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皆さんいつもご視聴有難うございます!コメント欄への返信は気まぐれですが、全て目を通して読ませて頂いています😊皆さんからのコメントお待ちしています!なお邪馬台国の行程については今回の動画では触れていませんので、場所に関する内容は次回までお待ち下さい😊
とても面白いです。歴史を俯瞰して観れる豊富な知識と探求心に敬服します。
何気なく聞き始めて最終的に、後編はいつ?とのめり込む程おもしろかった。ありがとうございます。
すばらしい分析、豆と壹、中国語では同じ音=トゥでヤマトゥと信じてたので納得です。
誠に素晴らしい。
いつも興味深い動画ありがとうございます♪これまで限られた文献のみを根拠として来た歴史観から、一歩引いた視点で考える楽しさは『逆説の日本史』に触れた時で、およそ30年位前から…以降、凡ゆる説を読みながら九州説・近畿説に自分なりの決着がつかないまま、古代史から離れていましたそんな中、阿波説に接しておや?と強く興味をひかれました古代チャイナ文献の様な書物に限らず、(延喜式)神社の名前や由来、水銀丹、遺伝学、アカホヤ噴火、気候変動、民族移動、宗教の盛衰などなど、この地球に起こったであろう事象とそれらによって急速な或いは緩やかな変化を余儀なくされた人間の営みをパズルの様に組み上げていく楽しさを感じてます。“完全ではない”けどそれを目指して果敢にナゾに挑む過程を楽しく視聴しています♪フィールドワーク、文献読込みなどなど大変でしょうが、楽しみにしております因みに、私の両親は別々の地方から東京に住み着いて現在に至りますが、自分も地元で仕事しながらクライアントの方々とお話しすると、両親の様に集団就職でこの地に棲みついたという事情をよく聴きます。元々住んでいる地主的な方と比べると、新参者なので新たに造成された土地に棲む傾向があり、この事は、西日本縄文人の移動と帰還、失われた十氏族の移動と定住、日本人の持つ地方毎のバラエティーと棲みついた地元の祭祀などで溶け込んでいく様な緩やかな統一感に見えてきました。そんな風に、大きな歴史もマクロ・ミクロの視点で眺めて楽しんでいます
いつもありがとうございます!緻密な調査と精緻な推測にいつもワクワクさせていただいています!自分の古代史の見方がかなり変わりました。古代の人々はある意味今の人々以上に、国家、国民という概念が薄かった故に無自覚にワールドワイドな人たちだったのでしょうね。(これも現代人としての偏った視点ですが。)今後も動画楽しみにさせていただきます!ありがとうございます😊
こちらこそありがとうございます😊
歴史を素直に俯瞰して読み解くってとても大事ですね。😄それを踏まえて深い部分まで読み解くと何だかピッタリハマってくる答えが出てくるのでしょうね。戦後の近視眼的なアカデミズムが残念で仕方ありません。😥Dの遺伝子を探って行くとチベットから分かれた遺伝子が日本とインド辺りに広がっている様に見えてその辺りとも繋がっているのかなぁ〜と思ったりしています。
よく調べられていますね。ご苦労様です。阿波千年物語も頑張ります。 26:44
ありがとうございます😆
魏ってそんな考え方も出来るんすね。豫州?気になって来ました。今回も面白かったです!
古代朝鮮半島もそうなのですが、古代では人々は山が開けた水源のある場所に集落を築いてそこから小国が乱立していたと思うんです。日本では中央構造線に沿った地形がこの条件にピッタリで九州から奈良盆地につながる道になったと。特に四国の吉野川流域なんてきっと古墳時代より前から集落郡があったと思われます。徳島には倭大國魂神を祀った神社がありますね。忌部氏族のいた土地のようですが、何かつながりがあるのかなぁと勝手に想像してます。
PlecoというAPPの辞書があります。中国語や広東語を調べる辞書として有名です。その辞書には台/薹/枱/檯は同じ漢字で北京語ではTai、広東語ではToi となっています。僕は古代の中国語の名残を多く引き継いでいるのは広東語のほうだと思っていますので、Toiという発音する薹(台)が古代日本語のトの当て字に使われたと思っています。
次、はやく、はやく!
初コメントです。徳島出身です!父の名前がのぶまさと言うので親近感が湧きました!!応援しています。頑張って下さい🎉
名前が同じって何だか嬉しいです!こちらこそありがとうございます😊
曹操の出身地の村の三国志時代の跡から[此地に倭人来在 盟するや否や]と書かれた素焼の薄型煉瓦[磚(せん)]が出土していますよね。当時の倭国は魏呉蜀の覇権争いを偵察部隊を送り込んでいたかも知れませんね。
徳島県に住んでいますHARAと申します。非常に感銘しました。シェアさせて頂きます。これからも頑張って下さい=(^.^)=
ありがとうございます😊
新たな切り口でワクワクです。✨👀今までは早稲田大学の渡邊義弘先生の説に納得していました。公孫氏を滅ぼした司馬懿仲達と曹操の宗家の一族である曹真・曹爽親子との間にライバル関係があり、呉の後ろには倭国、蜀の後ろには大月氏國と両者の遠交近攻策を比較させる目的があったというもの。←晋国建国の功労者である司馬懿仲達を持ち上げるためそれにしては大月氏國が蜀からずいぶんと遠いなぁと思っておりました。曹家の遺伝子🧬からの考察、楽しみに待ってます。
ありがとうございます😊三国の争いに関係を持たせるには大月氏は少し遠いですよね!
