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歴史好きの私にとって、この番組は神です!!真剣に観るも良し!寝る時に音声だけでも楽しめます!!(笑)
いつも楽しく観させていただいています。学生時代にこういった解説をして下さる方がいたら興味をもって楽しく勉強できただろうなと思います。
僕自身が学生時代に「こういった動画ないかなー?」とTH-camで探していたけど見つからなくて「誰か作ってほしい」と思い続けていた張本人ですので、そう思ってくれる方がいるのがすごく嬉しいですありがとうございます
義経は鎌倉方と戦になったとき、主力を陸路で南下させ、自らは少数の水軍を率いて、直接、海から鎌倉に夜襲をかけることを提言したとか。頼朝が武将としての義経の天分を恐れていたことは確実。義経が生きている限り、奥州藤原氏は安泰だったはず。頼朝の政治力に義経は負けたのだ。
スラスラと話してくれるのが好感が持てる。すごく分かりやすいし、いいねぇ。
最後に立ったまま死んでるなんて、義経公に対する弁慶の忠義心めちゃくちゃ泣けました😭😭😭
なんか無慈悲だな、悲しいなと思ってたら、最後、河田次郎 までしっかり殺されてて流石に草
義経の最期の地とされる高館、そして、義経の妻と娘の墓は寂しかったな。。あれだけ華やかな戦をしてきた男とその妻子の墓と考えると、色々感慨深かった。旧歴史に残らざるを得ない方々の足跡だと感じましたね。
これは、中国の言葉ですが、武士は、死より名誉を重んじるといいます。九郎判官は、清盛入道のように栄誉栄華を極めることは、出来ませんでしたが、平家を滅ぼすという、誰にも真似できない大功をたて、今の世にもその名は、語り継がれています。さしずめそれで十分かと
誰がなんと言おうと素晴らしい番組‼️いつも聞いています🍀😊
弁慶泣ける
横並びVSピラミッドの説明、大変わかりやすかったです。それにしても頼朝の言いがかりをつけて敵を滅ぼすやり口は後世の信長や晩年の家康を連想してしまいます。
まさに心を鬼にして源氏嫡流の象徴化を行なっている頼朝の様子は狂気すら感じさせます頼朝の行動が後世の人々に影響を与えた結果が信長や家康の行動に繋がると思いますのでここでも歴史のつながりを感じて面白いですよね
有る意味自分(達)に帰ってきているから因果応報。
はじめまして。お若いのに、よく出来た動画をありがとう。勉強になります。
同じ平安時代に義経は二人居たのは知っていましたか?源義経(河内源氏)佐藤義経(近江源氏)佐藤と言う名前奥州藤原氏
平泉は国語で習ったんですよね〜(奥の細道)行ってみたい!!!
鎌倉時代ってのは、なんて時代なんだ!って言うのが本音ですねえ!自分の為なら家族も敵とし始めた時代ですから。
近現代史もしっかりやって欲しいです!期待しています!
僕自身楽しみにしております!
歴史の解説がいいかどうかは別にしても滑舌がいいので主張が分かりやすかった。
金色堂は大変に見応えがあります。神々しいとはこの事かと思い知らされます。
楽しみにしています!!
良かったです。若りやすいですね。登録させてもらいます
頼朝は、源氏の棟梁だが冷酷さもある
義経の最期は悲劇的なものでしたね。 頼朝が派遣した軍に勇敢に立ち向かい、全力で戦ったのですが.... 頼朝から守ってくれた奥州藤原氏に裏切られ、自害し、弁慶を義経を守るために盾になって立ったまま討ち死にしてしまい、全てのものが平等に生きることを願い、この世の極楽浄土を具現化して栄えた奥州の都・平泉はまるで本当の極楽浄土へと移るかのように、消えていってしまいましまね。 儚い....。 義経、あなたは今、どこで何をしていますか....?
数多くの伝説がある義経ですが散り際までかっこいいですよね昔から多くの人を魅了してきたのも頷けます
@@Y_Eschool あと義経、衣川の戦いの後、平泉を抜けて北へ北へと進んで、蝦夷地(北海道のこと)でそこで暮らすアイヌ民族が信仰する神になったという伝説があるらしいけど、本当かな? 平泉より北には義経がいたという伝説がある地域がいくつかあって、その地域を一つ一つを線で結ぶと一直線になって最後には北海道が先に見える地域にたどり着くから、本当かも。
地方に残る伝説とかは好きなので「そうだったら面白いな!」と思う気持ちは僕もありますが日本全体で北海道開拓の機運が高まった江戸時代頃に作られた創作や、海外進出が望まれた明治時代あたりの創作だと思います話自体は面白いと思うので好きですけどね!笑
そりゃお母ちゃんと弁慶達と仲良く暮らせているでしょう
とても楽しく見させて頂いています。でも、もちょっとゆったりと観たいので、ゆっくりと落ち着いて解説してくださると、楽しめます。
右下の設定(ギア)アイコンから再生スピードの設定ができますよ
@@yumikon8629 はい、それは分かっています。でもやはりオリジナルでの設定がも少しゆっくりのほうが良いと感じましたのでで・・・・。
義経は政治的な駆け引きを知らないというか教えてもらえなかった戦争屋、逆に頼朝は政治的駆け引きに長けていても後の足利や徳川とは違って自分の血筋を残せなかった(自分が死んだ後の事を考えていたのかどうかが不明とはいえ)戦争を知らない政治屋と考えるともし義経が頼朝に忠実であったとしても遅かれ早かれ仲違いしていたのでは?頼朝の側近の梶原、大江、三善は反義経派的な立場で、義経に理解を示して平氏追討に関わった畠山重忠、安田義定等の武断派も平氏いなくなったら遠ざけられていく(切り離される)、三種の神器の一つと安徳天皇の身柄を確保出来なかった上に交渉材料にしようとした残り二つの神器も義経が勝手に返してしまったからと、難癖とか口実つけてはどの道頼朝は義経は排除していただろうと(曲がりなりにも平家滅亡させた実績はある、東国の武士たちよりは西国の武士と仲が良い、奥州拠点にしている藤原とのパイプ等危険要素は揃っている為)
忠実というか大人しい分扱いやすかった範頼ですら「(頼朝に何かがあっても)自分がいるからご心配なさぬよう」と励ましたつもりが、政子が「頼朝亡き後に自分が取って変わろうとするのでは」と解釈して一度は弁明の機会は与えたものの、その時に源氏の姓を使って弁明したこと口実にして粛清だったし一族これだけすり減らしていたらねえ伊豆で挙兵したときからお世話になった恩義があったとはいえ北条氏排斥しておいて実朝担ぎ上げてこないようにしておかなったのは失敗だったかもしれないけど、だからと言って頼家派の比企氏や梶原景時がそのまま生き残ったら今度はその比企と梶原の争いになるのは目に見えてるし
源の連中は皆バラバラやな平家は全員まとまっている、それにしても義経が平家に負けていたら。今の頼朝はどうなっていたか?
