ขนาดวิดีโอ: 1280 X 720853 X 480640 X 360
แสดงแผงควบคุมโปรแกรมเล่น
เล่นอัตโนมัติ
เล่นใหม่
お待ちしていました! いつもありがとうございます! 楽しみにしています!
もう‥横綱は居ない(慟哭)
「戦死者3千人」と数字がキチンと記録されてるのも何気に重要かもしれませんね。以前の街亭の戦い最終回の動画で「馬謖軍に何人死者が出たのか具体的な記録が無かった」ことを馬謖逃亡による軍全体の混乱を推察する一因にしていましたが、それと対称的な形で司馬懿軍の混乱が少なかった事を示しているのかもしれません。
「木牛」の利点は、第二次世界大戦時の「マレー作戦」における「自転車」と同じ。ここで、「牛車」は第二次世界大戦時の「戦車や車両」と比較できる。当時の中国の道路事情は当然悪く、牛車や馬車で移動する場合「頻繁な迂回」が発生した。特に「崖」や「川」の存在は致命的で、何十kmでも迂回しなければならず、迂回路がなければ移動を諦めるしかなかった。しかし人間は、(ロープ等の適切な機材があれば)崖を上り下りすることも川を渡ることもできる。そして木牛や自転車は、人間が担いで(もしくはロープに括り付けて)一緒に移動させられる。実際マレー作戦において、日本軍は「人力で」1100kmを60日で進軍している(18km/日)。これは、多数の戦闘や渡河をしながらの進軍速度としては驚異的に速い。単純な徒歩や、戦車や車両に依存して進軍した場合、はるかに遅くなったのは明白で、日本軍にしては珍しく、斬新で合理的な戦術だった。現在のきれいに舗装された道路で牛車と木牛を比べれば、おそらく牛車の方が数倍効率よく物資を運べるだろうが、当時の中国の山岳地帯で物資を運ぼうとすると、木牛の方が効率のよいケースがあったとしても不思議ではない。おそらく諸葛亮の思考過程は、以下のようなものだったろう。1. 魏まで牛車で物資を送ろう。 でも、牛車だと通れる道が少なく、遠回りになる。2. じゃ、人力で送ろう。 でも、人力だと運べる物資が極端に少なくなる。3. じゃ、人力で効率よく物資を運ぶための道具(木牛)を作ろう。 大成功。普通の人は1.を選択してそこそこの成果を得るし、常識がない人は2.を選択して失敗する。2.の欠点を克服して3.を達成できたのが、諸葛亮の凄さ。「木牛」って、説明読むと意外と小さいんだけど、それは(状況に応じて)人間が担ぐことを想定しているから。「木牛」を大きくし過ぎると、「牛車」と同じ制約が生じ、メリットがなくなる。
昔、ヤングアニマルで、「内閣総理大臣 織田信長」を連載していた志野靖史のそれ以前の短編マンガに、マレー電撃戦を描いたものがありました。その中で、防衛の英国軍が、日本軍の進撃が早いのは、車両が多いからに違いない、橋を落とせ、と日本軍足止めのために、事前に橋を落とさせていた。そうしたらラスト近くで、銀輪部隊の将兵が、よいしょと自転車をかついで川を渡っていたのが印象的でしたw
麦がバリカンで刈り取られていますね笑
「ホンマ郭淮しっかりせいや」にも笑ったけど、18:40からの祁山守備隊の人たちの心の声が面白すぎるw援軍の成否が自分たちの生死に直結するだけに、気が気じゃなかったでしょうね。
曹真が生きていたらうp主や張郃と同じ戦略をとって何の損害も出さずに追い返していたでしょうね。荊州以西の土地勘に乏しい司馬懿には分散した兵まで指揮するのは中々酷だったでしょう。兵力を一極集中させたおかげで行軍内容を戦うコマンドと守るコマンドのみに絞れたので、その使い分けだけで何とか凌げたのは流石です。
毎度の事ながら、蜀軍が秦嶺山脈を越えてくる事が当たり前になってるのが恐ろしい。攻める時は要害で、守りには期待薄ってどうなってんだ…。
待ってました。2ヵ月キツかった。
遂に宿命の対決、孔明(四季映姫)対司馬懿(永琳)の初顔合わせだというのに、横綱がいないという空虚感が消えない・・。曹真の存在の大きさを思い知る・・。
張 郃「膝に矢を受けてしまってな…」
正史の司馬懿や魏軍の行動に不可思議な点があるのは、後に司馬炎が天下を取った事と関係あるのでは?
北伐編を観るほど,孔明とハンニバルが重なって見える。包囲戦術と心理戦で敵を追い詰めるのが攻撃側のセオリーなのか。動画の通り,防御側はファビウス戦略による補給戦で時間を稼ぐだけで有利。ハンニバルとの決戦を急いだローマは犠牲者6万人を出した。犠牲者3千人で済ませた司馬懿は計算ずくで将兵をガス抜きさせたのかもしれない。
ファビアン戦術…確かにね、ファビウスの方針にしびれ切らせてヴァロとローマ市民が打って出た結果がカンネーだし。
確かに攻めるより好機まで待つ方が統率力は要りますよね、勉強になります✒️
マッドランナーでトラック使って資材運ぶのだって大変なのに、人力で攻城兵器運んじゃう蜀軍ヤバいですね(白目)
木牛は餌を食わないのがいいね
食料の消耗も人間のが牛より少ないですからね、草を積むより米のがかさばらない
魏軍はこれから三千人分の食糧が節約できたわけですね…さらに涼州の豪族とかを戦死させて涼州からの収奪が強化できて…有能な貴族ってのは人民にとっては地獄かもな…
これ、心理戦だったんでしょうかね。ガラ空きの後方へのプレッシャーで、撤退するタイミングで仕掛けるみたいな算段で。
蜀軍は実は飛んで山脈越えたか、山脈にトンネル掘った後に進んだとしか考えられない行軍ですね。
京都大阪間は新快速(30分)を使ってると距離感覚が麻痺しますが、自転車でも結構骨が折れますし、大阪駅から徒歩だと私なら新大阪あたりでダウンしそうです。秀吉が大坂城、淀城、伏見城と舟運利用範囲に拠点を置いたのも分かります。
いつもありがとうございます。 今回のは話しぶりが特に楽しいです。
以前の兵站の時の解説にあるように、あまりに長距離になると鉄道などがないと牛や馬だと返って効率が悪くなるから人力車を用意して兵隊一人につき1か月から2か月分の食糧を自分で運んでもらった方が、効率が良くなるという結果にこれを自分で考えつく孔明の凄さ
後方を異民族に攪乱させ、長安の防御に不安が出て来たので相手が後退し始めた所に速攻をかける。という作戦だったのかも?と、思いました。秦の王翦が楚を破った時みたいに
待ってました!
ようこそ関西へ。大歓迎でございます。
伝承だかなんかだと月英が作った犬のカラクリは吠えてじゃれてエサまで食ったという話が。つまり、木牛という名のバギーと流馬というなのバイクにのったモヒカン蜀兵が山を越えてヒャッハーしてた可能性もワンチャンある。
次回ヤムチャ死す デュエルスタンバイ!前も書いた気がするけどこの地図しんれー山脈以外は平地なのかと思って陽平関~き山までは平地なのかと思っちゃう。そして平地なら途中に村があって畑がありそう感逆に魏軍はジョウケイの麦が刈り取られて食料どうしてるんだろ。チンソウとの間の山超えて補給のほうが大変そう。さらに西や北は平地なのか山なのか町があるのかもようわからんし。
秦嶺山脈を越えてくる諸葛孔明率いる蜀軍が強化人間なら、アルプス山脈を越えてくるハンニバル率いるカルタゴ軍は一体全体何なんだ?ガンダムファイターか?
