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貴重なお話、有難う御座います。真実はいつも、人間のエゴで隠されてしまうのですね。歴史は面白いですね。
私の祖父は満州で義経の墓を見つけたそうです。満州鉄道の調査隊として働いていましたが、奉天から山間部に入った農村の家々には源義経の貼り紙がしてあり、御札として使われていたそうです。村長から義経の墓の場所を教えられ、巨大な墳墓に行ったそうですが、入口の大きな門柱には笹竜胆の家紋が掘られていたそうです。義経は大陸に渡ったのだ、と幼い私に何度も話してくれたことを覚えています。今でもワクワクします。
満州で義経の巨大墳墓とは興味深いですね!!!情報ありがとうございます^^
何かでみましたよーモンゴル語で源義経の読みはジンギスカンって北海道本別町には義経山と静山と言う名の山があります
高齢者ですが、先生たちのお話が、面白いので、今から歴史の本をたくさん読もうとおもい、田中先生の本、買いました。
御三方のそれぞれ 貴重なお発言がいちいち素晴らしくて、時間を忘れて聞き入りました。田中英道先生のこうした企画力や 上手く言えないのですが丁寧な想いの様なものに感動しています。それに比べて 権威主義で乱暴な東大の姿勢は、最近あちこちで耳にしますね。嘆いておられる誠実な研究者や学者の方を 私は尊敬しております。
無茶苦茶夢のある話ですね。シーボルトが発端というのもまた面白い。
少し義経がみえてきた、有難うございます。
「チンギス・ハンはハレンチで残虐」つまり「人生の楽しみは征服した王の妃を自分のハーレムに入れることだ」とか、「モンゴル兵は、都市の人間を虐殺しまくった」という通説も、妥当なものか検討してほしい。 モンゴル帝国の誹謗のための説もあるので。
いつも勉強なることが多くありありがとうございます。田中先生の本も読みました、ほとんど知らなかったので、興味がでて、少し勉強して見ました。海上知明先生の義経愚将論や宮脇淳子先生のことも考えみました、ある一面では、義経は愚将かもしれません、しかし義経だから、チンギスハーンになれたのではないでしょうか。宮脇先生は、チンギスハーンは多くの養子をとった、そして力強いリーダーは、リーダーに相応しくないと語ったと言われていました。静御前との別れ、逃避行の人生など、無念が多くあったと思います。モンゴルで戦死したものの子供を養子などし、モンゴル人の心を掴んだのではないでしょうか。
面白いお話だし、浪漫がありますね。日本は突飛な研究はバカにされがちですが、そこが日本の弱点だと思っています。こういう研究を真剣にされていることに尊敬の念を抱きます。織田信長が生き続けたという話も、田中先生のお考えをお聞きしたいです。
鞍馬寺。猿田彦。ユダヤ。始皇帝。満州。モンゴル。元=源?
★関連動画★田中英道「やはり源義経はチンギス・ハーンだった!」出版記念講演会 (講演会パート)th-cam.com/video/wuvuxlC2TzA/w-d-xo.html★書籍★ 田中英道『やはり義経はチンギス・ハーンだった!』(2023年9月15日発売 / 文芸社)www.amazon.co.jp/dp/4286244822/
シーボルトがジンギスカン=義経説を唱えた根拠はどこからでしょうか。それも明らかにしつつ踏み込んでいただきたいです。隣はだんまりを決め込んでますから実証的にお願いしたいです。期待しています。😊
テムジンと義経の誕生日はいっしょ。 死んだ日は鞍馬寺にはテムジンと同じ日と書いてある。 テムジン(天神)は外国人と元史に書いてある。日本語が話せた。テムジンがモンゴル文字を発明しその前は文字がなかった。ウイグル文字を参考にしてアエイオウの母音になってる。モンゴル兵は皮だったが、テムジン軍は鉄製の鎧であり、長射程の長弓や鉄棒をもっていてモンゴル兵とはまったく別物でとにかくモンゴル兵を圧倒したからモンゴル兵はみんな鉄兵についてったと記述されている。当時、モンゴル人は文字がなく漢字は全然読めなかったのにテムジンはすらすら読めたのはテムジンが外人だったということ。満州族の紫禁城には和(日本)という文字がつかわれた建物がいっぱいあったが袁世凱が全部文字を消した。
陰謀論者ですか?