頼朝に忠実だった源範頼やあまり権力に関わって無かった阿野全世も粛清されてるし・・・義経が最初の犠牲者だっただけだね?有力後家人も上総介、梶原、一条「武田嫡流」、畠山、比企、和田、三浦、安達と順次消されてますだ最後に北条得宗が新田義貞に粛清されたわけだその新田も足利尊氏に追討された武家権力勝ち抜き戦で勝ち残ったのは北条義時、足利尊氏、徳川家康の3人ですな
義経にもう少し用心深さがあれば奥州で自刃することもなかった後白河法皇から官位を与えると言われても、すぐに受けず兄の頼朝に相談していれば対立は避けられたのに本当に惜しい
実際、義経も悪いけど後白河法皇が一番悪いと思う
逆に言えば後白河法皇は上手くやりましたね
用心深さが仮にあったとしても、逆にそれを梶原に警戒される(義経殿は用心深い所があるので頼朝様の事も完全には信じ切っていないのでは?)ことで猜疑心というか疑い深い慎重すぎる性格の頼朝からすれば、遅かれ早かれ難癖付けられて粛清対象にされていたのかもしれない恐らく「異母弟とはいえ身内でも自分は容赦はしない」という他の源氏への見せしめには有効とはいえ、三浦、畠山、和田、北条等の外様組からすれば「身内でもこうなるということは自分たちも危ないから事故に見せかけて先にやってしまうか」と暗黙の了承を取ったうえで頼朝暗殺の時期が早まる可能性も
どちらにしても頼朝は最後には難癖つけて義経を殺したと思います。後の蒲の冠者源範頼のや上総広常の扱いを見ても頼朝は疑心暗鬼に満ちています。坂東武者の神輿に担がれているだけという恐怖があったのでしょう。身内を全て滅ぼしたため、死後は妻政子にまで裏切られ子孫は根絶やしでした。
藤原泰衡がもう少し頼朝の狙いを察する事出来ていたら、義経を奥州藤原氏を守る切り札として生かしていただろうが。中尊寺金色堂を頼朝が、焼かなかったのが、救いか。
奥州合戦はその後の天下人の見せしめにも大きな影響を与えたと思ってるよ。秀吉の小田原征伐や家康の大坂の陣は、天下を取るための最終関門であり、自分の権力を世に知らすためには大事なことやったから。
個人的には全く同じ考えです頼朝にとっては御家人の忠誠を見極めるという意味合いもあったのだと思います
奥州藤原氏を滅ぼしたと思ったら、自分の撒いた種で源氏が滅亡して草。
解説、現場の動画があるので、とてもわかりやすいのですが、お話のスピードが少し早いように感じますもう少しゆっくり話してくだされば、さらにわかりやすくなると思います光安佳代
同感です。この速度で話していては、会話にならないです。某局レベルで話すべきです。追われる解説です。
私は義経大好き派です。奥州へ旅行に行き高館屋敷跡の祠に行きました。ここで義経が暮らしていたのかと思うと涙が出そうになりました。ただ義経像が想像と違って丸い顔にチョットガッカリ。最後に義経、藤原親子の物語を語る人形館へ行った時には可哀想で泣いちゃいました。マァ義経は政治に向いてなさそうなのでいずれは殺される運命だったのかと思いますが、頼朝は大嫌いです。奥州で買った本では義経は逃げたとされ、逃げた経路と立ち寄った場所でのエピソードなどが書かれていました。青森辺りの海岸で行方不明になりますがモンゴルに渡ってチンギスハンになったは無いとしても北海道に渡って静かに暮らしたと信じたいです。
미나모토 요시츠네는 만주의 연해주의 '소성蘇城'이라는 곳에 가서 여진족을 모아 몽골로 가서 이름을 징기스(Chinggis=바다란 뜻)'라 바꾸고 천하를 정벌하였다.
