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当時の家康は長年に渡って信長を裏切らずに同盟・従属していたことから忠義者のイメージがあったとか
Wikipediaによると秀吉の血は断たれたけど、秀吉のオカンの血は秀吉の姉の子孫が江戸幕府滅亡後に皇室に嫁いで、平成や令和の天皇さんに流れてると知ったのは驚きでした。
寧々からしたら、秀頼なんかより、幼い頃から我が子のように面倒見てきた秀次や秀秋、福島や加藤ら尾張衆の方が大切だろうよむしろ秀次殺された遠因である秀頼や淀のこと良く思ってなかったろうしね
秀吉が家康に秀頼の事を頼んだのは、もうロクしたのではなく家康を信頼していたからでしょ。結果的には滅ぼされたので秀吉が…ってなるけど家康はギリギリまで豊家を存続させるつもりだったろう。俺がもし秀吉でも家康に頼むだろうな。
家康の家臣を引き離したうえで、駿、遠、三ぐらいしか与えなければよかったんだよ。
流石に何も悪いことしてない家康の領地(北条滅亡時点)をその三国まで減らしてしまうのは大義名分も適当な処罰内容もなかったので領地が増えるけど不毛な関東へ行かせるしかなかったと思います。牽制のため、周囲に伊達や蒲生を一応配置してはいたので。
それじゃ家康が臣従する意味がない東北勢あたり引き連れて、小牧・長久手の続きが始まるだけでは?
秀次事件が豊臣政権に致命傷を与えたと言えよう。
秀吉の一族は滅んだけど、秀吉の姉の子孫は摂関家(秀勝)や秋田真田家(秀次)に居続けられたの凄いよな。
秋田真田家ではなく岩城家ですよ。幸村の娘が嫁いだ相手は、佐竹の弟ですよ。
秀勝と江の娘が九条家に嫁ぎ、大正天皇の皇后につながるので昭和天皇以降の天皇陛下に血が繋がってますからすごいですよね。
秀次が生き残ってたとしても秀頼が秀吉の子とは思えないから揉めただろうなぁ
誰ってわけじゃなくて、なるべくしてなってるのがよくわかる。チャンスは何回もあったけど、全てが滅びに向かってしまったからな。
戦犯というか秀長死ぬタイミングが悪過ぎた。
普通に家康かな?家康「おらぁ、方広寺の鐘の銘文で呪ったやろ!」秀頼「は?」清韓「あれは祝意ですよ?」家康「嘘付けぇ、専門家に聞くぞ!」秀頼「はい」五山の全寺「とても不謹慎だが呪いではない」家康「出っ陣じゃぁああああああッッ!!」
天下統一して地盤を固めずに朝鮮出兵に目がいっちゃう秀吉は先見性ないわな
結局「秀頼を悪者にしないために誰に悪者になってもらうか」って話になる…。
最大の要因は秀吉自身ではないのか?。淀殿、秀頼の3大戦犯。
永井路子さんの「王者の妻」でははげねずみはお江にも目を付けてた・・・って設定だった
三成が何もしなくても家康は天下奪ってたし、人望ない三成以外に狸の本性見抜いて立ち向かえる奴がいなかったのが悲劇
家康の振る舞いは露骨で、五大老・前田利家を筆頭に早くから反徳川勢力が組まれていたけれど、利家の病気が悪化して瓦解してしまいました
利家と同時に隆景もいなくなったから毛利もなぁ……
例え天下を奪われても豊臣が滅ぶかは別のお話な訳で実際、家康は秀吉死後も傲慢な態度は取りつつも豊臣滅亡を明確に意思表示していないし慎重な家康の事だから天下取りよりもまずは自国や関東の安定化に死力していた秀吉死後は間違いなく荒れるからね事実として家康も年寄りで秀忠には戦の才能がない中で武力でな仕上がろうとは考えていないはず政治置いて豊臣政権を牛耳る事は出来ても豊臣という旗頭は必要な訳でもし排除しようものなら反徳川と親豊臣の大名を敵に回す事になり戦国時代に逆戻りしかねないから関ヶ原が起こる前の徳川の野望はあくまでも自国の基盤安定と関東の安定化だったでも、そうした中で秀吉の死後、天下はいずれ徳川のものになると考えた大名達は徳川と接近するか敵対するかで別れたその中で上杉と石田が打倒徳川で動き関ヶ原が発生関ヶ原後は徳川の影響力が増大し親豊臣の大名が減り豊臣が弱体化した事により徳川の天下取りの道筋が見えた事で野心が本格化したのではないか、と思っている少なくとも家康がリスクのある関ヶ原も引き起こしたとは考えていないし石田や上杉が挙兵しなければ天下は徳川のものになっても豊臣が滅ぶとは思えないよって秀吉死後の戦犯は石田三成と上杉
武家関白は使い道は有るから、上手く立ち回れれば朝廷内の武家として生き残れた可能性は高いと思うが。
清正は遺された手紙読むと、亡くしてようやく三成の偉大さに気づいたみたいやね
秀次粛清の最大の問題点は「関白が政権の最終決済権を持つという自政権の特徴」を秀吉自身が否定してしまった点 「蒲生氏郷の跡継ぎは出来が悪い(12歳)!改易!」 「じゃあお拾様(秀頼様)に能力が無かったらこれも取り替えられるんですか?」と秀次に猛反対されたとも→結局大減封でごり押し 仮に秀頼が将来関白になっても飾りになってしまう自分を関白に推薦してくれた今出川晴季を流罪→娘も処刑したり、家康が内大臣になるまで朝議開催権が秀吉以外いなくなったりで朝廷の機能不全起こしたのも盛大にヤバい
あの地震がなけらば家康は滅んでいた。
秀吉が長生きしたのが最大の不幸で数年早く死んでれば秀頼が生まれる事も無く秀次が健在朝鮮からも早めに撤退出来るし淀の影響力もほとんど無いしなあなので誰が最大の戦犯かと言えば間違いなく秀吉自身
10:30最後の石田三成の絵が本多忠勝な気が😅
なによりも家康の長寿がでかい
死ぬ前年まで戦ってるのがすごい
前田家の見切りの早さはスゴイ
まぁ家を残すのが何よりだからね。
柴田勝家も賤ケ岳で早々に見切ってますしね( ゚Д゚)
まぁ輝元が家康の誘いなんか無視して強気で大軍率いて関ヶ原行ってれば徳川潰せたっしょ。
むしろ大阪城で秀頼囲いながら家康待ってても勝ち確なレベルだと思う。 豊臣恩顧は攻撃できないし、家康も謀叛人から秀頼を取り戻す、みたいな大義名分しか立てれない。 カルバリン砲も無しで大阪城が落とせたとも思えないし、宗茂の進言通り城に籠もって徹底抗戦すればよかったと思う。
秀吉は「病気の時に遺言を書くな」とか言っといて自分がやるんだから晩年はどれだけボケているんだとw
秀吉が徳川家を潰しておかなかったのが一番の原因ですが、豊臣家は徳川家のように大名出身ではないので基盤がどうしても弱く、徳川家を潰しておいても長くは続かなかったでしょう。
秀吉が晩年にやらかしすぎたのが致命的だった・秀永が逝った所で更に秀次と係累を粛清してただでさえ少ない親族を減らす・秀次に連座して潰されそうになったけど家康の取り成しで救われた大名達は反豊臣へ(特に最上は駒姫の件で秀吉絶許モードに)・朝鮮出兵で豊臣側の大名を疲弊させる&三成と対立した武断派をまた家康が懐柔これらで豊臣から徳川に戦力を流出させる流れを作っちゃってたから淀君や三成や秀頼が多少まともに動けても大局は変わらなかったと思う
長い文章お疲れ様wwwでも見ないよw
秀秋捨てたことも追加で
最上夫妻が仏壇の前で狂ったように泣き崩れる「独眼竜政宗」の場面はよく覚えてますよ。
秀吉自身が戦犯 晩年の行いが酷すぎて 豊臣恩顧の大名すらも 堅実な徳川家康を頼りにするようになった。
秀頼の城外担ぎ出しに反対した淀が明らか戦犯。あれで士気上がらん買ったのがインシデントやわ。
大野は豊臣の旗印を城内に持ち帰ってもうたからな、、、
夏の陣やってる時点で負けなんだよなぁ
似たような事しているの、クレオパトラくらいでしょうか。同じように大国(ローマ)に喧嘩売りながらいざ戦いになれば関係ないような態度取ったりしたとか。最後は敵前逃亡でしたし。
自分が考えた家康の心境家康「また関ヶ原みたいなもん起きたら豊臣じゃ耐えきれん…せや!自分が武家のトップになれば反乱することも無くなるやろ!」敵対勢力「家康は豊臣乗っ取った極悪人や!」家康「ざけんな!敵対者は全員皆殺しじゃ!」ぶっちゃけ家康は豊臣を守るために征夷大将軍になったはすが豊臣乗っ取りに変えられたのが真相じゃないかと思う
んなわけあるかい
国松まで殺して一族は根絶やし。秀吉の墓までぶち壊した家康。豊臣守るために征夷大将軍とか、足利尊氏レベルのサイコパスでっせ?
