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大体、孫堅のおかげで終わってしまう対董卓戦
これだけ凄い実績ある徐栄よりも華雄の方が知名度あるって三国志演義の影響って凄いですね(というか納得いかない)
でも蒼天航路にはちゃんと出てきてた。まぁ、退場の仕方がアレだったけど(
確か呂布に頭握り潰されてた様な、、、
政治家としてもすごい実績があって、転勤したら民から戻ってきてほしいと嘆願されて戻ってきた人だし幽州人だからトウタクの死後周りに敵勢力しかいなくなってしまったとか涼州人であったならトウタクの残党が多数味方になるはずなので大きく名を残していた可能性もあるとか中々惜しい人財だったようで
三国志大戦では武力9知力1で大活躍の華雄さんまさかこんな序盤で死んでしまうとは😢
虎牢関・・・呂布・・・うっ頭が。(三国無双)
華雄さん大出世
「公孫瓚は董卓討伐に参加していない」「だから劉備、関羽、張飛も参加していない」「華雄は孫堅が討った」三国志演義さんさぁ、原作改変しすぎだろぉ?
まぁ、結果面白くなってるから、ね?(笑)
たぶん『三国志演義』の改変というより、先行する『三国志平話(※)』をできるだけ(これでも笑)史実に寄せたという話かと(^_^;)
このチャンネルでも取り上げられてた陳泰なんて鄧艾と全く立場逆にされて手柄取られてますからそれに比べれば可愛いものだな!
でも三国志演義なかったら、ここまで三国志人気出なかっただろうしなぁ…
こういう細かいクソ野郎がいるから楽しんで見られなくなるんだよなそういう指摘の仕方じゃなくて言葉を選んで指摘しろよお前十年後とかに会社の上司の立場になったときに下からめちゃめちゃ嫌われるやつになるぞいや、そもそもこんなやつが上司になれねーわな!
三国志を知った当初は、洛陽からの遷都を横暴な所業程度に思ってたけど補給や意思決定に難がある連合軍に焦土作戦を仕掛けるという、理にかなった戦略の一端だったわけだ。それでも自分が統治しない、切り捨てる覚悟がないと出来るものではない…。
董卓が魔王…まぁ確かにやってることはそれっぽいですね…漢も無くなっちゃったし…
蒼天航路の董卓が上洛してきて、張譲を筆頭とする宦官勢力にえげちい刑罰言い渡すシーンすこ
張繍でしたっけ?張譲では・・・張繍はたしかエロエロ鄒氏を匿ってた気がする賈詡が配下の人では
@@にゃんころ大先生-g1h 張繍と張譲名前逆で覚えてました指摘ありがとうございます訂正しときます
こう、地図でみるとわかりやすいですね。
ここのコメント欄見てるだけで楽しい皆さん凄い
コメント欄を見て、投稿主が勉強させてもらってるという(笑)
小説などでは、曹操は「寡兵にも関わらず董卓軍と戦った忠義の勇将」という名声欲しさに独断で進軍したというのもあったりして、いやいや曹操はそこまで性格悪くないよ、とも思うけど、いや、曹操ならやりかねないなー、とも思ったり。とりあえず子廉、ありがとう。
名声欲しさに命を捨てるなら、それもまた本物の「覚悟」なのかも。
曹操って結構熱血イケイケでよく死にかけてますから計算では無いでしょうね…小説なら計算ずくの姦雄っぽいキャラの方が面白いでしょうけど(故人の乾燥です)
@@aaa-zh4wtミイラ?ご冥福をお祈りいたします
連合軍に名前が無い公孫瓚や陶謙・劉表がちょうど連合軍の側面や背後に位置しているのが何とも・・。これも連合軍の動きが重い原因の一つでしょうね。
陶謙、劉表たちはもしかしたら朱儁を総帥に立てるべつの勢力としての方向かしらね
韓馥は董卓と通じてた疑惑があるので、そう考えるとまだ公孫瓚は連合軍サイドと見ることは出来るかも🤔
【陶謙の諸侯連合計画賛同者一覧】徐州刺史 陶謙揚州刺史 周乾(前任)沛相 袁忠北海相 孔融東海相 劉馗彭城相 汲廉琅邪相 陰徳泰山太守 応劭汝南太守 徐璆九江太守 服虔(前任)鄭玄これが成立してたら徐、青、兗、豫、揚の5州跨いでの連合になります。ここで賈詡と周忠(周瑜の従父)が連合瓦解に動き、献帝の名を持って朱儁を長安に留めます。同じころ陶謙は元部下の王朗に説かれて計画が流れました。これにより陶謙は安東将軍・徐州牧になりました。まぁそんなわけで見えないところで賈詡が戦乱の火種を消してるんですよね。別件ではあるが、注目は応劭が陶謙に同調してる点です。後に曹嵩の件に関与してると疑われても仕方ないよな。
劉虞と袁紹は西園八校尉の時辺りから仲間。それは後漢書の蓋勲伝で見ることができます。その劉虞と内輪揉めとなってるのが公孫瓚。公孫瓚を一勢力として見るか劉虞麾下として見るかで見方が変わると思う。あと韓馥は袁氏の故吏だし、劉虞を袁紹と一緒に担いだのも韓馥だから董卓の内通は無いかな。袁紹の仲間の伍瓊が董卓側に付いて色々と太守に据えさせました。その時のメンバーがこれ。韓馥・劉岱・孔伷・張咨・張邈など↑張咨は南陽太守となり孫堅に殺られますが、残りは反董卓連合軍になります。この内応を仕掛けたのが伍瓊です。韓馥はやはり袁紹派だと思いますよ。
