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最近、このチャンネルを知ったのですが、大変勉強になります。
日本書紀の記述が丁寧に解説され、とても興味深く拝聴してます。
毎回本当に楽しみにしています。
このチャンネルは、面白い、いろいろと興味が増す、話ばかりですね。
いつも誠実な作品ありがとうございます。楽な気持ちで視聴させてもらっています。
詳しく説明してあり、とてもわかりやすく感謝します。
学び直したい人に最適な動画です。過去動画もお勧めです。
良い講義です。
このボリュームで継体天皇の前編とは驚きです。後編がどのようになるのか?楽しみです
レベルの高い解説に大満足です。まるでNHK、いやそれを超えています
犬hkはバイアス掛かってますから。
初めまして♪地元に天皇陵が有り、興味がありました。父親が社会系大学教授でしたから、基本的な事は知って居ましたが、納得の行く論法で展開して行く話し方で素晴らしいと思いました。登録させて戴きます♪
同族経営の会社でも「次の社長は誰にするか?」で大モメするところですし。次期社長を"適任"に見せるためには、多少のでっち上げ?脚色?はあるものですから、気持ちはわかりますよね。
氏がこの時代に成立したというのは興味深いお話でした。さらに、領土と知識を交換したのではないかとのお話しも大変面白いと思いました。多くの国では、外国との交流は、物資や富を求めることが目的であるのが通例ですが、日本では、後の遣唐使でもそうでしたし、さらに明治の留学生の派遣なども、海外の知識を求めてということが多かったように思います。その原型がこの時代にすでにあったとすれば、驚きです。
ありがとうございます。いつも勉強させていただいています。今回の中は、「領土」と五経博士とが釣り合っているのかということと、氏の成立の話が面白かったです。ただ、後者について、姓と氏の話が混同されている印象がありました。この時期の「氏」は何を指しているのか、議論がありますが、少なくとも「姓」とは区別されていたように思います。この後、さっそく後編を聞きます。
解説がお上手ですね。明治時代以降の近代史もあつかってください。
仲哀=神功王朝も、敦賀から始まりましたよね。継体朝も、福井から始まっても、不思議はないですね。
【日本史20】がなかなか出ないので催促メールです。説明も図説も丁寧に作ってあってとてもいいビデオだと思います、勉強になります。日本書紀や天皇家の系図の解説となるとうるさい人がいろいろいそうで、それでなかなか出ないのかなあと思ってますが…。めげずにお願いします。この調子だと現代史にたどり着くのはいつの日やら。
いつも楽しみにしています。古代を語るのは、デリケートな部分も多いし、ハッキリしないことも多いしで、色々と大変だろうと推測します。皇室の祖先は継体帝からしか明らかでないと言おうものなら怒り狂う民族派も居るし、古代において朝鮮半島の南端の一部は日本の支配下にあったと言おうものなら烈火の如く怒る半島人も多いしwww。どうかメゲずに頑張って下さい。ところで、私が小学校時代を過ごした福井県では、継体天皇は越前の人であり、暴れ川で有名な九頭竜川の治水に尽力して、見渡す限り一面の沼地だった福井平野を稲作地に変えた、ということは紛れも無い事実として語られており、継体天皇近江人説はずっと後になってから知りました。越前人説・近江人説それぞれは、どういう根拠で語られているんでしょうか? 風土記のようなものに基づくんでしょうかね?
