うぅ~、ありがとうございます!涙で画面がよく見れなかったですっ!中坊の時に”KING KENNY”を知ってから早うん十年が経ちます。そこから自称「YAMAHA党」を名乗って、乗り継いだ数は軽く10台以上です。KINGのポスターは私の家宝であります。それから”スティディ・エディ”にレイニー、ノリックとファンを続けて最後の締は勿論”The Doctor 46”であります。悲しいですが、最近の不甲斐なさに嫌気がしてYAMAHAのファンを辞めました。大切にしていたアライのRXー7RRⅣ、ロッシのチャンピオン記念モデルも手放しました。YZRが輝いていたのはやっぱりKING、エディ、レイニー迄でしょうか?しかし磐田のミュージアムで見た歴代YZRとYZFの写真は大事に保管しています。
全日本での、平さん、藤原さんの活躍(全日本チャンピオン)も忘れてはならない
また、開発ライダーとして大きく貢献した、金谷さん、河崎さん(シャケさん)、平さんの功績も忘れないでほしいです。
2軸クランクV4ですが、初めはスクエア4からの派生発展したエンジンなので2本のクランクシャフト軸が離れていて同じ向きで回転させていましたが、2本のクランクシャフトをギア連結させる事で互いに逆回転させるようにしたのが凄いですね?
互いのクランク同士を噛み合わせるのでバランサーシャフトを付けなくてもエンジン振動を抑える事が出来た。
この方式はスズキRGV-Γ500やカジバも取り入れて採用しましたね。
YZRの名前が今でもGPの最前線で使われ続けてる事に敬意を払いたい。
YZRで印象に残るライダーと言えば、「世界の金谷」こと金谷秀夫さんです
73年も75年も展開次第ではチャンピオンになっていたかも
ただチャンピオンになるのに一番重要な、運に恵まれなかったライダーでしたね
エディ-ローソンがヤマハでは好きでした。強いライダーで8耐で平に優勝をプレゼントしてくれたので、平ファンとして感謝しています。81年YZRのフレームを見たとき気持ち悪く(フレームの曲がりが)何て作りをしているんだ!と感心しました…駄目マシンなのは秘密です。
レイニーのイメージが強すぎる‥
個人的には83年がWGPで最高のシーズンでした😊
さすが!レースが身近だった方ならではの解説。楽しめました!
やはり一番思い出有るのはケニーロバーツですね。会った事もあるし初めてケニーが日本で走ると知ってTBCビッグロードレースを菅生まで10時間掛けて観に行ったのは78年だったかな?上り勾配からストレートに出てくる時にウィリーで飛び出て来たときにはビックリ!スタンド中が凄い盛り上がっていた。自分にとってはいつまでも憧れのキングです。ケニーロードも走りに行きケニーズカフェにも行ったのはいい思い出。
動画UPお疲れ様です。
やっぱりGPマシンというと2スト500ccのイメージですね。
自分の世代でYZRというとレイニーのイメージが強いですね。
自分と同級生のノリックはYZRとの相性が悪かった様な気がします。
ヤマハのバイクはガツンと曲げるというよりキレイに速く旋回できる人向けだと思っていました。
GPレースは2サイクルの時代が最高。軽いし、何と言ってもあの音と鋭い老け上がりが魅力。特に1980年代はメカニズムの進歩が顕著でわくわくした
この知識を動画にして後世に伝えているのがとても価値がある行いだと思います。
クリスチャン・サロンがドミニクと耐久兄弟コンビ時代から好きでした。
懐かしいですね、菅生は新潟から時々行ってました、550ccの軽自動車に大人三人子供二人乗って😅
東北自動車道の緩い上坂になるとスピードが落ちてね😢
たしか?シケイン作る前の上りで緩い右コーナーを全開で駆け上がる音が堪りませんでした😮
マモラ乗りとか個性のある名選手ばかりで良い時代でした!