司馬懿は蜀に対しては一貫して専守防衛持久策を取っている。上庸や遼東では速攻したから攻撃もできるはずなのに。出てきたら叩くを徹底すればいつか勝てると分かっていたはず。後方空けたのは想像で語るしかないですね。罠を張ったか、諸葛亮は冒険しないと確信してたとか。
木牛って要は木製の一輪車(土木現場で使われるネコと呼ばれるやつ)だからな。
久々の北伐めっちゃ待ちかね乙です^^驃騎将軍のなんちゃらって題のタイトルの本で霍去病が武官No.2だったので覚えたねそれまで将軍ランクの詳細てば大将軍、前後左右が有る位しか知らんかったわ
あの悪名高いインパール作戦が最大470キロを徒歩で歩いたらしいですが銃装備以前の戦争だとしても300キロ近い距離を通って毎年のように攻撃し続ける蜀軍の補給どうなってるんだ……
『東部ニューギニア戦線 鬼哭の戦場』によると、南海支隊のポートモレスビー攻略作戦で支隊員五千人を維持するのに、360キロ先のポートモレスビーまで戦線が伸びた場合、主食を担送するだけで通算三万二千人の人員が必要になると作戦前に試算されたそうです。北伐軍が数万規模なら、李厳配下の二万じゃ全然足りないことになります。本当にどうやって維持してたんでしょう?
割と何百人何千人という大きな単位で大規模な野生の動物狩りという現地調達しながら行軍したんじゃないですかね?
中国に猿の脳みそを食べる文化があるんで行軍の時に猿狩りして食ってたのがルーツって言われても不思議じゃない気はする
李厳直属補給部隊2万(人肉要員)とかだったりして
@@yamakawa-chu-sho 人肉食うならわざわざ攻撃側やる必要なくね?防衛側で城に人パンパンに詰めりゃいい訳だし、補給の動物狩り部隊を奇襲しようにも弓とかやり持って動物狩る訳で普通の補給部隊より武装してて難しいしなにより米だけの雑炊や人肉よりも猿とか山羊とかパンダとか美味しい肉食える方が士気があがる孔明の出師の表みたいな前漢復興とか中央から遠く離れた蜀の一般兵にとってはわりとどうでもいいけど、一般兵にはお肉食える行軍とかめっちゃテンションあがるで
司馬懿って忠誠心は普通にあったと思うけど、出自(漢の超名門)的に『最悪魏王朝が滅ぶ』って結果になっても「ああ、残念。天命ですな😗
これだけ見てると孫が皇帝になったから持ち上げられてるだけで、この当時の司馬懿は軍を指揮する能力はあまり高くない?少なくとも前任の曹真よりは弱いっぽい。
20才の頃、大阪、神戸間を徒歩で往復して二年参りに行った事があります。(後から計算すれば往復70㎞平地なのに14時間かかりました)確かにあの大変さを行軍に当てはめると、とんでもないなあと思う。
諸葛孔明は最初から魏軍が兵力分散したのなら攻め、集中したなら敵地で防衛して揺さぶる二択を取るつもりだったのでしょうか。司馬仲達は敗走しない程度にわざと負け、張コウを敗死させて好敵手も排除した。陳舜臣の著だったでしょうか。色んな想像ができる面白い戦いだと思います。
北伐って関中あたりでちゅんちゅんしてた印象しかないよね
想像ですが周辺都市から賊討伐の名目で長安付近まで将兵を動員していたとか軻比能を早々に鎮圧して情報を聞き出していたとかですかね?このときの司馬懿は解ってたかのように思い切りがいいですね
横山三国志だと孔明の北伐は淡々としてて蜀軍普通だったけど、こうして説明されると本当に異常で訳ワカメw蜀軍って身1つで敵地に乗り込んで侵略するサイヤ人だったんじゃないか?ってくらい恐ろし過ぎる。
ファビウスはのろまからローマの盾にランクアップしたけど、司馬懿は盾の裏で牙を魏に向けてたのがなんとも
おそらく旧日本軍と蜀の違いは「緑の砂漠」であったか否かということでは?旧日本軍が主戦場したエリアは緑は豊かではあるが、人が食することができるものはほとんど自生していなかった。
蜀の兵糧ストロングゼロかよwアレ飲んでヒャッハーした状態じゃないと300kmの山中行軍なんてやってられんということかな?
もしかしてというか本当であったとして証明のしようもない話なんですが、曹真が最期の抵抗、最後っ屁のように各4つの道を全てメタメタに破壊して帰ってきており、司馬懿はそれを加味して後方に兵を置かなかったとしたら?それなら蜀が持久している間に別働隊が道を修復して山中を啓開しようとしていた等で色々説明が付くんですが…
後ろがら空きなんは蜀軍へのエサなんやろな。洛陽からの後詰めがあったかのかわからないけど、即戦即決を基本としてた司馬懿だからね。陳倉から一気にかける戦略もあったかもしれない。孔明の追撃は今度は魏軍が馬謖の立場だから街亭時の王平の対策でなんとかなる。さすがに三千しか残さないはずないからね(笑)
なんというか毎年毎年鎧兜に武器食料担いで数百キロ以上のあの山脈をなんでやって来れるんだ?蜀軍はパワードスーツでもあったんですかね?…んで曹真が死んでしまったのが本当に惜しまれますね…そんで渭水とか擁って昔の秦国の王都圏ですか?
