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1976年10月1日の国鉄全国ダイヤ改正で寝台特急はやぶさが24系25形寝台客車に置き換えに伴い24系24形寝台客車を品川客車区から青森運転所に転属して寝台特急ゆうづるの20系寝台客車から24系24形寝台客車に置き換えられました。ゆうづるから捻出された20系寝台客車を尾久客車区に転属して寝台急行新星及び天の川号が旧型客車から置き換えられました。
1965年10月から1980年10月までの間は同じ東京~西鹿児島(現鹿児島中央)間で日豊本線経由の富士がはやぶさより距離が長くてこちらは所要時間が24時間以上かかっていました。また、はやぶさと富士は長時間走行することから同じ列車と2回すれ違っていました。
だから何?😜
そのために昭和53年の博多あさかぜ24系25型に置き換えるために食堂車が基本編成から付属編成に変わった。そうすることにより3編成が2編成になるために当日折り返せる。
@@岡村充康-h9z 平成元年の春にはやぶさを東京から西鹿児島まで全区間乗り通しましたが、西鹿児島に着く30分ぐらい前に、上り上りはやぶさとすれ違いましたね。
@@mtrauua 西鹿児島での折り返しが翌日になるので深夜の山陽本線と西鹿児島到着前の2回すれ違うことになりますね。トワイライトエクスプレスでも毎日運転だと2回すれ違いになります。
これは「迷列車」ではなく、れっきとした「名列車」!!!
末期、富士と併結になってからも乗りました。
終点までに2度もすれ違うのは迷車要素😅
懐かしい。廃止前の富士ぶさ個室B寝台で熊本往復したなぁ。当時品川駅とかにラッシュのリーマンが列をなす中、浴衣着てビール飲みながら眺めてたのはいい思い出。
平成元年の春に、東京から西鹿児島まで全区間乗りとおしました。ロビーカーでは見ず知らずのグループの酒盛りに加えてもらったりして、皆で歌を歌ったりして、とても楽しい思い出です。
楽しそうですね😃。今だったら、「他のお客様のご迷惑になりますので…」となっちゃうだろうな😢
めちゃくちゃ白い眼で見られてたろうな
廃止直前のはやぶさA寝台シングルDXが取れたので熊本→東京を乗り通しました。馬刺しとからし蓮根と米焼酎を買い込んで、しっかり機関車付け替えも見て、首都圏の通勤客を横目に個室でのんびり朝から前夜の残りの米焼酎飲むのは最高でした。
東海道、山陽、九州新幹線の愛称は、なぜか全て平仮名3文字。鹿児島に向かう列車の愛称に「はやぶさ」が採用されないのはそのせいか、と勘繰ってしまう。鹿児島と真逆の方向を運行する新幹線に、なぜ「はつかり」ではなく「はやぶさ」が採用されたのか、不可解だ。
1989年(35年前)にはやぶさ乗りました。食堂車で何を食べたか忘れたが美味しかった(はず)!
私が赤ちゃん時代、はやぶさ乗車中に食堂車から分けてもらったお湯で作ったミルクで育ったと親から聞いた。
5:36 20系客車が分散電源方式というくだりは、審議が必要かと思います。
@@アリゾノヒロシさま20系は電源集中方式でしたね。分割された後の末端区間用に旧形客車を改造した電源車もありました。
分散電源方式の寝台車は14系だけです。もちろん14系15型も含みます。ちなみに北陸トンネル列車火災事故がなければもっと14系が増備されていたはず。
50歳のおっさんの独り言関西住みにとって個室や食堂車を繋いだ東京発着のブルトレは憧れでした大阪駅の通過は深夜から早朝で、小中学生が撮影に行けるわけでもなく、初めて東京に行った時に写真を撮りまくりました乗車できる機会に恵まれたのは社会人になった後で熊本打ち切りの直直前既に食堂車は営業中止だったが15両のフル編成に乗ることが出来た最後廃止の直前に鳥栖駅で見送ったのが見納めその時は6両で色あせた車体やさびが浮いた車両などなんとも寂しい最後フル編成できれいなまま消えていった『あさかぜ1・4号』は今思うとJRの最後のブルトレに対する敬意だったのでは?と思っている
一度だけ東京駅から西鹿児島駅までA寝台個室を乗り通したことあります 食堂車も連結されてた時代でいい時代でした食堂車で飲む瓶ビールはなぜか美味しく感じました あの頃はまさかブルートレインが絶滅するなんて夢にも思いませんでした夜行列車自体絶滅寸前ですもんね
はやぶさといえば熊本行きだなーという世代です。名前だけでも生き残ってくれてよかった。
1980年10月1日の国鉄全国ダイヤ改正で東京ー西鹿児島間(日豊本線経由)で日本一最長距離ランナーの寝台特急富士号が東京ー宮崎間に運転区間が短縮されてしまい1980年10月1日の国鉄全国ダイヤ改正で15年ぶりに寝台特急はやぶさ号が日本一の寝台特急最長距離ランナーに返り咲きました。走行距離は1515.3kmで寝台特急日本一長い距離を走る列車になりました。
ラストランを多摩川で見送ったファン達がいましたが、あの動画は本当に感動しました
そんなエピソードもありましたね。私は瀬戸内海沿岸の鉄橋の上から見送りました。周辺には線路に入り込もうとするにわかや野次馬も後を立たず、警察や保線が見回りしている中かなりゆっくり走り去りました。新幹線で九州まで追いかけましたがやはり最後の撮影と見送る人達が並んでいました。富士の方は団臨が組まれて鹿児島?まで走り、たぶんそれが鹿児島県での最後のブルートレイン運転だったかと。
寝台特急はやぶさに横浜から西鹿児島まで下り2回、上り1回乗車しました。懐かしい思い出です。
2001年の頃に熊本~東京間を乗り通しました。10年以上前にNゲージを買い走らせて、かつての頃を懐かしむ。
サンライズ、たくさん乗らねば❤😂❤
なつかしいな45年くらい前に当時小学生で、親に頼んで行きは富士帰りは、はやぶさで東京から西鹿児島を往復したなぁ、東京駅を出発した時のワクワク感最高だったよ。
小学生の頃、鹿児島にいる祖父母を訪れるのに、初めて一人で乗った寝台特急が「はやぶさ」でした叔父が、当時国鉄鹿児島本線の駅員で、A個室寝台切符を手配してくれましたこの映像を観て、あの頃のワクワクとした気持ちを思い出しました!ありがとうございます
1996年夏に西鹿児島から東京まで乗車しました。鹿児島から熊本は車両に乗っていたのは自分一人で、東シナ海を車窓を眺めながら昼下がりの陽気と列車の小気味良い揺れが心地よい時間を過ごせたのは良い思い出です。
初めて乗ったブルトレがはやぶさでした。今から40年前の話です。東京から西鹿児島まで。ロネ。
