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利根川東遷事業は昭和30年代の「潮止の堰」の完成をもって終わりだそうです。300年以上かかった事業なんですね。
JR成田線の下総橘駅近くの「利根川河口堰」ですね。出来た当時を知ってる者は「逆水門」とも呼んでました。利根川本流、常陸利根川、黒部川の3本に跨る多くの水門を持った長大な堰です。茨城側に小型船舶用の閘門、千葉側に魚道が設置されています。
お見事。とてもわかりやすかったです。それにしても現在まで維持されている利根川下流域の治水を江戸期に設計した伊奈忠次の手腕に驚くばかりです。多くの治水事業の従事者も含め、先人に感謝感謝です。
今まさに別の興味から「利根川東遷」を調べていました。こちらのチャンネルで詳しい解説を見られて嬉しいです😍ありがとうございました👍
偶然、一昨日取手で岡堰を見てきたばかりです。(目的は高井城址)伊奈さんすげえと感動してきたタイミングだったので、わかり易い解説が見れて良かった。有難うございます。小貝川付け替え工事の一部だったんですね。解説の通りに関東流の地形が広がっていました。
埼玉県東南部は縄文時代は海底で、陸地化後も利根川が暴れまくる低湿地ですか。1947年に台風で利根川の堤防が決壊した時は、本来の河川ルートに沿って、洪水が東京まで押し寄せたそうだが、自然と水の力は桁違いですね。
こういう広範囲で大規模な治水工事は関東平野に今よりはあまり人が住んでない、当時の人口だから出来たことなんだろうな仮に今これと同じことをやろうとしたら各地での立ち退き交渉だけで何年もかかりそうだし絶対に無理だろう伊奈氏を始めとした過去の偉大な業績による関東地方の繁栄に感謝です
この大規模治水事業によって今でも日本の中心地である東京が確立したと考えるとその影響力たるや計り知れないね
これを思い付いた事はものすごい事です。
「家康、江戸を建てる」という小説を読んだけど利根川の変遷が頭に浮かばなかったのでこの動画はありがたい。
7:17 川口は加須市川口です。草加ではありません。図にも加須市って書いてあり、加須市川口は現存する地名です
家康の政治家としての偉大さを改めて感じます現在の首都圏の繁栄が彼の偉業のうえにあることを思えば、歴史を実感させられます巨大都市圏構築にあたってこれ程大規模な水利事業を行ったのは世界的にも例がないと思います
30年位昔の小学生時代、利根川に釣りに行って釣れなくて飽きると古銭探ししたりしたけど、この事業の完了を祝って撒いたものだったのだろうかw赤堀川って区間(茨城側)が地元で、赤土の水深10センチ位の川底にたまたま古銭を発見した友達がいて、寛永通宝を何枚か拾いました。
江戸時代のプロジェクトX坂東太郎の東遷なんて発想が凄い。治水や運河だけでも、日本の土木工事の 歴史、技術は素晴らしい。
年代を追って解説してあるのでたいへんわかりやすかったです。伊奈一族すばらしい!
素晴らしいテーマ!!ないすです👍
正確な地図の無い時代にこれだけの大事業を完成させるには、どれ程の経験や試行錯誤が必要なのか?土木にしても、人足の統括は莫大な規模だと思う。やがてそれが土地だけではなく、江戸の人口の基礎にもなったことを考えると凄い事だと思う。
千葉の角野田市はこうして出来たんですね。すごく勉強になりました
坂東は新田開発に向かないといいつつ、平安中期の国のグレードの最上位「大国」に常陸、武蔵、上野、下総、上総と関東の大半が入ってることを考えると、元来はポテンシャルが高かったものの、中世を経て、開発に遅れをとっていたのかな。そして、この治水事業をはじめとする江戸初期の整備で関東平野の価値が存分に発揮されてったとか?考えると色々面白いですね。
今となっては、武蔵は超大国ですね。
伊奈忠次の銅像は水戸市にあります忠次の官位にちなんで命名された備前堀です
利根川東遷事業と共に江戸川も色々と変化があったんですね。となると国府台合戦(里見VS北条)の舞台である里見公園周辺から見える現在の江戸川と、合戦当時の江戸川は全然違っていたかもしれない?
