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0:00 ハイライト0:41 アムロとララァの元へ向かうシャア1:48 アムロとララァの繋がり4:20 富野由悠季カミングアウト6:02 ララァの能力 理解してないアムロ10:06 ララァは最後まで....11:32 やってはいけない禁じ手13:21 テレビアニメの限界16:34 シャア乱入 究極の融合19:23 シャアとアムロの戦いにセイラが介入26:01 ララァを闘いに引き摺り込んだシャア28:21 凄い演出の連続 作画の限界
アムロとララァは共感してたと思ってたが、アムロはララァが何を感じたのかを分かってなかったのか…
シャアの心情を正確に示されると、後のアムロが言った「なぜララァを巻き込んだんだ?ララァは戦いをする人ではなかった!」の言葉により色が乗るし、それに対して、シャアがまともに答えなかったのも、すごく腑に落ちる
すげー、、、想像すらしてなかった、、、大人すごい
幼心に変な性癖の芽生えを感じてしまったけど、やっぱりそういう意図ですよね・・・小さい頃は理屈は分からなかったけど、なんか本能的にヤバいシーンだって思いました。
私は引き裂かれるイメージだと思ってました
最後のシャアの薙刀をジャンプで避けるのは、弁慶と牛若丸のアナロジーですね。
シャアとララァの関係、劇場版だと書き換えられてるので、その間監督はなにか考えなおしたのかな?
深掘りするたびにファーストガンダムすげーなと思う
ピース又吉の文章解説の動画と同じように、私ども凡人には見えていないものを見せてくれるお二人の才能に感服します。
期待したより解説が濃厚で満足した
岡田さんのように深読みするかどうかは別として、哲学的とも思えるセリフのやり取りをストーリーや作画その他をやりつつ超多忙の中で毎週生み出していた富野さんは天才だと思う。
あの叫びは数分後の未来を見たからだったのか。そりゃ見返さないとわからん。見返してもわからんかったけど。
いや、普通に違うと思うぞ。ララァの叫びは、完全に心を通わせる唯一無二の二人が、敵味方に別れる運命の残酷さに気付いたのだろう。
ララアの藩さんの声が好き
フランスの不倫映画にある三角関係と、ロボットをからめた実にうまい表現。これは子供にはまったくわからない。でも大人になって改めてみてみるとよくわかる。やはり作品というのは人生の何回かの年代ごとにみなおす必要あるなと思った。
2:00 エルメスの目(コックピット付近だからまだわかる)とガンダムのメインカメラ付近が繋がるのおかしいw
一応ガンダムのツノはアンテナやし、ミノ粉が通信や脳波に干渉してるのでハード的にはリアルなのかも
1980年代までの漫画やアニメの中には大人向けのストーリーや表現が結構含まれていたんですよね…子供向けアニメだし夕方からの放映でしたから、この回はさすがにえっ?てなりました(笑)
後日、と謂うか20年近くものインターバルを経て富野氏自身が上梓した短編小説「密会」で紡がれた物語が、今回の"メタ表現"の真骨頂であり本来コレで映像化したかったと云う"原作者"自身の本音吐露となっていた訳なんですねぇ・・・
安彦さんが倒れた時期は湖川先生がやってたからクオリティーが下がることはない。だからなのかララアのハイライト無しの目はバッフクラン人の目とそっくり。
ララァ
湖川 友謙さん は 第6話『 ガルマ出撃す 』で 駅間我子 名義で参加されているのが 有名ですね。安彦さんが 倒れた後に参加されていたのは 初耳です(ノンクレジットのようですね)。第41話『 光る宇宙 』は 作画監督 不在の回で、青鉢 芳信さんが作画されているのは 知っていましたが、湖川さんは 関わっているのでしょうか?
子供の頃だったので、射精表現に”そんなはずは無い”と思ってましたが、友達が大騒ぎしてました、まさか作品の品性を落とすような事はしないだろうと思ってました。w
ララァと大佐は関係してると年頃の人は分かる
12:28 岡田さんはイマジナリーラインをまたがっていると仰ってますけど、カメラを切り返しただけで、イマジナリーラインはまたいでないと思いますよ。アムロとララァの上手下手の位置関係はシーンを通して変わってないですし。
5:39 「チャコ」ではなく「チョキ」です。
戯言じゃなくて戯れ事なんだよなぁ
アムロとララァの精神融合はセッ〇ス表現だったんだねなんとなくわかってはいたけど言語化されると強烈w
まさに『禁じられた遊び』ですね
夢精しちゃったのか?