B級映画「ブルートレインひとり旅」を見て憧れて、西鹿児島発着最後の年に上り便を乗り通しましたわ食堂車がレンチン方式になってて出てきた軽食の不味かったこと…西鹿児島駅で買ったこれも今はなきとんこつ弁当が神に思えた
何れも憧れでした。
九州特急の乗客数がガタ落ちしたのは「九州往復乗り継ぎ切符 新幹線指定席・B寝台利用可」が廃止されてからだったな。東京-宮崎・都城往復で37500円くらいだったから、空港への旅程と宮崎・羽田空港内で歩かされる事を厭った爺様婆様がかなり居た。今でも直通列車を望む人は多く需要自体はあるが、インフラ全部が自社持ち責任の現行鉄道会社では運行不可能なんだろう。JR九州・四国・西日本中国地区のテツ仲間に聞くと「寝台で東京直通便は欲しいと一族から良く言われるよ。俺が会社経営してるんでない!と言い合いになるが。」って返される。如何に個室でも座席のバスはダメなようで、事故が少なくフラットで寝れる鉄道寝台が一番、とのこと。「分割」民営化を決めたナチ曽根は今でも国賊だと考えている。
最末期では大分までだった富士は日豊線経由西鹿児島まで行った時期もあって多分これが最長ではないかと
あなたが正しいけど、富士の方が先に西鹿児島から消えた&はやぶさメインの動画なので、西鹿児島行きがはやぶさ単独の時点で唯一&最長と表現したのだと思います。富士が日本最長だったけど西鹿児島から宮崎に短縮されて、はやぶさに日本最長の座を譲ったという表現の方が良かったとは思いますけど。
24系25形の2段ハネは居住性向上によるサービス改善が目的と言われるが、実際は衰退期で乗客が減少する事が見込まれるのでなんとか踏みとどまれるようにした物。後期に製造された物は上段を固定にして合理化も推進。
言うまでもなく東京発九州方面のブルートレインは花形!はやぶさ以外にさくら、富士、あさかぜ、みずほ等格が違う(上野発や新大阪発推しの方は申し訳ない・・・・・)!機関車はやっぱりEF65 !66は似合わん!残念ながら九州方面はあさかぜしか乗ったことなかった。皮肉にも反対側の北斗星は仕事関係で何度かお世話になった・・・・。
5:33分散電源方式を採用したせいで客車なのに編成組成の制約が大きい?それを言うなら集中電源方式では?20系・24系・E26系は編成内の電源車から全車両へのサービス電源供給を行うので若しも分割併合を行うなら其々の編成に電源車が必要になるので非効率。一方12系・14系の様に分散電源方式なら分割併合にも使い易い。但し旅客車の床下に発電機があるのでその車輛は静粛性に劣る欠点がある。一時期[はやぶさ]の付属編成が長崎発着だったが、[さくら]や[あかつき]同様、簡易電源車マヤ20を連結していた。50‐3で[はやぶさ]は付属編成が熊本回転になり、長崎行きは[みずほ]が受け持つことになったのは[みずほ]が分割併合に有利な14系だったことも大きい。[さくら]共々14系で統一した方が門サキとしても有難かったであろう。最長走行距離でいえば東京~西鹿児島間走破していた[富士]や[高千穂]に軍配が上がる。その距離約1,600㎞。この距離を欧州大陸に重ねるとなんと4ヶ国を貫く由。夜通し駆けて走り翌朝到着…もうこんな列車は今後現れないのだろうか?効率・収益性では確かに難しい問題も多々あろうが、こんな壮大なロマンを感じさせる列車も欲しいと思うのは[鉄]もののサガ・欲目の類だろうか?
24系24形に置き換えられたのは、1975年新幹線博多開業で近畿圏発着の寝台列車削減の結果、品川へ引上げの上置き換え。翌1976年24系25形による2段B寝台化。余談ですが、24形は尾久へ行き、ゆうづるの20系を置き換え、その20系は急行の天の川、新星を置き換え。
「はやぶさ」とか「さくら」とか、乗ってみたかったな。。九州寝台は「あさかぜ」のA個に乗ったのが唯一だ。サンライズは「出雲」には乗ってるから、この秋「瀬戸」に乗って後顧の憂いを断つつもり。
「はやぶさ」は東京→小郡と熊本→東京しか乗ってないが、「さくら」は東京→長崎乗った😁
はやぶさは、初めて乗ったブルトレ。まだロビーカーの連結前で、西鹿児島〜東京をA寝台個室に乗車。
はやぶさ、結果的に新幹線最北端と最南端の駅を知る列車名になりました。
はやぶさの運行開始時は、10系客車は旧形ではなかったと思いますが。当時は冷房がA寝台(当時は2等寝台)しかついていませんでしたが。
窓が開く寝台車に乗ってみたかったです。自分が乗れる頃には20系すら見なくなった頃でした
よそで何度も書きましたが平成2年、はやぶさは大阪に停まり、富士は客扱いナシだったので、はやぶさはいつでも乗れると踏んで、名古屋まで戻って富士に乗りました。翌年、はやぶさと富士のダイヤが入れ替わって、今度ははやぶさが大阪通過となりました。九州特急で乗りそびれた唯一の列車です。
東京駅に何回観に行っただろうか。九州ブルトレは乗れなかったけど北斗星とあけぼのは乗った
ロビーカーが連結された1985年頃、東京-西鹿児島往復しました食堂車では夕食にうな重、朝食は洋食セットを頂いた記憶があります
中学のころ、休日はいつも寄り駅でカメラ片手に東京へ向かう姿を見送ってました。最終の下りも熊本駅で動画に収めてあります
昔、プロ野球選手の移動は、夜行寝台だったそうです😅
到着時刻を読み上げられると、まるで実際に乗っているかの様に走馬灯の様に情景が思い浮かびます。😢
@@user-ve5rr9bl4i 近くの神社にもあるし、京都に居た時沢山見てますよ
廃止前の2006年10月に、富士に乗りました。冷房が、効きすぎて、車体がゆれて、床下のディーゼルエンジンが、うるさくて、眠れませんでした。車内販売はなし。弁当、飲料は購入して乗車。翌朝は、徳山から、車内販売が、ありますたが、すぐに売り切れ。下関でホームに出て、飲料、弁当を、買いました。大分に、11時頃到着しました。退屈で、不便な列車でした。以上、晩年の富士号でした。
懐かしい。平成の始め頃、博多から東京までA個室で乗ったことあります。