衣川の戦い 1189年引き渡せ(1)怯む(1)泰衡(8)九郎(9)討つ
頼朝。。。鬼だ笑笑
奥州6万騎を自由に義経に指揮させて鎌倉を撃退せよと秀衡が遺言したのにもかかわらず、長男がまんまと頼朝の罠にかかり、度量がないから兄弟相討ちになり…現地には、父親の遺言に従おうとした三男坊の領地に名前を変えて義経を隠れ住ませたとかいう伝説もあるみたいですね。でも、秀衡があのタイミングで亡くなったこと自体が、奥州藤原氏と義経の運の尽きだったんでしょうね。。
0:55 自体ではなく時代では?もう気付いてるひといたらすいません
源 行家の最期も知りたい
義経は頼朝と戦になったとき、主力を陸路で南下させ、自らは海から舟で直接鎌倉に夜襲をかける策を提言したとか。頼朝は義経が戦の天才であることを知っていたから、義経が生きている限り、奥州藤原氏は滅ぼされずに済んだはず。泰衛が凡庸な武将だったために、頼朝の政治力に屈したのだ。
義経さんて幼い子供がいたんですね。知らなかった。「鎌倉殿の13人」ではどうなるんだろう?🙃
河田次郎の件は徳川家康が小早川に厳しかったように功を上げても裏切りは許さないってのがあるな
源義経といえば 「判官贔屓」という文字が当てはまる人物だと思います。大河ドラマなどで 源義経は美男子描かれているが、実際資料では 背が小さく 出っ歯だったそうですね。 当時の文献で 今の訳が間違っている可能性も考えられますし 当時は日本人身長が低かったので どれぐらい身長だったのか気になりますね。世界で見れば クレオパトラ 多くの人は褐色(真っ黒)な印象を持つ方がいますが、一説によると色白(白人)だったそうです。他にも小説 主人公ハムレット(シェイクスピア)は 原文でfat 太っていると書いてあります。おそらく太っており ひげも生やしているが、それではイメージが悪いから 勝手に翻訳家によって 解釈によって作られた人物になったそうです。いわゆる ステレオタイプ(思い込み・先入観) 泰衡の首を切っている話は知っていたのですが、泰衡関係者や農民たちが 義経を逆恨みにして 遺体などむちゃくちゃにしたのかなと思っていました。「腰越状」話をもし余裕あれば お願いします。 名前は聞いたことありますが内容はあまり知らないです。
判官贔屓は義経が語源(判官=検非違使の尉)といわれているのでその通りだと思います義経の母が絶世の美女だったという言い伝えから美男子扱いされたり平家が言った義経に対する悪口のような言葉で出っ歯扱いされたり義経の容姿に関しては面白い話が多いですよね笑
挙兵後の頼朝の権力は強固に見えて実は非常に脆い。流人の頼朝には直属の家臣がいない。東国の武士に担ぎ上げられた神輿なのである。神輿は担ぎ手が神輿を捨てたらもう動けない。神輿であり続けるには武士たちに恩賞を与え続ける必要があった。頼朝の義仲、平氏追討には軍事的勝利は無論だが、他に極めて政治的な目的もある。それは西国に遠征する東国の武士にできるだけ武勲を立てさせること、総司令官たる義経、範頼は源氏の看板に徹すること、武勲の恩賞は頼朝が一括してもらいそれを頼朝が武士たちに配分することである。範頼は頼朝の意図に忠実だった。ゆえに頼朝の彼に対する評価は非常に高い。一方義経は頼朝の意図を理解せず先手の大将として真っ先に敵に切り込み輝かしい武勲を立て続けた。頼朝にしてみれば他の武士の手柄を奪ってるも同然である。梶原景時が義経に苦言を呈し続けたのは義経の行動が頼朝の意図を台無しにしかねないからである。それだけではない。後白河法皇は義経を勲功第一として義経に莫大な恩賞(知行国など)を与える可能性もあった。それを義経が他の武士たちに配分し始めたらどうなるか。武士たちは恩賞を与える者に従うのである。これは頼朝の権力を崩壊させるほどのインパクトを持つ。院政期以来過酷な内ゲバを繰り返し勢力を縮小させ続けてきたのが源氏の歴史だ。それは源氏を没落させるために朝廷が仕掛けた分裂工作の結果なのである。だからこそ頼朝は朝廷の恩賞に踊らされる義経を憎んだ。鎌倉幕府は頼朝が勝つべくして勝って作り上げたように見えるがその実頼朝は落ちたら死ぬような綱渡りの連続だったのである。義経が兄頼朝を自らの力で凌駕し自分が新しい世を作るという志望をもって行動したとすればそれはそれで英雄の在り方だ。だが腰越状やその後の推移を見れば義経にそのような志があったとも思えない。頼朝は義経に「それだけの力量があるなら俺の立場も少しは察しろよ」と怒鳴りたかったであろう。
静御前ばっかり目立って、最後まで一緒に居た郷御前カワイソス
ええ⁉彼女ふたり連れて逃避行だったのですか?こんなクズっぷりは、その後の真田幸村以外に、聞きません。当時の常識を覆す、破天荒は⁉ただの馬鹿?
@@黒田松寿丸 様「歴史」は常にそうですが「吾妻鏡」も、「北条氏の立場」で編纂されたもので必ずしも「全て史実」と言い切れない部分もあるとおもいます。極端な話「静御前と郷御前は同一人物」説もあります。「同一人物」であれば「クズ」でも何でもないですよね.....rekijin.com/?p=24459
@@masayukiiwase936 さま、実は、そんなに詳しくない鎌倉時代の中で、彼と従臣のことは存じております。当時の史料の不確かも、わかります。私は、ほぼ都市伝説クラスの蝦夷逃避行まで、調べてみました。静御前とは、かなり初期に、頼れる人に託したという話もあります。更に女性の影もありそうです。私の二次元の初恋でした。おとぎ話には、ただ、清廉な少年の牛若丸しか出てきません。色々、ボロも出ますが、当時の戦の常識を覆す天才だと思います。まあ、一ファンが、女性の影に嫉妬したと捉えてください。
自殺は間違えてないが武士的に自害にして欲しい…
生首のミイラなんて…「泰衡 ミイラ」で画像検索するとみられますね
泰衡の頭蓋骨が当人のものと判明した理由は親知らずの成熟度であったとか。今も身元確認で歯を確認するのは重要だけど九百年近く前の人の身元確認にも役に立つんだね。
奥州合戦での功により村上国忠が夏目郷の地頭職を与えれた。息子の国平が、夏目氏を称した。
青葉の笛を作曲してみました
05:44 陣ケ丘 → 不明 陣ケ岡 → 岩手県。 ○ 陣が丘 → 鹿児島県。 X 出る杭は、討たれる と いうことか。この悲劇は義経が、頼朝が考える新しい武家社会のヒエラルキーをイメージできなかったからか。関信もそうだった。たぶん光秀は信長が天下布武達成後、自分が粛清対象だということに気付いていたんじゃないかと思う。粛清は、政敵だけに行うものではない。
内容は面白い。もうちょっと、ゆっくりと話してくださると聞き取りやすいです。
奥州の蝦夷は坂上田村麻呂に征伐され、藤原氏は源頼朝に滅ぼされましたね。 残念🤣 逆転の日本史を期待✊
藤原氏が横並びというのは無理・・藤原北家が寡占状態だから・・決して平等ではない・・
義経はチンギス・ハンと同一人物という人がいるけどそれは嘘で、1189年に衣川の戦いで自害したというのが本当だそうです。
秀衡の遺言通りに、義経を総大将にして鎌倉軍と戦ったとしても奥州は勝てないんじゃない?はじめは互角に戦えたとしても、鎌倉の主力は平家との戦を経験した連中が多いし。一方の奥州は長く戦もなく平家にも負けないような優雅な暮らしをしていて戦とは無縁で生きていた者ばかり。そんな連中が鎌倉に勝てるわけがない。
「もしもあそこでこうなっていたら、、、」と考えるのは僕も好きです
仮に泰衡が裏切らなかったとしても時間の問題かと…だって西国の御家人の援軍が駆けつけたら…
義経の最期は平泉で頼朝に撃たれて死んだ説もあるらしい(21個目、8月13日02:00)
歴おた仲間を作りたかったであろう、父から牛若丸の絵本を与えられました。運動神経がよく、頭も優れる美少年に、五歳の私は、たちまち恋します。大人になっていろいろ調べると、どうも弁慶の存在があやふやで、架空説もあります。最期の地には、五回程行きました。佐藤兄弟等、明らかに存在した人とは、ベクトルが違うと言うか、、、、、。この頃は、事実を記す習慣も、ありませんし。弁慶にしてからが、出生地三つもあります。に、しても、実在ともかく、弁慶の〰は、数多いです。泣き所、七つ道具、立ち往生等。
北海道にある義経神社や、ロシアにあった義経のお墓は、なんなんだ?
