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気付きになりました、ありがとうございます
xesgwbaw2010様ご視聴、コメントありがとうございます。動画の主旨を、深く汲み取っていただき、ありがとうございます。南無阿弥陀仏合掌高科修
今日、8月2日は祖母の祥月命日でした。思い出しながら、ありがたく、話を聞くことができました。酷暑の毎日ですが、どうかお体には気をつけくださり、今後もよろしくお願いいたします。南無阿弥陀仏
小島雄三様ご視聴、コメント、SuperThanks(懇志=お布施として)小島雄三様のお気持ち、確かに受け取らせて頂きました。ありがとうございます。祥月命日でございましたか……ここに、あらためて…娑婆に遺された者の一人として、合掌と南無阿彌陀仏を申させて頂きます。そして…『お寂しいことでございます』と小島雄三様にお伝えいたす事であります。私も含め、娑婆に遺された者は、その寂しさを身に纏い、背負いながら、自分の人生を生きていかねばなりません。動画でもお話を致しております通り…悲しみは人と人を繋ぐ糸であるを、我が生きる軸として…南無阿弥陀仏合掌高科修
ありがとうございます。いつも月参りに来ていただいてるような気持ちでお話を聞かせていただいております。人に優しく、寛容でありながら、善いときも悪い時も物事の本質を真っ直ぐに捉えて自己に問い続け、人生を生ききる。浄土真宗門徒の家に生まれていつもお話を聞かせてもらえること、ありがたいです。南無阿弥陀仏
難しい話ありがとうございました。心のハタラキというものは、言葉をいくら並べても相手には分からない。同じ思いをした者には言葉が無くても伝わるものだと思っています。だから、「お淋しくなりました」という先生の言葉に、私も頷けます。お話しありがとうございました。
A・シキミ様ご視聴、コメントありがとうございます。悲しみは、人と人を繋ぐ糸ですとの心根のある『寂し』の思いこそが、蓮如上人の言われた『あわれというも、おろかなり』(白骨のお文)であります。動画の主旨を、深く汲み取っていただき、ありがとうございます。南無阿弥陀仏合掌高科修
自分とこは、本願寺派なんやけど、あんまりご愁傷さまて、あんまり聞きまへん。お母んが逝った時、往生しはったなとか、寂しなるわとか言うてくれはった人はおったけどな。お母んと親しくしてくれた人にはホンマに有り難く思います。今お母んには感謝しかないです。お母んの子で良かった。自分が生きさせてもらってるのはお母んやご先祖様がいてくれたこそ今の自分がある。だからこそ自分も一生懸命生きて行くんや!
河内のやっちゃん様ご視聴、コメントありがとうございます。「お母んの子で良かった」との、河内のやっちゃん様のお言葉。それはそのまま、亡くなられたお母様の、河内のやっちゃん様に向けらた言葉であります。亡くなられた、お母様はきっと、こう言っているはずです…『お母んの子で良かった。そう言ってくれる、そう思ってくれる、あなたが、私の子で良かった』と!大きな深い願いの中で、河内のやっちゃん様は、生きておられるのですね。『だからこそ自分も一生懸命生きて行くんや!』との河内のやっちゃん様お言葉こそが、お母様が河内のやっちゃん様に、今も願い続けている『大きな深い願い』です。親と子!亡くなられた人と遺された私!その素敵な『絆』を、コメントから感じさせて頂きました。ありがとう御座います。追伸河内のやっちゃん様のお話しをお聞きして……やはり浄土真宗には、御愁傷様、お悔やみ申し上げますは、相応しくないと、改めて確信させていただきました。重ねて、お礼を申し上げます。ありがとうございます。南無阿弥陀仏合掌高科修
立て続けに父親と弟が亡くなりましたが、辛い闘病生活から解放されて今は阿弥陀様のもと浄土に居るのだから安心ですねと想いながら、自分自身も心穏やかにいられることに感謝しています。今日仏具店さんから星月菩提樹のお念珠が届きましたので、仏様と住職さまへ感謝するとともに明日お寺にお参りする事とします。南無阿弥陀仏 合掌 釋速証
金猫様ご視聴、コメントありがとうございます。星月菩提樹のお念珠を手にする度に…そのお念珠を求めた時の『我が心根』を思い出しながら…合掌をし続けて行かれることを、切に願っております。南無阿弥陀仏合掌高科修