大人3人子ども2人は定員オーバーで草。
今でも、あの当時のレイニーとヤマハYZR500が最強だと思います。ただ速いだけじゃ無い何かがあるように見えました。😊
私見ですが、基本、YZR500を駆るライダーのライディングフォームは全体的に綺麗だと言う印象が有りますね。
特に平忠彦さんのフォームは綺麗と言う印象が有ります。
逆に言えばNSR500を駆るライダーは無理やり曲げている感じ……
ローソンのフォームの違いを見れば分かりやすいですね。
確かNSRに乗る事になったローソンはフレームヘッド部分の剛性不足を指摘し、シーズン途中でヘッド周りが補強されたフレームに換装されたマシンで戦っていたと言う記憶が有る。
多角形的に曲がるガードナーのフォームは好きになれませんでしたね。
そう言う意味では今のマシンの乗り方、頭の位置が低すぎて好きになれませんね。
平さんはスタート時にシートからほんのわずか腰を浮かしていたと語っておられました。
マシンの動きだしを邪魔しないため、とのこと。
500ccモンスターならコンマ秒以下の変化があるかどうかなのでしょうが、開発もしていたマシンに対する愛情やいたわりの心が感じられます。
18:41 このワークスカラーが発表された時、あまりの格好良さにRS詩の写真から3面図を作って
YSRをペイントショップに持ち込んで最新ワークスカラーに塗ってもらった。
実寸とプロポーション合わせてYZRロゴほかをカッティングシートを切り抜いて自作。
そのカラーで筑波サーキットにレース見に行くのが楽しみだった。
某ジャーナリストによるとカジバC591には非公式でYZRのエンジンが搭載されていました。
マシンテスト中のローソンもその事実を聞かされておらず、なかなかいいパフォーマンスだったのでローソンはカジバと契約を決めたそうです。
ローソンの前では決してエンジンカウルを外さなかったそうです(笑)
エディーローソンも解っていたのでしょうね😊
おーだぶりゅーですね。
ヤマハからの技術提与があったからだ。
カジバに初のGP優勝もたらしたのはローソンだったけれどもウェットコンディションでドライタイヤを履かせてギャンブルに出たから本当の勝利とは言え無い?とローソンはコメントしたけれどもローソンだから優勝出来たと思っています。
カジバが完全ドライコンディションで優勝果たしたのはジョン・コシンスキーでした。
あの時はカジバが世界GP500タイトル獲得出来る可能性を秘めていた?
91年の6強のとこで、ゾワッと来た!
群雄割拠、戦国時代という言葉がピタリとくる。
凄い時代だったなぁ。
そして、素晴らしい時代だった。
YZR500と言えば、やっぱ熱い走りで平忠彦とノリックだわ!二輪に興味無かったけど、たまたまテレビでローソンと凄いバトルをする平忠彦を見て、その瞬間から二輪に嵌ってます。
ノリックも上位を走ると必ずと言って良いほど激しいレース展開になって面白かったし他のライダーも「楽しいレースだった」なんて言ってましたしね。
YZRといえばラルフ・アンダーソン!ポニーテールをなびかせて疾走する姿が忘れられません。
ラルフ・アンダーソンは
ケニー・ロバーツの秘蔵っ子?と言う設定でしたね。
ジョン・コシンスキーが実在モデル?
アンダーソンは「ガンボーイ」と世界GP500タイトル争った。
ホンダNSR500よりもトップスピードが劣っていても、コーナリング、ブレーキング、そしてハンドリングといったトータルバランスでワールドシリーズチャンピオンになれた優秀なマシンだと思いますし、特にレイニーみたいにステデイでクレバーなライダーがチャンピオンを獲得した時代がYZR500の黄金期なのではないでしょうか?⭐️
K/ロバーツさんのハングオンスタイルは実はJ/サーリネンさんの体重移動にインスピレーションを得たものだって、ロバーツさん本人がおっしゃってますね。
アメリカのフラットトラックと北欧のアイスレースは、近いものがあるからね。
ただスパイク付きアイスレースの方がグリップが高くメカニカルだからバンク角が激しく深く出した脚が車体と氷上に挟まれ
結果的に膝が氷上に接地するライディングが普通になっていた。サーリネンは、アイスレース出身。
ノリックは同い年なのですごく応援していた、息子の真生騎にも乗って世界チャピオンになってほしい。
ギャリー・マッコイは漫画みたいなドリフトで見ててワクワクするライダーで大好きでした
昔、家でダラダラTV観てたら
偶然SUGOでのTBCビッグロードレースのTV生中継!