@@user-vv2pk6yw4l 陰謀論者とは言わない。一般的には戦後の歴史修正主義者といわれている。例 ホロコーストはなかった。は独仏ではよく言われている。日本の歴史修正主義の例: 南京虐殺はなかった。慰安婦はなかった。徴用工はなかった。つまり保守の主張そのものが歴史修正主義にあたる。しかしアメリカ左翼(ユダヤ人のこと)のデマ。したがって陰謀論者とレッテル貼をする人間は検閲を好むので保守ではなく左翼。「日本はいい国だった」というと歴史修正主義者だとレッテル貼りをする。もし隣人で「あいつは陰謀論者」という言葉を使うものがいれば、彼は「潜在的に言論の自由を封じる左翼すなわち共産主義者」なので気をつけた方がいいと皆気づき始めている。歴史修正主義者=陰謀論者=真の保守だという簡単なことが左翼は気付いていない。
理解できない事を自身が探求せず、知らない事、考えられない事全て簡単に陰謀論で済ましてしまうのは、勿体無いと思う。世の中の歴史他自分が知らない事のほうが殆どだ。😊
テムジンとは鉄の意思を持つ人の意味ですよ
蒼き狼、大いなる湖を渡りて来ぬ。この伝説は意味ありでは?ところで、アイヌ民族は元々、シベリアにいた人々で、モンゴルのシベリア進出に押されて日本へ鎌倉時代に移動して来た事が歴史的事実として存在する。その逆は充分に考えられる。
紫波町赤沢には確かに義経が生活していた記録があります。
いろいろな意味で面白い講演です。歴史の変わり目での講演とも言えるかも。平泉とエジプトの関係も気になります。やはり、開示の時?
言い出したのがシーボルトとは!日本地図を持ち出したのもシーベルト。家康はすでに世界地図を持っていた。
源義経のモンゴルのよみかたはジンギスカンと何かで見たことがあります北海道本別町には義経山と静山という名前の山があります
やっぱり義経はモンゴルへ行ったのだろう。テムジンと言う名は天神、京都。鞍馬のテングはユダヤ秦氏。
私個人はテムジンと義経は別々に存在した人物だと思っている。だけど義経とテムジンが平泉で幼い頃に出会い、その義経がテムジンが似た境遇と近い年齢故に意気投合し、義経がテムジンから馬術と蒙古の言葉を学ぶ過程でお互いの才能を認め合って信頼し合う関係となった事。後日、義経が大陸へ逃げ延びた時、大陸に居た奥州藤原氏の残党が無き英主・秀衡の遺訓を胸に義経の下へ結集し、モンゴル統一の戦いを始めた頃のテムジンの下へ駆けつけた可能性を考えても居ます。
@tevalleyluckman8746 初めて聞きました説です!ちょっと映画になりそうなくらい感動的ですね!鳥肌が立ちました^^この場合テムジンは日本(平泉)生まれの日本人なのでしょうか?これまでにこの説を言われている人はいらっしゃいますか?
