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幼き日の、旧友との約束のために死道を選ぶ義仲さんカッコ良すぎる。
鎌倉殿初回最後の主要人物紹介を見て、ぶっちゃけ義時と頼朝は他3組(清盛、義仲、義経)ほど主役要素ないなと思ってしまいましたwまぁ草燃える、好きなんですけどね濃ゆい時代だ…
@@john_andaman3498さん同感です。義時はしばらくは、英雄に振り回される語り部となりそうです。去年の明智さんくらい、空気です。
激アツですね!!日本史勉強し始めて間も無いですが初めてこんなに感動しました
古文でも有名ですね!最後の自ら馬から落ちる所文字であるのに鮮明にそのシーンが想像できた。すごい話だ
粗野で礼儀知らずだけど、武士らしかった。しかし、巴御前はカッコいいなぁ。
木曾義仲殿三部作拝見致しました。とても完成度が高くこちらも嬉しくなってしまう動画でした!木曾義仲殿生涯も人柄としても面白い人物ですよね。もっと流行ってほしい…。
当方は義仲公を倒したと言われる方の、平氏の末裔にございますが……戦いの場ならば、致し方ないとは、片付けられませんな…
とにかく昔の人は根性ありすぎる
スパルタ兵300人いたら勝てた
@@猫のダヤン いつの時代だよ。日本の武士を舐めすぎ。あんな重武装歩兵の集まりで、盾と長槍でスクラムを組む戦術なんて、日本の侍の長弓の火矢で燃やしてお仕舞いよ。
木曾義仲と新田義貞の違いが分かりにくい
1万の兵がいたら義経の軍翻弄できそう
「木曽殿最期」日本史の数ある名場面の一つですね。今井兼平に巴御前。それぞれがいい味出してます。
義仲、源氏にしては珍しい誠実な人だね。
日本史は似たような名前がいっぱい出てきて覚えるのがたいへんでしたが、以前はアニメで助かった経験があります。さらにこの動画は登場人物の顔がわかり、感情の移りや地形も豊かで、記憶に残る。旅行気分と教養が揃って味わえていいいわ。
巴御前カッコよすぎる
能の「巴御前」は泣けます。
滋賀県在住です。義仲終焉の地の粟津(あわづ)の戦いとして平家物語にあり、粟津の地名は大津市のJR石山駅周辺に今も残っています。義仲が死地として目指した松原は地名として残っており、40年ほど前には道沿いにわずかながら松の木が残っていました。今は松くい虫の被害からかほとんど残っていないのが残念です。今井兼平の墓は駅から徒歩5分程度のところにひっそりと構えられており、今でも信州からお参りに来られる方もあるようです。近年、この地に紡績会社が興され、義仲の朝日(旭)将軍の由来より旭ベンベルグを社名とし、それは今の旭化成へとつながっています。義仲の墓はそこから3kmほど西に離れた義仲寺(ぎちゅうじ)に祀られており、そこには松尾芭蕉も眠っています。義仲がどういう状況で最期を迎えたのか、また宇治川、瀬田川の戦いの背景が良く分かりました。戦国時代とは違った空気感が良いですね。これからも楽しみにしています。
「木曾殿と 背中合わせの 寒さかな」
長野県民です。義仲寺など滋賀県民の方が大切に守ってきてくださったことは、決して忘れません。
義仲寺行きました 小さいですがしばらくいくと琵琶湖があるいい所です
凄い。感動してしまいました!
なかなか見応えのある義仲の生涯でした。我が町は村おこしで義仲を起てているけどもっっとこの様な動画みたく全国に紹介してほしい!
もっと登録者増えてもいいチャンネルだな
一つ一つの考察がああイので信用されにくい。さらっと知識にする人向き。今回も2:10ころ、1月20日=真冬でありながら旧暦とはいえ「雪解け水で川が増水」と言うのは我々地理のド素人・・歴史素人でも違和感=不審を持つのは必然。
@@カエルケロケロ-x1r まあ、通説、俗説、逸話を話すという素人解説として見てますわ。学者さんじゃないのはわかってるし。
@@カエルケロケロ-x1r 寿永3年1月20日は、現在の西暦(グレゴリオ暦)では1184年3月11日です。(ちなみにユリウス暦では3月4日)北国ではまだ雪解け時期にはやや早いですが、近畿地方では厳寒期を過ぎて雪解けがあったと思われます。私も地理や歴史は素人ですが、暦の違いぐらいはわかります。以上参考まで。
まさに漢(おとこ)‼︎木曾義仲と兼平!
