黄金期到来の布石..独裁政権のベネトンで起きていた混乱とは?【F1歴史解説】【ベネトン B190/B191】
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- เผยแพร่เมื่อ 21 ธ.ค. 2023
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今回はネルソン・ピケ、ミハエル・シューマッハらがドライブした、90年代前半のベネトンB190、B191について解説してきます。
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ピケは前年迄のロータス時代の不遇から大躍進しましたね。
1990年の日本GPで当時ベネトンのメカニックだった津川哲夫さんが喜びを爆発させていたのが印象的でした。
代わりにチーム入りしたロス・ブラウンがバーナードの置土産に見切りをつけ、ロリー・バーンの頭の中の設計図をベースに制作したのが名車B192。
90年の第14戦はイタリアではなくスペインGPですね。15戦日本GP前にナニーニの事故がありました。
ナニーニのヘリ事故はショッキングだったけど直後の鈴鹿でピケとモレノの1-2は感動的。その翌年シューマッハが来たのもでかい。
しかも3位には鈴木亜久里さんが日本人初の表彰台に入りましたね。
6:22 1990年の第14戦はスペインGPですよ(イタリアGPは第12戦)
90年の日本グランプリの代役として星野一義さんがあがっていましたね。
ベネトンから「2000万円払えば、日本GPに出走させる。」と言われていましたが
「プロのドライバーはお金を貰って走るもの」という考えがあったために断った話がありました。
あとは親友だったモレノを解雇してシューマッハを入れたためにチームに不快感を抱き始めたピケが移籍を考えていましたがどのチームも契約できずにこの年で引退しました。
ピケはリジェと交渉中とシーズン後半にニュースが出てましたが、そのまま引退でしたね。
30年以上も前に、これだけの活動をしていたフラビオ・ブリアトーレの、なんとパワフル&エネルギッシュな営業&ロビー活動であることか。(勘違いが始まったのもこの頃かもしれないが)
私はピケファンです!!ベネトンへ移籍した90年は、これはピケ勝つな!!と思いましたね!!!低迷したロータス時代は私的には……観るのが辛かったので……。私的に……復活の年…が90年ベネトン……。っていうのがピケファンの私は印象的です。体制云々は確かにありましたが、ベネトンはハイパワーなBMWターボからフォードのターボ…88年からフォードDFR…でしたっけ……???NAエンジンに変えて躍進しましたね。シャシーとエンジンとエアロダイナミクスが上手くバランスした良いマシンだな……って印象でした。ピケが乗ってたロータスホンダより速かったし……。ピケにとって出来高報酬で移籍したってのも私的には頷けますね。まだイケる……っていうピケの決意表明みたいなものを感じました。実際に開幕戦からコンスタントに入賞していきましたしね。表彰台も……。もう一世代前のドライバーと言われても仕方ない……ピケがどん底の2年間からの復活……!!!ファンとしては涙モノですよ!!!鈴鹿、オーストラリアと連勝。どちらもドラマチックでしたね!!!スタートでシラけた鈴鹿をモレノ氏、亜久里氏、中嶋氏と共に盛り上げ感動のゴール、表彰台でした!!!オーストラリアはグランプリ500戦目のメモリアルグランプリで最後はかつてのチームメイト、マンセル氏をアウトから躊躇なくアデレードヘアピンでカブせて勝ちましたね!!!!!ピケよりエフワンのレコードで優れたドライバーは沢山居ますね。しかしながら…私的に…ファンだから…っていうのもありますが……心機一転を図り前年予選落ちまでしたかつてのチャンピオンドライバーがここまで復活した例は無いんじゃないかな……???と思いますね。ベネトンのチーム力とピケ、ナニーニ氏の相性が良かったんでしょうね。ピケはナニーニ氏に自身の後継者として全てを託そうとしてたみたいですし……。しかし不慮の事故で叶わなかった訳ですが……。モレノ氏にしてもいきなりのレースで見事結果を出しましたね。ピケと共に古舘氏からブラジルのランバダブラザーズ…なんて云われてましたね。91年は…ジョン・バーナード、フラビオ・ブリアトーレ体制が色濃くなった感はありました。しかしピケ得意の棚ぼた勝利で相変わらず健在振りを発揮してましたが……………タラレバが好きな私から見たらミハエル・シューマッハというドイツ人がキラ星の如くエフワンに登場したもので、ある意味ピケのエフワン生命は途絶えましたね…………。マイケルが速いからでなくモレノ氏を一方的に切ってマイケルを獲った……。ここなんですよね。ピケ、モレノのコンビは私的に…盤石ですよ!!!両名腕は確かですからね。しかも同郷、師弟関係とあればチームとしては懸案事項がひとつ減る訳ですから……。しかし、そこはブリアトーレの良くも悪くも才覚が発揮されてしまいましたね……。
あの年代トップチームでは最後の…ある意味ファミリー的な…小規模精鋭的なチームがベネトンだったかな……90年までは……そこへ復活を懸けてピケが来てメカニックは津川氏で…復活を果たした!!ピケファンにはたまらないチームでしたね!!!
