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私の先祖は、石上神宮の神職が、応仁の乱の頃に現在の糸魚川市あたりまで逃げて、武士になったそうです。その一部が新潟県新発田市を経て、16世紀半ばに群馬県安中市の磯部温泉のあたりに移住したそうです。(武田の来襲への備えの一環として。)物部氏の流れをくんでいると言われています。
慣れるしかないけどやっぱり慣れないですよね苦笑💦
丁未の乱の地の近くには越智一族の祖である恩智神社もあり、そのことも深く掘って触れて欲しかったです同乱で迹見赤檮に弓で射られ、秦河勝に首を取られた守屋ですが、守屋墳(墓)には全国の超有名神社(八坂神社や熱田神宮や伏見稲荷…)の玉垣がぐるりと敷地の周りを囲っていて守屋墳は必見ですまた、同乱でそれらの四天王を率いた聖徳太子は、討った守屋の祟りを怖れ、自身が戦勝のために建てた四天王寺の金堂に、守屋の祠と守屋の祟りの化身の啄木鳥を防ぐ為の鷹の止まり木を立て、最近再建された今の金堂にもその姿を遺していますそんな物部守屋ですが守屋の別業の地と言われた渋川廃寺跡には時代的に当時の寺の瓦等の遺跡が出ていて、今も物部一族の話しはミステリーに包まれていますねともあれとても良い動画でした
出雲の国譲り神話で、息子のタケミナカタが抵抗したけど負けて諏訪湖まで逃げたって話、諏訪湖の近くの守屋山には物部守屋を祀ってたり、諏訪の土着の神の洩矢神なんかも物部に関係あるのかしら?
越智氏人物として初めて史上に登場するのは越智直(おちのあたい)。日本霊異記には、白村江の戦いで捕虜になり唐に連行されたが観音菩薩の霊験により無事帰還することができ、観音菩薩を奉じて寺を建てたという話が載ってる。また、「予章記」という中世に伊予国で栄えた越智氏一族の河野氏が自らの氏族の来歴を記した文書には、河野氏の祖先は小千益躬(越智益躬)という武将で、小千益躬は「百済の軍勢が鉄人を押し立てて日本に攻めてきた時、鉄人の足の裏を射抜いてこれを撃退した」という話も載っています。
私もその末裔です。考霊天皇の皇子ヒコサシマのミコト末裔と聞いています。
ちなみに古代中国の鎧を再現した人のTH-camがあるけど、本当に鉄人!みたいな鎧でした。
あたしの知り合い物部さんがいます。物部氏の子孫だそうで本家には過去帳のような巻物もあるそうです
石上神宮は物部氏の氏神様ですね。特殊な呪術を司る一党もおられたようです。
物部の子孫ワラワラで草
私の先祖、金子の一族は島根の石見で物部神社の社家をやっておりました。なお、金子は出雲の金屋子神社から付いた名前らしく、発祥は埼玉県入間市。入間市の名前の元となった入間氏は物部氏。地域には饒速日尊を祀る神社があります。
物部氏は徐福?
私の祖先は(分家の分家の傍系くらいですが)物部氏〜穂積氏〜熊野鈴木氏とききました。昔々、古代、戦で酷く負けてから、戦うことをやめ、讃岐の高松あたりに流れて、そこで地元の有力者として昭和までいたようです。
勉強になります。越智氏が物部一族というのは愛媛でも有名です。饒速日は伊予を平定して、その子供も愛媛の浮島神社にお墓があるとい伝説もあるそうな。 工学博士芸人 遼子規キンジロウ
J2レノファ山口初代10番も石上さん、西本願寺の前総長も石上さん、かなり問題のある総長でしたが
物部氏といえば、諏訪大社のことも出してほしかった。
12:04 伊予の越智氏が伊予の周辺の国司を任されたのは、西暦4世紀後半以降と言われていて、西暦1世紀頃にあった可能性が高い神武東征よりも、ずっと後のことだよ。
なんかおかしいと思った。饒速日が物部の始祖なのに何で神武東征以前に支族の越智氏がしまなみ海道で勢力を張ってるんだよ
せっかく興味のある内容でも誤字誤読が多いとげんなりしますな なんで制作時にもっと慎重に原稿を作ったり誤読の修正をしないんでしょうかねえ 別にこちらの動画に限ったことではありませんが
京都の大学に進学したら、1年後輩に京都出身の物部君がいた。卒業後住友銀行に就職したけど、辞めて自分で事業を起こしてた。
住友銀行を脱サラして事業家って凄いね
そちらの物部さんは、優秀ですねこちらの物部さんは、懲役行ってます❤ 馬鹿です🎉
ニニギとニギハヤヒの位置関係をちょっと同時に説明してくれると助かります。途中まで同じ人かと思ってしまいました。😅
栃木県真岡市に物部って地名があるよ。物部氏が落ちてきたって伝説も。物部郡物井って如何にも的な地名。
道鏡に崩御、崩御と称徳いいなんて川柳がございますな。
物部朝臣勝安房守安芳号海舟の話は?