この動画に泣いちっち! 田舎者と謂われようと、仲間を見捨てないのが木曽次郎義仲の生きざまだーー!!自分だけ逃げ残っては ついてきてくれた兵どもに 申し訳が立たん!
武将たちの現代語会話おもしろすぎやろ
木曾義仲カッコいいです
佐々木高綱公の末裔です。先陣争いの話、丁寧に紹介していただきまして嬉しく思います。平家物語ですと、対岸に着いてから声高らかに先陣を宣言するシーンもカッコいいんですよ。「我こそは宇多天皇より九代の後胤、佐々木秀義の四男佐々木高綱!我こそはと思うものはかかってこい!」と。
1から見てますが、初めて泣けました。
凄く楽しく見れました。
宇治川の合戦で流されてきた武将を怪力の畠山重忠が敵の陣に投げ飛ばし、投げられた武将が「我こそは一番乗りなり!」と言ったもんだから敵味方、戦の手を止めてゲラゲラ笑ったという(笑)
有難うございます!
僕は、義仲のぶっ太い短すぎるサクセスストーリーが凄く興味を覚え、今勉強中です。源平時代の真のサムライですね✨
義仲は戦いには強かったけど真っ直ぐな性格だったので、調略の多い都の生活には向いていなかった部下の略奪を止められなかったことでマイナス評価を受けている
構成が上手で無駄な時間を削っています。NHKより密度が濃い良いチャンネルですねNHKの様な巨大組織の崩壊も近いようですね。情報の民主化ですね。ありがとうございます。期待しています。
戦場で名乗りを上げるのは、その状況を絵に描く絵師や文字に残す役の人に向かってという側面もあります。小さな合戦はどうか知りませんが、大戦が絵巻に残っているのはそういう理由があります。
分かりやすかったですありがとうございます🌞
木曾義仲の生き様憧れる歴史は浪漫
木曽義仲、今井兼平の主従は素晴らしいと思う。旭将軍の名の如く、頂点を極めた後は下るだけだったかもしれないが、その生きざま死にざまは武士の鑑と思える。武蔵嵐山に木曽義仲の父親の源義賢の墓があるが、ここはなんとか行けるところなので、行って見たい。
兼平の子孫の者です!嵐山まで行きました、終焉の地大津では線香を持ち得てなかったので煙草に火を付け供養の代わりをしました、内の本家は今で27代目です、山形市の最上義光記念館にその絵が保管されてます…興味がありましたら是非一度!
@@輝ユキ ありがとう。ご先祖様の凄まじき最期、歴史に刻まれ今なお多くの歴史好きの琴線に触れてるはずです。山形城に行ったときに行きそびれてました。いつか行ってみたいです!
大学時代夏休み中の課題で謡曲「兼平」の現代語訳を担当してりました。観世流の謡曲集にはない作品なので、実家の近くの高校に金春流の本を閲覧させてもらいに何日か通いました。
巴御前は捕まり和田義盛の側室になり三浦に住んだ伝説があります。
男義のある、本当に良い話で感動しますが、京都の時代祭りに巴御前が登場します。義仲と最 期迄行動を共にした巴御前は確かにあっぱれですが、京都にいわゆる狼藉を働いた義仲公を京都は永代許す事はないと思います。なのに何故時代祭りに最も輝いた女人に奉れているのか? 御知りの片方是非お教え下さい。京都らしい解釈、言い回しが聴けるかも?楽しみにしています。宜しくお願い致します。
人間くさくていいですよね、木曽殿は。平家物語読んでても、負ける未来が分かってるのに毎回応援で手に力が入るのは義仲が一番です。際立ってキャラ立ちしてるんですよね、800年も前の文学なのに。
木曾義仲は 元々 自前の軍勢がいた訳では無く 地侍に担がれた神輿みたいなものだった(源頼朝も似たようなものだった)なので 田舎侍が都で粗暴でも 厳しくする事が出来なかった事が自軍の破滅を招く訳です因みに巴御前は義仲の妻ではなく妾義仲と別れた後 頼朝方の武将と結婚しています
正室が別にいた
正室は、藤原伊子ですが、強引に行った政略結婚なので、本当に一時的なものです。一番付き合いが長かったのは巴御前なのではないかと思っています。
@@木場俊介-b9j 私もそう思っております。山吹御前、葵御前がいても、結果、最後までご奉公をすることが出来たからです。
@@user-kotori162 さん巴さんは厳密には乳母妹なので、男女以上の近さにいた可能性はあります。とはいえ、血はつながっていないので、ロマンスはあり得るという。やっぱり相棒は巴ですね!
