動画配信ありがとうございます。1里が77m程であることから、一寸千里法を使ったのは確かでしょう。77mのメジャーとしてのロープが欲しいところですが、ロープを使わない方法がありました。80寸棒に対する影長の概略シミレーション式は「80 x tan (緯度-23.44度) 」でスマホ電卓で計算できます。洛陽の緯度を34.75度とすると影長は16寸となります。 仮に緯度を1度南の33.75度とすると、影長は17.45寸となり、その陰長差は約1.45寸となり1450里を意味します。1里を77mとすると、地球の大きさより1度は約1450里なので、陰長差だけで同じ短里を示します。 一寸千里法は、2箇所の陰長差がそのまま短里となり、仰角など測る必要はないのです。一寸千里法は、南北だけ測れ、東西は全くは測れません。そこでピタゴラス三角で東西や斜めの距離を算出しますが、地面に距離が書いはないので、数字は合うものの実体の無い距離です。また、短里も長里とは異なりデタラメの距離です。それを是正するのが、㑹稽の東です。㑹稽なら長里での距離が分かっており、同じ緯度を探し当てたのが、万二千里の女王国です。 ちなみに糸島と種子島の陰長差は4寸つまり4000里。沙里院と巨済島南端の陰長差は5.6寸、つまり5600里、これに5/4倍したのが7000里です。長くなって済みません、一寸千里法はチョットした工夫で、毎日一人で、無線通信なしで距離が計れます。
良い意味で、うーんと唸りました!大変面白かったです🎵
特に伊都国の場所とそこにあったであろう理由に納得しました。
そうか、吉野ヶ里を絡めるのか…。
ブラボー。
「会稽東治の東」の話はすごいと思いました。素晴らしい
48:00~
これは凄い
ありがとうございます。
参考になりました
こちらこそありがとうございます😊
お見事!!素晴らしい!!
お!ANYAさんご本人!
お!ANYAさん。今徳島入りしてるのかな?たしか、明日は祭りですよね。
香川先生やコーエンさんは行かないのでしょうか?
この方の動画、とてもよくまとまっていますね。感心しながら拝見しました。
@@rakujin 土佐野先生そろそろ連絡入れさせていただきますv
阿波にはなかなか行けないです~
進撃の歴史旅さんの動画は素晴らしいですよ
@@ANYA-channel さん、お待ちしております。よろしくお願いします。
ついに納得いく説に辿り着きましたね✨
素晴らしい👍
とある説によると、この動画で伊都国と比定しているあたりが、まさに大和国です。香春町辺り。伊都国はちょっと北西の鞍手あたりになります。熟田津の港がありました。今は遠賀川ですが、当時はこれが湾でした。末慮国からは海沿いに北からぐるっと回るのです。33分くらいの画像で伊都国という文字の右上に見える白い部分は、香春三の岳です。銅や鉄が採れました。畝傍山は石灰岩の山だったので削られてしまいましたけど、ここが真の天の香久山、三輪山なのだという説。関西の地名は当時の筑豊地方のコピーです。近江や飛鳥なども含めて。記紀編纂も王朝がこのあたりにあったものなので、富士山なんて出てきません。祭祀王と統治王という考え方には賛同します。天体観測や暦を司り、水稲栽培を導いたのが祭祀王、治水灌漑、土木工事などを仕切ったのが統治王。言い換えれば、長期視点の女王と短期視点の男王による統治です。ものすごくしっくりきます。加えて個人的な妄想ですが、祭祀王は女系継承、統治王は男系継承だったのでは? などと思っています。
大変分かり易く納得できる説明だと思います。素直に文献を読むとこうなるということが分かりました。
四国に住む者としての実感から一点だけ言わせてもらうと九州北部から船出して十日で四国に到着し、一月かけて阿波に行くなら四国の南端に舟を着けるのは合理性からも遺跡や古墳の分布からも考えにくいです。瀬戸内海を避けるのであれば絶対に愛媛県八幡浜市に舟を着けます。この八幡浜市という所、隣の西予市との境目に笠置峠古墳という初期型の前方後円墳が山の上に存在しますし、八幡浜市にある総鎮守八幡神社は式内社でも式外社でもありませんが、御由緒に「宇佐神宮はウチから勧進した」みたいに書いてあって真正面から喧嘩を売ってるスタイルなので因縁が深そうなんですよね。
三世紀頃の話しなので今の地形とかなり違う可能性ありますよね。
@@クーちゃん-m8r 今よりもなだらかってことはありえないから、四国横断って今よりも大変だろうし本当なら八幡浜じゃなくて松山がいいなと思うわぁ
八幡の浜って 名前から普通じゃない
@@hjnmylove 八幡ってつく地名は全国にいくつかあるけど、徳島には八幡様そのものの「応神」っていう只事じゃない地名があるで
邪馬台国はヤマト国と発音して、現在の奈良県では指しています。
魏志倭人伝の時代には崇神天皇を中心として、政治及び祭祀が行われていました。
以後、歴代天皇がいらっしゃりです京都に遷都されるまでの間、大和政権が続きました。
凄い‼️
あっぱれでした👍
崇神天皇(ミマキイリヒコ)はという意味ですかね
正確には美馬地方に基盤のあったイリ、丹の皇子ですね、私的には。
イリとは丹生を指すと考えると、三世紀から四世紀の話はかなりわかり易いですよ。
今真実の日本史、世界史を研究している方が多くいらっしゃいますね。その方達で議論討論が出来る場があると良いと思いますね。勝ち負けではなくて。議論が深まるし、真実に近づくかも!?🥺
「会稽東治の東」と「楽浪郡の東南」の交点(神山)が、卑弥呼が居たところであり、邪馬台国の中心である。これ以上の証明は無いでしょ。
アンヤチャンネルさん全部見てます
そこではも同じような計算ですね
よく考えられてるなと思います
結局、阿波
とくに四国の全体です神の国
神戸は神への扉
阿波に続く淡路島から阿波は神の国の玄関口
そのせいかそれより西側たまに取り上げられますが、みんな不思議なほど触れないので明らかになんか隠してるよねと思わされます
そりゃそうですよね
八咫烏の本拠地、カモ氏の本拠地
陰陽道の本拠地、秦氏の本拠地
天皇家のルーツ。都市伝説ですが
会稽東治が「下相城跡」現在の「項王故里」であることは、10年以上前に徳島説の研究者が発表しています。現在発売中の「女王卑弥呼は阿波女」のなかにも、詳しく説明されていますので、購読をお勧めします😅
面白く拝見しました!倭国大乱の形跡は阿波にありますか?鉄器武器や砦跡等。
これは説得力が凄い!!!