91年のベネトンは、タイヤに足を引っ張られた印象が強いですね。GY だったらモレノももっと結果を残していたのでは?
復帰ピレリのタイヤは、ハズレも各所で見受けられましたね。ソフトコンパウンドでは、あっと言う間にグリップロスする事もしばしばでした。タイヤの皮剥きという技を考えたのもピレリです。余談ですが、ミシュランのスタッドレスタイヤは使った経験から信用出来ますが、少なくとも初期のピレリスタッドレスタイヤはミシュランやブリジストンスタッドレスタイヤには及ばない性能だったようです。
ベネトン専用設計のタイヤを製作させたりしていたけど
コンパウンドが基本的にダメでしたね
もう本当に当時は見ていてピレリタイヤ憎しにつきましたよね。
中嶋は前年からずっとピレリに苦しめられていてかわいそうでした。
まともに走るのがストリートコースだけではどうしようもない。
@@user-qo3vy7un4k
高速コースでピレリ勢が何度もタイヤ交換をしていたのに
ベネトンに移籍したシューマッハはタイヤ無交換で走り切って入賞していた
@@user-np7ni2ky7k シューマッハのベネトン移籍以降ドライコンディションだったモンツァ、エストリル、鈴鹿ではベネトンはタイヤ交換を実施しています。
その後もバーナードは移籍したチームで新型ギアボックスや斬新な設計のサスペンションを導入したマシンを設計し費用対効果を疑問視するチーム首脳陣と喧嘩して離脱を繰り返すのでした。
中学2年の自分がF-1に嵌まって、深夜こっそり起きて見ていたのが90年。このベネトンとピケが今でも一番好きです。鈴鹿、アデレードのレースは嬉しかったなあ。
ジョン バーナードのマシンということで、91年は優勝争いも出来るかと期待してがっかりした思い出。
ミハイルが来たのはすごかったけど、かわりにその後のモレノの不遇っぷりがかわいそうだった
初期のマシーンやっぱり綺麗でかっこいいな!
キャメルが大々的にスポンサーになってからださくなった!
ゴタゴタや不運はあったけども、ベネトンのいちばん大好きな時代、ナニーニもピケもモレノもミハエルも大好き、心の中のオールスターチーム。
90年のカナダでコースアウトして止まってたナニーニの車にアレジが突っ込んでナニーニの車が真っ二つになったのがなんかスゲー印象に残ってる。
モノコックが粉砕されてゾッとした記憶…
B191が発表された時やはり目を引いたのはバナナノーズ
B192よりやはりB191が好きなんですよね。
ピケとモレノのランバダブラザーズで活躍してたのですがモンツァで後の皇帝加入によって・・・
モレノさんがあまりにも不憫という印象が強いです(´;ω;`)
翌年からのシューマッハ伝説が始まりますね。
この頃ベネトンが新型のフォードHBエンジンで新規参入のジョーダンは旧型のフォードHBエンジンでしたよね。
エンジニアリング部門がバタバタしていたこの頃のベネトンでしたが、それを落ち着かせたのはミハエル・シューマッハだったと思います。
彼一人いるのといないのではチームに与える影響が全く違ったはずです。
シューマッハをトップドライバーに置いたことで成績が安定し、それによってエンジニアたちがマシンコンセプトの正しさを認識して正常進化させる。
それらを繰り返して94年と95年のタイトル奪取に繋がったと思います。
そしてシューマッハが抜けた途端、チームが凋落していってしまったのもまた・・・
ナレーターの声
変えたら
もっと伸びるよ
B191の見た目はフェラーリ412T1にそっくり
あれ?確か、1990年の第14戦は、イタリアではなくスペインじゃありませんでしたか?