袁氏の故吏がゆえに、内通もあり得るのかなぁと自分は思ってました。というのも当時の袁氏の当主って、袁紹じゃなくて袁隗および袁基で、その本流は董卓を支持している立場。袁紹と袁術は袁氏の異端と見ても良い。だから袁氏と馴染みの深い韓馥も反董卓連合時には内通の余地があり、袁氏一門がバッサリ処刑されてから、袁紹と共に歩むようになったのかなぁ、みたいな。
やっぱり史実はキャラクターじゃなくて人が行ってきたことなんだなあと改めて思いますね(´・ω・`)
喬冒「檄文送ったの俺なんだけど…」
ぶっちゃけ諸侯みんな自分の都合でやってる感あるけどそんな中でも曹操に張バクや鮑信が協力したり、一応袁術と孫家のつながりができたり、袁紹と公孫サンの争いの予兆も既にあったりしたのだねしかし董卓の隆盛と滅亡、短くて濃い、さすが王莽の再来笑
王莽はまだ一応、外戚かつ学者だけど、董卓はマジの田舎将軍だからなぁ…(笑)
それだけに権力を手にしてのはっちゃけ具合は王莽以上だったのかもと、想像しちゃう
@@KOUMEI_NO_WANADA 蒼天航路は、董卓がカッコ良すぎる。袁紹もそれなりに風格ありました。孫策から、アイテムを貰って浮かれたお🐵さんもいますがw
袁紹と曹操は連携してたんやろけど、袁術とはどのくらい連絡を取っていたんかしらね?或いは双方、別の軍と見るべき?この戦役は孫堅の武名を更に上げたけど、孫堅くんは行きがけ途中に気に入らない荊州刺史の王叡や南陽太守の張咨をころころしてて、そりゃ皆に警戒されるよなと
袁術が吸収してくれなかったら、デカめの独立賊軍になってそう(笑)
@@KOUMEI_NO_WANADA 自身が荊州牧を自称したでしょうから誰にとっても得なルートではないでしょうねそれこそ董卓から(書類上の)正式な任命を受けて董卓派軍閥(遼東公孫氏的な)として乱世を生きたかもしれません(※孫堅の政治力が未知数なので荊州も軍政で『なんとか統治できる』程度に見ていますが、蒼天航路のよう先を見通していたならあるいは…)
孫堅は袁術軍に合流するため北上する過程で同じく反董卓連合に参加予定だった荊州刺史の王叡と、兵糧の供給を拒否した南陽太守の張咨を殺害している。
孫策、殺した相手の部下に殺されました。孫権が、あのような統治をする一因かも。
強大な敵に、諸侯連合が協力して戦う!!ファンタジー戦記ものではそれで敵を撃破して世の中は平和に・・・・・・ってなりますが現実はそうはいかない、自分たちの利権や位置的な関係で一致団結が出来ないでグダグダになって解散や各個撃破されて壊滅なんてことの方が多いですね
自分だけが損をすることを嫌う。これもまた人間の心理ですな😇
秦相手にもそれで戦えば、残りの戦国七雄は汚名を着ることはなかったのでは。
意図したのか偶然かはさておき、都を焼き払って遷都という手段が結果的に連合を解体させたのだから董卓のリスクエヘッジ力は凄いと思う
経験値や戦術眼は当時最強クラスですからねぇ
今も昔も焦土作戦は鬼畜の所業…どことは言わないがあの大国も
三国志のゲームやって感じたけど、洛陽から長安の間って街道が狭くて攻める側だと戦い難い。ここらを首都にするのは理に適ってるんだな。
曹操、袁紹、淳于瓊はいずれも西園軍の「西園八校尉」の一人だ。その中で当時虎贲中郎将を務めていた袁紹は中軍校尉で、首都洛陽の内軍を直接司っており、西園軍の副統領としては蹇碩に次ぐ地位にあり、兵権掌握の経験は当時の典軍校尉を務めていた曹操よりも多かった。何進が暗殺された後、袁紹はさらに八校尉の兵権を直接併呑し、何進に代わって大将軍府の軍事を執り、宦官集団に対する絶滅令を直接下した。ただ後に西園八校尉と西園軍は最後に皇帝の人身を支配した董卓の3000人余りの西涼軍の前でほとんど抵抗せず、丁原の並州軍のように董卓に吞併された….洛陽中軍の何人かの名将(曹操、淳于琼、鮑鴻)と名士(袁紹)は、すべての軍事的才能と政治的才能を宮廷の党政と内闘に使ったと言っても過言ではなく。大漢朝廷の天子威儀の象徴として、西涼軍閥の前で極度に無能だった。皇帝の人身をコントロールしている董卓の前にはほとんど抵抗力がなかった。朝廷の重兵を手にした皇甫嵩は自分の名声を大切にしすぎて、この肝心な時に兵を出して董卓を討伐したくない,自分の「大漢忠臣」の名声を守るために、結局は京に入って兵権を奪われた。
董卓って序盤に出てくる猛者キャラってイメージ
実戦経験が皆無な人間だらけの連合軍の中でただ一人、黄巾の乱、長沙での賊退治、辺章・韓遂の反乱と董卓に迫るレベルの実戦経験を持っている孫堅。別格レベルで強いのも道理というもの。曹操も実戦経験ありとはいえこの時点では董卓や孫堅と比べると一段下がりますね。なんだかんだ言って超エリートですのであまり辺境をかけずりまわるわけにもいかないですし。あと洛陽放棄ですが、都としての実績もある上に守りも堅い長安という大都市がありそれを手中に収めていたからこそできた手でしょうね。遷都するにしても一から都と都を守るための防衛体制を作るのは相当に手間がかかりますし。
董卓は生まれる時代を間違えたよ……現代日本に生まれてれば令和の田中角栄になれただろうに
袁紹は別にこの当時董卓に敵対しておらず、袁術が孫堅と組んで敵対してきたのを怒った董卓が都に住む袁一族を皆○しにしたためにその董卓が擁立した皇帝は認めないとなったって聞いた事がある仲の国を作って自らを皇帝と称した袁術もそうだけど、皇帝を迎え入れた友人の曹操にたいしても、戦を仕掛けているあたり、二人とも皇帝よりも一族優先だったと