@@木場俊介-b9j 様はい、本当にそう思います。
義仲寺。懐かしいです。
木曽義仲、今井兼平の心根熱く直ぐなこと、大軍を前に怯まず武勇猛きこと、将に類稀れなことです。討死にした敗者の記録を残した勝者も又、立派という他ありません。
備忘録👏〖 純粋な人, 義経と似たもの同士 〗
たいへんよくわかりました!
義仲さん真っ直ぐすぎた。
木曽義仲とか武田勝頼、平敦盛なんか個人的には大好きな武将です。
田んぼに落ちて死ぬなんて武士としてはかわいそう。せめて源義経に討ち取られたなら本望だったろうに。
今井四郎兼平見事な最期でした😢 小さい頃読んだ平家物語に同じ場面出てきたなあ…
養和の大飢饉によって京に年貢が集まらず、餓死者が4万人以上出た。平氏も攻める義仲・頼朝も兵糧が問題だった。朝廷も腹が減っていた。東国の年貢を当てにして頼朝の東国支配を認めた。
面白い。義仲は確かに腕っぷしは強かったかも知れないが、行政についてのビジョンはからっきしだったか?その分野に興味がなかったか、それを得意とする幕僚が集まらなかったか?血筋は確かだったが、ガキ大将で終わってしまった。そんな印象ですね。
義経と同じく武将止まりだったりして…
義経も戦だけは。
この頃の宇治て巨椋池がまだあったし、当然天ヶ瀬ダムはないから随分雰囲気違ったんでしょうね。浄妙山の話と似ているなと思ったら、宇治川の戦いて二度あったんですね。
義仲三部作、とうとう完結ですね!この度は本当にありがとうございました。ツイッターでこの動画を共有してもよろしいですか?
義仲かっこよすぎて気合い入れて作りました共有すごく嬉しいですぜひお願いします!
それにしても、巴御前の強さが半端なかったみたいですね!?日本女性の強さの象徴ですね。一目でいいから会ってみたい女性です。
鉄道唱歌東海道編41番 「粟津の松に事問えば 答えがおなる風の声 旭将軍義仲の 滅びし深田はいずかたぞ♪」ってある深田って地名じゃなくて「深い田んぼ」って意味だったんですね
木曾義仲の戦力は、今の長野と新潟の兵士で構成されていたが、圧倒的に強かったのが新潟の兵士だった。しかし、京の都で略奪や暴行を行ったのも新潟の兵士で、義仲の敗北を招いた元凶でもあった。後に、上杉謙信が戦上手と呼ばれる一因が、この屈強な新潟兵を率いていたからだった。
のちに上杉謙信が上洛した際、自軍兵士に京での一切の乱暴狼藉を禁じたのは、そういう過去があったからなんですなー。なるほど。
信濃で木曾義仲に負けてるやん。主力は信濃、越中、加賀、能登勢。越後勢は、、、知らん。
京都の街中は大軍の兵士を養えるところではない。つまり兵站を考慮せずに駐留すると、住民から掠奪する以外に糧食確保の手立てが無かった。よって掠奪を黙認せざるを得なかった。そこまで見通せなかった事が失敗の要因だろう。
田舎の無骨な方だったのでしょうが、京で馬鹿にされながらも純粋でまっすぐな木曾義仲という方が好きになりました。熱心な女侍が付いていたのも分かる気がします。戦に長け、根性と義理人情が強い方だったのですね。法皇を連れて平家にうまく合流すれば、どうなっていたのでしょうか、歴史が変わったかもしれません。
宇治川合戦はこれまでざっくりとした解説で理解していたけどこの動画でリアルタイムでの武将の移動がしれてよかった。義経はこの合戦で真っ先に後白河法皇を確保できた功績で名を挙げた。壇ノ浦の戦いでも安徳天皇と三種の神器を確保していれば後の悲劇には至らなかったと思う。
三国志の桃園の誓いは結局果たされなかったけど、木曽義仲と今井兼平(一応、巴御前も)はマジで「生まれた時は違えど死ぬ時な同じ」だな。
毛利をやってほしい。すごくわかり易い。
義仲名将ではないか。
漢義仲、天晴れ!