金谷秀夫、高井幾次郎、浅見貞夫、ケニー、バリーを初めて知った
なんであの時代に放送有ったのか分からないけど
私がバイクにはまったきっかけになりました
ケニーのハング ”オン” フォームが美しかったなぁ
TBCが東北放送の略だからですよ
つまり東北放送が主催してたからです
うらやましい。当時は、バイク雑誌でしか、レース情報入って来なかったから。宮城県の方々は、テレビでレースが観られるのか。って思ってた❤
上野のコーリンは経営者が逃げてワーカーが在庫品を売ってなんてとんでもない感じになりました。あのコーリンがというか上野のバイク街がって思いました。
懲(ー)りんワーカー😂😂😂(爆滑)
ワーカーズ・コレクティブでしばらくやってましたよね。僕も寄らせてもらってステッカーとか買いました。あのコーリンがって思いました。業界変わりますよね。イタリアの激安ヘルメットみたいに売られてたメーカーが今はアライやショウエイを押しのけてGPで使われてますからね。おgk
@@石ころ-k5x
この頃 峠に行くと
89年の年末に90年の0WC1のヤマハカラー画像を見て、あまりの美しさに感動しました。当時乗っていたTZR125にTZ250の外装を付けてレプリカを作りました。ゼッケンカラーが黄色のYZR250になってしまいましたがw
今のmotoGPも、日本メーカーを排除しようとしてるみたいなもんなのがねぇ…。
やはり2スト500の時代が一番良かったな。
バレンティーノロッシはノリックの事尊敬しててロッシふみって言ってた事がありましたね。なつかしいです。😊がんばってロッシふみだったかな
あいまいな記憶だけど ろっしふみがんばって だったような気がする
平忠彦さんと言えば『汚れた英雄』で草刈正雄さんの吹替をしましたね🎵
コンマ1秒のエクスタシー❤
どうやって入手したのかは知りませんが、私の知人がYZR250を一時期所有していました。
彼はあろう事か、そのYZRで一般道を走ったらしく
『いや、YZRってスゲーんだよ。アクセル少し開けただけで、🚓見えなくなったんだよ』
とか抜かしてました。
お前はラルフ・アンダーソンかよと思いました🇯🇵
多気筒化禁止も多段ミッション禁止も
市販車にフィードバックが厳しいことを考えれば
個人的に十分納得できる。
逆にMotoGPの共通CPUは全く納得できない
今のMotoGPは同じ4スト4気筒の1000ccで
スーパーバイクと同じようなタイプで
GPマシンは昔ほどの特別なものという感じが
薄くなっているような気がします
RG 500γの程度のいいものがあったら欲しい
0W35Kが今でも一番好きなマシンです。
0W54のエンジン、ヤマハの技術者が「スズキのスクエアと比べて良いところが一つもない」
って言い切ってるのが笑える。翌年戦えるマシンに仕上げたのは流石だけど
すぐにV4に移行したから存在感がなさすぎて哀れ。
1993年に新型の押し出し材フレームを採用したのがレイニーにはなじめなかったのか。押し出し材は高剛性だがしなり感がなく乗り手に合わない場合もある。その頃はタイヤもラジアル化、ハイグリップ化が進み、車体のねじれを利用する「昔ながらの乗り方」では勝てなくなったのも事実で、ワークスとしてはフレーム変更も当然か。レイニーの転倒はそのあたりにも原因があると思ってる。
1994年に再度フレーム変更しているのは、押し出し材がヤマハエンジンとの相性が悪かったことを示すもので、1993年のマシンは過渡期だったのだろう。そのことが原因でレイニーの引退につながる重傷を招いたのはライダーメーカー双方にとっての痛恨事
全然乗り方の違うチームメイトのカダローラが結構速くなってきてたんですよね。
GPライダーもモンキーマニアだったのですね!
