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当時の美祢線は石灰石輸送で賑わってましたね。そのせいで美祢線は沿線人口が少なくても地方交通線ではなく幹線になってます。後年、国鉄のストライキを嫌がった宇部興産が石灰石輸送用の専用道路が開通すると石灰石貨物も減っていきましたが。
離婚・再婚列車。懐かしいですな。
高校時代(1984年頃)鹿児島本線の赤間付近に住んでいたので「快速」として走る「さんべ」編成は何度か乗りました。電車に負けぬようエンジン全開で突っ走るキハ58がたまらなく爽快でした。
ただ下関では編成の順番が逆転しています。さらに山陰本線がメインではなくて美祢線経由がメインでした。それだけ山陰本線は需要が少なかったという表れのような気がします。
しかも先に到着した山陰本線経由の列車は一度停車してドアを開けた後ドアを閉め、一度ホームを離れてから別のホームに美祢線経由の列車が到着後に再度動いて連結していたとのこと。今の大阪発のひだ号も岐阜でこの形で連結していますが、なぜそういった連結方法だったのか謎です。
@@TSUYOS185 大阪ひだの場合、岐阜駅に誘導信号機がないために、一旦ホームから離れないと名古屋編成が岐阜駅に入れないのです。当時の下関駅がどうだったのかはわかりませんが…
ただ列車番号は山陰本線経由がメイン😉
この列車は、西村京太郎の作品の舞台となり、土曜ワイド劇場、トラベルミステリー第2作という初期に放送されました。
再婚旅行殺人事件 でしたね
その西村氏のミステリーのおかげで名前覚えた列車だった😊
「再婚旅行殺人事件」で緒形拳さんが出てましたね。
西村京太郎さんの小説はキオスクで売っている事が多く、移動時や接続待ちで良く読んでいたな。
萩に住んでいた時、家の目の前が山陰本線で毎日さんべが走ってましたね~懐かしい
急行さんべにそんな歴史が有ったとは私が乗車した頃は、昭和57年〜60年だったからキハ58私の父が松江→益田間を12系+20系の夜行のさんべに乗車し車内で飲んで寝過ごし博多迄乗り博多→益田でも飲んで寝過ごし終点米子まで行った事在りました。
よくぞ取り上げてくれました^ ^子供の頃の1番の思い出列車です😂ありがとうございます❤
急行さんべの名の由来だった『国立公園三瓶山』には、当時日本でもっとも西のスキー場がありました。九州のスキー愛好者にとっては、山陰の三瓶山、大山は憧れだったらしい。さんべスキー場は降雪積雪量の減少等で閉鎖されてしまいましたが、その姿は大田市駅の西方で車窓から眺められます。また急行さんべに専用車輌を増結して九州方面への修学旅行に行った島根県民も多いみたいですね
私がこの列車に乗ったのは末期の上り1回だけだけなのてすが、親にねだって家族とは別の美祢経由にしてもらったことを覚えています。益田で再集合したときにはなかなか面白かったです。また、この列車の全盛期は北九州工業地帯がまだまだ発展していた時期で、美祢宇部・下関・久留米大牟田なんかも今より景気が良く山陰西部との行き来も盛んだったようです。そういった需要を失い、新幹線で線路容量の逼迫もなくなったんですから、こんなアクロバティックなことをする必要なんてなくなってしまいますよね。
国鉄時代のDC急行は分割併合を繰り返す多層建て列車が多かったですね。その中でも再併結列車は極めて珍しいですね。急行さんべの運転されていた山陰本線の益田以西は特急いそかぜの廃止で優等列車ゼロの超ローカル線となってしまいました。
宮脇俊三氏が片道切符の旅で九州に渡る際に益田から美祢線経由で乗車したのも若干距離が長かったみたいですね。それだけ美祢線での急行需要が見込めてたのでしょうか。
昭和50年代は鳥取発着に延長されていました。鳥取から出雲市まで乗ったことがあります。グリーン車・指定席車つきでしたが、グリーン車・指定席車は美祢線経由の方についており山陰線経由の方は全車自由席でした。
あら一緒だ。ワイも、この分割・併合と関係ない鳥取→出雲市で乗った😁
昭和から平成に代わるころの3年間 仕事で長門市に住んでいた当時 休日は下関や小倉に急行列車を利用していたことを思い出します、確か急行は2往復あったような...山陰線西長門の夕陽がとてもきれいでした。
急行さんべ乗りたかったな…最末期なので山陰本線オンリーだけど
1:50 字幕と表のどちらかが下関に着く順が逆になってますので一応訂正
結局、急行さんべは再婚列車と夜行が早々廃止され、一番地味だった1往復が最後まで残ることに...