ここには出ていませんが、ゲルググとガンダムが切り結ぶシーンの中で ビームサーベルをナギナタの柄で受け止めるカットがあります。ビームサーベルでも切れないほど固いんだと驚いた記憶 ^^v
それで今気づいたけど、まさかシャアって「二刀流」だったって暗示なんじゃねえのけ?。ナギナタの二つの刃みたいに。ガンダムも二刀流できなくもないけどさ。
富野も寝耳に水、水野晴郎もビックリな深掘り解説(笑)
富野「えっ!そうだったの!?」
いや、昔から雑誌ではセックスシーンて考察されてましたよ。多分富野も記録全集か、なんかの雑誌で認めてた。
@@zen-848むかしからある考察ですよ
NT同士の”わかりあう”をSEXに例える描写とか、サンライズも若かったんだなあって・・・😅
相変わらず劇伴上手いですね。喋りの上手い人は音痴が多いのに。
アムロ、貴方はNTRよシャア、貴様はNTのなり損ないだ寝取る、寝取られの略でもしっくりくる
天才か
実はこのシーン,『禁じられた遊び』をかけながら観たらマッチしてました(笑)
凄いな❗️そんな解釈あったのか…確かにFIRSTやΖは結構男女の話も多いけどこんな事考えてガンダム見た事なかったから凄い新鮮だった❗️
15:21 ピンクレディーのUFOの歌詞のイメージの元ネタってコレかぁ
違うんじゃない?同時期だし、それほど似てるとも思えない。
アムロがなんのために戦っているのか、なんで結ばれるのかわからないので、この接近は違和感があった。
いやぁ!!面白い!!!この四機飾りたくなる!!
セルホコリなんて、わざわざ説明しなきゃ私みたいなトーシロにはわ分かりゃしないのにバラしちゃったよ(笑)!
私も当時Gファイターの噴射イオンか、スペースデブリだと思っていました。
シャアがずっといいとこなしな件。笑
初めて分かりあえて射○した相手が即死哀しすぎる(泣)
アムロとララァの絡みシーンは何が表現したかったのかずっと謎でしたが、まさか性表現だったとは
交わりのお話は、スタートレックエンタープライズでもあったね。まぁ 他種族との交わりであって好奇心によるモノだったのだけど地球人の男性が妊娠するとゆー…
確か漫画ではララァは娼婦って設定でしたね。さすがにその設定は子供向けテレビアニメでは使えなかったのだろうなぁ。このシーンは分かりにくいシーンでした。子供心にララァはアムロとシャアの間で迷ってるんだろうとは思っていましたが。岡田さんの解説でちょっとスッキリした気がする。
ララァの戦う理由だってそこそこ浅いもんな……
でもブラックホークダウンでも最後は「仲間の為に戦うんだ」って言ってたからなぁ
愛する者のために戦うとかだからな。
賢者タイムに突進してくるゲルググは想像したら笑ってしまった。
本来なら粘膜の擦り合いでしかない行為そこに表現者としての憧れに似た何かをどう具現化するかなんだよねきっと
ファーストの明確なニュータイプは、ララァ、アムロ、シャア、セイラ、ミライ、シャリア、カツ、レツ、キッカだな。最後は全員みたいなとこあるけど。
大昔女性は、絶頂に達すると「ピンクの象さんが見える」と表現していましたが、ララァの場合は「ピンクのブタ鼻」でした・・・。
白い描写、私も何となく感じていましたが、まさか
性表現は学生当時なんとなく察したけど、賢者タイムと『1人で生きられない女』はわからなかったな・・・
ららぁはさっさと結婚して子どもを作るタイプだよね。セイラさんと対極的な感じ。
アムロ、イキますっ!
だってその頃カッコいいロボットで喜ぶガキだったもん。
なぜ宇宙に海の波が現れるのけ不思議だったが…😅
ドズルの奥さんの侍女達を愛人とか言ったり、これも深読みし過ぎて妄想になってますよ!絵コンテと見ないとわからんな
高畑勲のかぐや姫にもあったよね
ブルークリスマス (1978) and NewType I think are interesting.
え!!ファムにはそんな意味あったんだ!!なら競馬漫画マキバオーの2作目のファムファタールって、憧れのフィール先輩を死ぬ運命に導いた悪運の魔女って意味が隠されてるのか?
Zガンダムのラストシーンでも同じことを感じたが、やはり同じニュータイプといってもそれぞれ大学でいう「偏差値」みたいなものが存在して、自分なりに分析して例えるなら、ララァ→東大アムロ→京大シャア→慶応クエス→上智ぽいかなと。
面白かったけど女子としては直接的表現はちょっと…。でも当時高校生の私はこのアムロとララァの精神的融合を本能的にすごい「愛」だと感じて、ガンダムをやはり一番印象深い作品と思って生きて来ました。「進撃の巨人」のミカサの最後の決断を見るまでは。
進撃に上書きされてて草
比べるのは違う。やっぱり抽象的な表現の絵で魅せてるのとミカサの決断や行動で魅せてるのは全く違う。時代も相まってか今の時代はエロス的な要素は当たり前。だとして物語の長いフリがあってオチがあるわけで、その中に死人が出るからより思いも乗るわけで。どちらもララァやミカサ達も張り切れそうな辛い思いなのは変わりがない、あるとするなら愛に対する視聴者のコンプレックスが優劣をつけるだけじゃないのかな
自分は小学1年生だったし性的な行為なんて全く知らなかったけど性的な繋がりははっきり分かったよシャアが怒る意味も含めて、、、アムロに成りきってたwただララァはアムロに着いてくると思ったから色んな意味でショックを受けた
ミカサは自分に何も残らなくても最愛の人を愛で殺したからなあ…。究極といえばそうだけど、正解じゃないかもしれない。
サムネ見るとさぁ、気付いた俺天才って自慢してるようにしかみえない
どうしてもナニに、こじつけようとしているね😅アムロとララは相性ワルそうだけど🤕
刻を見たララァはアムロとシャアの最期まで見てしまったんですかね。シャアの恥ずかしい告白を。
ありえるんじゃないですかね、それ。まあそこまで先の脚本を作ってたかはしりませんが。
今の人達なら可能
アムロはいわばこっちにきてと言いたいわけですね
ほんまシャアははしゃげばはしゃぐ程ピエロやな石田三成と同じ人種 つまり大好き
当時の作家脚本は、低俗と言ってみてないって。
ここらへんが冨野の悪癖なんだよなぁ・・・イデオンでもダンバインでも結局こんな陳腐でワンパターンな展開で、折角作り上げた世界観を下らん自己満足でオカルト劇に貶める。
何度も見た感動のシーン、まさか射精とセッ◯すとは!富野さんすげーっ字幕の間違いは何とかならんか埃と誇りとか
当時わけわかんねえっておもってたけどそんな意味があったの!?