旭将軍木曽義仲は強い!平家に寝返ったら源平合戦は勝敗分からなくなりそう🙂
頼朝軍を源氏方と言ってるが、義仲も源氏だよね。
源氏同士の対決
まじで宇治に住んでるからなんか嬉しい笑
宇治川は流れが急です。
源頼朝の伝承画は今では違う人と言われていますから他の源頼朝像を使うべきかと……因みに 伝承画は足利義直と言われてます
頼朝と義仲が仲良かったら義経と頼朝の間を義仲がとりもつみたいになっていい体制が出来たかもなーでも結局は頼朝に全員粛正されそうだけど
「宇治川の戦いは佐々木が勝つ」で覚えてたです。
いとこ同士の対決
義仲は父親の義賢も頼朝の兄弟に殺されている。源氏は豪傑も多いが、血縁同士での殺し合いが多い。
@@たまてばこ-y8t 義賢は義平(頼朝の兄)に殺されてますね。もちろん義賢の兄であり、義平と頼朝の父である義朝が絡んでますが。
口先だけの新宮十郎義盛(源行家)を毛嫌いしてたっぽいよね義仲は何度か行家を殺害しようとしてる
そもそも、戦った「義経」と本当の弟は別人。どこかで殺めて、なり切った。なんて話は昭和でもありました。
義仲と兼平の言動はその場にいた源氏の兵からの伝聞か?😅
全部みたい
現在、歴史を洗い直して調べると大分内容が変わってます動画の内容は我々が学校の教科書で習う定説であり平家物語という小説の作り話に過ぎません
義仲が生き延びて義経と合流して鎌倉に攻め下るとかあったら面白いよな。当然、頼朝討伐の綸旨も貰ってなw
歴史を探索=全てにおいて、「疑義」を持つこと。
木曽義仲は京での振るまいが悪く、誰からも相手にされなくなってもなお、最期の最期まで少ない軍勢で源氏に果敢にも戦っていたんですね。 頼朝の軍に東と南を囲まれた時、西も行ったら危険で逃げる場所が安全な場所が北しかなくなっても、幼い頃に木曽の山の中で過ごした今井兼平との約束を果たすため、彼がいる危険な東へ向かい、幼なじみとの再開を果たしたんですよね。そして義仲は幼なじみと巴御前などの仲間たち共に源氏と戦ったのですが、幼なじみの二人は敵に別々の場所に居させられてしまい、約束は果たせずに終わったんですね。それでも二人は仲間たちと必死で源氏と戦ったんですが、ついに力尽き、義仲はこの戦いで命を落としたんですよね。 それを知った今井兼平は、義仲と運命を共にすべく、自ら命を絶ったんですね。 幼い頃から木曽の山の中で育ち、運命を共に過ごしたてきた2人は、最期の最期まで一緒でしたね。 いい話でした。次は一ノ谷の戦いですね。鵯越の逆落とし、カッコいいですよね。 それでは、次回も楽しみにしています。
@@Y_Eschool リクエストです!次回はもう決まっちゃっているので、また今度でいいので俵藤太と呼ばれ、大百足を退治した事でも知られる藤原秀郷をお願いします。彼は下野国の国司で、関東に勢力を置いていた平将門を倒したんですよね。彼、超カッコいいので是非取り上げてほしいんです。お願いします!
@@Y_Eschool ありがとうございます! リクエストに応えていただくのは、コロナウイルスが落ち着いた時のお楽しみとしてとっておきます。 このチャンネル動画に出会えて、とても感謝しています。
昔、いったい誰が書いたものだったのか。木曽義仲にくっついて木曽から京へ行った少年がいた。同じ源氏の義経軍に追い詰められて義仲最期。「犬丸(?)巴(ともえ)を連れて木曽へ落ち延びよ!」「いいえ、おいらは御大将とどこまでも!」「ならぬ!おまえは生きるのだ!」感動的な読み物だった。
義仲も源氏だから源氏の矢がというのも変
や
埼玉生まれ木曾義仲
いい動画なんですけど早口で滑舌悪いんで聞きづらいなぁ
今日、先陣の碑を見に行きました。なんか彫ってありましたが暗くて読めませんでした笑
センター試験に出てましたねw
主の声変わった?
日本版の呂布?
盗んだで落ち着く話なのか
少観世音菩薩…。
木曽義仲も源氏だよな?😅
ちなみにアサヒノショウグンな❗
これまじの話なんですけど僕のご先祖さま木曾義仲なんですよ
証拠がねえ
確かにwでもほんとうなんですよ
@@reiaxy2750 同じことを言うな。根拠がない
@@土方歳三-y5r 土方ネットやねんから気軽に行けよ。
未だに、検証が必要なのは「勝ち組の文」だから。大袈裟に書くし、ある事ねぇ事大盛。真実を求めるならそこからよ。言い切ったらおしまい。
そおそも「見ても居ねぇのに」始めるのです。はねぇだろ。ボケ!(`・ω・´)
幼き日の、旧友との約束のために死道を選ぶ義仲さんカッコ良すぎる。
鎌倉殿初回最後の主要人物紹介を見て、ぶっちゃけ義時と頼朝は
他3組(清盛、義仲、義経)ほど主役要素ないなと思ってしまいましたw
まぁ草燃える、好きなんですけどね
濃ゆい時代だ…
@@john_andaman3498さん
同感です。義時はしばらくは、英雄に振り回される語り部となりそうです。
去年の明智さんくらい、空気です。
激アツですね!!日本史勉強し始めて間も無いですが初めてこんなに感動しました
古文でも有名ですね!