これに近いのでは、仙台を5分違いで発車した急行「千秋」と「たざわ」が、大曲で併結して秋田に向かう、というのがあった
山陰地方に、解結したのに再度併結する変わった運用の急行があったのですね。初めて知りました。急行の話は、面白いので是非国鉄時代に運転されていた四国島内急行について知りたいので、取り上げてもらいたいです。
こういう列車の運行、ダイヤを正確に守れないと無理でしょうね……。
博多発の特急まつかぜで長門市へ行き美祢線経由のさんべで帰った事があります。電化前の長崎佐世保線の出島、弓張はそれぞれ久大線別府からの西九州、熊本から佐賀線経由のちくごが小倉から島原鉄道の加津佐行きも1両繋いでいました。ディーゼルの併結が面白い時代でした。さんべの他山陰からはあきよしなど日田彦山線経由で由布院まで行ってました。
乗りました!よくこんなダイヤで走っていたな?と関心しました。
1985年3月ダイヤ改正で、1往復になりましたね!夜行は、1984年2月ダイヤ改正で、廃止されたし😱😱
益田に住んでましたが、夜中こっそり起きて夜行のさんべ見てました。
石見益田~幡生間の距離が山口線経由・美祢線経由・山陰本線経由いずれもほぼ同じ(山口線経由と山陰線経由は同距離)で駅数も同じだったので可能だった分割併合。そして長門市~幡生間では山陰本線は本線とは言うもののこれと言った核となる町も無く、一方美祢線は当時は石炭石灰石採掘で賑わう美祢市や長門湯本・俵山等の温泉地や秋吉台へのアクセス(尤も長門湯本以外は駅から遠くバス・タクシー等のアシストが必要だった)需要もアリ、さんべの基本編成(ロザ入り)は美祢線経由だった。閑話休題。分割後1両?キハ58系は元よりキハ55系にも両運転車はない(キハ58改造のキハ53‐500などは遥か後年の登場)。後に有田鉄道に行った富士急行のキハ58003や島原のキハ5500・キハ2600もまさかこの列車には運用されない。付属編成も2両以上あったのでは?(まさかキハ20を使ったなんてことは無さそうだから)因みに…既に九州内は快速になっていた1980年代前半に同列車を利用したことがあるがその時は上り先頭からキハ58‐キロ28‐キハ28‐キハ58+キハ58‐キハ28-キハ58で、前4両が美祢線経由、後ろ3両が山陰本線経由だった。キロ28もグリーン車として運用されていたが普通列車(快速)扱いなのでグリーン料金は普通列車のそれが適用され乗り得だった。(尤も上には上がいて博多発熊本行きの朝の下り普通列車には475系6連の列車がありしかも編成内のサロ455がグリーン車ではなく普通車扱い=グリーン料金不要=だった)
沿線人口や秋吉台のような観光地がある美祢線をメインルートにしたいけど当時は石灰石列車の大動脈なのでそうもいかない
なお美祢線も山陰本線も優等列車どころか水害からの復旧が進まず'24年現在代行バス運行中…
新山口〜東萩だけでもいいから直通優等列車がほしい…
2:40 揖屋駅が否定の「いや」に聞こえるから、安来、いや(ちがうなぁ)、松江と停車駅案内を間違えたかのように聞こえるwww
当然西村京太郎さんがアリバイトリックにつかったよな。短編だったけど
種村直樹さんが1976.12に803Dさんべ2号の列車追跡を著しておられます。時刻表を読むだけの小学生には夢中で読む内容でした。
西村京太郎氏のトラベルミステリーが定番シリーズと化す前の単発物として映像化されたさんべ3号
84年頃? 週末、福岡ではじけたい鉄子は下関から快速に種変したグリーン車に乗った帰宅ラッシュ時刻でも貸切状態戸畑、黒崎などでホームからの凝視があまりにもキツく、無謀だったと後悔した
博多乗り入れ廃止の1985年3月、私が鹿児島線の折尾駅で見た博多行きのグリーン車は40代くらいの男性の乗客1名でした。それとこの列車、竹下気動車区に入庫し翌朝「博多~西戸崎」の通勤輸送に使われてました。
美祢線の地位低下がな。ドル箱貨物列車はトラック化されるし、秋吉台観光はクルマ?