第11戦ベルギー、
第12戦イタリア、
第13戦ポルトガル、
第14戦スペイン、
第15戦日本、
第16戦オーストラリア、
だった記憶があります。
そうですよ
90年の開幕戦はアメリカGP(フェニックス市街地コース)
第2戦ブラジルGP(インテルラゴス)
第3戦サンマリノGP(イモラ)
第4戦モナコGP
第5戦カナダGP(ジルビルヌーブ)
第6戦メキシコGP(エマロリスロドリゲス)
第7戦フランスGP(ポールリカール)
第8戦イギリスGP(シルバーストン)
第9戦西ドイツGP(ホッケンハイム)
第10戦ハンガリーGP(ハンガロリンク)
第11戦ベルギーGP(スパ)
第12戦イタリアGP(モンツァ)
第13戦ポルトガルGP(エストリル)
第14戦スペインGP(ヘレス)
第15戦鈴鹿
第16戦オーストラリアGP(アデレード市街地コース)
ベネトンフォード😳
放送でホンダだフェラーリだルノーだなん気筒だとエンジンのことをよく仰られていた放送の中、フォードはV8なのに速いじゃんと思っていました幼少期
マシンが良かったんよねー
今度はヘリコプター事故😵💦😨
空飛ぶ乗り物も大変ですねやはり……。
ベネトンというと
動画後半のグッドイヤータイヤに履き替え
キレイな色の💚💛B192"のイメージですね自分的には。
ただ好きなのは関係ないですがB194と
今回の紹介にもあった1991年のB190のマシンにカラーはB191の
やつのONYXの昔のミニカー最近メルカリで買ってもってます😅👍
自分はこっちの方が好きでした。
ピレリタイヤには
他のチームも戦闘力の不足を指摘している声が💦
ラリーとかは 大活躍する時もありますが。
今となっては F1も
スーパーバイクと同じく🏎️🏍️
ピレリ帝国ワンメイクに😑
前途有望だったナニーニの事故は、ショックでした。後にDTMで走る彼の腕が見られる写真がありましたが、縫合された手術痕がとても痛々しくて、辛さから回復しつつあったナニーニに大いに共感したものです。後はミハエルの獲得で飛ばされたモレノも可哀想でしたが、器用貧乏とも呼ばれていたようでテストドライバーとしては有能だけれど、限界があまり高くないが故に上位チームのレギュラードライバーとしては定着出来ませんでしたね。
このカラーリング結構好きだったけど
そういえば91年のベネトンって、ワンチャン亜久里さん乗ってた可能性があったような。
どの道、後の皇帝と呼ばれる方が来ちゃうから移籍しなくて良かったといえば良かったのかも
デザイナーが二転三転入れ替わりとかもありますが、このマシンは、ピレリタイヤがマズすぎましたね。
鈴木亜久里がラルースから強引に移籍していても、数度の入賞くらいしか成績は残せなかったでしょう。
チャンピオン争いには加われなかったけどピケは最後の花を咲かせた。
ケガがなければF1以降も走っていただろうな、お金次第で。
マーシーンカラーとは程遠い「ドロドロ」っぷり。ベネトンのそういう怪しいトコロが好きです。
1990年の日本GPの代役として、当初交渉していたのは星野さんだったんですよね。でも「レーサーは金を貰って乗るもので、払って乗るのは違う」という理由で固辞...もし乗っていたら、日本人の2-3フィニッシュも夢じゃなかったのになぁ。
ピケとモレノのコンビで印象的なのは、91年のフェニックスでコーナーの死角でクラッシュしたマシンを紙一重で避けたピケと接触してしまったモレノ。あれが超一流のドライバーとそうではないドライバーの差なんだなって思った。
確かハッキネンだったかな?も、交わしてましたよね。
バーナードってゼロから設計したマシンはイマイチなのにモディファイのセンスは間違いなく一流でB190もアロウズ A18も彼が手を入れたら速くなるのよね不思議。
ブリアトーレは超がつくほど強引で、ルール違反ギリギリの悪どい手もたくさん使ったけれど、チームを引き上げる手腕と優れたエンジニアやドライバーを引き抜く才能は間違いなくピカイチだったからね。今の低迷するフェラーリにブリアトーレがいれば結果は変わったかもしれない、と未だに思うことがある
キャリアハイを謳歌していたモレノはきつかった、でしょうね。レガッツォーニに出戻りエンサインの如くシートに、恵まれないことに…
ウォーキンショー関連で翌年からブランドルが乗ってイマイチだったことを考えると、ギャラの問題もあったかも知れないけど…ピケ叔父をもう1年乗っけていたらもう少し早くタイトを取れたかも知れないですね。
90年の第14はスペインGP(ヘレス)であり、イタリアGP(モンツァ)は第12戦ですよ
間違った解説しないでくださいね
コリンズ氏はこの後ロータスの代表に就いて、ロータスを撤退に追いやったね。疫病神じゃん。