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資料にそって情報を配信してくださりありがとうございます。楽しく観ています。
いつも楽しく拝見してます。関ヶ原の合戦が家康の野心だけでなく、内部対立、利家の死などが重なって勃発したのだということがわかりました!この状況において天下分け目の合戦は避けられなかったのですね。知れば知るほど関ヶ原おもしろい。
関ヶ原まで2ヶ月との事!!最高に盛り上がって決戦という事ですね!ワクワクします!
関ヶ原合戦も奥が深いですね。次がたいへん興味深いです。
見応え、聴き応えありました!感謝です。
面白かったぁ。また次回もよろしくお願いします。毎週、水曜日が楽しみです。
いつも楽しみにしております‼️時代が違えども人の上に立つものの好かれる人嫌われる人その中で生き残る為の人の動きが面白いですね‼️三河に住む私としては、三英傑の存在が誇らしいですよ。
関ヶ原だけで2ヶ月、大歓迎です。枝葉末節までいろいろお聞きしたいです。国を治める(乱世を収める)を見ていたのは家康で、統べる力を持ったのも家康ですが、石田方についた武将にも思惑があり,その辺りいろいろと伺えるのを楽しみにしています。
古代からずっと観て来たけどとても楽しく観てられる🎶新事実とかも解り易くお話してくれるのでお気に入りチャンネルです✨
今回も愉しく拝見しました。とてもわかり易い表現で、理解が深まります。有難うございます。くれぐれもくれぐれもお身体ご自愛くださいませ♪有難うございます。
ありがとうございます😀
関ヶ原の合戦、2ヶ月楽しみたい!
関ヶ原に至るまでの数年間が本当に面白い。徳川家康かくまったのは違っていた。
歴史詳しくないからよくわかりました^ ^ありがとうございます
ひとつ大きな間違いがありました。浅野長政は幸長の父親です。そして出身は尾張国、幸長は近江国になります。申し訳ありませんでした。訂正しておいてください。
8:45 前田玄以は近江ではなく美濃出身ですよ。
10:58 上杉のあとに越後に入ったのは堀秀政ではなく堀秀治です。堀秀政は1598年の8年前である1590年に小田原征伐のあと亡くなっております
@@TOKUGAIEYASU 堀秀政は1590年5月死没なので小田原征伐の最中ですよ(小田原城開城は7月5日)
@@ふぉるーさん これは失礼しました
そもそも、浅野幸長(アサノヨシナガ)です。しっかりして下さい。
聞きやすい‼︎分かりやすい‼︎面白い‼︎
関ヶ原の戦、是非3ヶ月間やって下さい!
市橋先生、友里さんお疲れ様です。日本人なら100%知っている関ヶ原の戦い、今回は神回でしょう!数々のドラマ、映画で描かれましたが、市橋先生の解説を聞くと、非常に理解しやすいですね。次回の直江状も楽しみです。
いつも嬉しいコメントありがとうございます!
上杉影勝は本当に性格に難がある。依怙贔屓や横領により御館の乱からの新発田の乱、関ヶ原の大乱の引き金になったりと問題を起こしまくっている。
直江状だけで3話お願いします。
直江状は創作であると聞いたことがある
会津120万石になったころの上杉景勝は、徳川をどう見てたんでしょうかね?その気になれば諸大名を結束してやっつけることもできなかったのかなあ、といつも思います。
いつも楽しみにしてます。動画拝見させて頂いてます。色んな目線があって凄く何歳になっても歴史は繋がってるので面白いです!いつの時代でも事務方が現場に出てる職人さんと睨み合うアリアリですねぇ〜また来週です。
僕は、三重県の桑名の子です。桑名は久松松平の国で通ってますが、関ヶ原の合戦の後、本多忠勝が桑名入りして慶長の町割りをしてもらって、今の街が出来上がっています。先生の江戸を作った話に似ていると思います。桑名では町屋川という川をまげて、湿地帯の桑名の街づくりをしていただきました。是非とも、近い桑名でもあるので本多忠勝公が造っていただいた扇城、桑名をご紹介ください!!
数年前に桑名博物館で村正の展示会があった時に桑名まで行ったことありました。桑名城跡に本多忠勝の像が立ってましたよね
@@ふぉるーさん 様ありがとうございます。村正は、氏神様の神社にも奉納されています。是非ともまた桑名においでくださっつて本多公も慶長の町割りをご覧になってください。
リクエストさせてください❗️雑賀孫市が好きです。雑賀衆について、教えて欲しいです。
奥州の関ヶ原、第二次上田城合戦、九州では黒田官兵衛の暴れぶり等、本戦以外の所でのそれぞれの動きも是非、面白おかしく解説していただければ幸いです。
北陸の関ヶ原こと浅井畷の戦いも忘れないであげて
@@ふぉるーさん それは初耳ですね、誰がどのように東軍相手に大暴れされたのかご教授下さい。
@@reo5725 黒田官兵衛は東軍側ですよ。主力兵とともに上方に出陣した九州の西軍諸将の城を落としていったんですよ
@@TOKUGAIEYASU 表向きわな!息子長政は東軍として働いたが、親父の方はこの期に丈じ(関ヶ原の大乱)で九州全土を吞もうと考えたはず。奥州の伊達も最上に援軍を送りつつ南部領で一揆を起こさせ戦のあと、首謀者に詰め腹を切らせてトカゲの尻尾ギリで証拠隠滅してる。生きて徳川の手に落ちて全て吐かれては伊達62万石が飛ぶ乱世の英傑は東軍というくくりで働いてはいない、第2第3の道を模索しこの期に勢力拡大を考えるのは当たり前!秀吉は自分亡きあと、天下を取る人物は黒田官兵衛と言っている。だから黒田には決して大禄を与えていない。秀吉を天下人にのし上げて、僅か中津30万石ほどでなかったか。其れも之も関ヶ原が僅か1日で決着が着いたため、長引けばそれぞれ勢力拡大を目論でる。しっかり勉強しなさい!