太日川の改良は関宿−野田当たりの直線化がメインなので、国府台周辺は流路自体はそんなに変わらないように思います。景色は全然違っただろうと思いますが。
銚子出身ですが、実家の近くに「陣屋町公園」というのがあり、元は高崎藩の陣屋跡だと大人になってから知りました。なぜ高崎?という事も、利根川で繋がったからだったんですね。
ビジュアルで見れて凄くタメになりました。この事業は治水面とあわせて当然、水運とも関係が深いですよね〜。個人的に、江戸から東北ルートで必要が無くなった、椿海の埋め立ても気になってます。
荒川放水路の事は岩渕水門の側にある荒川知水資料館(無料)で知る事が出来ます。伊奈氏の陣屋は川口市に赤山陣屋跡があり散策出来ます。治水資料館、陣屋跡へ行くには地下鉄南北線〜埼玉高速鉄道を利用すると便利です。
政治とは土木なり。社会インフラを整え、国民の生命と財産を守ること。
秀吉の嫌がらせみたいな家康の江戸への国がえがなければ、今も関東は人がまばらな湿地帯だったってことですな。
7:16 「佐波から川口(今の草加市)」は、草加ではなく加須では?
戦国が終わりあぶれた武士たちが食い扶持を失って反乱を起こさないように土木工事で食えるようにした点も天下泰平の基礎となったと思える。米の収穫もあがり人口も増えていった。幕府初期の大きな成果であった。
利根川東遷は偉業だが良い事だけではない 旧鬼怒川に関東一の大河の水を流せば 大雨の時に容量オーバーになるのは 考えれば分かること豪雨の時には 鬼怒川との合流部で水が逆流するバックウォータが起こりやすく 平成27年9月関東・東北豪雨では 鬼怒川の水が流れていかず 堤防の決壊と越水により甚大な被害が出た(この辺は後の検証で指摘されている)また 東遷と流路の付け替えで利根川右岸となった 今の五霞町辺りでは 江戸時代から洪水の頻発に悩まされた(現在は対策されている)
この動画に表れる地図は右上が北になります。ちなみに私は栗橋付近にずっと住んでいて職場は会の川の近くでした。今は町の中を流れる小川になっています。
世界に誇るべき大事業。300年にわたる偉業。
幻に終わった、利根川放水路の変遷も見てみたいです。
このお陰で下総国が南北に分断され、私の家が有る北側が茨城県になってしまうという悲劇が……利根川をいじらなければ、千葉県になっていたのに😂
徳川家康公の功績あまりにも偉大だ。現在の日本にこれほどの政治家がいれば、、それにひきかえ、、いや、、なんでもないっ
強固な堤防で洪水を防ぐのではなく人の住む方と反対側を低地にして水を流す。こうした仕組みはまだ残っているんだよね。ただこうした低地を住宅地にしたことで問題になったところもある。
なぜ房総の先が上総で北が下総なのかの理由もこれなんだよね。西から来て北に抜けるのに今の東京湾湾岸より東京湾を渡って房総半島から北上のルートが選択されたと。京に近いのは船橋あたりではなくそっちなぐらい川が邪魔。
今でも大都市を守るためにわざと狭窄部を残し遊水させてますもんね。近年でも洪水被害を出してるのはその遊水地。被害を最小限にする為に仕方ないんですよね。
良質な動画といえる。門井 慶喜著「家康、江戸を建てる」(祥伝社文庫)に詳しく描かれている。
平安時代終盤、源頼朝によって討たれた源義経の亡骸を慕って、愛妾の静御前が幽閉されていた鎌倉から北上し、栗橋の辺りで利根川を渡ろうとして渡れず、力尽きて亡くなった。栗橋駅の傍には静御前の墓が有り、利根川の向こう側の某寺には、静御前の衣類が保管されている。栗橋辺りでも昔の利根川は今よりも広かったのだろう。
弥惣兵衛さんの名前が出てきてちょっと嬉しい。伊奈氏と比べると知名度が地味過ぎなので
「ここは川になるから立ち退いて」と言われて住民が反対運動。お上に中止を直訴。今の感覚と異なるのでしょう。大規模工事の資金は幕府が全額負担したのか、地元も負担したのか‥ワクワクする動画です。
15:31 テスラバルブに似てる
なおこれでもまだ災害に弱い都市世界1位(大阪名古屋もランクイン)スイスにある機関が調査