やっぱり駅を設けたとしか思えないんですよねただ維持するのが大変だから
後方をがら空きにしているというのが動画で問題視されていますがそもそも後方ががら空きという情報を蜀軍が知りえたのでしょうか?実際に馬謖が張コウを迎え撃つ時に浸透襲撃さんが以前の動画で述べたように、大軍の行軍というもうすんごく目立つ行動ですら全貌を把握できずに進軍ルートですら断定できず対処が付け焼刃になって蜀軍が敗北したことが語られていました。敵軍の出発地点と目標地点が明確に設定されているガイテイの戦いですらそうなのですから、長安周辺の魏国の戦力分布なんて蜀は知りえないかと思われます、仮定で諜報を密にしてそれを知ってもそれは何週間も前の情報で現在の進軍の確定要素にはならないのではないでしょうか?当たり前のことですが当時だろうが現代だろうが戦争下で相手軍の「後方の」情報をリアルタイムで正確に知りえることなんて不可能なわけでこの時代から何百年も後の通信技術が発達した時の軍人ですら戦場の霧とか、戦場と言うのは暗闇を歩くが如く情報を知りえないと語っているわけですし、三国志の時代なら尚更そうでしょう。もし仮に敵軍の内情動向を蜀軍が知りえるならば魏軍も同程度には蜀軍の全貌を把握していたことでしょう。(そうみると前任のお馬鹿さんの時は蜀のボーナスチャンスやったんやなって)そしてその情報があれば司馬懿の考えとしては蜀軍の規模と補給線から考えると、今回は兵力を他方に振り分けることなんて無理と判断し放置した可能性はないでしょうか?結果後方を固める必要なしに行き着く。実際に諸葛亮は陳倉の戦いで数万を指揮して千人で立てこもる陳倉城を落とすことが出来なかった以上、長安を急襲しても落とせるとも思えないですし、長安という敵国領内で敗北でもしようものなら、もう蜀は立て直すことが出来ず今後北伐どころかカウンターで攻められて蜀が滅亡する可能性が高いことを諸葛亮なら痛いほど分かっていたでしょうし、司馬懿もそんな敵将の性格を理解できていたのではないでしょうか。
そもそも曹氏か夏侯氏しか本来就けないハズの方面軍司令官に司馬懿がおることが異常事態だから、正史に記載はなくとも何らかの制約が司馬懿の行動を縛っていたと妄想してます。
間接アプローチ戦略ががっつり活きてますなあ
最初のbgm、懐かしい
むかーし20か25年くらい前だったかしら?中国の学者さんだったかな?「木牛流馬を作ったぞ」ってニュースやっていました。四足歩行でイメージは一輪車の四足歩行手で押すとガタガタ四本の足で歩く代物でした。
蜀軍が異常で孔明の才能が飛び抜けてるからできた北伐だと思います。司馬懿は情報持ってないと後方がら空きにできんと思うよ。
各個撃破は太平洋戦争時の日本が委任統治領の多い中南部太平洋諸島に軍を分散配置してアメリカ軍にやられましたからね。
後方がら空きか~。誰か蜀で部隊を率いて攻撃できる将軍居るかな?李厳は補給の役目で動けないだろうし、ほとんどの将軍は諸葛亮が連れて行ったんじゃないかな?司馬懿は諸葛亮さえ押さえれば、他に動ける人はいないから大丈夫、とか考えたと予想します。って、これで前編か!後編の作成、がんばってください><
補給線が長くなって苦しくなるのは魏軍も例外ではないと思いますよ。隴西は度重なる戦乱で荒れていますし上ケイの麦は蜀軍が刈り取りました。関中の全軍を連れてきた魏軍は大軍です。関中〜隴西間もかなり地形は厳しく距離があります。ガッツとガッツが火花を散らす補給戦になっていたのではないですかね?
司馬懿「いざとなったら明帝 (曹叡) に長安救援を任せる!!」
いつも楽しく動画拝見しております。さて、20年近く前の本ですが、『「三国志」の迷宮 儒教への反抗 有徳の仮面』(山口 久和著、文春新書)という本があり、正史ほかの文献の関する古今の研究を踏まえつつ、思想史や地政学的観点から三国志を解説されています。投稿者様の考察に近い内容もありますので、未読でしたらご参考にされてはいかがでしょうか。
事物紀源によると、木牛とは四輪車で流馬とは一輪車らしい。想像なんだけど、常にそれらを伴って移動したのではな無く、一輪車を細道の入り口と出口に、四輪車を広い道の入り口と出口に多数配置し、荷物を移し替える形で運用して細道も利用する形で出来る限りのショートカットをして人力のみか、もしくは途中まで馬車で後は人力で運んだのではないかなと思う。 進軍しながら工兵部隊に各地点での木牛流馬の現地組立を行わせたのかなとも。 もしくはその時代に小型軽量超高カロリー保存食なんてあったのかな。
魏軍側は司馬懿と張郃が不仲で統制取れてなかった可能性もある。軍人としての実績は司馬懿よりも張郃のほうが高いし、軍権握るために司馬懿が張郃潰しにかかったんじゃないか?
曹真が優秀すぎただけだと思いますよ部下に全権を委ねて後方ででっぷりと構えるということが司馬懿にはできないので、同じく役割が被る現場指揮官タイプの張郃とは相性が悪かったでしょう。
いつかやるさんの動画でスペイン継承戦争を思い出したのだが(あちらは主に戦術解説や布陣)th-cam.com/video/TOqmZ_SrNHg/w-d-xo.htmlマールバラは諸葛亮、ヴィラールが司馬懿の立ち位置かな?
うp主の指摘、魏軍後方がら空き。知ってるようで気づいていませんでした。それで何の根拠もなく思ったのですが、もしかして李厳は司馬懿に調略されてたんじゃない?諸葛亮の本来の作戦は、蜀軍No2の李厳が別動隊を率いて魏軍後方に出現することだった。だが、それを李厳がやらなかったので第四次北伐終了後に李厳を処罰したとか。
蜀の長期戦につき合うなら、ますます長安方面をがら空きにした司馬懿の判断がわからなくなってくる・・・。全兵力で駆けつけたということは普通は短期決戦なんだが・・・。それとも現場を見て、長期戦に方針を変えたあとで、兵力の一部を後方にまわしたんだろうか?
新商品:木牛(ジェットエンジン搭載)w
こんなとき曹真がいれば・・・(;ω;)
軍事は政治に制約されるし、支配下におかれるもの。度々隴西地方と本国が分断され民心が安定せず、政治的理由で派兵して「お前らは見捨てんからな!」とやる必要があったのでは? 隴西方面の名士て旧漢帝国に郷愁を感じる人々が多くいたと「その後の三国志」に書いてあったと思います。姜維があっさり蜀についたものそういう大義名分が重んじられる土地柄だっと読んだ記憶があります。なので民心安定には派兵して、住民の目の前で蜀軍を打ち破って見せる必要があったのでは?
蜀軍自身の兵士も現地で調達できる、と考えてみてはどうでしょう。蜀本土から行軍するのはごく少数だとしたら?分かりやすいように、例を挙げてみます。ナチスが占領下のフランスで調達や徴兵するのは困難だったでしょう。でも開放軍という立場の連合軍であればどうでしょうか。
羌族などの異民族の戦士は活用していたでしょうね。ただ、第一次北伐が盛大にコケたせいで、蜀軍寄りの人物が隴西地域から排除されている(投稿者様の過去動画より)ので、漢人の正規部隊は漢中から連れて行くしかなかったと思います。
魏軍が突撃して来たら釣り野伏みたいな戦術で一網打尽にする気だったのかな?
広範囲に兵士を広げるより、李厳を調略した方が早かった?