忠義が重要視されるのは朱子学が流行した近代の価値観ですからね。この当時の倫理観では、忠よりも孝が優先されるので、まぁ、順当な話でもあります。
太守や牧、刺史に軍を動かせる権限あったの?そも郡に軍隊がいたのか。そういった現実的な視点に言及して頂けるとより深く楽しめそうです。僕はまだ研究中なので三国志は面白く感じないのですよね。
太守と州牧にはあるけど、刺史は監査役だから特にそういう権限はなかったはず…(あやふや)
だから連合軍で一番大きい軍を持ってたのはたぶん冀州牧の韓馥で、次が幽州牧の劉虞。ただこの2人は後ろから公孫瓚、公孫度が殴ってくるので動けない。そんな中、太守の中でも黄巾の乱の影響が少なかった長沙太守の孫堅が活躍できた、という解釈も可能ですね。
漢書に『辺郡には(太守傘下に)長史を置き兵馬を掌った』とありますので公式にも郡には兵権がありました😗
郡太守って字に惑わされやすいけど、日本で言ったら中規模県(人口2~3百万)の知事です。郡国表によれば渤海群や長沙郡の人口は約100万人です。配下の県には県尉という警察部隊がいるし、郡司馬って役職もある(孫堅も呉郡司馬って役職からスタートしている)ので、兵力を動員できますね。刺史というのはただの監察官なので、施政権や軍権は付与されていません。俸禄も郡太守が二千石に対して刺史は600石。なので名前の割には高官が就くものではありません。188年になって施政権・軍事権は付与された俸禄二千石の州牧として、劉焉が益州へ、劉虞が幽州へ、黄琬が豫州へと大臣級の人物が派出されるのです(黄琬は董卓によって都に召喚されて司徒に就任しているので連合軍には参加できませんでした)。まぁ地方の反乱鎮定、治安維持のために中央の指示をいちいち待たなくて良いのです。結果的には劉焉は独立王国みたいになってしまうわけですが。
『後漢書』王允伝に黄巾賊が蜂起すると王允は豫州刺史に任命され、荀爽・孔融を従事とし黄巾の別帥を撃ち破っているので、全く兵権が無かったわけではないのでしょう。
【ネタ話を幾つか書いてみる】滎陽県の直ぐ西に成皋県がある。その河南尹成皋県に虎牢関がある。前漢では成皋関と呼ばれている。後漢になると洛陽防衛の為に洛陽八関が設けられました。その八関が函谷関・広城関・伊闕関・大谷関・轘轅関・旋門関・小平津関・孟津関なんです。で、同じ成皋県の汜水方面に造られたのが旋門関。この旋門関がいわゆる汜水関なんですよ。虎牢関と汜水関は同じ県に有ったから同一視する見方もあるが別物だと思ってよい。八関には八関都尉が設置されたのでかなりの規模の兵が詰めていたと思われる。おそらく徐栄は旋門関から出撃している。太平広記に曹洪の家業についての記述がある。「魏曹洪、武帝從弟、家盈産業、駿馬成群。」曹洪の家は馬産をしていた。いわゆる馬のブリーダーです。駿馬成群と書かれているのでかなりの馬を生産していたようである。この記事から虎豹騎は曹洪が提供していた可能性が出てきた。曹洪自身も曹操を助けた時に自分の馬を提供している。馬を腐るほど所有しているからこその振舞いだったかもしれん。
一番乗り。烏合の衆が「船頭多くして船山に上る」では上手くいくはずがない。そこに焦土作戦と来れば、後世のナポレオンのロシア遠征みたいにならなかっただけでも御の字かもしれない。そういう意味では董卓軍の勝利と言えると思う。もっとも董卓軍もまたチームワークがなっておらず、自滅からさらなる乱世に突入したのだから救いのないことだ。
董卓は「戦術的視点」だけで戦っていますからね。人心やその後の影響などを度外視しているので、まぁ、順当な結果なんだろうなぁと。
@@KOUMEI_NO_WANADA 中原の人じゃなくて騎馬民族に近いので中原の政治的ルールガン無視でやりたい放題 当然、反感が集まるわけで
@@KOUMEI_NO_WANADA 董卓、自分の思いどうりに面白おかしく生きていければいいと考えていたのでしょう。お🐵さんもですが。曹操や袁紹は、統治した所では、慕われてます。
@@KOUMEI_NO_WANADA 人心を無視したから敗北したってなんか鬼滅の童磨連想したわ
韓馥孔伷張超王匡袁遺後に三国志を彩る数多の英傑が集結したまさにドリームチームですね
(´・ω・`)ぉ、ぉぅ…
なんとなく袁遺を語ってみる。袁遺の字は伯業。『長大にして能く勤めて學ぶ者は、惟だ吾と袁伯業のみ』と曹操が大絶賛した人物である。しかし何を勉強したのかは伝わっていない。(注釈した書物や自著の書物などが在れば良いが何も記録が無い)袁遺は袁紹や袁術の従兄とされている。今日はこれを考察してみよう。彼らの祖父である袁湯には12人の子がいた。名を残しているのは袁平、袁成、袁逢、袁隗の4名のみで残り8名は不明である。袁平は長子であるが早世。(後漢書 袁安伝集解)袁成は長子(次子)であるがやはり早世。(後漢書 袁安伝)袁逢は袁湯の次子←こちらも次子です(後漢書 袁安伝)袁隗は袁湯の子。(後漢書 袁安伝)袁平と袁成は長子と次子とあるので同腹の兄弟のようだ。袁逢(こちらも次子だが)と袁隗は字からしてこちらも同腹の兄弟のようだ。