私も、家内を亡くした時は、淋しく辛い経験をしました。宗派は違いますが、失った存在の大きい程、淋しいものは、皆おなじだと思います。~ありがとうございます。🙏😋
羊うさぎ様ご視聴、コメントありがとうございます。たとえどれだけ月日がたとうとも、自分自身が大切に思い、また思われた方との『死』という別れの『寂しさ・悲しさ・辛さ・苦しさ』は無くなりはしません。だからこそ!娑婆に遺された私は、先に亡くなられた、その自分自身が大切に思い、また思われた方の亡くなっても尚且つ、娑婆に遺った私を『叱咤激励』してくれている『願い』に気づき生きていかねばならないのです。浄土真宗の宗・軸であります。南無阿弥陀仏合掌高科修
@@buddhism_japan まったく、その通りだと思います。ありがとうございます。
@@buddhism_japan
私は知らないですけど、浄土真宗の親鸞上人の宗派がそうなら、同じ南無阿弥陀仏を言う法然上人の浄土宗も同じ考えでしょうか?一つひとつの言葉は発した段階で、話し言葉より書き言葉はどのように捉えるかは人それぞれ違いますし。話し言葉は、人が発する音声の中にさまざまな意味を書き言葉では言えないニュアンスが入ってきますし、書き言葉を補足してくれる存在だと思っています。間違いでしょうか?よって書き言葉は慎重にならざるを得ないと私は思っています。いつもありがとうございます。
Yoshi Kawai様ご視聴、コメントありがとうございます。私は、国語の教師資格を取得しておりますが、その立場で一言申し上げます。Yoshi Kawai様日本語!特に接続詞の使い方が間違っております。文章、文章の意味は分かりますが、その文章を繋ぎ合わせて、ひとつのコメントとした場合、前後の文章の意味が通らなくなってしまっております。故に、Yoshi Kawai様のおっしゃりたいことが、こちらの憶測でしか判断することが出来ません。まずは、接続詞の使い方を、考えたうえで、コメントをお書きくださいませ。南無阿弥陀仏合掌高科修
@@buddhism_japan 南無阿弥陀仏と言う言葉を使うことにおいて、こうだと言われてますね。なら、法然上人の南無阿弥陀仏の考えもこの点では同じですか?と言う事です。南無阿弥陀仏の考え方について、あるサイトでは、自力の念仏、他力の念仏と書かれてあります。なら南無阿弥陀仏一つとっても違いますね。となると、高科さんの南無阿弥陀仏の考えは、真宗大谷派の考え方ですね。そう理解するのが正確ですね。南無阿弥陀仏一つとっても、奥が深いですね。
Yoshi Kawai様Yoshi Kawai様が、何を信じ、どの宗教宗派を信仰し、どのような生き方をしていくのかは、Yoshi Kawai様の自由でございます。仏教用語にとらわれて、いろいろな宗派の話しを聞いても矛盾しかしません。そもそもの教義が違います。仏教用語を調べて分かったつもりになっても、それは言葉の意味を知っただけでございます。浄土真宗の説く他力本願は、法然上人も親鸞聖人も蓮如上人も私もYoshi Kawai様も同じです。南無=気づけ、阿弥陀仏=気づきましたの南無阿弥陀仏の六字名号は、それぞれが、それぞれに、仏法を聞き、気づけ気づましたから、自問自答し、どのように生きていくのか、生ききるのかを一生をかけて、『命』終わるその時まであがき、もがき、あきらめず、なげださず、くさらずに、『今を生きる』のです。言葉の意味を勉強しても、Yoshi Kawai様が今をどのように生きるのかを、ご自身で問うていかなければ、ただの知識です。仏教は知識、学問ではございません。その証がYoshi Kawai様がご自身で仰る言葉…「南無阿弥陀仏一つとっても、奥が深いですね」であります。「南無阿弥陀仏一つとっても、奥が深いですね」は、まるっきり他人事の表現です。「南無阿弥陀仏一つとっても、奥が深いですね」…だからYoshi Kawai様は、どうするのですか?「南無阿弥陀仏一つとっても、奥が深いですね」…だからYoshi Kawai様は、何だというのですか?Yoshi Kawai様は、お坊さんの小話の動画を見て、今まで、数々のコメントをされております。