アレキサンダー大王が死ぬ前後のギリシャに状況が似ている気がしますよね。・後継者難航(秀吉は秀次から秀頼に、アレキサンダー大王は幼児と障害持ちの子供しか血筋的な後継者が居なかった)・内乱、第三勢力の出現(家康の台頭、関ヶ原や大坂の陣。大王の場合プトレマイオスやセレウコスがヘレニズム国家を建て後継者戦争勃発、結果的に無関係なローマにヘレニズム国家は全て滅ぼされる)
オクタヴィアヌス=アウグストゥスは家康ポジションすか?パクス・トクガワーナって意味では通じるものがありますな。
小早川って裏切ったんじゃなくてそもそも徳川側についてて、無理やり西軍の近くに陣取ったんじゃなかったっけ?んで約束の時間になっても突っ込まないから家康が銃撃かましたらヒエェってなって突っ込んだって話だったと記憶してるが。
東軍で参加しようとしたら叔父が西軍大将(名目)やっとるから一応西軍として参加したけど戦が始まってしばらく見た結果「これ普通に東軍についたほうが勝ち馬乗れそうやん」ってなって裏切ったんちゃうかなソースはない
淀殿だけが秀吉の子を産めたのが不可解寧々さんが子供産んでたら普通に天下続いてただろうし
秀頼は秀吉の種じゃないだろ。(笑)
家康を関東に送った事もダメだったよな。確かに不毛の地ではあったが、歴史を知る限り不穏な動きをする人物こそ近くに置かないとダメなんよ。徳川は漢の高祖・劉邦になっちまったよ
石高+100万石。言うこと聞かない国人を土地から引き離して家臣化。経済力も大幅アップ。動員兵数が関ケ原の頃には小牧長久手の2倍以上に。どう考えても家康の始まりはこの左遷を大幅プラスに変えたことだと思う。 というか太田道灌時代の江戸城と城下町改装して使うと思いきや、日本の首都になるくらい江戸を大開拓するとは秀吉も思わなかったと思う笑
まぁ1番の戦犯は秀吉。秀頼が死んだのも致命的だったけどどの道ただでさえ親族が少ないのに親族を殺し過ぎだな。まぁその次の戦犯は淀殿…家康の譲歩をふる無視してるのあかんやろ。
天下人家康を無視なんてできるわけありません。江戸城普請も、方広寺再建も次々出される神社仏閣再建も、秀頼の関白職阻止も、二条城に出向いての臣下の礼も、次々出される難題に最終的には全て従っています。 俗に言う3か条(国替え、人質、参勤)を突きつけたのは家康でなく片桐です。家康が国替えや人質を要求するのは、大坂の冬の陣の和平交渉の頃からです。 家康は豊臣家を方広寺までは潰す気はなく、淀も家康が死ぬまでは大人しく従う予定だったのではないでしょうか?これが14年にも及ぶ二重公儀体制の要因だったと思います。
元々反畿内性質がある上に小田原征伐で反豊臣感情も増大してる関東に家康を封じるとかいう愚策
加藤福島など秀吉股肱の武将が、三成に嫉妬する、などというBLぽい理由で徳川方に付くのが悪い。戦闘力ばかりでオツムの出来がアレだとやっぱマズいわなw
秀長、鶴松、秀次、蒲生氏郷、前田利家、この辺り全員が史実より長生きしてやっとワンチャン有るか?位ですかね?。
豊臣家滅亡は秀吉自ら招いたんだろ
2chレベルだからしょうがないけど、ねねは西軍ってのが最近の定説。関ケ原が一日で終わったのは全員にとって誤算。これは一回戦で上杉も毛利もただ単に切り取り自由の戦国時代に戻って周りを切り取ろうとしてただけだからそりゃ、後ろも突かんし、大阪城から動かずに四国あたりの切り取りに頑張るわなって話。豊臣はベンチャー企業だからしょうがないっていうことだけ。
秀吉が生きている時代にDNA鑑定があればこんなもめ事はなかった。家康が豊臣滅亡ムーヴにシフトしたのは秀頼が大きくなった後に、謁見してこりゃ秀吉の子ではないと確信したから。鑑定で諦めて素直に秀次に譲ってれば家康も関東の雄で満足してたと思う。
いえ、たとえ血の繋がりがなかろうとも秀頼が跡継ぎ確定だと思います。当時血の繋がりはそこまで重要ではありません。 上杉、黒田、小早川、赤松。皆養子まみれです。信長と血の繋がった信孝と、秀吉と血の繋がらない秀頼と比べたとしても秀頼の方が跡取りとしての序列が高いと思います。理由は信孝はすでに神戸家に養子に出されてるので信長の後継者からは外れてること。母親の身分が低いことがあげられます。秀頼の母親の淀殿の家筋は申し分ないですし、何より秀吉から正式に後継者指名されてますので、文句のつけようのない豊臣家の後継者だと思います。(ちなみに赤松家は当主が自身の男色相手を後継者に指名して、普通にその人が当主になっています。血の繋がった息子達も皆命令に従っています)
家を保つ事と、天下を保つ事を分けて考えられなかったのがすべて。織田家はそこを分けて考える事ができたから家は残った。
のぶおくんの家が幕末まで残ったのすごE
ドラゴンボールのセル編みたいに戦犯がチラホラといるなぁ…1番は秀吉かな、秀長死後が残念すぎる
同感
利休に嫉妬ムクムクしてノリで切腹命じたらマジでやっちゃった、しかも最後までサルの嫉妬を無意識に煽るムーブを貫いた利休さんとかいう人格者。
やっぱり親類が少なすぎる。姉の子であり、繁栄してた秀次とその子供たちを族滅したのはデカすぎる。秀長系が無い状態で、秀次の子供だけでも残しておけば、、しかも関白家家臣団を処断し、そこに連なる生き残りはほぼ徳川方になる。当時の個々の大名が、どういう目線で豊臣本家を見ていたかがなんとなくわかる感じがする。
豊臣が天下人の座から転落した戦犯:秀吉豊臣が滅亡した戦犯:淀秀吉が後継者をきちんと育てなかった時点で、死後に誰が頑張ろうが豊臣の天下が終わるのはしゃーない。しかし天下人から転落しても、立ち回り次第で一大名として江戸時代を生き抜ける可能性は十分にあった。その可能性すら潰したのはやっぱり淀
徳川抑えるために上杉と蒲生、佐竹があそこにいたんでしょ。あの時点は正解。その後は知らん。
つまり必然的に滅びる運命だったという事ですね。
黒田長政って隠れた有能よな。関ヶ原でも大活躍してるし、家康にめっちゃ信頼されていたし、他の大名への工作とか結構上手くいってる。福島や加藤とかよりもよっぽど頭が良かったんやろうな
親父が秀吉より頭よかったからなそら当然よ。
黒田官兵衛を親に持ってりゃ頭良くなるよな...しかも槍も上手いのは強すぎる
加藤清正や福島正則と違って家康の野心を分かった上で東軍に付いたんでしょうね。しかも処刑される前の三成を散々罵ったのに豊臣家も守れず死んだ直後に改易されちゃう福島と対照的に陣羽織を着せて三成を労った長政は御家も存続させたしカッコいい。
官兵衛が九州で暴れまわったことが結果的に西軍の戦力を弱めて、家康や東軍に利益をもたらしたことにつながったというのも理由かと。
秀吉が織田家にした事を考えれば当たり前の結果。因果応報、所詮は成り上がりの裏切り者。
いや秀次切腹せんかったらほぼなんもかったって
三成の良いところ?鎧甲や旗がカッコいい所かな?(小学生並)
小牧長久手で徳川を滅ぼせなかった、身内が少なすぎた、この二つでしょうね。秀吉の時点で政権が盤石じゃなかった。三成も秀秋も秀頼も悪くない。
最終的には秀頼が強硬派だったから血統的にトドメを刺された。
なお、三成さんは家康さんと仲が良い意味が分からん状況。
2:40 これ誰か知っている人いる?初めて聞いたんだけど、なんかエモいね
三成は佐竹、上杉味方に入れてたのに負けてるんだよな。まあ、関ヶ原勝っても、室町幕府みたいな感じになって、周りの武将を抑えられたか不明だからな。
関ヶ原より加賀征伐でちゃんと前田守っとけばよかったやろ。