袁逢→周陽袁隗→次陽こうなると袁成と袁逢は母が違う可能がある。袁平は官職すら伝わっていないので成人になる前に卒したと見るべきかな?となると正嫡は袁成となり、継承順(年齢順)として袁逢は次子とされたと見て取れる。袁遺に話を戻す。袁成の子である袁紹の『従兄』が袁遺。従兄なら袁遺の父は袁平となる。これが『従弟』であれば残りの不明の兄弟らの子となるのである。平たく言えば袁胤や袁叔(父不明の袁術の従弟)と同じ扱いとなる。しかし袁平が成人前に卒したのであれば袁遺が生まれる余地がない。この辺が謎となる。官職が不明と言うだけで成人前に卒したと安易に考えたのが愚かだったか?案外と病弱で官に就かなかったとか、名士的な行動に出て官を拒んだとか、まだ解釈の余地はある。とは言うものの早世の事実は変わらない。【袁遺のネタを集める】・『冠世の懿、幹時の量あり。其の忠允亮直、固より天の縦つ所。若るも乃ち載籍を包羅し、百氏を管綜し、高みに登りては能く賦し、睹物して名を知る。今日に之を求むれば、靡儔を邈焉す』(張超集)・『書籍を網羅し、百家を総合できるのは袁遺だけです』(英雄記)・従弟の袁紹に顎で使われてしまう・典論に『長大にして能く勤めて學ぶ者は、惟だ吾と袁伯業のみ』絶賛されるが、関連する目ぼしい話が一つも存在していない・連合に参加しても戦わない・戦下手の陳瑀にも負けてしまう・人徳があると言われた人物なのに自軍の兵に殺害されてしまう何と言いますか…褒める場所があまり無いんですよね。つか実績がまるで無いし、記録が残ってないのが致命的ですね。
いつも楽しく拝見しています^ ^小学生の頃に読んだ児童文庫のクライマックスが、正にこのシーンだったので、とても懐かしくなりました(*゚∀゚*)b
三国志作品で、序盤に人気が出ないと、この反董卓連合あたりで打ち切られがち、っていう悪いイメージが…(笑)
@@KOUMEI_NO_WANADA 劉備どころか曹操すらあまり活躍せず、董卓蝋燭endだったため「三国志面白くねぇ(´;ω;`)」と投げ出した少年時代でした泣
@@KOUMEI_NO_WANADA 漫画の天地を喰らうですね。強引な結末でした。
孫堅パパはともかく曹操はこの戦いで何ら戦局に影響を与えたわけではないので、曹操本紀の記述はまあ簡素なものなんですよねw この辺りは『資治通鑑』を使うと時系列が整理しやすいと思います。
ついでにさらっと壊滅している王匡軍(ぁ
王匡って黄巾の時は蕭何の役割だったわけで、戦闘させちゃダメだよねという話ですな。そんな人が一番前線にいたわけで、運がないとしか言いようがない。
2番乗り(?)。合従連衡って上手くいかんですね。。。むしろ後で揉めるネタにすらなりうると思うから、個人的にはよほどでないと、共通の敵がいようと安易に“同盟”しない。歴史って時系列性があるから“横”で説明すると便利である反面、それは“縦”の捨象にならざるを得ない。。。救えねぇw
各有力者が自分の組織をまとめて、それから集合しているので、兵力を集める際のコストや労力や時間はグンと下がるのですが、集まってからの動きがどうにも…(笑)
@@KOUMEI_NO_WANADA 北大西洋で条約な機構「お、悪口言われてる? 虎牢関前にみんな集合~」
じつはこの時(対徐栄戦)に曹操は官途あたりの地形を進軍し実視体感しており地政学上の黄河支流と首都圏の関係性を理解しこの経験が後の袁紹との戦いに生きてくるというのはまた後日の話😗
やっぱり実戦経験がモノをいう世界なんだなぁ
@@KOUMEI_NO_WANADA 以外にこの地形上の重複(というほどでもないが近所ですよね。対徐栄戦と官渡の戦い)指摘する人って三国志好きでも少ないですよね😗
劉備三兄弟以外の三国志の武将が活躍していないのが謎 まだ、子供だったのかな?
連合軍、組んでも自分勝手なのが人だからほとんど上手くいかない。 中国人は特にその傾向にある。
最初に洛陽に進出した董卓率いる西涼軍は3000人程度で、この時点で数万人の兵力を持つ皇甫嵩、中軍を掌握する曹操と袁紹、何進の弟何苗、並州軍の丁原の中で誰か一人が出兵する度胸があれば、皇帝と3000人しか手にしていない董卓は天下人になる機会はまったくない。しかし、上記のすべての人は当時、内闘と党争に集中していたが、同時に大漢皇帝と董太后の権威を認めていた。大漢朝廷に忠実で、後世の史書上の「反賊」の悪名に転落するリスクを負いたくなかった。最終的には、上記のすべての人の兵権が董卓に併呑されたという結末になった。この時点での董卓は天下人として、信長公の参謀で平秀吉に斬首された「三日天下」の大反賊「阿奇支」をはるかに上回る内政外交の才能を示している
なので、3000人のうち1000人を夜中に城外に出して、朝に入城させることによって、毎日涼州から援軍が来ていると思わせることをしていたのです。まぁ何進の招集に応じた時は大規模な戦闘にならないと思っていただろうし3000人は妥当な戦力なんじゃないかな?逆に1万、2万と連れてきていたら警戒されるだけだろうし。
でも董卓は洛陽入城の時は并州牧で涼州から切り離されてたのに涼州からワラワラと兵が来る事に誰も違和感を覚えなかったのかな?
