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美濃と尾張の2ヶ国を制覇しただけで、信長が天下布武を唱えたのは凄いって言う人がいるけど、実は今とかなり違って美濃と尾張って日本でも有数の穀倉地帯だったんだよね。逆に今の米どころの東北や北海道なんて当時は全然だった今ではほとんどが水稲だけど、当時はまだまだ陸稲や稲以外の雑穀も多かった中、美濃と尾張の濃尾平野は木曽三川のおかげで、広く耕作に適した地形が多く、水も引っ張ってこれたから、陸稲よりも手がかからず収穫も多くて、他の領地よりも石高が多かった。更には、今と違い商業ってのは神社と密接に関わっていて、神社の周りに市を出すのが通例だったけど、尾張には日本でも有数の神社である熱田神宮があったから、実際の面積以上に商業と農業が発達してた。美濃攻略以降、加速度的に織田氏が発展していくのは、必然だったとも言える
源頼朝に「美濃尾張をくれてやる」と言われた長田忠致が必死に働いた(実際には身の終わりを貰った)なんて逸話もあるくらいだし、大昔から誰もが欲しがる豊かな二国として認識されてたであろうことは容易に想像つきますね
昔は神仏習合だったから。坊主も神社に来るんだよな。そして坊主大体良い家の坊ちゃんだからそいつら相手の商売は儲かる。
UP主さんの一連の動画を見てると、信長は決してトントン拍子で勝ち抜いていったわけではないんだなってしみじみと思う。
この後も強敵ばかりですものね
素晴らしい解説をいつもありがとうございます✨
川中島の戦いに関してはあきサル氏の考察動画が面白いと思う。偶発戦ではなく、謙信が信玄を抹殺する為の絵図をちゃんと描いてたという説。
「成功体験を捨てる」って話から、ロバート・フリップ(キング・クリムゾンの核)の「テクニックを捨て去るだけのインテリジェンス」って言葉を思い出した。
最近、大内義興が見直されてるっぽいから、西国戦国史も面白いよなあ。
わかる
大内帝国の隆盛と突然の崩壊が西国中世史のメインストリートですもんねぇ
跡を継いでから本能寺されるまでの30年間の半分以上、尾張と美濃二ヶ国の平定に費やしているから後半生の拡大速度早すぎる。
ある規模まで達するとそこからは雪だるま式なんでしょうなあ毛利元就とかも晩年と言って良い時期からガバッと拡大しましたよね
単純な数値増加だとそうですが、「〇年で〇倍の石高」と比例で見ると実は拡張ペース変わらないんですよね
のぶやぼでも最初の方は楽しいけど、後半は消化試合になるしね
尾張は銭、美濃は米が沢山手に入るイメージ。
尾張、美濃は水害「さえ」なければ米も金も取れる場所って感じですね。東海道、中山道が接近してる地域だし、川による水運も発達していた地域なので。
みのおわり合わせて300万石とかいわれるぶっ壊れな地域なんだっけか
@@thor0610102😊😊😊
ただ米=経済力となるのは太閤検地→秀忠の時代からですね 室町以前は中国から輸入した銅銭を使った貫高制で金銭を使った税制でした大寧寺の変で大内が衰退してから明は日本との交易を断絶したことで質の悪いビタ銭しか為替流通しなくなってしまった(尾張・美濃・近江・伊勢・堺をもってしても「陛下の式典に出した銭の質悪いんですけど?」と信長が朝廷から怒られるくらい貨幣価値の暴落)&西日本では日本+スペイン銀が主体だったことで成り立たなくなった
美濃紙をお忘れなきよう。(≧∇≦)b
戦国時代の盛り上がるエピソード大体創作説
9割勝てるで、1割壊滅はポケモンで技選択の時に欲望に目が眩んでやってしまいがち、信長は本当にすごいなあ
見に行った5秒後に終わってしまった7:57この辺の話の流れは、後20年も経つと最新の学説や研究や資料では実は正しかった~が有力ってなってそう、そしてまた10年経つと...
犬山城に行ったことある人なら共感してくれると思うんだけど、天守閣から見る岐阜側の山々の威圧感ってすごいんよね。背後が平野だからなおさら尾張から美濃へ向かう足軽たちの気持ちやいかに
美濃一国を手に入れるのに6年かかったけど、冷静に考えたら小1が中1になる間に国を1個、それも地元民から受け入れられた上で手に入れるって考えるとこの時点で充分おかしい。
島津の三州統一(貴久の薩摩統一に13年、そっから幕府・一門に国主として認められるのに13年→更に20年かかって義久の代でやっと大隅統一、そこから日向取るのに3年)、信玄の信濃進出(11年で北信以外全部)も凄い時間かかったからなぁ拡大速度のスケール匹敵するのは元就(1年で周防長門2国一気に併呑)、家康(清州同盟から5年で三河統一・信長の手伝い並行しつつ25歳辺りで遠江併呑)、謙信(相続3年で越後統一→関東殴り込み)、伊達政宗(家督継承4年で米沢→福島中通り地方&会津地方・宮城)、尼子晴久(家督相続1年で備中・備前・美作・西播磨全部)辺りか
三好長慶の場合、手足となって現場を仕切ってくれる弟達が立て続けに死去したのがデカいなあ、最前線司令塔の十河一存、本拠地阿波を固める三好実休が連続して死亡したら、そりゃうつ病にもなる。
あと嫡男も
@@またのー-s7m あっ義興もか!
父親がわずか32歳で倒されてしまったのもデカそう宗家以外の一族がデカい顔して権力もっててイラんことばっかしてる
ノブさんのこの巧妙な戦略や戦術眼って今を生きる俺等も少しで良いので真似したいですね‥
意外と流血少なく美濃を取ったんだなぁ…これも戦争の巧さか
動画の度に謙信(景虎・政虎)の持つ酒瓶の種類が毎回変わってるのが芸が細かい(笑)
大垣を中心に戦ってたのは大垣市の曽根城主稲葉一鉄への牽制・調略の側面もあったんかな?安藤守就も北方城(本巣郡北方町)と近くだったし有能無能で語るのはマジでやめるべき 龍興に至っては14歳で相続&道三の負の遺産も関係してるし(国衆に滅茶苦茶嫌われ+周囲の外交関係最悪→義龍の離反を招いて義龍は浅井と同盟組みつつ国衆との関係改善の最中に…) 足利の血という格は幕府滅亡まで滅茶苦茶格高かった 九州探題・奥州探題どっちも伊達と大友共に渋川・大崎ら一門衆を建前であっても看板に立ててたり、今川でも雪斎らが吉良氏に対して「御館様」と殿たる義元差し置いて言うレベル 義元はその吉良氏を駿河に拉致するというやべぇことやってるけど…
同意。斎藤龍興は最後まで信長に抗い続けて刀禰坂に消えた。
その高貴な足利一門次期将軍候補が和平を仲介した相手に不意討ちして大損害喰らわせた龍興くんダメじゃん…
1549織田家へ濃姫輿入れ 1552信秀死去 1556道三死去 1559信長上洛義輝へ謁見 同年斎藤高政も義輝に謁見一色義龍へ改姓改名 1560桶狭間 近江で六角と浅井の合戦(北白川合戦)近江六角義治が美濃一色(斎藤)と同盟 六角氏は桶狭間に千人規模1500から2300の援軍を織田信長に送ってたという話があるのですが援軍の有無は微妙ですが現在では1560まで六角織田朝倉は友好関係(準同盟?)を結んでたというのはほぼ事実ということになってます。
確か信秀が美濃の道三を攻めた時同盟を結んでいたのでは。
面白い動画をありがとうございます。いつも楽しみに拝聴しております。美濃攻略を結果から逆算して見ていくと、信長の対斎藤への対応が全てブラフにしか見えなくなるのが不思議です。大きな戦いの際に損害が出ればすぐに撤退するとか、勝っていても無駄追いをしないとか。この辺りは尾張勢が弱兵であると見せかけているように見えます。足利仲裁による和睦もそうで、斎藤家が裏切ることを前提に和睦を結んでいるように見えます。そして斎藤家はまんまと裏切り。信長には斎藤家を滅ぼすという大義名分が転がり込んでくるという寸法です。実際に裏切られた際の戦いでそれほどの損害を出していないわけですから、信長はある程度斎藤家の動きを把握していたのではないでしょうか。こういったところを見ると信長が武勇だけの人物ではないのだと改めて思い知ることが出来ますね。
美濃攻略戦楽しみ❗
逆に美濃攻略に何十年も手間取っていたら足利義昭も足利将軍家の殿堂入りすら出来なかったかもしれないですね
大垣は美濃の要地でしょうね。父の信秀も美濃を攻めた時、大垣をせめましたからね。だから美濃攻略を諦めたのではないと思いますが。
墨俣一夜城が想像よりもはるかに西よりだったのは衝撃だわ後世の作り話がどれほど罪深い行為かがよく分かるね
斎藤達興は戦国大名滅亡後から本気出す武将
「今宵はここまでに致しとうございます」って大河ドラマの「武田信玄」やw
斎藤龍興は追放されてからは、対織田勢力に客将として参加して最後の最後まで戦い続けるのだがその気概をなぜ大名時に見せられなかったのか?と思うのと、一度落ちぶれたからこそ目が覚めたのか?と思う所がある
でも、朝倉義景と共闘したのは悪手?
