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いつでも素晴らしい内容に感心しております。これだけ造詣の深い番組は他の追従を許さぬ内容です❤
ありがとうございます!これからも頑張ります。
さまざまな曲の要素について楽譜と音源と一緒に説明されていて、とてもおもしろかったです。ベートーヴェンの曲についての動画はたくさんありますが、その人についてのお話をされることが大抵で、やはり、その曲について突っ込んだお話がないと動画である意味がなく、自分で音源を聴きながら読み物を読めば十分だからです。
ありがとうございます。人生の物語に焦点を当てたり、アナリーゼ(今回みたいな)に焦点を当てたりいろいろ試していこうと思います
ハ短調と言えばまさにベートーヴェンですよね。クラシック以外の分野、ビートルズとか4畳半フォークみたいなのでCmコードはよく出てきますけど曲自体がハ短調は本当に少ないですよね。調べてみたらモチベが上がらない時の筋トレ用にかけるサバイバーのEye of the tiger、あとはさすがピアノ弾きのフレディ、クイーンの曲ではキラークイーンと伝説のチャンピオンがそうでした。本日も素敵な動画を有難うございます。
フレディ・マーキュリーはベートーヴェンを参考にしたかもですね。伝説のチャンピオンは英雄感がしたたってます。
クオリティの高い動画、ありがとうございます!
ありがとうございます。
和声や転調が独創的、革新的でロマン派を先取りしているという評価は、ベートーヴェンよりシューベルトに対して言われることが多いですよね。でも、現代の我々が楽式論のソナタ形式で習うような、提示部第二主題を属調、並行調などで出現させ、再現部で主調で統一するような弁証法的展開は、実はシューベルトの死後、チェルニーの音楽理論などに書かれて定着したもの。18世紀のコッホの音楽理論などを見ると、転調の仕方の定番はなくて、むしろ様々な調を経て主調に回帰する、という書き方をしている。そのことを考えると、中期以降のベートーヴェンやシューベルトの転調の仕方は、独創的で表現豊か、その意味ではロマン派を先取りしていたともいえるかもしれませんが、当時の音楽理論から逸脱したものとは必ずしも言えません。私はきちんと研究したことはないのですが、例えばプレ・クラシックのシュトゥルム・ウント・ドラング時代に、そういう転調の仕方はなかったのかな? と思うことはあります。-調性の選択についても、バロック時代にマッテゾンが主張していたような、各調性にそれぞれ特有な感情表現がある、という考えは、シューベルト時代のモーゼルの理論にまで続いていて、シューベルトはその影響を受けている。ですので、ベートーヴェンがハ短調の曲を多く書いているというのは、この調性が、フランス革命後、市民革命の嵐が欧州で吹き荒れた時代の雰囲気に合致していたから、ともいえそうです。ちなみにシューベルトのごく初期、つまり1810~1812年頃、コンヴィクト在籍中から、コンヴィクト卒業直後の、ちょうどまだサリエリの指導を受けていた時代に書かれたピアノのためのファンタジーやバラード(声楽曲)などにもこの調性があります。*****《プロメテウスの創造物》の台本が失われていて、筋書きが分からないとのこと。バレエの台本はそもそも難しいですよね。少し後の時代のケルンテン門脇宮廷オペラ劇場の資料は、後衛であるウィーン国立歌劇場資料室が資料をオーストリア国立図書館音楽部門、劇場部門に寄贈していること、オーストリア国立資料館にも資料が残っていることなどから、今までに発見されていなかった資料が、調べれば発見されることはあります。-私も、1820年前後の資料についてずいぶん調べましたし、新たな資料も随分発見しています。ケルンテン門脇宮廷オペラ劇場の上演資料(楽譜、台本)はオーストリア国立図書館音楽部門、ポスターや人員構成などについてはオーストリア国立図書館劇場部門、プロンプター兼コピストが給与増額を願い出た手紙はオーストリア国立図書館手写稿部門、上演曲目や報酬支払記録などについてはオーストリア国立文書館に資料が残っています。こうした資料は、何年の記録と記載された箱の中を誰も調べたことがなかったりして、研究すればまだまだ、新たな発見があります。-問題は、誰がそれをやるか。オーストリア国立資料館に行くと、明らかに定年退官後の高齢の研究者が毎日のように通ってきていたりします。東大本郷キャンパスにある資料室で、ドイツの大学のゼミ発表準備で、遼東半島返還に関する三国干渉関係の資料を調べていた時にも、年配の研究者を多く見かけました。大学や研究所を退官してから、自由な研究を続けているのでしょう。こうした形で、マイペースで研究をー続けて成果を発表するような老後は理想的。でも、年金などの生活保障があり、尚且つ、資料が豊富なウィーンに住んでいなければできませんよね。私もできれば、これからの人生、そういう生活をしたいです。大学等をリタイアしてウィーンで年金生活をする研究者と熟年結婚して一緒にウィーンに行くとか……。(笑)でもウィーンには、実際にそういう感じの人、複数いるのですよ。-私がルーヴァンで2002年に開催された国際音楽学会で研究発表した際に、同じセッションで私の前に発表した日本人女性研究者は、細川ガラシャをモデルにしたオペラの資料をオーストリア国立図書館で発見して研究し、博士号を取得。成果は Denkmäler der österreichische Tonkunst の1巻として校訂譜が出版されているそうです。