動画でもお話ししたように、『古事記』では近江から、『日本書紀』では越前三国から迎えたと史実が異なっているからです。これについて、どちらが正しいとは言えませんが、『古事記』に伝える8人の后妃のうちの4人、『日本書紀』に伝える9人のうちの4人が近江出身であり、最初の妃と推定される若比売(若子媛)も近江出身者であることから、実際は近江出身と見るのが妥当という意見が多いです。『日本書紀』が越前からとするのは、『日本書紀』編者が『釈日本紀』所引の『上宮記』「一云」で系譜記事に続けて記されている内容(継体の父の彦主人王が継体の母振媛が美人だと聞いて、越前三国から近江の高島に迎えて妃とし、そこで継体が生まれた、継体が幼い時に父の彦主人王が亡くなったので、母振媛が実家の越前に戻って継体を育てたという)を見て、その記事に対応させ、越前から迎えたとしたものと考えられます。
むしろ、日本書紀とか古事記を読んでたら、生まれは近江国しか無いと思うのですが。育ちは越前でしょうが。
@@歴史倶楽部 とても詳しいご説明、大変有難うございました。そう言えば、継体帝のお父さんのお妃さんの話は、かつて聞いたことがあるような気がします。結局、生まれは近江、育ちは越前ということで宜しいんでしょうね。九頭竜川の治水云々の話は、地元の伝承か風土記の類の物からの話なんでしょうかね。小学校で使っていた「郷土の歴史」とかナントカという副読本とか、遠足の時のバスガイドさんの説明とかで何度か同じ話を聞かされたものですから、かなり確かな話なんだろうなと思っていました。
@@kensugi2325 リキトさんの詳しいご説明でよく分かりました。どうも有難うございました。
@@風の又二郎-x6e 近江、滋賀県の歴史だと継体天皇は滋賀県高島市の出身ってなってますし、郷土史なんて自分の土地中心の歴史観だから、そんな感じで良いのでは?
継体天皇の母である振媛は越前三国国造の高向氏の一女であり、高向氏は武内宿禰系で蘇我氏同族とあります。国造本紀には蘇我若長宿禰が三国国造とされていますから、蘇我若長宿禰が高向氏を称したのではないでしょうか。また継体天皇の父親の彦主人王が三国国造の高向氏に婿入して継体天皇が生まれた伝承もありますから、継体天皇は高向氏であり、と言うことは蘇我氏だったのではないでしょうか。
その通りです。応神天皇は、竹内宿禰と神功皇后と「浮気」の王子です。当時の倭人は、みんな知っていました。
枚方がでてくるの嬉しいべ
改めて枚方って歴史古いんだなと思うともっと好きになる
大和朝廷自体が、純粋な血統かも疑問点が多いんですが、以前の系図を調べれば、明白です!途中で女性を起用したこともあるし、継体以前に疑わしい事は多いんですが、
神武天皇のお兄さんが新羅の王になっていると聞きました。また、スサノオは新羅の王だったとも聞きました。朝鮮半島と日本の繋がりは過去の方が大きかったのかもしれませんね。
朝鮮半島の勢力争いを日本列島に持ち込んで😅また勢力争いをしていた?😢新羅系源氏vs百済系平氏😱
磐井の乱は日本書紀には528年に磐井を斬って終わったとありますが、百済本記には531年に天皇とその子供が一緒に亡くなったとあります。それに継体天皇はあてはまりません。 531年に私年号と言われている年号が一つは年号変更で一つは新年号として建てられています。これを知っていて無視してこの動画を作成されているのでしょうか?新年号を建てたのが物部ではないのですか?
旧辞や帝紀があればもっと詳しい事績が明らかになったんでしょうけれど。どこかから出て来ないでしょうかね?
武烈天皇を架空としながら、その妹を継体天皇の妃とした理由を正統な血筋を誇示する、というのは矛盾した説明ですね。
日本書紀は継体天皇の頃に編纂されたわけではないですから、矛盾は生じてないと思いますよ。推察するに、のちの編者が、武烈天皇という架空の天皇を物語に登場させ、その妹(架空)と継体天皇が婚姻関係を結んだというストーリーを作ったという見解なのではないですかね。そうすれば、継体天皇の正当性と正統性がどちらも確保されて、継体系を支持したいであろう編者に都合が良いですから。
継体天皇の即位って、劉備の蜀皇帝即位の時の状況と似てる気がする
継体天皇で王朝が交替してる説を追求して欲しかったです。後編で良いから、武烈系統と継体系統が繋がってない説を長く説明して欲しいです
任那 (にまな) なんですね。調べてやっとわかった
😅😊😅u
562年任那日本府成立🗾朝魚羊半島南部は倭國の範囲内👻
後半はまだですか?