まあ秀吉だろうねぇ…(*´^`)秀吉も『頼む、頼む秀頼を… 助けてくれ…』なんて言うから…『お前が秀頼より優秀やったら遠慮なく天下取ってくれ!』って言ってたら徳川家康もさぞやりにくかったでしょうに(劉備作戦)
狸「ほな諸葛孔明に倣って秀頼くんを傀儡にして好き放題やらせてもらいましょ、邪魔なババアは政治から遠ざけてわいの天下や」
建前上信長と狸は同盟関係にあって主従関係じゃないからね、そりゃいくら天下人とはいえ同盟相手の部下にそんな事頼まれても知らんがなって感じだったんやろ。織田信長が死んだ時点で一応同盟自体も死んでるからね、織田家の誰かが天下取ってれば多少なりとも変わってたかもしれんが、別に元からハゲネズミの頼み聞く義理もないし。
@@ゆあきん 司馬炎「せやせや」
関ケ原のあと淀が「これからは徳川内府を父と思うですよ」と秀頼にいう、三国志類似イベントはあった模様
力のある秀吉には従ったけど豊臣家に従う訳では無い。そもそも毛利も島津も秀吉には煮え湯を飲まされたし。その辺を考慮せず皆自分と同じくらい忠誠心があると勘違いした石田三成がな…。豊臣家の地盤が無かったが故に武士の頂点に立てなかった。その時点で短命政権なのは決まってたんよ。
関ヶ原の戦い当日を見ると三成と吉継と秀家が可哀想だなと思っちゃう
関ケ原で西軍が勝っていたら豊臣は三成が滅ぼしたと思うんだよなぁ
秀頼を傀儡にして権力を振るうことはあったかもですね
石田三成は性格的に意固地なとこがあったんじゃないかな。意固地が身を滅ぼし豊臣家をも滅亡に追いやってしまったんじゃないか。と思う。立場は違うが武田勝頼も同様に意固地な性格だったように思う。
大坂の陣の時に秀頼が出陣していたら十分勝てたはずだから、それをとめた淀だな
大和宰相秀長が早くに世を去った時点で、豊臣滅亡は決まってしまったんだよなあ…誰が悪いとかじゃ無くて。
9:59 いかんでしょ
もし秀頼が男子じゃなく女子で産まれてきてたらどうなってたかな?豊臣の名前位は残すことは出来たかな?
秀頼の娘は生かされたが鎌倉の東慶寺に入れられて天秀尼という名で独身のまま生涯を終えたから同じ運命になると思う。
女の子なら秀次の息子などに嫁いだかもしれないですね。当然秀次が豊臣家の当主になるので、歴史は変わっていたかも知れません。
せめて前田利家が三成の代わりに戦ってたらなぁ…
秀吉が天下人になったのがそもそも奇跡的でそのあとは専制政治に陥り、佐々成政とか大名級の家臣でも冷酷に死なせたのは数知れず、一応後継者にアテたはずの秀次も曖昧な理由で追放して死なせた。その後に決めた後継者も幼児という時点で詰んでいた。さらに譜代の家臣といっても秀吉の引きで据えられた人徳のない能吏ばかりでは大名級の家臣からすれば先行き不安でしかない。その不安感が如実に現れたのが関ケ原の戦いでしょうね。
寧々が徳川に味方したのが悪いのでゎ?
五奉行を欠くと、たちまち大野兄弟まで人材レベル低下ワンマン社長の業績だけで大きくなった会社
有能なのは大名になってるか関ケ原で改易させられてるから、人材不足ヤバイですよね。さらに金目当ての寄生虫としか思えない信雄や有楽が集まってくる始末……。
秀吉を見てると、成り上がりの天下って長く続かないんだなぁと思った。下地の作り様が無いから後継者で絶対揉めるだろうしなぁ
若くに有能な子が産めなかった秀吉は詰んでましたね子が有能だった伊勢宗瑞さんは5代続いてますし跡継ぎが重要ですね
漢とか明とか、創始者がならず者まがいの王朝すら100年以上は維持出来てたんですがね。
@@FREEDOM-vv3wu 創始者の質以上に周りを固める者達が大事になるんだなぁと。織田家も中心人物達がいなくなって崩壊してますし
淀 大野治長との子を秀吉の子と偽り、実権を握った上ねねを大坂城から追い出し、秀吉に讒言 出生の秘密を知る豊臣秀次とその一族まで皆○しにした。ねねの怒りは凄まじく関ヶ原前に家康と密談、今の豊臣家に未練はないので今後家康が攻め滅ぼそうが関知しない、正則、清正には家康に味方するよう頼んだ。淀殿が元凶と思う。
家康も秀吉本人には死ぬまで臣従してるんよね信長に臣従して息子殺した秀吉と同じ
信孝に切腹を勧めさせたのは信雄です。秀吉はまだ北陸じゃなかったかな。まあ秀吉が織田家簒奪したように、同じこと家康にやられただけだとは思うけどね。
まあ秀吉死後の豊臣に政権を運営していけるとは到底思えないしな
大谷使えないって言ってる奴馬鹿だと思う。あいつ普通に能力はあるし(病気というデバフ考えても)人望も三成とは比較にならない(比較する方がかわいそう)し少なくとも大谷いなかったら西軍まともに戦できる数集められんかったぞ
晩年は秀長がいなかったし官兵衛も隠居しててあまり頼れなかったし仕方ない(つまり秀吉は雑魚)
淀君は蔑称だって知ってる?正式には淀殿と呼称すべき。
正式と言うと生存中に呼ばれた呼称は(淀に限定すると)淀の方、淀の者、淀の女房、淀様ですね。淀君、淀殿は淀の方の死後に呼称された呼び名とされています。
石田三成が当代きっての豪将に……見え…る…???
本多さんに見えちゃいますね☺️
家康がたぬきとか裏切りとか言われているけど、秀吉死後、家康は最初は豊臣家臣として頑張ってたよでも、五奉行は内紛ばっかでしかも増長して俺たちこそが大老とか言ったりして淀殿にしこたま怒られとるし、五大老も毛利上杉は領国にしか興味なく前田は大阪にこもりっきり、宇喜多は家臣の統制すら取れてなくて日ノ本の政治を行っているのは自分家康だけ、豊臣恩顧の大名は政治が全く分かってないししかもたかが感情的もつれで内部分裂状態、肝心の豊臣家は年貢の取り立て方すらわからず徳川から代官派遣してやってなんとななってる上に、なんか徳川さんのおかげでうまくいって助かるわあとか暢気なものこの状況で「あれ?これ天下いけるんじゃね?」って思わない方が馬鹿でしょ
秀吉死後の家康の行動は結構後手後手に回ってることが多いんだよねまあその対処方法が的確だったから問題なかったんだけど周りが先にやらかしてたよね…
もしかして、鳴かぬなら鳴かなくとも良い思考だった?
家康が頑張っていうけど、掟に叛いて婚姻、大坂城入城、禁じられた領地を与える、前田、上杉に難癖つけられるなどあげたらキリないし。前田は遺言で大坂城にいるように勧められて、上杉は暫く領国経営に専念する事を許可与えてもらってる。毛利もずっと領国にいた訳ではなく、大坂で政務をとってますよ。また家康だけは帰国する条件に秀忠か家康の上洛が義務付けられてます
@@まかいチャンネル それ全部、家康が豊臣家臣から天下人になるのを決意した後の話秀吉が死んで朝鮮出兵を帰還させるくらいまではかなり真面目に働いてましたよ婚姻に関しては、禁止するのがそもそも非現実的、姻戚関係で平和を保っていた部分が大きいので家康以外にも私婚をしていた大名はまあまあいたけど、毛利前田四奉行と対立していた家康だけが目を付けられた感じですね
秀頼が生まれてようがいまいがどのみち滅んでいたんだから、どうしようもないんじゃないかね秀次が生きていても家康に勝てたとは思えないし
秀次が生きていたら関白と内大臣という事で家の格が違い過ぎて徳川は豊臣に刃向かえなかったと思う。謀叛になります。
戦犯一番は福島正則に決まってる尾張においてたのに😅
小牧長久手で徳川を潰せなかった、秀長の早死に、秀次一家を粛正、秀吉秀長両人が子宝に恵まれなかった…。
あと朝鮮出兵とか加藤清正 前田利家らの死とかも?