@@二見裕司-r6t 義景は反信長の主力になっちゃったから悪手とかそういう次元ではなくない?そも義景無能論には色々言いたいことあるけれども
14歳で家督継承した幼少の当主が桶狭間の戦いに勝利して背後を固めた信長と戦って勝てる方が逆に凄いですけどね
夏休み最終日どころか二学期はじまらないとやる気出ないタイプ
信長さんの凄いところは、時間が経つごとに新しい戦略を手に入れる、じゃなく、おそらく色々な戦略を最初から持っていて、そのタイミングごとに選んでいるってところなのよね。え、本能寺の変? あれは信長さんが戦況を選択できる状況にしていなかったのが敗因。
教科書とか漫画とか本とか色んな情報である程度知ってる信長だからこそちゃんとした記を元に解説して貰えるの嬉しいです30分超え?前みたいに50分超えでも良いのよ
成功体験に胡坐をかかずしっかり体制を整える大切さを理解して方針転換出来る。現代ですら適切にその判断を下せる人間がどれだけいるのか…。
文字にすると簡単だけど、一般人には強力な圧力かかからない限り無理。歴史上の英傑でも、自力で出来る人は少数派じゃない?
ありがとうございます!勉強になりました
木曽川とかの流れは今と同じだったのだろうか?木曽川のwikiによると当時は墨俣で長良川と合流していたとあります。地図を見ると大垣と稲葉山の分断のための拠点かなあとか思ったりします。
大垣攻略と、本拠地移転していくのは、父、信秀の影響も大きいと思います。信秀も上洛していますが、その時に大垣攻略してますし、本拠地を移転していく大名は珍しいですしね
播磨にある母ちゃんの実家に帰ったらお寺の看板に嘉吉の乱のことが書いてあってそこで嘉吉の乱を初めて知りました。
元は同等かそれ以上の、しかも国主クラスの大名家を単独で征服するのは普通なら一生かけるか、もしくは複数世代かかるような仕事それを10年と掛からず、ある程度若いうちに成し遂げたのが異色であったと思いますこうして周辺から頭一つぬけた存在になってしまえば、あとは戦力優位で・・・とそんな単純ではないけれど
上杉さん今度はテキーラ武器にしてるの草今度はどんな酒が出てくるんですかねぇ…
3:34 今川義元までの今川家の歴史と幕府政所執事の系譜の伊勢家の関わりやらを追っていくとちょこっと後北条氏の流れがわかるのでネタ的にいいかもですねぇ・・・5:06 松平元康からしてみれば今川氏真はグダグダだけど、このとき京都から関白が越後に入り上杉憲政が長尾景虎を頼り小田原城を囲うという後北条家の最大級のピンチの援軍を今川家は編成していたため結果的に三河は後回しとなった模様(自分の会社の得意先の(個人的に大変恩義のある)社長さんの大ピンチを助けるか?自分のそこそこできる部下のピンチを助けるか?の二者択一なら・・・UP主さんならどうしますかね??)9:35 第四次川中島の戦いは武田家が小田原城に援軍を出すのと同時に北信濃へ進軍したものであり、武田家が進軍した時点で長尾景虎が小田原城の包囲を解いて鶴岡八幡宮で対武田家戦の戦勝祈願した際諸々あって上杉政虎になったとかなんとか。要約すると武田家の【囲魏救趙の計】は大成功したが、両軍散々な目にあった模様と12:54 一応嘉吉の乱から明応の政変まで細川京兆家(足利義満の頃に勃興した勢力)が主君を挿げ替えることはやってのけた模様。三好家は(当時内輪もめしていた)細川京兆家の配下で勢力を伸ばし(以下略)15:37 嘉吉の乱発端の最大の原因は足利義量が体が弱いのに若年でアル中になったからではあるので考えさせられるなど。後は細川政元に実子がいれば・・・ はタラレバですね・・・ 24:35 斎藤龍興は最近の研究で道三公の実子ではなく幕府の四職の内の一式家の実子ではないか?と噂があってそれを喧伝していたとか。そうなると【室町時代の家格秩序的】に 美濃守護一色家>尾張守護代織田弾正忠家 の図式になるので織田信清の行動にも納得がいくという一考察を投げるなど・・・
食糧と資金源の拠点が尾張・美濃で確保されてからの快進撃信長の地理的な優位性がよくわかるお話(中央からそれなりに距離があり、なおかつ豊かな地域を治めることが出来た為)
氏真もしゃーないと言えばしゃーない同盟相手で奥方の実家の北条に援軍送りたいって思惑もあったらしいし
畿内は、既得権益がすごすぎてお上りさんが対処できる状況じゃ無いんですよね。普通は。信長による既得権益との戦いの歴史なんだよね。この時代は。
うぽつです!勝率の計算は大事、ガチャ回しにも書いてある
室町将軍は近畿の商業資本と結託していたようでいて、既に商業資本に超されて天下の社会構造から取り残されていた…のかも知れないなと思いました信長だけの強みとは、当時のグローバル商業資本と協力しただけではなく彼らそのものに近いくらい、その内実を理解していたことなかも知れない、この時期はそれを具体化させていく、一番熱い時間だったのかもですね。最終的には、急速なグローバリズムではなく圧倒的な中央と地域封建国家の連合体と言う徳川政権で太平を迎えたという辺り、今の日本、もしくは世界が学ぶところがあるのではと思います。あちらでショーグンが流行ってると言うのどれくらい事実なのか、あちらの友人に聞いてるんですがあまりドラマとかに興味がない人で中々わからないみたいです。
尾張も美濃も50万石超えの大国ですから、支配の及ばない地域があったにしても、100万石級。商業も盛んだから、国力自体は当時の武田氏を上回っているかと。
墨俣は位置的に西美濃への連結を防ぐ楔か、上洛の経路確保のための位置に見えますよねえ、直接の戦というよりは調略を安全にするためっぽい感じまあその時代そこくらいしか水害受けない砦作れなかった、って可能性もあるっぽいし、川の流れの変化で地名も変わるからよく分からない部分もありそう秀吉の築城話はこの後突然西美濃の纏め役の一人にのし上がってきたのを、何か理由つけないとって感じで作られた臭いんですよねついでに三人衆の調略とかも秀吉の手柄ってすれば、不自然さ無くのし上がらせれる、って事なんだろうなと実際は秀吉って中村の有力豪農の息子なので、普通に出仕して普通に仕事して普通に功績積んでいった可能性が高いみたいですが