そのコメントはどれも、「私は真宗をわかっている」「私は正信偈を読める」私は、私は、私は…知っている!出来る!のオンパレードであります。今回の「南無阿弥陀仏一つとっても、奥が深いですね」と同様に、そこには、自己を見つめた南無気づけ阿弥陀仏気づきましたの南無阿彌陀仏はございません。浄土真宗大谷派の南無阿弥陀仏を、頷くことも無く、自ら浄土真宗大谷派の浄土真宗大谷派の教義を語る場に入ってきて、軽々しく南無阿弥陀仏を語るのは、それこそ軽率な行為であります。せめて…軽率と言われない程度には、南無阿弥陀仏を頷いてから、南無阿弥陀仏を語りなさい。まずは…顔を洗って出直して来なさい。出直して来る気持ちがあればですが…南無阿弥陀仏合掌高科修
@@buddhism_japan 私の姿勢は、一つ一つの分かる事を増やしているだけですから、それがコメントにあらわれているだけですから。その姿勢を真っ向から否定されるんですね。ここまでは理解しています。それ以降の事は分からないと言う意味です。これを書くと知ったかぶり、だとか知らなかっただのと言う事を人を攻撃する形でしか書いてきませんね。返信を見ているといつも長文で、ほぼ喧嘩腰ですね。この動画の南無阿弥陀仏と言う言葉は、浄土宗、浄土真宗と言う分け隔てないと言う意味で、高科さんは言っているんですね。それはよく分かりました。ありがとうございます。
Yoshi Kawai様長文でのご返信は…丁寧に、わかりやすくお話をするため長文になっております。さらに、長文である理由は、Yoshi Kawai様が理解しているという南無阿弥陀仏が、浄土真宗大谷派の南無阿弥陀仏と全く違うということをお話するためであります。しかしながら、そのための長文を…Yoshi Kawai様は「喧嘩腰」と捉えてお読みになっておられるようであります。なるほどとと言わざるを得ません。なぜなら…Yoshi Kawai様に、今まで私が返信をしてお話をして来ましたことは…南無阿弥陀仏は、生きている人の数だけ、その人の南無阿弥陀仏があり、人それぞれが、我が身の中に、南無=気づけ、阿弥陀仏=気づきましたの、南無阿弥陀仏=心の叫び・魂の叫びとしての、「ありがとう」と「 ごめんなさい」であるということであります。Yoshi Kawai様が今回の返信コメントで語っておられる…「この動画の南無阿弥陀仏という言葉は、浄土宗、浄土真宗と言う分け隔てないと言う意味で、高科さんはいっているんですね」では決してありません。Yoshi Kawai様…「それはよく分かりました」では無いのです。Yoshi Kawai様…「ありがとうございます」ではございません。浄土真宗大谷派の宗・軸=南無阿弥陀仏のお話です。違うものは違うとお話をしております。故に…そのお話を、「喧嘩腰」と捉えているから、正しく理解できないのです。「この動画の南無阿弥陀仏という言葉は、浄土宗、浄土真宗と言う分け隔てないと言う意味で、高科さんはいっているんですね」と、全くとんちんかんな理解になってしまうのです。Yoshi Kawai様…「この動画の南無阿弥陀仏という言葉は、浄土宗、浄土真宗と言う分け隔てないと言う意味で、高科さんはいっているんですね」「それはよく分かりました」「ありがとうございます」は……違います。そのような事は一言も言っておりません。そのことは、ご認知して頂かなけれはなりません。納得いかないでしょうから、どうぞ、Yoshi Kawai様のご親戚の浄土真宗の僧侶に、このやり取りを見てもらい、Yoshi Kawai様が本当に勘違いしているのか、ご確認していただいて構いません。いえ、ぜひ、ご相談されたほうが良いと思います。南無阿弥陀仏合掌高科修