会稽の話しは痺れました!
面白いです。
帯方郡からの直線距離の測定ができたかどうかについて考えていました。
南北方向の位置関係は棒の日影長で分かりますが、東西方向はどう測定するかです。
釜山までは見通せないので、例えば、近くの剣山に登り、石鎚山、英彦山とつなぐことで、方向角度を測定
できたかもしれません。天文観測で測定する方法はあるのでしょうか。
また、剣山から平壌までの距離は、12000里(900km)に対し70kmほど遠いように見えます。
帯方郡の位置が平壌の南60kmの沙里院で、剣山までとすれば915kmとなり、その差15kmとかなり近づきます。
ただ、里の距離換算値、帯方郡の位置など、かなり誤差要素が大きいので、確定できないですね。
会稽東治の話は、魅力的ですが、どうなんでしょうね。ただ会稽郡の日影長のデータは持っていたのでしょうね。
そういや香川県の東の方、徳島寄りのところに富田茶臼山古墳っていう大きな古墳があるけど、もしかしたら卑弥呼の親戚くらいが埋葬されてるのかもしれないなあと思うと熱い。
高地性集落が倭国大乱によるものとすれば、瀬戸内海から大阪湾にかけて多いのは納得できますね。
阿波の地もその影響は避けられなかったことは大いに考えられます。
日本海側でも鳥取の妻木晩田(むきばんだ)遺跡は弥生時代遺跡としては最大規模の高地性集落でしたが、殺傷痕のある人骨も発掘されていて、ちょうどこの時期に突然滅んでいます。
出雲系とはちょっと違う文化だったようですが、何か伝承などは残っていないでしょうかね?
妻木晩田遺跡は知らなかったんですが青谷上池寺遺跡同様に殺傷人骨が出てますが青谷ーの方と同じ2c後半、弥生集落として最盛期の時のものでしょうか?その後も古墳時代の集落として続いたようですが⋯年表がなくて困ります。鉄製道具が流通するようになっても長らく平和的に利用してきた本州弥生人が何故武装化するようになったのか、戦死者が出たのか、せっかく作った農地を捨てるケースが何故あるのか?私は半島から2c後半に武装勢力が侵入して集落を襲うようになったのではないかと考えます。既に北九州には半島からそうした幾つかの勢力が来ていたのが本州も同様の状況になったのではないか?纒向遺跡を考えるとそう時間も手間もかからず征服が終わり機内政権の土台ができたのだと思います。集落の放棄は古墳を作らせる為ではないでしょうか?私は卑弥呼公孫度宗女説を採るので半島に存在した倭国の遠征軍が中心となり畿内政権を作ったように思います。北九州を中心としたエリアは間接的にしか支配できない事情があったので、支配しやすい方を攻めたという事だと思うのです。
越智正昭氏の動画の説明も、気候・地殻・穀物・ゲノムの全てが四国につながります。
とても良い考察ですね。
私も阿波だと思います。
これからも為になる考察お待ちしております。
タイトルが気になったので、最後まで観させていただきました。
良くここまで研究されましたね。
1動画で終わらせる内容では無い、とおもいました。
書籍にすべき内容だと思います。
卑弥呼の使者の口述がすべて正確に伝わったとは思えません。多少の違いは発生していると思います。
昔からの地名は変えて欲しくないですね。必ず深い意味がありました。危険を知らせる地名もありました。阿久津、龍舞、蛇川、荒川など。
今から60数年前(10才くらい)自転車で隣県の祖母の家に向かった際、のどが渇いて日向ぼっこしていた老婆に水をもらいました。その時、その老婆に聞かれたのが、「国は何処かね?」でした。意味が分からず、ポカンとしていたら、「どこから来たの?」と言われ納得した経験があります。
つまり、江戸時代もしくはその影響を受けていた人たちは、国=藩=郷=ふるさと、すべて同じ解釈だと思いました。
阿波説が一番合致してるかなと思ってましたが改めてそう思えるようになりました
長編お疲れさまでした!
いつもながら素晴らしい資料の読み込みと柔軟な考察楽しませていただきました!
信政さんの動画を見るたびに、自分自身が古代の人々のネットワークを過小評価しているなぁと
気づかせてもらえるというか、思い至らせてもらえるというか
現代日本人よりもある意味ではるかに国際的(そういう概念すらなかったかも)だったのかもしれませんね。
またワクワクする古代史のお話をお待ちしております!!ありがとうございました!