越智氏といえば、Superflyのボーカルの越智志帆さんも愛媛県今治市出身ですね
自分の苗字である高橋氏の祖は、饒速日の13世孫・物部建彦連公が高橋の姓を名乗ったらしい❗😁👍
0:11
多分農民が明治に付けた名前だと思うよ
治水工学の勉強をしていた時に、近代的な治水工学の権威で河川法の基礎を作った人として、物部長穂博士の名前が出てきました。秋田県の宮司さんの家系との事です。
最初は天皇じゃなくてオオキミ(大王)ね。
そしてすめらみこと
大分出身だけど同級生に越智さんとか児玉さんとかいたよね
阿波忌部から物部にいたる
忌部氏は出雲神族。元出雲王国の東王家、富(トビ)家(松江)の分家。本願地は松江の忌部郷(玉造周辺一帯)出雲に渡来した徐福(彦ホアカリ。(後にはニギハヤヒ)を自称)らが引き起こしたクーデターにより出雲王国の第八代主王(大穴持(オホナモチ))の神門(郷戸)の八千矛命と、同副王(少名彦。又、コトシロ主)の富の八重波津身命らがほぼ同時期に相次いで徐福の配下、ホヒやヒナドリらにより暗殺された。極悪非道の渡来人たちヤカラを忌避した王家王族や出雲人たちが大量に出雲を後にした。その最大規模だったのが富(トビ)王家の親王(王子)の一人、クシヒカタ。出雲の人口の約半数にも及んだとか。クシヒカタは先ず、母親の実家、摂津三島(大阪府旧三島郡(茨木市~高槻市辺り))に移り住んだ。この際、近しい分家の忌部家の太玉命もクシヒカタに付き従って移住した。暫くしてクシヒカタ命は当時は人跡疎らで広大な湖沼を抱えていた大和(奈良盆地)に移住、入植。本家の富(トビ)家に少し遠慮して音が同じ、登美家を創設。彼の屋敷近くに亡き父の御霊を祀り慰霊する祠を営み、氏神と仰いだのが今の(葛城の)鴨都波神社。(大和最古の神社。三輪山祭祀はこの少し後)この際も従来からの出雲人らに加えて摂津三島人らもあまた彼に付き従って大和の葛城に集団移住(入植)して開発に当たった。勿論、忌部の太玉命らもクシヒカタ命に付き従って大和の葛城に入った。時代は紀元前2世紀前半頃。忌部らが最も信奉する神はサルタ彦大神。
神武が討伐したのは崇神神武=垂仁欠史八代となるわけだが神武も崇神もハツクニシラスという二つ名があるなぜ崇神にその名があるのか彼が初代だから初代国王にふさわしい名こそ大国主崇神=大国主タケミカヅチが出雲に行った国譲りの際大国主は留守だった何処にいたのか巨大化した出雲連合その中心に位置する大和地方に居を移したからだいわゆる遷都だこのときに一緒に大和に入った副心が物部
日本がすごいことがよくわかりました。お腹いっぱい
はてさて?神武は九州時代イワレビコだったかなぁ?