商売
私が思う衣川の戦い仮説ですが義経を支援する奥州軍と頼朝に従う奥州軍の戦いではないか?結果、奥州軍が兵力が半減し頼朝に滅ぼされたのではないか?衣川の戦いと言われる事がそんな仮説を立てたくなります❗
船で移送中に逃げようと海に飛び込んで溺死したみたいよ、、苦しかった、、
テロップに誤字が多いです
義経の正しい、産まれた時の、姓名、、、これが解かれば、義経の人生の、イベントが、解る事、出来ます。
権勢、権威を護るべく弟を自死に追い込む、なるほどね、論理的に。
し、静御前は…静御前とのエピソードを観たかった…
誰かが義経は神が平家を亡ぼす為だけに遣わされたから役目が終ると速やかに歴史から排除去れたと言っていた。
神奈川県藤沢に義経の首洗い井戸が残っている。その立看板に【最後は蝦夷地(北海道)に逃れた】って書いちゃってる(笑)おいおい。じゃ、誰の首洗い井戸だよ。とツッコミたくなる(笑)
武蔵坊弁慶は架空の人物とする説があり 五条大橋のことは後世の創作とする。
影の掟
미나모토 요시츠네는 만주의 연해주의 '소성蘇城'이라는 곳에 가서 여진족을 모아 몽골로 가서 이름을 징기스(Chinggis=바다란 뜻)'라 바꾸고 천하를 정벌하였다
頼朝に殺されない為にはどうすればいいんだろうか
陸奥鬼一
義経は まじで死んでないぞ少なくとも 青森までは足取りが掴めてます
義経はロシアに逃げてチンギスハンになった説
ただ、最期とは言い切れない。義経は北海道やモンゴルに逃亡したという噂もあるから。
どの道鎌倉に潰されただろう
義経が死ぬのは自業自得。とはいえこれで奥州藤原氏は自分の首を締めたね。
義経を殺してなくても頼朝は奥州に攻めてきたと思うけどね。
@@AoiMOKUSEI でしょうね。因果応報かこのあと直系は滅亡しますが。
誰がなんと言おうと"チンギスハーンは源義経だった"でお願いします
ドラマ
にだったなー
素人チューバーにしては、見やすいな・・・・・・と、思ったら・・・7分で終わり!!!???
義経は蝦夷地からモンゴルに渡りチンギスハーンになりましたとさ、ジャンジャン!
何の根拠もないのに恥ずかしいモンゴルの人に失礼すぎる〇〇の起源はK国と言ってるのと大差ない
まず、歴史の大前提が間違っています。大和王国側が奥州とか蝦夷(東北地方以北)と言う場所は有りません。起源1世紀〜2世紀にかけて大和を追われた元大和王朝の大彦(官製偽書の古事記などは長脛彦とした)らの子孫が東北地方に至り強力な日ノ本の国を建てて関東以南の大和王国と対峙、並存しました。勢力圏は東北地方と北海道から樺太や千島列島迄。首都、は津軽。地理的にも政治経済的にも中心地と言う事から津軽は「日本中央」と呼ばれました。十三湊は首都港湾として交易等で大いに繁栄しました。全くの外国である北の日ノ本国を大和王国は意に沿わぬ蝦夷と言って卑下しましたが、それは外国に対して自分勝手な話。大和王国の奈良時代に大仏建立に際して大量の鉱物資源が必要となり、それがたまたま日ノ本国から産出する事が判ると、それまで比較的平和に交易していたのを、武力により力づくで得ようと考え、侵略戦争を仕掛ける様に成ります。阿弖流為や母礼ら日ノ本国の有力首長(日ノ本国は大王家の阿部家を頂点とする首長連合王国)らが大和王国の侵略戦争に敗れて三輪山の神を拝礼する話は、元々、彼らは大和をルーツとしていて、原初の三輪山祭祀をしていた一族だったから。結局、大和王国が幕府体制に変わっても日ノ本国に侵略戦争を仕掛けて、この義経絡みの侵略戦争で日ノ本国は崩壊、滅亡する事と成りました。因みに、安倍首相は日ノ本国の阿部氏→安東氏の子孫です。
上から目線な上に内容が大したことなくて草
大和朝廷もない、大和王権・・いつの教科書?
歴史好きの私にとって、この番組は神です!!