邪馬台国は出雲族の国で出雲族が縄文人と融和して出雲文化圏を築いてその中 にできた一国で、大和の磯城に本拠地があった とされそれが 唐古鍵遺跡です
勉強になります。後半を期待しています。帝大に負けないで。工学博士 お笑い芸人 遼子規キンジロウ
讃岐の金刀比羅宮の祭神って、大物主命なんですよねぇ。
金毘羅というのはサンスクリット語でガンピーラー、つまり「ワニ」のことです。つまり海の神様です。
曹操になじみの深い豫州伊豫の二名島豫の王となったツクヨミこの辺りもなんか関連あったりしそう
黒田さん、いつのまにか日の巫女におなりあそばしていたのですね。知らなかった。😅
厚子様も清子様も日巫女です。おそらく初代は天照の娘で天皇の娘の中で特に祭祀を行う方で天照を祀る役目が日巫女様。ヒミコも天皇と同様役職名なので何人もいます。初代天照は当然伊勢神宮に祀られている男性で二代目天照は初代日巫女か、猿田彦が二代目で初代日巫女はその奥さんか。初代天照が誰なのか明かされる日は近いと思います。
ほんとはヤマト国で、都道府県レベルの都市国家で、今の日本国内には4つか5つぐらいあったんじゃないかな、今の「住吉」みたいに。
古代史新設チャンネルさんのところで魏志倭人伝の現代語訳を見ました。当の新設チャンネルさんは否定(自分がしたコメントを否定されていました。)していましたが統治王と祭祀王はどう読んでもいます。しっかり書かれていない?別段統治王の部分に書き残すことが祭祀王の活躍に勝っていなかっただけ。欠史八代と同じ理屈かと思います。さてここから四国説のどうつながるんでしょうか?楽しみです。
大陸の豫州。伊予之二名島を伊と豫の国と理解する立場から豫国とされる愛媛。繋がりがあるのか、ないのか…。
三国志なのか三国志演義なのかはっきり記憶していませんが、「呉の孫権は『紫髯碧眼』であった」と書かれていたように思います。 赤っぽい髪・髭に青い眼・・・中近東から欧州にかけての民族の血を引いていたと考えられますね。 3世紀頃の中国は想像以上に多民族国家であり、史書の歴史観も著者の民族によって異なっていたのかもしれません。
邪馬台国の説明は非常に簡単です。 古事記、日本書紀の記述があるか、大規模な古代遺跡があるか、詳しい具体的な伝説、さらに伝説を裏付ける史跡があるか、その史跡が一定の範囲にあるかどうかの五拍子がそろっているのが最低限の条件です。 それがそろっているのは全国でも宮崎市、奈良県橿原市しかありません。日本のトップクラスの文化人が書いた日本の歴史書である古事記、日本書紀に書かれた日本建国、天皇誕生地は宮崎市。その一帯には、今残っているだけで古墳が1000基以上。最近は、日本最大の縄文遺跡が相次いで見つかり、巨大な神殿跡も。驚くほどの日本最大の古代遺跡地帯が宮崎市。 宮崎市北部が皇祖天照大神、スサノオ、住吉様らの生誕地。皇祖天照大神の孫に当たる天孫降臨の人物、天孫ニニギの御陵墓は、宮崎市南方町の奈古神社。 皇室が特に尊崇する神武天皇宮、いわゆる宮崎神宮近くの皇宮神社が、ヤマト(神武天皇)が奈良県橿原市で大和朝廷を開くまで住んでいた皇居跡。天皇の軍隊、皇軍発祥地の碑がある。皇宮神社の社殿は、三重県の伊勢神宮の式年遷宮で使われた社殿を移築した歴史的建造物。 宮崎市で生まれた皇祖天照大神の子孫がヤマト(神武天皇、大和、中国の古代書籍では邪馬台と表記)ヤマト(神武天皇)は西暦100年代の日本最高の英雄。大和朝廷の創設者。12:38 その150年後ぐらいに書かれたのが魏志倭人伝。その頃には、大和朝廷は基盤がしっかりし、藤原京につながります。 ヤマト(神武天皇)は、宮崎市から奈良県橿原市に東征しており、中国の書籍に登場する邪馬台(ヤマト)国とは時代的にも一致。 邪馬台(ヤマト)国は、源流地が宮崎市、栄えたのが奈良県橿原市。日本語、日本史では大和朝廷のことです。 ヤマト国は宮崎市から奈良県橿原市に移動したのが正解です。 宮崎市は、日本最大規模の古代史跡にあふれ、伝説、記紀の記述があり、それがそろうのは全国で宮崎市だけ。疑いを入れる余地はまったくありません。 全国に天孫降臨の話はありますが、天皇が戦が来たとか、流されてきたとかが関係しています。 京都市山科区の天孫降臨の話がある日向大神宮は、第23代の顕宗天皇が、天皇の歴史を伝えるために創建したもので、実際に天孫降臨の地ではありません。 宮崎県高千穂町にある天孫降臨の話は、ヤマト(神武天皇)の兄が東征の途中、日向に帰り、高千穂町に住みついてヤマト兄弟の話を残した伝説地です。 巨大な史跡地帯、記紀記述、伝説地、伝説を裏付ける宮崎市とは異なります。ヤマトの兄が住みついた場所という点では、大変重みがあるのは当然です。
印綬の文字はいろいろ解釈ありますが、漢倭奴国王⇒漢の中の倭の一諸国「奴」親魏倭王⇒魏と親しい「倭国」魏の時代、倭地域には統一国家としての「倭国」が存在した可能性があります
我田引水ですよ。後編でコメントします。
隋書では邪麻堆と書いてヤマトと読むって先入観じゃないのかなと思う。魏書では邪馬台、隋書では邪麻堆だからやっぱりヤマタイは動かしがたいのかなと考えることもある。
ハプロᎠ は中国人からは出ていないと 思ってた…日本人だけだから どのルートで来たか問題視されてると思ってた…
大変興味深い。金印を巡るDのネットワークは充分あり得る。ただし例えば徐福の子孫はハプログループO2a2b1a1だそうだから漢民族社会でそのネットワークは見えにくくなっているかも。羌族、石勒は無論、天壇にユダヤの燔祭の跡があるということはユダヤ文化は想像以上に中国に組み込まれている(春節で門に赤い貼り紙をするのは過越の祭りを簡易化したものらしい)。しかも最終的に東へ向かう形で。ちなみに、倭と委と魏…漢字から繋がるものを指摘する人もいます。
漢字の共通点、言われてみれば確かにそうですね!仰る通りで、2000年もあればどこかで養子が入ったり男系が変わってる可能性も大きいので子孫のDNAから追っていくのも簡単じゃないんですよね😅
言語学の方でも古代中国での台の発音はトとなっているようですね。
帥升って天皇なのでしょうか?
その当時はまだ天皇では無かったと思いますが、春秋歴と合わせて考えると3代安寧天皇がそれに当たるのでは?と言われたりはしています。ただ確証はないのであくまでもヒントの一つって感じですかね😊
@@shingekinobumasaありがとうございます。師木津彦[しきつひこ] ですね。
自分は単純に邪馬台国と倭人伝に記されているのは、日本語の発音がそのように記されていたのか?というそもそも論です。ピンインでは邪馬台国がヤマトと同じ発音にならないので変だな、と思って居ます。
いつも有難うございます。阿波説は興味深いものですが、阿波には直径140メートル級の円墳がありません。当日北部九州と畿内はあまり国交がなかった様で、魏志に出てくる地名は北部九州が中心。倭国大乱の形跡である大量の鉄器や環濠跡等は北部九州にある為、やはり北部九州では無いのでは無いでしょうか?
コメントありがとうございます😊墳墓の捉え方は確かに1つ鍵になりそうですよね!ただ、倭人伝には「塚」と書かれているだけなので円墳とは決まっていないと思います。近年、それこそ福岡の田川で発見された古墳が卑弥呼の墓だという主張も出て来ていると思うんですが、それも前方後円墳で円墳部の直径がちょうど150mくらいという主張だったと思います。なので140mの円墳がないというのが阿波を否定する理由にはならないかなと思います😊鉄器についても四国でも中国地方でも発見されているので、これも根拠にするならどこでも成り立ってしまうかなと思っています。ただ動画内でも説明した通り大陸との玄関口としてヤマトの国にとって重要な場所だった事は間違いないと思うので、いずれ福岡も現地の神社や遺跡を巡って考察してみたいと思っています😊
@@shingekinobumasa 「倭人伝には塚と書かれている」魏志倭人伝には「冢」と書いて有ります冢に土を盛った塚(墳墓)と、ただの地下の埋葬施設・墓穴の冢では意味が全く異なります
「魏書」には卑弥呼は王として金印を下賜されています。ですが、倭迹迹日百襲姫は王ではありません!二人いるなら何故「王は二人」と書かれてないのでしょうか!?祭祀をしている女性が ”王” として書く慣例が ”魏” にはあったのでしょうか?