このオペラは、ウィーン時代のマリー・アントワネットら、マリア・テレジアの娘たちにも愛好されていたそうなので、ホーフブルク劇場時代のものですね。やはり誰にも研究されずに放置されていたものを発見し、細川ガラシャがモデルだからということで、博士論文のテーマに選択し、校訂も依頼されたらしい。ですので、《プロメテウスの創造物》の台本なども、オーストリア国立図書館に眠っている資料を丹念に調べたら出てくるのかもしれません。この方、オーストリア人と結婚なさっているのですが、博士論文執筆中、家事なども引き受けてくれる方がいらしたとのこと。博士論文や教授格取得論文執筆中に家事育児をお姑さんが引き受けてくれたという人は、ドイツ・オーストリアには結構います。日本では考えにくいことなのかもしれませんが。でも、お子さんがいないのに、家事を他の人に引き受けてもらって、オーストリア人と結婚してウィーンに住んで研究を続けるなんて、こちらの人でも恵まれています。研究に対して、オーストリア人の配偶者ということで、学術奨励金のようなものでも出ていたのでしょうか?収入に全く繋がらなず、お金ばかり掛かる資料研究を続けることを家族に理解してもらうのは大変ですからね。尤も、 Denkmäler der österreichische Tonkunst に校訂譜を掲載する際には、多少の原稿料は出たのでしょうけれど。-そんな立場でウィーンで資料研究を続けさせてくれるオーストリア人の方がいらっしゃるのであれば、私も奥さん候補に立候補します。目下、今更帰国するよりは電撃結婚でもした方がまし……? ということで、ドイツの研究所かウィーンで資料研究を続けさせてくれるような当地の生活力のある旦那様(つまり結婚すれば滞在許可と労働許可が自動的に得られる人ということ)を絶賛募集中! なので……。私に対してすら、もう少し若い頃の話ですがね「ドイツ語ができて、芸術に理解のある日本人女性との再婚を希望」というドイツの男爵様からの縁談があったくらいだから、ハプスブルク家、エステルハーツィー家、メッテルニヒ家などの末裔がサロンを形成するウィーンなら、そういう人もいるのかな? と。欧米の社交界は夫人同伴が原則だから、オペラ観劇、コンサート鑑賞、音楽祭訪問などに夫人を着飾らせて連れ歩くために、オペラなどの素養のある夫人を希望、という人も多い。実際、私が毎晩のようにウィーン国立歌劇場に通い詰めていた頃、オーストリアの騎士号を持ち、ウィーン国立歌劇場スポンサー会員という方から、恐らくはオペラ通いに連れ回すためでしょうが、プロポーズされたこともあります。日本人女性や、複数の言語を操れる人は人気なので、そういう夫人の役なら私も喜んで引き受けます。たまのホームパーティー主催(パーティーできるくらいのリビングダイニングキッチンのある家に住んでいることが前提ね)も、オードブル、メインディッシュからデザートまで、ご希望の各国料理の手作りで対応可能。私は、パーティー用のテーブルセッティングは好きだし得意。むしろ、私が好きで集めたクリスタルガラスやウェッジウッド、銀メッキ、錫、黄銅などのパーティー用食器、それに各国語の語学会話力を生かせるような場を作って下さるようなステータス、国際感覚の方を希望。あとは、私でもたくさん持っているシルクのディルンドゥルやトラハテン民族衣装を着てお供し、英独仏伊西露日で適当にお喋りしていればいいというのであれば(笑)私ももう若くはないけれど、2組に1組は離婚すると言われる欧米では、50代以降の熟年再婚もごく当たり前に多いので、釣り合う年齢の方も少なくないでしょう。-(続く)
(続き)-私がウィーンでよく通っていたコンツェルトハウス近くの日本人経営の焼き肉店には、毎日のようにランチを食べにくる、明らかに定年退職後とみられる現地のご年配の方がいらっしゃいました。奥様、いらっしゃらなくて一人暮らしなのかなぁ? と思って見ていたものです。ドイツで開催された国際シンポジウムで私に出会った翌日、いきなりプロポーズしてきた現地の大学の学長氏、お元気なのか気になってウィキペディアを見たら、私と出会った十数年後に「長い闘病生活の後」、60代の若さで死去、とありました。私と出会った時点で50代に入ったくらいの年齢で、奥様はもういらっしゃらなくて、男手一人で小学生のお嬢さまを育てていました。責任のあるハードな仕事なのに奥様の支えもなく、厳しく寂しい老後だったのですね。「物理学にユーモアを持ち込んだ」と大学から惜しまれた物理学者にして、若くてダンディな大学学長、市長選にも出馬して政界にも進出。傍目には順風漫歩な人生に見えても、現実はどこも厳しいな、と。でもそういうことを言うのであれば、ベートーヴェンやシューベルトも、生涯結婚もせず、実生活には無頓着で、かなり酷かったらしいですからね。(笑)*****《プロメテウスの創造物》が28回上演されながら再演はされなかったという事情については、ケルンテン門脇宮廷オペラ劇場が市民劇場でもあったのに対し、ホーフブルク劇場はより宮廷劇場的性格が強かったと思うので、初演シーズンに何度か上演されたら、ある意味使い捨てで、再演されないのはむしろ普通だった可能性もあります。特にバレエの場合はそういうことは多かったのではないでしょうか?-市民革命の機運が高まる中で、体制批判的な内容から上演されなかったというのは、ボーマルシェの戯曲に基づく《フィガロの結婚》が、その体制批判的な内容にも拘らずオペラとして人気だったことを考えるとどうなのかな?検閲資料については、検閲資料を集めていたウィーンの王宮の一部が火事に遭って、シューベルト時代の資料は消失しているらしい。《プロメテウスの創造物》に関するものは、少し時代が早いので、残っているかどうか、調べなければ分かりません。もし資料が残っているとしたら、オーストリア国立文書館か、オーストリア国立図書館手写稿部門なのでしょうけれど。