数学の証明問題を解くような😊(笑)丁寧な考察で楽しく見させていただきました。👏
夏候氏は夏の禹王の子孫なんですね。
羌族と同様、古代エジプトとも繋がってきそうです。🇪🇬
会稽も禹が亡くなった地とされており夏候氏と関係ありますよね。🦎
三国志演義のダークな曹操のイメージが、NHKの特集の曹操の墓の発掘の様子を見てから、魏王だった彼のイメージが変わったので興味深いです。続報待ってます♪
伊達も伊が付きますよね。✨
一寸千里法の必殺技の紹介、南北2箇所間の距離を一人で測った、しかも当日対向。
洛陽では毎日、80寸棒の影長の変化量がわかるので、夏至日相当に修正できます。
夏のある日、沙里院で日陰長を測ると、自然と洛陽との距離が測れます。
何日かして、同じ側手が女王国の日陰長を測ると、当日の洛陽のとの距離が測れる。
洛陽を中心に二つの距離を合計する、しかも雨天回避も可能ある。
以上の 方法で一人で2箇所の測量が可能となるのです。
なお、一寸千里法は影長の「寸」読みを「里」に、置換えるだけなので、インチキ距離です。でも有効な手段でした。
最高の動画内容でした
良く調べられていて説得力のある素晴らしい考察
自分は長い間邪馬台国は北九州説を推していましたが
近年は話題になってきていた阿波説に注目して考察していました
ヤハリ阿波説は有力ですね
改めて自分でも引き続き邪馬台国があった場所について考察を続けていきたいと思います
長編での動画作成大変だったと思いますがホントに楽しく視聴させていただきました
感謝の気持ちしかないです
ありがとうございました
動画配信ありがとうございます。1里が77m程であることから、一寸千里法を使ったのは確かでしょう。77mのメジャーとしてのロープが欲しいところですが、ロープを使わない方法がありました。80寸棒に対する影長の概略シミレーション式は「80 x tan (緯度-23.44度) 」でスマホ電卓で計算できます。洛陽の緯度を34.75度とすると影長は16寸となります。
仮に緯度を1度南の33.75度とすると、影長は17.45寸となり、その陰長差は約1.45寸となり1450里を意味します。1里を77mとすると、地球の大きさより1度は約1450里なので、陰長差だけで同じ短里を示します。
一寸千里法は、2箇所の陰長差がそのまま短里となり、仰角など測る必要はないのです。一寸千里法は、南北だけ測れ、東西は全くは測れません。そこでピタゴラス三角で東西や斜めの距離を算出しますが、地面に距離が書いはないので、数字は合うものの実体の無い距離です。また、短里も長里とは異なりデタラメの距離です。それを是正するのが、㑹稽の東です。㑹稽なら長里での距離が分かっており、同じ緯度を探し当てたのが、万二千里の女王国です。
ちなみに糸島と種子島の陰長差は4寸つまり4000里。沙里院と巨済島南端の陰長差は5.6寸、つまり5600里、これに5/4倍したのが7000里です。長くなって済みません、一寸千里法はチョットした工夫で、毎日一人で、無線通信なしで距離が計れます。
伊の文字からは伊邪那岐・伊邪那美を連想しますよね
阿波や香川県など四国の東に多くの人が居たとして、飲み水の確保はどうなるのでしょう? 凄い、詳細に調べて、想像力も素晴らしい、見事な解説で感動しました。
私は徳島生まれで勝浦という姓です。現在は和歌山の勝浦や千葉の勝浦が有名ですが、元々は徳島の勝浦から転出した地名だと思っています。
力作です。
これを見させていただいたタイミングにより、字幕のみで
音声なしで見させていただきましたが十分伝わってきます。
ありがとうございます。
私は茨城派もしくはなかった派なんですが大変面白い話でした。四国説では一番説明がうまく充実した1時間でした。
卑弥呼が日ノ巫女で何代にもわたっていたということ、人から隠れていたということからすると卑弥呼は状況に応じて居を変えつまり遷都していたかもしれませんね。
ちょっと疑問に思ったのが会稽東治の東なんですが、地球が球体であることを知って平面にした地図と、もともと平面としてか考えていない当時の地理感覚の地図でどのくらいの差が生じるのだろうかということです。
ありがとうございます!
茨城も日立や那珂などの地名があるので深い関係がありそうですよね😊
その誤差については僕も気になっていまして、調べてみましたが数学得意ではないのでよくわかりませんでした😂
ただ、現代の球体か平面図かの誤差だけならある程度は出せるかもしれませんが、球体という概念がない前提での計測は当時の人にしかわからない感覚なので、そこまで踏まえるとどれくらいの誤差だったのかを正確に出すのは難しそうですよね!
@@shingekinobumasa 鹿島神宮近辺には高天原という地名もあるんですよね。こちらは日本神話ですが面白そうです。
辰砂は、常陸の国でも取れたそうな‼️
何かの文献にありました。
また日立鉱山がありますよ。
こんばんは。いつも楽しく拝見しております。
京都郡(みやこぐん )です。
ご指摘ありがとうございます🙇
阿波説そんなことあるかいから、初まった考察、寄せてくるのではなく、調べるうちに、寄ってきた、説得力ありますね。
本題とは直接関係ありませんが、昔の地名には何らかの意味がありますね。近年それらが住所表記の変更で失われていってるのが残念です。私の地元でも昔の町名は全て無くなりました。
平成の大合併でもかなり失われてしまいましたね🥹
北硫黄島に古墳あったような。素晴らしい考察ですね
目からウロコですが、
この説が1番しっくり腑に落ちます。
吉野ケ里遺跡の存在とルートの考察納得ですね。👍
いつも楽しく観ております😊
邪󠄂馬臺國論初心者の私にもとても分かりやすく理解納得出来る内容でした。素晴らしいです👍
普通に考えると邪馬台国は九州だからね!
その理由は大伴氏・中臣氏・物部氏などの大和朝廷の中核を形成した豪族の発祥地が九州だからね!
邪馬台国は九州に元からあって対立してる関西と戦争して滅ぼして関西で大和朝廷を作ったって言うのが自然
メルカトル図法でもズレがあります日本から東に行くと地図ではアメリカですが実際はチリに着きます。
当時メルカトル図法は無かったのでどんな地図を中華で使っていたかですよね
私は現代の地図上での整合性にはあまり拘らなくてもいいかなと思います。😊
もう一つ、気になるのは?
単里ですが、短里のことだと思いますが
それから、いろんな文献と合わせて見る場合に、その文献と比較する理由の説明も欲しいですね。
御願いばかりですみません🙏
福岡•佐賀•筑後川水系•有明海沿岸の甕棺墓勢力とは何なのか?とても気になります!
松野連系図の話に当てはまるのか?
徐福との関係か?
自分なりに色々調べて考えてみます!
すごく面白くてわかりやすい動画をありがとうございました!