1942年11月のダイヤ改正で、東京~鹿児島を結ぶ急行列車が2本設定されました。東京2300→鹿児島翌々日の700・鹿児島2230→東京翌々日の736の3・4列車(呉線経由・1・2等寝台車・洋食堂車連結)と東京1305→鹿児島翌日の1710・鹿児島1255→東京翌日の1706の7・8列車(2等寝台車・和食堂車連結)です。また、普通列車も鹿児島→東京で設定されました。(鹿児島2100→東京翌々日の1425の3・4列車)です。しかし、1943年3月頃には東京2300→鹿児島翌々日の700・鹿児島2230→東京翌々日の736の3・4列車(呉線経由・2等寝台車・和食堂車連結)だけになりました。また、1944年5月頃には発着時刻が変更され、東京1100→鹿児島翌日の1750・鹿児島1310→東京翌日の2121の3・4列車になりました。1944年12月頃には東京830→鹿児島翌日の2035・鹿児島935→東京翌日の2121の1・4列車(熊本~鹿児島は普通列車)だけになりました。そして終戦頃には東京~鹿児島を結ぶ列車はなくなってしまいました。その後、1948年8月頃には東京~鹿児島を結ぶ列車が復活しました。東京735→鹿児島翌日の2038・鹿児島735→東京翌日の2130の1・2列車でした。1949年9月改正では発着時刻が変更され、同時に寝台車や食堂車の連結が開始されました。東京1030→鹿児島翌日の2000・鹿児島820→東京翌日の1910の1・2列車(1等寝台車・食堂車連結)です。1950年10月改正では所要時間が短縮されました。東京1000→鹿児島翌日の1800・鹿児島1030→東京翌日の1855の33・34列車(1等寝台車は東京~博多・食堂車連結)です。またこの頃に「きりしま号」の愛称が付与されました。
小中学生の頃、朝に到着するブルトレを追って、上野と東京をよく往復したな。
改札出たり入ったり大変だね。あれ?まさか・・・。
@@user-ve5rr9bl4i 大丈夫です。友人の父が警官だったのでそこはルールを守ってやってましたよ。
昔はJR九州の寝台特急,今はJR北海道の新幹線 JR東日本と北海道の大合併へ
「さくら」「はやぶさ」「みずほ」は目出度く新幹線特急となられて転生されましたが、残る「富士」「あさかぜ」は令和に入ってからの夜行列車の再評価的な流れで復活してほしいかも。
「富士」はリニアに転生すると信じてますw
東北新幹線に名前が受け継がれていることにも触れて欲しかった。
JR東日本がJR九州に承諾をとって新幹線の名称にしたという裏話も取り上げてほしかったですね。今の「はやぶさ」はJR東日本で商標登録されています。
最近の話だから、大抵の鉄ヲタは知ってるっしょ!☺️
新幹線のあれは完全に「名前だけ」でかつての寝台特急とは何も縁が無いから、引き合いに出されるとチープになりがち。そも鉄道ファンならはつかりにして欲しかったという向きの方が多そう。
はやぶさ、子どもの頃の学習雑誌でも紹介されていました。西鹿児島まで乗ってみたかったのですが、実際に乗った時は熊本までに短縮された後でした。
自分そうでした、1998年のGWに個人旅行で南九州を旅行するのでこの西鹿児島行きのはやぶさ、利用するつもりだったのですが。その前年の冬に運転区間が熊本止まりに変更されてしまい、仕方ないので熊本からの帰りにはやぶさ利用しました。
やっぱり新幹線あるところに寝台特急廃止の影ありですね。新幹線のない山陰四国を結ぶサンライズはもう少し活躍できるかな?😮
3:07昔はこんな列車が多くあったから西村京太郎氏のトラベルミステリーが成り立っていたのですね。今回のケースでは横浜で降りて東京に戻り、〇人を冒して新幹線で追いかけ京都で再乗車で翌朝の食堂車でアリバイをってとこか。
学生時代、本棚が西村京太郎と宮脇俊三の本でいっぱいになってました。大学の指定書籍は畳に積み上げてましたねw。
懐かしい迷じゃなく名だろう~
昭和40年代と言えば、東京から九州はまだまだ遠く、海外旅行並みだったと聞く。大分県は別府。熊本県は阿蘇。宮崎県は新婚旅行のメッカ。鹿児島県は霧島と指宿。長崎県は雲仙。と温泉地と観光地巡りがブームでした。
はやぶさは九州内の立席特急券での利用も多かったので、さすがに昼行特急に抜かれると利用価値がないかも
夜行列車と昼間の列車で使われたことのある愛称で自由席の設定がなかったのは全国広しと言えどもはやぶさだけでは?
富士と併結している時代ではあったけど、学生時代に田町駅で撮ったのが懐かしいです
「はやぶさ」だけでなく、昭和50年代前半までは、東京から終着近くまでのブルトレの利用客はそれなりにあった。当時の鉄道雑誌にて、「出雲」(1,4号)の乗車記で、下り列車で、山陰へ帰るおばさん、子供を連れた若い母親等、新幹線乗換えや飛行機を使いづらい人たちが当たり前の様に利用していた。「はやぶさ」も父親の勤める会社(愛知県)へ出てきた鹿児島から来た社員が帰省で使っていた。
はやぶさはナンバー2のイメージですね。富士が短縮されたがそのイメージは残ってました。
自分は中国地方の大学に勤務していた時に、東京方面の出張や学会がある時に、このはやぶさ(富士)を利用していました。時間が22:00~23:00の間だったので、前日も仕事が出来るし、早朝に東京に着くので非常に便利な列車でした。ただ自分が利用していた時期は食堂車も連結してなく、ロビーカーの自動販売機も売り切れ状態ばかりで、かなりガラガラの状態でした。それでもA寝台個室は売り切ればかりで、残念ながらB寝台しか利用出来ませんでした。値段も当時で2万オーバーで、割引の飛行機や新幹線よりも割高だったのを覚えています。それでも時間を有効活用出来るし、移動での疲れもかなり軽減出来ていたと思います。
はやぶさが北方面の新幹線になってるのが色々言われてるけど、日本最速の鉄道が世界最速の鳥を名乗るのはこれ以上と無いぐらいセンスあると思うわ。
「さくら」「みずほ」と寝台特急の名称が、新幹線に受け継がれていますが、もし新幹線が東京ー鹿児島中央間を通しで運転されてたら、「はやぶさ」の名称が与えられてられてたのでしょうか?確か「富士」の方が最長だったのでは?24時間を超えていたと思いますが?子供の時「富士」の方が好きで、九州に旅行に行った際(さんふらわあにて)別府ー大分間で、車中から「富士」を見て感動したのを覚えてます。
はやぶさと言えば、今もブルートレインを代表する列車だと思います。下りは大阪駅にも停車していたから、関西人でも乗れました。使い易い時間では無かったですが…
昔の電車てどうしてこんなに魅力的なんだろ
96年頃に東京西鹿児島まで乗り通したが、九州に入ると有明やつばめの昼行特急を先行させるための運行停車が多いし、自分以外ほとんど乗ってない状態だったので廃止になったのは仕方ないと思った。
5:33 集中電源方式では?