いつも勉強になるコメントをありがとうございます!検閲資料を集めた資料室があるとは…。バレエが使い切りの娯楽だった可能性というのもあるというのも、確かにと思いました。ハ短調の意味合いについてもコメントありがとうございました。
@@クラシック音楽奇譚 火災で検閲資料が焼失したのは、いわゆる資料室ではなく、王宮の一部で、当時の検閲資料を保管していた役所 Zensurbehörde(検閲局?)の建物です。現在でも、王宮の建物にはオーストリア国立図書館やアルベルティーナ翼の美術館のほか、オーストリア国立資料館、官公庁の部署などが入っており、一部はアパートとして貸し出されてもいます。ミュージカル《エリーザベート》の作曲者は、博物館として公開されているシッシーの部屋の2階下だったかな? とにかく、ほぼ同じ位置から中庭ヘルデンプラッツを眺められる位置のアパートに住んでいるというのでびっくりしたことがあります。-私がウィーン資料研究滞在をしたのは、95年から足掛け15年。ウィーンに部屋を借りてほぼ一年中住んでいたのは2000年までで、《双子の兄弟》の校訂作業準備のために1820年頃の資料を調べていたのは99年初頭まで。その後は紙の透かしとラストラールによる年代判定研究に従事していたので、検定資料を含む、《双子の兄弟》関連の資料を調べていたのは、もう四半世紀かそれ以上前のことになります。-なのでどの資料がどこに保管されていたのか、正確なことは資料のコピーを確認しないと私もすべて記憶しているわけではありません。今、記憶している限りでは、確かオーストリア国立図書館手写稿部門に、火災を逃れた検閲資料が保管されていたように思います。-私も、確か1928年の《双子の兄弟》の再演時の検閲官の報告書を閲覧し、コピーも入手した記憶があります。当時は、オペラでも演出する舞台監督用の台本をまず台本作家の自筆稿から2部筆写し、内容に問題がないかどうか審査してもらうのです。検閲を通って上演が許可されると、主要コピストが作成したきれいな写本を検閲局に保管し、助手が筆写したあまりきれいではない方の写本に、検閲局から上演を許可した旨のサインが書き込まれて返却され、そこでやっと上演準備が始まる。《双子の兄弟》に関しては、この検閲局のサイン入りの舞台監督用台本のほかに、主要コピストによって作成された、舞台助手用の台本、プロンプター用台本、各役柄用の歌手のための台本が残っています。更に実際の上演の際には検閲局の役人が立ち会い、その報告書が作成され、検閲局に保管されます。検閲局の役人が上演に立ち会ったのには、戯曲作者兼俳優だったネネストロイなどの場合、検閲に引っ掛かりそうな言葉は台詞として台本に書き込むのではなく、伏字にした上で、実際の舞台ではパントマイム的に演じて観客に理解させてしまうことがあったため。ネストロイ全集には、そうしたことに至るまで、詳細な注釈がついているそうです。-《双子の兄弟》の場合、1820年の初演の後、1882年、1897年、1928年に再演されており、私が検閲局の報告書を見たのは、 1928年のものだったと思います。手書きではなく、タイプで打ったものでした。火災がなければ、1820年の初演、18820年の蘇演時の検閲官の手書きの報告書が、検閲局に残っていたはずなのです。-シューベルトの舞台音楽の場合には、ケルンテン門脇宮廷オペラ劇場からの委嘱作品である《双子の兄弟》や《フィエラブラス》は問題なし。もともと《陰謀者たち》というタイトルだったジングシュピールは、《家庭騒動》と改名されました。カトリックの教義上、問題がある重婚を扱った《フォン・グライヒェン伯爵》は、メッテルニヒ政権下のウィーンでの上演は難しいと判断され、外国での上演が決まったらフル・スコアに書き直すつもりで、ピアノスコアの形で取り敢えず構想を書き留めておいたと言われています。《アルフォンソとエストレッラ》についても、ウィーンではなくライプツィヒなど外国での上演を目指していたという背景には、物語に陰謀が深くかかわっていることも関係しているかもしれません。(《アルフォンソとエストレッラ》は、レオン王国のフロイラ国王が重臣マウレガートに謀反を起こされ、そのマウレガートも、マウレガートの娘エストレッラを狙う将軍アドルフォに謀反を起こされ、フロイラ国王の王子アルフォンソがアドルフォの軍隊を打ち破り、相思相愛のエストレッラと共にレオン国を治めるという物語。)-《プロメテウスの創造》は題材がギリシャ神話なので、神話上の神への反抗に目くじらを立てたとは思えないのですが。当時はバレエだけではなく、オペラ作品の大半もまだまだ使い捨ての娯楽。ケルンテン門脇宮廷オペラ劇場のレパートリーについては、初演、再演、新演出などのすべての記録、ウィーン以外のオペラ座も含めたものについては新作オペラのタイトルを網羅したカタログ本があります。こういうカタログ本を見ると、いかにオペラやバレエが使い捨てで、人々が常に新作を求めていたかが分かります。*****それにしても、当時は夢中であまり意識していませんでしたが、オーストリア国立資料館での資料の発掘などは第一線の資料研究だったと改めて思います。忘れないうちに、個別に小さな論文にしてまとめておかなければなりませんね。