アムロ どぴゅっとったんかぁーーーーッ!!
大丈夫、僕のは妊娠しないから。
ガイアギアのコックピットでもシャアがやっていた。
ララアも奇跡の子も 地上でニュータイプだったよ。
27:00
手塚治もやってたわ。奇子とかで。
ララァってインド人じゃないの?
事故です。効果になってるんでしょ。
カミーユとハマーンみたいだな。
バーバレラのS〇Xはピアノみたいな機械あったwwララアとアムロのシーン当時小学生だった自分も「これはどうなん?」と思った
賢者タイム(笑)
ごめんそこまで考えてみてなかったわ
6:16
不倫しちゃったアムロ
どうなんだろうな。斗司夫氏の経歴で異性に対する接し方の話もいろいろあったし、そういう人だからこういう見方ができるのか、それとも徹底分析の賜物か、自分にはわからない。まあ、ここまで語れるのは正直尊敬はする。ファムファタルの名前を出すなら俺はマイトレーヤの名前がなぜか浮かぶ。いや、詳しくないけど。FSS一巻で作者がマイトレーヤに触れてたのが印象にあって。あのさあ。動画サムネイル見た時に、「アニメのタブーってなんだ?もしかして進撃の巨人みたいに時間軸を超えて記憶共有してるメタフィクション的な物の見方が当時の日本人にはトンデモだったのか?」とか考えたが。それ言ったらマクロスの外伝的なオーガスのラストはあれ見てもわけわかんねえけど。それ言ったらボトムズの異能生存体もあれだろし。◇一人では生きられないっていうとめぐりあい宇宙の曲を浮かべるな。スペースオペラなんだし、なんでそこで(隠喩経由とはいえ)物理的な性交をイメージさせるのか、と。これ言うとあれだけど、かなりエリートなほうの知識人的左翼的文脈にそういう性的なものを暗示させる文化ってあるんじゃないですかね。それ言ったら右派的な文学もそうかもしれない。三島由紀夫は右派かといわれるとやや違う気はするが。◇シャアとハマーンではなくカミーユとハマーン、ジュドーとハマーンの関係性の描写の謎はオネショタ路線とも違って考察に値すると思うのだが、岡田氏は初代以降作品を参考外にしてるんだったな……うーん。◇ララァはアムロとシャアをBL(ボーイズラブ)で結びつける腐女子路線やれば助かってた説。いやむしろ自身を犠牲にして二人が一時的に和解する未来をとったのか?それとも呪いの束縛となったのか?。◇ガンダムのパクリとされる黒騎士のあれ、黒いシャアが兜を脱いだらアムロだったりするの、パクリだとかベタとかよりなんか暗喩的で妙なんだよな。これ言ったらあれだろけど、シャアとララァの組み合わせってのも何か感じなくもない。たとえば白人と黒人のバディ物があったとして、それはそういうジャンルのものかもしれないが、日本だと逆にその手のは余計に隠喩に思える時がある。たとえばシャアはララァを母のように思おうとしてるのだって、ある意味ではそうなのかもしれない。半身かもしれない。血筋、みたいなのを言ったらそれはあれだろしそういう匂わせはあったかは不明だが。それを言えば少女革命ウテナなんかはどうなんだとなる(あれはあれで良いと思うが)。水星の魔女もそうではないかな。◇これトンデモに思われるだろけど、俺はさ、ある種の物語のはじまりの根幹の人物であるダイクンを若返らせるなりクローンなりやって、そいつに宇宙の歴史の事の顛末まで体験する物語やってほしいって思っちまうんだよな。ダイクンが聖人とは限らないってのはそうだろし、むしろそのほうが人間臭いドラマができていいじゃないか。ユニコーンで財団の創始者が出てきた時点で俺はそれを強く思った。こいつがダイクンとかだったらな……って。はよ責任とれやって話でもあるんだろけどな。
(追記) 小説版ガンダムではアムロとセイラが寝るってのを聞くが、これはご都合主義展開なのか、それともシャアが義理の兄になるかもしれないジレンマを描きたいからなのか。ロミオとジュリエットは聞いた事はあるけど、そのまんまよりは縁戚的にややこしくしたほうがドラマ性があると考えたのか。まあ小説版ってアムロ死亡するって話らしいからたぶんシャーとアムロって構図すらどうでもよくなったのかもしれないけど。だってニュータイプの革新は主要キャラ以外にも共有されてるもんだろから。二番手三番手だってやるときゃやりやすんぜ!