😊😊😊😊😊
鎌倉殿の13人でも、後継の2人は、政子の腹の中で頼朝の種から生まれたことで、そのことを根拠にして政子を中心に、関東の御家人たちを束ねていたわけで、時政の力は政子の父親、義時の力は政子の信頼する弟であることから生まれたものですから、頼朝の種から離れれば離れるほど、実権を失っていったということですよね。仲哀と応神朝の関係に似ていますよね。
継体天皇は5世の孫に当たるから限りなく薄い皇族ですから天皇になっても奈良北部、大阪北部を彷徨い二十年の年月掛けて奈良中央部に都を遷都出来ました、但し 継体天皇の系統は現皇族として続いています。欽明天皇の前2代は継体天皇の前妻の子供ですか即位せずに欽明天皇に引き継がれたと考えられます。
ニ朝並立説が有力と言うのはいかがなものか?
やっぱ男系大事にしないとな
応神王朝の正当性の根拠は、仲哀の種であったことでしたが、実権は明らかに神功支持勢力が握っていたわけで、仲哀系の王子については明らかに事前に討伐していますよね。迎えに行ったら逃げてしまったというのは、作り話。もともと仲哀の死自体が不審死ですし、仲哀の死後から応神出生までの期間が空きすぎている。神功の腹の中で仲哀の種が生き続けたということが嘘ですから、応神王朝をつなぐなら、仲哀の系統ではなく、応神の系統から探すべきだと考えたということでしょうね。この後に磐井の乱があることから見て、仲哀は北九州系、応神は近畿から近江、北陸を基盤とする勢力で、仲哀と神功の婚姻をもって、両勢力の同盟が成立していたと考えるべきでしょうね。神功の腹の中で成立した同盟ですね。
当時の倭人(日本人)は、それを知っていて、仲哀天皇は「暗殺」されました。応神天皇は、竹内宿禰の子供で、竹内大臣が我が王子を大事に抱いています。
武烈天皇は武烈8年に死んだということは、10歳で即位したことになる。天皇は30歳以上で即位するという話とは、かなり違う。
枚方市なんやwwwwびっくりw
昔は海沿いだったらしいから驚くことないと思う。百済王神社とか王仁古墳も枚方だし。
応神の統治の大半は、実質的に神功の統治であったようですから、仁徳からが実質的な応神王朝なのかもしれませんね。丁度政子と北条泰時の関係のように。
出雲ロ伝では継体も蘇我氏も出雲系の人ですね。
仮称畿内ヤマト政権(継体朝)が北九州筑紫を掌握し朝鮮半島に関わっている事は、考え難い何故かと云うと、即位507年から朝鮮出兵まで「二十一年(528年)夏六月三日、近江おうみの毛野臣けなのおみが、兵六万を率いて任那みまなに行き。」とあるように20数年かけてやっと治めた王朝が、直ぐに、朝鮮出兵・磐井の乱を鎮圧したと考え難い思われる。また、安閑朝の屯倉の設置難波の屯倉等宣化朝の宮家を那津の口(博多大津)の設置。筑紫の国は、「遠近の国々が朝貢してくる所であり。」とある。それは、継体朝後である。倭国の拠点は北九州筑紫と考えるのが相当と考える。
匈奴の王だった人だろう
話し方が少し暗いですね。ぼそぼそとした話し方で音量不足かと思われます。
今の大学でならうそのままやね、
古墳時代❌やまと時代◯
現在の皇室の実質的、事実上の初代、太宗。血筋は古代出雲王国の東の元王家、当時は東出雲地域のあまたの神社群を管掌し王国滅亡時に移り隠居した屋敷が神社となった熊野大社の社家神主で有った富(トビ。又は、向)家のご次男、彦太君。が先ず、白面の青年の頃、遠縁、親戚である北陸の雄。蘇我本家のうら若き惣領媛の蘇我振媛と見合いして蘇我本家に婿養子~当主となり、蘇我オホド王(君)と号した。部屋住みのアカン奴かとおもわれたのが差にあらず婿養子の鏡‼️腐っても元王家の世が世ならばれっきとした王子(親王)!