0:48 一瞬RailSimに見えた
8:08 一コマ?だけ分割併合の説明で使われてた路線図が入っちゃってますよ
40年くらい前の旅で山口を周遊券で巡りました。玉江から長門市までを急行さんべ?で移動し,長門市から益田までを特急いそかぜで乗り通した,そんな記憶があります。いそかぜは特急券を買わなければ行けなかったのですが,特急おきと急行さんべは乗り放題だったと思います。
令和の今ではどうあがいても絶対に不可能な編成ですね。広島から備後落合で木次線と芸備線に分かれて米子で落ち合う列車走らせてくれないかなぁ(無謀
20世紀の終わり頃、山口線を広島色+さんべの緑色が併結してた記憶があるんですが、そんな運用って実際にあったんですか?
山陰本線経由の急行さんべ号と似たルートで九州と山陰を結んだスキー列車(当初は快速列車でしたが、後に急行列車に格上げされました。)がありました。この列車は準急やくも号が設定された1959年にはすでに存在しており、又一時的ではありますが定期のさんべ号よりも先に三瓶(さんべ)号を名乗っていたり、昭和40年代には山口線経由の編成を併結するようになったりとかなり特徴のある列車でした。以下1959年~2001年の九州と山陰を結んだスキー列車を載せておきます。1959年→博多~米子1961年→運行なし?(1961年1月号では確認できませんでした。)1962年→博多~米子1963年→博多~米子(銀嶺号)(①銀嶺号という愛称が付きました。)1964年→博多~米子(銀嶺号)と小郡~米子(山口線経由・新雪号)(①山口線経由の新雪号が新設されました。②米子行のみ石見益田~米子で銀嶺号と併結するようになりました。)1965年→博多~米子(だいせん銀嶺号)と小倉~石見大田(さんべ銀嶺号)と下関~米子(山口線経由・新雪号)(①銀嶺号→だいせん銀嶺号に改称しました。②だいせん銀嶺号の運転のない日にさんべ銀嶺号が運行されるようになりました。③新雪号は浜田~米子でだいせん銀嶺号と、石見大田→浜田でさんべ銀嶺号と併結するようになりました。)1966年→博多~米子(銀嶺号)と石見大田→小倉(白銀号)と下関~米子(山口線経由・新雪号)(①だいせん銀嶺号→銀嶺号・さんべ銀嶺号→白銀号に改称しました。②白銀号は小倉行のみ運行されるようになりました。③新雪号は石見益田~米子で銀嶺号と併結するようになりました。)1967年→博多~米子(大山銀嶺号)と下関~米子(山口線経由・大山新雪号)(①銀嶺号→大山銀嶺号・新雪号→大山新雪号に改称しました。②白銀号は廃止されました。③大山新雪号は益田~米子で大山銀嶺号と併結するようになりました。)1968年→博多~米子(大山銀嶺号)と下関~米子(山口線経由・大山銀嶺号)と石見大田→下関(山口線経由・三瓶銀嶺号)(①大山新雪号→大山銀嶺号に改称しました。②大山銀嶺号の運行がない日に三瓶銀嶺号が運行されました。③益田~米子で2つの大山銀嶺号が併結するようになりました。)1969年→博多~米子(九州銀嶺号)と下関~米子(山口線経由・大山銀嶺号)(①博多発着の大山銀嶺号→九州銀嶺号に改称しました。②三瓶銀嶺号は廃止されました。又九州銀嶺号が運行がない時期には、米子行の大山銀嶺号が単独で運行されました。④両方ともにB寝台車が連結されるようになりました。⑤大山銀嶺号は益田~米子で九州銀嶺号と併結するようになりました。)1970年→運行なし(1970年1月号では確認できませんでした。)1971年→博多~米子(九州銀嶺号)(①山口線経由の大山銀嶺号は廃止されました。)1972年→熊本~米子(急行九州銀嶺号)と下関~米子(山口線経由・急行大山銀嶺号)(①九州銀嶺号は快速から急行に格上げされました。又運行区間が博多から熊本まで延長されました。②大山銀嶺号が急行に格上げの上で復活しました。又以前のようにB寝台車が連結されています。③大山銀嶺号は益田~米子で九州銀嶺号と併結するようになりました。)1973年→熊本~米子(急行九州銀嶺号)と下関~米子(山口線経由・急行大山銀嶺号)(①運行形態は前年と同じです。)1974年→熊本~米子(急行九州銀嶺号)と下関~米子(山陰本線経由・急行大山銀嶺号)(①大山銀嶺号の経由路線が山口線から山陰本線経由に変更されました。