物部族で最大規模の姓は鈴木姓。
廃仏運動をしていた物部氏の子孫が、仏教の最高位につくなんて。
弓削氏が物部氏の末裔だったとは!中学の時クラスに居たわ弓削君。物部守屋の子孫だったのね〜😮
「れん」じゃなくて「むらじ」
大物主大神も物部氏の祖先では?大山・蒜山の呼び名は、ダイセン・ヒルゼンであるが、山をセンと読むのは、揚子江以南の中国南部に由来する。縄文創期から、沖縄奄美ルートの島嶼系海洋覇権国家群である、数十ヶ国に及ぶ「〇〇ナ国」が割拠していた。金印の委ナ国、朝鮮半島南岸に任ナ国、邪馬台国の南を脅かす狗ナ国、 今も残る与ナ国島などがある。島を拠点にする民族だから、国産み神話のいざナぎ・いざナみは、瀬戸内海最奥の島を拠点としたナ国の夫婦といえる。つまり物部氏は中国南部と結ぶ、古神道琉球沖縄ルートであり、蘇我氏は中国北部と結ぶ、仏教儒教の朝鮮半島ルートなのだ。この頃から掘立て柱が駆逐され、柱の下に礎石が置かれるようになる。
「連」は「むらじ」と読むのでは…。今の学校教育では「れん」なんですかね。
むらじと習ったな。昭和では
令和の自分も「むらじ」でしたよ
「仕様です。」ユックリに多くを求めてはいけないのです😅
連 むらじ 石上 いそのかみ
連 🟰むらじ
饒速日族氏の支配の樺太から来た物部氏と天孫氏族の九州の神武天皇族と神武東征の意図も宗教も一致したんだよ!?
神話は楽しい適視 神社は万能の場所 男女交流の場 災害時の避難の場 お祭りの場 神社祭は今もって夜祭男女出会い交流の場ともなっている祈りの場悲願祭食糧貯蔵場所の万能の場所小さな祠家庭の神棚八百万の神々
連をれんと言わないで欲しい。
私も物部氏の末裔です。
ブログ名:Wonder_Ryuchanの大人の日記を検索閲覧して下さい。
初代天皇。は天武天皇。天皇をはじめて号したのが天武天皇
いつも思うんだが、ちゃんと古い家系図とかの記録がちゃんとあって公に認められてるなら、堂々と言って良いと思うけど、そうじゃないなら、明治になってようやく人間になった様な百姓の出自の人が実はうちはって確証のない家系図を作っては認められてないの多いから、すぐにそういうの書き込む奴どうかと思うわ。うちは藩の家老職を務めていた関係で、室町時代後期ぐらいからの系図が残ってて、博物館に寄贈したりした際に調査してもらいちゃんと公に認められてるけど。そうじゃない限り嬉しげに書き込む奴って痛々しくないか?(笑)
江戸時代に藩に勤めてない、ここ400年位のさばり腐ってただけの連中って思ってる人間が、維新起こした訳だから、まぁそういう人間もいるわさ。重要なのは家系図とか目に見える物もだけど、やっぱり寺関係とかで台帳見せてもらってから言ってほしいよね。戒名見れば裏でちゃんと仕事してた人か直ぐ分かる訳だし。あと地方公務員の出世は血統が全てだから、まぁそういう連中が言ってるなら家系図なくても頭の中に入ってんだろう位に許してるよ。
うちは藩の家老職で・・・公に認められてるけど。あなたが一番痛々しいよ
あまり良い話ではないが山間に逃れた物部神道の一派に犬神の呪術を生み出した者達がいる。必殺の術で下道の呪術だ。請け負いで犬神を放ち呪詛する。行者泣かせのしつこい眷属を飛ばす😅
不老長寿を求めて、徐福と配下の者達が日本中に散った話と、日本中の物部一族の話がかぶってしまった。ロマンあるね。
太伯の末裔も徐福の前に来ていたそうです。邪馬台国の使者は太伯の末裔と名乗ってたらしいし。YハプロO1b2系が太伯系倭人で徐福一行が始皇帝の一族O2系と考えれば。物部はO1b2系だと思う
私の先祖は、石上神宮の神職が、応仁の乱の頃に現在の糸魚川市あたりまで逃げて、武士になったそうです。その一部が新潟県新発田市を経て、16世紀半ばに群馬県安中市の磯部温泉のあたりに移住したそうです。(武田の来襲への備えの一環として。)物部氏の流れをくんでいると言われています。
慣れるしかないけどやっぱり慣れないですよね苦笑💦
丁未の乱の地の近くには越智一族の祖である恩智神社もあり、そのことも深く掘って触れて欲しかったです