おっしゃるとおり、アムロとララァの交わり合いを単に『メロドラマ』性的な表現として片付けてしまうのは自分にとっても解釈違いですね…。ここまで視聴者向けに詳しく解説されていて尊敬していますが、もっと奥にあるメッセージ性を読み逃してる気がするというか…。視聴者を意識してるからこそ大衆ウケが良いからそうまとめているのかもしれないですけどね。岡田斗司夫氏はここでは解説されてないですが、このあとに続く大事なシーンであるララァの最期のシーンで『私たちは分かり合えた』という台詞がありますが、富野監督は、ララァとアムロ新人類の在り方で人の意志の可能性を性的表現も交えて表現したかったんじゃないかな、と…人の意思の表現についてはその後のZのあらゆる所に散りばめられてますからね。拡大解釈されてしまったファーストガンダムで出来なかった事をやろうと作った作品のZが自分は一番富野監督のメッセージ性を感じて惹かれます。
誇りの埃😅
手塚治虫がジュンのコマ割りを否定したというのは、違います。手塚治虫が否定したのは、セリフがないところです。
あながち違って無いと思います。手塚治虫が否定(嫉妬)したのは最低限のセリフのみで、あとは絵やコマ割りで詩情的表現に成功していたからですので。
@@kuroneko-qu2uw 石ノ森章太郎の「風のように」に、詳しい顛末か書いてあります。ジュンのファンが手塚治虫に「ジュンの実験的手法がとてもよい」と書いたところ、手塚治虫が「ジュンなんかマンガじゃない」と書いた返事をよこして、石ノ森がショックを受けたのです。また、COMの編集者がジュンはモーツァルトの音楽のようだと手塚治虫の前で褒めたところ、「なにがモーツァルトですか! セリフのないマンガなんてマンガじゃありません!」と怒ったという話も「手塚番 神の伴走者」という本に証言があります。コマ割りを全否定したなんて、当事者は誰も言ってません。それは想像であって根拠はないのです。岡田氏の発言は往々にしてこの手の誤謬(思い込みで話を発展させたり、歪めたりする)がありますので注意が必要です。
@@岩田瑞穂-u6d 同じ事の解釈の違いだと思います。「セリフがない」→「絵と印象的なコマ割りで表現した」という解釈で、岡田さんもいたマンガ夜話で夏目房之介さんも言ってたし、山田玲司さんときたがわ翔さんも石ノ森章太郎のコマの割り方(画面構成やレイアウト)、作画手法でも解説してましたよ。セリフで語る部分を全て絵で表現したという事を言いたかったんだと思います。
@@kuroneko-qu2uw ですから、あくまでそれは解釈であって、ジュン騒動での当事者本人の意図とは明らかに異なっています。石ノ森章太郎の「風のように」は本人が書いたものです。そこではコマ割りの工夫は、ジュン以前にさんざんやっていることが書かれています。それについて手塚治虫が批判したことはありません。ジュンについて石ノ森章太郎は、手塚先生のだすCOMに「セリフもストーリーもない漫画」を描くんだよ! と藤子不二雄Aに意気込んでみせてます。「セリフもストーリーもない」、これが手塚治虫が批判した点だというのは明らかです。とにかく拡大解釈が多すぎますね。まずは事実を当たるべき。
@@kuroneko-qu2uw 解釈と当事者本人の意図とは異なります。石ノ森章太郎の「風のように」は、石ノ森本人が書いてますが、コマ割りの工夫はジュン以前にさんざんやっていますが、その多くは編集者に否定されています。手塚治虫は別に否定してません。ジュンについては石ノ森章太郎は「セリフもストーリーもない漫画」を手塚先生のだすCOMに描くんだよ! と意気込みを語っています。ですから、「セリフもストーリーもない」のは「マンガではない」と手塚治虫から批判されたということです。手塚治虫がジュンのコマ割りを全否定した!…なんて、拡大解釈すぎる暴論です。事実と想像をごっちゃにしてはダメでしょう。
イマジナリーラインって何?言葉の説明がないとわからない。
キスを暗示しているとは言えないな。こじつけすぎ
確かに劇中の表現はご講釈通り奥深いものがあるが暗黒の宇宙空間で地球上でも敵とは交信しないのに会話が出来たり相手が見えたりとか無重力空間で飛んだり跳ねたりとか光学兵器が線で見えたりとか表現が滅茶苦茶ですよねという身も蓋もない感想で恐縮です
学生運動が社会とか正義なんてのは、あくまで口実に過ぎず、単なる暴力の行使でしかないんじゃないかな。
本当にそこまで考えて作ってるのかな?
アニメは設計図があって、わざわざ指定して画面を作っているので何かしらの演出意図があります。今回の考察は昔からアニメ雑誌ではメジャーな説ですよ。
岡田さんはまだ甘いですね。43話でシャアとアムロはキスをします。子供向けなのでBLは表現できないけど、ヘルメットごしにキスをします。剣で互いを刺しあうのはオスVSオスの儀式です。サオありのNHヘルスに行けば常識です。この程度の解説は子供だましです。私の解説、岡田先生は気が付いていましたかね?