いつも楽しみにしてます!
ありがとうございます。😀
関ヶ原の戦いが好きで、色々検索してるうちにこの動画に辿り着きました。映画やドラマ、小説はそれなりに見てて、知ってるつもりでしたが、この動画の解説で新たな見解を得られて、とても楽しませて頂きました。他の動画も観ていきたいと思います!
今回もめちゃ楽しかったです😄どんな手紙で激怒したんだろう?次回が楽しみです(^^)関ヶ原の戦い3ヶ月やって下さい。細かく刻んでご説明して頂ける方が嬉しいです😭
まだまだ続きます!
先生 日本史の教科書を書き換えるレベルのネタ 最新理解お願い致します❤❤❤
相変わらずお綺麗ですなぁ〜
先生は家康が悪巧みをしてないように見えるといいますが、自分は家康による勝手な婚約、朝鮮出兵後の家康主導による加増、大坂城西の丸建設だったりいろいろやってると思いますが…あとは浅野長政は尾張出身じゃないですか?あとは堀秀治ですね
関ヶ原を考える時、上杉だけでなく家康の前田利長に対する謀反の疑いがあったことを考慮しなければならないと思います。家康は前田利長に謀反の疑いがあるとして前田討伐を考えました。結局利長の母まつを江戸に送り、前田家は家康に恭順してしまいます。そのあと上杉討伐となりますが、上杉が恭順していれば次は毛利、宇喜多と五大老を屈服させていたのでは、と思います。逆に五大老全てがその度に家康に恭順していれば関ヶ原がなかったのですから、討伐の大義がなく江戸幕府はなかったのでしょうか。
8:45 前田玄以は近江ではなく美濃出身ですよ
浅野長政は北政所(高台院)の義弟、浅野家は北政所の“実家”ですよ(浅野長勝の養女)。言うまでもなく尾張国出身です。さすがにこの間違いは如何なものかと。尾張閥と近江閥の対立は事実としてありましたが、それは秀次事件で説明されなければなりません。浅野氏も秀次事件に連座しましたからね(長政の跡取り、幸長が流罪)。また増田長盛には近江国出身説もあります。
そこ突っ込みたいですね!
家康公は最初は豊臣家での発言力が欲しかっただけで天下を取る気はなかったと思う。成り行き上、関ヶ原の戦いになったのでは
動画内では「浅野幸長が浅野長政のお父さん」となっていますが、親子関係が逆ではないでしょうか。長政=秀吉の義弟で家康と大体同世代、幸長=その息子で襲撃武将では最年少だったかと。重箱の隅だとは思いますが、好きな戦国武将なので気になっちゃいました。
すみません。ご指摘ありがとうございます。
10:58 上杉のあとに越後に入ったのは堀秀政ではなく堀秀治です
秀政の息子ですね。秀政は小田原征伐の陣中で亡くなってますね
1601年以降徳川が摂関を指名するようになった時点で豊臣が1大名に転落
関原の戦いは徳川家と伊達家婚姻関係のもやってほしい😅❗️
おもろすぎわろた
三成が家康の屋敷に逃げ込むエピソードは大好きだったのに江戸時代の作り話だとは残念だなぁ。明智光秀が信長を恨む理由も江戸時代の作り話だし浅野内匠頭が吉良を恨む理由も作り話だし創作としては面白いけど困ったものです。それにしても関ヶ原で2ヶ月とはいいですね。関ヶ原は一番好きな大いくさなのでじっくりと解説していただければ幸いです。
その作り話のせいで花の慶次の原作でも、石ノ森章太郎の日本の歴史でも三成が徳川屋敷に逃げ込んだ話をやってしまった。
関ケ原で西軍が勝っても、毛利が徳川に取って代るだけで、不安定さは変わらないかも。毛利の家訓なんて、立場によって変わるだろうし・
家康公は戦国大名。戦国大名として殿下亡き後天下を取りに行った。関ヶ原から大阪の役にかけて家康公と争える戦国大名がもういなかったのでしょう。狸親父のイメージは大阪の役を起こすための強引なやり口と女を相手にして(戦略としては申し分ない)豊臣を滅ぼしたやり口にいいイメージを持たれてないんでしょう。
浅野に関する誤解があるようです。浅野長政は幸長の父。長政は尾張生まれで寧々とは義理の兄弟。近江派ではありません。
情報が間違っており申し訳ありません。
そういえば、元々五大老が御奉行衆で五奉行が御年寄衆と呼ばれていたけど、その話が無かった。
信賞必罰が滅びて恩賞法罰が残ったんだね〜🌟良かったよかったのか?前文ひとつなぎにしてみそ🌟できたら褒めてつかわそ〜🌟
・ ・浅井長政は近江だけど浅野長政は尾張の人ですよ1文字違いでややこしいですけど・・・。
三成が家康の死ぬまで兵を挙げずに動かなかったら、豊臣家は生き残っていたかもしれない
三成が家康を敵と認識しだすのは何時から? 加藤清正らが三成を襲撃した時に、それを庇ったのが家康。逆に家康も襲われたときに石田正澄(三成の兄)邸に逃げ込んだエピソードもある。
浅野長政は近江ではなく尾張だったような
@@只野-z9h 先生に対してそんな悪く言うべきじゃないかと。猿も木から落ちるでうっかりミスを指摘するのはありでも非難はすべきでないと思います。そんなに目くじら立てたら何も喋れなくなってしまいますから。
浅野長政は皆さんがおっしゃるように尾張、前田玄以は美濃と言われていますちょっと論理が壊れてませんか?