気づきがいっぱいでした😊
ちゃんと考えないとですね。様々な資料と視点で見えてくるものこそ真実に近いと思います。日本って本当に面白いですね🤗
この考察は素晴らしい!なんの忖度もなしに突き詰めた結果が阿波だった。納得してしまう。
29:53あたり
✕ きょうとぐんみやこちょう
○ みやこぐんみやこまち
ここらは豊前国府があったことから「みやこ」郡となったようです。(「京都」はただの当て字かな?)
また、みやこ町の豊津の辺りは、古くは秦氏の拠点の一つだったとも言われているところです。
ご指摘ありがとうございます💦🙏
秦氏の豊国ですね!
そこも要注目だと思っています😊
豊津から築上町の山側には秦という苗字や進という苗字が多く、秦から進に変わったという話を豊津出身の友人に聞いた事がありますね。
徳島の忌部神社の近くに神武天皇の銅像があります。乃木将軍が日露戦争の戦勝祈願の許可をもらい建立したとされてます。
当時明治天皇陛下を神格化してた明治政府が何故黙ってるのかな?不思議ですねー。そして今もひっそりと神武天皇の銅像が残ってる。誕生の地でない限り抹殺される筈の銅像がどうしてあるでしょう?誰か無視せず疑問に答えてください。よろしくお願いします。
項羽が秦を滅ぼしたあと、都は咸陽に定めるようにと言われたときに、
「富貴を得て、故郷に帰らないのは錦を着て、夜出歩くことと同じである。」
と言ってそれを却下して、都は彭城に定めた。
あれ?項羽は呉とか会稽とか江南の人だと思っていたのに、なんで彭城??
…と、ずっと疑問だったのですが、まさかの邪馬台国の話から疑問が解消しました!
(会稽の)下相と彭城ってすぐ隣じゃないですか!
これは故郷に錦だ!
昭和末から平成初の頃は、下相の具体的場所についての言及は見たことなかったので、ずっとモヤモヤしてました。
あと、会稽東治の東については、地図云々よりも、一年の同じ日に、太陽が南中したときに棒をたてたら影の長さが同じだった。
→会稽東治と同じ影の長さだから、南北の位置関係も等しく、邪馬台国はそこから真東にあるんだろうな
…と判断されたという把握でいいのかな?
(実際に棒立てて図ったという記載は見たことないので、想像です)
改めて素晴らしい動画内容でした
良く調べられていてホントに感心させられました
因みに僕は九州説推しです
だからといって近畿、阿波、沖縄、関東などの説を否定したいとは思わないし逆に違う意見の方の多角的な考えを知った時に「そうゆう考えや根拠があるのかぁ、なるほどなぁ」と邪馬臺国の比定地について今後考察する上での知識がまた増えたなぁと嬉しい気持ちになります
多分に憶測が混じりますし素人考えでお恥ずかしいですがあくまでも現段階での自分の考えです
九州の山門郡近辺が有力
狗奴国=熊襲の支配領域でキクチヒコが治めていた国
狗奴国は熊本の菊池市近辺から南エリア(狗奴国の大きさは不明)
ざっくりですが菊池市近辺から北側は女王連合国、南側は狗奴国の支配領域だったと思う
魏の使者は投馬国、邪馬臺国、狗奴国には来訪していない(北部九州の国々には来訪したと思う)
邪馬臺国=女王連合国の首都で卑弥呼の住んでいた場所
首都の場所を特定されたくないから魏の使者が邪馬臺国に直接来訪するのを拒んだ
その上で投馬国5万戸、邪馬臺国7万戸と人口、国力の巨大さを誇張して嘘の情報を魏の使者には伝えた
邪馬臺国、投馬国だけはリスク管理を徹底して方角、到着までの必要日数なども嘘の情報を魏の使者には伝えたのかもしれない
魏の使者と卑弥呼は会ってはいるが会った場所は邪馬臺国ではない女王連合国のいずれかの国(伊都国or奴国あたりかな)
邪馬臺国、投馬国は実際にあった国だと思うしかなり大きな国だったと思うけど5万、7万戸まで巨大な人口、国力のある国ではなかった
その他の国の記述は例えば東に陸行〜里と明確なのに対して
投馬国、邪馬臺国への道程記述は水行、陸行〜日、月と距離が急にわかりづらくあいまいな表現に変化した事に僕は違和感を感じているのでこのように考えるようになりました
あくまで現時点での個人的な考察なので根拠は?とかツッコまれても根拠はナイです
ド素人の考察長文失礼しました
これからも応援しています
素晴らしいですね。よく考えられていますね。九州説や大和説では先に進めないのですから阿波説を中心に考えて補備修正していけばよいと思います。
お疲れ様です。
何度かに分けて見ていましたのでいまさっき見終わりました。倭と大倭、大和を全部やまとと呼んでいるのが
なんでなんだと疑問に思ったことがありましたがすっきりします。
神武天皇像をわざわざ明治天皇が建てるのだってなんでなんだろうと思うとやはりすっきりします。
ヤマトが旧来日本語でいわゆる首都(=当時はそういう概念はない、できていなかったにしても)のような政治の中心地の
言葉だったのでしょうね。大きくなった倭。→大倭、大和。自然ですね。。。
当時の中国で水とは川を表し、行とは人の歩様を意味する
なので水行とは川沿を行くの意味
史記本記に帝舜が陸行するのに車に乗り、沼地を行くのにソリに乗り、水行するに船に乗ると書かれていて、要するに帝舜は歩かずに乗り物で急いで移動したとあり、行とは本来は歩きなのだ
で、倭人条を読むと海を渡る表記では「渡る」と書かれてるし、船で行く時は「舟行」とちゃんと書かれている
女王国に至る邪馬台国への北の旅程で船に乗るとも海を渡るとも書かれて無い以上、九州島から出る事は無い
「至る」と「到る」を使い分ける程漢字にこだわってるのに、海へ出たのならそのように書かれる筈
@@ラッキー純-h2x さん
船に乗るなら何も海岸線にこだわる必要はありません
むしろ座礁の恐れがあるし、非効率です
「循海岸」だからこれは海岸線に沿って歩いたと解釈すべきでしょう
古代なので中国に限らず街道が整備されてないでしょうから、川沿いや海岸線などを歩くケースが水行です
漢字は中原で発達した物ですから水と言えば川になり水行という言葉を海岸線でも使ったのでしょう
@@ラッキー純-h2x さん
史書、漢書を読んでも水行と舟行はちゃんと使い分けられてて、川を船で行った場合には川を船で行ったと注釈が入るほどなのに
水行と書かれてるのを船で行ったとなぜ解釈する人がいるのか?