②下関行の大山銀嶺号にはB寝台車が連結されなくなりました。③大山銀嶺号は下関~米子で九州銀嶺号と併結するようになりました。又九州銀嶺号の運行がない日には、大山銀嶺号が単独で運行されました。)1975年→博多~米子(急行九州銀嶺号)(①九州銀嶺号のB寝台車の連結がなくなりました。②運行区間が熊本から博多に短縮されました。③大山銀嶺号は廃止されました。)1976年→下関→米子(急行山陰銀嶺号)(①九州銀嶺号から山陰銀嶺号に改称されました。②運行区間が博多から下関に短縮されました。又米子行のみ運行されるようになりました。)1978年→下関~米子(急行山陰銀嶺号)(①下関行の運行が復活しました。)1980年→下関~米子(急行大山スキー号)(①山陰銀嶺号から大山スキー号に改称されました。)1982年→いったん廃止されました。1986年→博多~米子(急行大山スキー号)(①定期の夜行急行さんべ号が廃止されたため再び運行されるようになりました。②以前とは異なり全車指定席ではなくなりました。③運行区間が下関から博多に延長されました。)1987年→博多~米子(急行大山スキー号)(①運行形態は前年と同じです。)1988年→熊本~米子(快速ビックスキー大山号)(①大山スキー号からビックスキー大山号に改称されました。又急行から快速に格下げされました。②運行区間が博多から熊本まで延長されました。③再び全車指定席になりました。)1989年→熊本~米子(快速ビックスキー大山号)(①運行形態は前年と同じです。)1990年→熊本~米子(快速ビックスキー大山号)(①B寝台車が連結されるようになりました。※B寝台車の連結がない日もありました。)1991年→熊本~米子(急行シュプール大山号)(①ビックスキー大山号からシュプール大山号に改称されました。又快速から急行に格上げされました。②2往復運行される日もありました。③B寝台車が連結されました。※B寝台車の連結がない日もありました。④全車指定席で運行されました。)1992年→熊本~米子(急行シュプール大山号)(①すべての日でB寝台車が連結されるようになりました。②2往復運行される日もありました。)1993年→熊本~米子(急行シュプール大山号)(①運行形態は前年と同じです。)1994年→熊本~米子(急行シュプール大山号)(①運行形態は前年と同じです。)1995年→熊本~米子(急行シュプール大山号)(①B寝台車の連結がない日が出てくるようになりました。②すべての日で1往復のみの運行になりました。)1996年→熊本~米子(急行シュプール大山号)(①B寝台車の連結がなくなりました。)1998年→博多~米子(急行シュプール大山号)(①運行区間が熊本から博多に短縮されました。②B寝台車の連結が復活しました。※B寝台車の連結がない日もありました。)1999年→博多~米子(急行シュプール大山号)(①運行形態は前年と同じです。)2001年→廃止されました。
再婚旅行殺人事件にも登場しました、他にも特急「かもめ」と「みどり」と寝台特急「出雲3号」と「紀伊」である。
美祢線経由にグリーン車が連結されていて、そちらの方がメイン扱いでした。😅
でも列車番号は山陰本線経由の方がメイン😉
電車と人の“別れ&再会”なら,“下山ダッシュ”があります.
分離、合体、巨大アニメロボ...😅
県の代表駅があるのに軽視された山口線・・・。
山陰~九州って電車の場合、今なら広島か岡山を経由するしかないのかな?
広島経由ってどういうルート?そもそも電車なら唯一電化されている伯備線一択。
出雲市~益田間なら、スーパーおきで新山口から新幹線の手がある
@@mukashinohito 浜田~広島のバスを利用することはできるのでは
「今なら」っつーか昭和57年7月に伯備線電化だが、それまで国鉄山陰地方は電化区間なかった。それ以降も伯備線のみ😉
1:46 おいおいおい...慣れてなかったのかな?
別れた人と再婚列車。
これ、やろうと思えば、今なら何処やろ?敦賀~新大阪開業後・リニア開業後の北陸新幹線で京都~新大阪かな。
奧羽新幹線全通後の東京ー福島ー田沢湖ー秋田? …まあ、新庄から先の新幹線開通って何世紀先の話や、という話でもありますが😆
意味わからん京都で分割併合とか物理的に不可能だぞ?