@@松井秀喜-h6j忠告ありがとうございます、消しますね。ですが間違い指摘の私のコメントは先生無視ですよ・・・
浅野長政は豊臣秀吉の身内なので、尾張ですよ。
三成襲撃事件後の家康の立場は清洲評定後の秀吉と被るなあ。どちらも幼君を擁立して家内を取り仕切り、後に主家を簒奪している。
幸長=『ゆきなが』でなく『よしなが』だったような・・・ま、自分も歴史好きだけど武将の名前や地名をよく間違って読むので良いのですが笑三成も家康も見方を変えれば悪者にされるが、どちらも天下泰平を望んでいたんでしょうね・・・
どちらも悪くないと思いますよ。純粋な権力闘争ですから自分の身を守るために両者とも相手を殺しにかかるしかなかった。もし家康が豊臣家からの権力簒奪(西の丸占拠など)をしなかったらほぼ100%どこかの時点で暗殺されたと思います。
今川義元、織田信長、豊臣秀吉それぞれ亡くなった後に一気に勢力拡大。歴史にタラればないけど利家が長生きしてたら、家康が利家より先に逝ってたらとどうなってただろう。
上杉景勝は謙信の姉の子
浅野の親子も逆ですよ!
大河では小早川は腰抜けに描かれがちですが、後継ぎ候補ながらも秀頼の出現で西に養子に出されてしまう小早川の暴走、その背後に北政所・・という線は無いのでしょうか?ねね派と尾張勢は重なるし、クーデターの旗の戦に便乗しつつ、終わったら無かったコトの秀頼路線にすれば、秀秋が発狂するのもわかるような。徳川も尾張派も本当のモチベーションを隠してるトコが日本的
最近では北政所が西軍よりだったという説が多くでてますよ!なのでねね=尾張派というのは違ってきているみたいですよ!
@@まかいチャンネル ほー、じゃあ大筋は豊臣vs徳川のままかぁ
そもそも秀次処刑を決めた時点で豊臣家は詰んでいた。
秀吉の影響力低下、政権内部のパワーバランス崩壊と主導権争い。朝鮮出兵での疲弊等が複雑に絡み合ってと言う事ですか。
関ヶ原の戦いはおね様徳川VS淀豊臣竹中VS黒田だったのも。可哀想な?現実
コメ欄には歴史の個別パーツに詳しい指摘マンがたくさんおられますが、関ケ原への大きな流れに関する興味深いコメは目立ちませんね。知識の正確性や多寡を競う教育かクイズ番組花盛りの弊害でしょうか。「剃刀は鋭くとも髭しか剃れぬが、斧は鈍くとも大木を倒せる」(司馬遼太郎『関ケ原』)
家康の屋敷に逃げ込んだのは創作でしたか。光成の危惧する方へ方へと流れていく。彼の溜息が聞こえてきそうです彼の願いは豊臣家の繁栄、いったいどんな解決策があったのだろうかさあ、みんなで考えよう、なんて授業やったらおもしろそう
(考えてみました)家康の屋敷ではなく正則の屋敷に行くべきだった最大脅威、家康の力を削ぐには家中団結が必要、そのために一番の難所をまず攻略したい正則は利益や道理で動かぬ、ならば決死の覚悟の捨て身で説く「豊臣家の一大事、ひとりで談判にまかり越した。お主に豊臣家の一大事を語る覚悟はあるか、わしは五奉行など未練はない、命もくれてやるわしの話を聞くか、それとも豊臣家を滅ぼすつもりか、正則!」 「なんだ!その一大事とは!」「わしとおぬしの不仲よ」言わせたいだけの妄想なのでご容赦、清正の方が事故が起こらなそうだけど。
@@Rasty1135 説得するなら清正や細川忠興の方がまだ話が分かるんじゃないかな
秀吉に因果応報は家康に失礼でした。家康は最初から豊臣家を破壊する気はなかった❗秀頼が領地替えに従わなかったからです。秀吉は最初から織田家を乗っとるつもりでいちゃもんをつけて信孝を殺し母親(信長の側室)、妻子も磔にした。横暴略奪は秀吉だけです。
家康は天下泰平のあと武士たち失業しないように、色々考えてましたので、すごいとおもいます。ただやっぱり、信長、秀吉、家康の三人が中心となり戦国時代を終わらせたのかなとも思います。
豊臣家を壊す気ないなら1.何故豊臣家の太閤蔵入地を諸大名に配るのか2.織田家家臣だった秀吉が信孝を殺した妻子殺したと言うなら、豊臣家家臣だった家康秀忠だった千姫からの秀頼淀君の助命嘆願してるのに無視してる。3.秀吉が信孝を殺したと言うなら、家康秀忠だって秀頼の3歳の子どもを殺してる。自分は時代が時代だったし、秀吉も家康もどっちもどっちだと思いますけどね〜