この辺の戦いが地味なのは国力ほぼ同等の相手の美濃斎藤家を吸収するからには内政と調略を万全に行って兵動かしても消耗戦は行わず無理はしない方針だっただろうね。この辺徳川家の対武田勝頼の戦略と似たようなもの。
第四次川中島の戦いは不期遭遇戦でしょうねぇ。しかし地図見ると分かりやすいですが、武田信玄は攻め取れるところを攻めていただけで、戦略が無いようにも思えますね。家臣団の力が強くて中央集権的でも無かった話もあり、また今川を攻め取ることも北条との関係上難しかったのやもですが、川中島辺りで国境確定させてさっさと謙信と同盟、上杉は北条、武田は今川から東海道、てしてたら良かったのに。田舎ではそこそこ、ただの地方のちょっと強い戦国大名、てだけですな。
35:19 曲がりなりにも足利家の人間のおかげで成った和睦を速攻で破るとか、義昭の顔に泥塗るどころか顔面パイ投げスパーキングしてるんだよなぁ…
やっぱり日本の歴史で1番好きなのは信長が天下取りの道を駆け上がっていくこの時期☺️
1566年の上洛計画が上手く行ってたら畿内事情が史実とはえらい違いになったやろね…1562年の教興寺の戦いの勝利によってもたらされた三好長慶の畿内覇権が長慶の死と共に崩壊していったのは中世史にどれほどの影響を与えたか…信長が過去の勢力に比べて云々は前時代の積み重ねや時代の流れもあるので一概に有能無能語ると大怪我する気はします
地元民ですが、昔から墨俣城が稲葉山攻めへの前線基地のために作られたという話を聞いて「本当かそれ…?」と思ってました。尾張から稲葉山に向かうには木曽川を越えるためだとしてもいくらなんでも遠回りすぎますし…
この頃は境川が木曽川の本流で墨俣付近で長良川に合流していました。当時は羽島郡、各務原市川島町、岐阜市柳津町、羽島市は尾張国でした。そもそも羽島とは羽栗(葉栗)郡、中島郡からの合成地名です。海津市も旧平田町東部、旧海津町は尾張国海西郡でした。海津も尾張国海西郡、美濃国石津郡からの合成地名です。
突然のプロシュートアニキ
運に左右される戦いって絶対に何回もは通用せえへん。これはマジでそう‥ノブさん見習いたい
派手さはないけど、戦わずして勝つのが理想ですよね。
墨俣城に関しては大垣城と稲葉山城の連絡を断ちたかったんじゃないかと予想
稲葉山の前線基地にするならこの辺ってところにもう一個一夜城伝説がある城(伏屋城)があるので、案外本当に秀吉が作ったのはそっちだったかもね。
当時(1968年ころ)の織田家の推定石高(後も同様)の尾張+美濃が120万石くらい3位?毛利150-70万石、北条140-50万石、大友110万石、誰が当主かわからない将軍+三好も110万石で上杉(90万石代)、武田信玄(70万石代)とこの辺が一番「戦国時代っぽい」のかもしれん
信長の鎮静>音なき流れは水深し、ってやつかな。
稲葉山抑えただけで美濃を取れたのは、64年の稲葉山城乗っ取りで斎藤家中が荒れる東濃の遠山氏は織田武田に両属で元々織田側奥美濃の遠藤氏は62年に13歳で家督を継いだ若輩で、稲葉山陥落後に起きた反乱を鎮圧して織田に降る中濃は65年に加治田の佐藤氏の寝返りを機に攻略されるこれで美濃への橋頭保を確保でき、奥美濃への抑えにもなる残る本拠の西濃も66年に西美濃三人衆が内応したので稲葉山城が孤立確定の為、即座に攻められて斎藤氏滅亡といた流れがあったからですね。中濃攻略が大きいですあと、北伊勢の一部を65年に制圧してる説もあるので西濃を南から圧迫しつつ上洛ルート確保してたのかなーと思ったり(伊勢の本格攻略は67年以降)
祖先が加納城にいたらしいので色々調べたのですが対織田の最前線なのにあまり記述が無いんですよね。。。
12:18 田舎モンが首都とったあと袋叩き信長も(全部勝てただけで)同じ目に会ってるという話、なるほど
昔読んだ光栄のパラダイムシリーズで尾張で約50万石、美濃で約50万石、伊勢志摩で約50万石、短期間で信長の支配圏になったと見た記憶がある。今川義元の駿遠三、信玄の甲斐信濃でもこれに遠く及ばない。信長の立地が恵まれてるなあと当時思った。
信長の立地は恵まれてたと思う。恵まれた立地に胡座をかかなかったことが凄いと思う。
信長さん!マジカッケェっす!
近畿征服を決めての義龍の病死、西上作戦中の信玄および謙信の病死。どれも強敵がタイミングよく病死してる。本当に偶然だったのだろうか?
8:15 甲陽軍鑑は山本勘助の実在が認められ、脚色あるにせよ最近は使える部分も多いとされてるかと。また、啄木鳥の戦法はともかくとして、偶然の遭遇戦というのは違うように思います。北条と武田の挟撃・ライヘンバッハプランに業を煮やした上杉政虎(謙信)が、自分を囮に危険な踏み込みをして隙を見せ、武田軍を決戦に誘導した結果として生起した激戦だったのでは。上杉謙信は、村上義清から学んで兵種毎に編成した旗本突撃隊を持っていて、本陣斬り込みに自信があったという説もあるようですし。
山本勘助の実在が認められたのは40年ほど前ですねそしてここ10年ぐらいの間に甲陽軍鑑も実在、高坂弾正の直筆(高坂昌信は字が読めなかったことで口伝)という事が解ってきているようです
筆記を務めた部下が後の上杉家に仕え、そこから江戸時代の人気の読み物へとなっていく過程も徐々に解明されているそうです
美濃攻略戦 流石の浸透襲撃さん安定の面白さ。墨俣一夜城の伝説以外だと小説漫画ドラマなど面白い話が少ない美濃攻略ですが楽しめました。初期の大垣城攻略と後期の稲葉山攻めの違いなど分かり易くてよかった。美濃攻略のキーマンの犬山城は天守閣が当時から残ってるらしい国宝です。犬山城主の織田信清は浮野の戦いなど強力な信長派だったのに桶狭間の後に謎の離反。桶狭間永禄3年 一色義龍(斎藤義龍)死去永禄4年 織田信清犬山城城主謀反永禄5年 信長小牧山築城永禄6年 信清に何がおこった!
この頃はまだ調略に長けた配下も少なかったでしょうしね
新作来てる!待ってた!