清正は関係無いでしょ二条城の会見時には豊臣家と関わりたく無いみたいだし
小牧長久手で戦争は徳川有利だったんだよなあ...交渉で無理やり勝ちを演出しただけで身内が近いタイミングで(しかも牽制してくれてた人たち)死んでってほぼ唯一の身内の秀次殺して人望消え失せ家康対策の譜代たち(福島とか)がまさかの家康と馴れ合っちゃうしでなーにやってもうまくいかなーい
@@matukawatositane そうでしたw すいません
徳川は実力も勿論ありましたが、運が良すぎますよね。小牧長久手の後徳川を討伐するための軍が編成されていたのに、タイミングよく大地震が起きて戦争どころでは無くなったという
豊臣政権自体が脆弱すぎてなー関白職の独占が不可能な時点で
そもそも豊臣で徳川幕府以上に天下が纏まったん?ってのがなあ。遅かれ早かれ国が割れてまた戦乱じゃ天下人になろうが意味ないわ。
三成(加藤清正くんは昔からの友達で有能な人だし、心から頼りにしてるって事を伝えなきゃ!!)三成「お前は単なる馬鹿とは違う。」清正「は?」この腐れコミュ障に人徳があるわけ無いんだよなぁ~。
秀吉の実子が少ないし譜代の家臣もおらん。跡継ぎが多さかな。2、3人病死してもまだまだ居るし。関ヶ原後も子供作っている
理由としてよく挙げられる小早川秀秋だけど、過去を見れば裏切るべくして裏切ってるよね?はじめ後継者にしようとしてたくせに、小早川家に養子に出して、実質追放してたし・・・そこに追い打ちをかけたのが、豊臣秀次切腹事件でもしかしたら次は自分では?という危機感が生じたんじゃないかとも予想されるし
しかし、それを強引に決めさせた家康もなかなか。なんせ迷っている最中の秀秋の陣目がけ大砲撃ち込んだとか。
こんな豊臣家やその側近連中に恨みしかなさそうな人間を西軍にスカウトするだけでなく山の上に陣取らせる三成さんセンスなくねえか?
石田三成が山の上に配備した訳じゃなくて、小早川秀秋が元々山の上に居た西軍の将を追い出して勝手に陣取っただけ前々から不穏な動きが有ったから対小早川秀秋として、大谷吉継や他の将も山に向かって陣を配備したけどもそいつら皆裏切ったせいでその備えも崩壊した
織田信長が本能寺の変で倒れたあとの豊臣秀吉(羽柴秀吉)の立ち回りがすごすぎ。織田信長の息子の顔を立てて、自分は織田信長の家来ですよ、と言いながら、だんだん自分中心の政権に変えていったのがすごいけど、死後に徳川家康に同じことをそのままやられた感じ「豊臣秀吉と秦の始皇帝って似てない?」と中学校のときの社会の先生が言ってて、確かにそうだと思ったw
あの動きを即興で出来たんならマジもんの天才やけど、多分大分前から根回しも含めて、信長が死んだらこう動こうって計画立ててたんやろうなぁ。
黒田官兵衛の存在が大きかったと思う
その先生は中学校の先生レベルで良かったと思うわ。本格的な方に進んでたら…
決戦場に家康が参着するまえ、東軍諸将は城攻めもし何より長距離をあり得ないほど急いで移動したため兵卒は、地面に大の字になるほど疲労こんぱいしていた。その時西軍は、まさに目と鼻の先におり、宇喜多秀家はただちに夜襲を主張した。この夜襲が採用されていれば、西軍は、圧勝していた。初戦に圧勝すれば、日和見勢力は堰を切って西軍に味方するのは日本史の通例。
原因は山ほどあるけど、最後の分岐点は秀次の切腹現後継者かつほぼ唯一の外戚を意味不明な理由で高野山に追放するって秀吉何してんのよ秀次は秀次で早まって腹切るとか短慮の極み諸大名・朝廷は秀次が腹切る理由がさっぱり分からなくて、まさか秀頼可愛さに秀次やっちゃった?バカじゃね?となりそうだったそこで秀吉は秀次を死なせた理由が必要になって、謀反企んでたという言い訳でごまかすしかなかった秀次を謀反人とした以上、女房子供皆殺しはある意味当然でそれをやらない方が却って不自然まあこんな事して人心が離れない訳ない秀次は高野山で大人しくしていれば必ずまた自分のターンが巡ってきたし、器量人とは言わないけど眼前の政務を滞りなく処理出来る程度の能力はあって秀頼成人までのつなぎとして申し分ない人物だったのに、惜しいよ
秀次切腹前に祖母で有る大政所が亡くなって居たのが不味かった、大政所が生きて居れば秀吉が孫を切腹させると大政所が知ったら断固として秀吉に秀次切腹を止めさせた。
@@73moto 大政所の扱いも元々雑なのよね…→病気で秀長の領地で療養してたけど体調回復したところにいきなり妹の見舞いに行ってくれへん?(徳川の人質に言ってくれ)という
淀だろ間違いなく
「豊臣“政権”崩壊の責任」ではなく「豊臣“家”滅亡の責任」っていうなら普通に秀頼と淀殿が悪い。さっさと家康に臣従して徳川の家臣になるべきだった。それができなかった責任は当事者の秀頼たちにあるのであって、加藤や福島にそこまでの面倒をみてやる責任はない。
73歳の家康が大阪まで出陣して敵の突撃食らうほどの最前線近くに布陣して指揮してるのに母親に止められたか知らんけど城から一歩も出なかった秀頼一体何がしたかったのか理解不能
戦の経験ない無能な若者大将は城から出ないのが一番いいやろ。下手に出てまわった方が指揮系統も味方布陣も混乱するだけ
@@仙堂レイ 指揮しなくとも戦場に出ただけで味方の士気はあがるから、城から出るべきではありましたね。結果論なのでなんとも言えないのですが
@@荒井亮多 実戦の経験もないのにどうやってどうしたらどのくらい士気が上がると判断が出来るのでしょうか? 結果論以前の空論のようにしか思えません
もう自分で答え出してるようなもんやんその年齢までの豊富な経験を判断材料に出来た人と、その判断する材料すら持ち合わせていなかった人の比較だとすればなんら不思議はない 根拠が(少なくとも自身の中にすら)ないのに行動に移せば、それは無謀でしかない
@@makiotkdxaaa657 別に秀頼が指揮しなくても幸村とかに指揮してもらえばよくね?
三成の人望のなさ+毛利無能じゃねw豊臣が領替えに応じればまだ長生きできたかも
いや、1番目は高台院では?あなたに秀吉との実子が早くに生まれればあんなことにはならなかったのに。秀頼云々以前の問題。
関ケ原にて秀頼出陣したならいけたかも?(゚∀゚)
農民出身だから極端に使える親族が少なかった。更に種無しだったので絶対的な後継者が作れなかった。農民から天下人まで成り上がったのは確かに凄いが、農民出身の限界だったと思う。武家みたいなガチガチの血の絆が無いから、どうしても政権が脆弱になってしまう。個人的には、小牧・長久手の戦いで徳川を滅ぼせなかった時点で、豊臣家滅亡の運命は決まったと思う。
そう考えると(中国ですが)似たような出自で数百年続く王朝を作った劉邦や朱元璋は、バケモノかつ奇跡ってことになりますね( ゚Д゚)( ゚Д゚)
秀吉種無し言われるけど秀頼までにも何人か子供居たんやで、皆幼く死んだけど…
ここ100年ぐらいで赤子・幼児・母体の死亡率かなり減ったけどまだまだ高い祖父ぐらいの話し聞いてると戦後でもかなり死人出しててそれが普通の様に語ってた
@@コーッケッコ 長浜時代に長男の石松丸秀勝が生まれているが夭折してる。
秀吉が戦が弱すぎる(圧倒的な数で勝つ戦いは強い)小牧長久手の戦いで負けたのが悪かった勝ってたら徳川の領地縮小できたよ
小牧長久手は直接軍を率いてないし、むしろ秀吉より戦上手って誰よ? ってレベルのチートキャラ毛利より少ない兵力で、吉川小早川の両川を相手にしつつ播磨・因幡・伯耆・淡路・備前・備中・美作とか次々と平定していくの頭おかしいんよ。まだ清正とか正則とか初陣したばっかだから人材育成しながらだし笑
秀長が長生きしていたら‥‥‥とはよく言われるが、コヤツも老害化する可能性ありわけで‥‥‥
当時の家康は長年に渡って信長を裏切らずに同盟・従属していたことから忠義者のイメージがあったとか
Wikipediaによると秀吉の血は断たれたけど、秀吉のオカンの血は秀吉の姉の子孫が江戸幕府滅亡後に皇室に嫁いで、平成や令和の天皇さんに流れてると知ったのは驚きでした。
寧々からしたら、秀頼なんかより、幼い頃から我が子のように面倒見てきた秀次や秀秋、福島や加藤ら尾張衆の方が大切だろうよ
むしろ秀次殺された遠因である秀頼や淀のこと良く思ってなかったろうしね
秀吉が家康に秀頼の事を頼んだのは、もうロクしたのではなく家康を信頼していたからでしょ。結果的には滅ぼされたので秀吉が…ってなるけど家康はギリギリまで豊家を存続させるつもりだったろう。俺がもし秀吉でも家康に頼むだろうな。
家康の家臣を引き離したうえで、駿、遠、三ぐらいしか与えなければよかったんだよ。
流石に何も悪いことしてない家康の領地(北条滅亡時点)をその三国まで減らしてしまうのは大義名分も適当な処罰内容もなかったので領地が増えるけど不毛な関東へ行かせるしかなかったと思います。牽制のため、周囲に伊達や蒲生を一応配置してはいたので。
それじゃ家康が臣従する意味がない
東北勢あたり引き連れて、小牧・長久手の続きが始まるだけでは?