(蘇我本家(武内臣(宿禰)家流)には本家本宗のお方)早速、身を粉にして良く働き、三国港を拓いて物流を良くして交易による収益を爆上げ⤴️また、良く言われる通りに農地新田開発、改革を良くして農業生産性を飛躍的に向上させる。北陸(道の国)や関東等の親戚、豪族たちとの交流、お付き合いも疎かにせずに良くしてやがて彼らから盟主と仰がれる存在になり、名実共に北陸の雄、蘇我本家のオホド王は当時の大和の平群大王家(武内臣(宿禰)家流)を凌ぐ勢いだった。片や、件の平群大王家(王朝。仁徳(平群(武内)臣都久?~)が先の応神朝を簒奪して自立)では歴代、評判の芳しくない大王(天皇)が相次いだ事から王朝の御輿を担いでいた同族の重臣や豪族たちから愛想つかし~み限られて、重臣たちが鳩首会談の結果、評判、手腕や実行力更に人望が高くカリスマ性等が当代随一の蘇我オホド王に白羽の矢を立てて一本釣りする事に衆議一決。就中。一番の決め手は自分たち平群王朝の重臣、武内臣家流の(母系の)本家本宗の元出雲王家富家のご次男。と言う貴種で主筋で有った事。蘇我本家は淀川水系の樟葉の辺りに交易、商売の拠点、屋敷を設けていて平群王朝の重臣たちはそこに滞在中の蘇我オホド王にいきなり突撃した?。当初、大王招請の話に大乗り気だった。ところが、詳細な条件の段階になり特に、蘇我本家、若き日に見合いして互いに一目惚れしあってラブラブな振媛や二人の御子との離縁(後に継体天皇崩御後に都に蘇我兄弟が現れて、大王相続権を主張。一時期、二朝並立の有り様と成った)に最大限の難色を示されて大王招請話はご破算になりかけますが、平群王朝側の重臣の夜を徹しての粘り強い説得にオホド王が折れる形で大王招請話が纏まった。しかし、オホド王も一方的に言われっぱなしではなく、いくつかの条件を突き付けて承諾させた。その一つが大王宮は大和(奈良盆地)に全く拘らない。どころか往かない。交通物流、交易の要衝であるこの樟葉に大王宮を設ける事。継体天皇が枚方~高槻一帯に拘ったのは要するに大王商売に最適な要衝だったから。また、出雲王国時代は王家王族の義務で滅亡の後も特権階級の身だしなみだった勾玉や管玉等の瓊(宝玉類)を大王家の専売とした。製作は太古より専門で親戚の忌部に一任した。文字通りの殿様、大王商売で大王家はガッポガッポの大儲け🎉旧来、盟主と仰いでいた北陸~関東の豪族領主たちが樟葉の大王宮に手弁当でやって来て恰も家臣の如くに甲斐甲斐しく立ち働き、また、進んで後宮に娘を送り込み、縁戚となることを強く望んだらしい。ちなみに、継体天皇が婿養子~大王に即位した時、大王は48歳で当時としてはご高齢だった。手白香媛命との一粒種、ヒロニワの御子→欽明天皇~が今の万世一系の皇室のスタート。
王朝は変わってないですよね?
何故そう思うのでしょう?真実は闇の中なので、どういう説を取ろうが自由ですが、継体という特殊な諡号を贈られた合理的説明が出来ますか?
神功皇后の息子である応神帝は仲哀帝の息子ではないとの説もある。いずれにせよ応神5世孫ともなれば継体帝は応神とは赤の他人。これで万系一世とは苦しかろう。やはり継体帝で王朝が入れ替わったと言うべき。入り婿して、なんとか前王朝と関係付けたが、それなら継体帝以下は女系天皇だったと言える。
仮説に仮説を重ねれば、
戦後の歴史学者の視点での動画ですね、資料や知識としては有益ですが、間違った主観や日本書紀軽視がみられ残念な内容になっているのが、実に勿体ない動画です。また朝鮮半島情勢にも、戦後の自虐史観が反映されており、あくまで歴史資料を学ぶものとしては主観が入り過ぎています。
この男の正体は ごくまともに見えるが一定の政治勢力の蔭が見える。日本の歴史学者の典型
神武天皇の直系の子孫になってるから王朝交代じゃありません!
希望と現実には違いがあるのでは?