そもそもこの動画は、大谷派のお寺の人が発信しているので、見ている人は先祖代々大谷派の門徒関係ですね。その意味で、私の様な存在は異端ですね。母の実家は大谷派の寺です。その影響は絶対にあります。無い方が不思議です。ただ母は父と結婚しました。父の家の実家筋は臨済宗妙心寺派です。普通、禅宗と言うのは福井県永平寺と言う曹洞宗をイメージすると思いますが、臨済宗の禅の形を思う人はいます。ある意味、どちらも理解しよう言う感じが私です。父が母の実家の住職、私から見たら従兄弟に死後、葬儀を頼むと言う遺言を聞いていたら、葬儀は父の実家筋の宗教でなく、臨済宗の形にはならないです。この二つの各派は、方法が違うのは一応、理解してます。それ以降、私は従兄弟の住職から、大谷派で法名をいただいてますが、新参者ですから、浄土真宗大谷派の教義が分からない事が多いです。いろいろな形で、大谷派の法話等をたくさん聞くようにしようと思ってます。なるべく理解を深める立場です。ただ小さな頃から、大谷派の法話をよく聞いてます。ただそれと同時に臨済宗妙心寺派の方も聞いてます。どちらも聞いていますから、仏教と言う共通項目から、大谷派と臨済宗の二つを見ていくのが私にできる最善の方法かと思ってます。そう言う状況ですから、大谷派の寺、ずっと門徒の人からすればカチンとくる事もあるかとが、これからもこの動画を見ながら、いろんなことに気づいていきたいと思います。よろしくお願いします。
Yoshi Kawai様ご視聴、コメントありがとうございます。真宗大谷派の法名をいただいていたのですね。真宗大谷派の僧侶として申し上げます。真宗の法名を授かる!真宗の法名をいただく!真宗の法名を名告る!ということは…真宗の法名を授与されて持っているということは…私(Yoshi Kawai様)は、真宗の教えを宗・軸として、生涯生きていきます!ということです。真宗の法名は、この決意・告白・覚悟の証(あかし)です。生涯、肝に命じて今を生きてください。南無阿弥陀仏合掌高科修
@@buddhism_japan はい、肝に命じます。よろしくお願いします。
気付きになりました、ありがとうございます
xesgwbaw2010様
ご視聴、コメントありがとうございます。
動画の主旨を、深く汲み取っていただき、ありがとうございます。
南無阿弥陀仏
合掌
高科修
今日、8月2日は祖母の祥月命日でした。
思い出しながら、ありがたく、話を聞くことができました。
酷暑の毎日ですが、どうかお体には気をつけくださり、今後もよろしくお願いいたします。
南無阿弥陀仏
小島雄三様
ご視聴、コメント、SuperThanks(懇志=お布施として)小島雄三様のお気持ち、確かに受け取らせて頂きました。
ありがとうございます。
祥月命日でございましたか……
ここに、あらためて…
娑婆に遺された者の一人として、合掌と南無阿彌陀仏を申させて頂きます。
そして…
『お寂しいことでございます』と小島雄三様にお伝えいたす事であります。
私も含め、娑婆に遺された者は、その寂しさを身に纏い、背負いながら、自分の人生を生きていかねばなりません。
動画でもお話を致しております通り…
悲しみは
人と人を繋ぐ
糸である
を、我が生きる軸として…
南無阿弥陀仏
合掌
高科修
ありがとうございます。
いつも月参りに来ていただいてるような気持ちで
お話を聞かせていただいております。
人に優しく、寛容でありながら、善いときも悪い時も物事の本質を真っ直ぐに捉えて自己に問い続け、人生を生ききる。
浄土真宗門徒の家に生まれていつもお話を聞かせてもらえること、ありがたいです。
南無阿弥陀仏
難しい話ありがとうございました。
心のハタラキというものは、言葉をいくら並べても相手には分からない。同じ思いをした者には言葉が無くても伝わるものだと思っています。
だから、「お淋しくなりました」という先生の言葉に、私も頷けます。
お話しありがとうございました。
A・シキミ様
ご視聴、コメントありがとうございます。
悲しみは、人と人を繋ぐ糸ですとの心根のある『寂し』の思いこそが、蓮如上人の言われた『あわれというも、おろかなり』(白骨のお文)
であります。
動画の主旨を、深く汲み取っていただき、ありがとうございます。
南無阿弥陀仏
合掌
高科修
自分とこは、本願寺派なんやけど、あんまりご愁傷さまて、あんまり聞きまへん。お母んが逝った時、往生しはったなとか、寂しなるわとか言うてくれはった人はおったけどな。お母んと親しくしてくれた人にはホンマに有り難く思います。今お母んには感謝しかないです。お母んの子で良かった。
自分が生きさせてもらってるのはお母んやご先祖様がいてくれたこそ今の自分がある。だからこそ自分も一生懸命生きて行くんや!