0:00 ハイライト
0:41 アムロとララァの元へ向かうシャア
1:48 アムロとララァの繋がり
4:20 富野由悠季カミングアウト
6:02 ララァの能力 理解してないアムロ
10:06 ララァは最後まで....
11:32 やってはいけない禁じ手
13:21 テレビアニメの限界
16:34 シャア乱入 究極の融合
19:23 シャアとアムロの戦いにセイラが介入
26:01 ララァを闘いに引き摺り込んだシャア
28:21 凄い演出の連続 作画の限界
アムロとララァは共感してたと思ってたが、アムロはララァが何を感じたのかを分かってなかったのか…
シャアの心情を正確に示されると、後のアムロが言った
「なぜララァを巻き込んだんだ?ララァは戦いをする人ではなかった!」の言葉により色が乗るし、
それに対して、シャアがまともに答えなかったのも、すごく腑に落ちる
すげー、、、
想像すらしてなかった、、、
大人すごい
幼心に変な性癖の芽生えを感じてしまったけど、やっぱりそういう意図ですよね・・・小さい頃は理屈は分からなかったけど、なんか本能的にヤバいシーンだって思いました。
私は引き裂かれるイメージだと思ってました
最後のシャアの薙刀をジャンプで避けるのは、弁慶と牛若丸のアナロジーですね。
シャアとララァの関係、劇場版だと書き換えられてるので、その間監督はなにか考えなおしたのかな?
深掘りするたびに
ファーストガンダムすげーなと思う
ピース又吉の文章解説の動画と同じように、私ども凡人には見えていないものを見せてくれるお二人の才能に感服します。
期待したより解説が濃厚で満足した
岡田さんのように深読みするかどうかは別として、哲学的とも思えるセリフのやり取りをストーリーや作画その他をやりつつ超多忙の中で毎週生み出していた富野さんは天才だと思う。
あの叫びは数分後の未来を見たからだったのか。
そりゃ見返さないとわからん。
見返してもわからんかったけど。
いや、普通に違うと思うぞ。
ララァの叫びは、完全に心を通わせる唯一無二の二人が、敵味方に別れる運命の残酷さに気付いたのだろう。
ララアの藩さんの声が好き
フランスの不倫映画にある三角関係と、ロボットをからめた実にうまい表現。これは子供にはまったくわからない。でも大人になって改めてみてみるとよくわかる。やはり作品というのは人生の何回かの年代ごとにみなおす必要あるなと思った。
2:00 エルメスの目(コックピット付近だからまだわかる)とガンダムのメインカメラ付近が繋がるのおかしいw
一応ガンダムのツノはアンテナやし、ミノ粉が通信や脳波に干渉してるのでハード的にはリアルなのかも
1980年代までの漫画やアニメの中には大人向けのストーリーや表現が結構含まれていたんですよね…
子供向けアニメだし夕方からの放映でしたから、この回はさすがにえっ?てなりました(笑)
後日、と謂うか20年近くものインターバルを経て富野氏自身が上梓した短編小説「密会」で紡がれた物語が、今回の"メタ表現"の真骨頂であり本来コレで映像化したかったと云う"原作者"自身の本音吐露となっていた訳なんですねぇ・・・
安彦さんが倒れた時期は湖川先生がやってたからクオリティーが下がることはない。だからなのかララアのハイライト無しの目はバッフクラン人の目とそっくり。
ララァ
湖川 友謙さん は 第6話『 ガルマ出撃す 』で 駅間我子 名義で参加されているのが 有名ですね。
安彦さんが 倒れた後に参加されていたのは 初耳です(ノンクレジットのようですね)。
第41話『 光る宇宙 』は 作画監督 不在の回で、青鉢 芳信さんが作画されているのは 知っていましたが、湖川さんは 関わっているのでしょうか?
子供の頃だったので、射精表現に”そんなはずは無い”と思ってましたが、友達が大騒ぎしてました、まさか作品の品性を落とすような事はしないだろうと思ってました。w
ララァと大佐は関係してると年頃の人は分かる
12:28 岡田さんはイマジナリーラインをまたがっていると仰ってますけど、カメラを切り返しただけで、イマジナリーラインはまたいでないと思いますよ。
アムロとララァの上手下手の位置関係はシーンを通して変わってないですし。
5:39 「チャコ」ではなく「チョキ」です。
戯言じゃなくて戯れ事なんだよなぁ
アムロとララァの精神融合はセッ〇ス表現だったんだね
なんとなくわかってはいたけど言語化されると強烈w
まさに『禁じられた遊び』ですね
夢精しちゃったのか?