ありがとうございます!あくまでも一つの考え方としてお耳汚し程度にお聞き頂ければ幸いです😊百襲姫が本当にイコール日巫女だったのかは僕ももう少し考えていく必要はあるかなと思っています。ですが天皇制というのは後に制定されていくものなので、連合国家といわれているようにこの魏志の時代にはまだ幾つかのグループに分かれていた可能性は十分あると思っています。祭祀王は鬼道を使って方針を決める立場、統治王は王とは言っても実務的な立場、軍事権も別にあったかもしれません(物部と言われたりしていますね)それらを連合国家から統一国家へとまとめて行くために全ての権利を1つに集約した天皇という制度を作ってそれ以前の王の系統も整理されたのが記紀を編纂した700年当時だったのではないでしょうか。その時点で色々と政治的なものはあったかもしれませんが、結果的に今の歴代天皇となっている方々が天皇として記録され祭祀王的立場だった方々は裏に隠されたという考え方です。ちなみに僕が参考にさせてもらった口伝では祭祀王は必ずしも女性とは限らないようです。倭国大乱のあった頃は祭祀王も男性が務めていたり時には一人の人物が両方を兼ねていた事もあったそうです。しかしそれで国がまとまらなかった為に女性を祭祀王日巫女として立てる事で国がまとまったという話しですね!あくまで1つの考え方なのでこれが正解という訳ではないです😊
@@shingekinobumasa さん長い返信ありがとうございました
曹魏の一族は古代呉人の末裔だから倭人に関する情報が出てきても別におかしくない。
1コメ!
漢文をまともに読めない人が色々言ってので色々な説が出てくる😅😅😅
ありがとうございます!自分なりに漢文の原文と和訳もいくつか照らし合わせながら考えているんですが、もし解釈間違っている部分あればぜひご享受ください😊
別の動画で常陸の国(茨城県、千葉県北部)説を見た。びっくりした…
6:00 邪は、卑字としては「じあ(じゃ)」としか読めない※中華思想では、東方を東夷と呼び、見下し、動物や悪い意味などの漢字で名前を表音する卑字を使っていた臺も(壹も)、中国の上古音・隋唐代音、日本の呉音・漢音で「と」とは読めないなので、「ヤマト」とは読めません※仮に「臺」が「と」と読み、「邪馬臺(やまと)」なら、ヤマト国が確実に在る後世に敢えて「邪馬壹」に書き換えてる事になるが、書き換える理由は無い※三国志で、臺と壹は、56箇所以上あるが、臺と壹を誤字した例は無い※台と臺は漢字音が異なる別字なので、同音の表音として扱えません7:09 邪摩堆は中古音で「じゃむあつあい」と読みます※北史の倭人伝の引用は、「又」の使い方が魏志倭人伝と異なり、完全な引用ではない太平御覧は、又からして北史の孫引きであり、倭人伝を読んでない翰苑も、後漢書曰く・引用だとしながらも、後漢に居る筈も無い臺輿が書いて有り、引用が嘘です隋書俀国伝は、後漢書倭伝の倭奴と俀奴を書き換えるなど、完全な引用ではない※奈良県ヤマト国が俀国の都だと、都が倭(俀)国に従属している事になる
顔が真っ赤な人が多いな(笑)😅
邪馬台国と大和国(扶余系)は全く別の国だと思います。なぜなら魏志倭人伝には倭国に馬はいないって書かれているけど、邪馬台国 対馬国 投馬国 邪馬国 という国名が登場するからです。これは倭人が馬を嫌っていた民族だというのを晋の陳寿が書いたものです。つまり扶余系の大和人が九州に倭人(倭国大乱)を滅ぼして、更に東に遠征し、四国や近畿や中国地方に住み着いたのではないでしょうか?3世紀頃から突然銅鐸文化が消えているので、この民族が北上し、蝦夷になったという説もあります。竹田恒泰さんの本でも卑弥呼と天皇家は全く違う国だったと否定されていますよ。
有難うございます!その辺りは今やっている途中でまだ上手く説明できていないんですが、僕も同じく邪馬台国と扶余系は別物だと考えています😊別物だけど親戚って感じでしょうか。邪馬台国の時代がちょうどその転換期で、そのすぐ後に扶余系が馬や新しい文化を持って入って来て合流したとそんなイメージでしょうか!
国名に馬がついている事は馬がいる事とは違うと思われます。また倭国大乱で邪馬台国が卑弥呼を女王にして統一したのであり滅びていません。そして北九州の邪馬台国は南九州の狗奴国に負けて畿内に東遷して大和国になったと思われ、大和国は扶余系ではなく邪馬台国系と思われます。半島の百済国が扶余系ではないでしょうか。
倭地に馬がいないというのは海南島と同じ風俗を持つ会稽の東にある船山諸島の事だと思われます。公孫配下の扶余族は列島にも入ってきたでしょう、もともと倭も扶余族も蓋馬大山の近辺にあり近い存在、扶余には6畜がありますが、北九州近辺は馬といいたい所ですがムラと魏晋で読みますので群れる→村程度の意味かもしれません。狗は半島でしょう狗奴国、狗素、狗虜、狗邪韓国、掖邪狗、思えば対馬、狗邪韓国の向こうに二つの文字を併せ持つ邪馬壹国があり壹の中の豆は豊国の豆に関係するのでしょう。私は奈良の弥生人達には鹿が重要だっと思います。 倭国大乱は列島内ではなく高句麗近辺の公孫氏と結びついた扶余系国家である倭国内部の構想であり、北九州を直接納めていたのは女王国であり邪馬壹国は首都ではなく都(都督府、都護府、禄採地)だとする説を支持しています。大和を統一したのは半島から上陸してきた扶余族・公孫軍残党などを主体とする倭国軍の一部ではないでしょうか?唐古・鍵遺跡程度の防衛力なら畿内は楽に占領、高地性集落も条件付きで降伏するでしょう。その理由は北九州を中心に30カ国を服属させている女王国(大分)は帯方軍との交易相手であり魏に干渉されているからだと思います。結局倭国遠征軍は現地で独立してしまったのでしょう。紀年銘鏡からすると支配の正当性は倭国や魏によって得ていたのだと思います。
深堀とおっしゃっていますが初心者へのまとめ動画ですね。横に広い感じです。江畑武の論文は深いですよ。岡上佑氏の論考も深いです。
魏志倭人伝には、そもそも、邪馬台国のことって、たった二行ちょっとしか記載されていないのに、なんでこんなに取り上げられるの?倭国の女王の卑弥呼と伊都国の王様のことのほうがすごくない?
邪馬台国はヤマト国と発音して現在の奈良県を指しています。 紀元前60年に初代神武天皇が橿原神宮で即位されて以来、奈良県に大和政権があり、都が京都に遷都されるまでの間長く歴代天皇が奈良県にいらっしゃいました。 また、邪馬台国初代女王卑弥呼は第7代孝霊天皇の皇女の倭母母曽毘売命です。 倭母母曽毘売命は紀元115年に生まれ198年に崩御され箸墓古墳に葬られました。 従って邪馬台国は奈良県にほかなりません。
卑弥呼は公孫氏出身だと書かれているようで、渡来人のようですが、その辺はあまり話題になりませんね。鬼道を使う女性シャーマン文化は、東南アジアやモンゴル方面にも広がっていたようなので、公孫氏でもおかしくないのかも。公孫でイチョウと読むようなので、イチョウは公孫氏が持ち込んだ植物なのかも。
ありがとうございます😊恐らく晋書に書かれている内容の事ですかね!?だとするとそれは誤訳によって生じてしまっていると思われます。確かに無理やり訳せばそう読めなくもないかなーという感じなんですが、普通に考えると宣帝が公孫氏を平定したため女王は遣いを帯方郡に送って朝貢して来た、と訳すのが正解な気がします!ただし、新撰姓氏録にも公孫氏の末裔とされる氏族が書かれているので、1部が日本に来て帰化していたのも事実かもしれません😊
@@shingekinobumasa 大抵の学者はそのように解釈してるようですが、自分で原文の漢文を読まれましたか?
