# 昭和の東京シリーズ 第16回 中川放水路(昭和38年(1963年)4月制作)
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- เผยแพร่เมื่อ 23 ส.ค. 2024
- 東京ニュース「No.146 中川放水路」(昭和38年4月)
企画:東京都、製作:東京都映画協会
映像提供:公益財団法人東京都歴史文化財団東京都江戸東京博物館
東京の東部、隅田川の東側に位置する、現在の足立・葛飾・江戸川の各区にまたがる地
域は、江戸時代より、この地域を流れる中川の氾濫によって幾度も泥海と化してきました
。
氾濫の大きな原因は中川の蛇行で、これを改善するため直線で中川を江戸川に結ぶ新た
な水路が掘削されることになりました。
長さ約8千メートル、川幅123メートルに及ぶこの人口の川は戦前戦後を通じて54
億円の巨費を費やし、幾多の困難を乗り越え、田や畑を切り開いて作られました。
そして昭和38年(1963年)に中川放水路は遂に完成し、遠く江戸時代から繰り返
されてきた宿命的な水との戦いは、終わりを告げ、毎年のように襲ってくる水の被害と恐
怖から人々を開放しました
映像では、この大工事の様子が描かれていますが、沿岸に建ち並ぶ住宅など当時の懐か
しい風景も見ることができます。
この映像は、昭和38年(1963年)に製作された「東京ニュース No.146 中川放水路」
のフィルムをデジタル化したものです。
東京動画に掲載するにあたり、権利関係等に配慮し、編集や加工処理等を行っている部
分があります。
音声については、加工処理の影響でノイズが生じている部分があります。
字幕については、オリジナルのナレーション等をもとに作成していますが、異なる部分
もあります。なお、ナレーション及び字幕のなかに、現代では不適切と思われる表現が含
まれていることがあります。
これらの点について、あらかじめご了承いただきますよう、お願いいたします。
貴重な映像提供ありがとうございます。また字幕も当時の表現が理解できて助かります。ただ一般の方の顔ボカシは不要かも。ほとんどの方が亡くなってるでしょうし、当時の風土を伝える上でもお顔が出てる方が伝承物として価値あるものになるかと。 とはいえありがとうございます❤
この河はその土地の人々にとって重要な河川と認定されたのを契機に名称が「中川」から「新中川」へ変わったようです。
地元の方々はこの元「中川放水路」を、きっと大事に思っていることでしょう。
当時の土木工事はトロッコが使われていましたね。
そして、貨物列車はD51。
当時の方たちに感謝です😢うちの地元です😊
人物にボカシを入れる必要が本当にあるのでしょうか?
今はうるさい時代だからね
人権侵害で左翼に開示請求されるよ
荒川の右岸を新河岸川+現隅田川で小河川を整備したのと同様、左岸も整備しようとして唯一完成が新中川。新芝川新綾瀬川は未完状態。
ぼかしは本当にひどい。当時の方の表情を観れるのが、昔のニュースリールの魅力でもあるのに。
地元民だけど
新中川と中川は大きな違いだよ
それから、旧中川もある。私は、その旧中川の近く 東大島の出身です。島では、ありません町名だよ。(←そんなこと知っている) ハイすいません 🙇😮。
新中川は昔は中川放水路という名称だったそうですよ。この動画は昔の新中川
中川放水路では、無くて、新中川放水路。中川放水路は、荒川下流と併走して、東京湾に流れている。
細かいこたぁ気にすんな
全然細かくないと思います。大きな大きな違いを、ほっといてはいけませんぜ。
@@koukipp 細かい事では、無いだろ!地域の名称は、正しく表示するんだ。
@@user-qn1js2dn1g 返信今更かよ
@@user-qn1js2dn1g そうなんですね!言い訳しないでください!
これ新中川の話じゃね?
だから 言っているじゃん。最初中川から分流されて中川放水路これが新中川という名称になったと…。
江戸時代まては、東京の東側は人が住めないレベル
そんな事ねえよw葛西城とか攻防の中心
隅田川東側の本所深川(現:墨田区~江東区の隅田川寄り)は既に江戸市中だったな