今川氏真さんの不幸は一人っ子だった事ですね。他に兄弟がイッパイ居れば西にも東にも十分手が回って何とか成ったと思いますよ。
反対に、仲の悪い弟がいると花倉の乱みたいな事態が発生してカオスになります。
一応一月長得っていう義元の息子が居たけど足利氏の庶子と同じく元服前に出家してるんよな。ただこれに関しては下手に武士にしない方がすぐ上の人が言ってるような結果になりにくいというメリットもあるから一概に不幸とは言えんのだ
流れてる空の軌跡のBGMに耳を取られて内容が入ってこないw後で見直します
三好政権も織田政権も期間は余り変わらないし、当主が亡くなってあっという間に爆散したという結末も一緒だし、「京を支配した中でも信長は、長慶その他十把と格が違う」の説明がしっくりきませんでしたもちろん戦争で得た領土の広さの格は違ったと思いますが😊
霧の中で鉢合わせしたのは本当に敵だったんですかねぇ・・・?
畿内の戦国は細川魔法使いさんの将軍すげ替えクーデターより本格化するからいよいよそのお孫さんがフスマ攻めであの世に逝ってしまうのは運命なのでしょうか犬山はイメージとしては真北か若干北北東だと思います
そもそも戦国大名の上洛目的って何だろ?守護職とか官職なのかな。
♪三好長慶 どうすんのこれ
きたぁぁぁあ
終始龍興のアヘ顔に目が行く動画でしたね信長もお上りさんていう件は畿内が100年ぐらい小物同士でくっついたり離れたりの小競り合いを続けていたことを考えると当たり前の認識ですよね今後畿内周辺の武士が信長じゃなくて追放された将軍につくのもそういう当時の風潮みたいなのからしたら当然だったのかなと動画を見てて思いました
墨俣城の位置は微妙(^3^)╱天正14年の氾濫以前の木曽川の位置を考えるともっと稲葉山城に近く大垣とも近い木曽川長良川合流地点であったと思いますよ😊 現在の墨俣城資料館は実際の位置とは無関係に建てられてますしね🏯
いつもめっちゃいい動画ありがとうございます!すごく、勝手なお願いがありますw盛り上げがるBGMもいいんすけど、、、いつも仕事終わりに、酒を飲みながらゆっくり過ごす時に見てて大人しい曲だと、素晴らしい内容も、ストレートに入ってきやすいのでBGMのご再考をお願いしたく存じますm(__)m
竜興がアホガキは言い過ぎな気がします。親が地固めする間もなく病死して14歳で当主になったにしては、よく頑張った方だと思います。
ノブさんが信玄さんになっちぁってる?
まあ喧嘩じゃないから大義名分がいるし奇襲は宣戦布告後だろうから大名は戦争と言うより政治的だな。武力は目立つけどコミュ力命の金権政治。土地の有利な愛知は強い。しかし城が硬くなかなか落ちず徹底抗戦されるときついからやっぱり政治であり金なんだろうな。信長だけじゃないけど皆んな資金源を作るまで相当時間かかるけど、一歩出るとそこから政治が味方するようになる。 しかしそこからが本当の問題。世の中は頭と中堅と下っ端の三つ巴。中堅の力は必要だけど力を与えすぎれば謀反だし与えないと反乱。中堅は下っ端からむしろ取りすぎると頭へ反乱を起こされるし、ここが世界史で見ても本当に難儀する。詰まりカエサルが大土地所有の解体をしようとして元老院に暗殺されたのと、信長が光秀に謀反を起こされた事は同じだし歴史的に枚挙に暇がない。 信長は民を大事にした真っ当な大名だったから魔王のように言われるのも歴史にはよくある。首相や皇帝が貴族や上級国民に嫌われると歴史に悪く記載されるけどそれを恐れず邁進して行ったから今も人気なんだな。
まぁ上洛時と元亀の時に略奪やら下京焼くやらはしてるようなんで評判には気をつけてたっぽいけどね
織田と特に戦うことも無く同盟組んでることを考えると今川義元の弔い合戦要請もそれをしないと三河内の今川派に示しつかんので抑えれんぞ↓無理↓今川派抑えるためにはいっそ織田と組むしかねえだったのかな
墨俣の位置が稲葉山城攻めじゃないってのはちょっとどうかなあ水運的には長良川で直通できる位置だし、大垣城との連絡を分断しつつにらみを利かせられそうな位置でもあり、稲葉山城攻めだったとしてもだいぶ重要な位置に見える
もう尾張(に臣従)だね。この国(美濃)
次は畿内に来ないか(誘い)?
こんにちは
毛利「ふ~ん😂」
謙信はまさに戦争ヤクザと言う名に違わぬって感じ。この時代の戦国武将みんなそうだろうけどさ。
前回の桶狭間では途中まで義元の行動をきちんとトレースしてましたがやはり通説は強かった。しかし義元の尾張侵攻は信長の付け城に対しての後まきで桶狭間の戦いの起こった時刻には義元は尾張討ち入りの目的を達成していた。尾張南部の城を五か所の砦で封鎖できる兵力を信長は持っていたし、さらに追加で動員可能だった。義元が砦を攻撃後に清須城を攻撃するとか尾張攻めとるため信長に攻めかかるとかは信長が少数の兵力しか持っていないという間違った認識があるため。美濃攻めでも信長は父の信秀のように万を超える兵を動員せず数千の兵で留めてる。信長は権威でも直接の支配地でも父を超えているので動員兵力も超えているのが当然。
斎藤さんちの、阿保?の龍興君、稲葉山城を叩き出されてからは、しぶとくは生きてた様だけど、その後は、不明なんだ、
次回の天下布武、最近出てる飛んでも説の天下=畿内 布武=幕府再興 バッサリ切るか流行りにのるかドキドキしてまってます。天下は天下。天下三分や天上天下唯我独尊のように日本人ならどの時代だろうが天下という言葉が差すのは特定の地域に限定されない天下だと理解してる。
個人的には信長の行動は幕府再興に向いている気はしますけれどね
一夜城は大垣と岐阜城の中間点くらいにあって連携を断ち切る感じで配置されてるんよな大垣狙うだけなら深入りし過ぎでは?というほど奥なので違和感を感じる人もいるかもしれないただ大垣は岐阜でも岐阜市に経済的にな匹敵もしくは重要度で言えば格上でありますので現在においても岐阜市内より大垣市内のほうが発展してると感じる人は多いであろう桃鉄でも岐阜市を差し置いて大垣が採用されてたりする一夜城の位置に城を作られた時点で大垣と岐阜は分担されており経済的には半分を実質的に失ったとみなされるので見放されても仕方ないと思われる
怪獣大戦争ワロタw
いきなり稲葉山を襲うとは思えない。なので、東西に長い美濃国なら、西か東から切り取る。軍事的には川沿いの大垣か、今の地名で多治見土岐恵那方面とはなるのまでは、普通のこととも思えるが。信長にかかると、何考えててもおかしくないからなー。全部取るには時間かかりすぎる案で西に行くか。常人(信長以外)には無理かな。斎藤にいつ襲われるやら。って、また、信長か
ひどい絵面w
ドンバス状態?w
我々一般人は金のかかってない麻雀やポーカーですら感情的になって成績を落とすというのに…実はノッブってガチガチの理系だった…?