浅野長政はオネの縁者。尾張出身。
関ヶ原の戦いが天下分け目の戦いとのことですが。関ヶ原の戦い後の東西両軍の勢力を教えて下さい。特に大坂城にはどのくらいの兵力が残っていたのですか?それらをまとめてーーーもう一戦。は可能ですか?たまたま関ヶ原の戦いのあと、西軍が手をあげたから、関ヶ原の戦いが天下分け目の戦いとなっただけで。という考え方はーーー。どうですか?それと石田三成が首謀者のように扱われますが。実際はどうなのですか?豊臣家(もしくは三成、五奉行ですか)主導でやりたかったーーーのであのような形に。という考え方はーーーどうですか?毛利輝元が実質的な総大将ならば、どうして関ヶ原に来なかったのか?西軍は、毛利は実際、どこで東軍に決戦を挑むつもりだったのか? 輝元の出陣は大津城、田辺城が片付いてから。その兵をまとめて。ということですか。大津城、田辺城が、(他には何処が)落ちなければ。輝元は大坂から動けませんか?となると決戦はーーー何処になりますか?大垣の東か。まあいいか。その前に関ヶ原の戦いが。大軍が戦えそうな場所は京都から江戸までの東海道沿いにーーー何ヶ所くらいあるのですか?当時の武将ならばーーー即座に何ヶ所かは。まあ家康は美濃に福島たちを前衛として送っていますし。それ以西ですか?たまたま家康が関ヶ原に。たまたまそこに居た石田三成たちが戦い、敗れた。という考え方はーーー。関ヶ原の戦い自体が前哨戦だったーーーということは?しかし。その後、戦いを続けようにも。毛利輝元が逃げては。南宮山の毛利軍。関ヶ原の戦い後、どうなったのですか?大坂へ無事、帰れたのですか?何らかの事情て。兵力不足か。戦意喪失か。どちらですか?関ヶ原の戦い前に実際、大坂にどのくらいの兵力が。それに比べて家康のもとには?圧倒的に西軍が多かったということはーーーないですか。そのあたりを書いたモノはーーー。あまり。まあいいか。
浅野長政が浅井ゆきなが?の息子って、誰?
先生、五奉行のトップは石田ではないですよね!
筆頭は浅野長政です。
内大臣、略して内府。内府は明治以降に「ないふ」という読み方をしますが、戦国時代は「だいふ」と読みます。大河ドラマでは何故か「ないふ」読みをします。多分間違いでしょう
前田利長が雑魚過ぎなんだよな…利家の遺言無視して家康にビビって恭順しちゃうし…前田を味方に付けられなかった時点で西軍の負けよ
家康につかなければ前田家が滅ぼされたのでは
浅野長政は安井重継の息子で尾張の出身。増田長盛は謎の多い人物で出身は尾張説と近江説があります。もっと勉強してね☺️
先生 毛利軍はチャンスだったのに関が原に派兵するより西統一を優先したのは 戦略的に頭が良くない気がしますが、、、?💀💀💀
k
東軍とは、秀頼の命を受け会津征伐に向かった豊臣正規軍、名目的にはね。関ヶ原を豊臣vs徳川、文治派vs武断派のような解釈をしてしまうと中々真実は見えてこない。たとえ石田が嫌われていようがそうでなかろうが、そんな事は大勢に影響を及ぼすほど重要ではない。大事なのは、豊臣恩顧の東軍諸将が豊臣正規軍から寝返るはずもなかろうということ。挙兵した時点で石田の負け、そして余計な事をしたせいで一代で終わるはずの大老職が世襲制の征夷大将軍となり、徳川の天下となってしまった。
妻夫木聡さんの名前ぐらい知っててよ。
知らない人は知らないですよ。
横の綺麗なお姉ちゃん 歴史の話しに興味なさそうやな~(笑)
女の人変なところで知らないし変なところで知ってる風にするのがなんか嫌‼️
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いつも楽しく拝見してます。
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最高に盛り上がって決戦という事ですね!ワクワクします!