バレエの当時の上演についてとても詳しく教えていただきありがとうございます。説明欄に補足を出しておきました。お話を聞けば聞くほど興味深く、ぜひ論文のかたちで残しておいてほしいと勝手ながら思います。(言うのは簡単ですね)
@@クラシック音楽奇譚 私が調査していた《双子の兄弟》はジングシュピール。初演時は「歌入り笑劇 Posse mit Gesang」として上演されたもので、ドイツ語の台詞が入っています。《フィエラブラス》はオペラですが、やはりドイツ語の台詞入りです。ネストロイについては、シンポジウムでネストロイ全集校訂者が語っていたものの受け売りで、こちらは演劇です。ですので、台詞が入らないバレエとは、検閲事情は異なると思いますのでご注意ください。私は、上演資料を詳しく調べたのは《双子の兄弟》だけ。シューベルトはいわゆるバレエ音楽は書いていないし、私はその後、シューベルトの自筆譜と、ケルンテン門脇宮廷オペラ劇場上演譜の紙の透かしやラストラールを調べる年代判定研究に従事していたので、それ以外の資料はあまり見ていないのです。興味深い資料はたくさんあるのですが、研究しても収入には繋がらないし、時間はいくらあっても足りませんからね。-検閲局が火災に遭ったのは、確かかなり以前、つまりまだ検閲局が存在していた時代のことで、遅くとも戦前と思われます。こちらは、新シューベルト全集を校訂する国際シュー減ると教会ウィーン支部初代研究員で、高名なハイドン研究者だったロビンス・ランドンの夫人でもあるオーストリア人研究者、クリスタ・ランドンがウィーンで調べた結果を私が指導教官だったデュル教授から伺ったもの。クリスタ・ランドンは1979年に飛行機事故で亡くなり、後任のリッチャウアー女史も既に定年退職。デュル先生も2018年初頭に急逝されました。ですので、こうしたウィーンの貴重な情報も、今では知る人も少なくなっているということですね。-ロビンス・ランドンも、オーストリア人と結婚してウィーンで研究を続けたアメリカ人。とにかくウィーンは資料の宝庫で、ウィーンに居なければできない研究がたくさんあります。ただ、ウィーンで生活していくための仕事を見つけるのは難しい。なので、本国である程度仕事をしてから、50代くらいで早期退職して、ウィーンに移住して悠々自適のリタイア研究生活をしているオランダ人やカナダ人研究者がいる。デュッセルドルフのシューマン研究所所長である前田昭雄氏の夫人とお嬢さま、参政党代表の松田学氏のピアニストの夫人とオペラ歌手のお嬢さまなどもウィーン在住。アメリカ人で、博士号取得後、オーストリア国立図書館音楽部門の専門司書になっている人も。私もウィーン楽友協会資料室長のビーバ博士とは知己があるのですが、週3日、半日の仕事でもいいから専門司書として潜り込めないかなと思うことも。本当はシューベルトの自筆譜を一番たくさん持っているのはウィーン図書館音楽部門なのですが。オーストリアは、ドイツとは異なり、学生のバイトでも2年間働くと、その後は労働許可が下りて、オーストリア国内どこでも働けるらしい。何とかしてウィーンに住んでしまえば、今、国際シューベルト教会ウィーン支部の若い研究員がいら入れてやっている年代判定研究なんて、私が何十年も手掛けていて、どうせ私にしかできないことをウィーンの研究者たちの多くが知っているから、私にお鉢が回ってくると思うのですが、そこになかなか食い込めないのが、外国人の辛さです。研究に理解のあるオーストリア人と結婚してしまうのが一番簡単なのだろうけれど、前田昭雄氏や松田学氏のご家族のことを考えると、日本人同士の結婚でも、うまく事を運べば可能なはず?まぁ、研究するにも裏にはいろいろありますが、頑張ります。
ベートーヴェンがロンベルクにチェロ協奏曲の作曲を申し出て、ロンベルクが拒否した、、とWikiにはあるのですが、、ベートーヴェンのチェロ協奏曲、、聴いてみたかったのと同時に、素晴らしいチェロソナタに感謝です。
トリプルコンチェルトはありますね。もうちょっと長く生きてたら書いてたかも?コメントありがとうございました。
いつでも素晴らしい内容に感心しております。
これだけ造詣の深い番組は他の追従を許さぬ内容です❤
ありがとうございます!これからも頑張ります。
さまざまな曲の要素について楽譜と音源と一緒に説明されていて、とてもおもしろかったです。ベートーヴェンの曲についての動画はたくさんありますが、その人についてのお話をされることが大抵で、やはり、その曲について突っ込んだお話がないと動画である意味がなく、自分で音源を聴きながら読み物を読めば十分だからです。
ありがとうございます。
人生の物語に焦点を当てたり、
アナリーゼ(今回みたいな)に焦点を当てたり
いろいろ試していこうと思います
ハ短調と言えばまさにベートーヴェンですよね。クラシック以外の分野、ビートルズとか4畳半フォークみたいなのでCmコードはよく出てきますけど曲自体がハ短調は本当に少ないですよね。
調べてみたらモチベが上がらない時の筋トレ用にかけるサバイバーのEye of the tiger、あとはさすがピアノ弾きのフレディ、クイーンの曲ではキラークイーンと伝説のチャンピオンがそうでした。
本日も素敵な動画を有難うございます。
フレディ・マーキュリーはベートーヴェンを参考にしたかもですね。伝説のチャンピオンは英雄感がしたたってます。
クオリティの高い動画、ありがとうございます!
