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父親譲りの内政能力の片鱗が見えてきた回と言えますね。※隆元のような善良さはないのが・・・・・・・・気がかりですが・・・・・・
コメントありがとうございます!小悪党ぶりもしっかり発揮しています😅😅
今回も面白かったです。今回の解説を聞いていて輝元や島津家久(悪久)は本当の意味でのリストラ能力が高かったと思いました。家康のように成長戦略の中での組織づくりはできませんでしたが、二人は時代の変わり目に対応した組織再編再構築に高い能力を発揮し、その後の薩長の基盤を整えたやはり有能な政治家だったのだと思いました。
コメントありがとうございます!守成の君主とししては十分に優秀な能力の持主だったと思います😄😄
Xで見た毛利自体が他家を乗っ取る(養子に送りこむ)形で家を拡大してきたので、秀吉養女を正室にした秀元に危機感を持っていたので自身の血筋に拘った結果って考察がしっくりきた
この頃から政治手腕は非凡だったのですね。国外からも人材登用する柔軟さ。そして親父や叔父と違って正室以外の女性〔人妻〕にも手を出す柔軟さ〔節操がないだけか〕
コメントありがとうございます!色んな意味で開放的だった…のかもしれません。
内製手腕や父親世代に干渉されて自分の色を出せない所とか見るに、秀忠と気が合いそうな人物だなと思いました
コメントありがとうございます!確かに共通点は多いですよね。
益田元祥さんは大久保長安を通じて徳川家にヘッドハンティングされても毛利家に忠義を尽くします。と答えた気骨のある家臣です。毛利家に従順な家臣だけではないからこそ毛利輝元さんの苦労はなくならないのですが心血注いだ広島城も福島正則さんに奪われる悲哀も味わいますから幕藩体制が成立する前の殿様は本当に大変です。
コメントありがとうございます!死ぬまで気が休まらなかったでしょうね😥😥
投稿お疲れさまです 輝元が実力発揮していく段階で、16年の上洛及び従四位下侍従兼参議昇叙・補任が行われ、また被官らも口宣案で従五位下に昇叙したりなど、豊臣家諸大夫の毛利家、その毛利家の中に諸大夫がいるみたいな状態に近づき、また分国の社家の中にも昇叙している人たちもいたため、何かと大内義隆の頃のようになってきました。やはりこれはすごくて、元就や隆元のときは毛利家当主が中心に叙されていましたが、輝元期には秀吉にとって陪臣に当たる毛利氏被官が叙されていることに、着目すべきところなのだなと思いました。秀吉の影響もあると思いますが、輝元は義隆の孫であり、元就によって石見銀が献上されて正親町天皇の即位礼を成し遂げることができ、また朝廷にとって義隆が重きを成していたことは天皇から公卿らにまでも伝わっていたので、その恩返しという意味でもあり、朝廷は毛利氏被官の叙任には乗り気であったのではないかなと思います。 そして、ついに広島城の建設が始まり、秀就の誕生となりました。しかし、元宣の家は大内氏時代、安芸国守護代級の東西条代官職という重要な職を任されるほどの家で、毛利氏時代にも山口の氷上山興隆寺修二月会の大頭役に任命されているほど、元就・隆元から信頼されている家でした。毛利家が元宣に手を掛けたことで、大事な家を失ってしまいました。 輝元の国衆知行地総入れ替え政策、これもすごいことですが、動画にも出てきた益田氏だけでなく、吉見氏にしろ、知行入れ替えに関しては反対している国衆も少なからずいました。それでも、輝元はその人たちの意見も聞きながら、政策を実行していったことは、輝元の自立にも繋がっているのではないかなと思います。ただ、この政策がのちのち大きな禍根を残すようになり、吉見氏滅亡につながるとは輝元自身考えてもいなかったと思います。 次回の朝鮮出兵、毛利軍が朝鮮でどう戦うのか、楽しみです
コメントありがとうございます!毛利家が名実ともに大内の正統な後継者になった感があるんですね😄😄
こういう現代的な政治情勢だと力を発揮できるんだな
コメントありがとうございます!基本的には内政向きの人物ですよね。
佐世元嘉も旧尼子家臣の家系ですし面白いですよね。
コメントありがとうございます!人を見る目はあったのかなと思います😄😄
一所懸命 まさにこれに尽きますね城持ち領主たちも 自前の家臣を抱えていますから それらに反対されたり 消極的な姿勢を取られたら 仮に 輝元の意向を理解していたとしても家中の意向を無視してまで積極的に 受け入れることはできませんね こういった 江戸時代 禄高制に移行して行ったのも こういった 煩わしさを避けるため もあったんでしょうね
国衆を纏めるのは辛いよ。
コメントありがとうございます!ストレスが半端なく溜まりそうですね😣😣
無能武将で名前がよくあがるけど輝元ちゃんとしてるんだよな
毛利領国の中心地点にある郡山城と上方との交通に便利な広島城では役割に違いがあって、輝元期には両者は使い分けられていたかと思います。広大な領国で検地や知行代えなどの内政政策は、豊臣政権の威光を借りるだけで遂行できるものでもないですし、輝元やその側近らの優れた手腕の賜物でしょう。
12:25 まだ若年とはいえ、年寄衆に吉川広家の名がないのがねえ・・。穂井田元清はいるのに。
コメントありがとうございます!若いころは素行があまりよくなかった的な話もありますし、そういった点を輝元が懸念したのでしょうか。
叔父さんうるせーんだよなぁ・・・と思ってたかもしれないけど関ヶ原の事を考えると叔父さんの危惧は正しいと言わざる得ない。
大名権力を強化出来たのは秀吉様の後ろ盾が大きかったと思うな。こちとら秀吉様の認めた大名だぞ。逆らうってことは秀吉に逆らうってことだからな?という感じだったろうから、比較的スムーズに強権を振るえたんじゃないかな?