江戸中期の寛保2年(1742)江戸大洪水の記録。それによれば、越谷・粕壁(現在の埼玉県春日部市)・幸手ほか周辺各地の溺死者は9000人を超え、下谷・浅草・本所でも4000人近くの人命が失われた。昔は洪水で多くの人が亡くなってたからな。
利根川は江戸時代以前は流路をしょっちゅう変えていて本当は地図に描けるような確定的な流路はなかったと言っていい。時には元の荒川(元荒川ではない)とも結託して下流に大災害を与えていたっていうからね。この事業はこれまであまり注目されてなかったけど、現在の関東、そして東京・首都圏を形作る基礎になったと言えるもので、戦国武将としての家康よりも都市計画者としての家康をもっと大きく取り上げてほしいものだね。ある意味荒川西遷は現在も続いている。流石に流路を変えるなんてことはもうしない(できない)けど、埼玉県のさいたま市と蕨市・戸田市の間に「荒川第一調水池」通称「彩湖」というのがあるけど、正式名の通り荒川が氾濫しそうになった時に河水を一時的に溜めておく池・施設だ。2019年の台風19号の時にはまさにそれが機能して、普段は広い公園になってるところが水がいっぱいに溜まって巨大なカマキリ型の遊具の首まで水に使った映像が有名になった。実はこういう荒川河川敷を利用した遊水地は彩湖だけではない。そもそも荒川河川敷自体が自然の遊水池扱いになっていて、河川敷にあるグラウンド・運動場・ゴルフ場・田んぼ・畑地なんかは全部水の下になるようになっている。埼玉県の荒川中流域、鴻巣市には「川幅日本一」って場所があるけどあれも伊達や酔狂やただの土地自慢じゃない。鴻巣市だけじゃなくさいたま市・川口市付近までその川幅がそのまま続いていて非常時遊水池になってるんだ。今それをさらにシスティマティックにしようと彩湖のやや上流に荒川第二・第三遊水池設置工事が長いスパンで今まさに行われてる。極論すれば東京(そしてもちろん埼玉県も)を沈没から守ってるのは埼玉県なのだよ。さいたま市のやや北に「伊奈町」という町があるけど、その名はまさに伊奈一族から来てる。もって銘すべし。
荒川上流には群馬のような山岳が少ないから平地で貯水するしかない。群馬はダムだらけになって東京の沈没から守っている。ただこの防衛策も最近の温暖化で鉄壁ではなくなっている。元の利根川・荒川流域の住人は自分たちがどんな場所に住んでいるのかよく再考したほうがいい。一週間も集中豪雨が続き万一堤防が崩壊すれば一ヶ月は水の引かない場所に一千万人以上が居住しているというこの状況を。
荒川のサイクリングロード(さいたま市から上流)を走った事がある人は気が付くと思いますが、荒川の堤防から横に突き出している小高い道みたいのが治水機能としての横堤防です。
今の関東平野と東京を作ったのは徳川だからな。。
茨城県利根町の栄橋付近は開削して流路をいじったのを知った直後なので俺得
江戸を洪水氾濫から守るため東にですね。先ず敵か味方か判らない東の佐竹54万石を久保田(秋田)22万石に。そして利根川を東に東に、三浦半島と木更津より先の東京湾の水深も縄文海進以前の利根川が削った跡でしょう。利根川は木更津沖ぐらいまで強い流れだったのかもしれませんね。
中条堤は現在の利根大堰に繋がるのかな。この関東流の大失敗がC国に有ります。
余りにも暴れまくってて、家康君が、付け替えたって話しは有名ですけれど、
この流路変更を見ると利根川や荒川の河川だった越谷・川口そして墨田の下町付近はかなりの低地なんだよな。縄文海進の頃は海だった・・・。最近の温暖化で群馬あたりで集中豪雨が続けば元の利根川流路に越水する。これだけ住民が増え続けた元流域はカスリーン台風の比にならない大水害になる可能性もあるんだよな。
現在の利根川のルートは、フォッサマグナの東端に当たると思います。まだフォッサマグナの東端は、確定していません。
利根川東遷のせいで野田は橋を渡らなきゃ出られない不便な町になった
江戸幕府、国交省の100倍は有能。
伊達政宗対策はさすがに過大評価
もし当時民主党政権だったりしたら事業も無くなっていたんだろうな
自民党政権なら中抜きと賄賂で費用が何倍にも膨れ上がるな