昔富士で行ってはやぶさで帰るというのをやったな。
昔,[白鳥]で大阪⇨青森を旅行した際,食堂車🍴も2回利用.[はやぶさ]は東京⇨西鹿児島で3回利用する距離になる.思えばまことに贅沢な旅🎶.
ワイは、東京九州フェリー🚢乗ると4回行く😁
夜行列車の復活は望むべくもないが、九州ならではの球形(お椀形)ヘッドマークはどこかで復活して欲しい。
ななつ星にでも付けたらええがな😉
日本の国が滅っ茶苦茶貧しくなって、原油簡単に買えなくなって、ジェット燃料超高価になって、水力と再処理燃料の原子力で電力を賄わねばならないとなったら復活するかも。高速バスも電気じゃ無理と姿を消して、電気バカ食いの新幹線・リニアも超高価の贅沢、という事で。
サンライズに乗って、九州夜行に思いを馳せられるのかなぁ?🤔そもそも九州行かないし。
人による。ワイは東京九州フェリー🚢で楽しんでる😁
今や長距離フェリーでも根強い人気があるというニュースを見た。高速バスは自分には乗り心地悪いうえに到着が早朝というのがネック。ビジネス客狙いを無視してでも在来線特急の邪魔をしないダイヤを組めば東京ー熊本間の寝台列車は復活できそうな気もするが。「サンライズ」と同じタイプの電車を新造し7両なら需要は見込めるか。あとは新総理殿のお力次第。
なんか、設定当初は鹿児島発着で、西鹿児島は通過だったらしい。私が「はやぶさ」に乗ったのは二度で、いずれも上り。最初は'73年に佐賀から20系のBネ中段、食堂車は利用せず、幕の内弁当が夜食、朝食はワゴンサービスのサンドイッチとホットコーヒー。次は2000年に博多からBソロ上段でした。コンビニ弁当購入し、ロビーカーで夕食。この時は食堂は既に無く、車販さえも…Bソロは快適で、オーディオも完備。クラシックだけでしたが…どこまでホントかわかりませんが、海援隊のメンバーが、はやぶさで上京したらしいと聞きました。当時と比べると車両も所要時間も違いましたが、彼らがたどった道程を噛みしめていました。こういった列車が復活してほしいのは山々ですが、諸般の事情で現実的ではない…
坂本龍馬の時代から走っていたのかと誤認するほど歴史ある列車w
はやぶさはさくらから富士へ富士からこまちへだね🐹🐱
西へ向かう寝台特急の象徴だった愛称が北へ向かう最速列車に付けられたのは未だに違和感あります。
結局、寝台車はサンライズしか乗れなかった。今の人、D寝台って通じるかな?デッキイコール
皆最後にもう一度乗れるから。1人用個室寝台。
東海道新幹線の名称公募でひかり、ダントツの1位で2位、はやぶさ でした。ひかり、はやぶさ ではイメージ、語呂が悪いと各停タイプはこだまに決定そして、年月が流れて最速の東北新幹線で はやぶさ復活
はやぶさ繋がりでお話させてください。アメリカのゼネラルダイナミクス社(現ロッキードマーティン)は開発した戦闘機F-16にファルコン即ちはやぶさと名付けたかったのですが、既にファルコンという名前は別のビジネスジェットに使われていたので、ファイティングファルコンとしたそうです。しかし米空軍関係者にファイティングの枕詞は不評で、F-16は専らバイパーと呼ばれているようです。
@@mtrauua ファイティングファルコンも語呂悪いしダサいね
「銀河」を復活してほしいですね。サンライズは大阪発着でもいいと思います
はやぶさは長崎編成も7両です。
ブルートレインを駆逐したのは安いビジネスホテルだと思うしかし外国人観光客が増えすぎてホテルが取りにくくなってるので夜行列車にも復活の目はある
在来線で2時間半短縮出来たってどんだけトロい走り方してたんだよ…尋常じゃない数字だろ
今回の動画のタイトルは「名列車で行こう」にするべきでしょうね。
1500㎞って長いか?🤔
こんな時間がかかったら船でも勝てそうなんだが、東京↔︎鹿児島の客船はなかったの?
川崎から日向や宮崎のフェリーははありましたが、首都圏から鹿児島はなかったのでは?設備はともかく時間だけを考えるとまだ寝台特急に分があったとは思います。
大阪~鹿児島はあったけど、やはり時間かかるから大阪~志布志になった😁
船だとやはり大隅半島がネックになりますね!その昔東京フェリーターミナルから苫小牧港や釧路港までのフェリーもあったが房総半島がネックになり時間がかかり過ぎた。そのために大洗港が整備された。
首都圏発着フェリーは航行時間だけでなく港への到着時間も問題視されていると聞いてます。トラックドライバーとしては慢性的に渋滞してる首都圏から船が出るメリットは無いとか。
銘列車認定
なんで3割しか無かったんだ?オタク達は乗らないのか?