90%継続でも最初にハズレの10%引いて単発で終わることもよくあるからって粗品も言ってるしね
美濃と尾張の2ヶ国を制覇しただけで、信長が天下布武を唱えたのは凄いって言う人がいるけど、実は今とかなり違って美濃と尾張って日本でも有数の穀倉地帯だったんだよね。逆に今の米どころの東北や北海道なんて当時は全然だった
今ではほとんどが水稲だけど、当時はまだまだ陸稲や稲以外の雑穀も多かった中、美濃と尾張の濃尾平野は木曽三川のおかげで、広く耕作に適した地形が多く、水も引っ張ってこれたから、陸稲よりも手がかからず収穫も多くて、他の領地よりも石高が多かった。
更には、今と違い商業ってのは神社と密接に関わっていて、神社の周りに市を出すのが通例だったけど、尾張には日本でも有数の神社である熱田神宮があったから、実際の面積以上に商業と農業が発達してた。
美濃攻略以降、加速度的に織田氏が発展していくのは、必然だったとも言える
源頼朝に「美濃尾張をくれてやる」と言われた長田忠致が必死に働いた(実際には身の終わりを貰った)なんて逸話もあるくらいだし、大昔から誰もが欲しがる豊かな二国として認識されてたであろうことは容易に想像つきますね
昔は神仏習合だったから。
坊主も神社に来るんだよな。
そして坊主大体良い家の坊ちゃんだからそいつら相手の商売は儲かる。
UP主さんの一連の動画を見てると、信長は決してトントン拍子で勝ち抜いていったわけではないんだなってしみじみと思う。
この後も強敵ばかりですものね
素晴らしい解説をいつもありがとうございます✨
川中島の戦いに関してはあきサル氏の考察動画が面白いと思う。
偶発戦ではなく、謙信が信玄を抹殺する為の絵図をちゃんと描いてたという説。
「成功体験を捨てる」って話から、ロバート・フリップ(キング・クリムゾンの核)の「テクニックを捨て去るだけのインテリジェンス」って言葉を思い出した。
最近、大内義興が見直されてるっぽいから、西国戦国史も面白いよなあ。
わかる
大内帝国の隆盛と突然の崩壊が西国中世史のメインストリートですもんねぇ
跡を継いでから本能寺されるまでの30年間の半分以上、尾張と美濃二ヶ国の平定に費やしているから
後半生の拡大速度早すぎる。
ある規模まで達するとそこからは雪だるま式なんでしょうなあ
毛利元就とかも晩年と言って良い時期からガバッと拡大しましたよね
単純な数値増加だとそうですが、「〇年で〇倍の石高」と比例で見ると実は拡張ペース変わらないんですよね
のぶやぼでも最初の方は楽しいけど、後半は消化試合になるしね
尾張は銭、美濃は米が沢山手に入るイメージ。
尾張、美濃は水害「さえ」なければ米も金も取れる場所って感じですね。
東海道、中山道が接近してる地域だし、川による水運も発達していた地域なので。
みのおわり合わせて300万石とかいわれるぶっ壊れな地域なんだっけか
@@thor0610102😊😊😊
ただ米=経済力となるのは太閤検地→秀忠の時代からですね 室町以前は中国から輸入した銅銭を使った貫高制で金銭を使った税制でした
大寧寺の変で大内が衰退してから明は日本との交易を断絶したことで質の悪いビタ銭しか為替流通しなくなってしまった(尾張・美濃・近江・伊勢・堺をもってしても「陛下の式典に出した銭の質悪いんですけど?」と信長が朝廷から怒られるくらい貨幣価値の暴落)&西日本では日本+スペイン銀が主体だったことで成り立たなくなった
美濃紙をお忘れなきよう。
(≧∇≦)b
戦国時代の盛り上がるエピソード
大体創作説
9割勝てるで、1割壊滅はポケモンで技選択の時に欲望に目が眩んでやってしまいがち、信長は本当にすごいなあ
見に行った5秒後に終わってしまった
7:57この辺の話の流れは、後20年も経つと最新の学説や研究や資料では実は正しかった~が有力ってなってそう、そしてまた10年経つと...
犬山城に行ったことある人なら共感してくれると思うんだけど、
天守閣から見る岐阜側の山々の威圧感ってすごいんよね。
背後が平野だからなおさら
尾張から美濃へ向かう足軽たちの気持ちやいかに
美濃一国を手に入れるのに6年かかったけど、冷静に考えたら小1が中1になる間に国を1個、それも地元民から受け入れられた上で手に入れるって考えるとこの時点で充分おかしい。
島津の三州統一(貴久の薩摩統一に13年、そっから幕府・一門に国主として認められるのに13年→更に20年かかって義久の代でやっと大隅統一、そこから日向取るのに3年)、信玄の信濃進出(11年で北信以外全部)も凄い時間かかったからなぁ
拡大速度のスケール匹敵するのは元就(1年で周防長門2国一気に併呑)、家康(清州同盟から5年で三河統一・信長の手伝い並行しつつ25歳辺りで遠江併呑)、謙信(相続3年で越後統一→関東殴り込み)、伊達政宗(家督継承4年で米沢→福島中通り地方&会津地方・宮城)、尼子晴久(家督相続1年で備中・備前・美作・西播磨全部)辺りか
三好長慶の場合、手足となって現場を仕切ってくれる弟達が立て続けに死去したのがデカいなあ、最前線司令塔の十河一存、本拠地阿波を固める三好実休が連続して死亡したら、そりゃうつ病にもなる。
あと嫡男も
@@またのー-s7m
あっ義興もか!
父親がわずか32歳で倒されてしまったのもデカそう
宗家以外の一族がデカい顔して権力もっててイラんことばっかしてる
ノブさんのこの巧妙な戦略や戦術眼って今を生きる俺等も少しで良いので真似したいですね‥
意外と流血少なく美濃を取ったんだなぁ…
これも戦争の巧さか
動画の度に謙信(景虎・政虎)の持つ酒瓶の種類が毎回変わってるのが芸が細かい(笑)
大垣を中心に戦ってたのは大垣市の曽根城主稲葉一鉄への牽制・調略の側面もあったんかな?安藤守就も北方城(本巣郡北方町)と近くだったし
有能無能で語るのはマジでやめるべき 龍興に至っては14歳で相続&道三の負の遺産も関係してるし(国衆に滅茶苦茶嫌われ+周囲の外交関係最悪→義龍の離反を招いて義龍は浅井と同盟組みつつ国衆との関係改善の最中に…) 足利の血という格は幕府滅亡まで滅茶苦茶格高かった 九州探題・奥州探題どっちも伊達と大友共に渋川・大崎ら一門衆を建前であっても看板に立ててたり、今川でも雪斎らが吉良氏に対して「御館様」と殿たる義元差し置いて言うレベル 義元はその吉良氏を駿河に拉致するというやべぇことやってるけど…
同意。斎藤龍興は最後まで信長に抗い続けて刀禰坂に消えた。
その高貴な足利一門次期将軍候補が和平を仲介した相手に不意討ちして大損害喰らわせた龍興くんダメじゃん…
1549織田家へ濃姫輿入れ 1552信秀死去 1556道三死去 1559信長上洛義輝へ謁見 同年斎藤高政も義輝に謁見一色義龍へ改姓改名 1560桶狭間 近江で六角と浅井の合戦(北白川合戦)近江六角義治が美濃一色(斎藤)と同盟
六角氏は桶狭間に千人規模1500から2300の援軍を織田信長に送ってたという話があるのですが援軍の有無は微妙ですが現在では1560まで六角織田朝倉は友好関係(準同盟?)を結んでたというのはほぼ事実ということになってます。
確か信秀が美濃の道三を攻めた時同盟を結んでいたのでは。
面白い動画をありがとうございます。いつも楽しみに拝聴しております。
美濃攻略を結果から逆算して見ていくと、信長の対斎藤への対応が全てブラフにしか見えなくなるのが不思議です。
大きな戦いの際に損害が出ればすぐに撤退するとか、勝っていても無駄追いをしないとか。この辺りは尾張勢が弱兵であると見せかけているように見えます。
足利仲裁による和睦もそうで、斎藤家が裏切ることを前提に和睦を結んでいるように見えます。そして斎藤家はまんまと裏切り。信長には斎藤家を滅ぼすという大義名分が転がり込んでくるという寸法です。実際に裏切られた際の戦いでそれほどの損害を出していないわけですから、信長はある程度斎藤家の動きを把握していたのではないでしょうか。
こういったところを見ると信長が武勇だけの人物ではないのだと改めて思い知ることが出来ますね。
美濃攻略戦楽しみ❗
逆に美濃攻略に何十年も手間取っていたら足利義昭も足利将軍家の殿堂入りすら出来なかったかもしれないですね
大垣は美濃の要地でしょうね。父の信秀も美濃を攻めた時、大垣をせめましたからね。だから美濃攻略を諦めたのではないと思いますが。
墨俣一夜城が想像よりもはるかに西よりだったのは衝撃だわ
後世の作り話がどれほど罪深い行為かがよく分かるね
斎藤達興は戦国大名滅亡後から本気出す武将
「今宵はここまでに致しとうございます」って大河ドラマの「武田信玄」やw
斎藤龍興は追放されてからは、対織田勢力に客将として参加して最後の最後まで戦い続けるのだが
その気概をなぜ大名時に見せられなかったのか?と思うのと、一度落ちぶれたからこそ目が覚めたのか?と思う所がある
でも、朝倉義景と共闘したのは悪手?