真剣に観るも良し!寝る時に音声だけでも楽しめます!!(笑)
いつも楽しく観させていただいています。学生時代にこういった解説をして下さる方がいたら興味をもって楽しく勉強できただろうなと思います。
僕自身が学生時代に「こういった動画ないかなー?」とTH-camで探していたけど見つからなくて
「誰か作ってほしい」と思い続けていた張本人ですので、そう思ってくれる方がいるのがすごく嬉しいです
ありがとうございます
義経は鎌倉方と戦になったとき、主力を陸路で南下させ、自らは少数の水軍を率いて、直接、海から鎌倉に夜襲をかけることを提言したとか。頼朝が武将としての義経の天分を恐れていたことは確実。義経が生きている限り、奥州藤原氏は安泰だったはず。頼朝の政治力に義経は負けたのだ。
スラスラと話してくれるのが好感が持てる。すごく分かりやすいし、いいねぇ。
最後に立ったまま死んでるなんて、義経公に対する弁慶の忠義心めちゃくちゃ泣けました😭😭😭
なんか無慈悲だな、悲しいなと思ってたら、最後、河田次郎 までしっかり殺されてて流石に草
義経の最期の地とされる高館、そして、義経の妻と娘の墓は寂しかったな。。
あれだけ華やかな戦をしてきた男とその妻子の墓と考えると、色々感慨深かった。
旧歴史に残らざるを得ない方々の足跡だと感じましたね。
これは、中国の言葉ですが、武士は、死より名誉を
重んじるといいます。
九郎判官は、清盛入道のように栄誉栄華を極めることは、
出来ませんでしたが、平家を滅ぼすという、誰にも真似できない大功をたて、
今の世にもその名は、語り継がれています。
さしずめそれで十分かと
誰がなんと言おうと
素晴らしい番組‼️
いつも聞いています🍀😊
弁慶泣ける
横並びVSピラミッドの説明、大変わかりやすかったです。それにしても頼朝の言いがかりをつけて敵を滅ぼすやり口は後世の信長や晩年の家康を連想してしまいます。
まさに心を鬼にして源氏嫡流の象徴化を行なっている頼朝の様子は狂気すら感じさせます
頼朝の行動が後世の人々に影響を与えた結果が信長や家康の行動に繋がると思いますので
ここでも歴史のつながりを感じて面白いですよね
有る意味自分(達)に帰ってきているから因果応報。
はじめまして。お若いのに、よく出来た動画をありがとう。勉強になります。
同じ平安時代に義経は二人居たのは知っていましたか?
源義経(河内源氏)
佐藤義経(近江源氏)
佐藤と言う名前奥州藤原氏
平泉は国語で習ったんですよね〜(奥の細道)
行ってみたい!!!
鎌倉時代ってのは、なんて時代なんだ!って言うのが本音ですねえ!自分の為なら家族も敵とし始めた時代ですから。
近現代史もしっかりやって欲しいです!期待しています!
僕自身楽しみにしております!
歴史の解説がいいかどうかは別にしても滑舌がいいので主張が分かりやすかった。
金色堂は大変に見応えがあります。
神々しいとはこの事かと思い知らされます。
楽しみにしています!!
良かったです。若りやすいですね。登録させてもらいます
頼朝は、源氏の棟梁だが
冷酷さもある
義経の最期は悲劇的なものでしたね。 頼朝が派遣した軍に勇敢に立ち向かい、全力で戦ったのですが.... 頼朝から守ってくれた奥州藤原氏に裏切られ、自害し、弁慶を義経を守るために盾になって立ったまま討ち死にしてしまい、全てのものが平等に生きることを願い、この世の極楽浄土を具現化して栄えた奥州の都・平泉はまるで本当の極楽浄土へと移るかのように、消えていってしまいましまね。 儚い....。
義経、あなたは今、どこで何をしていますか....?
数多くの伝説がある義経ですが散り際までかっこいいですよね
昔から多くの人を魅了してきたのも頷けます
@@Y_Eschool あと義経、衣川の戦いの後、平泉を抜けて北へ北へと進んで、蝦夷地(北海道のこと)でそこで暮らすアイヌ民族が信仰する神になったという伝説があるらしいけど、本当かな?
平泉より北には義経がいたという伝説がある地域がいくつかあって、その地域を一つ一つを線で結ぶと一直線になって最後には北海道が先に見える地域にたどり着くから、本当かも。
地方に残る伝説とかは好きなので「そうだったら面白いな!」と思う気持ちは僕もありますが
日本全体で北海道開拓の機運が高まった江戸時代頃に作られた創作や、海外進出が望まれた明治時代あたりの創作だと思います
話自体は面白いと思うので好きですけどね!笑
そりゃお母ちゃんと弁慶達と仲良く暮らせているでしょう
とても楽しく見させて頂いています。でも、もちょっとゆったりと観たいので、ゆっくりと落ち着いて解説してくださると、楽しめます。
右下の設定(ギア)アイコンから再生スピードの設定ができますよ
@@yumikon8629 はい、それは分かっています。でもやはりオリジナルでの設定がも少しゆっくりのほうが良いと感じましたのでで・・・・。
義経は政治的な駆け引きを知らないというか教えてもらえなかった戦争屋、逆に頼朝は政治的駆け引きに長けていても後の足利や徳川とは違って自分の血筋を残せなかった(自分が死んだ後の事を考えていたのかどうかが不明とはいえ)戦争を知らない政治屋と考えるともし義経が頼朝に忠実であったとしても遅かれ早かれ仲違いしていたのでは?