最後の自ら馬から落ちる所
文字であるのに鮮明にそのシーンが
想像できた。すごい話だ
粗野で礼儀知らずだけど、武士らしかった。
しかし、巴御前はカッコいいなぁ。
木曾義仲殿三部作拝見致しました。
とても完成度が高くこちらも嬉しくなってしまう動画でした!
木曾義仲殿生涯も人柄としても面白い人物ですよね。もっと流行ってほしい…。
当方は義仲公を倒したと言われる方の、平氏の末裔にございますが……戦いの場ならば、致し方ないとは、片付けられませんな…
とにかく昔の人は根性ありすぎる
スパルタ兵300人いたら勝てた
@@猫のダヤン
いつの時代だよ。
日本の武士を舐めすぎ。
あんな重武装歩兵の集まりで、盾と長槍でスクラムを組む戦術なんて、日本の侍の長弓の火矢で燃やしてお仕舞いよ。
木曾義仲と新田義貞の違いが分かりにくい
1万の兵がいたら義経の軍翻弄できそう
「木曽殿最期」
日本史の数ある名場面の一つですね。今井兼平に巴御前。それぞれがいい味出してます。
義仲、源氏にしては珍しい誠実な人だね。
日本史は似たような名前がいっぱい出てきて覚えるのがたいへんでしたが、以前はアニメで助かった経験があります。さらにこの動画は登場人物の顔がわかり、感情の移りや地形も豊かで、記憶に残る。旅行気分と教養が揃って味わえていいいわ。
巴御前カッコよすぎる
能の「巴御前」は泣けます。
滋賀県在住です。義仲終焉の地の粟津(あわづ)の戦いとして平家物語に
あり、粟津の地名は大津市のJR石山駅周辺に今も残っています。
義仲が死地として目指した松原は地名として残っており、40年ほど前には
道沿いにわずかながら松の木が残っていました。今は松くい虫の被害からか
ほとんど残っていないのが残念です。
今井兼平の墓は駅から徒歩5分程度のところにひっそりと構えられて
おり、今でも信州からお参りに来られる方もあるようです。
近年、この地に紡績会社が興され、義仲の朝日(旭)将軍の由来より
旭ベンベルグを社名とし、それは今の旭化成へとつながっています。
義仲の墓はそこから3kmほど西に離れた義仲寺(ぎちゅうじ)に祀られており、
そこには松尾芭蕉も眠っています。
義仲がどういう状況で最期を迎えたのか、また宇治川、瀬田川の戦いの
背景が良く分かりました。戦国時代とは違った空気感が良いですね。
これからも楽しみにしています。
「木曾殿と 背中合わせの 寒さかな」
長野県民です。
義仲寺など滋賀県民の方が大切に守ってきてくださったことは、決して忘れません。
義仲寺行きました 小さいですが
しばらくいくと琵琶湖があるいい所です
凄い。感動してしまいました!
なかなか見応えのある義仲の生涯でした。我が町は村おこしで義仲を起てているけどもっっとこの様な動画みたく全国に紹介してほしい!
もっと登録者増えてもいいチャンネルだな
一つ一つの考察がああイので信用されにくい。
さらっと知識にする人向き。
今回も2:10ころ、1月20日=真冬でありながら旧暦とはいえ「雪解け水で川が増水」と言うのは我々地理のド素人・・歴史素人でも違和感=不審を持つのは必然。
@@カエルケロケロ-x1r まあ、通説、俗説、逸話を話すという素人解説として見てますわ。学者さんじゃないのはわかってるし。
@@カエルケロケロ-x1r 寿永3年1月20日は、現在の西暦(グレゴリオ暦)では1184年3月11日です。(ちなみにユリウス暦では3月4日)北国ではまだ雪解け時期にはやや早いですが、近畿地方では厳寒期を過ぎて雪解けがあったと思われます。私も地理や歴史は素人ですが、暦の違いぐらいはわかります。以上参考まで。
まさに漢(おとこ)‼︎木曾義仲と兼平!
この動画に泣いちっち! 田舎者と謂われようと、仲間を見捨てないのが木曽次郎義仲の生きざまだーー!!