そっちの方が不思議でなりません
他にも三国志の中の「女王の都」「歳已に長大」など、現代日本語で解釈してとんでもない訳し方してる人がほとんどですが
当時の資料は当時の漢字辞書の「説文解字」で一字一字確認しないと正しい解釈からは離れていってしまいます
@@ラッキー純-h2x
何も無視してません
循海岸線水行とありますから
循は「巡り歩く」「沿っていく」
水行「水辺を歩く」の意味で
郡から倭への道のりは海岸線に沿って巡り歩いて韓の地を南へ東へ歴訪すると倭の北岸にある狗邪韓国に到着する
という解釈です
至ると到るを使い分けてる事からも、陳寿が字を選んでるのがよくわかります
対馬、4方400里は一致してるのでしょうか?
凄い説得力ですね!
『レイライン3 アマテラス・サーガ』を読まれた方が良いと思います。論が完全に一致していますね。
邪馬台国は徳島の剣山が野焼きした姿が、疲れた馬のようだと言う説もまんざらでもないような気がする。また阿波の西の地域に美馬と言う地名も邪馬台国関連しているのかな?あと、高地性集落もその地域は多いようで、いまだに山焼きがあるのもなごりかな。いずれにせよ邪馬台国は1ヵ所ではなく移動していったのではないかと思う。
九州から四国に渡る時に対馬や壱岐に渡った時と同じような記述がないのが気になります。
うーん阿波でもいいんですけど、どうしても「南に水行十日」が南には思えないんですよねえ。
そうなんですよね😊
動画内でも説明したように阿波でも上手く説明出来ない部分はどうしても出て来ちゃいますね😅
逆に阿波じゃないと説明がつかない記述もあるのでその辺りをどう解釈して行くか、という部分ではありますね!
本当に本当に面白く、為に成りました。ありがとうございます。
ところで、笠井新也(徳島の人です)の出雲ー敦賀ー大和ルートはご存知ですか?
それから、封の字は、ここでは、「ふう」ではなく「ほう」と読んで下さい。
いつも丁寧な考察、ありがとうございます😊
私も色々と調べて来て概ね近い考えでおりますので、それをしっかり映像化して頂いてるので、とても助かっております🙇♂️
倭は500年代まではイと当時の日本では読んでいたようで、ヤマトと読む様になった年代が何かの時代の変化だった可能性はありますね🤔
そしてとても残念なのは、アンチや反対意見の方々は大体上から目線なところです😢
友達でもなくて顔も見えない相手に、何故断定的で高圧的になれるのか…
残念です😢
お互い、その時代にタイムスリップして経験して来てないし、原本は失われ、改竄や誤りがある中なので、学説含め全てが考察の域を超える事は無いという中では、どれも差はないのに…
もし現存の書物を読み解くなら一番合致しているのが阿波説である、というだけで、お互い過激な言い合いではなく、建設的な議論をした方が有益だと思うんですよね🤔
どちらもタカ派が目立つのは世の常ですが😂
長々と失礼しました🙇♂️
これからも楽しみにしておりますので、頑張って下さい‼️
ありがとうございます😆
歴史好きはアツい方が多いので仕方ない部分はあると思いながらやっていますが、そう言って頂けるとめちゃくちゃ励みになります🥹
阿波説にも同じように高圧的な感じの方も中にはいらっしゃるので、イタチごっこみたいに批判し合うような状況にならないように建設的に議論が進む事を願うばかりです!
倭のイがどのタイミングでヤマトになったのかはご指摘の通り重要になって来そうですよね😊
@@shingekinobumasa
人は知識に溺れやすく排他的になりやすいですから反面教師と捉えますが、それでも紳士的に対応されていて凄いなと思います❗️
ヤマトへ変わったのはうろ覚えですが、540年代だったような氣がするので、仏教文化人を大量に受け入れた時期の、ペルシャ系の人々が多く入って来た時代だったかと…🤔
自分もまだまだ調べられてないのですが😅
私は愛知県民なので、隣の県から応援しております☺️✨
水行とは海岸等水辺を歩くと言う意味だった様な動画を見た
徳島の阿南市の東に伊島ってありますから伊国の島とも解釈できますね。
ネフライト、クリソプレーズ、勝浦町上神町の勝浦川、那賀郡那賀町西方の那賀川。ネフライト、眉山近くの長谷で鉱石があるらしい?
距離の話とは別に、会稽東治の東の項に、少し前の魏略逸文では太伯の末裔と自称するという文があったが魏志倭人伝ではそれが何かの意味があって削除されていますが、それは広義の倭人の国が昔そこにあってその東が邪馬台国だということで、暗にその倭人、太伯の末裔が海を渡って立てた国かも、と匂わせてはいるのかなと思います
面白いです。その国に丹ありのところで、阿波をあげておられますが、九州大分県も辰砂の産地として有名です。豊後高田の丹生村、別府、臼杵等々。北九州市城野遺跡からは、ふんだんに辰砂の塗られた1800年前の石棺が発掘されています。
天然の貝から採れる真珠は非常に、貴重で5000個も集められるとは思えない、真朱、白珠とは、水銀鉛のことかも?天然パールは、今でもなかなか採れない
九州でない理由は、いったん九州に上がったのにまた海の方に行く理由がない。
阿波説、なるほど。国産みで何故日本が最初に淡路島から作られたか不思議だった。
忌部が開拓した地に共通する伊の字に注目する考察、私も同じことをかんがえていました。因みに共に阿波忌部と仲の良く無い中臣氏の子孫である全国5位の伊藤姓、徳島では、全都道府県で沖縄に次いで少ない県だそうです。伊勢が伊の国の伊なら、伊藤の伊も阿波の伊なんですけどね。😂
《伊》は、帝国海軍の誇る潜水艦に、伊-15とかシリーズにしていましたね。なんでこんな普段使わない字を使うんだろう?と思ってましたが、そういうことなんですね。
今でも自衛隊の潜水艦技術は世界一だそうです。
レーダーに探索されず音もなく忍び寄り真下から船底にズドン。
怖いですね。日本の技術。
だから、シェパードを使って鯨保護の名目でオーストラリアは捕鯨禁止にした。本当は違法な潜水艦航行がバレるからだとか。かち合ったら勝てる見込みゼロだから。余談でした。
大変素晴らしい考察ですね。感服いたしました。ただアタマが硬いわけではないですが、
どうしても、
「伊都国=今の糸島市(かつてはイト国とシマ国が海500mほど分かれていた。今もシマ国側は志摩町と呼ばれている」や、
「奴国=那津と呼ばれた福岡湾」など、地名が後世まで残ることが多いわけで、それは否定しづらいのではないかと
思うのですが、いかがでしょう?