@@nsugi721 何世紀経とうが無理だ😃
再婚列車
日本だから器用な運用ができた
別名浮気列車とも呼ばれた。
コッペパンにしては稚拙な調査だな山口線、美祢線、山陰線経由の3階建て「さんべ」を取り上げないなんて
取り上げたけど
当時の美祢線は石灰石輸送で賑わってましたね。そのせいで美祢線は沿線人口が少なくても地方交通線ではなく幹線になってます。
後年、国鉄のストライキを嫌がった宇部興産が石灰石輸送用の専用道路が開通すると石灰石貨物も減っていきましたが。
離婚・再婚列車。懐かしいですな。
高校時代(1984年頃)鹿児島本線の赤間付近に住んでいたので「快速」として走る「さんべ」編成は何度か乗りました。
電車に負けぬようエンジン全開で突っ走るキハ58がたまらなく爽快でした。
ただ下関では編成の順番が逆転しています。さらに山陰本線がメインではなくて美祢線経由がメインでした。それだけ山陰本線は需要が少なかったという表れのような気がします。
しかも先に到着した山陰本線経由の列車は一度停車してドアを開けた後ドアを閉め、一度ホームを離れてから別のホームに美祢線経由の列車が到着後に再度動いて連結していたとのこと。今の大阪発のひだ号も岐阜でこの形で連結していますが、なぜそういった連結方法だったのか謎です。
@@TSUYOS185
大阪ひだの場合、岐阜駅に誘導信号機がないために、一旦ホームから離れないと名古屋編成が岐阜駅に入れないのです。
当時の下関駅がどうだったのかはわかりませんが…
ただ列車番号は山陰本線経由がメイン😉
この列車は、西村京太郎の作品の舞台となり、土曜ワイド劇場、トラベルミステリー第2作という初期に放送されました。
再婚旅行殺人事件 でしたね
その西村氏のミステリーのおかげで名前覚えた列車だった😊
「再婚旅行殺人事件」で緒形拳さんが出てましたね。
西村京太郎さんの小説はキオスクで売っている事が多く、移動時や接続待ちで良く読んでいたな。
萩に住んでいた時、家の目の前が山陰本線で毎日さんべが走ってましたね~懐かしい
急行さんべにそんな歴史が有ったとは
私が乗車した頃は、昭和57年〜60年だったから
キハ58
私の父が松江→益田間を12系+20系の
夜行のさんべに乗車し
車内で飲んで寝過ごし博多迄乗り
博多→益田でも飲んで寝過ごし
終点米子まで行った事在りました。
よくぞ取り上げてくれました^ ^子供の頃の1番の思い出列車です😂ありがとうございます❤
急行さんべの名の由来だった『国立公園三瓶山』には、当時日本でもっとも西のスキー場がありました。九州のスキー愛好者にとっては、山陰の三瓶山、大山は憧れだったらしい。さんべスキー場は降雪積雪量の減少等で閉鎖されてしまいましたが、その姿は大田市駅の西方で車窓から眺められます。
また急行さんべに専用車輌を増結して九州方面への修学旅行に行った島根県民も多いみたいですね
私がこの列車に乗ったのは末期の上り1回だけだけなのてすが、親にねだって家族とは別の美祢経由にしてもらったことを覚えています。益田で再集合したときにはなかなか面白かったです。
また、この列車の全盛期は北九州工業地帯がまだまだ発展していた時期で、美祢宇部・下関・久留米大牟田なんかも今より景気が良く山陰西部との行き来も盛んだったようです。そういった需要を失い、新幹線で線路容量の逼迫もなくなったんですから、こんなアクロバティックなことをする必要なんてなくなってしまいますよね。
国鉄時代のDC急行は分割併合を繰り返す多層建て列車が多かったですね。その中でも再併結列車は極めて珍しいですね。急行さんべの運転されていた山陰本線の益田以西は特急いそかぜの廃止で優等列車ゼロの超ローカル線となってしまいました。
宮脇俊三氏が片道切符の旅で九州に渡る際に益田から美祢線経由で乗車したのも若干距離が長かったみたいですね。それだけ美祢線での急行需要が見込めてたのでしょうか。
昭和50年代は鳥取発着に延長されていました。鳥取から出雲市まで乗ったことがあります。グリーン車・指定席車つきでしたが、グリーン車・指定席車は美祢線経由の方についており山陰線経由の方は全車自由席でした。
あら一緒だ。ワイも、この分割・併合と関係ない鳥取→出雲市で乗った😁
昭和から平成に代わるころの3年間 仕事で長門市に住んでいた当時 休日は下関や小倉に急行列車を利用していたことを思い出します、確か急行は2往復あったような...山陰線西長門の夕陽がとてもきれいでした。
急行さんべ乗りたかったな…
最末期なので山陰本線オンリーだけど
1:50 字幕と表のどちらかが下関に着く順が逆になってますので一応訂正
結局、急行さんべは再婚列車と夜行が早々廃止され、一番地味だった1往復が最後まで残ることに...