関ヶ原合戦も奥が深いですね。次がたいへん興味深いです。
見応え、聴き応えありました!感謝です。
面白かったぁ。また次回もよろしくお願いします。
毎週、水曜日が楽しみです。
いつも楽しみにしております‼️
時代が違えども人の上に立つものの好かれる人嫌われる人その中で生き残る為の人の動きが面白いですね‼️
三河に住む私としては、三英傑の存在が誇らしいですよ。
関ヶ原だけで2ヶ月、大歓迎です。枝葉末節までいろいろお聞きしたいです。
国を治める(乱世を収める)を見ていたのは家康で、統べる力を持ったのも家康ですが、石田方についた武将にも思惑があり,その辺りいろいろと伺えるのを楽しみにしています。
古代からずっと観て来たけど
とても楽しく観てられる🎶
新事実とかも解り易くお話してくれるのでお気に入りチャンネルです✨
今回も
愉しく拝見しました。
とてもわかり易い表現で、
理解が深まります。
有難うございます。
くれぐれも
くれぐれも
お身体ご自愛くださいませ♪
有難うございます。
ありがとうございます😀
関ヶ原の合戦、2ヶ月楽しみたい!
関ヶ原に至るまでの数年間が本当に面白い。徳川家康かくまったのは違っていた。
歴史詳しくないからよくわかりました^ ^
ありがとうございます
ひとつ大きな間違いがありました。浅野長政は幸長の父親です。そして出身は尾張国、幸長は近江国になります。申し訳ありませんでした。訂正しておいてください。
8:45 前田玄以は近江ではなく美濃出身ですよ。
10:58 上杉のあとに越後に入ったのは堀秀政ではなく堀秀治です。堀秀政は1598年の8年前である1590年に小田原征伐のあと亡くなっております
@@TOKUGAIEYASU 堀秀政は1590年5月死没なので小田原征伐の最中ですよ(小田原城開城は7月5日)
@@ふぉるーさん これは失礼しました
そもそも、浅野幸長(アサノヨシナガ)です。しっかりして下さい。
聞きやすい‼︎分かりやすい‼︎面白い‼︎
関ヶ原の戦、是非3ヶ月間やって下さい!
市橋先生、友里さんお疲れ様です。日本人なら100%知っている関ヶ原の戦い、今回は神回でしょう!数々のドラマ、映画で描かれましたが、市橋先生の解説を聞くと、非常に理解しやすいですね。次回の直江状も楽しみです。
いつも嬉しいコメントありがとうございます!
上杉影勝は本当に性格に難がある。依怙贔屓や横領により御館の乱からの新発田の乱、関ヶ原の大乱の引き金になったりと問題を起こしまくっている。
直江状だけで3話お願いします。
直江状は創作であると聞いたことがある
会津120万石になったころの上杉景勝は、徳川をどう見てたんでしょうかね?
その気になれば諸大名を結束してやっつけることもできなかったのかなあ、といつも思います。
いつも楽しみにしてます。動画拝見させて頂いてます。色んな目線があって凄く何歳になっても歴史は繋がってるので面白いです!
いつの時代でも事務方が現場に出てる職人さんと睨み合うアリアリですねぇ〜
また来週です。
僕は、三重県の桑名の子です。桑名は久松松平の国で通ってますが、
関ヶ原の合戦の後、本多忠勝が桑名入りして慶長の町割りをしてもらって、今の街が出来上がっています。
先生の江戸を作った話に似ていると思います。
桑名では町屋川という川をまげて、湿地帯の桑名の街づくりをしていただきました。
是非とも、近い桑名でもあるので本多忠勝公が造っていただいた扇城、桑名をご紹介ください!!
数年前に桑名博物館で村正の展示会があった時に桑名まで行ったことありました。桑名城跡に本多忠勝の像が立ってましたよね
@@ふぉるーさん 様
ありがとうございます。
村正は、氏神様の神社にも奉納されています。
是非ともまた桑名においでくださっつて本多公も慶長の町割りをご覧になってください。
リクエストさせてください❗️
雑賀孫市が好きです。
雑賀衆について、教えて欲しいです。
奥州の関ヶ原、第二次上田城合戦、九州では黒田官兵衛の暴れぶり等、本戦以外の所でのそれぞれの動きも是非、面白おかしく解説していただければ幸いです。
北陸の関ヶ原こと浅井畷の戦いも忘れないであげて
@@ふぉるーさん それは初耳ですね、誰がどのように東軍相手に大暴れされたのかご教授下さい。
@@reo5725 黒田官兵衛は東軍側ですよ。主力兵とともに上方に出陣した九州の西軍諸将の城を落としていったんですよ
@@TOKUGAIEYASU 表向きわな!