司馬懿というか、魏にとっては、最悪、陳倉までなら、くれてやる。されど、眉尾や長安までは、やらんという戦略だったのでしょうか?陳倉までなら、司馬懿の命までくれてやるで。
木牛で馬車より運べるってことは、馬より人の方が燃費良いんだいっそ本物の牛車で運んで帰りはステーキとか運べそうな気もする(空からの攻撃無いし)
牟田口『ジン♪ジン♪ジンギスカーン🎵』
隠しトンネルでも作ってたのかな
ただ、司馬懿は結局引き籠って睨み合ってるだけだから、多少の兵を割り振っても何の問題もなかったと思うんですよね防衛する相手を攻撃するのは数倍の兵力が必要だから、司馬懿の動きは理に合わないんですよちなみに張郃は正面攻撃しろなんて、一言も言ってないんですよね、奇襲部隊を編成して敵の背後を襲う構えを見せろ、要は兵站を襲えってことですね、そうやって戦う構えを見せて、部隊の士気を上げとけって話ですね
馬車以上は運べないについてですが、ベトナム戦争の際北ベトナム軍はジャングルを自転車に大量の荷物を括り付け(100キロ近く)これを手で押して踏破して補給していたといいます。(勿論トラックもありましたがそういう太い道は米軍の夜間爆撃機が徘徊している)日本陸軍の36式輜重車(大八車をそのま馬に引かせたデザイン)は150kgが一応(一頭立て)標準量だったはず。意外と人力推進も凄いのですよ。馬ってストレスに弱くて簡単に死にますし。
映姫様こと諸葛亮が何も喋ってくれないから諸葛亮の心が分からない…いったい何が諸葛亮を突き動かすのか・・・?もういいじゃないですか…。止めましょうよこんな戦いそりゃ曹一族は漢から帝位を簒奪したけどそれで魏国は安定してしまったんだ。いままでと事情が違うのよもはや民は争いを望んでいない例えるなら寝取られた彼女はもうおじさんの子を産みそこで幸せな家庭を築いているのよこの幸せを壊すのは、彼女自身が望んでいないんだ!諸葛亮がやろうとしていることは祟り神でしかないのよ
20:48 魏軍が蜀軍になっていますよ
昔の話だから、記録がない部分は想像するしかないけど、それにしたって蜀関連の人間って兵士に至るまで超人だよねwww補給限界超えてどうやって戦線維持してんのかね。なんか本当、物理無視してて草www
演義だと孔明は北伐で色んな奇策を用いたけど、正史のここまでの策は異民族の協力要請、手薄な所を狙う、持久戦といった有効だけど地味な策ばかりで策謀に関しては飛び抜けて凄い訳でもないね。でも、持久戦を行えるだけの仕組みを整えてる事から後方としては飛び抜けて凄い事は異論の余地はない。
沖縄戦の日本軍を思い出した
司馬懿程の指揮官が博打のようなリスクある作戦を採るとも思えないので、司馬懿も諸葛亮も互いに内通してプロレスでもしてたんだと思うそもそも蜀が例え侵攻に成功してもそこを統治して保持するのは不可能でしょう、あの時代略奪凌辱は当然の権利として行使され現地の一般人からの反感は猛烈なものになるでしょうし輸送限界を越えた蜀の侵攻も魏(司馬懿の派閥)からの協力があれば可能にもなるでしょうし、お互いに面倒な政敵を始末して自国における地位の確立保持も容易になるまさにwin-win、二人は軍師キュア!つーかこれくらいの妄言ブチ上げないと理屈としてなりたたないよーやっぱKOEIの三国志のゲームは忠実な史実再現だったんだって。ビームも撃つよそりゃ
賤ヶ岳は後の100万石の裏切りが全てでそれがなければ佐久間は善戦はできたと思いますよ(勝とは言っていない)
ディアゴスティーニから木牛が出るでしょう、知らんけど。次回、タヒが互いを別つまで、ですか。。。
木牛って実際どうなんかな?車輪ならやっぱり坂は辛いし今みたいな車輪があるわけでもないし
ストロングゼロwww
魏軍が割り切った作戦を使えるのは、子午の役によって蜀軍の全体像が把握出来たからでは。祁山の救援に行った本隊が危機に陥るのは、街亭方面の連絡を断たれた時で、山道を越え城を落し先の街道まで封鎖となると、それこそ蜀の別動隊には未来技術でもないと難しい。魏軍は本隊さえ崩壊しなければ、祁山が陥落しても上邽などの都市群を頼りに粘るだけで、蜀軍は祁山を確保しきれず放棄する事になるかと。
キーパーソンが漢中にいるね。
これ司馬懿も分からんが蜀もわからねえんだよなあ。長安奇襲の別動隊が無いなら蜀のチャンスは魏が攻勢失敗して乱れたところを追撃して戦果を拡大させる(曹叡が懸念した通りの方法)カウンター攻撃しか無いはずなんだが(だから守りを固めつつジリジリと後退していた)。それなのに魏の失敗に乗じて追撃とはならなかったの?それともできなかった?
補給がある大和魂!勝ったなガハハ!
長安取られても良いと考えてたりしてま、それはないか
ストゼロを燃料にして働く蜀軍兵士・・・
昔の映画とか玄人向けの戦略ものってわざと負ける負け方の描き方がうまい。司馬懿は激烈にそれが得意だったとか?
案外全部孔明と司馬懿の八百長やったりしてな笑
空の軌跡のBGMが強すぎて、途中まで内容が入ってこなかった。いい曲だけど
最近北伐の9割は作り話じゃないかと思うようになりました
あら?もう20分超えてたの?体感時間が短過ぎやで。
後世の史実や演義を知っている者からすれば、司馬懿は諸葛亮と対峙した名将のイメージがありますが、よくよく考えてみればこの時の司馬懿って、後任の司令官なんですよね。当然、司馬懿は曹真ほど現地部隊を掌握できているはずもなく、まずはそれらの将兵を、掌握することから始めなければならなかったのかも?戦死者三千人が多いか少ないか、冷酷な言い方をすれば、これで将兵が司馬懿の命令を聞くようになったとすれば、結果的に安い損害で済んだといえるかと。比較対象にローマのファビアン戦略があげられていますが、ローマ軍や元老院、ローマ市民がファビアンの主張の正しさを認めて、その戦略に転換するために、カンナエの戦いで六万人の損害を出している。それに比べれば三千人の損害は安い安い。
5:45つまりはこういう事でしょう。↓↓↓↓↓↓↓行く行く詐欺
一つ疑問があって、なぜうp主はなぜ漢中を中心に馬車限界を引きたがるのですか?実際の戦争はHoi4のように補給は首都から湧いてくるものじゃありませんよ。それに戦争とは準備、準備、準備で決まります。確かに諸葛亮は戦術で幾度もの敵に勝ってきた軍史の中でもひときわ輝く存在ですが、戦術だけが取り柄のものは名将ではありません。彼が真の名将である理由は謀略で相手を翻弄する事よりも、準備で勝ってきたからです。進軍ルート上の小さな町ごとに補給基地を作る。もしくは主力の軍を駐屯する前線基地を岐山の近くに設置し、それと同時に屯田兵も配置して平時は食料を作らせれば漢中を中心に馬車限界を引かなくても良いのでは。
補給は首都から湧くものではないけど、小さな町から湧かせることもできない通信がない時代だから膨大な物資を一度まとめてから送らなければならないけど小さな町でそんなことはできないよね、あくまでバケツリレーの中継基地にしかならない大きな倉庫と治安のある大都市に戦争前から物資を貯めておくくらいしかできないわけだし、ド田舎の蜀のことだからそんな大都市は漢中付近にしかなくても不思議はない屯田兵に関しては割と論外でしょ…国会議事堂前をカボチャ畑にするのとは話が違うんだよ碌な肥料も開発されてない時代に、それも中華の中では貧しい土地で、さらにまともな土壌は既に農地になってる場所で新規開拓?1600年後にあった北海道開拓の歴史知ってる?軌道に乗るまで10年はかかると思う
未知の技術=まず先頭の木牛の取っ手の部分を馬に繋ぎその後木牛を数珠繋ぎにして運んだのでは?馬車はまずその横幅がネックになるのでスマートな木牛に置き換えれば行けたのでは?
待ってました‼︎
お待ちしていました! いつもありがとうございます! 楽しみにしています!