葬式を告知しないと乗ろうとしないのがオタク「いつか乗ろう」は乗れずに終わる。「いつ乗りに行こうか」で考えるべき。
鉄道ファンでサンライズを愛用している石破さんが総理になったので、寝台特急も当分存続すると思います。
地方交通の問題を知ってるから石破総理に期待するところ大であるが…
はやぶさは新幹線になっても速そうなイメージがあるからいいみずほはダメ、速そうなイメージが全くしない。
みずほとかいなほとか田舎の水田地帯のイメージ。新幹線も水田地帯走ってるけど。
1976年10月1日の国鉄全国ダイヤ改正で寝台特急はやぶさが24系25形寝台客車に置き換えに伴い24系24形寝台客車を品川客車区から青森運転所に転属して寝台特急ゆうづるの20系寝台客車から24系24形寝台客車に置き換えられました。ゆうづるから捻出された20系寝台客車を尾久客車区に転属して寝台急行新星及び天の川号が旧型客車から置き換えられました。
1965年10月から1980年10月までの間は同じ東京~西鹿児島(現鹿児島中央)間で日豊本線経由の富士がはやぶさより距離が長くてこちらは所要時間が24時間以上かかっていました。また、はやぶさと富士は長時間走行することから同じ列車と2回すれ違っていました。
だから何?😜
そのために昭和53年の博多あさかぜ24系25型に置き換えるために食堂車が基本編成から付属編成に変わった。そうすることにより3編成が2編成になるために当日折り返せる。
そのために昭和53年の博多あさかぜ24系25型に置き換えるために食堂車が基本編成から付属編成に変わった。そうすることにより3編成が2編成になるために当日折り返せる。
@@岡村充康-h9z
平成元年の春にはやぶさを東京から西鹿児島まで全区間乗り通しましたが、西鹿児島に着く30分ぐらい前に、上り上りはやぶさとすれ違いましたね。
@@mtrauua 西鹿児島での折り返しが翌日になるので深夜の山陽本線と西鹿児島到着前の2回すれ違うことになりますね。トワイライトエクスプレスでも毎日運転だと2回すれ違いになります。
これは「迷列車」ではなく、れっきとした「名列車」!!!
末期、富士と併結になってからも乗りました。
終点までに2度もすれ違うのは迷車要素😅
懐かしい。
廃止前の富士ぶさ個室B寝台で熊本往復したなぁ。
当時品川駅とかにラッシュのリーマンが列をなす中、浴衣着てビール飲みながら眺めてたのはいい思い出。
平成元年の春に、東京から西鹿児島まで全区間乗りとおしました。
ロビーカーでは見ず知らずのグループの酒盛りに加えてもらったりして、皆で歌を歌ったりして、とても楽しい思い出です。
楽しそうですね😃。今だったら、「他のお客様のご迷惑になりますので…」となっちゃうだろうな😢
めちゃくちゃ白い眼で見られてたろうな
廃止直前のはやぶさA寝台シングルDXが取れたので熊本→東京を乗り通しました。馬刺しとからし蓮根と米焼酎を買い込んで、しっかり機関車付け替えも見て、首都圏の通勤客を横目に個室でのんびり朝から前夜の残りの米焼酎飲むのは最高でした。
東海道、山陽、九州新幹線の愛称は、なぜか全て平仮名3文字。鹿児島に向かう列車の愛称に「はやぶさ」が採用されないのはそのせいか、と勘繰ってしまう。鹿児島と真逆の方向を運行する新幹線に、なぜ「はつかり」ではなく「はやぶさ」が採用されたのか、不可解だ。
1989年(35年前)にはやぶさ乗りました。
食堂車で何を食べたか忘れたが美味しかった(はず)!
私が赤ちゃん時代、はやぶさ乗車中に食堂車から分けてもらったお湯で作ったミルクで育ったと親から聞いた。
5:36 20系客車が分散電源方式というくだりは、審議が必要かと思います。
@@アリゾノヒロシさま
20系は電源集中方式でしたね。分割された後の末端区間用に旧形客車を改造した電源車もありました。
分散電源方式の寝台車は14系だけです。もちろん14系15型も含みます。ちなみに北陸トンネル列車火災事故がなければもっと14系が増備されていたはず。
50歳のおっさんの独り言
関西住みにとって個室や食堂車を繋いだ東京発着のブルトレは憧れでした
大阪駅の通過は深夜から早朝で、小中学生が撮影に行けるわけでもなく、初めて東京に行った時に写真を撮りまくりました
乗車できる機会に恵まれたのは社会人になった後で熊本打ち切りの直
直前
既に食堂車は営業中止だったが15両のフル編成に乗ることが出来た
最後廃止の直前に鳥栖駅で見送ったのが見納め
その時は6両で色あせた車体やさびが浮いた車両などなんとも寂しい最後
フル編成できれいなまま消えていった『あさかぜ1・4号』は今思うとJRの最後のブルトレに対する敬意だったのでは?と思っている
一度だけ東京駅から西鹿児島駅までA寝台個室を乗り通したことあります 食堂車も連結されてた時代でいい時代でした
食堂車で飲む瓶ビールはなぜか美味しく感じました あの頃はまさかブルートレインが絶滅するなんて夢にも思いませんでした
夜行列車自体絶滅寸前ですもんね
はやぶさといえば熊本行きだなーという世代です。
名前だけでも生き残ってくれてよかった。
1980年10月1日の国鉄全国ダイヤ改正で東京ー西鹿児島間(日豊本線経由)で日本一最長距離ランナーの寝台特急富士号が東京ー宮崎間に運転区間が短縮されてしまい1980年10月1日の国鉄全国ダイヤ改正で15年ぶりに寝台特急はやぶさ号が日本一の寝台特急最長距離ランナーに返り咲きました。走行距離は1515.3kmで寝台特急日本一長い距離を走る列車になりました。
ラストランを多摩川で見送ったファン達がいましたが、あの動画は本当に感動しました
そんなエピソードもありましたね。私は瀬戸内海沿岸の鉄橋の上から見送りました。
周辺には線路に入り込もうとするにわかや野次馬も後を立たず、警察や保線が見回りしている中かなりゆっくり走り去りました。
新幹線で九州まで追いかけましたがやはり最後の撮影と見送る人達が並んでいました。
富士の方は団臨が組まれて鹿児島?まで走り、たぶんそれが鹿児島県での最後のブルートレイン運転だったかと。
寝台特急はやぶさに横浜から西鹿児島まで下り2回、上り1回乗車しました。懐かしい思い出です。
2001年の頃に熊本~東京間を乗り通しました。
10年以上前にNゲージを買い走らせて、かつての頃を懐かしむ。
サンライズ、たくさん乗らねば❤😂❤
なつかしいな
45年くらい前に当時小学生で、親に頼んで行きは富士帰りは、はやぶさで東京から西鹿児島を往復したなぁ、
東京駅を出発した時のワクワク感最高だったよ。
小学生の頃、鹿児島にいる祖父母を訪れるのに、初めて一人で乗った寝台特急が「はやぶさ」でした
叔父が、当時国鉄鹿児島本線の駅員で、A個室寝台切符を手配してくれました
この映像を観て、あの頃のワクワクとした気持ちを思い出しました!