袁紹は初手から詰めが甘く、色々抱え込みすぎて動きが鈍い。董卓いなくなっても西涼は大丈夫だったっぽい? 董卓は自分が出ると連合軍がやる気出しちゃうから駄目なのね。本当の英傑って若い頃突っ込んで九死に一生の大敗してるね。で劉備たちはなにしとったん? と思う程度の※しか出来ないみんなすごい
大体、孫堅のおかげで終わってしまう対董卓戦
これだけ凄い実績ある徐栄よりも華雄の方が知名度あるって
三国志演義の影響って凄いですね(というか納得いかない)
でも蒼天航路にはちゃんと出てきてた。
まぁ、退場の仕方がアレだったけど(
確か呂布に頭握り潰されてた様な、、、
政治家としてもすごい実績があって、転勤したら民から戻ってきてほしいと嘆願されて戻ってきた人だし
幽州人だからトウタクの死後周りに敵勢力しかいなくなってしまったとか
涼州人であったならトウタクの残党が多数味方になるはずなので大きく名を残していた可能性もあるとか
中々惜しい人財だったようで
三国志大戦では
武力9知力1で大活躍の華雄さん
まさかこんな序盤で死んでしまうとは😢
虎牢関・・・呂布・・・うっ頭が。(三国無双)
華雄さん大出世
「公孫瓚は董卓討伐に参加していない」
「だから劉備、関羽、張飛も参加していない」
「華雄は孫堅が討った」
三国志演義さんさぁ、原作改変しすぎだろぉ?
まぁ、結果面白くなってるから、ね?(笑)
たぶん『三国志演義』の改変というより、先行する『三国志平話(※)』をできるだけ(これでも笑)史実に寄せたという話かと(^_^;)
このチャンネルでも取り上げられてた陳泰なんて鄧艾と全く立場逆にされて手柄取られてますからそれに比べれば可愛いものだな!
でも三国志演義なかったら、ここまで三国志人気出なかっただろうしなぁ…
こういう細かいクソ野郎がいるから楽しんで見られなくなるんだよな
そういう指摘の仕方じゃなくて言葉を選んで指摘しろよ
お前十年後とかに会社の上司の立場になったときに下からめちゃめちゃ嫌われるやつになるぞ
いや、そもそもこんなやつが上司になれねーわな!
三国志を知った当初は、洛陽からの遷都を横暴な所業程度に思ってたけど
補給や意思決定に難がある連合軍に焦土作戦を仕掛けるという、理にかなった戦略の一端だったわけだ。
それでも自分が統治しない、切り捨てる覚悟がないと出来るものではない…。
董卓が魔王…まぁ確かにやってることはそれっぽいですね…漢も無くなっちゃったし…
蒼天航路の董卓が上洛してきて、張譲を筆頭とする宦官勢力にえげちい刑罰言い渡すシーンすこ
張繍でしたっけ?張譲では・・・
張繍はたしかエロエロ鄒氏を匿ってた気がする
賈詡が配下の人では
@@にゃんころ大先生-g1h
張繍と張譲名前逆で覚えてました
指摘ありがとうございます
訂正しときます
こう、地図でみるとわかりやすいですね。
ここのコメント欄見てるだけで楽しい
皆さん凄い
コメント欄を見て、投稿主が勉強させてもらってるという(笑)
小説などでは、曹操は「寡兵にも関わらず董卓軍と戦った忠義の勇将」という名声欲しさに独断で進軍したというのもあったりして、いやいや曹操はそこまで性格悪くないよ、とも思うけど、いや、曹操ならやりかねないなー、とも思ったり。とりあえず子廉、ありがとう。
名声欲しさに命を捨てるなら、それもまた本物の「覚悟」なのかも。
曹操って結構熱血イケイケでよく死にかけてますから計算では無いでしょうね…小説なら計算ずくの姦雄っぽいキャラの方が面白いでしょうけど(故人の乾燥です)
@@aaa-zh4wt
ミイラ?
ご冥福をお祈りいたします
連合軍に名前が無い公孫瓚や陶謙・劉表がちょうど連合軍の側面や背後に位置しているのが何とも・・。これも連合軍の動きが重い原因の一つでしょうね。
陶謙、劉表たちはもしかしたら朱儁を総帥に立てるべつの勢力としての方向かしらね
韓馥は董卓と通じてた疑惑があるので、そう考えるとまだ公孫瓚は連合軍サイドと見ることは出来るかも🤔
【陶謙の諸侯連合計画賛同者一覧】
徐州刺史 陶謙
揚州刺史 周乾(前任)
沛相 袁忠
北海相 孔融
東海相 劉馗
彭城相 汲廉
琅邪相 陰徳
泰山太守 応劭
汝南太守 徐璆
九江太守 服虔(前任)
鄭玄
これが成立してたら徐、青、兗、豫、揚の5州跨いでの連合になります。
ここで賈詡と周忠(周瑜の従父)が連合瓦解に動き、献帝の名を持って朱儁を長安に留めます。
同じころ陶謙は元部下の王朗に説かれて計画が流れました。
これにより陶謙は安東将軍・徐州牧になりました。
まぁそんなわけで見えないところで賈詡が戦乱の火種を消してるんですよね。
別件ではあるが、注目は応劭が陶謙に同調してる点です。後に曹嵩の件に関与してると疑われても仕方ないよな。
劉虞と袁紹は西園八校尉の時辺りから仲間。それは後漢書の蓋勲伝で見ることができます。その劉虞と内輪揉めとなってるのが公孫瓚。
公孫瓚を一勢力として見るか劉虞麾下として見るかで見方が変わると思う。
あと韓馥は袁氏の故吏だし、劉虞を袁紹と一緒に担いだのも韓馥だから董卓の内通は無いかな。
袁紹の仲間の伍瓊が董卓側に付いて色々と太守に据えさせました。その時のメンバーがこれ。
韓馥・劉岱・孔伷・張咨・張邈など
↑張咨は南陽太守となり孫堅に殺られますが、残りは反董卓連合軍になります。この内応を仕掛けたのが伍瓊です。
韓馥はやはり袁紹派だと思いますよ。
袁氏の故吏がゆえに、内通もあり得るのかなぁと自分は思ってました。
というのも当時の袁氏の当主って、袁紹じゃなくて袁隗および袁基で、その本流は董卓を支持している立場。袁紹と袁術は袁氏の異端と見ても良い。
だから袁氏と馴染みの深い韓馥も反董卓連合時には内通の余地があり、袁氏一門がバッサリ処刑されてから、袁紹と共に歩むようになったのかなぁ、みたいな。
やっぱり史実はキャラクターじゃなくて人が行ってきたことなんだなあと改めて思いますね(´・ω・`)
喬冒「檄文送ったの俺なんだけど…」
ぶっちゃけ諸侯みんな自分の都合でやってる感あるけどそんな中でも曹操に張バクや鮑信が協力したり、一応袁術と孫家のつながりができたり、袁紹と公孫サンの争いの予兆も既にあったりしたのだね
しかし董卓の隆盛と滅亡、短くて濃い、さすが王莽の再来笑
王莽はまだ一応、外戚かつ学者だけど、董卓はマジの田舎将軍だからなぁ…(笑)
それだけに権力を手にしてのはっちゃけ具合は王莽以上だったのかもと、想像しちゃう
@@KOUMEI_NO_WANADA 蒼天航路は、董卓がカッコ良すぎる。袁紹もそれなりに風格ありました。孫策から、アイテムを貰って浮かれたお🐵さんもいますがw
袁紹と曹操は連携してたんやろけど、袁術とはどのくらい連絡を取っていたんかしらね?或いは双方、別の軍と見るべき?