同乱で迹見赤檮に弓で射られ、秦河勝に首を取られた守屋ですが、守屋墳(墓)には全国の超有名神社(八坂神社や熱田神宮や伏見稲荷…)の玉垣がぐるりと敷地の周りを囲っていて守屋墳は必見です
また、同乱でそれらの四天王を率いた聖徳太子は、討った守屋の祟りを怖れ、自身が戦勝のために建てた四天王寺の金堂に、守屋の祠と守屋の祟りの化身の啄木鳥を防ぐ為の鷹の止まり木を立て、最近再建された今の金堂にもその姿を遺しています
そんな物部守屋ですが守屋の別業の地と言われた渋川廃寺跡には時代的に当時の寺の瓦等の遺跡が出ていて、今も物部一族の話しはミステリーに包まれていますね
ともあれとても良い動画でした
出雲の国譲り神話で、息子のタケミナカタが抵抗したけど負けて諏訪湖まで逃げたって話、諏訪湖の近くの守屋山には物部守屋を祀ってたり、諏訪の土着の神の洩矢神なんかも物部に関係あるのかしら?
越智氏人物として初めて史上に登場するのは越智直(おちのあたい)。日本霊異記には、白村江の戦いで捕虜になり唐に連行されたが観音菩薩の霊験により無事帰還することができ、観音菩薩を奉じて寺を建てたという話が載ってる。
また、「予章記」という中世に伊予国で栄えた越智氏一族の河野氏が自らの氏族の来歴を記した文書には、河野氏の祖先は小千益躬(越智益躬)という武将で、小千益躬は「百済の軍勢が鉄人を押し立てて日本に攻めてきた時、鉄人の足の裏を射抜いてこれを撃退した」という話も載っています。
私もその末裔です。考霊天皇の皇子ヒコサシマのミコト末裔と聞いています。
ちなみに古代中国の鎧を再現した人のTH-camがあるけど、本当に鉄人!みたいな鎧でした。
あたしの知り合い物部さんがいます。物部氏の子孫だそうで本家には過去帳のような巻物もあるそうです
石上神宮は物部氏の氏神様ですね。特殊な呪術を司る一党もおられたようです。
物部の子孫ワラワラで草
私の先祖、金子の一族は島根の石見で物部神社の社家をやっておりました。
なお、金子は出雲の金屋子神社から付いた名前らしく、発祥は埼玉県入間市。入間市の名前の元となった入間氏は物部氏。地域には饒速日尊を祀る神社があります。
物部氏は徐福?
私の祖先は(分家の分家の傍系くらいですが)物部氏〜穂積氏〜熊野鈴木氏とききました。昔々、古代、戦で酷く負けてから、戦うことをやめ、讃岐の高松あたりに流れて、そこで地元の有力者として昭和までいたようです。
勉強になります。越智氏が物部一族というのは愛媛でも有名です。饒速日は伊予を平定して、その子供も愛媛の浮島神社にお墓があるとい伝説もあるそうな。 工学博士芸人 遼子規キンジロウ
J2レノファ山口初代10番も石上さん、西本願寺の前総長も石上さん、かなり問題のある総長でしたが
物部氏といえば、諏訪大社のことも出してほしかった。
12:04 伊予の越智氏が伊予の周辺の国司を任されたのは、西暦4世紀後半以降と言われていて、西暦1世紀頃にあった可能性が高い神武東征よりも、ずっと後のことだよ。
なんかおかしいと思った。饒速日が物部の始祖なのに何で神武東征以前に支族の越智氏がしまなみ海道で勢力を張ってるんだよ
せっかく興味のある内容でも誤字誤読が多いとげんなりしますな なんで制作時にもっと慎重に原稿を作ったり誤読の修正をしないんでしょうかねえ 別にこちらの動画に限ったことではありませんが
京都の大学に進学したら、1年後輩に京都出身の物部君がいた。卒業後住友銀行に就職したけど、辞めて自分で事業を起こしてた。
住友銀行を脱サラして事業家って凄いね
そちらの物部さんは、優秀ですね
こちらの物部さんは、懲役行ってます❤ 馬鹿です🎉
ニニギとニギハヤヒの位置関係をちょっと同時に説明してくれると助かります。途中まで同じ人かと思ってしまいました。😅
栃木県真岡市に物部って地名があるよ。物部氏が落ちてきたって伝説も。物部郡物井って如何にも的な地名。
道鏡に
崩御、崩御と
称徳いい
なんて川柳がございますな。
物部朝臣勝安房守安芳号海舟の話は?