息子長政は東軍として働いたが、親父の方はこの期に丈じ(関ヶ原の大乱)で九州全土を吞もうと考えたはず。奥州の伊達も最上に援軍を送りつつ南部領で一揆を起こさせ戦のあと、首謀者に詰め腹を切らせてトカゲの尻尾ギリで証拠隠滅してる。
生きて徳川の手に落ちて全て吐かれては伊達62万石が飛ぶ
乱世の英傑は東軍というくくりで働いてはいない、第2第3の道を模索しこの期に勢力拡大を考えるのは当たり前!
秀吉は自分亡きあと、天下を取る人物は黒田官兵衛と言っている。
だから黒田には決して大禄を与えていない。秀吉を天下人にのし上げて、僅か中津30万石ほどでなかったか。其れも之も関ヶ原が僅か1日で決着が着いたため、長引けばそれぞれ勢力拡大を目論でる。
しっかり勉強しなさい!
いつも楽しみにしてます!
ありがとうございます。😀
関ヶ原の戦いが好きで、色々検索してるうちにこの動画に辿り着きました。映画やドラマ、小説はそれなりに見てて、知ってるつもりでしたが、この動画の解説で新たな見解を得られて、とても楽しませて頂きました。他の動画も観ていきたいと思います!
今回もめちゃ楽しかったです😄どんな手紙で激怒したんだろう?次回が楽しみです(^^)
関ヶ原の戦い3ヶ月やって下さい。細かく刻んでご説明して頂ける方が嬉しいです😭
まだまだ続きます!
先生 日本史の教科書を書き換えるレベルのネタ 最新理解お願い致します❤❤❤
相変わらずお綺麗ですなぁ〜
先生は家康が悪巧みをしてないように見えるといいますが、自分は家康による勝手な婚約、朝鮮出兵後の家康主導による加増、大坂城西の丸建設だったりいろいろやってると思いますが…
あとは浅野長政は尾張出身じゃないですか?
あとは堀秀治ですね
関ヶ原を考える時、上杉だけでなく家康の前田利長に対する謀反の疑いがあったことを考慮しなければならないと思います。
家康は前田利長に謀反の疑いがあるとして前田討伐を考えました。
結局利長の母まつを江戸に送り、前田家は家康に恭順してしまいます。
そのあと上杉討伐となりますが、
上杉が恭順していれば次は毛利、宇喜多と五大老を屈服させていたのでは、と思います。
逆に五大老全てがその度に家康に恭順していれば関ヶ原がなかったのですから、討伐の大義がなく江戸幕府はなかったのでしょうか。
8:45 前田玄以は近江ではなく美濃出身ですよ
浅野長政は北政所(高台院)の義弟、浅野家は北政所の“実家”ですよ(浅野長勝の養女)。言うまでもなく尾張国出身です。さすがにこの間違いは如何なものかと。尾張閥と近江閥の対立は事実としてありましたが、それは秀次事件で説明されなければなりません。浅野氏も秀次事件に連座しましたからね(長政の跡取り、幸長が流罪)。また増田長盛には近江国出身説もあります。
そこ突っ込みたいですね!
家康公は最初は豊臣家での発言力が欲しかっただけで天下を取る気はなかったと思う。成り行き上、関ヶ原の戦いになったのでは
動画内では「浅野幸長が浅野長政のお父さん」となっていますが、親子関係が逆ではないでしょうか。
長政=秀吉の義弟で家康と大体同世代、幸長=その息子で襲撃武将では最年少だったかと。
重箱の隅だとは思いますが、好きな戦国武将なので気になっちゃいました。
すみません。ご指摘ありがとうございます。
10:58 上杉のあとに越後に入ったのは堀秀政ではなく堀秀治です
秀政の息子ですね。秀政は小田原征伐の陣中で亡くなってますね
1601年以降徳川が摂関を指名するようになった時点で豊臣が1大名に転落
関原の戦いは徳川家と伊達家婚姻関係のもやってほしい😅❗️
おもろすぎわろた
三成が家康の屋敷に逃げ込むエピソードは大好きだったのに江戸時代の作り話だとは残念だなぁ。明智光秀が信長を恨む理由も江戸時代の作り話だし浅野内匠頭が吉良を恨む理由も作り話だし創作としては面白いけど困ったものです。
それにしても関ヶ原で2ヶ月とはいいですね。関ヶ原は一番好きな大いくさなのでじっくりと解説していただければ幸いです。
その作り話のせいで花の慶次の原作でも、石ノ森章太郎の日本の歴史でも三成が徳川屋敷に逃げ込んだ話をやってしまった。
関ケ原で西軍が勝っても、毛利が徳川に取って代るだけで、不安定さは変わらないかも。
毛利の家訓なんて、立場によって変わるだろうし・
家康公は戦国大名。戦国大名として殿下亡き後天下を取りに行った。
関ヶ原から大阪の役にかけて家康公と争える戦国大名がもういなかったのでしょう。
狸親父のイメージは大阪の役を起こすための強引なやり口と女を相手にして(戦略としては申し分ない)豊臣を滅ぼしたやり口にいいイメージを持たれてないんでしょう。
浅野に関する誤解があるようです。浅野長政は幸長の父。
長政は尾張生まれで寧々とは義理の兄弟。近江派ではありません。
情報が間違っており申し訳ありません。
そういえば、元々五大老が御奉行衆で五奉行が御年寄衆と呼ばれていたけど、その話が無かった。
信賞必罰が滅びて恩賞法罰が残ったんだね〜🌟良かったよかったのか?前文ひとつなぎにしてみそ🌟できたら褒めてつかわそ〜🌟
・ ・
浅井長政は近江だけど浅野長政は尾張の人ですよ
1文字違いでややこしいですけど・・・。
三成が家康の死ぬまで兵を挙げずに動かなかったら、豊臣家は生き残っていたかもしれない
三成が家康を敵と認識しだすのは何時から? 加藤清正らが三成を襲撃した時に、それを庇ったのが家康。逆に家康も襲われたときに石田正澄(三成の兄)邸に逃げ込んだエピソードもある。
浅野長政は近江ではなく尾張だったような
@@只野-z9h 先生に対してそんな悪く言うべきじゃないかと。猿も木から落ちるでうっかりミスを指摘するのはありでも非難はすべきでないと思います。そんなに目くじら立てたら何も喋れなくなってしまいますから。
浅野長政は皆さんがおっしゃるように尾張、前田玄以は美濃と言われています
ちょっと論理が壊れてませんか?