この戦役は孫堅の武名を更に上げたけど、孫堅くんは行きがけ途中に気に入らない荊州刺史の王叡や南陽太守の張咨をころころしてて、そりゃ皆に警戒されるよなと
袁術が吸収してくれなかったら、デカめの独立賊軍になってそう(笑)
@@KOUMEI_NO_WANADA 自身が荊州牧を自称したでしょうから誰にとっても得なルートではないでしょうね
それこそ董卓から(書類上の)正式な任命を受けて董卓派軍閥(遼東公孫氏的な)として乱世を生きたかもしれません(※孫堅の政治力が未知数なので荊州も軍政で『なんとか統治できる』程度に見ていますが、蒼天航路のよう先を見通していたならあるいは…)
孫堅は袁術軍に合流するため北上する過程で同じく反董卓連合に参加予定だった荊州刺史の王叡と、兵糧の供給を拒否した南陽太守の張咨を殺害している。
孫策、殺した相手の部下に殺されました。孫権が、あのような統治をする一因かも。
強大な敵に、諸侯連合が協力して戦う!!ファンタジー戦記ものではそれで敵を撃破して世の中は平和に・・・・・・ってなりますが
現実はそうはいかない、自分たちの利権や位置的な関係で一致団結が出来ないでグダグダになって解散や
各個撃破されて壊滅なんてことの方が多いですね
自分だけが損をすることを嫌う。
これもまた人間の心理ですな😇
秦相手にもそれで戦えば、残りの戦国七雄は汚名を着ることはなかったのでは。
意図したのか偶然かはさておき、都を焼き払って遷都という手段が結果的に連合を解体させたのだから董卓のリスクエヘッジ力は凄いと思う
経験値や戦術眼は当時最強クラスですからねぇ
今も昔も焦土作戦は鬼畜の所業…どことは言わないがあの大国も
三国志のゲームやって感じたけど、洛陽から長安の間って街道が狭くて攻める側だと戦い難い。ここらを首都にするのは理に適ってるんだな。
曹操、袁紹、淳于瓊はいずれも西園軍の「西園八校尉」の一人だ。その中で当時虎贲中郎将を務めていた袁紹は中軍校尉で、首都洛陽の内軍を直接司っており、西園軍の副統領としては蹇碩に次ぐ地位にあり、兵権掌握の経験は当時の典軍校尉を務めていた曹操よりも多かった。何進が暗殺された後、袁紹はさらに八校尉の兵権を直接併呑し、何進に代わって大将軍府の軍事を執り、宦官集団に対する絶滅令を直接下した。ただ後に西園八校尉と西園軍は最後に皇帝の人身を支配した董卓の3000人余りの西涼軍の前でほとんど抵抗せず、丁原の並州軍のように董卓に吞併された….洛陽中軍の何人かの名将(曹操、淳于琼、鮑鴻)と名士(袁紹)は、すべての軍事的才能と政治的才能を宮廷の党政と内闘に使ったと言っても過言ではなく。大漢朝廷の天子威儀の象徴として、西涼軍閥の前で極度に無能だった。皇帝の人身をコントロールしている董卓の前にはほとんど抵抗力がなかった。朝廷の重兵を手にした皇甫嵩は自分の名声を大切にしすぎて、この肝心な時に兵を出して董卓を討伐したくない,自分の「大漢忠臣」の名声を守るために、結局は京に入って兵権を奪われた。
董卓って序盤に出てくる猛者キャラってイメージ
実戦経験が皆無な人間だらけの連合軍の中でただ一人、黄巾の乱、長沙での賊退治、辺章・韓遂の反乱と董卓に迫るレベルの実戦経験を持っている孫堅。
別格レベルで強いのも道理というもの。
曹操も実戦経験ありとはいえこの時点では董卓や孫堅と比べると一段下がりますね。なんだかんだ言って超エリートですのであまり辺境をかけずりまわるわけにもいかないですし。
あと洛陽放棄ですが、都としての実績もある上に守りも堅い長安という大都市がありそれを手中に収めていたからこそできた手でしょうね。
遷都するにしても一から都と都を守るための防衛体制を作るのは相当に手間がかかりますし。
董卓は生まれる時代を間違えたよ……現代日本に生まれてれば令和の田中角栄になれただろうに
袁紹は別にこの当時董卓に敵対しておらず、袁術が孫堅と組んで敵対してきたのを怒った董卓が都に住む袁一族を皆○しにしたためにその董卓が擁立した皇帝は認めないとなったって聞いた事がある
仲の国を作って自らを皇帝と称した袁術もそうだけど、皇帝を迎え入れた友人の曹操にたいしても、戦を仕掛けているあたり、二人とも皇帝よりも一族優先だったと
忠義が重要視されるのは朱子学が流行した近代の価値観ですからね。この当時の倫理観では、忠よりも孝が優先されるので、まぁ、順当な話でもあります。
太守や牧、刺史に軍を動かせる権限あったの?そも郡に軍隊がいたのか。
そういった現実的な視点に言及して頂けるとより深く楽しめそうです。僕はまだ研究中なので三国志は面白く感じないのですよね。
太守と州牧にはあるけど、刺史は監査役だから特にそういう権限はなかったはず…(あやふや)
だから連合軍で一番大きい軍を持ってたのはたぶん冀州牧の韓馥で、次が幽州牧の劉虞。
ただこの2人は後ろから公孫瓚、公孫度が殴ってくるので動けない。
そんな中、太守の中でも黄巾の乱の影響が少なかった長沙太守の孫堅が活躍できた、という解釈も可能ですね。