自分だけ逃げ残っては ついてきてくれた兵どもに 申し訳が立たん!
武将たちの現代語会話おもしろすぎやろ
木曾義仲カッコいいです
佐々木高綱公の末裔です。先陣争いの話、丁寧に紹介していただきまして嬉しく思います。
平家物語ですと、対岸に着いてから声高らかに先陣を宣言するシーンもカッコいいんですよ。
「我こそは宇多天皇より九代の後胤、佐々木秀義の四男佐々木高綱!我こそはと思うものはかかってこい!」と。
1から見てますが、初めて泣けました。
凄く楽しく見れました。
宇治川の合戦で流されてきた武将を怪力の畠山重忠が敵の陣に投げ飛ばし、投げられた武将が
「我こそは一番乗りなり!」と言ったもんだから敵味方、戦の手を止めてゲラゲラ笑ったという(笑)
有難うございます!
僕は、義仲のぶっ太い短すぎるサクセスストーリーが
凄く興味を覚え、今勉強中です。源平時代の真のサムライですね✨
義仲は戦いには強かったけど真っ直ぐな性格だったので、調略の多い都の生活には向いていなかった
部下の略奪を止められなかったことでマイナス評価を受けている
構成が上手で無駄な時間を削っています。
NHKより密度が濃い良いチャンネルですね
NHKの様な巨大組織の崩壊も近いようですね。
情報の民主化ですね。ありがとうございます。
期待しています。
戦場で名乗りを上げるのは、その状況を絵に描く絵師や文字に残す役の人に向かってという側面もあります。
小さな合戦はどうか知りませんが、大戦が絵巻に残っているのはそういう理由があります。
分かりやすかったですありがとうございます🌞
木曾義仲の生き様憧れる
歴史は浪漫
木曽義仲、今井兼平の主従は素晴らしいと思う。
旭将軍の名の如く、頂点を極めた後は下るだけだったかもしれないが、
その生きざま死にざまは武士の鑑と思える。
武蔵嵐山に木曽義仲の父親の源義賢の墓があるが、
ここはなんとか行けるところなので、行って見たい。
兼平の子孫の者です!嵐山まで行きました、終焉の地大津では線香を持ち得てなかったので煙草に火を付け供養の代わりをしました、内の本家は今で27代目です、山形市の最上義光記念館にその絵が保管されてます…興味がありましたら是非一度!
@@輝ユキ
ありがとう。ご先祖様の凄まじき最期、歴史に刻まれ今なお多くの歴史好きの琴線に触れてるはずです。
山形城に行ったときに行きそびれてました。いつか行ってみたいです!
大学時代夏休み中の課題で謡曲「兼平」の現代語訳を担当してりました。観世流の謡曲集にはない作品なので、実家の近くの高校に金春流の本を閲覧させてもらいに何日か通いました。
巴御前は捕まり和田義盛の側室になり三浦に住んだ伝説があります。
男義のある、本当に良い話で感動しますが、京都の時代祭りに巴御前が登場します。義仲と最 期迄行動を共にした巴御前は確かにあっぱれですが、京都にいわゆる狼藉を働いた義仲公を京都は永代許す事はないと思います。なのに何故時代祭りに最も輝いた女人に奉れているのか? 御知りの片方是非お教え下さい。京都らしい解釈、言い回しが聴けるかも?楽しみにしています。宜しくお願い致します。
人間くさくていいですよね、木曽殿は。
平家物語読んでても、負ける未来が分かってるのに毎回応援で手に力が入るのは義仲が一番です。際立ってキャラ立ちしてるんですよね、800年も前の文学なのに。
木曾義仲は 元々 自前の軍勢がいた訳では無く 地侍に担がれた神輿みたいなものだった(源頼朝も似たようなものだった)
なので 田舎侍が都で粗暴でも 厳しくする事が出来なかった事が自軍の破滅を招く訳です
因みに巴御前は義仲の妻ではなく妾
義仲と別れた後 頼朝方の武将と結婚しています
正室が別にいた
正室は、藤原伊子ですが、強引に行った政略結婚なので、本当に一時的なものです。
一番付き合いが長かったのは巴御前なのではないかと思っています。
@@木場俊介-b9j 私もそう思っております。山吹御前、葵御前がいても、結果、最後までご奉公をすることが出来たからです。
@@user-kotori162 さん
巴さんは厳密には乳母妹なので、男女以上の近さにいた可能性はあります。とはいえ、血はつながっていないので、ロマンスはあり得るという。
やっぱり相棒は巴ですね!