利根川東遷事業は昭和30年代の「潮止の堰」の完成をもって終わりだそうです。300年以上かかった事業なんですね。
JR成田線の下総橘駅近くの「利根川河口堰」ですね。出来た当時を知ってる者は「逆水門」とも呼んでました。
利根川本流、常陸利根川、黒部川の3本に跨る多くの水門を持った長大な堰です。茨城側に小型船舶用の閘門、千葉側に魚道が設置されています。
お見事。とてもわかりやすかったです。
それにしても現在まで維持されている利根川下流域の治水を江戸期に設計した伊奈忠次の手腕に驚くばかりです。多くの治水事業の従事者も含め、先人に感謝感謝です。
今まさに別の興味から「利根川東遷」を調べていました。
こちらのチャンネルで詳しい解説を見られて嬉しいです😍
ありがとうございました👍
偶然、一昨日取手で岡堰を見てきたばかりです。(目的は高井城址)
伊奈さんすげえと感動してきたタイミングだったので、わかり易い解説が見れて良かった。有難うございます。
小貝川付け替え工事の一部だったんですね。解説の通りに関東流の地形が広がっていました。
埼玉県東南部は縄文時代は海底で、陸地化後も利根川が暴れまくる低湿地ですか。1947年に台風で利根川の堤防が決壊した時は、本来の河川ルートに沿って、洪水が東京まで押し寄せたそうだが、自然と水の力は桁違いですね。
こういう広範囲で大規模な治水工事は関東平野に今よりはあまり人が住んでない、当時の人口だから出来たことなんだろうな
仮に今これと同じことをやろうとしたら各地での立ち退き交渉だけで何年もかかりそうだし絶対に無理だろう
伊奈氏を始めとした過去の偉大な業績による関東地方の繁栄に感謝です
この大規模治水事業によって今でも日本の中心地である東京が確立したと考えると
その影響力たるや計り知れないね
これを思い付いた事はものすごい事です。
「家康、江戸を建てる」という小説を読んだけど利根川の変遷が頭に浮かばなかったのでこの動画はありがたい。
7:17 川口は加須市川口です。草加ではありません。図にも加須市って書いてあり、加須市川口は現存する地名です
家康の政治家としての偉大さを改めて感じます
現在の首都圏の繁栄が彼の偉業のうえにあることを思えば、歴史を実感させられます
巨大都市圏構築にあたってこれ程大規模な水利事業を行ったのは世界的にも例がないと思います
30年位昔の小学生時代、利根川に釣りに行って釣れなくて飽きると古銭探ししたりしたけど、この事業の完了を祝って撒いたものだったのだろうかw
赤堀川って区間(茨城側)が地元で、赤土の水深10センチ位の川底にたまたま古銭を発見した友達がいて、寛永通宝を何枚か拾いました。
江戸時代のプロジェクトX
坂東太郎の東遷なんて発想が凄い。
治水や運河だけでも、日本の土木工事の 歴史、技術は素晴らしい。
年代を追って解説してあるのでたいへんわかりやすかったです。伊奈一族すばらしい!
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ないすです👍
正確な地図の無い時代にこれだけの大事業を完成させるには、どれ程の経験や試行錯誤が必要なのか?
土木にしても、人足の統括は莫大な規模だと思う。やがてそれが土地だけではなく、江戸の人口の基礎にもなったことを考えると凄い事だと思う。
千葉の角野田市はこうして出来たんですね。すごく勉強になりました
坂東は新田開発に向かないといいつつ、平安中期の国のグレードの最上位「大国」に常陸、武蔵、上野、下総、上総と関東の大半が入ってることを考えると、
元来はポテンシャルが高かったものの、中世を経て、開発に遅れをとっていたのかな。
そして、この治水事業をはじめとする江戸初期の整備で関東平野の価値が存分に発揮されてったとか?
考えると色々面白いですね。
今となっては、武蔵は超大国ですね。
伊奈忠次の銅像は水戸市にあります
忠次の官位にちなんで命名された備前堀です
利根川東遷事業と共に江戸川も色々と変化があったんですね。
となると国府台合戦(里見VS北条)の舞台である里見公園周辺から見える現在の江戸川と、合戦当時の江戸川は全然違っていたかもしれない?