@@wanokuni369 やはりモンゴル人としてのテムジンは実在したと思います。そして彼が、奥州藤原氏の本拠である平泉に来て、そこで義経に出会った可能性は無視できないものがあると思っています。そこで私なりの推測と当時の事情を書くと以下のようになります。裏切りによって父を殺され、逃げ隠れしなければならなかったテムジン一家が、敵側の追跡を阻むものがないモンゴル高原に居続けたとは思いません。当然地形の煩雑な満州方面へ逃げ込んだ可能性もあるのです。そこで奥州藤原氏の事情が絡んできます。当時の藤原氏は十三湊を中心とした南はシンガポール近郊に至る交易路を利用した貿易を行っていました。当然、日本海を挟んで対岸の沿海洲方面にも、人を派遣していました。目的は交易以上に以下の二つがあったようです。① 奥州藤原氏は精強な騎馬軍団を維持し発展させるために、モンゴル人などの遊牧民族を招聘し、馬術や軍馬育成の教官として使役していたようです。(奥州藤原氏の馬の運用には、モンゴル人と同様、替え馬という概念の運用法や、急峻な崖を馬に乗ったまま集団で上るように移動するという、他の武家では考えられないレベルの馬術がある)② 奥州藤原氏は黄金の入手先として奥州だけではなく、大陸にも目を付けて、そこへ金山の探査や採掘の為に多くの職人や、採掘した金の護衛をする為の武士団を派遣していた。(活動する地域の特性上、彼らはかなり高度な馬術を身に着けていたでしょうし、平泉が鎌倉幕府に滅ぼされた時も彼らは健在だったと思われる上、時期的に秀衡からの遺訓として「義経を奥州藤原氏の総大将とする」という通知は届いていたと思われますし、義経が日本から脱出する時に彼らを自分の下に結集させて自分の居場所を作るという見通しはあったでしょう。)以上の時代的条件の中で、裏切り者から身を隠す為に奥州藤原氏の下へテムジンが来日し、時期的に年齢が近い、遮那王(義経)の馬術教育係に選ばれる可能性は高いと思います。若く頭脳優秀な義経はモンゴル語を口論可能なレベルまで吸収したでしょうし、似た過去を持つ義経とテムジンが意気投合する可能性は無視できません。(しかも、勇者を愛するテムジンにとって義経の素直さと優秀さは友人として心を割って話せる相手ではないでしょうか?)なお、寺に押し込まれて高度な馬術を学ぶ機会が無かった義経が、平家討伐の時に馬に乗ったまま崖を下ったり、馬を巧みに操ってその場での方向転換もできるほどの高度な馬術を身に着けたのはモンゴル人の教育を受けたためだと思います。ここからが大予想ですが、実はテムジンはモンゴルを統一する最中、ジュチという弓の名手が放った毒矢を首に受け、生死の境をさまよった時があると聞きます。公式記録では何日も生死の境をさまよったとの事ですが、もし、そこでテムジンが死を避けられないと覚悟し、死の間際に自分の死を隠し、かつてない偉大なモンゴルの国を建ててほしいという遺言を大友人だった義経に託したとしたらどうでしょう?義経は、自分に新たな人生を与えてくれたぢ親友テムジンの志を受け継いで自分の存在を消し、チンギス・ハーンとして生きて、大帝国の建設へ進むというシナリオが書けそうです。ちなみにこの話の元ネタを語ったのは、ある霊能者だったそうです。彼の話では義経は以後も日本人として生まれ続けたそうです。(その中の一人に楠木正行という武将がいるそうです。)
@@wanokuni369 詳しい話を書いたらコメントを消されました。どうやらTH-camの奥に潜む誰かさんは、義経とテムジンの本当の関係を公言して欲しくないようです。
@@wanokuni369 ジャムカと言う幼馴染が存在していた以上、モンゴル人としてのテムジンは居たと思いますよ。
義経説に反対する人は、ハーンの前半生は、最近の研究では不明ではなく、はっきりしてきている、よって、義経説は否定されている。年代的には、義経が衣川にいたころに、息子が3人いたことになるなど矛盾していると主張していますが、其処はどうなんでしょうか?
1189年に義経が亡くなったとされるが、そうではなく逃亡し、直後の1190年に大陸で兵をあげることなどできるのか。とても無理な話だと思う。
チンギス・ハーンには2歳下、4歳下、6歳下の弟が3人いるが、義経には弟はいない。だから源平合戦などにもその名はなく、加わっていない。チンギス・ハーンには3人の子供がいて、その生年月日は衣川の戦の3年前までとなっている。その息子はキプチャクハン国、チャガタイハン国の始祖などとなっており、これは紛れもない史実である。とても時系列的には無理な話だと思う。
珍説、奇説の類い。
じいさんも父さんも子だくさんでやたらと従兄弟や兄弟が多かったのだがどう説明するか?
鵯越の騎馬兵はどこに消えたのか?