ありがとうございます。
和声や転調が独創的、革新的でロマン派を先取りしているという評価は、ベートーヴェンよりシューベルトに対して言われることが多いですよね。
でも、現代の我々が楽式論のソナタ形式で習うような、提示部第二主題を属調、並行調などで出現させ、再現部で主調で統一するような弁証法的展開は、実はシューベルトの死後、チェルニーの音楽理論などに書かれて定着したもの。
18世紀のコッホの音楽理論などを見ると、転調の仕方の定番はなくて、むしろ様々な調を経て主調に回帰する、という書き方をしている。
そのことを考えると、中期以降のベートーヴェンやシューベルトの転調の仕方は、独創的で表現豊か、その意味ではロマン派を先取りしていたともいえるかもしれませんが、当時の音楽理論から逸脱したものとは必ずしも言えません。
私はきちんと研究したことはないのですが、例えばプレ・クラシックのシュトゥルム・ウント・ドラング時代に、そういう転調の仕方はなかったのかな? と思うことはあります。
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調性の選択についても、バロック時代にマッテゾンが主張していたような、各調性にそれぞれ特有な感情表現がある、という考えは、シューベルト時代のモーゼルの理論にまで続いていて、シューベルトはその影響を受けている。
ですので、ベートーヴェンがハ短調の曲を多く書いているというのは、この調性が、フランス革命後、市民革命の嵐が欧州で吹き荒れた時代の雰囲気に合致していたから、ともいえそうです。
ちなみにシューベルトのごく初期、つまり1810~1812年頃、コンヴィクト在籍中から、コンヴィクト卒業直後の、ちょうどまだサリエリの指導を受けていた時代に書かれたピアノのためのファンタジーやバラード(声楽曲)などにもこの調性があります。
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《プロメテウスの創造物》の台本が失われていて、筋書きが分からないとのこと。
バレエの台本はそもそも難しいですよね。
少し後の時代のケルンテン門脇宮廷オペラ劇場の資料は、後衛であるウィーン国立歌劇場資料室が資料をオーストリア国立図書館音楽部門、劇場部門に寄贈していること、オーストリア国立資料館にも資料が残っていることなどから、今までに発見されていなかった資料が、調べれば発見されることはあります。
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私も、1820年前後の資料についてずいぶん調べましたし、新たな資料も随分発見しています。
ケルンテン門脇宮廷オペラ劇場の上演資料(楽譜、台本)はオーストリア国立図書館音楽部門、ポスターや人員構成などについてはオーストリア国立図書館劇場部門、プロンプター兼コピストが給与増額を願い出た手紙はオーストリア国立図書館手写稿部門、上演曲目や報酬支払記録などについてはオーストリア国立文書館に資料が残っています。
こうした資料は、何年の記録と記載された箱の中を誰も調べたことがなかったりして、研究すればまだまだ、新たな発見があります。
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問題は、誰がそれをやるか。
オーストリア国立資料館に行くと、明らかに定年退官後の高齢の研究者が毎日のように通ってきていたりします。
東大本郷キャンパスにある資料室で、ドイツの大学のゼミ発表準備で、遼東半島返還に関する三国干渉関係の資料を調べていた時にも、年配の研究者を多く見かけました。
大学や研究所を退官してから、自由な研究を続けているのでしょう。
こうした形で、マイペースで研究をー続けて成果を発表するような老後は理想的。でも、年金などの生活保障があり、尚且つ、資料が豊富なウィーンに住んでいなければできませんよね。
私もできれば、これからの人生、そういう生活をしたいです。
大学等をリタイアしてウィーンで年金生活をする研究者と熟年結婚して一緒にウィーンに行くとか……。(笑)
でもウィーンには、実際にそういう感じの人、複数いるのですよ。
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私がルーヴァンで2002年に開催された国際音楽学会で研究発表した際に、同じセッションで私の前に発表した日本人女性研究者は、細川ガラシャをモデルにしたオペラの資料をオーストリア国立図書館で発見して研究し、博士号を取得。成果は Denkmäler der österreichische Tonkunst の1巻として校訂譜が出版されているそうです。
このオペラは、ウィーン時代のマリー・アントワネットら、マリア・テレジアの娘たちにも愛好されていたそうなので、ホーフブルク劇場時代のものですね。
やはり誰にも研究されずに放置されていたものを発見し、細川ガラシャがモデルだからということで、博士論文のテーマに選択し、校訂も依頼されたらしい。
ですので、《プロメテウスの創造物》の台本なども、オーストリア国立図書館に眠っている資料を丹念に調べたら出てくるのかもしれません。
この方、オーストリア人と結婚なさっているのですが、博士論文執筆中、家事なども引き受けてくれる方がいらしたとのこと。
博士論文や教授格取得論文執筆中に家事育児をお姑さんが引き受けてくれたという人は、ドイツ・オーストリアには結構います。日本では考えにくいことなのかもしれませんが。
でも、お子さんがいないのに、家事を他の人に引き受けてもらって、オーストリア人と結婚してウィーンに住んで研究を続けるなんて、こちらの人でも恵まれています。
研究に対して、オーストリア人の配偶者ということで、学術奨励金のようなものでも出ていたのでしょうか?