秀次事件が豊臣政権に致命傷を与えたと言えよう。
秀吉の一族は滅んだけど、秀吉の姉の子孫は摂関家(秀勝)や秋田真田家(秀次)に居続けられたの凄いよな。
秋田真田家ではなく岩城家ですよ。幸村の娘が嫁いだ相手は、佐竹の弟ですよ。
秀勝と江の娘が九条家に嫁ぎ、大正天皇の皇后につながるので昭和天皇以降の天皇陛下に血が繋がってますからすごいですよね。
秀次が生き残ってたとしても秀頼が秀吉の子とは思えないから揉めただろうなぁ
誰ってわけじゃなくて、なるべくしてなってるのがよくわかる。
チャンスは何回もあったけど、全てが滅びに向かってしまったからな。
戦犯というか秀長死ぬタイミングが悪過ぎた。
普通に家康かな?
家康「おらぁ、方広寺の鐘の銘文で呪ったやろ!」
秀頼「は?」
清韓「あれは祝意ですよ?」
家康「嘘付けぇ、専門家に聞くぞ!」
秀頼「はい」
五山の全寺「とても不謹慎だが呪いではない」
家康「出っ陣じゃぁああああああッッ!!」
天下統一して地盤を固めずに朝鮮出兵に目がいっちゃう秀吉は先見性ないわな
結局「秀頼を悪者にしないために誰に悪者になってもらうか」って話になる…。
最大の要因は秀吉自身ではないのか?。淀殿、秀頼の3大戦犯。
永井路子さんの「王者の妻」でははげねずみはお江にも目を付けてた・・・って設定だった
三成が何もしなくても家康は天下奪ってたし、人望ない三成以外に狸の本性見抜いて立ち向かえる奴がいなかったのが悲劇
家康の振る舞いは露骨で、五大老・前田利家を筆頭に早くから反徳川勢力が組まれていたけれど、利家の病気が悪化して瓦解してしまいました
利家と同時に隆景もいなくなったから毛利もなぁ……
例え天下を奪われても豊臣が滅ぶかは別のお話な訳で
実際、家康は秀吉死後も傲慢な態度は取りつつも豊臣滅亡を明確に意思表示していないし慎重な家康の事だから天下取りよりもまずは自国や関東の安定化に死力していた
秀吉死後は間違いなく荒れるからね
事実として家康も年寄りで秀忠には戦の才能がない中で武力でな仕上がろうとは考えていないはず政治置いて豊臣政権を牛耳る事は出来ても豊臣という旗頭は必要な訳でもし排除しようものなら反徳川と親豊臣の大名を敵に回す事になり戦国時代に逆戻りしかねないから関ヶ原が起こる前の徳川の野望はあくまでも自国の基盤安定と関東の安定化だった
でも、そうした中で秀吉の死後、天下はいずれ徳川のものになると考えた大名達は徳川と接近するか敵対するかで別れた
その中で上杉と石田が打倒徳川で動き関ヶ原が発生
関ヶ原後は徳川の影響力が増大し親豊臣の大名が減り豊臣が弱体化した事により徳川の天下取りの道筋が見えた事で野心が本格化したのではないか、と思っている
少なくとも家康がリスクのある関ヶ原も引き起こしたとは考えていないし石田や上杉が挙兵しなければ天下は徳川のものになっても豊臣が滅ぶとは思えない
よって秀吉死後の戦犯は石田三成と上杉
武家関白は使い道は有るから、上手く立ち回れれば朝廷内の武家として生き残れた可能性は高いと思うが。
清正は遺された手紙読むと、亡くしてようやく三成の偉大さに気づいたみたいやね
秀次粛清の最大の問題点は「関白が政権の最終決済権を持つという自政権の特徴」を秀吉自身が否定してしまった点 「蒲生氏郷の跡継ぎは出来が悪い(12歳)!改易!」 「じゃあお拾様(秀頼様)に能力が無かったらこれも取り替えられるんですか?」と秀次に猛反対されたとも→結局大減封でごり押し 仮に秀頼が将来関白になっても飾りになってしまう
自分を関白に推薦してくれた今出川晴季を流罪→娘も処刑したり、家康が内大臣になるまで朝議開催権が秀吉以外いなくなったりで朝廷の機能不全起こしたのも盛大にヤバい
あの地震がなけらば家康は滅んでいた。
秀吉が長生きしたのが最大の不幸で数年早く死んでれば秀頼が生まれる事も無く秀次が健在
朝鮮からも早めに撤退出来るし淀の影響力もほとんど無いしなあ
なので誰が最大の戦犯かと言えば間違いなく秀吉自身
10:30最後の石田三成の絵が本多忠勝な気が😅
なによりも家康の長寿がでかい
死ぬ前年まで戦ってるのがすごい
前田家の見切りの早さはスゴイ
まぁ家を残すのが何よりだからね。
柴田勝家も賤ケ岳で早々に見切ってますしね( ゚Д゚)
まぁ輝元が家康の誘いなんか無視して強気で大軍率いて関ヶ原行ってれば徳川潰せたっしょ。
むしろ大阪城で秀頼囲いながら家康待ってても勝ち確なレベルだと思う。
豊臣恩顧は攻撃できないし、家康も謀叛人から秀頼を取り戻す、みたいな大義名分しか立てれない。
カルバリン砲も無しで大阪城が落とせたとも思えないし、宗茂の進言通り城に籠もって徹底抗戦すればよかったと思う。
秀吉は「病気の時に遺言を書くな」とか言っといて自分がやるんだから晩年はどれだけボケているんだとw
秀吉が徳川家を潰しておかなかったのが一番の原因ですが、豊臣家は徳川家のように大名出身ではないので基盤がどうしても弱く、徳川家を潰しておいても長くは続かなかったでしょう。
秀吉が晩年にやらかしすぎたのが致命的だった
・秀永が逝った所で更に秀次と係累を粛清してただでさえ少ない親族を減らす
・秀次に連座して潰されそうになったけど家康の取り成しで救われた大名達は反豊臣へ(特に最上は駒姫の件で秀吉絶許モードに)
・朝鮮出兵で豊臣側の大名を疲弊させる&三成と対立した武断派をまた家康が懐柔
これらで豊臣から徳川に戦力を流出させる流れを作っちゃってたから淀君や三成や秀頼が多少まともに動けても大局は変わらなかったと思う
長い文章お疲れ様wwwでも見ないよw
秀秋捨てたことも追加で
最上夫妻が仏壇の前で狂ったように泣き崩れる「独眼竜政宗」の場面はよく覚えてますよ。
秀吉自身が戦犯 晩年の行いが酷すぎて 豊臣恩顧の大名すらも 堅実な徳川家康を頼りにするようになった。
秀頼の城外担ぎ出しに反対した淀が明らか戦犯。あれで士気上がらん買ったのがインシデントやわ。
大野は豊臣の旗印を城内に持ち帰ってもうたからな、、、
夏の陣やってる時点で負けなんだよなぁ
似たような事しているの、クレオパトラくらいでしょうか。同じように大国(ローマ)に喧嘩売りながらいざ戦いになれば関係ないような態度取ったりしたとか。最後は敵前逃亡でしたし。
自分が考えた家康の心境
家康「また関ヶ原みたいなもん起きたら豊臣じゃ耐えきれん…せや!自分が武家のトップになれば反乱することも無くなるやろ!」
敵対勢力「家康は豊臣乗っ取った極悪人や!」
家康「ざけんな!敵対者は全員皆殺しじゃ!」
ぶっちゃけ家康は豊臣を守るために征夷大将軍になったはすが豊臣乗っ取りに変えられたのが真相じゃないかと思う
んなわけあるかい
国松まで殺して一族は根絶やし。秀吉の墓までぶち壊した家康。
豊臣守るために征夷大将軍とか、足利尊氏レベルのサイコパスでっせ?
