日本最古の国家「奴国」の謎!【ゆっくり解説 】
ฝัง
- เผยแพร่เมื่อ 3 ม.ค. 2024
- 「やばい古代史」では、古代史に焦点を当てて歴史を紐解いていく番組です。
我々はどこから来たのか。その鍵を古代史から読み解きます。
※この動画は、過去に起こった出来事をわかりやすく伝えることを目的としています。視聴者に衝撃を与えるような目的はございせん。
※動画内に、死を連想させるような言葉を出てきますが、関係者を冒涜したり行動を助長するような意図は一切ございません。
※動画内の素材は全て引用であり、著作権や肖像権を侵害する目的は一切ございません。
著作権などに関するお問い合わせはこちらのアドレスまでお願い致します。
yabaikodaishi@gmail.com
歴史には全く関係ありませんが、もし、金印公園に行くことがあれば、金印ドックを食べてみてください。とてもおいしいのでお勧めです。
かわいい
BGMがうるさくて話が聞こえん
3分ガマンしたけど耐えられなくなって動画を見るのを止めた。残念です。
金印が「持ち帰られて」志賀島にあったのか、「漂着して」志賀島になったのか、で奴国の場所は大きく変わるかもしれませんよ。
国が滅亡した時に金印だけは敵に渡すまいと逃亡途中に埋めたのかも
それだと近隣で他の遺跡が見つからないのも説明が付く
普通に金印を持って亡命しようとして果たせなかったと思います。
もしくは金印を持って支援要請をした可能性もあります。
・志賀島で発見された際は土の中から金印が単独で埋まっていたわけでなく、
石棺の中から見つかっており、大人2人でやっと動かした石蓋だったこと。
・志賀海神社では君が代の元歌といわれ神功皇后に披露した安曇磯良を讃える神楽が今も行われていること。
安曇氏(のちの安部・阿部)は海神族で三韓征伐の際に道案内をした一族。
・昔は志賀島は孤島で今みたいに繋がってなかったので、沖ノ島みたいに神域だったのかもしれないので、
わざわざ志賀島に石棺で厳重に埋めたのではないかと思っています。
3~4年前の秋に京都国立博物館でこの金印が展示されていました。実物を見て、案外小さいと思いました。様々の視点から金印を研究して、偽物説を唱えることの意義を否定するつもりはありませんが、わざわざ手間と費用をかけて金印のような物を作る動機が全く思いつかないことからいって、本物で間違いないと思います。
BGMがうるさい
うちの近所が史跡が多いのにきづきませんでした。ww
(昔から工事などの建設で土地を掘るとたくさん遺跡や遺物が出てきてます。)
福岡は博多湾を埋め立てて造られてる都市の歴史があり
今と地形や地理や環境も昔と大きく異なってます。
金印はたくさんくばられたひとつだったんですね。
しりあいの書家のかたがが字体がその時代にないことに違和感を感じてました。
後に刻印を見つかった金の土台に刻まれた?ものもあるのかもしれませんね。
(もっとたくさん出てくれば比較はできそうですが..。)
今後の発見と考察と研究を俟つしかできませんが
歴史の遺物のロマンですね。
江戸時代は金本位制を採用していて金は重要な経済資源であったため、純度に関しても一般的な知識であり高い技術を擁した職人は多数いたそうですよ。
個人的には見つかった場所からしても、他国で見つかった偽金印と字体などが似通っていることからもほぼ贋作で間違いないと思いますね。
もしかすると作ったはいいものの、なんらかの理由で人目の付かない場所へ隠すしかなくなったということなのかもしれません。
とても興味深い動画でした。ありがとうございます。
この金印が本当に光武帝の時代の本物だとしても、紀元前57年。メソポタミアやアナトリア、エジプトやクレタ文明の粘土板など(紀元前4000年頃)と比べたら、すごく新しい物なんですよね。
偽物説もそれなりに説得力あるけど、本物説も説得力ある。何か新しい証拠や、新しい技術の判別方法がが出ない限り、双方が納得する結論は出ないでしょうね。
糸島市(伊都国)にも福岡市(奴国)にも三種の神器を副葬した王墓があります。
福岡市の方が古いようですので、奴国の王家が伊都国に遷都したのではないでしょうか。
中国で発掘された金印と大きさ重さデザイン、金の純度が一致する理由は❓
当時の江戸時代では知る事が出来なかったはず🥸
福岡市博物館の常設展示で金印だけは別料金
レプリカ買ったよ。
私は九州国立博物館の特別展示のときに見ました。意外に小さく感じましたが、本物を見ることができてとても感動しました。
色々議論が有って面白いですね。
金印の材質や特徴って、もし黒田藩が当時に何かしらの漢と朝貢関係を持っていた国の印を手に入れたとかの可能性も無いとは言えないからね。
本物を見栄え良くするために加工した説があってもいいと思う
諸岡から井尻の遺跡はほんとは広大で、どこ掘っても色々出て開発出来ないから申告せず町作った
奴国近隣も同じくで、あれ等がまともに検証されていたらまた違ったんやろうな
異説ですが、金印は元々 細石神社(サザレ石)の御神宝で豊前国から来た黒田家に寄進したとのこと。甚平さん発見は後の創作。
金印の読みは
「漢の委奴国王」
委奴とは 北方の匈奴(きょうど 荒々しい部族)に対して
穏やかな柔順な部族を意味します。
魏志倭人伝の「奴国」は
野国(ノコク)で伊都国の近くの二万戸の水田地帯と考えています。
子供の頃、学研の付録で複製の金印があったのを思い出しました。いまだに謎の存在なのですね。
魏志倭人伝に記述の奴国って2回出てきます。
それだけでアレヤコレヤ妄想膨らむんで楽しいネタです。
金印も疑い出したら止まりません。物証があってもホントのところが確定できないのがまた楽しい。
無責任なコメントになってしまいました。
でも楽しい!