”テムジン”は天神(菅原道真)であり日本語だからテムジン(チンギス・ハーン)は日本人だ、というのが田中英道氏の主張だけど、実は、テムジン(チンギス・ハーン)が生まれる直前に父親イェスゲイ・バアトルが戦った相手タタル族の長の名前がテムジン・ウゲだった。その勝利を記念して自分の息子にテムジンという名を付けた。つまり「テムジン」という名前は、テムジン(チンギス・ハーン)が生まれる前から蒙古に存在していた。田中英道氏のこの主張にはあまり説得力がない。
源義経とチンギス・カンが同一人物説は、Y染色体が一致しないようですが、調べましたら、中国の墳墓から、チンギス・カン C2c1a1a1でした。源頼朝は、D1b1a2b1a1 でした。と言うことは、父が違うのでしょうか? 決定的ではないでしょうか?すみません、ご説明を宜しくお願いします。
父は源義朝でしょ。頼朝の母が常磐御前とか聞いたことはないな。義経の母とはよく聞くけど。9人も産むとも考えにくいし、異母兄弟かな。
普通にモンゴルの方々に対する侮辱だと思いますよ。恥ずかしいからやめてほしいです。衣川の戦いと十三翼の戦い(チンギス前半生のクライマックス)が同時期に起きたことや、チンギスの弟たちについてどう説明しているのでしょうか…
鳥人間から来たな?
@@赤マント-s7q 関連に出てきて、つい…(小声)
@@jonsnow6090俺もだよ!まあ戦いの際に入れ替わったとか、養子や義兄弟とかって言われておしまい!宗教と同じでもうどうしようもない。
@@赤マント-s7q義経チンギス・ハーン説が広まったのは日清戦争~第一次世界大戦の時期なので、大陸に進出しようとするナショナリズムに合致したんでしょうね日ユ同祖論もそうだけど、欧米へのコンプレックスから、日本人は特別なんだ!日本は特別な国なんだ!って思い込みたい人達がすがり付いてるんじゃないですかねまさにカルト宗教ですね
本当にわたしも同感です。恥ずかしい。日本人や日本文化を大切にするのは大いに結構ですけど、他国の英雄が日本人だっただなんて、フィクションもいいところですよね🥲映画か小説に留めておいて欲しい…
映像で見たのですが、、、彼は溺死してますね。 捕まり護送中に逃げようとして船から海に飛び込みました。 それで死体がなかなか上がらなかった。(まさか助かってないと思う。腕を後ろで縛られてたので) それと彼は非常に旅好きであちこち巡ってます。 仙台の塩竃神社など寄ってるはず。 それと、金星人系統での縁があるかも。それで鞍馬寺。 美術芸術と縁あり。 江戸時代で転生してます。 パラレルなので、信じるかはアナタしだい!
田中先生の言われる通り、世界史的の大問題と思います、もっと日本人が興味を持って取り組む必要がありますね、東大の本郷なんていう教授なんてとんでもない野郎ですね、これからの田中先生のご研究を期待です。
貴重なお話、有難う御座います。
真実はいつも、人間のエゴで隠されてしまうのですね。
歴史は面白いですね。
私の祖父は満州で義経の墓を見つけたそうです。満州鉄道の調査隊として働いていましたが、奉天から山間部に入った農村の家々には源義経の貼り紙がしてあり、御札として使われていたそうです。
村長から義経の墓の場所を教えられ、巨大な墳墓に行ったそうですが、入口の大きな門柱には笹竜胆の家紋が掘られていたそうです。
義経は大陸に渡ったのだ、と幼い私に何度も話してくれたことを覚えています。
今でもワクワクします。
満州で義経の巨大墳墓とは興味深いですね!!!情報ありがとうございます^^
何かでみましたよー
モンゴル語で源義経の読みはジンギスカンって
北海道本別町には義経山と静山と言う名の山があります
高齢者ですが、先生たちのお話が、面白いので、今から歴史の本をたくさん読もうとおもい、田中先生の本、買いました。
御三方のそれぞれ 貴重なお発言がいちいち素晴らしくて、時間を忘れて聞き入りました。
田中英道先生のこうした企画力や 上手く言えないのですが丁寧な想いの様なものに感動しています。
それに比べて 権威主義で乱暴な東大の姿勢は、最近あちこちで耳にしますね。
嘆いておられる誠実な研究者や学者の方を 私は尊敬しております。
無茶苦茶夢のある話ですね。シーボルトが発端というのもまた面白い。
少し義経がみえてきた、有難うございます。
「チンギス・ハンはハレンチで残虐」つまり「人生の楽しみは征服した王の妃を自分のハーレムに入れることだ」とか、「モンゴル兵は、都市の人間を虐殺しまくった」という通説も、妥当なものか検討してほしい。 モンゴル帝国の誹謗のための説もあるので。
いつも勉強なることが多くありありがとうございます。田中先生の本も読みました、ほとんど知らなかったので、興味がでて、少し勉強して見ました。海上知明先生の義経愚将論や宮脇淳子先生のことも考えみました、ある一面では、義経は愚将かもしれません、しかし義経だから、チンギスハーンになれたのではないでしょうか。宮脇先生は、チンギスハーンは多くの養子をとった、そして力強いリーダーは、リーダーに相応しくないと語ったと言われていました。静御前との別れ、逃避行の人生など、無念が多くあったと思います。モンゴルで戦死したものの子供を養子などし、モンゴル人の心を掴んだのではないでしょうか。
面白いお話だし、浪漫がありますね。日本は突飛な研究はバカにされがちですが、そこが日本の弱点だと思っています。こういう研究を真剣にされていることに尊敬の念を抱きます。
織田信長が生き続けたという話も、田中先生のお考えをお聞きしたいです。
鞍馬寺。猿田彦。ユダヤ。始皇帝。満州。モンゴル。
元=源?