原文を見てみて、和訳も幾つか調べてみた上での感想です😊あなたは原文は読まれましたか?何より、公孫氏は楽浪と帯方郡を勝手に支配していて魏からすると邪魔な存在だったんですね。それをようやく平定して邪馬台国との朝貢が始まった訳なのに、その女王が公孫氏を名乗っていたらどうでしょうか?僕が魏の皇帝なら絶対に親魏倭王の金印なんて送らないですしそれどころか戦争状態になる可能性もあると思います😊
うーん…、説明が足りなくてすみません。私も色々読みすぎて、うまく説明出来ないのですが…、公孫氏と烏孫との関係を考えます。孫つながりで、高貴なるファラオの子孫、ホルスの子孫といいたいのでは?と。あと、半島を陣取る戦術が、クリミア半島を取ったり取られたりを思い出します。クリミアと言ったらエフタル。公孫氏は夫余(子孫は高句麗、百済を建てた)と連合を組んだようなので、その後の、百済と日本の関係を考えると、卑弥呼公孫氏説もあるかもと。韓国の朱豪というドラマを見ると、明らかに八咫烏(ホルス)の伝説の話だし、ヘモスはモーセ、もしくはアモーセ一世と名前が似ていて、神武天皇と五瀬命の話とそっくりな部分もあります。卑弥呼はモモソヒメと言われますが、明らかにフェニキアの神殿娼婦のやり方。アンガ国などを経由して来たのかと。ホトを突かれて死んだのはモモソヒメ。その後のトヨは別の民だと考えます。宇佐の豊王国出身では?と。最近思うのは、邪馬台国は、狗邪韓国、馬韓、台湾(豊王国)の連合国だったのでは?と。古史古伝で、記紀の補完ができるかと。記紀は端折りすぎてて意味不明です。東日流外三郡誌では、台湾から、ヒミコ、ミミコ、チミコがやって来て、住んでた人達は東北に逃げたと書かれてます。中国も、取ったり取られたりで流動的だったり、さらに、大陸の歴史を考えると、複雑なので、分かりづらいですね。出雲王国も連合国家のような形だっただろうし、金印を貰ったのは、中国と貿易してた一族でしょうか。公孫氏が建てた神社に常世岐姫神社というのがあります。染め物をしてたらしい。染め物と言ったら、フェニキアのツロの紫。常世岐姫とはイシスのこととも言われます。常世は地中海のことでは?と思います。長文で失礼しました。
その辺りは本当に複雑なので難しいですね😅公孫氏についてはまだ自分も全然調べ足りないので推測しか出来ないのが申し訳ない所です。その可能性ももちろん完全に否定は出来ないと思います。ただやはりシンプルに考えて公孫氏を抑えて→親魏倭王の順番は間違いないと思うので、そこで卑弥呼が公孫氏を名乗るとはおかしいですよね。それはもはや喧嘩を売っているようなものだと思うので…公孫氏系の神社に卑弥呼との繋がりが何かあったら面白いかもしれませんね😊
これはあくまでも中国語読みでないといけないでしょう?臺の字は昔の時代の中国では何と呼ばれていたのですか???現代の日本読みをしても意味ないでしょう?(と)と発音されていたのですか???
コメントありがとうございます😊調べた所では現地の読み方だと「ヤマードゥ」とか「ヤマートゥ」のような発音になるそうです。そもそも日本のヤマトも、古代の人達は「ヤマトウ」に近い発音をしていたのがヤマトに変わったという見方もあるようなので、やまとの事で合ってるかなと思いますがいかがでしょうか?
面白いから笑ってしまった!結局近畿か〜
「台」は「臺」の略字ではなく、別の字です。また、「臺」の当時の発音は「ト」ではなく、「ダ」に近いようです。「邪馬臺」を「ヤマト」と読ませるのは無理があります。また、古い天皇の年代について、かなり違うようです。
それはない。
@@yunyun9886 [「台」の上古音は「タグ」であり、それ以外は、いずれも「タイ」です。つまり、「台」の字の音韻はすべて「t」音です。ところが、「臺」の字は、中元音韻・北京語・現代音・漢音は「タイ」で普通語は「tai」、つまり「臺」の字の日本伝来後の音読みや後の時代の音韻は「t」音ですが、それ以前の時代の中国の上古音は「ダグ」で、中古音は「ダイ」、呉音は「ダイ」です。よって、この時代の「臺」の字の音韻は「d」音です。つまり、魏志倭人伝成立時の「台」の字は「t」音であり、「臺」の字は「d」音です。よって、「邪馬臺国」の「臺」の字を「台」の字の「t」音を使用して「ヤマタイ」国と読むのは誤りであり、「臺」の上古音の「ダグ」や中古音の「ダイ」、つまり「d」音の「ダ」を使用して読むべきです。](井上悦文著「卑弥呼の墓は朝倉の山田にある!」、一部発音記号は省略しました)
@@user-Godai_Yoshio 三国志は原本が存在しないからね。
@@yunyun9886 現存しているのが後世の写本としても、「壹」または「臺」の字が使われたのは明らかで、「台」の字は江戸時代に松下林見氏が使い始めたということです。よって、私が前に書いたことに全く影響しません。
当時の発音については諸説ありますよね。そもそも中華でも国によって微妙にイントネーションが違ったかもしれません。当時の読み方だと「ヤマダ」という解釈も確かにありますが一方で「ヤマートゥ」とか「ヤマードゥ」が当時の発音としては正しいという意見も多いですね😊僕達現代の日本人が英語を勉強していないと上手く聞き取れなくて和製英語のようになってしまうのと同じような事が、当時も起こっていた可能性もあるかもしれないですね!
前提からして間違い。西日本の説は江戸時代からやって来て結論が出ていないのだからそーゆーとこ。田中英道のいう日高見国、茨城県説が濃厚。邪馬台国がヤマト政権になったかは疑問。ヤマトもヒミコもみんな日本語読み。正直聞き飽きた。それに三国志と記紀の間には現代と戦国時代くらいの差がある。国の形が変わるのに充分過ぎる時間。中国の広さからなぜか、矮小かして、東日本にしなければならないのがおかしい。後編を楽しみにしている。
ありがとうございます😊日高見国は重要だと僕も思います!でも恐らく縄文から続いていた国の事だと思うので、邪馬台国と日高国は別物として考えた方が良いような気はしています😊
大変興味深い。金印を巡るDのネットワークは充分あり得る。ただし例えば徐福の子孫はハプログループO2a2b1a1だそうだから漢民族社会でそのネットワークは見えにくくなっているかも。羌族は無論、天壇にユダヤの燔祭の跡があるということはユダヤ文化は想像以上に中国に組み込まれている。しかも最終的に東へ向かう形で。ちなみに、倭と委と魏、漢字から繋がるものを指摘する人もいます。
皆さんいつもご視聴有難うございます!
コメント欄への返信は気まぐれですが、全て目を通して読ませて頂いています😊
皆さんからのコメントお待ちしています!
