上手であることに異論はない。
それでも負けは負けだから
結果が全て
左衛門佐ってさえもんのすけって読むんだと思ってたけどさえもんのざなの?
土左衛門はお相撲さんです❗️ お相撲さんが川で溺死したのが由来と聞いてますが‼️(名が土左衛門)
私は父親になった事ないから、分からないですが昌之も馬鹿じゃないし大阪方に味方すれば負けると思っていながらに次男坊可愛いさ故に大阪に付き、長男信之に後事託していたんじゃないかなあ。と思います。父親ながらに幸村の儚さを見たんじゃないか?と思いました
幸村なんて名前無いから史実通り信繁にしてくれ。いい加減作家が作ったような物語は止めてもらいたい。
真田十勇士の秀頼と甚八はなぜ同じ人だったんだろう
私の僕の末裔です。
昌幸ならヒョイっと寝返って信濃を貰っていたかも。
のりほん
昌幸そんなあほじゃないでしょ
常識的に本当に信濃一国くれるとか考えにくいし
得川康勝
あほかなぁ?
昌幸は豊臣になんの恩も無いのでは
のりほん
秀吉から最初はどうあれ所領安堵や秀吉の推挙で官位をもらったりしているよ
後信繁もそうだと思うけど恩だけでみんな豊臣側についていた訳じゃないと思うけどなあ
てかまともに考えて信濃一国なんか本当は与えるつもりなかったと思うけどなあ
得川康勝
確かに一国は貰えずしても
後の兄信幸の立場は守れたかも知れない。
もしもの話をしてもしょうがないが
のりほん
どのみち関ヶ原の時も西軍についているから
男の美学。少し可哀想です。
BGM邪魔
幸村と言う名は九度山以降。
真田昌幸が死の間際に幸村に授けた必勝の策を幸村が実行してたら
大坂夏の陣は勝てていたんだろうか?
ぐだぐだになって戦国に逆戻り
仮に昌幸が存命でも数万を越える大軍を動かしたことがないから完全な実行は不可能
そもそも昌幸は自分を売るために戦ってあっさり豊臣から脱退しそう
s usa それありそうだな
s usa 戦国に逆戻りとか最低最悪だよな
いちこめ
にこめ
パパとお兄ちゃんは、大好きなんですが、ゆっきーは、知れば知るほど嫌いになります。
豊臣政権?政権持ってたか?この時豊臣家は?
この人の生存説は信じたいですね。薩摩に逃れていきていたと思いたいです。
坂田 この人をはじめ大阪5人衆の生存説は信じたくないです。みんな華々しく散ったという史実通りが一番胸熱。義経ジンギスカン説は信じたいですけど。
んー、でも信繁が薩摩に落ちたとすると、仙台に行った家族はどうなるんだって感じ
坂田火魯志
庶民が幕府に対する不満で相対的に勝手に言いはじめただけだよ
ナレーションが遅すぎる
信繁は側室の子。
信幸の次子として家継になったのは必定。
どちらからの出典でしょうか?
史実とは剥離している箇所も散見されます。
正しい歴史の伝承をお願いいたします。
TOYOING005 え??正室の山手殿だけど??
@@user-wp9jn8fg4l 史実では正室の子ですよね、異説の一つに異母兄弟説があるらしいですが。
真田幸村って武将は実在しない
信繁と言う者ならいたが槍の名手でもない
そもそも信幸の次男なので幸の字は受け継がない
真田の偉業は徳川方の黒田長政による逸話によるもの
信繁ゆかりの地は観光のために幸村人気にあやかっているだけ
いい加減幸村はやめてほしい。