太日川の改良は関宿−野田当たりの直線化がメインなので、国府台周辺は流路自体はそんなに変わらないように思います。景色は全然違っただろうと思いますが。
銚子出身ですが、実家の近くに「陣屋町公園」というのがあり、元は高崎藩の陣屋跡だと大人になってから知りました。なぜ高崎?という事も、利根川で繋がったからだったんですね。
ビジュアルで見れて凄くタメになりました。
この事業は治水面とあわせて当然、水運とも関係が深いですよね〜。
個人的に、江戸から東北ルートで必要が無くなった、椿海の埋め立ても気になってます。
荒川放水路の事は岩渕水門の側にある荒川知水資料館(無料)で知る事が出来ます。
伊奈氏の陣屋は川口市に赤山陣屋跡があり散策出来ます。
治水資料館、陣屋跡へ行くには地下鉄南北線〜埼玉高速鉄道を利用すると便利です。
政治とは土木なり。社会インフラを整え、国民の生命と財産を守ること。
秀吉の嫌がらせみたいな家康の江戸への国がえがなければ、今も関東は人がまばらな湿地帯だったってことですな。
7:16 「佐波から川口(今の草加市)」は、草加ではなく加須では?
戦国が終わりあぶれた武士たちが食い扶持を失って反乱を起こさないように土木工事で食えるようにした点も天下泰平の基礎となったと思える。米の収穫もあがり人口も増えていった。幕府初期の大きな成果であった。
利根川東遷は偉業だが良い事だけではない 旧鬼怒川に関東一の大河の水を流せば 大雨の時に容量オーバーになるのは 考えれば分かること
豪雨の時には 鬼怒川との合流部で水が逆流するバックウォータが起こりやすく 平成27年9月関東・東北豪雨では 鬼怒川の水が流れていかず 堤防の決壊と越水により甚大な被害が出た(この辺は後の検証で指摘されている)
また 東遷と流路の付け替えで利根川右岸となった 今の五霞町辺りでは 江戸時代から洪水の頻発に悩まされた(現在は対策されている)
この動画に表れる地図は右上が北になります。
ちなみに私は栗橋付近にずっと住んでいて職場は会の川の近くでした。今は町の中を流れる小川になっています。
世界に誇るべき大事業。
300年にわたる偉業。
幻に終わった、利根川放水路の変遷も見てみたいです。
このお陰で下総国が南北に分断され、私の家が有る北側が茨城県になってしまうという悲劇が……
利根川をいじらなければ、千葉県になっていたのに😂
徳川家康公の功績あまりにも偉大だ。
現在の日本にこれほどの政治家がいれば、、
それにひきかえ、、いや、、なんでもないっ
強固な堤防で洪水を防ぐのではなく人の住む方と反対側を低地にして水を流す。こうした仕組みはまだ残っているんだよね。ただこうした低地を住宅地にしたことで問題になったところもある。
なぜ房総の先が上総で北が下総なのかの理由もこれなんだよね。西から来て北に抜けるのに今の東京湾湾岸より東京湾を渡って房総半島から北上のルートが選択されたと。京に近いのは船橋あたりではなくそっちなぐらい川が邪魔。
今でも大都市を守るためにわざと狭窄部を残し遊水させてますもんね。
近年でも洪水被害を出してるのはその遊水地。被害を最小限にする為に仕方ないんですよね。
良質な動画といえる。門井 慶喜著「家康、江戸を建てる」(祥伝社文庫)に詳しく描かれている。
平安時代終盤、源頼朝によって討たれた源義経の亡骸を慕って、愛妾の静御前が幽閉されていた鎌倉から北上し、栗橋の辺りで利根川を渡ろうとして渡れず、力尽きて亡くなった。栗橋駅の傍には静御前の墓が有り、利根川の向こう側の某寺には、静御前の衣類が保管されている。栗橋辺りでも昔の利根川は今よりも広かったのだろう。
弥惣兵衛さんの名前が出てきてちょっと嬉しい。伊奈氏と比べると知名度が地味過ぎなので
「ここは川になるから立ち退いて」と言われて住民が反対運動。お上に中止を直訴。今の感覚と異なるのでしょう。大規模工事の資金は幕府が全額負担したのか、地元も負担したのか‥ワクワクする動画です。
15:31 テスラバルブに似てる
なおこれでもまだ災害に弱い都市世界1位(大阪名古屋もランクイン)スイスにある機関が調査
江戸中期の寛保2年(1742)江戸大洪水の記録。