★関連動画★
田中英道「やはり源義経はチンギス・ハーンだった!」出版記念講演会 (講演会パート)
th-cam.com/video/wuvuxlC2TzA/w-d-xo.html
★書籍★ 田中英道『やはり義経はチンギス・ハーンだった!』(2023年9月15日発売 / 文芸社)
www.amazon.co.jp/dp/4286244822/
シーボルトがジンギスカン=義経説を唱えた根拠はどこからでしょうか。それも明らかにしつつ踏み込んでいただきたいです。隣はだんまりを決め込んでますから実証的にお願いしたいです。期待しています。😊
テムジンと義経の誕生日はいっしょ。 死んだ日は鞍馬寺にはテムジンと同じ日と書いてある。 テムジン(天神)は外国人と元史に書いてある。日本語が話せた。テムジンがモンゴル文字を発明しその前は文字がなかった。ウイグル文字を参考にしてアエイオウの母音になってる。モンゴル兵は皮だったが、テムジン軍は鉄製の鎧であり、長射程の長弓や鉄棒をもっていてモンゴル兵とはまったく別物でとにかくモンゴル兵を圧倒したからモンゴル兵はみんな鉄兵についてったと記述されている。当時、モンゴル人は文字がなく漢字は全然読めなかったのにテムジンはすらすら読めたのはテムジンが外人だったということ。満州族の紫禁城には和(日本)という文字がつかわれた建物がいっぱいあったが袁世凱が全部文字を消した。
陰謀論者ですか?
@@user-vv2pk6yw4l 陰謀論者とは言わない。一般的には戦後の歴史修正主義者といわれている。例 ホロコーストはなかった。は独仏ではよく言われている。日本の歴史修正主義の例: 南京虐殺はなかった。慰安婦はなかった。徴用工はなかった。つまり保守の主張そのものが歴史修正主義にあたる。しかしアメリカ左翼(ユダヤ人のこと)のデマ。したがって陰謀論者とレッテル貼をする人間は検閲を好むので保守ではなく左翼。「日本はいい国だった」というと歴史修正主義者だとレッテル貼りをする。もし隣人で「あいつは陰謀論者」という言葉を使うものがいれば、彼は「潜在的に言論の自由を封じる左翼すなわち共産主義者」なので気をつけた方がいいと皆気づき始めている。歴史修正主義者=陰謀論者=真の保守だという簡単なことが左翼は気付いていない。
理解できない事を自身が探求せず、知らない事、考えられない事全て簡単に陰謀論で済ましてしまうのは、勿体無いと思う。世の中の歴史他自分が知らない事のほうが殆どだ。😊
テムジンとは鉄の意思を持つ人の意味ですよ
蒼き狼、大いなる湖を渡りて来ぬ。
この伝説は意味ありでは?
ところで、アイヌ民族は元々、シベリアにいた人々で、モンゴルのシベリア進出に押されて日本へ鎌倉時代に移動して来た事が歴史的事実として存在する。その逆は充分に考えられる。
紫波町赤沢には確かに義経が生活していた記録があります。
いろいろな意味で面白い講演です。歴史の変わり目での講演とも言えるかも。平泉とエジプトの関係も気になります。やはり、開示の時?