金印は別の場所で盗掘されたのを「さすがにバレたらヤバいよな」と発見場所をごまかして差し出した…とかじゃないかなあ
それならば差し出す必要性が無いです。
@@aiueiueo
? なんで?
鋳つぶしても、せいぜい2cm四方の金塊。
でも、明らかにそれ以上の価値のありそうなシロモノ。
多少知恵が働くなら、手を後ろに回さずにナントカ表に出して高く売ろうと考える。と、なると、功名心のある学者あたりを狙う。
あるいは、故買商ルートとかにはもっと早くに出ていて、学者のとこに来た時にはすでに出所がわからなかったとかもありうるかな?
そういうアヤシイ品に来歴をつける仕事の学者もいるしね。
これは現代の盗難美術品or贋作づくりなんかのルートでもある話。真贋は別にして出所がはっきりしない品に「来歴」をつけるステップってあるのよ。
「ナチの強奪にあった」とか「空襲で焼けたと思われてた」とか。
近所です。春日市の奴国公園の。金印はそれでいいですが、奴国と言う工業力が当時としては先端技術国があったらしい。近くに、板付遺跡郡や諸岡遺跡郡があります。小学校高学年(50年前くらい)発掘調査があって、僕が拾った(ちょっと何か出らんかな?って)、掘って見つけた陶器の破片を調査員の方にこれって?って見せこれは遺跡の陶器の破片ってお墨付きもらったの今でも大事にもちょるよ。小学生だったので、夢を壊したくない配慮だったかもしれないけれどそれでいいや。金印も夢というかロマンを感じる。
滇王之印とそっくりなのよね
昆明の博物館でこの印の複製をを見た。複製説は間違いだと確信した。
金印って、木簡に押したんか?
亀井南冥は帰化人儒学者(医者)。金印は出処怪しいところがイイですね
伊都国の前進の委奴国(三雲南小路遺跡・井原鑓溝遺跡)の王墓を守る、細石神社の宝物の可能性が高い。
いつかまとめようとしていた場所です。助かります。最古に近い前方後円墳。ヤマト政権の影響があると思いますが邪馬台国との関係は、、、?
国内最古の絹出土は早良区の有田遺跡ではないでしょうか?(¯―¯٥)笑
どの遺跡だったか忘れたが小学校の頃に甕棺墓がいっぱい発掘された場所を
社会見学で見に行った記憶があるな。 来年50歳のおっさんですw
福岡県周辺の遺跡群を奴国と決めてかかるのは、どうかと考えますが。光武賜以印綬(原文)ここでは、印綬であり、金印綬ではない事を指摘しておきます。(この時代東夷においては金印綬を賜った国はありません。)
労作とは思いますが、もう少しゆっくり話して欲しいですね。再生速度を0.75にすると今度はかったるい。また、背景音が耳障りなので音声だけにして欲しいです。
なかなか面白い動画でした。周辺国で同様の印が見つかっていないのはなぜなんだろうか。琉球は確実に朝貢していたのだから金印が与えられてもいいはず。日本以外の国はどうか。(北方騎馬民族の方であるらしいけど)比較検討できないのは残念。
それは天之御中主の化身岸田閣下が時代を遡り興した国である。岸田閣下万歳!翔太郎殿下万歳!
どう見ても大和王権が相当な古代から続いているのは間違いないです。
それを隠そうとしているのですかね?
ヤマト政権と倭国は別物でしょ。
宋書倭国伝だったかな?
謁見の間で日本国の使者と倭国の使者が自分達こそが国の代表だと喧嘩しだしたと記録があったはず。
その時代までは大和政権の日本国と九州王朝の倭国が別々に存在してたことになると思います。
@@490526ryu
北九州の地域勢力と大和王権ではなく、北九州の地域勢力同士の話だと思います。
大和王権は「朝貢をしていなかった」のだと思います。
最古という証拠は?
他に発見されていない。
普通に考えて大陸からの玄関口である福岡に最初の国ができるのは必然だと思います