ありがとうございます
1996年夏に西鹿児島から東京まで乗車しました。
鹿児島から熊本は車両に乗っていたのは自分一人で、東シナ海を車窓を眺めながら昼下がりの陽気と列車の小気味良い揺れが心地よい時間を過ごせたのは良い思い出です。
初めて乗ったブルトレがはやぶさでした。今から40年前の話です。東京から西鹿児島まで。ロネ。
B級映画「ブルートレインひとり旅」を見て憧れて、西鹿児島発着最後の年に上り便を乗り通しましたわ
食堂車がレンチン方式になってて出てきた軽食の不味かったこと…西鹿児島駅で買ったこれも今はなきとんこつ弁当が神に思えた
何れも憧れでした。
九州特急の乗客数がガタ落ちしたのは「九州往復乗り継ぎ切符 新幹線指定席・B寝台利用可」が廃止されてからだったな。
東京-宮崎・都城往復で37500円くらいだったから、空港への旅程と宮崎・羽田空港内で歩かされる事を厭った爺様婆様がかなり居た。
今でも直通列車を望む人は多く需要自体はあるが、インフラ全部が自社持ち責任の現行鉄道会社では運行不可能なんだろう。
JR九州・四国・西日本中国地区のテツ仲間に聞くと「寝台で東京直通便は欲しいと一族から良く言われるよ。俺が会社経営してるんでない!と言い合いになるが。」って返される。
如何に個室でも座席のバスはダメなようで、事故が少なくフラットで寝れる鉄道寝台が一番、とのこと。
「分割」民営化を決めたナチ曽根は今でも国賊だと考えている。
最末期では大分までだった富士は日豊線経由西鹿児島まで行った時期もあって多分これが最長ではないかと
あなたが正しいけど、富士の方が先に西鹿児島から消えた&はやぶさメインの動画なので、西鹿児島行きがはやぶさ単独の時点で唯一&最長と表現したのだと思います。
富士が日本最長だったけど西鹿児島から宮崎に短縮されて、はやぶさに日本最長の座を譲ったという表現の方が良かったとは思いますけど。
24系25形の2段ハネは居住性向上によるサービス改善が目的と言われるが、実際は衰退期で乗客が減少する事が見込まれるのでなんとか踏みとどまれるようにした物。後期に製造された物は上段を固定にして合理化も推進。
言うまでもなく東京発九州方面のブルートレインは花形!はやぶさ以外にさくら、富士、あさかぜ、みずほ等格が違う(上野発や新大阪発推しの方は申し訳ない・・・・・)!
機関車はやっぱりEF65 !66は似合わん!
残念ながら九州方面はあさかぜしか乗ったことなかった。皮肉にも反対側の北斗星は仕事関係で何度かお世話になった・・・・。
5:33分散電源方式を採用したせいで客車なのに編成組成の制約が大きい?
それを言うなら集中電源方式では?
20系・24系・E26系は編成内の電源車から全車両へのサービス電源供給を行うので若しも分割併合を行うなら其々の編成に電源車が必要になるので非効率。一方12系・14系の様に分散電源方式なら分割併合にも使い易い。但し旅客車の床下に発電機があるのでその車輛は静粛性に劣る欠点がある。
一時期[はやぶさ]の付属編成が長崎発着だったが、[さくら]や[あかつき]同様、簡易電源車マヤ20を連結していた。
50‐3で[はやぶさ]は付属編成が熊本回転になり、長崎行きは[みずほ]が受け持つことになったのは[みずほ]が分割併合に有利な14系だったことも大きい。[さくら]共々14系で統一した方が門サキとしても有難かったであろう。
最長走行距離でいえば東京~西鹿児島間走破していた[富士]や[高千穂]に軍配が上がる。その距離約1,600㎞。この距離を欧州大陸に重ねるとなんと4ヶ国を貫く由。
夜通し駆けて走り翌朝到着…もうこんな列車は今後現れないのだろうか?効率・収益性では確かに難しい問題も多々あろうが、こんな壮大なロマンを感じさせる列車も欲しいと思うのは[鉄]もののサガ・欲目の類だろうか?
24系24形に置き換えられたのは、1975年新幹線博多開業で近畿圏発着の寝台列車削減の結果、品川へ引上げの上置き換え。翌1976年24系25形による2段B寝台化。余談ですが、24形は尾久へ行き、ゆうづるの20系を置き換え、その20系は急行の天の川、新星を置き換え。
「はやぶさ」とか「さくら」とか、乗ってみたかったな。。九州寝台は「あさかぜ」のA個に乗ったのが唯一だ。
サンライズは「出雲」には乗ってるから、この秋「瀬戸」に乗って後顧の憂いを断つつもり。
「はやぶさ」は東京→小郡と熊本→東京しか乗ってないが、「さくら」は東京→長崎乗った😁
はやぶさは、初めて乗ったブルトレ。まだロビーカーの連結前で、西鹿児島〜東京をA寝台個室に乗車。
はやぶさ、結果的に新幹線最北端と最南端の駅を知る列車名になりました。
はやぶさの運行開始時は、10系客車は旧形ではなかったと思いますが。
当時は冷房がA寝台(当時は2等寝台)しかついていませんでしたが。
窓が開く寝台車に乗ってみたかったです。自分が乗れる頃には20系すら見なくなった頃でした
よそで何度も書きましたが
平成2年、はやぶさは大阪に停まり、富士は客扱いナシだったので、
はやぶさはいつでも乗れると踏んで、名古屋まで戻って富士に乗りました。
翌年、はやぶさと富士のダイヤが入れ替わって、今度ははやぶさが大阪通過となりました。
九州特急で乗りそびれた唯一の列車です。
東京駅に何回観に行っただろうか。九州ブルトレは乗れなかったけど北斗星とあけぼのは乗った
ロビーカーが連結された1985年頃、東京-西鹿児島往復しました
食堂車では夕食にうな重、朝食は洋食セットを頂いた記憶があります
中学のころ、休日はいつも寄り駅でカメラ片手に東京へ向かう姿を見送ってました。
最終の下りも熊本駅で動画に収めてあります
昔、プロ野球選手の移動は、夜行寝台だったそうです😅
到着時刻を読み上げられると、まるで実際に乗っているかの様に
走馬灯の様に情景が思い浮かびます。😢
@@user-ve5rr9bl4i 近くの神社にもあるし、京都に居た時沢山見てますよ
廃止前の2006年10月に、富士に乗りました。冷房が、効きすぎて、車体がゆれて、床下のディーゼルエンジンが、うるさくて、眠れませんでした。車内販売はなし。弁当、飲料は購入して乗車。翌朝は、徳山から、車内販売が、ありますたが、すぐに売り切れ。下関でホームに出て、飲料、弁当を、買いました。
大分に、11時頃到着しました。退屈で、不便な列車でした。以上、晩年の富士号でした。