漢書に『辺郡には(太守傘下に)長史を置き兵馬を掌った』とありますので公式にも郡には兵権がありました😗
郡太守って字に惑わされやすいけど、日本で言ったら中規模県(人口2~3百万)の知事です。郡国表によれば渤海群や長沙郡の人口は約100万人です。配下の県には県尉という警察部隊がいるし、郡司馬って役職もある(孫堅も呉郡司馬って役職からスタートしている)ので、兵力を動員できますね。
刺史というのはただの監察官なので、施政権や軍権は付与されていません。俸禄も郡太守が二千石に対して刺史は600石。なので名前の割には高官が就くものではありません。188年になって施政権・軍事権は付与された俸禄二千石の州牧として、劉焉が益州へ、劉虞が幽州へ、黄琬が豫州へと大臣級の人物が派出されるのです(黄琬は董卓によって都に召喚されて司徒に就任しているので連合軍には参加できませんでした)。まぁ地方の反乱鎮定、治安維持のために中央の指示をいちいち待たなくて良いのです。結果的には劉焉は独立王国みたいになってしまうわけですが。
『後漢書』王允伝に黄巾賊が蜂起すると王允は豫州刺史に任命され、荀爽・孔融を従事とし黄巾の別帥を撃ち破っているので、全く兵権が無かったわけではないのでしょう。
【ネタ話を幾つか書いてみる】
滎陽県の直ぐ西に成皋県がある。
その河南尹成皋県に虎牢関がある。前漢では成皋関と呼ばれている。後漢になると洛陽防衛の為に洛陽八関が設けられました。その八関が函谷関・広城関・伊闕関・大谷関・轘轅関・旋門関・小平津関・孟津関なんです。で、同じ成皋県の汜水方面に造られたのが旋門関。この旋門関がいわゆる汜水関なんですよ。
虎牢関と汜水関は同じ県に有ったから同一視する見方もあるが別物だと思ってよい。八関には八関都尉が設置されたのでかなりの規模の兵が詰めていたと思われる。
おそらく徐栄は旋門関から出撃している。
太平広記に曹洪の家業についての記述がある。
「魏曹洪、武帝從弟、家盈産業、駿馬成群。」
曹洪の家は馬産をしていた。いわゆる馬のブリーダーです。駿馬成群と書かれているのでかなりの馬を生産していたようである。この記事から虎豹騎は曹洪が提供していた可能性が出てきた。
曹洪自身も曹操を助けた時に自分の馬を提供している。馬を腐るほど所有しているからこその振舞いだったかもしれん。
一番乗り。烏合の衆が「船頭多くして船山に上る」では上手くいくはずがない。そこに焦土作戦と来れば、後世のナポレオンのロシア遠征みたいにならなかっただけでも御の字かもしれない。そういう意味では董卓軍の勝利と言えると思う。もっとも董卓軍もまたチームワークがなっておらず、自滅からさらなる乱世に突入したのだから救いのないことだ。
董卓は「戦術的視点」だけで戦っていますからね。人心やその後の影響などを度外視しているので、まぁ、順当な結果なんだろうなぁと。
@@KOUMEI_NO_WANADA 中原の人じゃなくて騎馬民族に近いので中原の政治的ルールガン無視でやりたい放題 当然、反感が集まるわけで
@@KOUMEI_NO_WANADA 董卓、自分の思いどうりに面白おかしく生きていければいいと考えていたのでしょう。お🐵さんもですが。曹操や袁紹は、統治した所では、慕われてます。
@@KOUMEI_NO_WANADA 人心を無視したから敗北したってなんか鬼滅の童磨連想したわ
韓馥
孔伷
張超
王匡
袁遺
後に三国志を彩る数多の英傑が集結したまさにドリームチームですね
(´・ω・`)ぉ、ぉぅ…
なんとなく袁遺を語ってみる。
袁遺の字は伯業。
『長大にして能く勤めて學ぶ者は、惟だ吾と袁伯業のみ』と曹操が大絶賛した人物である。しかし何を勉強したのかは伝わっていない。(注釈した書物や自著の書物などが在れば良いが何も記録が無い)
袁遺は袁紹や袁術の従兄とされている。今日はこれを考察してみよう。
彼らの祖父である袁湯には12人の子がいた。名を残しているのは袁平、袁成、袁逢、袁隗の4名のみで残り8名は不明である。
袁平は長子であるが早世。(後漢書 袁安伝集解)
袁成は長子(次子)であるがやはり早世。(後漢書 袁安伝)
袁逢は袁湯の次子←こちらも次子です(後漢書 袁安伝)
袁隗は袁湯の子。(後漢書 袁安伝)
袁平と袁成は長子と次子とあるので同腹の兄弟のようだ。
袁逢(こちらも次子だが)と袁隗は字からしてこちらも同腹の兄弟のようだ。
袁逢→周陽
袁隗→次陽
こうなると袁成と袁逢は母が違う可能がある。
袁平は官職すら伝わっていないので成人になる前に卒したと見るべきかな?となると正嫡は袁成となり、継承順(年齢順)として袁逢は次子とされたと見て取れる。
袁遺に話を戻す。
袁成の子である袁紹の『従兄』が袁遺。従兄なら袁遺の父は袁平となる。これが『従弟』であれば残りの不明の兄弟らの子となるのである。平たく言えば袁胤や袁叔(父不明の袁術の従弟)と同じ扱いとなる。
しかし袁平が成人前に卒したのであれば袁遺が生まれる余地がない。この辺が謎となる。