もう‥横綱は居ない(慟哭)
「戦死者3千人」と数字がキチンと記録されてるのも何気に重要かもしれませんね。
以前の街亭の戦い最終回の動画で「馬謖軍に何人死者が出たのか具体的な記録が無かった」ことを馬謖逃亡による軍全体の混乱を推察する一因にしていましたが、それと対称的な形で司馬懿軍の混乱が少なかった事を示しているのかもしれません。
「木牛」の利点は、第二次世界大戦時の「マレー作戦」における「自転車」と同じ。
ここで、「牛車」は第二次世界大戦時の「戦車や車両」と比較できる。
当時の中国の道路事情は当然悪く、牛車や馬車で移動する場合「頻繁な迂回」が発生した。
特に「崖」や「川」の存在は致命的で、何十kmでも迂回しなければならず、
迂回路がなければ移動を諦めるしかなかった。
しかし人間は、(ロープ等の適切な機材があれば)崖を上り下りすることも川を渡ることもできる。
そして木牛や自転車は、人間が担いで(もしくはロープに括り付けて)一緒に移動させられる。
実際マレー作戦において、日本軍は「人力で」1100kmを60日で進軍している(18km/日)。
これは、多数の戦闘や渡河をしながらの進軍速度としては驚異的に速い。
単純な徒歩や、戦車や車両に依存して進軍した場合、はるかに遅くなったのは明白で、
日本軍にしては珍しく、斬新で合理的な戦術だった。
現在のきれいに舗装された道路で牛車と木牛を比べれば、
おそらく牛車の方が数倍効率よく物資を運べるだろうが、
当時の中国の山岳地帯で物資を運ぼうとすると、
木牛の方が効率のよいケースがあったとしても不思議ではない。
おそらく諸葛亮の思考過程は、以下のようなものだったろう。
1. 魏まで牛車で物資を送ろう。
でも、牛車だと通れる道が少なく、遠回りになる。
2. じゃ、人力で送ろう。
でも、人力だと運べる物資が極端に少なくなる。
3. じゃ、人力で効率よく物資を運ぶための道具(木牛)を作ろう。
大成功。
普通の人は1.を選択してそこそこの成果を得るし、
常識がない人は2.を選択して失敗する。
2.の欠点を克服して3.を達成できたのが、諸葛亮の凄さ。
「木牛」って、説明読むと意外と小さいんだけど、
それは(状況に応じて)人間が担ぐことを想定しているから。
「木牛」を大きくし過ぎると、「牛車」と同じ制約が生じ、メリットがなくなる。
昔、ヤングアニマルで、「内閣総理大臣 織田信長」を連載していた志野靖史のそれ以前の短編マンガに、マレー電撃戦を描いたものがありました。
その中で、防衛の英国軍が、日本軍の進撃が早いのは、車両が多いからに違いない、橋を落とせ、と日本軍足止めのために、事前に橋を落とさせていた。
そうしたらラスト近くで、銀輪部隊の将兵が、よいしょと自転車をかついで川を渡っていたのが印象的でしたw
麦がバリカンで刈り取られていますね笑
「ホンマ郭淮しっかりせいや」にも笑ったけど、
18:40からの祁山守備隊の人たちの心の声が面白すぎるw
援軍の成否が自分たちの生死に直結するだけに、気が気じゃなかったでしょうね。
曹真が生きていたらうp主や張郃と同じ戦略をとって何の損害も出さずに追い返していたでしょうね。
荊州以西の土地勘に乏しい司馬懿には分散した兵まで指揮するのは中々酷だったでしょう。
兵力を一極集中させたおかげで行軍内容を戦うコマンドと守るコマンドのみに絞れたので、その使い分けだけで何とか凌げたのは流石です。
毎度の事ながら、蜀軍が秦嶺山脈を越えてくる事が当たり前になってるのが恐ろしい。
攻める時は要害で、守りには期待薄ってどうなってんだ…。
待ってました。
2ヵ月キツかった。
遂に宿命の対決、孔明(四季映姫)対司馬懿(永琳)の初顔合わせだというのに、横綱がいないという空虚感が消えない・・。曹真の存在の大きさを思い知る・・。
張 郃「膝に矢を受けてしまってな…」
正史の司馬懿や魏軍の行動に不可思議な点があるのは、後に司馬炎が天下を取った事と関係あるのでは?
北伐編を観るほど,孔明とハンニバルが重なって見える。包囲戦術と心理戦で敵を追い詰めるのが攻撃側のセオリーなのか。
動画の通り,防御側はファビウス戦略による補給戦で時間を稼ぐだけで有利。
ハンニバルとの決戦を急いだローマは犠牲者6万人を出した。犠牲者3千人で済ませた司馬懿は計算ずくで将兵をガス抜きさせたのかもしれない。
ファビアン戦術…確かにね、ファビウスの方針にしびれ切らせてヴァロとローマ市民が打って出た結果がカンネーだし。
確かに攻めるより好機まで待つ方が統率力は要りますよね、
勉強になります✒️
マッドランナーでトラック使って資材運ぶのだって大変なのに、人力で攻城兵器運んじゃう蜀軍ヤバいですね(白目)
木牛は餌を食わないのがいいね
食料の消耗も人間のが牛より少ないですからね、草を積むより米のがかさばらない
魏軍はこれから三千人分の食糧が節約できたわけですね…
さらに涼州の豪族とかを戦死させて涼州からの収奪が強化できて…
有能な貴族ってのは人民にとっては地獄かもな…
これ、心理戦だったんでしょうかね。
ガラ空きの後方へのプレッシャーで、撤退するタイミングで仕掛けるみたいな算段で。
蜀軍は実は飛んで山脈越えたか、山脈にトンネル掘った後に進んだとしか考えられない行軍ですね。
京都大阪間は新快速(30分)を使ってると距離感覚が麻痺しますが、自転車でも結構骨が折れますし、大阪駅から徒歩だと私なら新大阪あたりでダウンしそうです。秀吉が大坂城、淀城、伏見城と舟運利用範囲に拠点を置いたのも分かります。
いつもありがとうございます。 今回のは話しぶりが特に楽しいです。
以前の兵站の時の解説にあるように、あまりに長距離になると鉄道などがないと牛や馬だと返って効率が悪くなるから
人力車を用意して兵隊一人につき1か月から2か月分の食糧を自分で運んでもらった方が、効率が良くなるという結果に
これを自分で考えつく孔明の凄さ
後方を異民族に攪乱させ、長安の防御に不安が出て来たので相手が後退し始めた所に速攻をかける。
という作戦だったのかも?と、思いました。秦の王翦が楚を破った時みたいに
待ってました!
ようこそ関西へ。大歓迎でございます。
伝承だかなんかだと月英が作った犬のカラクリは吠えてじゃれてエサまで食ったという話が。つまり、木牛という名のバギーと流馬というなのバイクにのったモヒカン蜀兵が山を越えてヒャッハーしてた可能性もワンチャンある。
次回ヤムチャ死す デュエルスタンバイ!
前も書いた気がするけどこの地図しんれー山脈以外は平地なのかと思って陽平関~き山までは平地なのかと思っちゃう。そして平地なら途中に村があって畑がありそう感
逆に魏軍はジョウケイの麦が刈り取られて食料どうしてるんだろ。チンソウとの間の山超えて補給のほうが大変そう。さらに西や北は平地なのか山なのか町があるのかもようわからんし。
秦嶺山脈を越えてくる諸葛孔明率いる蜀軍が強化人間なら、アルプス山脈を越えてくるハンニバル率いるカルタゴ軍は一体全体何なんだ?