これに近いのでは、仙台を5分違いで発車した急行「千秋」と「たざわ」が、大曲で併結して秋田に向かう、というのがあった
山陰地方に、解結したのに再度併結する変わった運用の急行があったのですね。初めて知りました。
急行の話は、面白いので是非国鉄時代に運転されていた四国島内急行について知りたいので、取り上げてもらいたいです。
こういう列車の運行、ダイヤを正確に守れないと無理でしょうね……。
博多発の特急まつかぜで長門市へ行き美祢線経由のさんべで帰った事があります。電化前の長崎佐世保線の出島、弓張はそれぞれ久大線別府からの西九州、熊本から佐賀線経由のちくごが小倉から島原鉄道の加津佐行きも1両繋いでいました。ディーゼルの併結が面白い時代でした。さんべの他山陰からはあきよしなど日田彦山線経由で由布院まで行ってました。
乗りました!よくこんなダイヤで走っていたな?と関心しました。
1985年3月ダイヤ改正で、1往復になりましたね!
夜行は、1984年2月ダイヤ改正で、廃止されたし😱😱
益田に住んでましたが、夜中こっそり起きて夜行のさんべ見てました。
石見益田~幡生間の距離が山口線経由・美祢線経由・山陰本線経由いずれもほぼ同じ(山口線経由と山陰線経由は同距離)で駅数も同じだったので可能だった分割併合。そして長門市~幡生間では山陰本線は本線とは言うもののこれと言った核となる町も無く、一方美祢線は当時は石炭石灰石採掘で賑わう美祢市や長門湯本・俵山等の温泉地や秋吉台へのアクセス(尤も長門湯本以外は駅から遠くバス・タクシー等のアシストが必要だった)需要もアリ、さんべの基本編成(ロザ入り)は美祢線経由だった。
閑話休題。分割後1両?キハ58系は元よりキハ55系にも両運転車はない(キハ58改造のキハ53‐500などは遥か後年の登場)。後に有田鉄道に行った富士急行のキハ58003や島原のキハ5500・キハ2600もまさかこの列車には運用されない。付属編成も2両以上あったのでは?
(まさかキハ20を使ったなんてことは無さそうだから)
因みに…既に九州内は快速になっていた1980年代前半に同列車を利用したことがあるがその時は上り先頭からキハ58‐キロ28‐キハ28‐キハ58+キハ58‐キハ28-キハ58で、前4両が美祢線経由、後ろ3両が山陰本線経由だった。キロ28もグリーン車として運用されていたが普通列車(快速)扱いなのでグリーン料金は普通列車のそれが適用され乗り得だった。
(尤も上には上がいて博多発熊本行きの朝の下り普通列車には475系6連の列車がありしかも編成内のサロ455がグリーン車ではなく普通車扱い=グリーン料金不要=だった)
沿線人口や秋吉台のような観光地がある美祢線をメインルートにしたいけど
当時は石灰石列車の大動脈なのでそうもいかない
なお美祢線も山陰本線も優等列車どころか水害からの復旧が進まず'24年現在代行バス運行中…
新山口〜東萩だけでもいいから直通優等列車がほしい…
2:40 揖屋駅が否定の「いや」に聞こえるから、
安来、いや(ちがうなぁ)、松江
と停車駅案内を間違えたかのように聞こえるwww
当然西村京太郎さんがアリバイトリックにつかったよな。
短編だったけど
種村直樹さんが1976.12に803Dさんべ2号の列車追跡を著しておられます。時刻表を読むだけの小学生には夢中で読む内容でした。
西村京太郎氏のトラベルミステリーが定番シリーズと化す前の単発物として映像化されたさんべ3号
84年頃? 週末、福岡ではじけたい鉄子は
下関から快速に種変したグリーン車に乗った
帰宅ラッシュ時刻でも貸切状態
戸畑、黒崎などでホームからの凝視があまりにもキツく、無謀だったと後悔した
博多乗り入れ廃止の1985年3月、私が鹿児島線の折尾駅で見た博多行きのグリーン車は
40代くらいの男性の乗客1名でした。
それとこの列車、竹下気動車区に入庫し翌朝「博多~西戸崎」の通勤輸送に使われてました。
美祢線の地位低下がな。ドル箱貨物列車はトラック化されるし、秋吉台観光はクルマ?