ここには出ていませんが、ゲルググとガンダムが切り結ぶシーンの中で ビームサーベルをナギナタの柄で受け止めるカットがあります。ビームサーベルでも切れないほど固いんだと驚いた記憶 ^^v
それで今気づいたけど、まさかシャアって「二刀流」だったって暗示なんじゃねえのけ?。ナギナタの二つの刃みたいに。
ガンダムも二刀流できなくもないけどさ。
富野も寝耳に水、水野晴郎もビックリな深掘り解説(笑)
富野「えっ!そうだったの!?」
いや、昔から雑誌ではセックスシーンて考察されてましたよ。多分富野も記録全集か、なんかの雑誌で認めてた。
@@zen-848
むかしからある考察ですよ
NT同士の”わかりあう”をSEXに例える描写とか、サンライズも若かったんだなあって・・・😅
相変わらず劇伴上手いですね。喋りの上手い人は音痴が多いのに。
アムロ、貴方はNTRよ
シャア、貴様はNTのなり損ないだ
寝取る、寝取られの略でもしっくりくる
天才か
実はこのシーン,『禁じられた遊び』をかけながら観たらマッチしてました(笑)
凄いな❗️
そんな解釈あったのか…
確かにFIRSTやΖは結構男女の話も多いけどこんな事考えてガンダム見た事なかったから凄い新鮮だった❗️
15:21 ピンクレディーのUFOの歌詞のイメージの元ネタってコレかぁ
違うんじゃない?同時期だし、それほど似てるとも思えない。
アムロがなんのために戦っているのか、なんで結ばれるのかわからないので、この接近は違和感があった。
いやぁ!!面白い!!!
この四機飾りたくなる!!
セルホコリなんて、わざわざ説明しなきゃ私みたいなトーシロにはわ分かりゃしないのにバラしちゃったよ(笑)!
私も当時Gファイターの噴射イオンか、スペースデブリだと思っていました。
シャアがずっといいとこなしな件。笑
初めて分かりあえて
射○した相手が即死
哀しすぎる(泣)
アムロとララァの絡みシーンは
何が表現したかったのかずっと謎
でしたが、まさか性表現だったとは
交わりのお話は、スタートレックエンタープライズでもあったね。
まぁ 他種族との交わりであって好奇心によるモノだったのだけど地球人の男性が妊娠するとゆー…
確か漫画ではララァは娼婦って設定でしたね。さすがにその設定は子供向けテレビアニメでは使えなかったのだろうなぁ。
このシーンは分かりにくいシーンでした。子供心にララァはアムロとシャアの間で迷ってるんだろうとは思っていましたが。
岡田さんの解説でちょっとスッキリした気がする。
ララァの戦う理由だってそこそこ浅いもんな……
でもブラックホークダウンでも最後は「仲間の為に戦うんだ」って言ってたからなぁ
愛する者のために戦うとかだからな。
賢者タイムに突進してくるゲルググは想像したら笑ってしまった。
本来なら粘膜の擦り合いでしかない行為
そこに表現者としての憧れに似た何かをどう具現化するかなんだよねきっと
ファーストの明確なニュータイプは、ララァ、アムロ、シャア、セイラ、ミライ、シャリア、カツ、レツ、キッカだな。最後は全員みたいなとこあるけど。
大昔女性は、絶頂に達すると「ピンクの象さんが見える」と表現していましたが、ララァの場合は「ピンクのブタ鼻」でした・・・。
白い描写、私も何となく感じていましたが、まさか
性表現は学生当時なんとなく察したけど、賢者タイムと『1人で生きられない女』はわからなかったな・・・
ららぁはさっさと結婚して子どもを作るタイプだよね。セイラさんと対極的な感じ。
アムロ、イキますっ!
だってその頃カッコいいロボットで喜ぶガキだったもん。
なぜ宇宙に海の波が現れるのけ不思議だったが…😅
ドズルの奥さんの侍女達を愛人とか言ったり、これも深読みし過ぎて妄想になってますよ!
絵コンテと見ないとわからんな
高畑勲のかぐや姫にもあったよね
ブルークリスマス (1978) and NewType I think are interesting.
え!!ファムにはそんな意味あったんだ!!なら競馬漫画マキバオーの2作目のファムファタールって、憧れのフィール先輩を死ぬ運命に導いた悪運の魔女って意味が隠されてるのか?
Zガンダムのラストシーンでも同じことを感じたが、やはり同じニュータイプといってもそれぞれ大学でいう「偏差値」みたいなものが存在して、自分なりに分析して例えるなら、
ララァ→東大
アムロ→京大
シャア→慶応
クエス→上智
ぽいかなと。
面白かったけど女子としては直接的表現はちょっと…。でも当時高校生の私はこのアムロとララァの精神的融合を本能的にすごい「愛」だと感じて、ガンダムをやはり一番印象深い作品と思って生きて来ました。「進撃の巨人」のミカサの最後の決断を見るまでは。
進撃に上書きされてて草
比べるのは違う。やっぱり抽象的な表現の絵で魅せてるのとミカサの決断や行動で魅せてるのは全く違う。
時代も相まってか
今の時代はエロス的な要素は当たり前。だとして
物語の長いフリがあってオチがあるわけで、その中に死人が出るからより思いも乗るわけで。
どちらもララァやミカサ達も張り切れそうな辛い思いなのは変わりがない、
あるとするなら愛に対する視聴者のコンプレックスが優劣をつけるだけじゃないのかな
自分は小学1年生だったし性的な行為なんて全く知らなかったけど性的な繋がりははっきり分かったよ
シャアが怒る意味も含めて、、、アムロに成りきってたw
ただララァはアムロに着いてくると思ったから色んな意味でショックを受けた
ミカサは自分に何も残らなくても最愛の人を愛で殺したからなあ…。究極といえばそうだけど、正解じゃないかもしれない。
サムネ見るとさぁ、気付いた俺天才って自慢してるようにしかみえない
どうしてもナニに、こじつけようとしているね😅アムロとララは相性ワルそうだけど🤕
刻を見たララァはアムロとシャアの最期まで見てしまったんですかね。シャアの恥ずかしい告白を。
ありえるんじゃないですかね、それ。まあそこまで先の脚本を作ってたかはしりませんが。
今の人達なら可能
アムロはいわばこっちにきてと言いたいわけですね
ほんまシャアははしゃげばはしゃぐ程ピエロやな石田三成と同じ人種 つまり大好き
当時の作家脚本は、低俗と言ってみてないって。
ここらへんが冨野の悪癖なんだよなぁ・・・
イデオンでもダンバインでも結局こんな陳腐でワンパターンな展開で、
折角作り上げた世界観を下らん自己満足でオカルト劇に貶める。
何度も見た感動のシーン、まさか射精とセッ◯すとは!富野さんすげーっ
字幕の間違いは何とかならんか
埃と誇りとか
当時わけわかんねえっておもってたけど
そんな意味があったの!?