収入に全く繋がらなず、お金ばかり掛かる資料研究を続けることを家族に理解してもらうのは大変ですからね。尤も、 Denkmäler der österreichische Tonkunst に校訂譜を掲載する際には、多少の原稿料は出たのでしょうけれど。
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そんな立場でウィーンで資料研究を続けさせてくれるオーストリア人の方がいらっしゃるのであれば、私も奥さん候補に立候補します。
目下、今更帰国するよりは電撃結婚でもした方がまし……? ということで、ドイツの研究所かウィーンで資料研究を続けさせてくれるような当地の生活力のある旦那様(つまり結婚すれば滞在許可と労働許可が自動的に得られる人ということ)を絶賛募集中! なので……。
私に対してすら、もう少し若い頃の話ですがね「ドイツ語ができて、芸術に理解のある日本人女性との再婚を希望」というドイツの男爵様からの縁談があったくらいだから、ハプスブルク家、エステルハーツィー家、メッテルニヒ家などの末裔がサロンを形成するウィーンなら、そういう人もいるのかな? と。
欧米の社交界は夫人同伴が原則だから、オペラ観劇、コンサート鑑賞、音楽祭訪問などに夫人を着飾らせて連れ歩くために、オペラなどの素養のある夫人を希望、という人も多い。
実際、私が毎晩のようにウィーン国立歌劇場に通い詰めていた頃、オーストリアの騎士号を持ち、ウィーン国立歌劇場スポンサー会員という方から、恐らくはオペラ通いに連れ回すためでしょうが、プロポーズされたこともあります。
日本人女性や、複数の言語を操れる人は人気なので、そういう夫人の役なら私も喜んで引き受けます。
たまのホームパーティー主催(パーティーできるくらいのリビングダイニングキッチンのある家に住んでいることが前提ね)も、オードブル、メインディッシュからデザートまで、ご希望の各国料理の手作りで対応可能。
私は、パーティー用のテーブルセッティングは好きだし得意。むしろ、私が好きで集めたクリスタルガラスやウェッジウッド、銀メッキ、錫、黄銅などのパーティー用食器、それに各国語の語学会話力を生かせるような場を作って下さるようなステータス、国際感覚の方を希望。
あとは、私でもたくさん持っているシルクのディルンドゥルやトラハテン民族衣装を着てお供し、英独仏伊西露日で適当にお喋りしていればいいというのであれば(笑)
私ももう若くはないけれど、2組に1組は離婚すると言われる欧米では、50代以降の熟年再婚もごく当たり前に多いので、釣り合う年齢の方も少なくないでしょう。
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(続く)
(続き)
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私がウィーンでよく通っていたコンツェルトハウス近くの日本人経営の焼き肉店には、毎日のようにランチを食べにくる、明らかに定年退職後とみられる現地のご年配の方がいらっしゃいました。
奥様、いらっしゃらなくて一人暮らしなのかなぁ? と思って見ていたものです。
ドイツで開催された国際シンポジウムで私に出会った翌日、いきなりプロポーズしてきた現地の大学の学長氏、お元気なのか気になってウィキペディアを見たら、私と出会った十数年後に「長い闘病生活の後」、60代の若さで死去、とありました。
私と出会った時点で50代に入ったくらいの年齢で、奥様はもういらっしゃらなくて、男手一人で小学生のお嬢さまを育てていました。
責任のあるハードな仕事なのに奥様の支えもなく、厳しく寂しい老後だったのですね。
「物理学にユーモアを持ち込んだ」と大学から惜しまれた物理学者にして、若くてダンディな大学学長、市長選にも出馬して政界にも進出。
傍目には順風漫歩な人生に見えても、現実はどこも厳しいな、と。
でもそういうことを言うのであれば、ベートーヴェンやシューベルトも、生涯結婚もせず、実生活には無頓着で、かなり酷かったらしいですからね。(笑)
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《プロメテウスの創造物》が28回上演されながら再演はされなかったという事情については、ケルンテン門脇宮廷オペラ劇場が市民劇場でもあったのに対し、ホーフブルク劇場はより宮廷劇場的性格が強かったと思うので、初演シーズンに何度か上演されたら、ある意味使い捨てで、再演されないのはむしろ普通だった可能性もあります。
特にバレエの場合はそういうことは多かったのではないでしょうか?