懐かしい。
平成の始め頃、博多から東京までA個室で乗ったことあります。
1942年11月のダイヤ改正で、東京~鹿児島を結ぶ急行列車が2本設定されました。東京2300→鹿児島翌々日の700・鹿児島2230→東京翌々日の736の3・4列車(呉線経由・1・2等寝台車・洋食堂車連結)と東京1305→鹿児島翌日の1710・鹿児島1255→東京翌日の1706の7・8列車(2等寝台車・和食堂車連結)です。また、普通列車も鹿児島→東京で設定されました。(鹿児島2100→東京翌々日の1425の3・4列車)です。
しかし、1943年3月頃には東京2300→鹿児島翌々日の700・鹿児島2230→東京翌々日の736の3・4列車(呉線経由・2等寝台車・和食堂車連結)だけになりました。
また、1944年5月頃には発着時刻が変更され、東京1100→鹿児島翌日の1750・鹿児島1310→東京翌日の2121の3・4列車になりました。
1944年12月頃には東京830→鹿児島翌日の2035・鹿児島935→東京翌日の2121の1・4列車(熊本~鹿児島は普通列車)だけになりました。そして終戦頃には東京~鹿児島を結ぶ列車はなくなってしまいました。
その後、1948年8月頃には東京~鹿児島を結ぶ列車が復活しました。東京735→鹿児島翌日の2038・鹿児島735→東京翌日の2130の1・2列車でした。
1949年9月改正では発着時刻が変更され、同時に寝台車や食堂車の連結が開始されました。東京1030→鹿児島翌日の2000・鹿児島820→東京翌日の1910の1・2列車(1等寝台車・食堂車連結)です。
1950年10月改正では所要時間が短縮されました。東京1000→鹿児島翌日の1800・鹿児島1030→東京翌日の1855の33・34列車(1等寝台車は東京~博多・食堂車連結)です。またこの頃に「きりしま号」の愛称が付与されました。
小中学生の頃、朝に到着するブルトレを追って、上野と東京をよく往復したな。
改札出たり入ったり大変だね。あれ?まさか・・・。
@@user-ve5rr9bl4i 大丈夫です。友人の父が警官だったのでそこはルールを守ってやってましたよ。
昔はJR九州の寝台特急,今はJR北海道の新幹線 JR東日本と北海道の大合併へ
「さくら」「はやぶさ」「みずほ」は目出度く新幹線特急となられて転生されましたが、残る「富士」「あさかぜ」は令和に入ってからの夜行列車の再評価的な流れで復活してほしいかも。
「富士」はリニアに転生すると信じてますw
東北新幹線に名前が受け継がれていることにも触れて欲しかった。
JR東日本がJR九州に承諾をとって新幹線の名称にしたという裏話も取り上げてほしかったですね。
今の「はやぶさ」はJR東日本で商標登録されています。
最近の話だから、大抵の鉄ヲタは知ってるっしょ!☺️
新幹線のあれは完全に「名前だけ」でかつての寝台特急とは何も縁が無いから、引き合いに出されるとチープになりがち。
そも鉄道ファンならはつかりにして欲しかったという向きの方が多そう。
はやぶさ、子どもの頃の学習雑誌でも紹介されていました。西鹿児島まで乗ってみたかったのですが、実際に乗った時は熊本までに短縮された後でした。
自分そうでした、1998年のGWに個人旅行で南九州を旅行するのでこの西鹿児島行きのはやぶさ、利用するつもりだったのですが。
その前年の冬に運転区間が熊本止まりに変更されてしまい、仕方ないので熊本からの帰りにはやぶさ利用しました。
やっぱり新幹線あるところに寝台特急廃止の影ありですね。
新幹線のない山陰四国を結ぶサンライズはもう少し活躍できるかな?😮
3:07昔はこんな列車が多くあったから西村京太郎氏のトラベルミステリーが成り立っていたのですね。
今回のケースでは横浜で降りて東京に戻り、〇人を冒して新幹線で追いかけ京都で再乗車で翌朝の食堂車でアリバイをってとこか。
学生時代、本棚が西村京太郎と宮脇俊三の本でいっぱいになってました。
大学の指定書籍は畳に積み上げてましたねw。
懐かしい
迷じゃなく名だろう~
昭和40年代と言えば、東京から九州はまだまだ遠く、海外旅行並みだったと聞く。大分県は別府。熊本県は阿蘇。宮崎県は新婚旅行のメッカ。鹿児島県は霧島と指宿。
長崎県は雲仙。と温泉地と観光地巡りがブームでした。
はやぶさは九州内の立席特急券での利用も多かったので、さすがに昼行特急に抜かれると利用価値がないかも
夜行列車と昼間の列車で使われたことのある愛称で自由席の設定がなかったのは全国広しと言えどもはやぶさだけでは?
富士と併結している時代ではあったけど、学生時代に田町駅で撮ったのが懐かしいです
「はやぶさ」だけでなく、昭和50年代前半までは、東京から終着近くまでのブルトレの利用客はそれなりにあった。当時の鉄道雑誌にて、「出雲」(1,4号)の乗車記で、下り列車で、山陰へ帰るおばさん、子供を連れた若い母親等、新幹線乗換えや飛行機を使いづらい人たちが当たり前の様に利用していた。「はやぶさ」も父親の勤める会社(愛知県)へ出てきた鹿児島から来た社員が帰省で使っていた。
はやぶさはナンバー2のイメージですね。富士が短縮されたがそのイメージは残ってました。
自分は中国地方の大学に勤務していた時に、東京方面の出張や学会がある時に、このはやぶさ(富士)を利用していました。
時間が22:00~23:00の間だったので、前日も仕事が出来るし、早朝に東京に着くので非常に便利な列車でした。
ただ自分が利用していた時期は食堂車も連結してなく、ロビーカーの自動販売機も売り切れ状態ばかりで、かなりガラガラの状態でした。
それでもA寝台個室は売り切ればかりで、残念ながらB寝台しか利用出来ませんでした。
値段も当時で2万オーバーで、割引の飛行機や新幹線よりも割高だったのを覚えています。
それでも時間を有効活用出来るし、移動での疲れもかなり軽減出来ていたと思います。
はやぶさが北方面の新幹線になってるのが色々言われてるけど、日本最速の鉄道が世界最速の鳥を名乗るのはこれ以上と無いぐらいセンスあると思うわ。
「さくら」「みずほ」と寝台特急の名称が、新幹線に受け継がれていますが、もし新幹線が東京ー鹿児島中央間を通しで運転されてたら、「はやぶさ」の名称が与えられてられてたのでしょうか?