ですねえ。子孫という事にしないと難しいし、証明も難しかったでしょう。継体という諡も当時の人の認識が表れていると感じます。
島田秀平の旅杯チャンネルで😅ムーの編集長三上丈晴氏が、継体天皇は系図的に秦氏だと言っています😅因みに三上姓も秦氏です🤔興味がある方は「旅杯チャンネル」を見て😅
貴方の前の動画では仲哀天皇は実在しなかった事になっているからねその辺を忘れなきよう。
最近、このチャンネルを知ったのですが、大変勉強になります。
日本書紀の記述が丁寧に解説され、とても興味深く拝聴してます。
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このチャンネルは、面白い、いろいろと興味が増す、話ばかりですね。
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詳しく説明してあり、とてもわかりやすく感謝します。
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このボリュームで継体天皇の前編とは驚きです。
後編がどのようになるのか?楽しみです
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犬hkはバイアス掛かってますから。
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地元に天皇陵が有り、興味がありました。
父親が社会系大学教授でしたから、基本的な事は知って居ましたが、
納得の行く論法で展開して行く話し方で素晴らしいと思いました。
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同族経営の会社でも「次の社長は誰にするか?」で大モメするところですし。次期社長を"適任"に見せるためには、多少のでっち上げ?脚色?はあるものですから、気持ちはわかりますよね。
氏がこの時代に成立したというのは興味深いお話でした。さらに、領土と知識を交換したのではないかとのお話しも大変面白いと思いました。多くの国では、外国との交流は、物資や富を求めることが目的であるのが通例ですが、日本では、後の遣唐使でもそうでしたし、さらに明治の留学生の派遣なども、海外の知識を求めてということが多かったように思います。その原型がこの時代にすでにあったとすれば、驚きです。
ありがとうございます。いつも勉強させていただいています。今回の中は、「領土」と五経博士とが釣り合っているのかということと、氏の成立の話が面白かったです。ただ、後者について、姓と氏の話が混同されている印象がありました。この時期の「氏」は何を指しているのか、議論がありますが、少なくとも「姓」とは区別されていたように思います。この後、さっそく後編を聞きます。
解説がお上手ですね。
明治時代以降の近代史もあつかってください。
仲哀=神功王朝も、敦賀から始まりましたよね。継体朝も、福井から始まっても、不思議はないですね。
【日本史20】がなかなか出ないので催促メールです。説明も図説も丁寧に作ってあってとてもいいビデオだと思います、勉強になります。日本書紀や天皇家の系図の解説となるとうるさい人がいろいろいそうで、それでなかなか出ないのかなあと思ってますが…。めげずにお願いします。この調子だと現代史にたどり着くのはいつの日やら。
いつも楽しみにしています。
古代を語るのは、デリケートな部分も多いし、ハッキリしないことも多いしで、色々と大変だろうと推測します。皇室の祖先は継体帝からしか明らかでないと言おうものなら怒り狂う民族派も居るし、古代において朝鮮半島の南端の一部は日本の支配下にあったと言おうものなら烈火の如く怒る半島人も多いしwww。どうかメゲずに頑張って下さい。
ところで、私が小学校時代を過ごした福井県では、継体天皇は越前の人であり、暴れ川で有名な九頭竜川の治水に尽力して、見渡す限り一面の沼地だった福井平野を稲作地に変えた、ということは紛れも無い事実として語られており、継体天皇近江人説はずっと後になってから知りました。越前人説・近江人説それぞれは、どういう根拠で語られているんでしょうか? 風土記のようなものに基づくんでしょうかね?
動画でもお話ししたように、『古事記』では近江から、『日本書紀』では越前三国から迎えたと史実が異なっているからです。
これについて、どちらが正しいとは言えませんが、『古事記』に伝える8人の后妃のうちの4人、『日本書紀』に伝える9人のうちの4人が近江出身であり、最初の妃と推定される若比売(若子媛)も近江出身者であることから、実際は近江出身と見るのが妥当という意見が多いです。
『日本書紀』が越前からとするのは、『日本書紀』編者が『釈日本紀』所引の『上宮記』「一云」で系譜記事に続けて記されている内容(継体の父の彦主人王が継体の母振媛が美人だと聞いて、越前三国から近江の高島に迎えて妃とし、そこで継体が生まれた、継体が幼い時に父の彦主人王が亡くなったので、母振媛が実家の越前に戻って継体を育てたという)を見て、その記事に対応させ、越前から迎えたとしたものと考えられます。
むしろ、日本書紀とか古事記を読んでたら、生まれは近江国しか無いと思うのですが。
育ちは越前でしょうが。
@@歴史倶楽部 とても詳しいご説明、大変有難うございました。そう言えば、継体帝のお父さんのお妃さんの話は、かつて聞いたことがあるような気がします。結局、生まれは近江、育ちは越前ということで宜しいんでしょうね。
九頭竜川の治水云々の話は、地元の伝承か風土記の類の物からの話なんでしょうかね。小学校で使っていた「郷土の歴史」とかナントカという副読本とか、遠足の時のバスガイドさんの説明とかで何度か同じ話を聞かされたものですから、かなり確かな話なんだろうなと思っていました。
@@kensugi2325 リキトさんの詳しいご説明でよく分かりました。どうも有難うございました。
@@風の又二郎-x6e 近江、滋賀県の歴史だと継体天皇は滋賀県高島市の出身ってなってますし、郷土史なんて自分の土地中心の歴史観だから、そんな感じで良いのでは?