河内のやっちゃん様
ご視聴、コメントありがとうございます。
「お母んの子で良かった」
との、河内のやっちゃん様のお言葉。
それはそのまま、亡くなられたお母様の、河内のやっちゃん様に向けらた言葉であります。
亡くなられた、お母様はきっと、こう言っているはずです…
『お母んの子で良かった。そう言ってくれる、そう思ってくれる、あなたが、私の子で良かった』
と!
大きな深い願いの中で、河内のやっちゃん様は、
生きておられるのですね。
『だからこそ自分も一生懸命生きて行くんや!』
との河内のやっちゃん様お言葉こそが、お母様が河内のやっちゃん様に、今も願い続けている『大きな深い願い』です。
親と子!
亡くなられた人と遺された私!
その素敵な『絆』を、コメントから感じさせて頂きました。
ありがとう御座います。
追伸
河内のやっちゃん様のお話しをお聞きして……
やはり浄土真宗には、
御愁傷様、お悔やみ申し上げますは、相応しくないと、改めて確信させていただきました。
重ねて、お礼を申し上げます。
ありがとうございます。
南無阿弥陀仏
合掌
高科修
立て続けに父親と弟が亡くなりましたが、辛い闘病生活から解放されて今は阿弥陀様のもと浄土に居るのだから安心ですねと想いながら、自分自身も心穏やかにいられることに感謝しています。今日仏具店さんから星月菩提樹のお念珠が届きましたので、仏様と住職さまへ感謝するとともに明日お寺にお参りする事とします。
南無阿弥陀仏 合掌 釋速証
金猫様
ご視聴、コメントありがとうございます。
星月菩提樹のお念珠を手にする度に…
そのお念珠を求めた時の『我が心根』を思い出しながら…合掌をし続けて行かれることを、切に願っております。
南無阿弥陀仏
合掌
高科修
私も、家内を亡くした時は、淋しく辛い経験をしました。宗派は違いますが、失った存在の大きい程、淋しいものは、皆おなじだと思います。~ありがとうございます。🙏😋
羊うさぎ様
ご視聴、コメントありがとうございます。
たとえどれだけ月日がたとうとも、自分自身が大切に思い、また思われた方との『死』という別れの『寂しさ・悲しさ・辛さ・苦しさ』は無くなりはしません。
だからこそ!娑婆に遺された私は、先に亡くなられた、その自分自身が大切に思い、また思われた方の亡くなっても尚且つ、娑婆に遺った私を『叱咤激励』してくれている『願い』に気づき生きていかねばならないのです。
浄土真宗の宗・軸であります。
南無阿弥陀仏
合掌
高科修
@@buddhism_japan まったく、その通りだと思います。ありがとうございます。
@@buddhism_japan
私は知らないですけど、浄土真宗の親鸞上人の宗派がそうなら、同じ南無阿弥陀仏を言う法然上人の浄土宗も同じ考えでしょうか?
一つひとつの言葉は発した段階で、話し言葉より書き言葉はどのように捉えるかは人それぞれ違いますし。話し言葉は、人が発する音声の中にさまざまな意味を書き言葉では言えないニュアンスが入ってきますし、書き言葉を補足してくれる存在だと思っています。間違いでしょうか?
よって書き言葉は慎重にならざるを得ないと私は思っています。
いつもありがとうございます。
Yoshi Kawai様
ご視聴、コメントありがとうございます。
私は、国語の教師資格を取得しておりますが、その立場で一言申し上げます。
Yoshi Kawai様
日本語!特に接続詞の使い方が間違っております。
文章、文章の意味は分かりますが、その文章を繋ぎ合わせて、ひとつのコメントとした場合、前後の文章の意味が通らなくなってしまっております。
故に、Yoshi Kawai様のおっしゃりたいことが、こちらの憶測でしか判断することが出来ません。
まずは、接続詞の使い方を、考えたうえで、コメントをお書きくださいませ。
南無阿弥陀仏
合掌
高科修
@@buddhism_japan
南無阿弥陀仏と言う言葉を使うことにおいて、こうだと言われてますね。
なら、法然上人の南無阿弥陀仏の考えもこの点では同じですか?