頼朝の側近の梶原、大江、三善は反義経派的な立場で、義経に理解を示して平氏追討に関わった畠山重忠、安田義定等の武断派も平氏いなくなったら遠ざけられていく(切り離される)、三種の神器の一つと安徳天皇の身柄を確保出来なかった上に交渉材料にしようとした残り二つの神器も義経が勝手に返してしまったからと、難癖とか口実つけてはどの道頼朝は義経は排除していただろうと(曲がりなりにも平家滅亡させた実績はある、東国の武士たちよりは西国の武士と仲が良い、奥州拠点にしている藤原とのパイプ等危険要素は揃っている為)
忠実というか大人しい分扱いやすかった範頼ですら「(頼朝に何かがあっても)自分がいるからご心配なさぬよう」と励ましたつもりが、政子が「頼朝亡き後に自分が取って変わろうとするのでは」と解釈して一度は弁明の機会は与えたものの、その時に源氏の姓を使って弁明したこと口実にして粛清だったし一族これだけすり減らしていたらねえ
伊豆で挙兵したときからお世話になった恩義があったとはいえ北条氏排斥しておいて実朝担ぎ上げてこないようにしておかなったのは失敗だったかもしれないけど、だからと言って頼家派の比企氏や梶原景時がそのまま生き残ったら今度はその比企と梶原の争いになるのは目に見えてるし
源の連中は皆バラバラやな平家は全員まとまっている、それにしても義経が平家に負けていたら。今の頼朝はどうなっていたか?
頼朝に忠実だった源範頼やあまり権力に関わって無かった阿野全世も粛清されてるし・・・
義経が最初の犠牲者だっただけだね?
有力後家人も上総介、梶原、一条「武田嫡流」、畠山、比企、和田、三浦、安達と順次消されてますだ
最後に北条得宗が新田義貞に粛清されたわけだ
その新田も足利尊氏に追討された
武家権力勝ち抜き戦で勝ち残ったのは北条義時、足利尊氏、徳川家康の3人ですな
義経にもう少し用心深さがあれば奥州で自刃することもなかった
後白河法皇から官位を与えると言われても、すぐに受けず兄の頼朝に相談していれば対立は避けられたのに本当に惜しい
実際、義経も悪いけど
後白河法皇が一番悪いと思う
逆に言えば後白河法皇は上手くやりましたね
用心深さが仮にあったとしても、逆にそれを梶原に警戒される(義経殿は用心深い所があるので頼朝様の事も完全には信じ切っていないのでは?)ことで猜疑心というか疑い深い慎重すぎる性格の頼朝からすれば、遅かれ早かれ難癖付けられて粛清対象にされていたのかもしれない
恐らく「異母弟とはいえ身内でも自分は容赦はしない」という他の源氏への見せしめには有効とはいえ、三浦、畠山、和田、北条等の外様組からすれば「身内でもこうなるということは自分たちも危ないから事故に見せかけて先にやってしまうか」と暗黙の了承を取ったうえで頼朝暗殺の時期が早まる可能性も
どちらにしても頼朝は最後には難癖つけて義経を殺したと思います。後の蒲の冠者源範頼のや上総広常の扱いを見ても頼朝は疑心暗鬼に満ちています。
坂東武者の神輿に担がれているだけという恐怖があったのでしょう。
身内を全て滅ぼしたため、死後は妻政子にまで裏切られ子孫は根絶やしでした。
藤原泰衡がもう少し頼朝の狙いを察する事出来ていたら、義経を奥州藤原氏を守る切り札として生かしていただろうが。中尊寺金色堂を頼朝が、焼かなかったのが、救いか。
奥州合戦はその後の天下人の見せしめにも大きな影響を与えたと思ってるよ。秀吉の小田原征伐や家康の大坂の陣は、天下を取るための最終関門であり、自分の権力を世に知らすためには大事なことやったから。
個人的には全く同じ考えです
頼朝にとっては御家人の忠誠を見極める
という意味合いもあったのだと思います
奥州藤原氏を滅ぼしたと思ったら、自分の撒いた種で源氏が滅亡して草。
解説、現場の動画があるので、とてもわかりやすいのですが、お話のスピードが少し早いように感じますもう少しゆっくり話してくだされば、さらにわかりやすくなると思います
光安佳代
同感です。この速度で話していては、会話にならないです。某局レベルで話すべきです。追われる解説です。
私は義経大好き派です。奥州へ旅行に行き高館屋敷跡の祠に行きました。ここで義経が暮らしていたのかと思うと涙が出そうになりました。ただ義経像が想像と違って丸い顔にチョットガッカリ。最後に義経、藤原親子の物語を語る人形館へ行った時には可哀想で泣いちゃいました。マァ義経は政治に向いてなさそうなのでいずれは殺される運命だったのかと思いますが、頼朝は大嫌いです。奥州で買った本では義経は逃げたとされ、逃げた経路と立ち寄った場所でのエピソードなどが書かれていました。青森辺りの海岸で行方不明になりますがモンゴルに渡ってチンギスハンになったは無いとしても北海道に渡って静かに暮らしたと信じたいです。
미나모토 요시츠네는 만주의 연해주의 '소성蘇城'이라는 곳에 가서 여진족을 모아 몽골로 가서 이름을 징기스(Chinggis=바다란 뜻)'라 바꾸고 천하를 정벌하였다.
衣川の戦い 1189年
引き渡せ(1)
怯む(1)泰衡(8)
九郎(9)討つ
頼朝。。。鬼だ笑笑
奥州6万騎を自由に義経に指揮させて鎌倉を撃退せよと秀衡が遺言したのにもかかわらず、長男がまんまと頼朝の罠にかかり、度量がないから兄弟相討ちになり…現地には、父親の遺言に従おうとした三男坊の領地に名前を変えて義経を隠れ住ませたとかいう伝説もあるみたいですね。でも、秀衡があのタイミングで亡くなったこと自体が、奥州藤原氏と義経の運の尽きだったんでしょうね。。
0:55 自体ではなく時代では?