確か「富士」の方が最長だったのでは?24時間を超えていたと思いますが?
子供の時「富士」の方が好きで、九州に旅行に行った際(さんふらわあにて)別府ー大分間で、車中から「富士」を見て感動したのを覚えてます。
はやぶさと言えば、今もブルートレインを代表する列車だと思います。
下りは大阪駅にも停車していたから、関西人でも乗れました。
使い易い時間では無かったですが…
昔の電車てどうしてこんなに魅力的なんだろ
96年頃に東京西鹿児島まで乗り通したが、九州に入ると有明やつばめの昼行特急を先行させるための運行停車が多いし、自分以外ほとんど乗ってない状態だったので廃止になったのは仕方ないと思った。
5:33 集中電源方式では?
昔富士で行ってはやぶさで帰るというのをやったな。
昔,[白鳥]で大阪⇨青森を旅行した際,食堂車🍴も2回利用.[はやぶさ]は東京⇨西鹿児島で3回利用する距離になる.
思えばまことに贅沢な旅🎶.
ワイは、東京九州フェリー🚢乗ると4回行く😁
夜行列車の復活は望むべくもないが、九州ならではの球形(お椀形)ヘッドマークはどこかで復活して欲しい。
ななつ星にでも付けたらええがな😉
日本の国が滅っ茶苦茶貧しくなって、原油簡単に買えなくなって、ジェット燃料超高価になって、水力と再処理燃料の原子力で電力を賄わねばならないとなったら復活するかも。高速バスも電気じゃ無理と姿を消して、電気バカ食いの新幹線・リニアも超高価の贅沢、という事で。
サンライズに乗って、九州夜行に思いを馳せられるのかなぁ?🤔
そもそも九州行かないし。
人による。ワイは東京九州フェリー🚢で楽しんでる😁
今や長距離フェリーでも根強い人気があるというニュースを見た。
高速バスは自分には乗り心地悪いうえに到着が早朝というのがネック。ビジネス客狙いを無視してでも
在来線特急の邪魔をしないダイヤを組めば東京ー熊本間の寝台列車は復活できそうな気もするが。
「サンライズ」と同じタイプの電車を新造し7両なら需要は見込めるか。あとは新総理殿のお力次第。
なんか、設定当初は鹿児島発着で、西鹿児島は通過だったらしい。
私が「はやぶさ」に乗ったのは二度で、いずれも上り。
最初は'73年に佐賀から20系のBネ中段、
食堂車は利用せず、幕の内弁当が夜食、朝食はワゴンサービスのサンドイッチとホットコーヒー。
次は2000年に博多からBソロ上段でした。
コンビニ弁当購入し、ロビーカーで夕食。この時は食堂は既に無く、車販さえも…
Bソロは快適で、オーディオも完備。クラシックだけでしたが…
どこまでホントかわかりませんが、海援隊のメンバーが、はやぶさで上京したらしいと聞きました。
当時と比べると車両も所要時間も違いましたが、彼らがたどった道程を噛みしめていました。
こういった列車が復活してほしいのは山々ですが、諸般の事情で現実的ではない…
坂本龍馬の時代から走っていたのかと誤認するほど歴史ある列車w
はやぶさはさくらから富士へ富士からこまちへだね🐹🐱
西へ向かう寝台特急の象徴だった愛称が北へ向かう最速列車に付けられたのは未だに違和感あります。
結局、寝台車はサンライズしか乗れなかった。今の人、D寝台って通じるかな?デッキイコール
皆最後にもう一度乗れるから。1人用個室寝台。
東海道新幹線の名称公募で
ひかり、ダントツの1位で
2位、はやぶさ でした。
ひかり、はやぶさ ではイメージ、語呂が悪いと各停タイプはこだまに決定
そして、年月が流れて
最速の東北新幹線で はやぶさ復活
はやぶさ繋がりでお話させてください。
アメリカのゼネラルダイナミクス社(現ロッキードマーティン)は開発した戦闘機F-16にファルコン即ちはやぶさと名付けたかったのですが、既にファルコンという名前は別のビジネスジェットに使われていたので、ファイティングファルコンとしたそうです。
しかし米空軍関係者にファイティングの枕詞は不評で、F-16は専らバイパーと呼ばれているようです。
@@mtrauua ファイティングファルコンも語呂悪いしダサいね
「銀河」を復活してほしいですね。
サンライズは大阪発着でもいいと思います
はやぶさは長崎編成も7両です。
ブルートレインを駆逐したのは安いビジネスホテルだと思う
しかし外国人観光客が増えすぎてホテルが取りにくくなってるので
夜行列車にも復活の目はある
在来線で2時間半短縮出来たってどんだけトロい走り方してたんだよ…尋常じゃない数字だろ
今回の動画のタイトルは「名列車で行こう」にするべきでしょうね。
1500㎞って長いか?🤔
こんな時間がかかったら船でも勝てそうなんだが、東京↔︎鹿児島の客船はなかったの?
川崎から日向や宮崎のフェリーははありましたが、首都圏から鹿児島はなかったのでは?
設備はともかく時間だけを考えるとまだ寝台特急に分があったとは思います。
大阪~鹿児島はあったけど、やはり時間かかるから大阪~志布志になった😁
船だとやはり大隅半島がネックになりますね!その昔東京フェリーターミナルから苫小牧港や釧路港までのフェリーもあったが房総半島がネックになり時間がかかり過ぎた。そのために大洗港が整備された。
首都圏発着フェリーは航行時間だけでなく港への到着時間も問題視されていると聞いてます。
トラックドライバーとしては慢性的に渋滞してる首都圏から船が出るメリットは無いとか。
銘列車認定
なんで3割しか無かったんだ?
オタク達は乗らないのか?
葬式を告知しないと乗ろうとしないのがオタク
「いつか乗ろう」は乗れずに終わる。「いつ乗りに行こうか」で考えるべき。
鉄道ファンでサンライズを愛用している石破さんが総理になったので、寝台特急も当分存続すると思います。
地方交通の問題を知ってるから石破総理に期待するところ大であるが…
はやぶさは新幹線になっても速そうなイメージがあるからいい
みずほはダメ、速そうなイメージが全くしない。
みずほとかいなほとか田舎の水田地帯のイメージ。新幹線も水田地帯走ってるけど。