ガンダムファイターか?
司馬懿は蜀に対しては一貫して専守防衛持久策を取っている。上庸や遼東では速攻したから攻撃もできるはずなのに。
出てきたら叩くを徹底すればいつか勝てると分かっていたはず。
後方空けたのは想像で語るしかないですね。罠を張ったか、諸葛亮は冒険しないと確信してたとか。
木牛って要は木製の一輪車(土木現場で使われるネコと呼ばれるやつ)だからな。
久々の北伐めっちゃ待ちかね乙です^^
驃騎将軍のなんちゃらって題のタイトルの本で霍去病が武官No.2だったので覚えたね
それまで将軍ランクの詳細てば大将軍、前後左右が有る位しか知らんかったわ
あの悪名高いインパール作戦が最大470キロを徒歩で歩いたらしいですが銃装備以前の戦争だとしても300キロ近い距離を通って毎年のように攻撃し続ける蜀軍の補給どうなってるんだ……
『東部ニューギニア戦線 鬼哭の戦場』によると、南海支隊のポートモレスビー攻略作戦で支隊員五千人を維持するのに、360キロ先のポートモレスビーまで戦線が伸びた場合、主食を担送するだけで通算三万二千人の人員が必要になると作戦前に試算されたそうです。
北伐軍が数万規模なら、李厳配下の二万じゃ全然足りないことになります。
本当にどうやって維持してたんでしょう?
割と何百人何千人という大きな単位で大規模な野生の動物狩りという現地調達しながら行軍したんじゃないですかね?
中国に猿の脳みそを食べる文化があるんで行軍の時に猿狩りして食ってたのがルーツって言われても不思議じゃない気はする
李厳直属補給部隊2万(人肉要員)とかだったりして
@@yamakawa-chu-sho 人肉食うならわざわざ攻撃側やる必要なくね?防衛側で城に人パンパンに詰めりゃいい訳だし、補給の動物狩り部隊を奇襲しようにも弓とかやり持って動物狩る訳で普通の補給部隊より武装してて難しいし
なにより米だけの雑炊や人肉よりも猿とか山羊とかパンダとか美味しい肉食える方が士気があがる
孔明の出師の表みたいな前漢復興とか中央から遠く離れた蜀の一般兵にとってはわりとどうでもいいけど、一般兵にはお肉食える行軍とかめっちゃテンションあがるで
司馬懿って忠誠心は普通にあったと思うけど、出自(漢の超名門)的に『最悪魏王朝が滅ぶ』って結果になっても「ああ、残念。天命ですな😗
これだけ見てると孫が皇帝になったから持ち上げられてるだけで、この当時の司馬懿は軍を指揮する能力はあまり高くない?少なくとも前任の曹真よりは弱いっぽい。
20才の頃、大阪、神戸間を徒歩で往復して二年参りに行った事があります。(後から計算すれば往復70㎞平地なのに14時間かかりました)確かにあの大変さを行軍に当てはめると、とんでもないなあと思う。
諸葛孔明は最初から魏軍が兵力分散したのなら攻め、集中したなら敵地で防衛して揺さぶる二択を取るつもりだったのでしょうか。司馬仲達は敗走しない程度にわざと負け、張コウを敗死させて好敵手も排除した。陳舜臣の著だったでしょうか。色んな想像ができる面白い戦いだと思います。
北伐って関中あたりでちゅんちゅんしてた印象しかないよね
想像ですが周辺都市から賊討伐の名目で長安付近まで将兵を動員していたとか軻比能を早々に鎮圧して情報を聞き出していたとかですかね?
このときの司馬懿は解ってたかのように思い切りがいいですね
横山三国志だと孔明の北伐は淡々としてて蜀軍普通だったけど、こうして説明されると本当に異常で訳ワカメw
蜀軍って身1つで敵地に乗り込んで侵略するサイヤ人だったんじゃないか?ってくらい恐ろし過ぎる。
ファビウスはのろまからローマの盾にランクアップしたけど、司馬懿は盾の裏で牙を魏に向けてたのがなんとも
おそらく旧日本軍と蜀の違いは「緑の砂漠」であったか否かということでは?旧日本軍が主戦場したエリアは緑は豊かではあるが、人が食することができるものはほとんど自生していなかった。
蜀の兵糧ストロングゼロかよw
アレ飲んでヒャッハーした状態じゃないと300kmの山中行軍なんてやってられんということかな?
もしかしてというか本当であったとして証明のしようもない話なんですが、曹真が最期の抵抗、最後っ屁のように各4つの道を全てメタメタに破壊して帰ってきており、司馬懿はそれを加味して後方に兵を置かなかったとしたら?
それなら蜀が持久している間に別働隊が道を修復して山中を啓開しようとしていた等で色々説明が付くんですが…
後ろがら空きなんは蜀軍へのエサなんやろな。
洛陽からの後詰めがあったかのかわからないけど、即戦即決を基本としてた司馬懿だからね。陳倉から一気にかける戦略もあったかもしれない。孔明の追撃は今度は魏軍が馬謖の立場だから街亭時の王平の対策でなんとかなる。さすがに三千しか残さないはずないからね(笑)
なんというか毎年毎年鎧兜に武器食料担いで数百キロ以上のあの山脈をなんでやって来れるんだ?
蜀軍はパワードスーツでもあったんですかね?…
んで曹真が死んでしまったのが本当に惜しまれますね…
そんで渭水とか擁って昔の秦国の王都圏ですか?
やっぱり駅を設けたとしか思えないんですよねただ維持するのが大変だから
後方をがら空きにしているというのが動画で問題視されていますがそもそも後方ががら空きという情報を蜀軍が知りえたのでしょうか?
実際に馬謖が張コウを迎え撃つ時に浸透襲撃さんが以前の動画で述べたように、大軍の行軍というもうすんごく目立つ行動ですら
全貌を把握できずに進軍ルートですら断定できず対処が付け焼刃になって蜀軍が敗北したことが語られていました。
敵軍の出発地点と目標地点が明確に設定されているガイテイの戦いですらそうなのですから、長安周辺の魏国の戦力分布なんて蜀は
知りえないかと思われます、仮定で諜報を密にしてそれを知ってもそれは何週間も前の情報で現在の進軍の確定要素にはならないのでは
ないでしょうか?