と言う事です。
南無阿弥陀仏の考え方について、あるサイトでは、自力の念仏、他力の念仏と書かれてあります。
なら南無阿弥陀仏一つとっても違いますね。
となると、高科さんの南無阿弥陀仏の考えは、真宗大谷派の考え方ですね。
そう理解するのが正確ですね。
南無阿弥陀仏一つとっても、奥が深いですね。
Yoshi Kawai様
Yoshi Kawai様が、何を信じ、どの宗教宗派を信仰し、どのような生き方をしていくのかは、Yoshi Kawai様の自由でございます。
仏教用語にとらわれて、いろいろな宗派の話しを聞いても矛盾しかしません。そもそもの教義が違います。
仏教用語を調べて分かったつもりになっても、それは言葉の意味を知っただけでございます。
浄土真宗の説く他力本願は、法然上人も親鸞聖人も蓮如上人も私もYoshi Kawai様も同じです。
南無=気づけ、阿弥陀仏=気づきましたの南無阿弥陀仏の六字名号は、それぞれが、それぞれに、仏法を聞き、気づけ気づましたから、自問自答し、どのように生きていくのか、生ききるのかを一生をかけて、『命』終わるその時まであがき、もがき、あきらめず、なげださず、くさらずに、『今を生きる』のです。
言葉の意味を勉強しても、Yoshi Kawai様が今をどのように生きるのかを、ご自身で問うていかなければ、ただの知識です。
仏教は知識、学問ではございません。
その証がYoshi Kawai様がご自身で仰る言葉…
「南無阿弥陀仏一つとっても、奥が深いですね」
であります。
「南無阿弥陀仏一つとっても、奥が深いですね」
は、まるっきり他人事の表現です。
「南無阿弥陀仏一つとっても、奥が深いですね」
…だからYoshi Kawai様は、どうするのですか?
「南無阿弥陀仏一つとっても、奥が深いですね」
…だからYoshi Kawai様は、何だというのですか?
Yoshi Kawai様は、お坊さんの小話の動画を見て、今まで、数々のコメントをされております。
そのコメントはどれも、「私は真宗をわかっている」「私は正信偈を読める」私は、私は、私は…知っている!出来る!のオンパレードであります。
今回の
「南無阿弥陀仏一つとっても、奥が深いですね」
と同様に、そこには、自己を見つめた南無気づけ阿弥陀仏気づきましたの南無阿彌陀仏はございません。
浄土真宗大谷派の南無阿弥陀仏を、頷くことも無く、自ら浄土真宗大谷派の浄土真宗大谷派の教義を語る場に入ってきて、
軽々しく南無阿弥陀仏を語るのは、それこそ軽率な行為であります。
せめて…軽率と言われない程度には、南無阿弥陀仏を頷いてから、南無阿弥陀仏を語りなさい。
まずは…
顔を洗って出直して来なさい。
出直して来る気持ちがあればですが…
南無阿弥陀仏
合掌
高科修
@@buddhism_japan
私の姿勢は、一つ一つの分かる事を増やしているだけですから、それがコメントにあらわれているだけですから。
その姿勢を真っ向から否定されるんですね。
ここまでは理解しています。それ以降の事は分からないと言う意味です。
これを書くと知ったかぶり、だとか知らなかっただのと言う事を人を攻撃する形でしか書いてきませんね。
返信を見ているといつも長文で、ほぼ喧嘩腰ですね。
この動画の南無阿弥陀仏と言う言葉は、浄土宗、浄土真宗と言う分け隔てないと言う意味で、高科さんは言っているんですね。
それはよく分かりました。
ありがとうございます。
Yoshi Kawai様
長文でのご返信は…
丁寧に、わかりやすくお話をするため長文になっております。
さらに、長文である理由は、Yoshi Kawai様が理解しているという南無阿弥陀仏が、浄土真宗大谷派の南無阿弥陀仏と全く違うということをお話するためであります。
しかしながら、そのための長文を…Yoshi Kawai様は「喧嘩腰」と捉えてお読みになっておられるようであります。
なるほどとと言わざるを得ません。
なぜなら…