一方、曹一族と邪馬台国(ヤマトコク)は魏の建国以前から交流があったとする見解は、私も賛成です。とすれば「大分県ダンワラ遺跡」に残った
金銀象嵌の鉄鏡。あれは曹操一族との交流の痕跡と捉えられルのではないかと……。ぜひ先生のご意見をお聞きしたいところです。
神武東征も絡めて欲しい
過去の権威のある学者たちが作り出した九州説と畿内説へのバイアスをものの見事に打ち砕いていただき非常に痛快です🤣🤣🤣TH-camというプラットフォームのおかげですね。
里数で書かれている区間は 計測器を馬車なり船なりで
運ぶ手段があったからで
それ以降の日数で書かれている区間は 川底が浅いとか
歩きになって 計測器を持っての移動が困難だったのでは
強く支持します‼️
不弥国から女王国までが不自然だと思います。末盧国から不弥国まで各駅停車みたいに記述されているのに、飛行機でひとっとびみたいな記述は納得できません。女王国はやはり不弥国周辺の北部九州にあるのが自然だと思います。会稽東治の東や帯方郡から12000里についても、そんなに精密な位置かどうか疑問です。12000里というのは、中学校で習った数学では、11500里から12500里くらいの距離を丸めて表現したものと教えられました。有効数字は、上位二けたくらいまでです。そう考えると、北部九州で矛盾はありません。でも、深く広い知識をもとに説明されていてとても勉強になりました。
会稽東治の東なら熊本、佐賀、大分あたりになるのが自然だと思う。
神湊という地名もあるからその辺に上陸したという考え方は妥当ですね。
興味深い考察で勉強になります。邪馬台国阿波説に興味が湧いてきました。ただ避けて通れないのが四隅突出型墳丘墓に見られる連合体です。弥生時代後期に山陰から安芸、播磨、北陸と広がりを見せた四隅突出型墳丘墓は紀元150年前後に出雲に最大の西谷墳墓が築かれており当時の中国の皇帝などを埋葬する方式、木槨木棺で埋葬施設が造られています。木槨に敷き詰められた水銀朱は後漢との交易で得たであろう後漢の水銀朱が大量に使われていることも分析結果により分かっています。時代は倭国王帥升の時代です。同時期に弥生時代最大の墳丘墓である楯築墳丘墓が吉備に築かれこちらも木槨木棺に後漢の水銀朱が使われています。出雲の西谷墳墓からは吉備の土器が大量に出土することから出雲と吉備は同盟関係であり山陰、山陽、北陸地方に連合体が形成されていたと思われますが、邪馬台国に先行したこの連合体をどう捉えるかが邪馬台国の場所の解明に繋がるのではないかと考えています。最近の考古学会では投馬(つま)国=出雲説が通説になりつつあります。
ちなみに当時の石棺墓はセカンドクラスの方を埋葬する方式だとされています。位の高い王や貴人は木棺墓です。
出雲という地名は確かに全国に何か所かありますね。ただ魏志倭人伝に出雲という地名は出ませんのでどこが出雲の発祥かは特に問題にしなくても良いかと思います。
快心の一撃。🎉🎉🎉🎉🎉
58:30あたり、
女王国より以北は、その戸数や距離をおおよそ記載出来るが、その他の国は遠くて情報もなく、詳しく知ることは出来ない。
個数や距離を書いてある国が邪馬台国(女王国)より以北と書いてあるのに、国名しか書いていない羅列を邪馬台国以北にしているところが意味わからないな。
残念ながら倭国大乱の形跡が残るのは九州しか現在は無い様な。。。
卑弥呼の時代に絹が発掘されるのも、有棺無槨に該当する埋葬法は甕棺墓くらいで、魏志倭人伝に書かれた都市の形も九州特有のものですし。
高地性集落が倭国大乱の影響と見る向きもある。
瀬戸内海から大阪湾沿岸の高台に多く発見されているので、この地域に何らかの争いがあったと思われる。
時期からするとちょうど弥生時代の寒冷化が引き金になったのかもしれない。
@@ラッキー純-h2x魏志倭人伝に書かれた丹を水銀と仮定して、日本で唯一水銀が採れるからというのを根拠にすると、魏志倭人伝に書かれた物で四国で発掘されず別の地域で発掘される物があるなら、水銀のみを根拠にできません。
また、埋葬方法が違うという事は阿波説で主張されている卑弥呼の墓は考古学と文献から否定されます。
卑弥呼の居城の特徴とと一致する遺跡は九州からしかでていません。
全行程で、帯方郡より、水行10日、陸行1ヶ月 という考えも出来ますね。
投馬国→殺馬国(薩摩国) の写し間違い、はどうですか?
もちろんそういう考え方も出来そうですね😊
投馬国は「つまこく」だと思うので、つま→さつまと言うのはめちゃくちゃあり得る話しだと思いました!!
①大月氏国までの距離
大月氏も直線距離で書いてあったのでしょうか?私の記憶では大月氏まで直線で計測すると、1里は200mほどで短里でも長里でもありません。つまり道のりでは?魏志の文脈を見て直線距離としていますが、それも周辺国を含めた位置関係を示している文脈とも捉えられるのではないでしょうか?