もう気付いてるひといたらすいません
源 行家の最期も知りたい
義経は頼朝と戦になったとき、主力を陸路で南下させ、自らは海から舟で直接鎌倉に夜襲をかける策を提言したとか。頼朝は義経が戦の天才であることを知っていたから、義経が生きている限り、奥州藤原氏は滅ぼされずに済んだはず。泰衛が凡庸な武将だったために、頼朝の政治力に屈したのだ。
義経さんて幼い子供がいたんですね。
知らなかった。
「鎌倉殿の13人」ではどうなるんだろう?🙃
河田次郎の件は徳川家康が小早川に厳しかったように
功を上げても裏切りは許さないってのがあるな
源義経といえば 「判官贔屓」という文字が当てはまる人物だと思います。
大河ドラマなどで 源義経は美男子描かれているが、実際資料では 背が小さく 出っ歯だったそうですね。 当時の文献で 今の訳が間違っている可能性も考えられますし 当時は日本人身長が低かったので どれぐらい身長だったのか気になりますね。
世界で見れば クレオパトラ 多くの人は褐色(真っ黒)な印象を持つ方がいますが、一説によると色白(白人)だったそうです。
他にも小説 主人公ハムレット(シェイクスピア)は 原文でfat 太っていると書いてあります。おそらく太っており ひげも生やしているが、それではイメージが悪いから 勝手に翻訳家によって 解釈によって作られた人物になったそうです。
いわゆる ステレオタイプ(思い込み・先入観)
泰衡の首を切っている話は知っていたのですが、泰衡関係者や農民たちが 義経を逆恨みにして 遺体などむちゃくちゃにしたのかなと思っていました。
「腰越状」話をもし余裕あれば お願いします。 名前は聞いたことありますが内容はあまり知らないです。
判官贔屓は義経が語源(判官=検非違使の尉)といわれているのでその通りだと思います
義経の母が絶世の美女だったという言い伝えから美男子扱いされたり
平家が言った義経に対する悪口のような言葉で出っ歯扱いされたり
義経の容姿に関しては面白い話が多いですよね笑
挙兵後の頼朝の権力は強固に見えて実は非常に脆い。流人の頼朝には直属の家臣がいない。東国の武士に担ぎ上げられた神輿なのである。神輿は担ぎ手が神輿を捨てたらもう動けない。神輿であり続けるには武士たちに恩賞を与え続ける必要があった。頼朝の義仲、平氏追討には軍事的勝利は無論だが、他に極めて政治的な目的もある。それは西国に遠征する東国の武士にできるだけ武勲を立てさせること、総司令官たる義経、範頼は源氏の看板に徹すること、武勲の恩賞は頼朝が一括してもらいそれを頼朝が武士たちに配分することである。範頼は頼朝の意図に忠実だった。ゆえに頼朝の彼に対する評価は非常に高い。一方義経は頼朝の意図を理解せず先手の大将として真っ先に敵に切り込み輝かしい武勲を立て続けた。頼朝にしてみれば他の武士の手柄を奪ってるも同然である。梶原景時が義経に苦言を呈し続けたのは義経の行動が頼朝の意図を台無しにしかねないからである。それだけではない。後白河法皇は義経を勲功第一として義経に莫大な恩賞(知行国など)を与える可能性もあった。それを義経が他の武士たちに配分し始めたらどうなるか。武士たちは恩賞を与える者に従うのである。これは頼朝の権力を崩壊させるほどのインパクトを持つ。院政期以来過酷な内ゲバを繰り返し勢力を縮小させ続けてきたのが源氏の歴史だ。それは源氏を没落させるために朝廷が仕掛けた分裂工作の結果なのである。だからこそ頼朝は朝廷の恩賞に踊らされる義経を憎んだ。鎌倉幕府は頼朝が勝つべくして勝って作り上げたように見えるがその実頼朝は落ちたら死ぬような綱渡りの連続だったのである。
義経が兄頼朝を自らの力で凌駕し自分が新しい世を作るという志望をもって行動したとすればそれはそれで英雄の在り方だ。だが腰越状やその後の推移を見れば義経にそのような志があったとも思えない。頼朝は義経に「それだけの力量があるなら俺の立場も少しは察しろよ」と怒鳴りたかったであろう。
静御前ばっかり目立って、最後まで一緒に居た郷御前カワイソス
ええ⁉
彼女ふたり連れて逃避行だったのですか?
こんなクズっぷりは、その後の真田幸村以外に、聞きません。
当時の常識を覆す、破天荒は⁉
ただの馬鹿?
@@黒田松寿丸 様
「歴史」は常にそうですが「吾妻鏡」も、「北条氏の立場」で編纂されたもので必ずしも「全て史実」と言い切れない部分もあるとおもいます。極端な話「静御前と郷御前は同一人物」説もあります。
「同一人物」であれば「クズ」でも何でもないですよね.....
rekijin.com/?p=24459
@@masayukiiwase936 さま、実は、そんなに詳しくない鎌倉時代の中で、彼と従臣のことは存じております。
当時の史料の不確かも、わかります。
私は、ほぼ都市伝説クラスの蝦夷逃避行まで、調べてみました。
静御前とは、かなり初期に、頼れる人に託したという話もあります。
更に女性の影もありそうです。
私の二次元の初恋でした。
おとぎ話には、ただ、清廉な少年の牛若丸しか出てきません。
色々、ボロも出ますが、当時の戦の常識を覆す天才だと思います。
まあ、一ファンが、女性の影に嫉妬したと捉えてください。
自殺は間違えてないが武士的に自害にして欲しい…
生首のミイラなんて…
「泰衡 ミイラ」で画像検索するとみられますね
泰衡の頭蓋骨が当人のものと判明した理由は親知らずの成熟度であったとか。
今も身元確認で歯を確認するのは重要だけど九百年近く前の人の身元確認にも役に立つんだね。
奥州合戦での功により
村上国忠が夏目郷の地頭職を与えれた。
息子の国平が、夏目氏を称した。
青葉の笛を作曲してみました
05:44 陣ケ丘 → 不明
陣ケ岡 → 岩手県。 ○
陣が丘 → 鹿児島県。 X
出る杭は、討たれる と いうことか。
この悲劇は義経が、頼朝が考える新しい武家社会のヒエラルキーをイメージできなかったからか。
関信もそうだった。
たぶん光秀は信長が天下布武達成後、自分が粛清対象だということに気付いていたんじゃないかと思う。
粛清は、政敵だけに行うものではない。
内容は面白い。もうちょっと、ゆっくりと話してくださると聞き取りやすいです。
奥州の蝦夷は坂上田村麻呂に征伐され、藤原氏は源頼朝に滅ぼされましたね。 残念🤣 逆転の日本史を期待✊
藤原氏が横並びというのは無理・・藤原北家が寡占状態だから・・決して平等ではない・・
義経はチンギス・ハンと同一人物という人がいるけどそれは嘘で、1189年に衣川の戦いで自害したというのが本当だそうです。
秀衡の遺言通りに、義経を総大将にして鎌倉軍と戦ったとしても奥州は勝てないんじゃない?はじめは互角に戦えたとしても、鎌倉の主力は平家との戦を経験した連中が多いし。一方の奥州は長く戦もなく平家にも負けないような優雅な暮らしをしていて戦とは無縁で生きていた者ばかり。そんな連中が鎌倉に勝てるわけがない。
「もしもあそこでこうなっていたら、、、」と考えるのは僕も好きです
仮に泰衡が裏切らなかったとしても時間の問題かと…だって西国の御家人の援軍が駆けつけたら…
義経の最期は平泉で頼朝に撃たれて死んだ説もあるらしい(21個目、8月13日02:00)
歴おた仲間を作りたかったであろう、父から牛若丸の絵本を与えられました。
運動神経がよく、頭も優れる美少年に、五歳の私は、たちまち恋します。
大人になっていろいろ調べると、どうも弁慶の存在があやふやで、架空説もあります。
最期の地には、五回程行きました。
佐藤兄弟等、明らかに存在した人とは、ベクトルが違うと言うか、、、、、。
この頃は、事実を記す習慣も、ありませんし。
弁慶にしてからが、出生地三つもあります。
に、しても、実在ともかく、弁慶の〰は、数多いです。
泣き所、七つ道具、立ち往生等。
北海道にある義経神社や、ロシアにあった義経のお墓は、なんなんだ?