なお邪馬台国の行程については今回の動画では触れていませんので、場所に関する内容は次回までお待ち下さい😊
とても面白いです。
歴史を俯瞰して観れる豊富な知識と探求心に敬服します。
何気なく聞き始めて最終的に、後編はいつ?とのめり込む程おもしろかった。ありがとうございます。
すばらしい分析、豆と壹、中国語では同じ音=トゥでヤマトゥと信じてたので納得です。
誠に素晴らしい。
いつも興味深い動画ありがとうございます♪
これまで限られた文献のみを根拠として来た歴史観から、一歩引いた視点で考える楽しさは『逆説の日本史』に触れた時で、
およそ30年位前から…
以降、凡ゆる説を読みながら九州説・近畿説に自分なりの決着がつかないまま、古代史から離れていました
そんな中、阿波説に接しておや?と強く興味をひかれました
古代チャイナ文献の様な書物に限らず、(延喜式)神社の名前や由来、水銀丹、遺伝学、アカホヤ噴火、気候変動、民族移動、宗教の盛衰などなど、この地球に起こったであろう事象とそれらによって急速な或いは緩やかな変化を余儀なくされた人間の営みをパズルの様に組み上げていく楽しさを感じてます。
“完全ではない”けどそれを目指して果敢にナゾに挑む過程を楽しく視聴しています♪
フィールドワーク、文献読込みなどなど大変でしょうが、楽しみにしております
因みに、私の両親は別々の地方から東京に住み着いて現在に至りますが、自分も地元で仕事しながらクライアントの方々とお話しすると、両親の様に集団就職でこの地に棲みついたという事情をよく聴きます。元々住んでいる地主的な方と比べると、新参者なので新たに造成された土地に棲む傾向があり、この事は、西日本縄文人の移動と帰還、失われた十氏族の移動と定住、日本人の持つ地方毎のバラエティーと棲みついた地元の祭祀などで溶け込んでいく様な緩やかな統一感に見えてきました。
そんな風に、大きな歴史もマクロ・ミクロの視点で眺めて楽しんでいます
いつもありがとうございます!
緻密な調査と精緻な推測にいつもワクワクさせていただいています!
自分の古代史の見方がかなり変わりました。
古代の人々はある意味今の人々以上に、国家、国民という概念が薄かった故に無自覚にワールドワイドな人たちだったのでしょうね。(これも現代人としての偏った視点ですが。)
今後も動画楽しみにさせていただきます!ありがとうございます😊
こちらこそありがとうございます😊
歴史を素直に俯瞰して読み解くってとても大事ですね。😄
それを踏まえて深い部分まで読み解くと何だかピッタリハマってくる答えが出てくるのでしょうね。戦後の近視眼的なアカデミズムが残念で仕方ありません。😥
Dの遺伝子を探って行くとチベットから分かれた遺伝子が日本とインド辺りに広がっている様に見えてその辺りとも繋がっているのかなぁ〜と思ったりしています。
よく調べられていますね。ご苦労様です。阿波千年物語も頑張ります。 26:44
ありがとうございます😆
魏ってそんな考え方も出来るんすね。
豫州?気になって来ました。
今回も面白かったです!
古代朝鮮半島もそうなのですが、古代では人々は山が開けた水源のある場所に集落を築いてそこから小国が乱立していたと思うんです。
日本では中央構造線に沿った地形がこの条件にピッタリで九州から奈良盆地につながる道になったと。
特に四国の吉野川流域なんてきっと古墳時代より前から集落郡があったと思われます。
徳島には倭大國魂神を祀った神社がありますね。忌部氏族のいた土地のようですが、何かつながりがあるのかなぁと勝手に想像してます。
PlecoというAPPの辞書があります。中国語や広東語を調べる辞書として有名です。その辞書には台/薹/枱/檯は同じ漢字で北京語ではTai、広東語ではToi となっています。僕は古代の中国語の名残を多く引き継いでいるのは広東語のほうだと思っていますので、Toiという発音する薹(台)が古代日本語のトの当て字に使われたと思っています。
次、はやく、はやく!
初コメントです。
徳島出身です!
父の名前がのぶまさと言うので親近感が湧きました!!
応援しています。頑張って下さい🎉
名前が同じって何だか嬉しいです!
こちらこそありがとうございます😊
曹操の出身地の村の三国志時代の跡から[此地に倭人来在 盟するや否や]と書かれた素焼の薄型煉瓦[磚(せん)]が出土していますよね。
当時の倭国は魏呉蜀の覇権争いを偵察部隊を送り込んでいたかも知れませんね。
徳島県に住んでいますHARAと申します。
非常に感銘しました。
シェアさせて頂きます。
これからも頑張って下さい=(^.^)=
ありがとうございます😊
新たな切り口でワクワクです。✨👀
今までは早稲田大学の渡邊義弘先生の説に納得していました。
公孫氏を滅ぼした司馬懿仲達と曹操の宗家の一族である曹真・曹爽親子との間にライバル関係があり、呉の後ろには倭国、蜀の後ろには大月氏國と両者の遠交近攻策を比較させる目的があったというもの。←晋国建国の功労者である司馬懿仲達を持ち上げるため
それにしては大月氏國が蜀からずいぶんと遠いなぁと思っておりました。
曹家の遺伝子🧬からの考察、楽しみに待ってます。
ありがとうございます😊
三国の争いに関係を持たせるには大月氏は少し遠いですよね!