継体天皇の母である振媛は越前三国国造の高向氏の一女であり、高向氏は武内宿禰系で蘇我氏同族とあります。国造本紀には蘇我若長宿禰が三国国造とされていますから、蘇我若長宿禰が高向氏を称したのではないでしょうか。また継体天皇の父親の彦主人王が三国国造の高向氏に婿入して継体天皇が生まれた伝承もありますから、継体天皇は高向氏であり、と言うことは蘇我氏だったのではないでしょうか。
その通りです。応神天皇は、竹内宿禰と神功皇后と「浮気」の王子です。当時の倭人は、みんな知っていました。
枚方がでてくるの嬉しいべ
改めて枚方って歴史古いんだなと思うともっと好きになる
大和朝廷自体が、純粋な血統かも疑問点が多いんですが、以前の系図を調べれば、明白です!途中で女性を起用したこともあるし、継体以前に疑わしい事は多いんですが、
神武天皇のお兄さんが新羅の王になっていると聞きました。また、スサノオは新羅の王だったとも聞きました。朝鮮半島と日本の繋がりは過去の方が大きかったのかもしれませんね。
朝鮮半島の勢力争いを日本列島に持ち込んで😅また勢力争いをしていた?😢新羅系源氏vs百済系平氏😱
磐井の乱は日本書紀には528年に磐井を斬って終わったとありますが、百済本記には531年に天皇とその子供が一緒に亡くなったとあります。それに継体天皇はあてはまりません。
531年に私年号と言われている年号が一つは年号変更で一つは新年号として建てられています。これを知っていて無視してこの動画を作成されているのでしょうか?
新年号を建てたのが物部ではないのですか?
旧辞や帝紀があればもっと詳しい事績が明らかになったんでしょうけれど。どこかから出て来ないでしょうかね?
武烈天皇を架空としながら、その妹を継体天皇の妃とした理由を正統な血筋を誇示する、というのは矛盾した説明ですね。
日本書紀は継体天皇の頃に編纂されたわけではないですから、矛盾は生じてないと思いますよ。推察するに、のちの編者が、武烈天皇という架空の天皇を物語に登場させ、その妹(架空)と継体天皇が婚姻関係を結んだというストーリーを作ったという見解なのではないですかね。そうすれば、継体天皇の正当性と正統性がどちらも確保されて、継体系を支持したいであろう編者に都合が良いですから。
継体天皇の即位って、劉備の蜀皇帝即位の時の状況と似てる気がする
継体天皇で王朝が交替してる説を追求して欲しかったです。
後編で良いから、武烈系統と継体系統が繋がってない説を長く説明して欲しいです
任那 (にまな) なんですね。調べてやっとわかった
😅😊😅u
562年任那日本府成立🗾
朝魚羊半島南部は倭國の範囲内👻
後半はまだですか?
😊😊😊😊😊
鎌倉殿の13人でも、後継の2人は、政子の腹の中で頼朝の種から生まれたことで、そのことを根拠にして政子を中心に、関東の御家人たちを束ねていたわけで、時政の力は政子の父親、義時の力は政子の信頼する弟であることから生まれたものですから、頼朝の種から離れれば離れるほど、実権を失っていったということですよね。仲哀と応神朝の関係に似ていますよね。
継体天皇は5世の孫に当たるから限りなく薄い皇族ですから天皇になっても奈良北部、大阪北部を彷徨い二十年の年月掛けて奈良中央部に都を遷都出来ました、
但し 継体天皇の系統は現皇族として
続いています。
欽明天皇の前2代は継体天皇の前妻の子供ですか即位せずに欽明天皇に引き継がれたと考えられます。
ニ朝並立説が有力と言うのはいかがなものか?