0:48 一瞬RailSimに見えた
8:08 一コマ?だけ分割併合の説明で使われてた路線図が入っちゃってますよ
40年くらい前の旅で山口を周遊券で巡りました。玉江から長門市までを急行さんべ?で移動し,長門市から益田までを特急いそかぜで乗り通した,そんな記憶があります。いそかぜは特急券を買わなければ行けなかったのですが,特急おきと急行さんべは乗り放題だったと思います。
令和の今ではどうあがいても絶対に不可能な編成ですね。
広島から備後落合で木次線と芸備線に分かれて米子で落ち合う列車走らせてくれないかなぁ(無謀
20世紀の終わり頃、山口線を広島色+さんべの緑色が併結してた記憶があるんですが、そんな運用って実際にあったんですか?
山陰本線経由の急行さんべ号と似たルートで九州と山陰を結んだスキー列車(当初は快速列車でしたが、後に急行列車に格上げされました。)がありました。この列車は準急やくも号が設定された1959年にはすでに存在しており、又一時的ではありますが定期のさんべ号よりも先に三瓶(さんべ)号を名乗っていたり、昭和40年代には山口線経由の編成を併結するようになったりとかなり特徴のある列車でした。以下1959年~2001年の九州と山陰を結んだスキー列車を載せておきます。
1959年→博多~米子
1961年→運行なし?(1961年1月号では確認できませんでした。)
1962年→博多~米子
1963年→博多~米子(銀嶺号)(①銀嶺号という愛称が付きました。)
1964年→博多~米子(銀嶺号)と小郡~米子(山口線経由・新雪号)(①山口線経由の新雪号が新設されました。②米子行のみ石見益田~米子で銀嶺号と併結するようになりました。)
1965年→博多~米子(だいせん銀嶺号)と小倉~石見大田(さんべ銀嶺号)と下関~米子(山口線経由・新雪号)(①銀嶺号→だいせん銀嶺号に改称しました。②だいせん銀嶺号の運転のない日にさんべ銀嶺号が運行されるようになりました。③新雪号は浜田~米子でだいせん銀嶺号と、石見大田→浜田でさんべ銀嶺号と併結するようになりました。)
1966年→博多~米子(銀嶺号)と石見大田→小倉(白銀号)と下関~米子(山口線経由・新雪号)(①だいせん銀嶺号→銀嶺号・さんべ銀嶺号→白銀号に改称しました。②白銀号は小倉行のみ運行されるようになりました。③新雪号は石見益田~米子で銀嶺号と併結するようになりました。)
1967年→博多~米子(大山銀嶺号)と下関~米子(山口線経由・大山新雪号)(①銀嶺号→大山銀嶺号・新雪号→大山新雪号に改称しました。②白銀号は廃止されました。③大山新雪号は益田~米子で大山銀嶺号と併結するようになりました。)
1968年→博多~米子(大山銀嶺号)と下関~米子(山口線経由・大山銀嶺号)と石見大田→下関(山口線経由・三瓶銀嶺号)(①大山新雪号→大山銀嶺号に改称しました。②大山銀嶺号の運行がない日に三瓶銀嶺号が運行されました。③益田~米子で2つの大山銀嶺号が併結するようになりました。)
1969年→博多~米子(九州銀嶺号)と下関~米子(山口線経由・大山銀嶺号)(①博多発着の大山銀嶺号→九州銀嶺号に改称しました。②三瓶銀嶺号は廃止されました。又九州銀嶺号が運行がない時期には、米子行の大山銀嶺号が単独で運行されました。④両方ともにB寝台車が連結されるようになりました。⑤大山銀嶺号は益田~米子で九州銀嶺号と併結するようになりました。)
1970年→運行なし(1970年1月号では確認できませんでした。)
1971年→博多~米子(九州銀嶺号)(①山口線経由の大山銀嶺号は廃止されました。)
1972年→熊本~米子(急行九州銀嶺号)と下関~米子(山口線経由・急行大山銀嶺号)(①九州銀嶺号は快速から急行に格上げされました。又運行区間が博多から熊本まで延長されました。②大山銀嶺号が急行に格上げの上で復活しました。又以前のようにB寝台車が連結されています。③大山銀嶺号は益田~米子で九州銀嶺号と併結するようになりました。)
1973年→熊本~米子(急行九州銀嶺号)と下関~米子(山口線経由・急行大山銀嶺号)(①運行形態は前年と同じです。)
1974年→熊本~米子(急行九州銀嶺号)と下関~米子(山陰本線経由・急行大山銀嶺号)(①大山銀嶺号の経由路線が山口線から山陰本線経由に変更されました。②下関行の大山銀嶺号にはB寝台車が連結されなくなりました。③大山銀嶺号は下関~米子で九州銀嶺号と併結するようになりました。又九州銀嶺号の運行がない日には、大山銀嶺号が単独で運行されました。)