邪馬台国は出雲族の国で出雲族が縄文人と融和して出雲文化圏を築いてその中 にできた一国で、大和の磯城に本拠地があった とされそれが 唐古鍵遺跡です
勉強になります。後半を期待しています。帝大に負けないで。工学博士 お笑い芸人 遼子規キンジロウ
讃岐の金刀比羅宮の祭神って、大物主命なんですよねぇ。
金毘羅というのはサンスクリット語でガンピーラー、つまり「ワニ」のことです。つまり海の神様です。
曹操になじみの深い豫州
伊豫の二名島
豫の王となったツクヨミ
この辺りもなんか関連あったりしそう
黒田さん、いつのまにか日の巫女におなりあそばしていたのですね。知らなかった。😅
厚子様も清子様も日巫女です。おそらく初代は天照の娘で天皇の娘の中で特に祭祀を行う方で天照を祀る役目が日巫女様。ヒミコも天皇と同様役職名なので何人もいます。初代天照は当然伊勢神宮に祀られている男性で二代目天照は初代日巫女か、猿田彦が二代目で初代日巫女はその奥さんか。初代天照が誰なのか明かされる日は近いと思います。
ほんとはヤマト国で、都道府県レベルの都市国家で、今の日本国内には4つか5つぐらいあったんじゃないかな、今の「住吉」みたいに。
古代史新設チャンネルさんのところで魏志倭人伝の現代語訳を見ました。当の新設チャンネルさんは否定(自分がしたコメントを否定されていました。)していましたが
統治王と祭祀王はどう読んでもいます。しっかり書かれていない?別段統治王の部分に書き残すことが祭祀王の活躍に勝っていなかっただけ。
欠史八代と同じ理屈かと思います。
さてここから四国説のどうつながるんでしょうか?楽しみです。
大陸の豫州。
伊予之二名島を伊と豫の国と理解する立場から豫国とされる愛媛。
繋がりがあるのか、ないのか…。
三国志なのか三国志演義なのかはっきり記憶していませんが、「呉の孫権は『紫髯碧眼』であった」と書かれていたように思います。 赤っぽい髪・髭に青い眼・・・中近東から欧州にかけての民族の血を引いていたと考えられますね。 3世紀頃の中国は想像以上に多民族国家であり、史書の歴史観も著者の民族によって異なっていたのかもしれません。
邪馬台国の説明は非常に簡単です。
古事記、日本書紀の記述があるか、大規模な古代遺跡があるか、詳しい具体的な伝説、さらに伝説を裏付ける史跡があるか、その史跡が一定の範囲にあるかどうかの五拍子がそろっているのが最低限の条件です。
それがそろっているのは全国でも宮崎市、奈良県橿原市しかありません。
日本のトップクラスの文化人が書いた日本の歴史書である古事記、日本書紀に書かれた日本建国、天皇誕生地は宮崎市。
その一帯には、今残っているだけで古墳が1000基以上。最近は、日本最大の縄文遺跡が相次いで見つかり、巨大な神殿跡も。驚くほどの日本最大の古代遺跡地帯が宮崎市。
宮崎市北部が皇祖天照大神、スサノオ、住吉様らの生誕地。皇祖天照大神の孫に当たる天孫降臨の人物、天孫ニニギの御陵墓は、宮崎市南方町の奈古神社。
皇室が特に尊崇する神武天皇宮、いわゆる宮崎神宮近くの皇宮神社が、ヤマト(神武天皇)が奈良県橿原市で大和朝廷を開くまで住んでいた皇居跡。天皇の軍隊、皇軍発祥地の碑がある。皇宮神社の社殿は、三重県の伊勢神宮の式年遷宮で使われた社殿を移築した歴史的建造物。
宮崎市で生まれた皇祖天照大神の子孫がヤマト(神武天皇、大和、中国の古代書籍では邪馬台と表記)
ヤマト(神武天皇)は西暦100年代の日本最高の英雄。大和朝廷の創設者。
12:38
その150年後ぐらいに書かれたのが魏志倭人伝。その頃には、大和朝廷は基盤がしっかりし、藤原京につながります。
ヤマト(神武天皇)は、宮崎市から奈良県橿原市に東征しており、中国の書籍に登場する邪馬台(ヤマト)国とは時代的にも一致。
邪馬台(ヤマト)国は、源流地が宮崎市、栄えたのが奈良県橿原市。日本語、日本史では大和朝廷のことです。
ヤマト国は宮崎市から奈良県橿原市に移動したのが正解です。
宮崎市は、日本最大規模の古代史跡にあふれ、伝説、記紀の記述があり、それがそろうのは全国で宮崎市だけ。疑いを入れる余地はまったくありません。
全国に天孫降臨の話はありますが、天皇が戦が来たとか、流されてきたとかが関係しています。
京都市山科区の天孫降臨の話がある日向大神宮は、第23代の顕宗天皇が、天皇の歴史を伝えるために創建したもので、実際に天孫降臨の地ではありません。
宮崎県高千穂町にある天孫降臨の話は、ヤマト(神武天皇)の兄が東征の途中、日向に帰り、高千穂町に住みついてヤマト兄弟の話を残した伝説地です。
巨大な史跡地帯、記紀記述、伝説地、伝説を裏付ける宮崎市とは異なります。ヤマトの兄が住みついた場所という点では、大変重みがあるのは当然です。
印綬の文字はいろいろ解釈ありますが、
漢倭奴国王⇒漢の中の倭の一諸国「奴」
親魏倭王⇒魏と親しい「倭国」
魏の時代、倭地域には統一国家としての「倭国」が存在した可能性があります
我田引水ですよ。
後編でコメントします。
隋書では邪麻堆と書いてヤマトと読むって先入観じゃないのかなと思う。魏書では邪馬台、隋書では邪麻堆だからやっぱりヤマタイは動かしがたいのかなと考えることもある。
ハプロᎠ は中国人からは出ていないと 思ってた…日本人だけだから どのルートで来たか問題視されてると思ってた…
大変興味深い。
金印を巡るDのネットワークは充分あり得る。
ただし例えば徐福の子孫はハプログループO2a2b1a1だそうだから漢民族社会でそのネットワークは見えにくくなっているかも。
羌族、石勒は無論、天壇にユダヤの燔祭の跡があるということはユダヤ文化は想像以上に中国に組み込まれている(春節で門に赤い貼り紙をするのは過越の祭りを簡易化したものらしい)。
しかも最終的に東へ向かう形で。
ちなみに、倭と委と魏…
漢字から繋がるものを指摘する人もいます。
漢字の共通点、言われてみれば確かにそうですね!
仰る通りで、2000年もあればどこかで養子が入ったり男系が変わってる可能性も大きいので子孫のDNAから追っていくのも簡単じゃないんですよね😅
言語学の方でも古代中国での台の発音はトとなっているようですね。
帥升って天皇なのでしょうか?
その当時はまだ天皇では無かったと思いますが、春秋歴と合わせて考えると3代安寧天皇がそれに当たるのでは?と言われたりはしています。
ただ確証はないのであくまでもヒントの一つって感じですかね😊
@@shingekinobumasa
ありがとうございます。
師木津彦[しきつひこ] ですね。
自分は単純に邪馬台国と倭人伝に記されているのは、日本語の発音がそのように記されていたのか?というそもそも論です。
ピンインでは邪馬台国がヤマトと同じ発音にならないので変だな、と思って居ます。
いつも有難うございます。阿波説は興味深いものですが、阿波には直径140メートル級の円墳がありません。当日北部九州と畿内はあまり国交がなかった様で、魏志に出てくる地名は北部九州が中心。倭国大乱の形跡である大量の鉄器や環濠跡等は北部九州にある為、やはり北部九州では無いのでは無いでしょうか?
コメントありがとうございます😊
墳墓の捉え方は確かに1つ鍵になりそうですよね!
ただ、倭人伝には「塚」と書かれているだけなので円墳とは決まっていないと思います。
近年、それこそ福岡の田川で発見された古墳が卑弥呼の墓だという主張も出て来ていると思うんですが、それも前方後円墳で円墳部の直径がちょうど150mくらいという主張だったと思います。
なので140mの円墳がないというのが阿波を否定する理由にはならないかなと思います😊
鉄器についても四国でも中国地方でも発見されているので、これも根拠にするならどこでも成り立ってしまうかなと思っています。
ただ動画内でも説明した通り大陸との玄関口としてヤマトの国にとって重要な場所だった事は間違いないと思うので、いずれ福岡も現地の神社や遺跡を巡って考察してみたいと思っています😊
@@shingekinobumasa
「倭人伝には塚と書かれている」
魏志倭人伝には「冢」と書いて有ります
冢に土を盛った塚(墳墓)と、ただの地下の埋葬施設・墓穴の冢では意味が全く異なります
「魏書」には卑弥呼は王として金印を下賜されています。
ですが、倭迹迹日百襲姫は王ではありません!
二人いるなら何故「王は二人」と書かれてないのでしょうか!?
祭祀をしている女性が ”王” として書く慣例が ”魏” にはあったのでしょうか?
ありがとうございます!