@@松井秀喜-h6j忠告ありがとうございます、消しますね。ですが間違い指摘の私のコメントは先生無視ですよ・・・
浅野長政は豊臣秀吉の身内なので、尾張ですよ。
三成襲撃事件後の家康の立場は清洲評定後の秀吉と被るなあ。
どちらも幼君を擁立して家内を取り仕切り、後に主家を簒奪している。
幸長=『ゆきなが』でなく『よしなが』だったような・・・ま、自分も歴史好きだけど武将の名前や地名をよく間違って読むので良いのですが笑
三成も家康も見方を変えれば悪者にされるが、どちらも天下泰平を望んでいたんでしょうね・・・
どちらも悪くないと思いますよ。純粋な権力闘争ですから自分の身を守るために両者とも相手を殺しにかかるしかなかった。もし家康が豊臣家からの権力簒奪(西の丸占拠など)をしなかったらほぼ100%どこかの時点で暗殺されたと思います。
今川義元、織田信長、豊臣秀吉それぞれ亡くなった後に
一気に勢力拡大。
歴史にタラればないけど利家が長生きしてたら、
家康が利家より先に逝ってたらとどうなってただろう。
上杉景勝は謙信の姉の子
浅野の親子も逆ですよ!
大河では小早川は腰抜けに描かれがちですが、後継ぎ候補ながらも秀頼の出現で西に養子に出されてしまう小早川の暴走、その背後に北政所・・という線は無いのでしょうか?ねね派と尾張勢は重なるし、クーデターの旗の戦に便乗しつつ、終わったら無かったコトの秀頼路線にすれば、秀秋が発狂するのもわかるような。徳川も尾張派も本当のモチベーションを隠してるトコが日本的
最近では北政所が西軍よりだったという説が多くでてますよ!なのでねね=尾張派というのは違ってきているみたいですよ!
@@まかいチャンネル ほー、じゃあ大筋は豊臣vs徳川のままかぁ
そもそも秀次処刑を決めた時点で豊臣家は詰んでいた。
秀吉の影響力低下、政権内部のパワーバランス崩壊と主導権争い。朝鮮出兵での疲弊等が複雑に絡み合ってと言う事ですか。
関ヶ原の戦いは
おね様徳川VS淀豊臣
竹中VS黒田だったのも。可哀想な?現実
コメ欄には歴史の個別パーツに詳しい指摘マンがたくさんおられますが、
関ケ原への大きな流れに関する興味深いコメは目立ちませんね。
知識の正確性や多寡を競う教育かクイズ番組花盛りの弊害でしょうか。
「剃刀は鋭くとも髭しか剃れぬが、斧は鈍くとも大木を倒せる」(司馬遼太郎『関ケ原』)
家康の屋敷に逃げ込んだのは創作でしたか。
光成の危惧する方へ方へと流れていく。彼の溜息が聞こえてきそうです
彼の願いは豊臣家の繁栄、いったいどんな解決策があったのだろうか
さあ、みんなで考えよう、なんて授業やったらおもしろそう
(考えてみました)
家康の屋敷ではなく正則の屋敷に行くべきだった
最大脅威、家康の力を削ぐには家中団結が必要、そのために一番の難所をまず攻略したい
正則は利益や道理で動かぬ、ならば決死の覚悟の捨て身で説く
「豊臣家の一大事、ひとりで談判にまかり越した。お主に豊臣家の一大事を語る覚悟はあるか、わしは五奉行など未練はない、命もくれてやる
わしの話を聞くか、それとも豊臣家を滅ぼすつもりか、正則!」 「なんだ!その一大事とは!」「わしとおぬしの不仲よ」
言わせたいだけの妄想なのでご容赦、清正の方が事故が起こらなそうだけど。
@@Rasty1135 説得するなら清正や細川忠興の方がまだ話が分かるんじゃないかな
秀吉に因果応報は家康に失礼でした。家康は最初から豊臣家を破壊する気はなかった❗秀頼が領地替えに従わなかったからです。
秀吉は最初から織田家を乗っとるつもりでいちゃもんをつけて信孝を殺し母親(信長の側室)、妻子も磔にした。横暴略奪は秀吉だけです。
家康は天下泰平のあと武士たち失業しないように、色々考えてましたので、すごいとおもいます。
ただやっぱり、信長、秀吉、家康の三人が中心となり戦国時代を終わらせたのかなとも思います。
豊臣家を壊す気ないなら
1.何故豊臣家の太閤蔵入地を諸大名に配るのか
2.織田家家臣だった秀吉が信孝を殺した妻子殺したと言うなら、豊臣家家臣だった家康秀忠だった千姫からの秀頼淀君の助命嘆願してるのに無視してる。
3.秀吉が信孝を殺したと言うなら、
家康秀忠だって秀頼の3歳の子どもを殺してる。
自分は時代が時代だったし、秀吉も家康もどっちもどっちだと思いますけどね〜
浅野長政はオネの縁者。尾張出身。
関ヶ原の戦いが天下分け目の戦いとのことですが。
関ヶ原の戦い後の東西両軍の勢力を教えて下さい。
特に
大坂城にはどのくらいの兵力が残っていたのですか?