1975年→博多~米子(急行九州銀嶺号)(①九州銀嶺号のB寝台車の連結がなくなりました。②運行区間が熊本から博多に短縮されました。③大山銀嶺号は廃止されました。)
1976年→下関→米子(急行山陰銀嶺号)(①九州銀嶺号から山陰銀嶺号に改称されました。②運行区間が博多から下関に短縮されました。又米子行のみ運行されるようになりました。)
1978年→下関~米子(急行山陰銀嶺号)(①下関行の運行が復活しました。)
1980年→下関~米子(急行大山スキー号)(①山陰銀嶺号から大山スキー号に改称されました。)
1982年→いったん廃止されました。
1986年→博多~米子(急行大山スキー号)(①定期の夜行急行さんべ号が廃止されたため再び運行されるようになりました。②以前とは異なり全車指定席ではなくなりました。③運行区間が下関から博多に延長されました。)
1987年→博多~米子(急行大山スキー号)(①運行形態は前年と同じです。)
1988年→熊本~米子(快速ビックスキー大山号)(①大山スキー号からビックスキー大山号に改称されました。又急行から快速に格下げされました。②運行区間が博多から熊本まで延長されました。③再び全車指定席になりました。)
1989年→熊本~米子(快速ビックスキー大山号)(①運行形態は前年と同じです。)
1990年→熊本~米子(快速ビックスキー大山号)(①B寝台車が連結されるようになりました。※B寝台車の連結がない日もありました。)
1991年→熊本~米子(急行シュプール大山号)(①ビックスキー大山号からシュプール大山号に改称されました。又快速から急行に格上げされました。②2往復運行される日もありました。③B寝台車が連結されました。※B寝台車の連結がない日もありました。④全車指定席で運行されました。)
1992年→熊本~米子(急行シュプール大山号)(①すべての日でB寝台車が連結されるようになりました。②2往復運行される日もありました。)
1993年→熊本~米子(急行シュプール大山号)(①運行形態は前年と同じです。)
1994年→熊本~米子(急行シュプール大山号)(①運行形態は前年と同じです。)
1995年→熊本~米子(急行シュプール大山号)(①B寝台車の連結がない日が出てくるようになりました。②すべての日で1往復のみの運行になりました。)
1996年→熊本~米子(急行シュプール大山号)(①B寝台車の連結がなくなりました。)
1998年→博多~米子(急行シュプール大山号)(①運行区間が熊本から博多に短縮されました。②B寝台車の連結が復活しました。※B寝台車の連結がない日もありました。)
1999年→博多~米子(急行シュプール大山号)(①運行形態は前年と同じです。)
2001年→廃止されました。
再婚旅行殺人事件にも登場しました、他にも特急「かもめ」と「みどり」と寝台特急「出雲3号」と「紀伊」である。
美祢線経由にグリーン車が連結されていて、そちらの方がメイン扱いでした。😅
でも列車番号は山陰本線経由の方がメイン😉
電車と人の“別れ&再会”なら,
“下山ダッシュ”があります.
分離、合体、巨大アニメロボ...😅
県の代表駅があるのに軽視された山口線・・・。
山陰~九州って電車の場合、今なら広島か岡山を経由するしかないのかな?
広島経由ってどういうルート?
そもそも電車なら唯一電化されている伯備線一択。
出雲市~益田間なら、スーパーおきで新山口から新幹線の手がある
@@mukashinohito 浜田~広島のバスを利用することはできるのでは
「今なら」っつーか昭和57年7月に伯備線電化だが、それまで国鉄山陰地方は電化区間なかった。それ以降も伯備線のみ😉
1:46 おいおいおい...慣れてなかったのかな?
別れた人と再婚列車。
これ、やろうと思えば、今なら何処やろ?
敦賀~新大阪開業後・リニア開業後の北陸新幹線で京都~新大阪かな。
奧羽新幹線全通後の東京ー福島ー田沢湖ー秋田? …まあ、新庄から先の新幹線開通って何世紀先の話や、という話でもありますが😆
意味わからん
京都で分割併合とか物理的に不可能だぞ?
@@nsugi721
何世紀経とうが無理だ😃
再婚列車
日本だから器用な運用ができた
別名浮気列車とも呼ばれた。
コッペパンにしては稚拙な調査だな
山口線、美祢線、山陰線経由の3階建て「さんべ」を取り上げないなんて
取り上げたけど