本間利彦も開発ライダーだった時期もあるよね
これは勉強になる
2サイクル時代の最後はビアッジとヤマハが強かったのですね。コーリンのセールは私もいろいろ買いました
うぅ~、ありがとうございます!涙で画面がよく見れなかったですっ!中坊の時に”KING KENNY”を知ってから早うん十年が経ちます。そこから自称「YAMAHA党」を名乗って、乗り継いだ数は軽く10台以上です。KINGのポスターは私の家宝であります。それから”スティディ・エディ”にレイニー、ノリックとファンを続けて最後の締は勿論”The Doctor 46”であります。悲しいですが、最近の不甲斐なさに嫌気がしてYAMAHAのファンを辞めました。大切にしていたアライのRXー7RRⅣ、ロッシのチャンピオン記念モデルも手放しました。YZRが輝いていたのはやっぱりKING、エディ、レイニー迄でしょうか?しかし磐田のミュージアムで見た歴代YZRとYZFの写真は大事に保管しています。
2輪世界GPオートバイの2ストローク500ccエンジンはV型4気筒が標準スタンダードとなりましたが、ヤマハYZR500やスズキRGV-Γ500やカジバがクランク2本互いに逆回転の2気筒ずつ同時爆発に対してホンダNSR500だけがクランク1本で4気筒等間隔爆発(後に2気筒ずつ同時爆発に変更)を採用していました。
ヤマハやスズキもクランク1本の試作エンジンをテストしましたが結局は実戦投入されませんでした。
ホンダもクランク2本エンジンを設計しようとしましたが、トップ上層部から「他メーカーの猿真似するな!」と一喝されて断念しましたが、後にヤマハやスズキとは違う形でホンダ流2本クランクエンジン(4気筒の中央真ん中でクランク軸を切り離した)を開発しました‼️🤗
これが有名な「ビッグバン」と呼ばれる革命的エンジン。
ギャリー・マッコイ、モンキーのカスタムパーツは草
コーリンとか懐かしい😁
89年にエディーがなぜホンダに電撃移籍したのか、
そんな理由だったのですね。
しかしアーブ金本氏によるGPシーズン中における
89NSRの徹底的なフレーム補強やホンダ社による度重なるアップデートは
当時はバブル期だったとはいえWGP開発熱の、ものすごさが良く分かります。
35から48までの右側3本出しマフラーのYZRは今も好き。
鈴鹿のダンロップコーナーを逆ハン切ってテールスライドしながら走るレーニーの姿は目に焼き付いている😂✌️🏍️💨💨💨💨💨💨
ケニー・ロバーツやスペンサーが活躍した頃の映画『プライド·ワン』を思い出しました。GP転戦をコンチネンタルサーカスと言うのも覚えた映画でした。
昔、金谷秀夫がインタビューで言っていたけど、サーリネンが事故死した時、傍から見ても助からない状態だったらしい。
で、ピットに戻ってきた時にサーリネンの母親に息子の安否を聞かれたけど、見たそのままを言うのを躊躇したので
「分からない」と答えたら、「お前は自分のチームメイトが事故に遭っているのに「分からない」とはどういう事だ!」
と、激しく詰め寄られたらしい。
まともな人間だったから躊躇するしかなかったのに
こういう事実を躊躇することなく告げるなんてできないはずだ
250ccのTZ、YZRもやって下さい🙏
当時高校生だった私はOW86の左右に張り出したエアインテークを見て戦闘機かと思いました😊
歴代YZRの中で一番好きなデザインです
MotoGP になってからもう21年ですか。早いものですね。
個人的には、世界最高峰の2輪レースは2st 500CC であってほしいです。
日本メーカー排除はMotoGPになった今でもありますね。
共通ECUとか、結局モータースポーツ文化はヨーロッパ発祥だから、アジアのメーカーが活躍するのは面白くないんですよね。ヤツラは。
MotoGP(Dorna)になって、そう言った政治色が強くなったのも、魅力がなくなった要因の一つだと思ってます。
懐かしいレーサーの名前が出てきて嬉しいですね!
個人的には「汚れた英雄」の影響もあって YZR500 より TZ500 の方が印象強いです。
ケニーロジャース😊
ウケました🎉
頭の記憶から、全く消えいたケニーロジャース、顔がイキナリ出てきました😂
羽のついたYZRがあったと思うけど、何年型?
上野のコーリンが出てきたけど、僕もよく行ったな昨日バイクの車検に上野のバイク屋行ったけどコーリンのお店自体はもうなくてコーリンの本社高なんかのビジィネスの物になってた多分建物自体は同じだと思うけどYZRに関して言えばやはりバイクを乗り始めた頃に活躍していたエディ・ローソンやウェイン・レイニー等が懐かしいく好きなライダーだった特にウェイン・レイニーはね、何年も探して彼のレプリカヘルメットを手に入れたほど
12:47 プラモデル作りました。
ストレートランをしているロバーツ付き。
ヤマハのワークスマシンってオーダブリュだったと思ってた。当時の雑誌の表記もそうだったし。「市販車と無関係なものはいけない」という開発方針は知らなかった 0W23からカセットミッション採用というのは進歩的だなあ
0W86あたりが好きだったなぁ
空力的が辛かったらしいけど
俺のリッターSSとどっちが速いかな?トルクは3.5Kg勝っているんだけどパワーウエイトレシオは0.3ほど負けている。また汚れた英雄みたいな映画を作ってほしいな。
0:45〜 霊夢ちゃんの「なんか、おしりたんていみたいなカウルね」と聞いて、「失礼こかせていただきます😙」と必殺技を前方から吹き出しながら他車を蹴散らしてしまう場面を想像してしまいました…😅
転倒でシャレにならない怪我人や○亡者が出るので笑ってはいけないですが…😰
ハングオン(オフ)禁止のレース開催して😊マシンもリーンウィズリーンイン専用に開発しちゃってさ😊
ケニーでのボケ、面白過ぎ!