それらをまとめてーーーもう一戦。
は可能ですか?
たまたま関ヶ原の戦いのあと、
西軍が手をあげたから、関ヶ原の戦いが天下分け目の戦いとなっただけで。
という考え方はーーー。
どうですか?
それと石田三成が首謀者のように扱われますが。
実際はどうなのですか?
豊臣家(もしくは三成、五奉行ですか)主導でやりたかったーーーのであのような形に。
という考え方はーーーどうですか?
毛利輝元が実質的な総大将ならば、どうして関ヶ原に来なかったのか?
西軍は、毛利は実際、どこで東軍に決戦を挑むつもりだったのか?
輝元の出陣は大津城、田辺城が片付いてから。
その兵をまとめて。
ということですか。
大津城、田辺城が、(他には何処が)落ちなければ。
輝元は大坂から動けませんか?
となると決戦はーーー
何処になりますか?
大垣の東か。
まあいいか。
その前に関ヶ原の戦いが。
大軍が戦えそうな場所は京都から江戸までの東海道沿いにーーー何ヶ所くらいあるのですか?
当時の武将ならばーーー即座に何ヶ所かは。
まあ家康は美濃に福島たちを前衛として送っていますし。
それ以西ですか?
たまたま家康が関ヶ原に。
たまたまそこに居た石田三成たちが戦い、敗れた。
という考え方はーーー。
関ヶ原の戦い自体が前哨戦だったーーーということは?
しかし。
その後、戦いを続けようにも。
毛利輝元が逃げては。
南宮山の毛利軍。
関ヶ原の戦い後、どうなったのですか?
大坂へ無事、帰れたのですか?
何らかの事情て。
兵力不足か。
戦意喪失か。
どちらですか?
関ヶ原の戦い前に実際、大坂にどのくらいの兵力が。
それに比べて家康のもとには?
圧倒的に西軍が多かったということはーーーないですか。
そのあたりを書いたモノはーーー。
あまり。
まあいいか。
浅野長政が浅井ゆきなが?の息子って、誰?
先生、五奉行のトップは石田ではないですよね!
筆頭は浅野長政です。
内大臣、略して内府。内府は明治以降に「ないふ」という読み方をしますが、戦国時代は「だいふ」と読みます。大河ドラマでは何故か「ないふ」読みをします。多分間違いでしょう
前田利長が雑魚過ぎなんだよな…
利家の遺言無視して家康にビビって恭順しちゃうし…
前田を味方に付けられなかった時点で西軍の負けよ
家康につかなければ前田家が滅ぼされたのでは
浅野長政は安井重継の息子で尾張の出身。増田長盛は謎の多い人物で出身は尾張説と近江説があります。もっと勉強してね☺️
先生 毛利軍はチャンスだったのに関が原に派兵するより西統一を優先したのは 戦略的に頭が良くない気がしますが、、、?💀💀💀
k
東軍とは、秀頼の命を受け会津征伐に向かった豊臣正規軍、名目的にはね。
関ヶ原を豊臣vs徳川、文治派vs武断派のような解釈をしてしまうと中々真実は見えてこない。
たとえ石田が嫌われていようがそうでなかろうが、そんな事は大勢に影響を及ぼすほど重要ではない。
大事なのは、豊臣恩顧の東軍諸将が豊臣正規軍から寝返るはずもなかろうということ。
挙兵した時点で石田の負け、そして余計な事をしたせいで一代で終わるはずの大老職が世襲制の征夷大将軍となり、徳川の天下となってしまった。
妻夫木聡さんの名前ぐらい知っててよ。
知らない人は知らないですよ。
横の綺麗なお姉ちゃん 歴史の話しに興味なさそうやな~(笑)
女の人
変なところで知らないし
変なところで知ってる風にするのがなんか嫌‼️