越智氏といえば、Superflyのボーカルの越智志帆さんも愛媛県今治市出身ですね
自分の苗字である高橋氏の祖は、饒速日の13世孫・物部建彦連公が高橋の姓を名乗ったらしい❗😁👍
0:11
多分農民が明治に付けた名前だと思うよ
治水工学の勉強をしていた時に、近代的な治水工学の権威で河川法の基礎を作った人として、物部長穂博士の名前が出てきました。
秋田県の宮司さんの家系との事です。
最初は天皇じゃなくてオオキミ(大王)ね。
そしてすめらみこと
大分出身だけど同級生に越智さんとか児玉さんとかいたよね
阿波忌部から物部にいたる
忌部氏は出雲神族。
元出雲王国の
東王家、富(トビ)家(松江)の分家。
本願地は松江の忌部郷(玉造周辺一帯)
出雲に渡来した
徐福
(彦ホアカリ。
(後にはニギハヤヒ)を自称)らが
引き起こした
クーデターにより
出雲王国の
第八代主王
(大穴持(オホナモチ))の
神門(郷戸)の八千矛命
と、
同副王(少名彦。又、コトシロ主)の
富の八重波津身命
らが
ほぼ同時期に相次いで徐福の配下、
ホヒやヒナドリらにより暗殺された。
極悪非道の渡来人たちヤカラを忌避した
王家王族や出雲人たちが大量に出雲を後にした。
その最大規模だったのが
富(トビ)王家の親王(王子)の一人、
クシヒカタ。
出雲の人口の約半数にも及んだとか。
クシヒカタは先ず、
母親の実家、摂津三島(大阪府旧三島郡(茨木市~高槻市辺り))に移り住んだ。
この際、近しい分家の忌部家の太玉命もクシヒカタに付き従って移住した。
暫くして
クシヒカタ命は
当時は人跡疎らで
広大な湖沼を抱えていた
大和(奈良盆地)に移住、入植。
本家の富(トビ)家に少し遠慮して
音が同じ、登美家を創設。
彼の屋敷近くに亡き父の御霊を祀り慰霊する祠を営み、
氏神と仰いだのが
今の(葛城の)鴨都波神社。
(大和最古の神社。三輪山祭祀はこの少し後)
この際も従来からの出雲人らに加えて
摂津三島人らもあまた彼に付き従って大和の葛城に集団移住(入植)して開発に当たった。
勿論、忌部の太玉命らもクシヒカタ命に付き従って大和の葛城に入った。
時代は紀元前2世紀前半頃。
忌部らが最も信奉する神は
サルタ彦大神。
神武が討伐したのは崇神
神武=垂仁
欠史八代となるわけだが
神武も崇神もハツクニシラスという二つ名がある
なぜ崇神にその名があるのか
彼が初代だから
初代国王にふさわしい名こそ
大国主
崇神=大国主
タケミカヅチが出雲に行った国譲りの際
大国主は留守だった
何処にいたのか
巨大化した出雲連合
その中心に位置する大和地方に
居を移したからだ
いわゆる遷都だ
このときに一緒に大和に入った副心が物部
日本がすごいことがよくわかりました。お腹いっぱい
はてさて?神武は九州時代イワレビコだったかなぁ?