言い出したのがシーボルトとは!日本地図を持ち出したのもシーベルト。家康はすでに世界地図を持っていた。
源義経のモンゴルのよみかたはジンギスカンと何かで見たことがあります
北海道本別町には義経山と静山という名前の山があります
やっぱり義経はモンゴルへ行ったのだろう。テムジンと言う名は天神、京都。鞍馬のテングはユダヤ秦氏。
私個人はテムジンと義経は別々に存在した人物だと思っている。
だけど義経とテムジンが平泉で幼い頃に出会い、その義経がテムジンが似た境遇と近い年齢故に意気投合し、義経がテムジンから馬術と蒙古の言葉を学ぶ過程でお互いの才能を認め合って信頼し合う関係となった事。
後日、義経が大陸へ逃げ延びた時、大陸に居た奥州藤原氏の残党が無き英主・秀衡の遺訓を胸に義経の下へ結集し、モンゴル統一の戦いを始めた頃のテムジンの下へ駆けつけた可能性を考えても居ます。
@tevalleyluckman8746 初めて聞きました説です!ちょっと映画になりそうなくらい感動的ですね!鳥肌が立ちました^^
この場合テムジンは日本(平泉)生まれの日本人なのでしょうか?
これまでにこの説を言われている人はいらっしゃいますか?
@@wanokuni369
やはりモンゴル人としてのテムジンは実在したと思います。
そして彼が、奥州藤原氏の本拠である平泉に来て、そこで義経に出会った可能性は無視できないものがあると思っています。
そこで私なりの推測と当時の事情を書くと以下のようになります。
裏切りによって父を殺され、逃げ隠れしなければならなかったテムジン一家が、敵側の追跡を阻むものがないモンゴル高原に居続けたとは思いません。
当然地形の煩雑な満州方面へ逃げ込んだ可能性もあるのです。
そこで奥州藤原氏の事情が絡んできます。
当時の藤原氏は十三湊を中心とした南はシンガポール近郊に至る交易路を利用した貿易を行っていました。
当然、日本海を挟んで対岸の沿海洲方面にも、人を派遣していました。
目的は交易以上に以下の二つがあったようです。
① 奥州藤原氏は精強な騎馬軍団を維持し発展させるために、モンゴル人などの遊牧民族を招聘し、馬術や軍馬育成の教官として使役していたようです。(奥州藤原氏の馬の運用には、モンゴル人と同様、替え馬という概念の運用法や、急峻な崖を馬に乗ったまま集団で上るように移動するという、他の武家では考えられないレベルの馬術がある)
② 奥州藤原氏は黄金の入手先として奥州だけではなく、大陸にも目を付けて、そこへ金山の探査や採掘の為に多くの職人や、採掘した金の護衛をする為の武士団を派遣していた。(活動する地域の特性上、彼らはかなり高度な馬術を身に着けていたでしょうし、平泉が鎌倉幕府に滅ぼされた時も彼らは健在だったと思われる上、時期的に秀衡からの遺訓として「義経を奥州藤原氏の総大将とする」という通知は届いていたと思われますし、義経が日本から脱出する時に彼らを自分の下に結集させて自分の居場所を作るという見通しはあったでしょう。)
以上の時代的条件の中で、裏切り者から身を隠す為に奥州藤原氏の下へテムジンが来日し、時期的に年齢が近い、遮那王(義経)の馬術教育係に選ばれる可能性は高いと思います。若く頭脳優秀な義経はモンゴル語を口論可能なレベルまで吸収したでしょうし、似た過去を持つ義経とテムジンが意気投合する可能性は無視できません。(しかも、勇者を愛するテムジンにとって義経の素直さと優秀さは友人として心を割って話せる相手ではないでしょうか?)
なお、寺に押し込まれて高度な馬術を学ぶ機会が無かった義経が、平家討伐の時に馬に乗ったまま崖を下ったり、馬を巧みに操ってその場での方向転換もできるほどの高度な馬術を身に着けたのはモンゴル人の教育を受けたためだと思います。
ここからが大予想ですが、実はテムジンはモンゴルを統一する最中、ジュチという弓の名手が放った毒矢を首に受け、生死の境をさまよった時があると聞きます。
公式記録では何日も生死の境をさまよったとの事ですが、もし、そこでテムジンが死を避けられないと覚悟し、死の間際に自分の死を隠し、かつてない偉大なモンゴルの国を建ててほしいという遺言を大友人だった義経に託したとしたらどうでしょう?