アレキサンダー大王が死ぬ前後のギリシャに状況が似ている気がしますよね。
・後継者難航(秀吉は秀次から秀頼に、アレキサンダー大王は幼児と障害持ちの子供しか血筋的な後継者が居なかった)
・内乱、第三勢力の出現(家康の台頭、関ヶ原や大坂の陣。大王の場合プトレマイオスやセレウコスがヘレニズム国家を建て後継者戦争勃発、結果的に無関係なローマにヘレニズム国家は全て滅ぼされる)
オクタヴィアヌス=アウグストゥスは家康ポジションすか?パクス・トクガワーナって意味では通じるものがありますな。
小早川って裏切ったんじゃなくてそもそも徳川側についてて、無理やり西軍の近くに陣取ったんじゃなかったっけ?
んで約束の時間になっても突っ込まないから家康が銃撃かましたらヒエェってなって突っ込んだって話だったと記憶してるが。
東軍で参加しようとしたら叔父が西軍大将(名目)やっとるから一応西軍として参加したけど戦が始まってしばらく見た結果「これ普通に東軍についたほうが勝ち馬乗れそうやん」ってなって裏切ったんちゃうかな
ソースはない
淀殿だけが秀吉の子を産めたのが不可解
寧々さんが子供産んでたら普通に天下続いてただろうし
秀頼は秀吉の種じゃないだろ。(笑)
家康を関東に送った事もダメだったよな。確かに不毛の地ではあったが、歴史を知る限り不穏な動きをする人物こそ近くに置かないとダメなんよ。
徳川は漢の高祖・劉邦になっちまったよ
石高+100万石。
言うこと聞かない国人を土地から引き離して家臣化。
経済力も大幅アップ。
動員兵数が関ケ原の頃には小牧長久手の2倍以上に。
どう考えても家康の始まりはこの左遷を大幅プラスに変えたことだと思う。
というか太田道灌時代の江戸城と城下町改装して使うと思いきや、日本の首都になるくらい江戸を大開拓するとは秀吉も思わなかったと思う笑
まぁ1番の戦犯は秀吉。
秀頼が死んだのも致命的だったけど
どの道ただでさえ親族が少ないのに親族を殺し過ぎだな。
まぁその次の戦犯は淀殿…
家康の譲歩をふる無視してるのあかんやろ。
天下人家康を無視なんてできるわけありません。
江戸城普請も、方広寺再建も次々出される神社仏閣再建も、秀頼の関白職阻止も、二条城に出向いての臣下の礼も、次々出される難題に最終的には全て従っています。
俗に言う3か条(国替え、人質、参勤)を突きつけたのは家康でなく片桐です。
家康が国替えや人質を要求するのは、大坂の冬の陣の和平交渉の頃からです。
家康は豊臣家を方広寺までは潰す気はなく、淀も家康が死ぬまでは大人しく従う予定だったのではないでしょうか?
これが14年にも及ぶ二重公儀体制の要因だったと思います。
元々反畿内性質がある上に小田原征伐で反豊臣感情も増大してる関東に家康を封じるとかいう愚策
加藤福島など秀吉股肱の武将が、三成に嫉妬する、などというBLぽい理由で徳川方に付くのが悪い。
戦闘力ばかりでオツムの出来がアレだとやっぱマズいわなw
秀長、鶴松、秀次、蒲生氏郷、前田利家、この辺り全員が史実より長生きしてやっとワンチャン有るか?位ですかね?。
豊臣家滅亡は秀吉自ら招いたんだろ
2chレベルだからしょうがないけど、ねねは西軍ってのが最近の定説。関ケ原が一日で終わったのは全員にとって誤算。
これは一回戦で上杉も毛利もただ単に切り取り自由の戦国時代に戻って周りを切り取ろうとしてただけだからそりゃ、後ろも突かんし、大阪城から動かずに四国あたりの切り取りに頑張るわなって話。
豊臣はベンチャー企業だからしょうがないっていうことだけ。
秀吉が生きている時代にDNA鑑定があればこんなもめ事はなかった。家康が豊臣滅亡ムーヴにシフトしたのは秀頼が大きくなった後に、謁見してこりゃ秀吉の子ではないと確信したから。鑑定で諦めて素直に秀次に譲ってれば家康も関東の雄で満足してたと思う。
いえ、たとえ血の繋がりがなかろうとも秀頼が跡継ぎ確定だと思います。
当時血の繋がりはそこまで重要ではありません。
上杉、黒田、小早川、赤松。皆養子まみれです。
信長と血の繋がった信孝と、秀吉と血の繋がらない秀頼と比べたとしても秀頼の方が跡取りとしての序列が高いと思います。
理由は信孝はすでに神戸家に養子に出されてるので信長の後継者からは外れてること。母親の身分が低いことがあげられます。
秀頼の母親の淀殿の家筋は申し分ないですし、何より秀吉から正式に後継者指名されてますので、文句のつけようのない豊臣家の後継者だと思います。
(ちなみに赤松家は当主が自身の男色相手を後継者に指名して、普通にその人が当主になっています。血の繋がった息子達も皆命令に従っています)
家を保つ事と、天下を保つ事を分けて考えられなかったのがすべて。織田家はそこを分けて考える事ができたから家は残った。
のぶおくんの家が幕末まで残ったのすごE
ドラゴンボールのセル編みたいに戦犯がチラホラといるなぁ…
1番は秀吉かな、秀長死後が残念すぎる
同感
利休に嫉妬ムクムクしてノリで切腹命じたらマジでやっちゃった、
しかも最後までサルの嫉妬を無意識に煽るムーブを貫いた利休さんとかいう人格者。
やっぱり親類が少なすぎる。姉の子であり、繁栄してた秀次とその子供たちを族滅したのはデカすぎる。秀長系が無い状態で、秀次の子供だけでも残しておけば、、しかも関白家家臣団を処断し、そこに連なる生き残りはほぼ徳川方になる。当時の個々の大名が、どういう目線で豊臣本家を見ていたかがなんとなくわかる感じがする。
豊臣が天下人の座から転落した戦犯:秀吉
豊臣が滅亡した戦犯:淀
秀吉が後継者をきちんと育てなかった時点で、死後に誰が頑張ろうが豊臣の天下が終わるのはしゃーない。しかし天下人から転落しても、立ち回り次第で一大名として江戸時代を生き抜ける可能性は十分にあった。その可能性すら潰したのはやっぱり淀
徳川抑えるために上杉と蒲生、佐竹があそこにいたんでしょ。
あの時点は正解。その後は知らん。
つまり必然的に滅びる運命だったという事ですね。
黒田長政って隠れた有能よな。関ヶ原でも大活躍してるし、家康にめっちゃ信頼されていたし、他の大名への工作とか結構上手くいってる。福島や加藤とかよりもよっぽど頭が良かったんやろうな
親父が秀吉より頭よかったからなそら当然よ。
黒田官兵衛を親に持ってりゃ頭良くなるよな...
しかも槍も上手いのは強すぎる
加藤清正や福島正則と違って家康の野心を分かった上で東軍に付いたんでしょうね。
しかも処刑される前の三成を散々罵ったのに豊臣家も守れず死んだ直後に改易されちゃう福島と対照的に陣羽織を着せて三成を労った長政は御家も存続させたしカッコいい。
官兵衛が九州で暴れまわったことが結果的に西軍の戦力を弱めて、家康や東軍に利益をもたらしたことにつながったというのも理由かと。
秀吉が織田家にした事を考えれば当たり前の結果。因果応報、所詮は成り上がりの裏切り者。
いや秀次切腹せんかったらほぼなんもかったって
三成の良いところ?