やっぱ男系大事にしないとな
応神王朝の正当性の根拠は、仲哀の種であったことでしたが、実権は明らかに神功支持勢力が握っていたわけで、仲哀系の王子については明らかに事前に討伐していますよね。迎えに行ったら逃げてしまったというのは、作り話。もともと仲哀の死自体が不審死ですし、仲哀の死後から応神出生までの期間が空きすぎている。神功の腹の中で仲哀の種が生き続けたということが嘘ですから、応神王朝をつなぐなら、仲哀の系統ではなく、応神の系統から探すべきだと考えたということでしょうね。この後に磐井の乱があることから見て、仲哀は北九州系、応神は近畿から近江、北陸を基盤とする勢力で、仲哀と神功の婚姻をもって、両勢力の同盟が成立していたと考えるべきでしょうね。神功の腹の中で成立した同盟ですね。
当時の倭人(日本人)は、それを知っていて、仲哀天皇は「暗殺」されました。応神天皇は、竹内宿禰の子供で、竹内大臣が我が王子を大事に抱いています。
武烈天皇は武烈8年に死んだということは、10歳で即位したことになる。天皇は30歳以上で即位するという話とは、かなり違う。
枚方市なんやwwww
びっくりw
昔は海沿いだったらしいから驚くことないと思う。百済王神社とか王仁古墳も枚方だし。
応神の統治の大半は、実質的に神功の統治であったようですから、仁徳からが実質的な応神王朝なのかもしれませんね。丁度政子と北条泰時の関係のように。
出雲ロ伝では継体も蘇我氏も出雲系の人ですね。
仮称畿内ヤマト政権(継体朝)が北九州筑紫を掌握し朝鮮半島に関わっている事は、考え難い何故かと云うと、即位507年から朝鮮出兵まで「二十一年(528年)夏六月三日、近江おうみの毛野臣けなのおみが、兵六万を率いて任那みまなに行き。」とあるように20数年かけてやっと治めた王朝が、直ぐに、朝鮮出兵・磐井の乱を鎮圧したと考え難い思われる。また、安閑朝の屯倉の設置難波の屯倉等宣化朝の宮家を那津の口(博多大津)の設置。筑紫の国は、「遠近の国々が朝貢してくる所であり。」とある。それは、継体朝後である。倭国の拠点は北九州筑紫と考えるのが相当と考える。
匈奴の王だった人だろう
話し方が少し暗いですね。
ぼそぼそとした話し方で音量不足かと思われます。
今の大学でならうそのままやね、
古墳時代❌
やまと時代◯
現在の皇室の実質的、事実上の初代、
太宗。
血筋は
古代出雲王国の東の元王家、
当時は東出雲地域のあまたの神社群を管掌し
王国滅亡時に移り隠居した屋敷が神社となった
熊野大社の社家神主で有った
富(トビ。又は、向)家のご次男、
彦太君。
が先ず、白面の青年の頃、
遠縁、親戚である
北陸の雄。
蘇我本家のうら若き惣領媛の
蘇我振媛と見合いして
蘇我本家に婿養子~当主となり、
蘇我オホド王(君)と号した。
部屋住みのアカン奴かと
おもわれたのが差にあらず
婿養子の鏡‼️
腐っても元王家の世が世ならばれっきとした王子(親王)!