アムロ どぴゅっとったんかぁーーーーッ!!
大丈夫、僕のは妊娠しないから。
ガイアギアのコックピットでもシャアがやっていた。
ララアも奇跡の子も 地上でニュータイプだったよ。
27:00
手塚治もやってたわ。奇子とかで。
ララァってインド人じゃないの?
事故です。効果になってるんでしょ。
カミーユとハマーンみたいだな。
バーバレラのS〇Xはピアノみたいな機械あったww
ララアとアムロのシーン当時小学生だった自分も「これはどうなん?」と思った
賢者タイム(笑)
ごめんそこまで考えてみてなかったわ
6:16
不倫しちゃったアムロ
どうなんだろうな。斗司夫氏の経歴で異性に対する接し方の話もいろいろあったし、そういう人だからこういう見方ができるのか、それとも徹底分析の賜物か、自分にはわからない。まあ、ここまで語れるのは正直尊敬はする。
ファムファタルの名前を出すなら俺はマイトレーヤの名前がなぜか浮かぶ。いや、詳しくないけど。FSS一巻で作者がマイトレーヤに触れてたのが印象にあって。
あのさあ。動画サムネイル見た時に、「アニメのタブーってなんだ?もしかして進撃の巨人みたいに時間軸を超えて記憶共有してるメタフィクション的な物の見方が当時の日本人にはトンデモだったのか?」とか考えたが。それ言ったらマクロスの外伝的なオーガスのラストはあれ見てもわけわかんねえけど。それ言ったらボトムズの異能生存体もあれだろし。
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一人では生きられないっていうとめぐりあい宇宙の曲を浮かべるな。
スペースオペラなんだし、なんでそこで(隠喩経由とはいえ)物理的な性交をイメージさせるのか、と。
これ言うとあれだけど、かなりエリートなほうの知識人的左翼的文脈にそういう性的なものを暗示させる文化ってあるんじゃないですかね。それ言ったら右派的な文学もそうかもしれない。三島由紀夫は右派かといわれるとやや違う気はするが。
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シャアとハマーンではなくカミーユとハマーン、ジュドーとハマーンの関係性の描写の謎はオネショタ路線とも違って考察に値すると思うのだが、岡田氏は初代以降作品を参考外にしてるんだったな……うーん。
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ララァはアムロとシャアをBL(ボーイズラブ)で結びつける腐女子路線やれば助かってた説。いやむしろ自身を犠牲にして二人が一時的に和解する未来をとったのか?それとも呪いの束縛となったのか?。
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ガンダムのパクリとされる黒騎士のあれ、黒いシャアが兜を脱いだらアムロだったりするの、パクリだとかベタとかよりなんか暗喩的で妙なんだよな。
これ言ったらあれだろけど、シャアとララァの組み合わせってのも何か感じなくもない。たとえば白人と黒人のバディ物があったとして、それはそういうジャンルのものかもしれないが、日本だと逆にその手のは余計に隠喩に思える時がある。
たとえばシャアはララァを母のように思おうとしてるのだって、ある意味ではそうなのかもしれない。半身かもしれない。血筋、みたいなのを言ったらそれはあれだろしそういう匂わせはあったかは不明だが。それを言えば少女革命ウテナなんかはどうなんだとなる(あれはあれで良いと思うが)。水星の魔女もそうではないかな。
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これトンデモに思われるだろけど、俺はさ、ある種の物語のはじまりの根幹の人物であるダイクンを若返らせるなりクローンなりやって、そいつに宇宙の歴史の事の顛末まで体験する物語やってほしいって思っちまうんだよな。
ダイクンが聖人とは限らないってのはそうだろし、むしろそのほうが人間臭いドラマができていいじゃないか。
ユニコーンで財団の創始者が出てきた時点で俺はそれを強く思った。こいつがダイクンとかだったらな……って。はよ責任とれやって話でもあるんだろけどな。
(追記) 小説版ガンダムではアムロとセイラが寝るってのを聞くが、これはご都合主義展開なのか、それともシャアが義理の兄になるかもしれないジレンマを描きたいからなのか。ロミオとジュリエットは聞いた事はあるけど、そのまんまよりは縁戚的にややこしくしたほうがドラマ性があると考えたのか。
まあ小説版ってアムロ死亡するって話らしいからたぶんシャーとアムロって構図すらどうでもよくなったのかもしれないけど。だってニュータイプの革新は主要キャラ以外にも共有されてるもんだろから。二番手三番手だってやるときゃやりやすんぜ!