お互いボケまくって結局知ってんのかよってwww
ルカ=カダローラとノリックを応援してたよ!ヘルメットもカダローラレプリカを持ってたしね。
←レイニーコスで鈴鹿のレース2stラストイヤーをフル参戦
場内アナウンスでも あれはコスプレって
TZr3MAだけど(笑)
0WC1のレイニーが1番好き
懐かしいな。たまに鈴鹿に見にいってたな。軽い排気音が快感なんだ。1993の頃かな?
私もRACERSで読みました。
18:47 「ヘッドパイプ位置をライダー側に寄せ」って、要は倒立式のフロントフォークにしたってことじゃないの?前年のマシンの画像との比較でもそうなってますけど。
ヤマハは、これだけ凄い2スト500ccのエンジンを開発しているのに
市販車にフィードバックされなかったのが残念
RZV500を市販しましたが?
のちこ氏、基本的にマシン解説の方だと思いますが、GPライダーの解説も儂は希望しております。 ノリック・・ 儂か彼こそ非業のライダーだと思っております是非!
他にはイワオ 加藤君等候補多いが、片山を詳しく解説してほしい、K・バリントンと共に。
上野コーリン(;゚д゚)
金谷秀夫の欠場は有色人種差別だったんじゃないの?
御家事情、元々開発兼任での参戦だったのでランク関係無しに途中帰国は決まってた。
4stになって一気につまらなくなってWGP観なくなりました。 昨今のマシンは全然美しくないし。
バリ伝世代にはヒーローのNSR500が出たばかりのRC211Vに全く歯が立たない現実が受け入れられないのもありました。
マッコイ、モンキーオタだったんかい⁈(^^;)
皆、レースライダ-に憧れた時代。8耐も何度も行ったが、レプリカでツ-リングもブームだった。週末、上野昭和通りは近隣ナンバ-が勢揃いで一車線潰れるほどだ。しかしGPライダ-もコー倫に来るのか!ゴリラマ-クのコ-倫は中でも大企業だった、確かレース活動していたな。当時、純正部品のみはバイク屋では買い難く、純正館によく行ったな。仲通りの逸品館だったか?革製品が2階に、店員の革ジャンにリーゼントのクールスの残党みたいなのが数名、訛りの田舎者に無理矢理ピッチピチの革製品を、〇でレクタ-博士の様に着せて「イエィ、お似合い。はぃお買い上げ。ローンもあるぜぃ!」と鶏冠プルプルさせて寄って集って押し売っていたな!三社祭りの名残りかな?長閑な時代だった!!
やっぱり、汚れた英雄でしょうか!
之リックのYZR500を埼玉秋ヶ瀬サーキットで見たことを オモイダシマシタ(゜-゜)v
マジカッコイイな
仮に今の技術で1000cc、2stマシンを作れば400馬力、450キロの最高速、人間が操れるモノではないらしい😂
ジョニーチェコットは、4輪に転向したんだよね。転向後の活躍は、知らないが。
85年トールマンでセナのチームメイトで一応NO.1はチェコットだったのですがセナの方がもちろん速く傷心で引退しました。
すみません。84年の間違いでした。
@@black-knight_03
2輪でケニー、4輪でセナの噛ませ犬
一応、4輪F2ではホンダキラーの1人だったはず(マーチBMWワークス)
「ゼロダブリュー」が正式名称で、何故「オーダブリュー」で呼ばれるのか?。理由は「刻印の打ち間違い」と、教えて頂きました。スラッシュが入った刻印とを、取り違えたそうです。この話しはヤ◯ハのグランプリチーム重鎮(故人)から、生で聞いたので、間違い無いと思います。ちなみに、そのハナシを聞けた場には「世界の◯◯」氏も同席してました。
いやぁーもう…。オーダブリューで良いんではなかろうか。
Google検索ではゼロダブリューだとオイルとかなんかの部品しか出てこない。
オーダブリューだとYZRやYZFとか表示されます。
正しくは、ケネス・ルロイ・ロバーツです。
Bantu saskerb dong orang baik 😢
原付き免許を取った頃のチャンピオン争い。最終戦のケニーとスペンサーのデッドヒートには痺れました。