鎧甲や旗がカッコいい所かな?(小学生並)
小牧長久手で徳川を滅ぼせなかった、身内が少なすぎた、この二つでしょうね。秀吉の時点で政権が盤石じゃなかった。三成も秀秋も秀頼も悪くない。
最終的には秀頼が強硬派だったから血統的にトドメを刺された。
なお、三成さんは家康さんと仲が良い意味が分からん状況。
2:40 これ誰か知っている人いる?初めて聞いたんだけど、なんかエモいね
三成は佐竹、上杉味方に入れてたのに負けてるんだよな。まあ、関ヶ原勝っても、室町幕府みたいな感じになって、周りの武将を抑えられたか不明だからな。
関ヶ原より加賀征伐でちゃんと前田守っとけばよかったやろ。
まあ秀吉だろうねぇ…(*´^`)
秀吉も『頼む、頼む秀頼を… 助けてくれ…』なんて言うから…
『お前が秀頼より優秀やったら遠慮なく天下取ってくれ!』って言ってたら徳川家康もさぞやりにくかったでしょうに(劉備作戦)
狸「ほな諸葛孔明に倣って秀頼くんを傀儡にして好き放題やらせてもらいましょ、邪魔なババアは政治から遠ざけてわいの天下や」
建前上信長と狸は同盟関係にあって主従関係じゃないからね、そりゃいくら天下人とはいえ同盟相手の部下にそんな事頼まれても知らんがなって感じだったんやろ。
織田信長が死んだ時点で一応同盟自体も死んでるからね、織田家の誰かが天下取ってれば多少なりとも変わってたかもしれんが、別に元からハゲネズミの頼み聞く義理もないし。
@@ゆあきん 司馬炎「せやせや」
関ケ原のあと淀が「これからは徳川内府を父と思うですよ」と秀頼にいう、三国志類似イベントはあった模様
力のある秀吉には従ったけど豊臣家に従う訳では無い。そもそも毛利も島津も秀吉には煮え湯を飲まされたし。その辺を考慮せず皆自分と同じくらい忠誠心があると勘違いした石田三成がな…。
豊臣家の地盤が無かったが故に武士の頂点に立てなかった。その時点で短命政権なのは決まってたんよ。
関ヶ原の戦い当日を見ると三成と吉継と秀家が可哀想だなと思っちゃう
関ケ原で西軍が勝っていたら
豊臣は三成が滅ぼしたと思うんだよなぁ
秀頼を傀儡にして権力を振るうことはあったかもですね
石田三成は性格的に意固地なとこがあったんじゃないかな。意固地が身を滅ぼし豊臣家をも滅亡に追いやってしまったんじゃないか。と思う。立場は違うが武田勝頼も同様に意固地な性格だったように思う。
大坂の陣の時に秀頼が出陣していたら十分勝てたはずだから、それをとめた淀だな
大和宰相秀長が早くに世を去った時点で、豊臣滅亡は決まってしまったんだよなあ…
誰が悪いとかじゃ無くて。
9:59 いかんでしょ
もし秀頼が男子じゃなく女子で産まれてきてたらどうなってたかな?豊臣の名前位は残すことは出来たかな?
秀頼の娘は生かされたが
鎌倉の東慶寺に入れられて
天秀尼という名で独身のまま
生涯を終えたから
同じ運命になると思う。
女の子なら秀次の息子などに嫁いだかもしれないですね。
当然秀次が豊臣家の当主になるので、歴史は変わっていたかも知れません。
せめて前田利家が三成の代わりに戦ってたらなぁ…
秀吉が天下人になったのがそもそも奇跡的でそのあとは専制政治に陥り、佐々成政とか大名級の家臣でも冷酷に死なせたのは数知れず、一応後継者にアテたはずの秀次も曖昧な理由で追放して死なせた。その後に決めた後継者も幼児という時点で詰んでいた。さらに譜代の家臣といっても秀吉の引きで据えられた人徳のない能吏ばかりでは大名級の家臣からすれば先行き不安でしかない。その不安感が如実に現れたのが関ケ原の戦いでしょうね。
寧々が徳川に味方したのが悪いのでゎ?
五奉行を欠くと、たちまち
大野兄弟まで人材レベル低下
ワンマン社長の業績だけで
大きくなった会社
有能なのは大名になってるか関ケ原で改易させられてるから、人材不足ヤバイですよね。
さらに金目当ての寄生虫としか思えない信雄や有楽が集まってくる始末……。
秀吉を見てると、成り上がりの天下って長く続かないんだなぁと思った。下地の作り様が無いから後継者で絶対揉めるだろうしなぁ
若くに有能な子が産めなかった秀吉は詰んでましたね
子が有能だった伊勢宗瑞さんは5代続いてますし跡継ぎが重要ですね
漢とか明とか、創始者がならず者まがいの王朝すら100年以上は維持出来てたんですがね。
@@FREEDOM-vv3wu 創始者の質以上に周りを固める者達が大事になるんだなぁと。織田家も中心人物達がいなくなって崩壊してますし
淀 大野治長との子を秀吉の子と偽り、実権を握った上ねねを大坂城から追い出し、秀吉に讒言 出生の秘密を知る豊臣秀次とその一族まで皆○しにした。ねねの怒りは凄まじく
関ヶ原前に家康と密談、今の豊臣家に未練はないので今後家康が攻め滅ぼそうが関知しない、正則、清正には家康に味方するよう頼んだ。
淀殿が元凶と思う。
家康も秀吉本人には死ぬまで臣従してるんよね
信長に臣従して息子殺した秀吉と同じ
信孝に切腹を勧めさせたのは信雄です。
秀吉はまだ北陸じゃなかったかな。
まあ秀吉が織田家簒奪したように、同じこと家康にやられただけだとは思うけどね。
まあ秀吉死後の豊臣に政権を運営していけるとは到底思えないしな
大谷使えないって言ってる奴馬鹿だと思う。あいつ普通に能力はあるし(病気というデバフ考えても)人望も三成とは比較にならない(比較する方がかわいそう)し少なくとも大谷いなかったら西軍まともに戦できる数集められんかったぞ
晩年は秀長がいなかったし官兵衛も隠居しててあまり頼れなかったし仕方ない(つまり秀吉は雑魚)
淀君は蔑称だって知ってる?
正式には淀殿と呼称すべき。
正式と言うと生存中に呼ばれた呼称は(淀に限定すると)淀の方、淀の者、淀の女房、淀様ですね。
淀君、淀殿は淀の方の死後に呼称された呼び名とされています。
石田三成が当代きっての豪将に……見え…る…???
本多さんに見えちゃいますね☺️
家康がたぬきとか裏切りとか言われているけど、秀吉死後、家康は最初は豊臣家臣として頑張ってたよ
でも、五奉行は内紛ばっかでしかも増長して俺たちこそが大老とか言ったりして淀殿にしこたま怒られとるし、五大老も毛利上杉は領国にしか興味なく前田は大阪にこもりっきり、宇喜多は家臣の統制すら取れてなくて日ノ本の政治を行っているのは自分家康だけ、豊臣恩顧の大名は政治が全く分かってないししかもたかが感情的もつれで内部分裂状態、肝心の豊臣家は年貢の取り立て方すらわからず徳川から代官派遣してやってなんとななってる上に、なんか徳川さんのおかげでうまくいって助かるわあとか暢気なもの
この状況で「あれ?これ天下いけるんじゃね?」って思わない方が馬鹿でしょ
秀吉死後の家康の行動は結構後手後手に回ってることが多いんだよね
まあその対処方法が的確だったから問題なかったんだけど周りが先にやらかしてたよね…
もしかして、鳴かぬなら鳴かなくとも良い思考だった?
家康が頑張っていうけど、
掟に叛いて婚姻、大坂城入城、禁じられた領地を与える、前田、上杉に難癖つけられるなどあげたらキリないし。
前田は遺言で大坂城にいるように勧められて、上杉は暫く領国経営に専念する事を許可与えてもらってる。毛利もずっと領国にいた訳ではなく、大坂で政務をとってますよ。また家康だけは帰国する条件に秀忠か家康の上洛が義務付けられてます
@@まかいチャンネル
それ全部、家康が豊臣家臣から天下人になるのを決意した後の話
秀吉が死んで朝鮮出兵を帰還させるくらいまではかなり真面目に働いてましたよ
婚姻に関しては、禁止するのがそもそも非現実的、姻戚関係で平和を保っていた部分が大きいので家康以外にも私婚をしていた大名はまあまあいたけど、毛利前田四奉行と対立していた家康だけが目を付けられた感じですね
秀頼が生まれてようがいまいがどのみち滅んでいたんだから、どうしようもないんじゃないかね
秀次が生きていても家康に勝てたとは思えないし
秀次が生きていたら関白と内大臣という事で家の格が違い過ぎて徳川は豊臣に刃向かえなかったと思う。謀叛になります。
戦犯一番は福島正則に決まってる尾張においてたのに😅
小牧長久手で徳川を潰せなかった、秀長の早死に、秀次一家を粛正、秀吉秀長両人が子宝に恵まれなかった…。
あと朝鮮出兵とか
加藤清正 前田利家らの死とかも?