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市民革命の機運が高まる中で、体制批判的な内容から上演されなかったというのは、ボーマルシェの戯曲に基づく《フィガロの結婚》が、その体制批判的な内容にも拘らずオペラとして人気だったことを考えるとどうなのかな?
検閲資料については、検閲資料を集めていたウィーンの王宮の一部が火事に遭って、シューベルト時代の資料は消失しているらしい。
《プロメテウスの創造物》に関するものは、少し時代が早いので、残っているかどうか、調べなければ分かりません。
もし資料が残っているとしたら、オーストリア国立文書館か、オーストリア国立図書館手写稿部門なのでしょうけれど。
いつも勉強になるコメントをありがとうございます!
検閲資料を集めた資料室があるとは…。
バレエが使い切りの娯楽だった可能性というのもあるというのも、確かにと思いました。
ハ短調の意味合いについてもコメントありがとうございました。
@@クラシック音楽奇譚
火災で検閲資料が焼失したのは、いわゆる資料室ではなく、王宮の一部で、当時の検閲資料を保管していた役所 Zensurbehörde(検閲局?)の建物です。
現在でも、王宮の建物にはオーストリア国立図書館やアルベルティーナ翼の美術館のほか、オーストリア国立資料館、官公庁の部署などが入っており、一部はアパートとして貸し出されてもいます。
ミュージカル《エリーザベート》の作曲者は、博物館として公開されているシッシーの部屋の2階下だったかな? とにかく、ほぼ同じ位置から中庭ヘルデンプラッツを眺められる位置のアパートに住んでいるというのでびっくりしたことがあります。
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私がウィーン資料研究滞在をしたのは、95年から足掛け15年。
ウィーンに部屋を借りてほぼ一年中住んでいたのは2000年までで、《双子の兄弟》の校訂作業準備のために1820年頃の資料を調べていたのは99年初頭まで。
その後は紙の透かしとラストラールによる年代判定研究に従事していたので、検定資料を含む、《双子の兄弟》関連の資料を調べていたのは、もう四半世紀かそれ以上前のことになります。
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なのでどの資料がどこに保管されていたのか、正確なことは資料のコピーを確認しないと私もすべて記憶しているわけではありません。
今、記憶している限りでは、確かオーストリア国立図書館手写稿部門に、火災を逃れた検閲資料が保管されていたように思います。
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私も、確か1928年の《双子の兄弟》の再演時の検閲官の報告書を閲覧し、コピーも入手した記憶があります。
当時は、オペラでも演出する舞台監督用の台本をまず台本作家の自筆稿から2部筆写し、内容に問題がないかどうか審査してもらうのです。
検閲を通って上演が許可されると、主要コピストが作成したきれいな写本を検閲局に保管し、助手が筆写したあまりきれいではない方の写本に、検閲局から上演を許可した旨のサインが書き込まれて返却され、そこでやっと上演準備が始まる。
《双子の兄弟》に関しては、この検閲局のサイン入りの舞台監督用台本のほかに、主要コピストによって作成された、舞台助手用の台本、プロンプター用台本、各役柄用の歌手のための台本が残っています。
更に実際の上演の際には検閲局の役人が立ち会い、その報告書が作成され、検閲局に保管されます。
検閲局の役人が上演に立ち会ったのには、戯曲作者兼俳優だったネネストロイなどの場合、検閲に引っ掛かりそうな言葉は台詞として台本に書き込むのではなく、伏字にした上で、実際の舞台ではパントマイム的に演じて観客に理解させてしまうことがあったため。
ネストロイ全集には、そうしたことに至るまで、詳細な注釈がついているそうです。
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《双子の兄弟》の場合、1820年の初演の後、1882年、1897年、1928年に再演されており、私が検閲局の報告書を見たのは、 1928年のものだったと思います。手書きではなく、タイプで打ったものでした。
火災がなければ、1820年の初演、18820年の蘇演時の検閲官の手書きの報告書が、検閲局に残っていたはずなのです。
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シューベルトの舞台音楽の場合には、ケルンテン門脇宮廷オペラ劇場からの委嘱作品である《双子の兄弟》や《フィエラブラス》は問題なし。
もともと《陰謀者たち》というタイトルだったジングシュピールは、《家庭騒動》と改名されました。
カトリックの教義上、問題がある重婚を扱った《フォン・グライヒェン伯爵》は、メッテルニヒ政権下のウィーンでの上演は難しいと判断され、外国での上演が決まったらフル・スコアに書き直すつもりで、ピアノスコアの形で取り敢えず構想を書き留めておいたと言われています。
《アルフォンソとエストレッラ》についても、ウィーンではなくライプツィヒなど外国での上演を目指していたという背景には、物語に陰謀が深くかかわっていることも関係しているかもしれません。