物部族で最大規模の姓は
鈴木姓。
廃仏運動をしていた物部氏の子孫が、仏教の最高位につくなんて。
弓削氏が物部氏の末裔だったとは!中学の時クラスに居たわ弓削君。物部守屋の子孫だったのね〜😮
「れん」じゃなくて「むらじ」
大物主大神も物部氏の祖先では?
大山・蒜山の呼び名は、ダイセン・ヒルゼンであるが、山をセンと読むのは、揚子江以南の中国南部に由来する。
縄文創期から、沖縄奄美ルートの島嶼系海洋覇権国家群である、数十ヶ国に及ぶ「〇〇ナ国」が割拠していた。
金印の委ナ国、朝鮮半島南岸に任ナ国、邪馬台国の南を脅かす狗ナ国、 今も残る与ナ国島などがある。
島を拠点にする民族だから、国産み神話のいざナぎ・いざナみは、瀬戸内海最奥の島を拠点としたナ国の夫婦といえる。
つまり物部氏は中国南部と結ぶ、古神道琉球沖縄ルートであり、蘇我氏は中国北部と結ぶ、仏教儒教の朝鮮半島ルートなのだ。
この頃から掘立て柱が駆逐され、柱の下に礎石が置かれるようになる。
「連」は「むらじ」と読むのでは…。
今の学校教育では「れん」なんですかね。
むらじと習ったな。昭和では
令和の自分も「むらじ」でしたよ
「仕様です。」ユックリに多くを求めてはいけないのです😅
連 むらじ 石上 いそのかみ
連 🟰むらじ
饒速日族氏の支配の樺太から来た物部氏と天孫氏族の九州の神武天皇族と神武東征の意図も宗教も一致したんだよ!?
神話は楽しい適視 神社は万能の場所 男女交流の場 災害時の避難の場 お祭りの場 神社祭は今もって夜祭男女出会い交流の場ともなっている祈りの場悲願祭食糧貯蔵場所の万能の場所小さな祠家庭の神棚八百万の神々
連をれんと言わないで欲しい。
私も物部氏の末裔です。
ブログ名:Wonder_Ryuchanの大人の日記を検索閲覧して下さい。
初代天皇。は
天武天皇。
天皇をはじめて号したのが
天武天皇
いつも思うんだが、ちゃんと古い家系図とかの記録がちゃんとあって公に認められてるなら、堂々と言って良いと思うけど、そうじゃないなら、明治になってようやく人間になった様な百姓の出自の人が実はうちはって確証のない家系図を作っては認められてないの多いから、すぐにそういうの書き込む奴どうかと思うわ。
うちは藩の家老職を務めていた関係で、室町時代後期ぐらいからの系図が残ってて、博物館に寄贈したりした際に調査してもらいちゃんと公に認められてるけど。
そうじゃない限り嬉しげに書き込む奴って痛々しくないか?(笑)
江戸時代に藩に勤めてない、ここ400年位のさばり腐ってただけの連中って思ってる人間が、維新起こした訳だから、まぁそういう人間もいるわさ。重要なのは家系図とか目に見える物もだけど、やっぱり寺関係とかで台帳見せてもらってから言ってほしいよね。戒名見れば裏でちゃんと仕事してた人か直ぐ分かる訳だし。
あと地方公務員の出世は血統が全てだから、まぁそういう連中が言ってるなら家系図なくても頭の中に入ってんだろう位に許してるよ。
うちは藩の家老職で・・・公に認められてるけど。あなたが一番痛々しいよ
あまり良い話ではないが
山間に逃れた物部神道の一派に
犬神の呪術を生み出した者達がいる。
必殺の術で
下道の呪術だ。
請け負いで
犬神を放ち呪詛する。
行者泣かせの
しつこい眷属を飛ばす😅
不老長寿を求めて、徐福と配下の者達が日本中に散った話と、日本中の物部一族の話がかぶってしまった。ロマンあるね。
太伯の末裔も徐福の前に来ていたそうです。邪馬台国の使者は太伯の末裔と名乗ってたらしいし。YハプロO1b2系が太伯系倭人で徐福一行が始皇帝の一族O2系と考えれば。物部はO1b2系だと思う