②伊都国の比定地
伊都国に関して日本書紀を参考にするなら、ツヌガアラヒトは穴門でイツツヒコに会っており、イツツヒコはこの国の王を名乗り、他に王はいないとと言っております。そして仲哀記にはイトテが降伏し、イトテの本国を伊都としています。正に魏志における伊都国のことではないでしょうか?
③纏向以前の考古サンプル
橿原の瀬田遺跡を見れば、前方後円墳の原型とも言える前方後円墳型の円形周溝墓跡があり、纏向以前に前方後円墳の原型が存在していたことがわかります。纏向以前に神武東征があったと言える根拠に繋がるのではないでしょうか?
やはり魏志の文献解釈だけでは、何とでも言えるように思いますので、記紀や考古サンプルも含め再考察された方がよろしいのではないでしょうか?
@@ラッキー純-h2x 難しいことを書いてあるわけではありません。誰でも調べればわかることを書いてますので興味があるなら調べてみてはいかがですか?
邪馬台国論争には様々な見解がありますし、それぞれ根拠もありますが矛盾点もあります。魏志の記述も前漢からの積み上げた内容も含まれている可能性もあり、紀元前か1〜3世紀の倭国の情報が混在しているとも考えられます。
中国史書から答えが出るのであれば、江戸時代に解決していますが、現実は考古に頼るところが増大しています。その上で墳墓、土器、鉄器、交易圏等の変遷や新しい考古サンプルも含めて文献との一致点を探り議論するべきものだと考えます。
@@ラッキー純-h2x 幼稚な議論になぜ付き合う必要があるのでしょうか?
@@ラッキー純-h2x ①多くの学者がこれに関して考察しています。主な見解として西トルキスタンですのでご自身で距離を測ってください。
②魏志が誤写も誤認識もなく正しく描かれているとも限りません。對馬、末盧に関しては方角すら記述されていません。そのため、現代の地名と照合し適切であると思われる場所が多くの学者によって比定されています。少なくとも8世紀の日本人は、伊都県が糸島にあったと認識していますし現代でもその地名が継承されています。
③纏向は3世紀、古墳の定義から3世紀、瀬田遺跡は2世紀。そこから神武東征が2世紀以前にあったとも考えられます。詳しくは円形周溝墓、方形周溝墓に関する論文を読んでください。
@@AKIHIKO-uz7wf ここでの論点は直線か道のりかだと思います。
現代の道路標識を見ても○○まで○kmとありますが、これも道のりで言う距離で示されています。道のりで距離がわからないと所要時間もわかりませんからね。
また三国志の中でも道のりで対象の距離を示しているものが多く見受けられます。
一方で大きさを表す場合は、方角や東西と行ったように直線距離で表すことが多いかと思います。
調査した役人よってそれらの行政の概念が異なるとはとても考えにくいので、対象までの距離の定義は道のりとされていたのではないでしょうか?
@@AKIHIKO-uz7wf ご存知の通り、一寸千里法において洛陽付近での1寸の影は76〜77mに相当し、短里の基本概念となります。
役人がどの立場であろうと東夷伝は一寸千里法の基本概念に統一していたのはないでしょうか?
おぉ、やるなぁ。
とくに会稽の東の話なんだけれど、下相城の話が出てくるとは思わなかった。
そう、当時はそこが「会稽」なんだよね。項羽と始皇帝の話はおそらくここ。
漢書:卷三十二·志第二十二·郡國四
41 會稽郡秦置。本治吳,立郡吳,乃移山陰。雒陽東三千八百里。十四城,戶十二萬三千九十,口四十八萬一千一百九十六
これを見ればわかるけれど、漢書の郡国4には、「会稽郡は秦が置く。洛陽の東3800里」と書いてある。
三国志を読んでて、洛陽の東3800里に会稽の記述があるのは変だな?と思ってたけれど、豫洲あたりに会稽があればおかしくはないんだよね。
だがしかし、会稽の東となると「メルカトル図法」では不正確だわな 53:00、地球は丸いので「正方位地図」で見るべきかなぁと。
阿波は外れるけれど、誤差の範囲内かなぁ。(正方位だと宮崎あたりだなぁ。メルカトル図法では長距離の方角はかなり違ってくるよ。)
良く出来てる動画だと思います。面白かったです。
@@ラッキー純-h2x 様
またお前か。このコメントでその質問だと? これで理解出来ないなら黙ってて。
正方位地図で洛陽を真ん中にすればわかるだろう。経度が同じだからと言って、方角が東にはならないからね。
メルカトルと正方位地図のご指摘ありがとうございます😊
僕もどうやって編集しようか色々と悩みましたが、色んな地図をごちゃ混ぜに出してしまうと逆にややこしくなってしまうかなと思って今回は誤差があると注釈だけ付けさせてもらって1つの地図で説明してみました🙇
どちらにしてもおっしゃる通り誤差で治まる範囲内かなと思っています😊
@@shingekinobumasa 様
わざわざありがとうございます。
とくに問題はないのですが、知っておいたほうがよろしいかと思ったのでコメント差し上げました。
なお、漢書に書いてある「会稽」の場所は洛陽の東3800里ってのは不思議ですよね。
洛陽→会稽→倭が一直線となるからね。
ありがとうございます😊
洛陽の東3800里の記述はほんと不思議です。
これも単里で計算すれば豫州の辺りでピッタリなんですが、漢書の話しなので果たして単里だったのか?でも通常の里数だととんでもない距離になってしまうんですよね…
古代の中華で通常の里数と単里が使い分けられていたような痕跡が見つかればもう少し上手く説明出来るとは思うんですが、要検討ですね!