商売
私が思う衣川の戦い仮説ですが義経を支援する奥州軍と頼朝に従う奥州軍の戦いではないか?結果、奥州軍が兵力が半減し頼朝に滅ぼされたのではないか?衣川の戦いと言われる事がそんな仮説を立てたくなります❗
船で移送中に逃げようと海に飛び込んで溺死したみたいよ、、
苦しかった、、
テロップに誤字が多いです
義経の正しい、産まれた時の、姓名、、、これが解かれば、義経の人生の、イベントが、解る事、出来ます。
権勢、権威を護るべく弟を自死に追い込む、なるほどね、論理的に。
し、静御前は…
静御前とのエピソードを観たかった…
誰かが義経は神が平家を亡ぼす為だけに遣わされたから役目が終ると速やかに歴史から排除去れたと言っていた。
神奈川県藤沢に義経の首洗い井戸が残っている。
その立看板に【最後は蝦夷地(北海道)に逃れた】って書いちゃってる(笑)
おいおい。じゃ、誰の首洗い井戸だよ。とツッコミたくなる(笑)
武蔵坊弁慶は架空の人物とする説があり 五条大橋のことは後世の創作とする。
影の掟
미나모토 요시츠네는 만주의 연해주의 '소성蘇城'이라는 곳에 가서 여진족을 모아 몽골로 가서 이름을 징기스(Chinggis=바다란 뜻)'라 바꾸고 천하를 정벌하였다
頼朝に殺されない為にはどうすればいいんだろうか
陸奥鬼一
義経は まじで死んでないぞ
少なくとも 青森までは
足取りが掴めてます
義経はロシアに逃げてチンギスハンになった説
ただ、最期とは言い切れない。義経は北海道やモンゴルに逃亡したという噂もあるから。
どの道鎌倉に潰されただろう
義経が死ぬのは自業自得。
とはいえこれで奥州藤原氏は自分の首を締めたね。
義経を殺してなくても頼朝は奥州に攻めてきたと思うけどね。
@@AoiMOKUSEI
でしょうね。
因果応報かこのあと直系は滅亡しますが。
誰がなんと言おうと
"チンギスハーンは源義経だった"
でお願いします
ドラマ
にだったなー
素人チューバーにしては、見やすいな・・・
・・・と、思ったら・・・
7分で終わり!!!???
義経は蝦夷地からモンゴルに渡りチンギスハーンになりましたとさ、ジャンジャン!
何の根拠もないのに恥ずかしい
モンゴルの人に失礼すぎる
〇〇の起源はK国と言ってるのと大差ない
まず、歴史の大前提が間違っています。
大和王国側が奥州とか蝦夷(東北地方以北)と言う場所は有りません。
起源1世紀〜2世紀にかけて大和を追われた元大和王朝の大彦(官製偽書の古事記などは長脛彦とした)らの子孫が東北地方に至り強力な日ノ本の国を建てて関東以南の大和王国と対峙、並存しました。
勢力圏は東北地方と北海道から樺太や千島列島迄。首都、は津軽。地理的にも政治経済的にも中心地と言う事から津軽は「日本中央」と呼ばれました。
十三湊は首都港湾として交易等で大いに繁栄しました。
全くの外国である北の日ノ本国を大和王国は意に沿わぬ蝦夷と言って卑下しましたが、それは外国に対して自分勝手な話。
大和王国の奈良時代に大仏建立に際して大量の鉱物資源が必要となり、それがたまたま日ノ本国から産出する事が判ると、
それまで比較的平和に交易していたのを、武力により力づくで得ようと考え、侵略戦争を仕掛ける様に成ります。
阿弖流為や母礼ら日ノ本国の有力首長(日ノ本国は大王家の阿部家を頂点とする首長連合王国)らが大和王国の侵略戦争に敗れて三輪山の神を拝礼する話は、元々、彼らは大和をルーツとしていて、原初の三輪山祭祀をしていた一族だったから。
結局、大和王国が幕府体制に変わっても日ノ本国に侵略戦争を仕掛けて、この義経絡みの侵略戦争で日ノ本国は崩壊、滅亡する事と成りました。
因みに、安倍首相は日ノ本国の阿部氏→安東氏の子孫です。
上から目線な上に内容が大したことなくて草
大和朝廷もない、大和王権・・いつの教科書?