義経は、自分に新たな人生を与えてくれたぢ親友テムジンの志を受け継いで自分の存在を消し、チンギス・ハーンとして生きて、大帝国の建設へ進むというシナリオが書けそうです。
ちなみにこの話の元ネタを語ったのは、ある霊能者だったそうです。彼の話では義経は以後も日本人として生まれ続けたそうです。(その中の一人に楠木正行という武将がいるそうです。)
@@wanokuni369
やはりモンゴル人としてのテムジンは実在したと思います。
そして彼が、奥州藤原氏の本拠である平泉に来て、そこで義経に出会った可能性は無視できないものがあると思っています。
そこで私なりの推測と当時の事情を書くと以下のようになります。
裏切りによって父を殺され、逃げ隠れしなければならなかったテムジン一家が、敵側の追跡を阻むものがないモンゴル高原に居続けたとは思いません。
当然地形の煩雑な満州方面へ逃げ込んだ可能性もあるのです。
そこで奥州藤原氏の事情が絡んできます。
当時の藤原氏は十三湊を中心とした南はシンガポール近郊に至る交易路を利用した貿易を行っていました。
当然、日本海を挟んで対岸の沿海洲方面にも、人を派遣していました。
目的は交易以上に以下の二つがあったようです。
① 奥州藤原氏は精強な騎馬軍団を維持し発展させるために、モンゴル人などの遊牧民族を招聘し、馬術や軍馬育成の教官として使役していたようです。(奥州藤原氏の馬の運用には、モンゴル人と同様、替え馬という概念の運用法や、急峻な崖を馬に乗ったまま集団で上るように移動するという、他の武家では考えられないレベルの馬術がある)
② 奥州藤原氏は黄金の入手先として奥州だけではなく、大陸にも目を付けて、そこへ金山の探査や採掘の為に多くの職人や、採掘した金の護衛をする為の武士団を派遣していた。(活動する地域の特性上、彼らはかなり高度な馬術を身に着けていたでしょうし、平泉が鎌倉幕府に滅ぼされた時も彼らは健在だったと思われる上、時期的に秀衡からの遺訓として「義経を奥州藤原氏の総大将とする」という通知は届いていたと思われますし、義経が日本から脱出する時に彼らを自分の下に結集させて自分の居場所を作るという見通しはあったでしょう。)
以上の時代的条件の中で、裏切り者から身を隠す為に奥州藤原氏の下へテムジンが来日し、時期的に年齢が近い、遮那王(義経)の馬術教育係に選ばれる可能性は高いと思います。若く頭脳優秀な義経はモンゴル語を口論可能なレベルまで吸収したでしょうし、似た過去を持つ義経とテムジンが意気投合する可能性は無視できません。(しかも、勇者を愛するテムジンにとって義経の素直さと優秀さは友人として心を割って話せる相手ではないでしょうか?)
なお、寺に押し込まれて高度な馬術を学ぶ機会が無かった義経が、平家討伐の時に馬に乗ったまま崖を下ったり、馬を巧みに操ってその場での方向転換もできるほどの高度な馬術を身に着けたのはモンゴル人の教育を受けたためだと思います。
ここからが大予想ですが、実はテムジンはモンゴルを統一する最中、ジュチという弓の名手が放った毒矢を首に受け、生死の境をさまよった時があると聞きます。
公式記録では何日も生死の境をさまよったとの事ですが、もし、そこでテムジンが死を避けられないと覚悟し、死の間際に自分の死を隠し、かつてない偉大なモンゴルの国を建ててほしいという遺言を大友人だった義経に託したとしたらどうでしょう?
義経は、自分に新たな人生を与えてくれたぢ親友テムジンの志を受け継いで自分の存在を消し、チンギス・ハーンとして生きて、大帝国の建設へ進むというシナリオが書けそうです。
ちなみにこの話の元ネタを語ったのは、ある霊能者だったそうです。彼の話では義経は以後も日本人として生まれ続けたそうです。(その中の一人に楠木正行という武将がいるそうです。)
@@wanokuni369 詳しい話を書いたらコメントを消されました。
どうやらTH-camの奥に潜む誰かさんは、義経とテムジンの本当の関係を公言して欲しくないようです。
@@wanokuni369
ジャムカと言う幼馴染が存在していた以上、モンゴル人としてのテムジンは居たと思いますよ。
義経説に反対する人は、ハーンの前半生は、最近の研究では不明ではなく、はっきりしてきている、よって、義経説は否定されている。年代的には、義経が衣川にいたころに、息子が3人いたことになるなど矛盾していると主張していますが、其処はどうなんでしょうか?