(《アルフォンソとエストレッラ》は、レオン王国のフロイラ国王が重臣マウレガートに謀反を起こされ、そのマウレガートも、マウレガートの娘エストレッラを狙う将軍アドルフォに謀反を起こされ、フロイラ国王の王子アルフォンソがアドルフォの軍隊を打ち破り、相思相愛のエストレッラと共にレオン国を治めるという物語。)
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《プロメテウスの創造》は題材がギリシャ神話なので、神話上の神への反抗に目くじらを立てたとは思えないのですが。
当時はバレエだけではなく、オペラ作品の大半もまだまだ使い捨ての娯楽。
ケルンテン門脇宮廷オペラ劇場のレパートリーについては、初演、再演、新演出などのすべての記録、ウィーン以外のオペラ座も含めたものについては新作オペラのタイトルを網羅したカタログ本があります。
こういうカタログ本を見ると、いかにオペラやバレエが使い捨てで、人々が常に新作を求めていたかが分かります。
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それにしても、当時は夢中であまり意識していませんでしたが、オーストリア国立資料館での資料の発掘などは第一線の資料研究だったと改めて思います。
忘れないうちに、個別に小さな論文にしてまとめておかなければなりませんね。
バレエの当時の上演についてとても詳しく教えていただきありがとうございます。説明欄に補足を出しておきました。
お話を聞けば聞くほど興味深く、ぜひ論文のかたちで残しておいてほしいと勝手ながら思います。(言うのは簡単ですね)
@@クラシック音楽奇譚
私が調査していた《双子の兄弟》はジングシュピール。
初演時は「歌入り笑劇 Posse mit Gesang」として上演されたもので、ドイツ語の台詞が入っています。
《フィエラブラス》はオペラですが、やはりドイツ語の台詞入りです。
ネストロイについては、シンポジウムでネストロイ全集校訂者が語っていたものの受け売りで、こちらは演劇です。
ですので、台詞が入らないバレエとは、検閲事情は異なると思いますのでご注意ください。
私は、上演資料を詳しく調べたのは《双子の兄弟》だけ。
シューベルトはいわゆるバレエ音楽は書いていないし、私はその後、シューベルトの自筆譜と、ケルンテン門脇宮廷オペラ劇場上演譜の紙の透かしやラストラールを調べる年代判定研究に従事していたので、それ以外の資料はあまり見ていないのです。
興味深い資料はたくさんあるのですが、研究しても収入には繋がらないし、時間はいくらあっても足りませんからね。
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検閲局が火災に遭ったのは、確かかなり以前、つまりまだ検閲局が存在していた時代のことで、遅くとも戦前と思われます。
こちらは、新シューベルト全集を校訂する国際シュー減ると教会ウィーン支部初代研究員で、高名なハイドン研究者だったロビンス・ランドンの夫人でもあるオーストリア人研究者、クリスタ・ランドンがウィーンで調べた結果を私が指導教官だったデュル教授から伺ったもの。
クリスタ・ランドンは1979年に飛行機事故で亡くなり、後任のリッチャウアー女史も既に定年退職。
デュル先生も2018年初頭に急逝されました。
ですので、こうしたウィーンの貴重な情報も、今では知る人も少なくなっているということですね。
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ロビンス・ランドンも、オーストリア人と結婚してウィーンで研究を続けたアメリカ人。
とにかくウィーンは資料の宝庫で、ウィーンに居なければできない研究がたくさんあります。
ただ、ウィーンで生活していくための仕事を見つけるのは難しい。
なので、本国である程度仕事をしてから、50代くらいで早期退職して、ウィーンに移住して悠々自適のリタイア研究生活をしているオランダ人やカナダ人研究者がいる。
デュッセルドルフのシューマン研究所所長である前田昭雄氏の夫人とお嬢さま、参政党代表の松田学氏のピアニストの夫人とオペラ歌手のお嬢さまなどもウィーン在住。
アメリカ人で、博士号取得後、オーストリア国立図書館音楽部門の専門司書になっている人も。
私もウィーン楽友協会資料室長のビーバ博士とは知己があるのですが、週3日、半日の仕事でもいいから専門司書として潜り込めないかなと思うことも。
本当はシューベルトの自筆譜を一番たくさん持っているのはウィーン図書館音楽部門なのですが。
オーストリアは、ドイツとは異なり、学生のバイトでも2年間働くと、その後は労働許可が下りて、オーストリア国内どこでも働けるらしい。
何とかしてウィーンに住んでしまえば、今、国際シューベルト教会ウィーン支部の若い研究員がいら入れてやっている年代判定研究なんて、私が何十年も手掛けていて、どうせ私にしかできないことをウィーンの研究者たちの多くが知っているから、私にお鉢が回ってくると思うのですが、そこになかなか食い込めないのが、外国人の辛さです。
研究に理解のあるオーストリア人と結婚してしまうのが一番簡単なのだろうけれど、前田昭雄氏や松田学氏のご家族のことを考えると、日本人同士の結婚でも、うまく事を運べば可能なはず?
まぁ、研究するにも裏にはいろいろありますが、頑張ります。
ベートーヴェンがロンベルクにチェロ協奏曲の作曲を申し出て、ロンベルクが拒否した、、とWikiにはあるのですが、、
ベートーヴェンのチェロ協奏曲、、聴いてみたかったのと同時に、素晴らしいチェロソナタに感謝です。
トリプルコンチェルトはありますね。
もうちょっと長く生きてたら書いてたかも?
コメントありがとうございました。