清正は関係無いでしょ
二条城の会見時には豊臣家と関わりたく無いみたいだし
小牧長久手で戦争は徳川有利だったんだよなあ...交渉で無理やり勝ちを演出しただけで
身内が近いタイミングで(しかも牽制してくれてた人たち)死んでってほぼ唯一の身内の秀次殺して人望消え失せ家康対策の譜代たち(福島とか)がまさかの家康と馴れ合っちゃうしで
なーにやってもうまくいかなーい
@@matukawatositane そうでしたw すいません
徳川は実力も勿論ありましたが、運が良すぎますよね。小牧長久手の後徳川を討伐するための軍が編成されていたのに、タイミングよく大地震が起きて戦争どころでは無くなったという
豊臣政権自体が脆弱すぎてなー
関白職の独占が不可能な時点で
そもそも豊臣で徳川幕府以上に天下が纏まったん?ってのがなあ。
遅かれ早かれ国が割れてまた戦乱じゃ天下人になろうが意味ないわ。
三成(加藤清正くんは昔からの友達で有能な人だし、心から頼りにしてるって事を伝えなきゃ!!)
三成「お前は単なる馬鹿とは違う。」
清正「は?」
この腐れコミュ障に人徳があるわけ無いんだよなぁ~。
秀吉の実子が少ないし譜代の家臣もおらん。
跡継ぎが多さかな。2、3人病死してもまだまだ居るし。関ヶ原後も子供作っている
理由としてよく挙げられる小早川秀秋だけど、過去を見れば裏切るべくして裏切ってるよね?
はじめ後継者にしようとしてたくせに、小早川家に養子に出して、実質追放してたし・・・
そこに追い打ちをかけたのが、豊臣秀次切腹事件でもしかしたら次は自分では?という危機感が生じたんじゃないかとも予想されるし
しかし、それを強引に決めさせた家康もなかなか。なんせ迷っている最中の秀秋の陣目がけ大砲撃ち込んだとか。
こんな豊臣家やその側近連中に恨みしかなさそうな人間を西軍にスカウトするだけでなく山の上に陣取らせる三成さんセンスなくねえか?
石田三成が山の上に配備した訳じゃなくて、小早川秀秋が元々山の上に居た西軍の将を追い出して勝手に陣取っただけ
前々から不穏な動きが有ったから対小早川秀秋として、大谷吉継や他の将も山に向かって陣を配備したけども
そいつら皆裏切ったせいでその備えも崩壊した
織田信長が本能寺の変で倒れたあとの豊臣秀吉(羽柴秀吉)の立ち回りがすごすぎ。織田信長の息子の顔を立てて、自分は織田信長の家来ですよ、と言いながら、だんだん自分中心の政権に変えていったのがすごい
けど、死後に徳川家康に同じことをそのままやられた感じ
「豊臣秀吉と秦の始皇帝って似てない?」と中学校のときの社会の先生が言ってて、確かにそうだと思ったw
あの動きを即興で出来たんならマジもんの天才やけど、多分大分前から根回しも含めて、信長が死んだらこう動こうって計画立ててたんやろうなぁ。
黒田官兵衛の存在が大きかったと思う
その先生は中学校の先生レベルで良かったと思うわ。
本格的な方に進んでたら…
決戦場に家康が参着するまえ、東軍諸将は城攻めもし何より長距離をあり得ないほど急いで移動したため兵卒は、地面に大の字になるほど疲労こんぱいしていた。その時西軍は、まさに目と鼻の先におり、宇喜多秀家はただちに夜襲を主張した。この夜襲が採用されていれば、西軍は、圧勝していた。初戦に圧勝すれば、日和見勢力は堰を切って西軍に味方するのは日本史の通例。
原因は山ほどあるけど、最後の分岐点は秀次の切腹
現後継者かつほぼ唯一の外戚を意味不明な理由で高野山に追放するって秀吉何してんのよ
秀次は秀次で早まって腹切るとか短慮の極み
諸大名・朝廷は秀次が腹切る理由がさっぱり分からなくて、まさか秀頼可愛さに秀次やっちゃった?バカじゃね?となりそうだった
そこで秀吉は秀次を死なせた理由が必要になって、謀反企んでたという言い訳でごまかすしかなかった
秀次を謀反人とした以上、女房子供皆殺しはある意味当然でそれをやらない方が却って不自然
まあこんな事して人心が離れない訳ない
秀次は高野山で大人しくしていれば必ずまた自分のターンが巡ってきたし、器量人とは言わないけど眼前の政務を滞りなく処理出来る程度の能力はあって秀頼成人までのつなぎとして申し分ない人物だったのに、惜しいよ
秀次切腹前に祖母で有る大政所が亡くなって居たのが不味かった、大政所が生きて居れば秀吉が孫を切腹させると大政所が知ったら断固として秀吉に秀次切腹を止めさせた。
@@73moto 大政所の扱いも元々雑なのよね…→病気で秀長の領地で療養してたけど体調回復したところにいきなり妹の見舞いに行ってくれへん?(徳川の人質に言ってくれ)という
淀だろ間違いなく
「豊臣“政権”崩壊の責任」ではなく「豊臣“家”滅亡の責任」っていうなら普通に秀頼と淀殿が悪い。さっさと家康に臣従して徳川の家臣になるべきだった。それができなかった責任は当事者の秀頼たちにあるのであって、加藤や福島にそこまでの面倒をみてやる責任はない。
73歳の家康が大阪まで出陣して敵の突撃食らうほどの最前線近くに布陣して指揮してるのに
母親に止められたか知らんけど城から一歩も出なかった秀頼
一体何がしたかったのか理解不能
戦の経験ない無能な若者大将は城から出ないのが一番いいやろ。下手に出てまわった方が指揮系統も味方布陣も混乱するだけ
@@仙堂レイ 指揮しなくとも戦場に出ただけで味方の士気はあがるから、城から出るべきではありましたね。結果論なのでなんとも言えないのですが
@@荒井亮多 実戦の経験もないのにどうやってどうしたらどのくらい士気が上がると判断が出来るのでしょうか? 結果論以前の空論のようにしか思えません
もう自分で答え出してるようなもんやん
その年齢までの豊富な経験を判断材料に出来た人と、その判断する材料すら持ち合わせていなかった人の比較だとすればなんら不思議はない 根拠が(少なくとも自身の中にすら)ないのに行動に移せば、それは無謀でしかない
@@makiotkdxaaa657 別に秀頼が指揮しなくても幸村とかに指揮してもらえばよくね?
三成の人望のなさ+毛利無能じゃねw豊臣が領替えに応じればまだ長生きできたかも
いや、1番目は高台院では?
あなたに秀吉との実子が早くに生まれればあんなことにはならなかったのに。
秀頼云々以前の問題。
関ケ原にて秀頼出陣したならいけたかも?(゚∀゚)
農民出身だから極端に使える親族が少なかった。
更に種無しだったので絶対的な後継者が作れなかった。
農民から天下人まで成り上がったのは確かに凄いが、農民出身の限界だったと思う。
武家みたいなガチガチの血の絆が無いから、どうしても政権が脆弱になってしまう。
個人的には、小牧・長久手の戦いで徳川を滅ぼせなかった時点で、豊臣家滅亡の運命は決まったと思う。
そう考えると(中国ですが)似たような出自で数百年続く王朝を作った劉邦や朱元璋は、バケモノかつ奇跡ってことになりますね( ゚Д゚)( ゚Д゚)
秀吉種無し言われるけど秀頼までにも何人か子供居たんやで、皆幼く死んだけど…
ここ100年ぐらいで赤子・幼児・母体の死亡率かなり減ったけどまだまだ高い
祖父ぐらいの話し聞いてると戦後でもかなり死人出しててそれが普通の様に語ってた
@@コーッケッコ
長浜時代に長男の石松丸秀勝が生まれているが夭折してる。
秀吉が戦が弱すぎる(圧倒的な数で勝つ戦いは強い)
小牧長久手の戦いで負けたのが悪かった
勝ってたら徳川の領地縮小できたよ
小牧長久手は直接軍を率いてないし、むしろ秀吉より戦上手って誰よ? ってレベルのチートキャラ
毛利より少ない兵力で、吉川小早川の両川を相手にしつつ播磨・因幡・伯耆・淡路・備前・備中・美作とか次々と平定していくの頭おかしいんよ。
まだ清正とか正則とか初陣したばっかだから人材育成しながらだし笑
秀長が長生きしていたら‥‥‥とはよく言われるが、コヤツも老害化する可能性ありわけで‥‥‥