Yoshi Kawai様に、今まで私が返信をしてお話をして来ましたことは…
南無阿弥陀仏は、生きている人の数だけ、その人の南無阿弥陀仏があり、人それぞれが、我が身の中に、南無=気づけ、阿弥陀仏=気づきましたの、南無阿弥陀仏=心の叫び・魂の叫びとしての、「ありがとう」と「 ごめんなさい」であるということであります。
Yoshi Kawai様が今回の返信コメントで語っておられる…
「この動画の南無阿弥陀仏という言葉は、浄土宗、浄土真宗と言う分け隔てないと言う意味で、高科さんはいっているんですね」では決してありません。
Yoshi Kawai様…
「それはよく分かりました」では無いのです。
Yoshi Kawai様…
「ありがとうございます」ではございません。
浄土真宗大谷派の宗・軸=南無阿弥陀仏のお話です。違うものは違うとお話をしております。
故に…
そのお話を、「喧嘩腰」と捉えているから、正しく理解できないのです。
「この動画の南無阿弥陀仏という言葉は、浄土宗、浄土真宗と言う分け隔てないと言う意味で、高科さんはいっているんですね」と、全くとんちんかんな理解になってしまうのです。
Yoshi Kawai様…
「この動画の南無阿弥陀仏という言葉は、浄土宗、浄土真宗と言う分け隔てないと言う意味で、高科さんはいっているんですね」「それはよく分かりました」「ありがとうございます」は……
違います。
そのような事は一言も言っておりません。
そのことは、ご認知して頂かなけれはなりません。
納得いかないでしょうから、どうぞ、Yoshi Kawai様のご親戚の浄土真宗の僧侶に、このやり取りを見てもらい、Yoshi Kawai様が本当に勘違いしているのか、ご確認していただいて構いません。
いえ、ぜひ、ご相談されたほうが良いと思います。
南無阿弥陀仏
合掌
高科修
そもそもこの動画は、大谷派のお寺の人が発信しているので、見ている人は先祖代々大谷派の門徒関係ですね。
その意味で、私の様な存在は異端ですね。母の実家は大谷派の寺です。その影響は絶対にあります。無い方が不思議です。ただ母は父と結婚しました。父の家の実家筋は臨済宗妙心寺派です。普通、禅宗と言うのは福井県永平寺と言う曹洞宗をイメージすると思いますが、臨済宗の禅の形を思う人はいます。ある意味、どちらも理解しよう言う感じが私です。
父が母の実家の住職、私から見たら従兄弟に死後、葬儀を頼むと言う遺言を聞いていたら、葬儀は父の実家筋の宗教でなく、臨済宗の形にはならないです。この二つの各派は、方法が違うのは一応、理解してます。
それ以降、私は従兄弟の住職から、大谷派で法名をいただいてますが、新参者ですから、浄土真宗大谷派の教義が分からない事が多いです。
いろいろな形で、大谷派の法話等をたくさん聞くようにしようと思ってます。なるべく理解を深める立場です。
ただ小さな頃から、大谷派の法話をよく聞いてます。ただそれと同時に臨済宗妙心寺派の方も聞いてます。
どちらも聞いていますから、仏教と言う共通項目から、大谷派と臨済宗の二つを見ていくのが私にできる最善の方法かと思ってます。
そう言う状況ですから、大谷派の寺、ずっと門徒の人からすればカチンとくる事もあるかとが、これからもこの動画を見ながら、いろんなことに気づいていきたいと思います。
よろしくお願いします。
Yoshi Kawai様
ご視聴、コメントありがとうございます。
真宗大谷派の法名をいただいていたのですね。
真宗大谷派の僧侶として申し上げます。
真宗の法名を授かる!
真宗の法名をいただく!
真宗の法名を名告る!
ということは…
真宗の法名を授与されて持っているということは…
私(Yoshi Kawai様)は、真宗の教えを宗・軸として、生涯生きていきます!ということです。
真宗の法名は、この決意・告白・覚悟の証(あかし)です。
生涯、肝に命じて今を生きてください。
南無阿弥陀仏
合掌
高科修
@@buddhism_japan
はい、肝に命じます。
よろしくお願いします。