@@木場俊介-b9j 様
はい、本当にそう思います。
義仲寺。懐かしいです。
木曽義仲、今井兼平の心根熱く直ぐなこと、大軍を前に怯まず武勇猛きこと、将に類稀れなことです。討死にした敗者の記録を残した勝者も又、立派という他ありません。
備忘録👏〖 純粋な人, 義経と似たもの同士 〗
たいへんよくわかりました!
義仲さん真っ直ぐすぎた。
木曽義仲とか武田勝頼、平敦盛なんか個人的には大好きな武将です。
田んぼに落ちて死ぬなんて武士としてはかわいそう。
せめて源義経に討ち取られたなら本望だったろうに。
今井四郎兼平見事な最期でした😢 小さい頃読んだ平家物語に同じ場面出てきたなあ…
養和の大飢饉によって京に年貢が集まらず、餓死者が4万人以上出た。平氏も攻める義仲・頼朝も兵糧が問題だった。朝廷も腹が減っていた。東国の年貢を当てにして頼朝の東国支配を認めた。
面白い。
義仲は確かに腕っぷしは強かったかも知れないが、行政についてのビジョンはからっきしだったか?その分野に興味がなかったか、それを得意とする幕僚が集まらなかったか?血筋は確かだったが、ガキ大将で終わってしまった。そんな印象ですね。
義経と同じく武将止まりだったりして…
義経も戦だけは。
この頃の宇治て巨椋池がまだあったし、当然天ヶ瀬ダムはないから随分雰囲気違ったんでしょうね。
浄妙山の話と似ているなと思ったら、宇治川の戦いて二度あったんですね。
義仲三部作、とうとう完結ですね!
この度は本当にありがとうございました。
ツイッターでこの動画を共有してもよろしいですか?
義仲かっこよすぎて気合い入れて作りました
共有すごく嬉しいですぜひお願いします!
それにしても、巴御前の強さが半端なかったみたいですね!?
日本女性の強さの象徴ですね。一目でいいから会ってみたい女性です。
鉄道唱歌東海道編41番 「粟津の松に事問えば 答えがおなる風の声 旭将軍義仲の 滅びし深田はいずかたぞ♪」ってある深田って地名じゃなくて「深い田んぼ」って意味だったんですね
木曾義仲の戦力は、今の長野と新潟の兵士で構成されていたが、圧倒的に強かったのが新潟の兵士だった。しかし、京の都で略奪や暴行を行ったのも新潟の兵士で、義仲の敗北を招いた元凶でもあった。後に、上杉謙信が戦上手と呼ばれる一因が、この屈強な新潟兵を率いていたからだった。
のちに上杉謙信が上洛した際、自軍兵士に京での一切の乱暴狼藉を禁じたのは、そういう過去があったからなんですなー。なるほど。
信濃で木曾義仲に負けてるやん。
主力は信濃、越中、加賀、能登勢。
越後勢は、、、知らん。
京都の街中は大軍の兵士を養えるところではない。つまり兵站を考慮せずに
駐留すると、住民から掠奪する以外に
糧食確保の手立てが無かった。
よって掠奪を黙認せざるを得なかった。
そこまで見通せなかった事が失敗の
要因だろう。
田舎の無骨な方だったのでしょうが、京で馬鹿にされながらも純粋でまっすぐな木曾義仲という方が好きになりました。熱心な女侍が付いていたのも分かる気がします。戦に長け、根性と義理人情が強い方だったのですね。法皇を連れて平家にうまく合流すれば、どうなっていたのでしょうか、歴史が変わったかもしれません。
宇治川合戦はこれまでざっくりとした解説で理解していたけど
この動画でリアルタイムでの武将の移動がしれてよかった。
義経はこの合戦で真っ先に後白河法皇を確保できた功績で名を挙げた。
壇ノ浦の戦いでも安徳天皇と三種の神器を確保していれば後の悲劇には至らなかったと思う。
三国志の桃園の誓いは結局果たされなかったけど、木曽義仲と今井兼平(一応、巴御前も)はマジで「生まれた時は違えど死ぬ時な同じ」だな。
毛利をやってほしい。すごくわかり易い。
義仲名将ではないか。
漢義仲、天晴れ!