あくまでも一つの考え方としてお耳汚し程度にお聞き頂ければ幸いです😊
百襲姫が本当にイコール日巫女だったのかは僕ももう少し考えていく必要はあるかなと思っています。
ですが天皇制というのは後に制定されていくものなので、連合国家といわれているようにこの魏志の時代にはまだ幾つかのグループに分かれていた可能性は十分あると思っています。
祭祀王は鬼道を使って方針を決める立場、統治王は王とは言っても実務的な立場、軍事権も別にあったかもしれません(物部と言われたりしていますね)
それらを連合国家から統一国家へとまとめて行くために全ての権利を1つに集約した天皇という制度を作ってそれ以前の王の系統も整理されたのが記紀を編纂した700年当時だったのではないでしょうか。
その時点で色々と政治的なものはあったかもしれませんが、結果的に今の歴代天皇となっている方々が天皇として記録され祭祀王的立場だった方々は裏に隠されたという考え方です。
ちなみに僕が参考にさせてもらった口伝では祭祀王は必ずしも女性とは限らないようです。
倭国大乱のあった頃は祭祀王も男性が務めていたり時には一人の人物が両方を兼ねていた事もあったそうです。
しかしそれで国がまとまらなかった為に女性を祭祀王日巫女として立てる事で国がまとまったという話しですね!
あくまで1つの考え方なのでこれが正解という訳ではないです😊
@@shingekinobumasa さん
長い返信ありがとうございました
曹魏の一族は古代呉人の末裔だから倭人に関する情報が出てきても別におかしくない。
1コメ!
ありがとうございます😊
漢文をまともに読めない人が色々言ってので色々な説が出てくる😅😅😅
ありがとうございます!
自分なりに漢文の原文と和訳もいくつか照らし合わせながら考えているんですが、もし解釈間違っている部分あればぜひご享受ください😊
別の動画で常陸の国(茨城県、千葉県北部)説を見た。びっくりした…
6:00
邪は、卑字としては「じあ(じゃ)」としか読めない
※中華思想では、東方を東夷と呼び、見下し、動物や悪い意味などの漢字で名前を表音する卑字を使っていた
臺も(壹も)、中国の上古音・隋唐代音、日本の呉音・漢音で「と」とは読めない
なので、「ヤマト」とは読めません
※仮に「臺」が「と」と読み、「邪馬臺(やまと)」なら、ヤマト国が確実に在る後世に敢えて「邪馬壹」に書き換えてる事になるが、書き換える理由は無い
※三国志で、臺と壹は、56箇所以上あるが、臺と壹を誤字した例は無い
※台と臺は漢字音が異なる別字なので、同音の表音として扱えません
7:09 邪摩堆は中古音で「じゃむあつあい」と読みます
※北史の倭人伝の引用は、「又」の使い方が魏志倭人伝と異なり、完全な引用ではない
太平御覧は、又からして北史の孫引きであり、倭人伝を読んでない
翰苑も、後漢書曰く・引用だとしながらも、後漢に居る筈も無い臺輿が書いて有り、引用が嘘です
隋書俀国伝は、後漢書倭伝の倭奴と俀奴を書き換えるなど、完全な引用ではない
※奈良県ヤマト国が俀国の都だと、都が倭(俀)国に従属している事になる
顔が真っ赤な人が多いな(笑)😅
邪馬台国と大和国(扶余系)は全く別の国だと思います。なぜなら魏志倭人伝には倭国に馬はいないって書かれているけど、邪馬台国 対馬国 投馬国 邪馬国 という国名が登場するからです。
これは倭人が馬を嫌っていた民族だというのを晋の陳寿が書いたものです。つまり扶余系の大和人が九州に倭人(倭国大乱)を滅ぼして、更に東に遠征し、四国や近畿や中国地方に住み着いたのではないでしょうか?3世紀頃から突然銅鐸文化が消えているので、この民族が北上し、蝦夷になったという説もあります。
竹田恒泰さんの本でも卑弥呼と天皇家は全く違う国だったと否定されていますよ。
有難うございます!
その辺りは今やっている途中でまだ上手く説明できていないんですが、僕も同じく邪馬台国と扶余系は別物だと考えています😊
別物だけど親戚って感じでしょうか。
邪馬台国の時代がちょうどその転換期で、そのすぐ後に扶余系が馬や新しい文化を持って入って来て合流したとそんなイメージでしょうか!
国名に馬がついている事は馬がいる事とは違うと思われます。また倭国大乱で邪馬台国が卑弥呼を女王にして統一したのであり滅びていません。そして北九州の邪馬台国は南九州の狗奴国に負けて畿内に東遷して大和国になったと思われ、大和国は扶余系ではなく邪馬台国系と思われます。半島の百済国が扶余系ではないでしょうか。
倭地に馬がいないというのは海南島と同じ風俗を持つ会稽の東にある船山諸島の事だと思われます。公孫配下の扶余族は列島にも入ってきたでしょう、もともと倭も扶余族も蓋馬大山の近辺にあり近い存在、扶余には6畜がありますが、北九州近辺は馬といいたい所ですがムラと魏晋で読みますので群れる→村程度の意味かもしれません。狗は半島でしょう狗奴国、狗素、狗虜、狗邪韓国、掖邪狗、思えば対馬、狗邪韓国の向こうに二つの文字を併せ持つ邪馬壹国があり壹の中の豆は豊国の豆に関係するのでしょう。私は奈良の弥生人達には鹿が重要だっと思います。
倭国大乱は列島内ではなく高句麗近辺の公孫氏と結びついた扶余系国家である倭国内部の構想であり、北九州を直接納めていたのは女王国であり邪馬壹国は首都ではなく都(都督府、都護府、禄採地)だとする説を支持しています。大和を統一したのは半島から上陸してきた扶余族・公孫軍残党などを主体とする倭国軍の一部ではないでしょうか?唐古・鍵遺跡程度の防衛力なら畿内は楽に占領、高地性集落も条件付きで降伏するでしょう。その理由は北九州を中心に30カ国を服属させている女王国(大分)は帯方軍との交易相手であり魏に干渉されているからだと思います。結局倭国遠征軍は現地で独立してしまったのでしょう。紀年銘鏡からすると支配の正当性は倭国や魏によって得ていたのだと思います。
深堀とおっしゃっていますが初心者へのまとめ動画ですね。横に広い感じです。
江畑武の論文は深いですよ。
岡上佑氏の論考も深いです。
ありがとうございます😊
魏志倭人伝には、そもそも、邪馬台国のことって、たった二行ちょっとしか記載されていないのに、なんでこんなに取り上げられるの?
倭国の女王の卑弥呼と伊都国の王様のことのほうがすごくない?
邪馬台国はヤマト国と発音して現在の奈良県を指しています。
紀元前60年に初代神武天皇が橿原神宮で即位されて以来、奈良県に大和政権があり、都が京都に遷都されるまでの間長く歴代天皇が奈良県にいらっしゃいました。
また、邪馬台国初代女王卑弥呼は第7代孝霊天皇の皇女の倭母母曽毘売命です。
倭母母曽毘売命は紀元115年に生まれ198年に崩御され箸墓古墳に葬られました。
従って邪馬台国は奈良県にほかなりません。
卑弥呼は公孫氏出身だと書かれているようで、渡来人のようですが、その辺はあまり話題になりませんね。
鬼道を使う女性シャーマン文化は、東南アジアやモンゴル方面にも広がっていたようなので、公孫氏でもおかしくないのかも。
公孫でイチョウと読むようなので、イチョウは公孫氏が持ち込んだ植物なのかも。
ありがとうございます😊
恐らく晋書に書かれている内容の事ですかね!?