おっしゃるとおり、アムロとララァの交わり合いを単に『メロドラマ』性的な表現として片付けてしまうのは自分にとっても解釈違いですね…。
ここまで視聴者向けに詳しく解説されていて尊敬していますが、もっと奥にあるメッセージ性を読み逃してる気がするというか…。
視聴者を意識してるからこそ大衆ウケが良いからそうまとめているのかもしれないですけどね。
岡田斗司夫氏はここでは解説されてないですが、このあとに続く大事なシーンであるララァの最期のシーンで『私たちは分かり合えた』という台詞がありますが、
富野監督は、ララァとアムロ新人類の在り方で人の意志の可能性を性的表現も交えて表現したかったんじゃないかな、と…
人の意思の表現についてはその後のZのあらゆる所に散りばめられてますからね。
拡大解釈されてしまったファーストガンダムで出来なかった事をやろうと作った作品のZが自分は一番富野監督のメッセージ性を感じて惹かれます。
誇りの埃😅
手塚治虫がジュンのコマ割りを否定したというのは、違います。
手塚治虫が否定したのは、セリフがないところです。
あながち違って無いと思います。手塚治虫が否定(嫉妬)したのは最低限のセリフのみで、あとは絵やコマ割りで詩情的表現に成功していたからですので。
@@kuroneko-qu2uw
石ノ森章太郎の「風のように」に、詳しい顛末か書いてあります。ジュンのファンが手塚治虫に「ジュンの実験的手法がとてもよい」と書いたところ、手塚治虫が「ジュンなんかマンガじゃない」と書いた返事をよこして、石ノ森がショックを受けたのです。また、COMの編集者がジュンはモーツァルトの音楽のようだと手塚治虫の前で褒めたところ、「なにがモーツァルトですか! セリフのないマンガなんてマンガじゃありません!」と怒ったという話も「手塚番 神の伴走者」という本に証言があります。コマ割りを全否定したなんて、当事者は誰も言ってません。それは想像であって根拠はないのです。岡田氏の発言は往々にしてこの手の誤謬(思い込みで話を発展させたり、歪めたりする)がありますので注意が必要です。
@@岩田瑞穂-u6d
同じ事の解釈の違いだと思います。「セリフがない」→「絵と印象的なコマ割りで表現した」という解釈で、岡田さんもいたマンガ夜話で夏目房之介さんも言ってたし、山田玲司さんときたがわ翔さんも石ノ森章太郎のコマの割り方(画面構成やレイアウト)、作画手法でも解説してましたよ。セリフで語る部分を全て絵で表現したという事を言いたかったんだと思います。
@@kuroneko-qu2uw
ですから、あくまでそれは解釈であって、ジュン騒動での当事者本人の意図とは明らかに異なっています。石ノ森章太郎の「風のように」は本人が書いたものです。そこではコマ割りの工夫は、ジュン以前にさんざんやっていることが書かれています。それについて手塚治虫が批判したことはありません。ジュンについて石ノ森章太郎は、手塚先生のだすCOMに「セリフもストーリーもない漫画」を描くんだよ! と藤子不二雄Aに意気込んでみせてます。「セリフもストーリーもない」、これが手塚治虫が批判した点だというのは明らかです。とにかく拡大解釈が多すぎますね。まずは事実を当たるべき。
@@kuroneko-qu2uw
解釈と当事者本人の意図とは異なります。石ノ森章太郎の「風のように」は、石ノ森本人が書いてますが、コマ割りの工夫はジュン以前にさんざんやっていますが、その多くは編集者に否定されています。手塚治虫は別に否定してません。ジュンについては石ノ森章太郎は「セリフもストーリーもない漫画」を手塚先生のだすCOMに描くんだよ! と意気込みを語っています。ですから、「セリフもストーリーもない」のは「マンガではない」と手塚治虫から批判されたということです。手塚治虫がジュンのコマ割りを全否定した!…なんて、拡大解釈すぎる暴論です。事実と想像をごっちゃにしてはダメでしょう。
イマジナリーラインって何?言葉の説明がないとわからない。
キスを暗示しているとは言えないな。こじつけすぎ
確かに劇中の表現はご講釈通り奥深いものがあるが
暗黒の宇宙空間で地球上でも敵とは交信しないのに
会話が出来たり相手が見えたりとか
無重力空間で飛んだり跳ねたりとか
光学兵器が線で見えたりとか表現が滅茶苦茶ですよね
という身も蓋もない感想で恐縮です
学生運動が社会とか正義なんてのは、あくまで口実に過ぎず、単なる暴力の行使でしかないんじゃないかな。
本当にそこまで考えて作ってるのかな?
アニメは設計図があって、わざわざ指定して画面を作っているので何かしらの演出意図があります。
今回の考察は昔からアニメ雑誌ではメジャーな説ですよ。
岡田さんはまだ甘いですね。43話でシャアとアムロはキスをします。
子供向けなのでBLは表現できないけど、ヘルメットごしにキスをします。
剣で互いを刺しあうのはオスVSオスの儀式です。サオありのNHヘルスに行けば常識です。
この程度の解説は子供だましです。私の解説、岡田先生は気が付いていましたかね?