@@二見裕司-r6t 義景は反信長の主力になっちゃったから悪手とかそういう次元ではなくない?
そも義景無能論には色々言いたいことあるけれども
14歳で家督継承した幼少の当主が桶狭間の戦いに勝利して背後を固めた信長と戦って勝てる方が逆に凄いですけどね
夏休み最終日どころか二学期はじまらないとやる気出ないタイプ
信長さんの凄いところは、時間が経つごとに新しい戦略を手に入れる、じゃなく、おそらく色々な戦略を最初から持っていて、そのタイミングごとに選んでいるってところなのよね。
え、本能寺の変? あれは信長さんが戦況を選択できる状況にしていなかったのが敗因。
教科書とか漫画とか本とか色んな情報である程度知ってる信長だからこそちゃんとした記を元に解説して貰えるの嬉しいです
30分超え?前みたいに50分超えでも良いのよ
成功体験に胡坐をかかずしっかり体制を整える大切さを理解して方針転換出来る。
現代ですら適切にその判断を下せる人間がどれだけいるのか…。
文字にすると簡単だけど、一般人には強力な圧力かかからない限り無理。
歴史上の英傑でも、自力で出来る人は少数派じゃない?
ありがとうございます!勉強になりました
木曽川とかの流れは今と同じだったのだろうか?木曽川のwikiによると当時は墨俣で長良川と合流していたとあります。
地図を見ると大垣と稲葉山の分断のための拠点かなあとか思ったりします。
大垣攻略と、本拠地移転していくのは、父、信秀の影響も大きいと思います。信秀も上洛していますが、その時に大垣攻略してますし、本拠地を移転していく大名は珍しいですしね
播磨にある母ちゃんの実家に帰ったらお寺の看板に嘉吉の乱のことが書いてあってそこで嘉吉の乱を初めて知りました。
元は同等かそれ以上の、しかも国主クラスの大名家を単独で征服するのは普通なら一生かけるか、もしくは複数世代かかるような仕事
それを10年と掛からず、ある程度若いうちに成し遂げたのが異色であったと思います
こうして周辺から頭一つぬけた存在になってしまえば、あとは戦力優位で・・・とそんな単純ではないけれど
上杉さん今度はテキーラ武器にしてるの草
今度はどんな酒が出てくるんですかねぇ…
3:34 今川義元までの今川家の歴史と幕府政所執事の系譜の伊勢家の関わりやらを追っていくとちょこっと後北条氏の流れがわかるのでネタ的にいいかもですねぇ・・・
5:06 松平元康からしてみれば今川氏真はグダグダだけど、このとき京都から関白が越後に入り上杉憲政が長尾景虎を頼り小田原城を囲うという後北条家の最大級のピンチの援軍を今川家は編成していたため結果的に三河は後回しとなった模様(自分の会社の得意先の(個人的に大変恩義のある)社長さんの大ピンチを助けるか?自分のそこそこできる部下のピンチを助けるか?の二者択一なら・・・UP主さんならどうしますかね??)
9:35 第四次川中島の戦いは武田家が小田原城に援軍を出すのと同時に北信濃へ進軍したものであり、武田家が進軍した時点で長尾景虎が小田原城の包囲を解いて鶴岡八幡宮で対武田家戦の戦勝祈願した際諸々あって上杉政虎になったとかなんとか。要約すると武田家の【囲魏救趙の計】は大成功したが、両軍散々な目にあった模様と
12:54 一応嘉吉の乱から明応の政変まで細川京兆家(足利義満の頃に勃興した勢力)が主君を挿げ替えることはやってのけた模様。三好家は(当時内輪もめしていた)細川京兆家の配下で勢力を伸ばし(以下略)
15:37 嘉吉の乱発端の最大の原因は足利義量が体が弱いのに若年でアル中になったからではあるので考えさせられるなど。後は細川政元に実子がいれば・・・ はタラレバですね・・・
24:35 斎藤龍興は最近の研究で道三公の実子ではなく幕府の四職の内の一式家の実子ではないか?と噂があってそれを喧伝していたとか。そうなると【室町時代の家格秩序的】に 美濃守護一色家>尾張守護代織田弾正忠家 の図式になるので織田信清の行動にも納得がいくという一考察を投げるなど・・・
食糧と資金源の拠点が尾張・美濃で確保されてからの快進撃
信長の地理的な優位性がよくわかるお話
(中央からそれなりに距離があり、なおかつ豊かな地域を治めることが出来た為)
氏真もしゃーないと言えばしゃーない
同盟相手で奥方の実家の北条に援軍送りたいって思惑もあったらしいし
畿内は、既得権益がすごすぎてお上りさんが対処できる状況じゃ無いんですよね。普通は。
信長による既得権益との戦いの歴史なんだよね。この時代は。
うぽつです!