1189年に義経が亡くなったとされるが、そうではなく逃亡し、直後の1190年に大陸で兵をあげることなどできるのか。とても無理な話だと思う。
チンギス・ハーンには2歳下、4歳下、6歳下の弟が3人いるが、義経には弟はいない。だから源平合戦などにもその名はなく、加わっていない。チンギス・ハーンには3人の子供がいて、その生年月日は衣川の戦の3年前までとなっている。その息子はキプチャクハン国、チャガタイハン国の始祖などとなっており、これは紛れもない史実である。とても時系列的には無理な話だと思う。
珍説、奇説の類い。
じいさんも父さんも子だくさんでやたらと従兄弟や兄弟が多かったのだがどう説明するか?
鵯越の騎馬兵はどこに消えたのか?
”テムジン”は天神(菅原道真)であり日本語だからテムジン(チンギス・ハーン)は日本人だ、というのが田中英道氏の主張だけど、実は、テムジン(チンギス・ハーン)が生まれる直前に父親イェスゲイ・バアトルが戦った相手タタル族の長の名前がテムジン・ウゲだった。その勝利を記念して自分の息子にテムジンという名を付けた。つまり「テムジン」という名前は、テムジン(チンギス・ハーン)が生まれる前から蒙古に存在していた。田中英道氏のこの主張にはあまり説得力がない。
源義経とチンギス・カンが同一人物説は、Y染色体が一致しないようですが、調べましたら、中国の墳墓から、チンギス・カン C2c1a1a1でした。
源頼朝は、D1b1a2b1a1 でした。と言うことは、父が違うのでしょうか? 決定的ではないでしょうか?すみません、ご説明を宜しくお願いします。
父は源義朝でしょ。頼朝の母が常磐御前とか聞いたことはないな。義経の母とはよく聞くけど。9人も産むとも考えにくいし、異母兄弟かな。
普通にモンゴルの方々に対する侮辱だと思いますよ。恥ずかしいからやめてほしいです。衣川の戦いと十三翼の戦い(チンギス前半生のクライマックス)が同時期に起きたことや、チンギスの弟たちについてどう説明しているのでしょうか…
鳥人間から来たな?
@@赤マント-s7q 関連に出てきて、つい…(小声)
@@jonsnow6090
俺もだよ!まあ戦いの際に入れ替わったとか、養子や義兄弟とかって言われておしまい!宗教と同じでもうどうしようもない。
@@赤マント-s7q
義経チンギス・ハーン説が広まったのは日清戦争~第一次世界大戦の時期なので、大陸に進出しようとするナショナリズムに合致したんでしょうね
日ユ同祖論もそうだけど、欧米へのコンプレックスから、日本人は特別なんだ!日本は特別な国なんだ!って思い込みたい人達がすがり付いてるんじゃないですかね
まさにカルト宗教ですね
本当にわたしも同感です。恥ずかしい。
日本人や日本文化を大切にするのは大いに結構ですけど、他国の英雄が日本人だっただなんて、フィクションもいいところですよね🥲
映画か小説に留めておいて欲しい…
映像で見たのですが、、、彼は溺死してますね。 捕まり護送中に逃げようとして船から海に飛び込みました。 それで死体がなかなか上がらなかった。(まさか助かってないと思う。腕を後ろで縛られてたので) それと彼は非常に旅好きであちこち巡ってます。 仙台の塩竃神社など寄ってるはず。 それと、金星人系統での縁があるかも。それで鞍馬寺。 美術芸術と縁あり。 江戸時代で転生してます。 パラレルなので、信じるかはアナタしだい!
田中先生の言われる通り、世界史的の大問題と思います、もっと日本人が興味を持って取り組む必要がありますね、
東大の本郷なんていう教授なんてとんでもない野郎ですね、これからの田中先生のご研究を期待です。