だとするとそれは誤訳によって生じてしまっていると思われます。
確かに無理やり訳せばそう読めなくもないかなーという感じなんですが、普通に考えると宣帝が公孫氏を平定したため女王は遣いを帯方郡に送って朝貢して来た、と訳すのが正解な気がします!
ただし、新撰姓氏録にも公孫氏の末裔とされる氏族が書かれているので、1部が日本に来て帰化していたのも事実かもしれません😊
@@shingekinobumasa 大抵の学者はそのように解釈してるようですが、自分で原文の漢文を読まれましたか?
原文を見てみて、和訳も幾つか調べてみた上での感想です😊
あなたは原文は読まれましたか?
何より、公孫氏は楽浪と帯方郡を勝手に支配していて魏からすると邪魔な存在だったんですね。
それをようやく平定して邪馬台国との朝貢が始まった訳なのに、その女王が公孫氏を名乗っていたらどうでしょうか?
僕が魏の皇帝なら絶対に親魏倭王の金印なんて送らないですしそれどころか戦争状態になる可能性もあると思います😊
うーん…、説明が足りなくてすみません。
私も色々読みすぎて、うまく説明出来ないのですが…、公孫氏と烏孫との関係を考えます。孫つながりで、高貴なるファラオの子孫、ホルスの子孫といいたいのでは?と。あと、半島を陣取る戦術が、クリミア半島を取ったり取られたりを思い出します。クリミアと言ったらエフタル。
公孫氏は夫余(子孫は高句麗、百済を建てた)と連合を組んだようなので、その後の、百済と日本の関係を考えると、卑弥呼公孫氏説もあるかもと。
韓国の朱豪というドラマを見ると、明らかに八咫烏(ホルス)の伝説の話だし、ヘモスはモーセ、もしくはアモーセ一世と名前が似ていて、神武天皇と五瀬命の話とそっくりな部分もあります。
卑弥呼はモモソヒメと言われますが、明らかにフェニキアの神殿娼婦のやり方。アンガ国などを経由して来たのかと。ホトを突かれて死んだのはモモソヒメ。
その後のトヨは別の民だと考えます。宇佐の豊王国出身では?と。
最近思うのは、邪馬台国は、狗邪韓国、馬韓、台湾(豊王国)の連合国だったのでは?と。古史古伝で、記紀の補完ができるかと。記紀は端折りすぎてて意味不明です。東日流外三郡誌では、台湾から、ヒミコ、ミミコ、チミコがやって来て、住んでた人達は東北に逃げたと書かれてます。
中国も、取ったり取られたりで流動的だったり、さらに、大陸の歴史を考えると、複雑なので、分かりづらいですね。出雲王国も連合国家のような形だっただろうし、金印を貰ったのは、中国と貿易してた一族でしょうか。
公孫氏が建てた神社に常世岐姫神社というのがあります。染め物をしてたらしい。染め物と言ったら、フェニキアのツロの紫。常世岐姫とはイシスのこととも言われます。常世は地中海のことでは?と思います。
長文で失礼しました。
その辺りは本当に複雑なので難しいですね😅
公孫氏についてはまだ自分も全然調べ足りないので推測しか出来ないのが申し訳ない所です。
その可能性ももちろん完全に否定は出来ないと思います。
ただやはりシンプルに考えて公孫氏を抑えて→親魏倭王の順番は間違いないと思うので、そこで卑弥呼が公孫氏を名乗るとはおかしいですよね。
それはもはや喧嘩を売っているようなものだと思うので…
公孫氏系の神社に卑弥呼との繋がりが何かあったら面白いかもしれませんね😊
これはあくまでも中国語読みでないといけないでしょう?臺の字は昔の時代の中国では何と呼ばれていたのですか???現代の日本読みをしても意味ないでしょう?
(と)と発音されていたのですか???
コメントありがとうございます😊
調べた所では現地の読み方だと「ヤマードゥ」とか「ヤマートゥ」のような発音になるそうです。
そもそも日本のヤマトも、古代の人達は「ヤマトウ」に近い発音をしていたのがヤマトに変わったという見方もあるようなので、やまとの事で合ってるかなと思いますがいかがでしょうか?
面白いから笑ってしまった!
結局近畿か〜
「台」は「臺」の略字ではなく、別の字です。また、「臺」の当時の発音は「ト」ではなく、「ダ」に近いようです。「邪馬臺」を「ヤマト」と読ませるのは無理があります。また、古い天皇の年代について、かなり違うようです。
それはない。
@@yunyun9886 [「台」の上古音は「タグ」であり、それ以外は、いずれも「タイ」です。つまり、「台」の字の音韻はすべて「t」音です。ところが、「臺」の字は、中元音韻・北京語・現代音・漢音は「タイ」で普通語は「tai」、つまり「臺」の字の日本伝来後の音読みや後の時代の音韻は「t」音ですが、それ以前の時代の中国の上古音は「ダグ」で、中古音は「ダイ」、呉音は「ダイ」です。よって、この時代の「臺」の字の音韻は「d」音です。つまり、魏志倭人伝成立時の「台」の字は「t」音であり、「臺」の字は「d」音です。よって、「邪馬臺国」の「臺」の字を「台」の字の「t」音を使用して「ヤマタイ」国と読むのは誤りであり、「臺」の上古音の「ダグ」や中古音の「ダイ」、つまり「d」音の「ダ」を使用して読むべきです。](井上悦文著「卑弥呼の墓は朝倉の山田にある!」、一部発音記号は省略しました)
@@user-Godai_Yoshio
三国志は原本が存在しないからね。
@@yunyun9886 現存しているのが後世の写本としても、「壹」または「臺」の字が使われたのは明らかで、「台」の字は江戸時代に松下林見氏が使い始めたということです。よって、私が前に書いたことに全く影響しません。
当時の発音については諸説ありますよね。
そもそも中華でも国によって微妙にイントネーションが違ったかもしれません。
当時の読み方だと「ヤマダ」という解釈も確かにありますが一方で「ヤマートゥ」とか「ヤマードゥ」が当時の発音としては正しいという意見も多いですね😊
僕達現代の日本人が英語を勉強していないと上手く聞き取れなくて和製英語のようになってしまうのと同じような事が、当時も起こっていた可能性もあるかもしれないですね!
前提からして間違い。西日本の説は江戸時代からやって来て結論が出ていないのだからそーゆーとこ。田中英道のいう日高見国、茨城県説が濃厚。邪馬台国がヤマト政権になったかは疑問。ヤマトもヒミコもみんな日本語読み。正直聞き飽きた。それに三国志と記紀の間には現代と戦国時代くらいの差がある。国の形が変わるのに充分過ぎる時間。
中国の広さからなぜか、矮小かして、東日本にしなければならないのがおかしい。後編を楽しみにしている。
ありがとうございます😊
日高見国は重要だと僕も思います!
でも恐らく縄文から続いていた国の事だと思うので、邪馬台国と日高国は別物として考えた方が良いような気はしています😊
大変興味深い。
金印を巡るDのネットワークは充分あり得る。
ただし例えば徐福の子孫はハプログループO2a2b1a1だそうだから漢民族社会でそのネットワークは見えにくくなっているかも。
羌族は無論、天壇にユダヤの燔祭の跡があるということはユダヤ文化は想像以上に中国に組み込まれている。しかも最終的に東へ向かう形で。
ちなみに、
倭と委と魏、
漢字から繋がるものを指摘する人もいます。