それによれば、越谷・粕壁(現在の埼玉県春日部市)・幸手ほか周辺各地の溺死者は9000人を超え、下谷・浅草・本所でも4000人近くの人命が失われた。
昔は洪水で多くの人が亡くなってたからな。
利根川は江戸時代以前は流路をしょっちゅう変えていて本当は地図に描けるような確定的な流路はなかったと言っていい。時には元の荒川(元荒川ではない)とも結託して下流に大災害を与えていたっていうからね。この事業はこれまであまり注目されてなかったけど、現在の関東、そして東京・首都圏を形作る基礎になったと言えるもので、戦国武将としての家康よりも都市計画者としての家康をもっと大きく取り上げてほしいものだね。
ある意味荒川西遷は現在も続いている。流石に流路を変えるなんてことはもうしない(できない)けど、埼玉県のさいたま市と蕨市・戸田市の間に「荒川第一調水池」通称「彩湖」というのがあるけど、正式名の通り荒川が氾濫しそうになった時に河水を一時的に溜めておく池・施設だ。2019年の台風19号の時にはまさにそれが機能して、普段は広い公園になってるところが水がいっぱいに溜まって巨大なカマキリ型の遊具の首まで水に使った映像が有名になった。
実はこういう荒川河川敷を利用した遊水地は彩湖だけではない。そもそも荒川河川敷自体が自然の遊水池扱いになっていて、河川敷にあるグラウンド・運動場・ゴルフ場・田んぼ・畑地なんかは全部水の下になるようになっている。埼玉県の荒川中流域、鴻巣市には「川幅日本一」って場所があるけどあれも伊達や酔狂やただの土地自慢じゃない。鴻巣市だけじゃなくさいたま市・川口市付近までその川幅がそのまま続いていて非常時遊水池になってるんだ。今それをさらにシスティマティックにしようと彩湖のやや上流に荒川第二・第三遊水池設置工事が長いスパンで今まさに行われてる。極論すれば東京(そしてもちろん埼玉県も)を沈没から守ってるのは埼玉県なのだよ。
さいたま市のやや北に「伊奈町」という町があるけど、その名はまさに伊奈一族から来てる。もって銘すべし。
荒川上流には群馬のような山岳が少ないから平地で貯水するしかない。群馬はダムだらけになって東京の沈没から守っている。
ただこの防衛策も最近の温暖化で鉄壁ではなくなっている。元の利根川・荒川流域の住人は自分たちがどんな場所に住んでいるのかよく再考したほうがいい。
一週間も集中豪雨が続き万一堤防が崩壊すれば一ヶ月は水の引かない場所に一千万人以上が居住しているというこの状況を。
荒川のサイクリングロード(さいたま市から上流)を走った事がある人は気が付くと思いますが、荒川の堤防から横に突き出している小高い道みたいのが治水機能としての横堤防です。
今の関東平野と東京を作ったのは徳川だからな。。
茨城県利根町の栄橋付近は開削して流路をいじったのを知った直後なので俺得
江戸を洪水氾濫から守るため東にですね。先ず敵か味方か判らない東の佐竹54万石を久保田(秋田)22万石に。そして利根川を東に東に、三浦半島と木更津より先の東京湾の水深も縄文海進以前の利根川が削った跡でしょう。利根川は木更津沖ぐらいまで強い流れだったのかもしれませんね。
中条堤は現在の利根大堰に繋がるのかな。この関東流の大失敗がC国に有ります。
余りにも暴れまくってて、家康君が、付け替えたって話しは有名ですけれど、
この流路変更を見ると利根川や荒川の河川だった越谷・川口そして墨田の下町付近はかなりの低地なんだよな。縄文海進の頃は海だった・・・。
最近の温暖化で群馬あたりで集中豪雨が続けば元の利根川流路に越水する。これだけ住民が増え続けた元流域はカスリーン台風の比にならない大水害になる可能性もあるんだよな。
現在の利根川のルートは、フォッサマグナの東端に当たると思います。
まだフォッサマグナの東端は、確定していません。
利根川東遷のせいで野田は橋を渡らなきゃ出られない不便な町になった
江戸幕府、
国交省の100倍は有能。
伊達政宗対策はさすがに過大評価
もし当時民主党政権だったりしたら事業も無くなっていたんだろうな
自民党政権なら中抜きと賄賂で費用が何倍にも膨れ上がるな