旭将軍木曽義仲は強い!平家に寝返ったら源平合戦は勝敗分からなくなりそう🙂
頼朝軍を源氏方と言ってるが、義仲も源氏だよね。
源氏同士の対決
まじで宇治に住んでるからなんか嬉しい笑
宇治川は流れが急です。
源頼朝の伝承画は今では違う人と言われていますから
他の源頼朝像を使うべきかと……
因みに 伝承画は
足利義直と言われてます
頼朝と義仲が仲良かったら義経と頼朝の間を義仲がとりもつみたいになっていい体制が出来たかもなー
でも結局は頼朝に全員粛正されそうだけど
「宇治川の戦いは佐々木が勝つ」で覚えてたです。
いとこ同士の対決
義仲は父親の義賢も頼朝の兄弟に殺されている。
源氏は豪傑も多いが、血縁同士での殺し合いが多い。
@@たまてばこ-y8t 義賢は義平(頼朝の兄)に殺されてますね。
もちろん義賢の兄であり、義平と頼朝の父である義朝が絡んでますが。
口先だけの新宮十郎義盛(源行家)を毛嫌いしてたっぽいよね
義仲は何度か行家を殺害しようとしてる
そもそも、戦った「義経」と本当の弟は別人。どこかで殺めて、なり切った。なんて話は昭和でもありました。
義仲と兼平の言動はその場にいた源氏の兵からの伝聞か?😅
全部みたい
現在、歴史を洗い直して調べると大分内容が変わってます
動画の内容は我々が学校の教科書で習う定説であり平家物語という小説の作り話に過ぎません
義仲が生き延びて義経と合流して鎌倉に攻め下るとかあったら
面白いよな。当然、頼朝討伐の綸旨も貰ってなw
歴史を探索=全てにおいて、「疑義」を持つこと。
木曽義仲は京での振るまいが悪く、誰からも相手にされなくなってもなお、最期の最期まで少ない軍勢で源氏に果敢にも戦っていたんですね。
頼朝の軍に東と南を囲まれた時、西も行ったら危険で逃げる場所が安全な場所が北しかなくなっても、幼い頃に木曽の山の中で過ごした今井兼平との約束を果たすため、彼がいる危険な東へ向かい、幼なじみとの再開を果たしたんですよね。そして義仲は幼なじみと巴御前などの仲間たち共に源氏と戦ったのですが、幼なじみの二人は敵に別々の場所に居させられてしまい、約束は果たせずに終わったんですね。それでも二人は仲間たちと必死で源氏と戦ったんですが、ついに力尽き、義仲はこの戦いで命を落としたんですよね。
それを知った今井兼平は、義仲と運命を共にすべく、自ら命を絶ったんですね。
幼い頃から木曽の山の中で育ち、運命を共に過ごしたてきた2人は、最期の最期まで一緒でしたね。
いい話でした。次は一ノ谷の戦いですね。鵯越の逆落とし、カッコいいですよね。
それでは、次回も楽しみにしています。
@@Y_Eschool リクエストです!次回はもう決まっちゃっているので、また今度でいいので俵藤太と呼ばれ、大百足を退治した事でも知られる藤原秀郷をお願いします。彼は下野国の国司で、関東に勢力を置いていた平将門を倒したんですよね。彼、超カッコいいので是非取り上げてほしいんです。お願いします!
@@Y_Eschool ありがとうございます! リクエストに応えていただくのは、コロナウイルスが落ち着いた時のお楽しみとしてとっておきます。
このチャンネル動画に出会えて、とても感謝しています。
昔、いったい誰が書いたものだったのか。木曽義仲にくっついて木曽から京へ行った少年がいた。同じ源氏の義経軍に追い詰められて義仲最期。「犬丸(?)巴(ともえ)を連れて木曽へ落ち延びよ!」「いいえ、おいらは御大将とどこまでも!」「ならぬ!おまえは生きるのだ!」感動的な読み物だった。
義仲も源氏だから源氏の矢がというのも変
や
埼玉生まれ木曾義仲
いい動画なんですけど
早口で滑舌悪いんで聞きづらいなぁ
今日、先陣の碑を見に行きました。
なんか彫ってありましたが暗くて読めませんでした笑
センター試験に出てましたねw
主の声変わった?
日本版の呂布?
盗んだで落ち着く話なのか
少観世音菩薩…。
木曽義仲も源氏だよな?😅
ちなみにアサヒノショウグンな❗
これまじの話なんですけど僕のご先祖さま木曾義仲なんですよ
証拠がねえ
確かにwでもほんとうなんですよ
@@reiaxy2750
同じことを言うな。根拠がない
@@土方歳三-y5r
土方ネットやねんから気軽に行けよ。
未だに、検証が必要なのは「勝ち組の文」だから。大袈裟に書くし、ある事ねぇ事大盛。真実を求めるならそこからよ。言い切ったらおしまい。
そおそも「見ても居ねぇのに」始めるのです。はねぇだろ。ボケ!(`・ω・´)