勝率の計算は大事、ガチャ回しにも書いてある
室町将軍は近畿の商業資本と結託していたようでいて、既に商業資本に超されて天下の社会構造から取り残されていた…のかも知れないなと思いました
信長だけの強みとは、当時のグローバル商業資本と協力しただけではなく彼らそのものに近いくらい、その内実を理解していたことなかも知れない、この時期はそれを具体化させていく、一番熱い時間だったのかもですね。
最終的には、急速なグローバリズムではなく圧倒的な中央と地域封建国家の連合体と言う徳川政権で太平を迎えたという辺り、今の日本、もしくは世界が学ぶところがあるのではと思います。
あちらでショーグンが流行ってると言うのどれくらい事実なのか、あちらの友人に聞いてるんですがあまりドラマとかに興味がない人で中々わからないみたいです。
尾張も美濃も50万石超えの大国ですから、支配の及ばない地域があったにしても、100万石級。商業も盛んだから、国力自体は当時の武田氏を上回っているかと。
墨俣は位置的に西美濃への連結を防ぐ楔か、上洛の経路確保のための位置に見えますよねえ、直接の戦というよりは調略を安全にするためっぽい感じ
まあその時代そこくらいしか水害受けない砦作れなかった、って可能性もあるっぽいし、川の流れの変化で地名も変わるからよく分からない部分もありそう
秀吉の築城話はこの後突然西美濃の纏め役の一人にのし上がってきたのを、何か理由つけないとって感じで作られた臭いんですよね
ついでに三人衆の調略とかも秀吉の手柄ってすれば、不自然さ無くのし上がらせれる、って事なんだろうなと
実際は秀吉って中村の有力豪農の息子なので、普通に出仕して普通に仕事して普通に功績積んでいった可能性が高いみたいですが
この辺の戦いが地味なのは国力ほぼ同等の相手の美濃斎藤家を吸収するからには
内政と調略を万全に行って兵動かしても消耗戦は行わず無理はしない方針だっただろうね。
この辺徳川家の対武田勝頼の戦略と似たようなもの。
第四次川中島の戦いは不期遭遇戦でしょうねぇ。
しかし地図見ると分かりやすいですが、武田信玄は攻め取れるところを攻めていただけで、戦略が無いようにも思えますね。
家臣団の力が強くて中央集権的でも無かった話もあり、また今川を攻め取ることも北条との関係上難しかったのやもですが、川中島辺りで国境確定させてさっさと謙信と同盟、上杉は北条、武田は今川から東海道、てしてたら良かったのに。
田舎ではそこそこ、ただの地方のちょっと強い戦国大名、てだけですな。
35:19 曲がりなりにも足利家の人間のおかげで成った和睦を速攻で破るとか、義昭の顔に泥塗るどころか顔面パイ投げスパーキングしてるんだよなぁ…
やっぱり日本の歴史で1番好きなのは信長が天下取りの道を駆け上がっていくこの時期☺️
1566年の上洛計画が上手く行ってたら畿内事情が史実とはえらい違いになったやろね…
1562年の教興寺の戦いの勝利によってもたらされた三好長慶の畿内覇権が長慶の死と共に崩壊していったのは中世史にどれほどの影響を与えたか…
信長が過去の勢力に比べて云々は前時代の積み重ねや時代の流れもあるので一概に有能無能語ると大怪我する気はします
地元民ですが、昔から墨俣城が稲葉山攻めへの前線基地のために作られたという話を聞いて「本当かそれ…?」と思ってました。尾張から稲葉山に向かうには木曽川を越えるためだとしてもいくらなんでも遠回りすぎますし…
この頃は境川が木曽川の本流で墨俣付近で長良川に合流していました。当時は羽島郡、各務原市川島町、岐阜市柳津町、羽島市は尾張国でした。そもそも羽島とは羽栗(葉栗)郡、中島郡からの合成地名です。海津市も旧平田町東部、旧海津町は尾張国海西郡でした。海津も尾張国海西郡、美濃国石津郡からの合成地名です。
突然のプロシュートアニキ
運に左右される戦いって絶対に何回もは通用せえへん。これはマジでそう‥ノブさん見習いたい
派手さはないけど、戦わずして勝つのが理想ですよね。
墨俣城に関しては大垣城と稲葉山城の連絡を断ちたかったんじゃないかと予想
稲葉山の前線基地にするならこの辺ってところにもう一個一夜城伝説がある城(伏屋城)があるので、案外本当に秀吉が作ったのはそっちだったかもね。
当時(1968年ころ)の織田家の推定石高(後も同様)の尾張+美濃が120万石くらい3位?
毛利150-70万石、北条140-50万石、大友110万石、
誰が当主かわからない将軍+三好も110万石で
上杉(90万石代)、武田信玄(70万石代)とこの辺が一番「戦国時代っぽい」のかもしれん
信長の鎮静>
音なき流れは水深し、ってやつかな。
稲葉山抑えただけで美濃を取れたのは、
64年の稲葉山城乗っ取りで斎藤家中が荒れる
東濃の遠山氏は織田武田に両属で元々織田側
奥美濃の遠藤氏は62年に13歳で家督を継いだ若輩で、稲葉山陥落後に起きた反乱を鎮圧して織田に降る
中濃は65年に加治田の佐藤氏の寝返りを機に攻略される
これで美濃への橋頭保を確保でき、奥美濃への抑えにもなる
残る本拠の西濃も66年に西美濃三人衆が内応したので稲葉山城が孤立確定の為、即座に攻められて斎藤氏滅亡
といた流れがあったからですね。中濃攻略が大きいです
あと、北伊勢の一部を65年に制圧してる説もあるので西濃を南から圧迫しつつ上洛ルート確保してたのかなーと思ったり(伊勢の本格攻略は67年以降)
祖先が加納城にいたらしいので色々調べたのですが対織田の最前線なのにあまり記述が無いんですよね。。。
12:18 田舎モンが首都とったあと袋叩き
信長も(全部勝てただけで)同じ目に会ってるという話、なるほど
昔読んだ光栄のパラダイムシリーズで尾張で約50万石、美濃で約50万石、伊勢志摩で約50万石、短期間で信長の支配圏になったと見た記憶がある。
今川義元の駿遠三、信玄の甲斐信濃でもこれに遠く及ばない。信長の立地が恵まれてるなあと当時思った。
信長の立地は恵まれてたと思う。恵まれた立地に胡座をかかなかったことが凄いと思う。
信長さん!マジカッケェっす!
近畿征服を決めての義龍の病死、西上作戦中の信玄および謙信の病死。どれも強敵がタイミングよく病死してる。本当に偶然だったのだろうか?
8:15 甲陽軍鑑は山本勘助の実在が認められ、脚色あるにせよ最近は使える部分も多いとされてるかと。また、啄木鳥の戦法はともかくとして、偶然の遭遇戦というのは違うように思います。北条と武田の挟撃・ライヘンバッハプランに業を煮やした上杉政虎(謙信)が、自分を囮に危険な踏み込みをして隙を見せ、武田軍を決戦に誘導した結果として生起した激戦だったのでは。上杉謙信は、村上義清から学んで兵種毎に編成した旗本突撃隊を持っていて、本陣斬り込みに自信があったという説もあるようですし。
山本勘助の実在が認められたのは40年ほど前ですね
そしてここ10年ぐらいの間に甲陽軍鑑も実在、高坂弾正の直筆
(高坂昌信は字が読めなかったことで口伝)という事が解ってきているようです
筆記を務めた部下が後の上杉家に仕え、そこから江戸時代の人気の読み物へとなっていく過程も徐々に解明されているそうです
美濃攻略戦 流石の浸透襲撃さん安定の面白さ。墨俣一夜城の伝説以外だと小説漫画ドラマなど面白い話が少ない美濃攻略ですが楽しめました。初期の大垣城攻略と後期の稲葉山攻めの違いなど分かり易くてよかった。美濃攻略のキーマンの犬山城は天守閣が当時から残ってるらしい国宝です。犬山城主の織田信清は浮野の戦いなど強力な信長派だったのに桶狭間の後に謎の離反。
桶狭間永禄3年 一色義龍(斎藤義龍)死去永禄4年 織田信清犬山城城主謀反永禄5年 信長小牧山築城永禄6年 信清に何がおこった!
この頃はまだ調略に長けた配下も少なかったでしょうしね
新作来てる!待ってた!