(蘇我本家(武内臣(宿禰)家流)には本家本宗のお方)
早速、身を粉にして良く働き、
三国港を拓いて物流を良くして交易による収益を爆上げ⤴️
また、良く言われる通りに
農地新田開発、改革を良くして
農業生産性を飛躍的に向上させる。
北陸(道の国)や関東等の親戚、豪族たちとの交流、お付き合いも疎かにせずに
良くして
やがて彼らから
盟主と仰がれる存在になり、
名実共に北陸の雄、蘇我本家のオホド王は
当時の大和の平群大王家(武内臣(宿禰)家流)を凌ぐ勢いだった。
片や、件の平群大王家(王朝。仁徳(平群(武内)臣都久?~)が先の応神朝を簒奪して自立)では
歴代、評判の芳しくない大王(天皇)が相次いだ事から
王朝の御輿を担いでいた
同族の重臣や豪族たちから愛想つかし~み限られて、
重臣たちが鳩首会談の結果、
評判、手腕や実行力更に人望が高くカリスマ性等が
当代随一の
蘇我オホド王に白羽の矢を立てて
一本釣りする事に衆議一決。
就中。
一番の決め手は
自分たち平群王朝の重臣、武内臣家流の(母系の)本家本宗の
元出雲王家富家のご次男。
と言う貴種で主筋で有った事。
蘇我本家は淀川水系の樟葉の辺りに
交易、商売の拠点、屋敷を設けていて
平群王朝の重臣たちは
そこに滞在中の蘇我オホド王にいきなり
突撃した?。
当初、大王招請の話に大乗り気だった。
ところが、詳細な条件の段階になり
特に、蘇我本家、若き日に見合いして互いに一目惚れしあってラブラブな振媛や二人の御子との離縁(後に継体天皇崩御後に都に蘇我兄弟が現れて、大王相続権を主張。一時期、二朝並立の有り様と成った)に
最大限の難色を示されて
大王招請話はご破算になりかけますが、
平群王朝側の重臣の
夜を徹しての
粘り強い説得に
オホド王が折れる形で
大王招請話が纏まった。
しかし、オホド王も一方的に言われっぱなしではなく、
いくつかの条件を突き付けて承諾させた。
その一つが大王宮は大和(奈良盆地)に全く拘らない。
どころか往かない。
交通物流、交易の要衝である
この樟葉に大王宮を設ける事。
継体天皇が枚方~高槻一帯に拘ったのは
要するに大王商売に最適な要衝だったから。
また、出雲王国時代は王家王族の義務で
滅亡の後も特権階級の身だしなみだった
勾玉や管玉等の瓊(宝玉類)を大王家の専売とした。
製作は太古より専門で親戚の忌部に一任した。
文字通りの殿様、大王商売で
大王家はガッポガッポの大儲け🎉
旧来、盟主と仰いでいた北陸~関東の豪族領主たちが
樟葉の大王宮に手弁当でやって来て
恰も家臣の如くに甲斐甲斐しく立ち働き、
また、進んで後宮に娘を送り込み、縁戚となることを強く望んだらしい。
ちなみに、継体天皇が婿養子~大王に即位した時、
大王は48歳で
当時としてはご高齢だった。
手白香媛命との一粒種、
ヒロニワの御子→欽明天皇~が今の万世一系の皇室のスタート。
王朝は変わってないですよね?
何故そう思うのでしょう?
真実は闇の中なので、どういう説を取ろうが自由ですが、
継体という特殊な諡号を贈られた合理的説明が出来ますか?
神功皇后の息子である応神帝は仲哀帝の息子ではないとの説もある。いずれにせよ応神5世孫ともなれば継体帝は応神とは赤の他人。これで万系一世とは苦しかろう。やはり継体帝で王朝が入れ替わったと言うべき。入り婿して、なんとか前王朝と関係付けたが、それなら継体帝以下は女系天皇だったと言える。
仮説に仮説を重ねれば、
戦後の歴史学者の視点での動画ですね、資料や知識としては有益ですが、間違った主観や日本書紀軽視がみられ残念な内容になっているのが、実に勿体ない動画です。
また朝鮮半島情勢にも、戦後の自虐史観が反映されており、あくまで歴史資料を学ぶものとしては主観が入り過ぎています。
この男の正体は ごくまともに見えるが一定の政治勢力の蔭が見える。日本の歴史学者の典型
神武天皇の直系の子孫になってるから王朝交代じゃありません!
希望と現実には違いがあるので
は?
ですねえ。子孫という事にしないと難しいし、証明も難しかったでしょう。
継体という諡も当時の人の認識が表れていると感じます。
島田秀平の旅杯チャンネルで😅ムーの編集長三上丈晴氏が、継体天皇は系図的に秦氏だと言っています😅因みに三上姓も秦氏です🤔興味がある方は「旅杯チャンネル」を見て😅
貴方の前の動画では仲哀天皇は実在しなかった事になっているからね
その辺を忘れなきよう。