官職が不明と言うだけで成人前に卒したと安易に考えたのが愚かだったか?案外と病弱で官に就かなかったとか、名士的な行動に出て官を拒んだとか、まだ解釈の余地はある。とは言うものの早世の事実は変わらない。
【袁遺のネタを集める】
・『冠世の懿、幹時の量あり。其の忠允亮直、固より天の縦つ所。若るも乃ち載籍を包羅し、百氏を管綜し、高みに登りては能く賦し、睹物して名を知る。今日に之を求むれば、靡儔を邈焉す』(張超集)
・『書籍を網羅し、百家を総合できるのは袁遺だけです』(英雄記)
・従弟の袁紹に顎で使われてしまう
・典論に『長大にして能く勤めて學ぶ者は、惟だ吾と袁伯業のみ』絶賛されるが、関連する目ぼしい話が一つも存在していない
・連合に参加しても戦わない
・戦下手の陳瑀にも負けてしまう
・人徳があると言われた人物なのに自軍の兵に殺害されてしまう
何と言いますか…褒める場所があまり無いんですよね。つか実績がまるで無いし、記録が残ってないのが致命的ですね。
いつも楽しく拝見しています^ ^
小学生の頃に読んだ児童文庫のクライマックスが、正にこのシーンだったので、とても懐かしくなりました(*゚∀゚*)b
三国志作品で、序盤に人気が出ないと、この反董卓連合あたりで打ち切られがち、っていう悪いイメージが…(笑)
@@KOUMEI_NO_WANADA
劉備どころか曹操すらあまり活躍せず、董卓蝋燭endだったため「三国志面白くねぇ(´;ω;`)」と投げ出した少年時代でした泣
@@KOUMEI_NO_WANADA 漫画の天地を喰らうですね。強引な結末でした。
孫堅パパはともかく曹操はこの戦いで何ら戦局に影響を与えたわけではないので、曹操本紀の記述はまあ簡素なものなんですよねw
この辺りは『資治通鑑』を使うと時系列が整理しやすいと思います。
ついでにさらっと壊滅している王匡軍(ぁ
王匡って黄巾の時は蕭何の役割だったわけで、戦闘させちゃダメだよねという話ですな。
そんな人が一番前線にいたわけで、運がないとしか言いようがない。
2番乗り(?)。
合従連衡って上手くいかんですね。。。
むしろ後で揉めるネタにすらなりうると思うから、個人的にはよほどでないと、共通の敵がいようと安易に“同盟”しない。
歴史って時系列性があるから“横”で説明すると便利である反面、それは“縦”の捨象にならざるを得ない。。。
救えねぇw
各有力者が自分の組織をまとめて、それから集合しているので、兵力を集める際のコストや労力や時間はグンと下がるのですが、集まってからの動きがどうにも…(笑)
@@KOUMEI_NO_WANADA 北大西洋で条約な機構「お、悪口言われてる? 虎牢関前にみんな集合~」
じつはこの時(対徐栄戦)に曹操は官途あたりの地形を進軍し実視体感しており
地政学上の黄河支流と首都圏の関係性を理解し
この経験が後の袁紹との戦いに生きてくるというのはまた後日の話😗
やっぱり実戦経験がモノをいう世界なんだなぁ
@@KOUMEI_NO_WANADA 以外にこの地形上の重複(というほどでもないが近所ですよね。対徐栄戦と官渡の戦い)指摘する人って三国志好きでも少ないですよね😗
劉備三兄弟以外の三国志の武将が活躍していないのが謎 まだ、子供だったのかな?
連合軍、組んでも自分勝手なのが人だからほとんど上手くいかない。 中国人は特にその傾向にある。
最初に洛陽に進出した董卓率いる西涼軍は3000人程度で、この時点で数万人の兵力を持つ皇甫嵩、中軍を掌握する曹操と袁紹、何進の弟何苗、並州軍の丁原の中で誰か一人が出兵する度胸があれば、皇帝と3000人しか手にしていない董卓は天下人になる機会はまったくない。しかし、上記のすべての人は当時、内闘と党争に集中していたが、同時に大漢皇帝と董太后の権威を認めていた。大漢朝廷に忠実で、後世の史書上の「反賊」の悪名に転落するリスクを負いたくなかった。最終的には、上記のすべての人の兵権が董卓に併呑されたという結末になった。この時点での董卓は天下人として、信長公の参謀で平秀吉に斬首された「三日天下」の大反賊「阿奇支」をはるかに上回る内政外交の才能を示している
なので、3000人のうち1000人を夜中に城外に出して、朝に入城させることによって、毎日涼州から援軍が来ていると思わせることをしていたのです。まぁ何進の招集に応じた時は大規模な戦闘にならないと思っていただろうし3000人は妥当な戦力なんじゃないかな?逆に1万、2万と連れてきていたら警戒されるだけだろうし。
でも董卓は洛陽入城の時は并州牧で涼州から切り離されてたのに涼州からワラワラと兵が来る事に誰も違和感を覚えなかったのかな?
袁紹は初手から詰めが甘く、色々抱え込みすぎて動きが鈍い。董卓いなくなっても西涼は大丈夫だったっぽい? 董卓は自分が出ると連合軍がやる気出しちゃうから駄目なのね。
本当の英傑って若い頃突っ込んで九死に一生の大敗してるね。で劉備たちはなにしとったん? と思う程度の※しか出来ないみんなすごい