今川氏真さんの不幸は一人っ子だった事ですね。他に兄弟がイッパイ居れば西にも東にも十分手が回って何とか成ったと思いますよ。
反対に、仲の悪い弟がいると花倉の乱みたいな事態が発生してカオスになります。
一応一月長得っていう義元の息子が居たけど足利氏の庶子と同じく元服前に出家してるんよな。ただこれに関しては下手に武士にしない方がすぐ上の人が言ってるような結果になりにくいというメリットもあるから一概に不幸とは言えんのだ
流れてる空の軌跡のBGMに耳を取られて内容が入ってこないw
後で見直します
三好政権も織田政権も期間は余り変わらないし、
当主が亡くなってあっという間に爆散したという結末も一緒だし、
「京を支配した中でも信長は、長慶その他十把と格が違う」の説明がしっくりきませんでした
もちろん戦争で得た領土の広さの格は違ったと思いますが😊
霧の中で鉢合わせしたのは本当に敵だったんですかねぇ・・・?
畿内の戦国は細川魔法使いさんの将軍すげ替えクーデターより本格化するから
いよいよそのお孫さんがフスマ攻めであの世に逝ってしまうのは運命なのでしょうか
犬山はイメージとしては真北か若干北北東だと思います
そもそも戦国大名の上洛目的って何だろ?守護職とか官職なのかな。
♪三好長慶 どうすんのこれ
きたぁぁぁあ
終始龍興のアヘ顔に目が行く動画でしたね
信長もお上りさんていう件は畿内が100年ぐらい小物同士でくっついたり離れたりの小競り合いを続けていたことを考えると当たり前の認識ですよね
今後畿内周辺の武士が信長じゃなくて追放された将軍につくのもそういう当時の風潮みたいなのからしたら当然だったのかなと動画を見てて思いました
墨俣城の位置は微妙(^3^)╱天正14年の氾濫以前の木曽川の位置を考えるともっと稲葉山城に近く大垣とも近い木曽川長良川合流地点であったと思いますよ😊 現在の墨俣城資料館は実際の位置とは無関係に建てられてますしね🏯
いつもめっちゃいい動画ありがとうございます!
すごく、勝手なお願いがありますw
盛り上げがるBGMもいいんすけど、、、
いつも仕事終わりに、酒を飲みながらゆっくり過ごす時に見てて
大人しい曲だと、素晴らしい内容も、ストレートに入ってきやすいので
BGMのご再考をお願いしたく存じますm(__)m
竜興がアホガキは言い過ぎな気がします。親が地固めする間もなく病死して14歳で当主になったにしては、よく頑張った方だと思います。
ノブさんが信玄さんになっちぁってる?
まあ喧嘩じゃないから大義名分がいるし奇襲は宣戦布告後だろうから大名は戦争と言うより政治的だな。武力は目立つけどコミュ力命の金権政治。土地の有利な愛知は強い。しかし城が硬くなかなか落ちず徹底抗戦されるときついからやっぱり政治であり金なんだろうな。信長だけじゃないけど皆んな資金源を作るまで相当時間かかるけど、一歩出るとそこから政治が味方するようになる。
しかしそこからが本当の問題。世の中は頭と中堅と下っ端の三つ巴。中堅の力は必要だけど力を与えすぎれば謀反だし与えないと反乱。中堅は下っ端からむしろ取りすぎると頭へ反乱を起こされるし、ここが世界史で見ても本当に難儀する。詰まりカエサルが大土地所有の解体をしようとして元老院に暗殺されたのと、信長が光秀に謀反を起こされた事は同じだし歴史的に枚挙に暇がない。
信長は民を大事にした真っ当な大名だったから魔王のように言われるのも歴史にはよくある。首相や皇帝が貴族や上級国民に嫌われると歴史に悪く記載されるけどそれを恐れず邁進して行ったから今も人気なんだな。
まぁ上洛時と元亀の時に略奪やら下京焼くやらはしてるようなんで評判には気をつけてたっぽいけどね
織田と特に戦うことも無く同盟組んでることを考えると
今川義元の弔い合戦要請もそれをしないと三河内の今川派に示しつかんので抑えれんぞ
↓
無理
↓
今川派抑えるためにはいっそ織田と組むしかねえだったのかな
墨俣の位置が稲葉山城攻めじゃないってのはちょっとどうかなあ
水運的には長良川で直通できる位置だし、大垣城との連絡を分断しつつにらみを利かせられそうな位置でもあり、稲葉山城攻めだったとしてもだいぶ重要な位置に見える
もう尾張(に臣従)だね。この国(美濃)
次は畿内に来ないか(誘い)?
こんにちは
毛利「ふ~ん😂」
謙信はまさに戦争ヤクザと言う名に違わぬって感じ。この時代の戦国武将みんなそうだろうけどさ。
前回の桶狭間では途中まで義元の行動をきちんとトレースしてましたがやはり通説は強かった。しかし義元の尾張侵攻は信長の付け城に対しての後まきで桶狭間の戦いの起こった時刻には義元は尾張討ち入りの目的を達成していた。尾張南部の城を五か所の砦で封鎖できる兵力を信長は持っていたし、さらに追加で動員可能だった。義元が砦を攻撃後に清須城を攻撃するとか尾張攻めとるため信長に攻めかかるとかは信長が少数の兵力しか持っていないという間違った認識があるため。
美濃攻めでも信長は父の信秀のように万を超える兵を動員せず数千の兵で留めてる。信長は権威でも直接の支配地でも父を超えているので動員兵力も超えているのが当然。
斎藤さんちの、阿保?の龍興君、稲葉山城を叩き出されてからは、しぶとくは生きてた様だけど、その後は、不明なんだ、
次回の天下布武、最近出てる飛んでも説の天下=畿内 布武=幕府再興 バッサリ切るか流行りにのるかドキドキしてまってます。天下は天下。天下三分や天上天下唯我独尊のように日本人ならどの時代だろうが天下という言葉が差すのは特定の地域に限定されない天下だと理解してる。
個人的には信長の行動は幕府再興に向いている気はしますけれどね
一夜城は大垣と岐阜城の中間点くらいにあって連携を断ち切る感じで配置されてるんよな
大垣狙うだけなら深入りし過ぎでは?というほど奥なので違和感を感じる人もいるかもしれない
ただ大垣は岐阜でも岐阜市に経済的にな匹敵もしくは重要度で言えば格上でありますので
現在においても岐阜市内より大垣市内のほうが発展してると感じる人は多いであろう
桃鉄でも岐阜市を差し置いて大垣が採用されてたりする
一夜城の位置に城を作られた時点で大垣と岐阜は分担されており
経済的には半分を実質的に失ったとみなされるので見放されても仕方ないと思われる
怪獣大戦争ワロタw
いきなり稲葉山を襲うとは思えない。なので、東西に長い美濃国なら、西か東から切り取る。軍事的には川沿いの大垣か、今の地名で多治見土岐恵那方面とはなるのまでは、普通のこととも思えるが。信長にかかると、何考えててもおかしくないからなー。全部取るには時間かかりすぎる案で西に行くか。常人(信長以外)には無理かな。斎藤にいつ襲われるやら。って、また、信長か
ひどい絵面w
ドンバス状態?w
我々一般人は金のかかってない麻雀やポーカーですら感情的になって成績を落とすというのに…
実はノッブってガチガチの理系だった…?
90%継続でも最初にハズレの10%引いて単発で終わることもよくあるからって粗品も言ってるしね