当たり前のことですが当時だろうが現代だろうが戦争下で相手軍の「後方の」情報をリアルタイムで正確に知りえることなんて不可能なわけで
この時代から何百年も後の通信技術が発達した時の軍人ですら戦場の霧とか、戦場と言うのは暗闇を歩くが如く情報を知りえないと語って
いるわけですし、三国志の時代なら尚更そうでしょう。
もし仮に敵軍の内情動向を蜀軍が知りえるならば魏軍も同程度には蜀軍の全貌を把握していたことでしょう。
(そうみると前任のお馬鹿さんの時は蜀のボーナスチャンスやったんやなって)
そしてその情報があれば司馬懿の考えとしては蜀軍の規模と補給線から考えると、今回は兵力を他方に振り分けることなんて無理と判断し
放置した可能性はないでしょうか?結果後方を固める必要なしに行き着く。
実際に諸葛亮は陳倉の戦いで数万を指揮して千人で立てこもる陳倉城を落とすことが出来なかった以上、長安を急襲しても落とせるとも思えないですし、
長安という敵国領内で敗北でもしようものなら、もう蜀は立て直すことが出来ず今後北伐どころかカウンターで攻められて蜀が滅亡する可能性が
高いことを諸葛亮なら痛いほど分かっていたでしょうし、司馬懿もそんな敵将の性格を理解できていたのではないでしょうか。
そもそも曹氏か夏侯氏しか本来就けないハズの方面軍司令官に司馬懿がおることが異常事態だから、正史に記載はなくとも何らかの制約が司馬懿の行動を縛っていたと妄想してます。
間接アプローチ戦略ががっつり活きてますなあ
最初のbgm、懐かしい
むかーし20か25年くらい前だったかしら?中国の学者さんだったかな?
「木牛流馬を作ったぞ」
ってニュースやっていました。
四足歩行でイメージは一輪車の四足歩行
手で押すとガタガタ四本の足で歩く代物でした。
蜀軍が異常で孔明の才能が飛び抜けてるからできた北伐だと思います。
司馬懿は情報持ってないと後方がら空きにできんと思うよ。
各個撃破は太平洋戦争時の日本が委任統治領の多い中南部太平洋諸島に軍を分散配置してアメリカ軍にやられましたからね。
後方がら空きか~。誰か蜀で部隊を率いて攻撃できる将軍居るかな?
李厳は補給の役目で動けないだろうし、ほとんどの将軍は諸葛亮が連れて行ったんじゃないかな?
司馬懿は諸葛亮さえ押さえれば、他に動ける人はいないから大丈夫、とか考えたと予想します。
って、これで前編か!後編の作成、がんばってください><
補給線が長くなって苦しくなるのは魏軍も例外ではないと思いますよ。隴西は度重なる戦乱で荒れていますし上ケイの麦は蜀軍が刈り取りました。関中の全軍を連れてきた魏軍は大軍です。関中〜隴西間もかなり地形は厳しく距離があります。ガッツとガッツが火花を散らす補給戦になっていたのではないですかね?
司馬懿「いざとなったら明帝 (曹叡) に長安救援を任せる!!」
いつも楽しく動画拝見しております。
さて、20年近く前の本ですが、『「三国志」の迷宮 儒教への反抗 有徳の仮面』(山口 久和著、文春新書)という本があり、
正史ほかの文献の関する古今の研究を踏まえつつ、思想史や地政学的観点から三国志を解説されています。
投稿者様の考察に近い内容もありますので、未読でしたらご参考にされてはいかがでしょうか。
事物紀源によると、木牛とは四輪車で流馬とは一輪車らしい。
想像なんだけど、常にそれらを伴って移動したのではな無く、一輪車を細道の入り口と出口に、四輪車を広い道の入り口と出口に多数配置し、荷物を移し替える形で運用して細道も利用する形で出来る限りのショートカットをして人力のみか、もしくは途中まで馬車で後は人力で運んだのではないかなと思う。 進軍しながら工兵部隊に各地点での木牛流馬の現地組立を行わせたのかなとも。
もしくはその時代に小型軽量超高カロリー保存食なんてあったのかな。
魏軍側は司馬懿と張郃が不仲で統制取れてなかった可能性もある。軍人としての実績は司馬懿よりも張郃のほうが高いし、軍権握るために司馬懿が張郃潰しにかかったんじゃないか?
曹真が優秀すぎただけだと思いますよ
部下に全権を委ねて後方ででっぷりと構えるということが司馬懿にはできないので、同じく役割が被る現場指揮官タイプの張郃とは相性が悪かったでしょう。
いつかやるさんの動画でスペイン継承戦争を思い出したのだが(あちらは主に戦術解説や布陣)
th-cam.com/video/TOqmZ_SrNHg/w-d-xo.html
マールバラは諸葛亮、ヴィラールが司馬懿の立ち位置かな?
うp主の指摘、魏軍後方がら空き。知ってるようで気づいていませんでした。それで何の根拠もなく思ったのですが、もしかして李厳は司馬懿に調略されてたんじゃない?諸葛亮の本来の作戦は、蜀軍No2の李厳が別動隊を率いて魏軍後方に出現することだった。だが、それを李厳がやらなかったので第四次北伐終了後に李厳を処罰したとか。
蜀の長期戦につき合うなら、ますます長安方面をがら空きにした司馬懿の判断がわからなくなってくる・・・。
全兵力で駆けつけたということは普通は短期決戦なんだが・・・。
それとも現場を見て、長期戦に方針を変えたあとで、兵力の一部を後方にまわしたんだろうか?
新商品:木牛(ジェットエンジン搭載)w
こんなとき曹真がいれば・・・(;ω;)
軍事は政治に制約されるし、支配下におかれるもの。度々隴西地方と本国が分断され民心が安定せず、政治的理由で派兵して「お前らは見捨てんからな!」とやる必要があったのでは?
隴西方面の名士て旧漢帝国に郷愁を感じる人々が多くいたと「その後の三国志」に書いてあったと思います。姜維があっさり蜀についたものそういう大義名分が重んじられる土地柄だっと
読んだ記憶があります。なので民心安定には派兵して、住民の目の前で蜀軍を打ち破って見せる必要があったのでは?
蜀軍自身の兵士も現地で調達できる、と考えてみてはどうでしょう。蜀本土から行軍するのはごく少数だとしたら?
分かりやすいように、例を挙げてみます。ナチスが占領下のフランスで調達や徴兵するのは困難だったでしょう。でも開放軍という立場の連合軍であればどうでしょうか。
羌族などの異民族の戦士は活用していたでしょうね。
ただ、第一次北伐が盛大にコケたせいで、蜀軍寄りの人物が隴西地域から排除されている(投稿者様の過去動画より)ので、漢人の正規部隊は漢中から連れて行くしかなかったと思います。
魏軍が突撃して来たら釣り野伏みたいな戦術で一網打尽にする気だったのかな?
広範囲に兵士を広げるより、李厳を調略した方が早かった?
司馬懿というか、魏にとっては、最悪、陳倉までなら、くれてやる。
されど、眉尾や長安までは、やらんという戦略だったのでしょうか?
陳倉までなら、司馬懿の命までくれてやるで。
木牛で馬車より運べるってことは、馬より人の方が燃費良いんだ
いっそ本物の牛車で運んで帰りはステーキとか運べそうな気もする(空からの攻撃無いし)
牟田口『ジン♪ジン♪ジンギスカーン🎵』
隠しトンネルでも作ってたのかな
ただ、司馬懿は結局引き籠って睨み合ってるだけだから、多少の兵を割り振っても何の問題もなかったと思うんですよね
防衛する相手を攻撃するのは数倍の兵力が必要だから、司馬懿の動きは理に合わないんですよ
ちなみに張郃は正面攻撃しろなんて、一言も言ってないんですよね、奇襲部隊を編成して敵の背後を襲う構えを見せろ、
要は兵站を襲えってことですね、そうやって戦う構えを見せて、部隊の士気を上げとけって話ですね
馬車以上は運べないについてですが、ベトナム戦争の際北ベトナム軍はジャングルを自転車に大量の荷物を括り付け(100キロ近く)これを手で押して踏破して補給していたといいます。
(勿論トラックもありましたがそういう太い道は米軍の夜間爆撃機が徘徊している)日本陸軍の36式輜重車(大八車をそのま馬に引かせたデザイン)は150kgが一応(一頭立て)
標準量だったはず。意外と人力推進も凄いのですよ。馬ってストレスに弱くて簡単に死にますし。
映姫様こと諸葛亮が何も喋ってくれないから諸葛亮の心が分からない…
いったい何が諸葛亮を突き動かすのか・・・?