この頃の中国は地球平面説ですよ。夏至の南中時に同じ長さの棒の影の長さを測定すると、下相城と阿波の影の長さが同じだったから、阿波が下相城の真東だと分かったのです。いいかえると、下相城と阿波が同一緯度上にあると魏志倭人伝には記載されており、メルカトル図法で考えるのが正解です。
勉強になります。小生が少し気になるのは行程で四国の尾根伝いのところです。すこし、厳しいのではないでしょうか?中央構造線上の別府ー八幡浜ー松山なども検討してくれると嬉しいな 工学博士 お笑い芸人 遼子規キンジロウ
確かに尾根伝いは少し極端かもしれませんね😊
こちらのブログでは国道439号線を根拠に挙げられていて、尾根伝いよりもリアルな行程かもしれないですね!
www.halex.co.jp/blog/ochi/20170904-12616.html
霊視される人は卑弥呼の霊視して下さい。邪馬台国も分かるのでは?
忖度の集大成では決して見つけることは無理ですね。
後はこの仮説を基に発掘して証明するほか無さそうだね。論より証拠。
現代
でも、品川駅の案内所で、外国人が、大坂に行くには、どうしたら良いか、と尋ねれば、案内所の職員は、品川駅で、新幹線に乗り、2時間半程で着きます、と、答えるでしょう。品川駅から、新幹線に乗り、600キロ先に、大坂があるとは言わんでしょう。江戸時代にも、江戸から、お伊勢参りをするのに、片道2週間かかったとの記録も有りますよ。別に、倭国内の日数表記は、帯方郡からの、一連の行程の中で、倭国内の旅行程表記を日数や時間で表したところで、何も、不思議な疑問や、謎など考える必要も無いと、考えています。
アワトサ、サヌキエヒメ
まだ、阿波までしか踏み込んではいけないのでしょうか
カタカムナにも出て来ますし
カモ氏の土佐神社、賀茂大御神ことアヂスキタカヒコネ
大御神という称号は天照以外は他になく
アヂスキタカヒコネは天照大御神と同格
天照大御神は後で作られたとされてる都市伝説
本当はカモ氏で秦氏の秦の始皇帝こと応神天皇は素戔嗚
が天皇の系譜という都市伝説
th-cam.com/video/63bNv7RmHHc/w-d-xo.htmlsi=nvbqems6eyw7OCnz
7年前の動画です。
「イの国」に対して当てた漢字が「倭国」「倭の国」(いのくに)なのでは?
周時代の地図を見るかぎり
日本は遼東半島よりも小さく
九州が北、東北が南を向いている
そういう認識で書いていると
思うべき。
周の時代の地図ってどれの事でしょうか?
知る限り周代に地図が書かれていた記憶はないのですが😅
アカホヤの噴火が出てきましたが卑弥呼は日巫女ではなく火巫女とは考えられませんか?縄文時代に噴火の影響で壊滅的な打撃を受けている九州ですからそれから何千年経っていたとしても鬼界カルデラや阿蘇山という火山を怖れていると思います。ただ弥生時代に倭で太陽や火を『ヒ』と話していたのか私にはわかりませんが。
ありがとうございます😊
火巫女は十分考えられると思います!
と言うかむしろ日と火は同じ解釈と見ても良いかもしれませんね😊
言霊もまだ全然詳しくないのであまり下手なことは言えませんが、どちらも「ひ」なので対応している可能性はあると思います!
@ 返信ありがとうございます。私は佐賀市大和町にある七ヶ瀬遺跡から三種の神器が見つかったのを重く見て近くにある與止日女神社の下に台与のお墓があるのではと考え(吉野ヶ里遺跡の日吉神社下に石棺墓があった事から)そこから邪馬台国を考察しようかなと思っています。他の方がどのように考察されているのか動画を見るのがとても楽しいです。
日(ル)、火(ホウ)
日はヒとは遠い読み方なんですね。ありがとうございます。
「水行」などど読んでるのは日本人だけです。今も昔も中華圏では「水」と「行」です。水辺を移動したということですね。
四国あるいは本州に渡ったのなら対馬壱岐のように「渡海」と書くはずです。また、瀬戸内海を移動するのに何処にも寄らずに十日も航海するのは無理があり、どこかの湊へ寄ったことや周りの島々の景色の記述があるでしょう。なので魏使は九州から出ていません。阿波だと女王国の南に女王国に属さない国がある記述にも合致しませんね。結論ありきの考察は止めた方が良いと思いますよ@四国民
確かに水行に関してはそういった考え方もありますよね😊
なので僕も動画内でここに関しては説明が難しいと正直にお話ししたつもりです。
ただ結局のところ何故不彌国以降が里数が書かれなくなったのか、確実な説明が出来ない限りこの水行と陸行の記述から場所を探すのは困難だと思うんです😌
だからこそ今回は会稽東治などハッキリと記載されている部分を考えて導き出してみました。
ちなみに僕も10日間そのままずっと海を渡っていたとは考えていません!
でも行橋から四国南西部までの移動だと国東半島をぐるっと回りながら陸地に沿ってこまめに休憩しながらの航海が可能になると思いました。
高島から佐田岬までも8キロほどしかないので目視で向う岸が見える距離感ですし、そうやってこまめに休憩しながら陸地に沿っての水行10日だったのではないかという一つの考え方ですね😊
ご指摘の女王に属していない狗奴国については女王国の南ではなくて奴国の南になると思います。
そして女王国から東に千里海を渡った場所になります。
そこも動画内で詳しく説明させて貰っていますので、良かったら是非最後までご覧になってみて下さい😊
魏使は北九州から出ていないという結論ありきのコメントですね。
同じ四国民として同じ意見です。
@@a6m2bzero21zeke 北九州以上の発掘調査の結果が出ればね。
👏👏👏👏👏👏💓
倭国の女王じゃなくて実は四国の女王だったという事か
皆が探している 百人と卑弥呼が眠る墓はどれなのか 前方後円墳なりかけの墓なのか? よくわからなかった
では、
阿波から都が移った
ということがどこに
記述されているのでしょうか?
都が移るということは、
国家事業です、でも
その重要な事の証拠はどこにあるのでしょうか?
邪馬台国など、どこでもかまいませんが
阿波から遷都した証拠は
どうしても知りたい!・・・
いざという時に援軍頼む相手の居場所を、直線距離で記録するのかなぁ‥