もういいじゃないですか…。止めましょうよこんな戦い
そりゃ曹一族は漢から帝位を簒奪したけど
それで魏国は安定してしまったんだ。いままでと事情が違うのよ
もはや民は争いを望んでいない
例えるなら寝取られた彼女はもうおじさんの子を産み
そこで幸せな家庭を築いているのよ
この幸せを壊すのは、彼女自身が望んでいないんだ!
諸葛亮がやろうとしていることは祟り神でしかないのよ
20:48
魏軍が蜀軍になっていますよ
昔の話だから、記録がない部分は想像するしかないけど、それにしたって蜀関連の人間って兵士に至るまで超人だよねwww
補給限界超えてどうやって戦線維持してんのかね。なんか本当、物理無視してて草www
演義だと孔明は北伐で色んな奇策を用いたけど、正史のここまでの策は異民族の協力要請、手薄な所を狙う、持久戦といった有効だけど地味な策ばかりで策謀に関しては飛び抜けて凄い訳でもないね。
でも、持久戦を行えるだけの仕組みを整えてる事から後方としては飛び抜けて凄い事は異論の余地はない。
沖縄戦の日本軍を思い出した
司馬懿程の指揮官が博打のようなリスクある作戦を採るとも思えないので、司馬懿も諸葛亮も互いに内通してプロレスでもしてたんだと思う
そもそも蜀が例え侵攻に成功してもそこを統治して保持するのは不可能でしょう、あの時代略奪凌辱は当然の権利として行使され現地の一般人からの反感は猛烈なものになるでしょうし
輸送限界を越えた蜀の侵攻も魏(司馬懿の派閥)からの協力があれば可能にもなるでしょうし、お互いに面倒な政敵を始末して自国における地位の確立保持も容易になる
まさにwin-win、二人は軍師キュア!
つーかこれくらいの妄言ブチ上げないと理屈としてなりたたないよーやっぱKOEIの三国志のゲームは忠実な史実再現だったんだって。ビームも撃つよそりゃ
賤ヶ岳は後の100万石の裏切りが全てでそれがなければ佐久間は善戦はできたと思いますよ(勝とは言っていない)
ディアゴスティーニから木牛が出るでしょう、知らんけど。
次回、タヒが互いを別つまで、ですか。。。
木牛って実際どうなんかな?
車輪ならやっぱり坂は辛いし今みたいな車輪があるわけでもないし
ストロングゼロwww
魏軍が割り切った作戦を使えるのは、子午の役によって蜀軍の全体像が把握出来たからでは。
祁山の救援に行った本隊が危機に陥るのは、街亭方面の連絡を断たれた時で、山道を越え城を落し先の街道まで封鎖となると、それこそ蜀の別動隊には未来技術でもないと難しい。
魏軍は本隊さえ崩壊しなければ、祁山が陥落しても上邽などの都市群を頼りに粘るだけで、蜀軍は祁山を確保しきれず放棄する事になるかと。
キーパーソンが漢中にいるね。
これ司馬懿も分からんが蜀もわからねえんだよなあ。
長安奇襲の別動隊が無いなら蜀のチャンスは魏が攻勢失敗して乱れたところを追撃して戦果を拡大させる(曹叡が懸念した通りの方法)カウンター攻撃しか無いはずなんだが(だから守りを固めつつジリジリと後退していた)。
それなのに魏の失敗に乗じて追撃とはならなかったの?それともできなかった?
補給がある大和魂!勝ったなガハハ!
長安取られても良いと考えてたりして
ま、それはないか
ストゼロを燃料にして働く蜀軍兵士・・・
昔の映画とか玄人向けの戦略ものってわざと負ける負け方の描き方がうまい。司馬懿は激烈にそれが得意だったとか?
案外全部孔明と司馬懿の八百長やったりしてな笑
空の軌跡のBGMが強すぎて、途中まで内容が入ってこなかった。いい曲だけど
最近北伐の9割は作り話じゃないかと思うようになりました
あら?
もう20分超えてたの?
体感時間が短過ぎやで。
後世の史実や演義を知っている者からすれば、司馬懿は諸葛亮と対峙した名将のイメージがありますが、よくよく考えてみればこの時の司馬懿って、後任の司令官なんですよね。
当然、司馬懿は曹真ほど現地部隊を掌握できているはずもなく、まずはそれらの将兵を、掌握することから始めなければならなかったのかも?
戦死者三千人が多いか少ないか、冷酷な言い方をすれば、これで将兵が司馬懿の命令を聞くようになったとすれば、結果的に安い損害で済んだといえるかと。
比較対象にローマのファビアン戦略があげられていますが、ローマ軍や元老院、ローマ市民がファビアンの主張の正しさを認めて、その戦略に転換するために、カンナエの戦いで六万人の損害を出している。それに比べれば三千人の損害は安い安い。
5:45
つまりはこういう事でしょう。
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
行く行く詐欺
一つ疑問があって、なぜうp主はなぜ漢中を中心に馬車限界を引きたがるのですか?
実際の戦争はHoi4のように補給は首都から湧いてくるものじゃありませんよ。それに戦争とは準備、準備、準備で決まります。確かに諸葛亮は戦術で幾度もの敵に勝ってきた軍史の中でもひときわ輝く存在ですが、戦術だけが取り柄のものは名将ではありません。彼が真の名将である理由は謀略で相手を翻弄する事よりも、準備で勝ってきたからです。
進軍ルート上の小さな町ごとに補給基地を作る。
もしくは主力の軍を駐屯する前線基地を岐山の近くに設置し、それと同時に屯田兵も配置して平時は食料を作らせれば漢中を中心に馬車限界を引かなくても良いのでは。
補給は首都から湧くものではないけど、小さな町から湧かせることもできない
通信がない時代だから膨大な物資を一度まとめてから送らなければならないけど小さな町でそんなことはできないよね、あくまでバケツリレーの中継基地にしかならない
大きな倉庫と治安のある大都市に戦争前から物資を貯めておくくらいしかできないわけだし、ド田舎の蜀のことだからそんな大都市は漢中付近にしかなくても不思議はない
屯田兵に関しては割と論外でしょ…国会議事堂前をカボチャ畑にするのとは話が違うんだよ
碌な肥料も開発されてない時代に、それも中華の中では貧しい土地で、さらにまともな土壌は既に農地になってる場所で新規開拓?1600年後にあった北海道開拓の歴史知ってる?
軌道に乗るまで10年はかかると思う
未知の技術=
まず先頭の木牛の取っ手の部分を馬に繋ぎその後木牛を数珠繋ぎにして運んだのでは?
馬車はまずその横幅がネックになるのでスマートな木牛に置き換えれば行けたのでは?
待ってました!
待ってました‼︎