コメントありがとうございます!調子に乗った輝元の危なっかしさを見抜いてたのかもですね🙄🙄
@@YY-rj4upまぁ、秀吉の威光があっても色んな理由で失敗した大名もいる中、上手い事やった方でしょうw
お節介だけど気を遣ってくれる隆景見てると島津の多頭飼い失敗がどれだけすごかったのか考えさせられる😂
😮😮😮😮😮😮😮😮😮😮😮😮😮
コメントありがとうございます!島津はまあ…😓😓
毛利輝元の人格はともかくきびきびとした政治手腕が発揮された回でしたね同じ当主でも島津義久とでは天と地の差が感じられますね(笑)ただこの頃からも小早川家の隔たりが感じられますし輝元も何処か一門や重臣に出来る所を見せつけたい、と思えるような行動の早さに見えて既に関ヶ原の三本の矢、空中分解の気配が漂っていますね……
コメントありがとうございます!おっしゃるようにいいところを見せたい輝元の内心が透けて見える感はありますよね。
昔どこかで読んだ記事で、毛利領は太閤検地で使われている基準である、畿内で使われていた枡(京枡)を使って検地をしていない、というのがあったなあ。京枡は西国で使われていた枡よりも小さく、もし京枡を基準に収穫高を計算すると軽く150-160万石に達するということ。これは豊臣家から黙認された、実質的な軍役減免処置なのか、それとも毛利家の方からの軍役負担を軽くするための消極的抵抗なのかどっちだったんだろう?(黒田家も支配地の割に石高が低すぎるのも減免処置?)あと、ネタバレになるから軽くしかいわないけど、やっぱり毛利家は穂井田元清系の子孫は優秀で、輝元系の人間はちょっと馬鹿なのでは、と思うことが多いですなあ(泣)
徳川も毛利も島津も、中央に習って中央集権化に成功した側ですが、失敗した側も見てみたくはありますね。それこそ島津の伊集院も、その中央集権化の過程で生まれたとも言えそうですし。となると、次は南部・津軽と予想😅
コメントありがとうございます!東北の大名もいつかは取り上げてみたいのですが、南部・津軽あたりは史料がちょっと😥😥
戦に有利だが流通に不利な山城を捨てて、海沿いの河口の平野を抑える場所に拠点を移したんでしょう。江戸時代以降、発展したのは、平地が広く流通に有利な場所だから。
コメントありがとうございます!戦時体制から平時体制への移行ですね。
当時の中国地方には大きな天守閣を作る技術は無かったと思うので、黒田官兵衛が関わっていなくても、他の豊臣政権内の誰かが設計とかを手助けしてないと、毛利氏自前の技術力だけでは広島に立派な天守閣は作れなかったと思うんですよね。
コメントありがとうございます!自分は城郭についてはズブの素人ですので、色々教えていただけるとありがたいです😄😄
外圧でまとまるとは物理は強い
13:15 もとよし 多すぎやろ笑
確かにそうですね🤣🤣
輝元の人物評がいちばんまとまってる回そうなんだよな。「腹黒いバカ殿」ってのが一番似合う。女癖悪すぎだし道徳心もないんだけど、機略と世渡りはまぁまぁ得意。
コメントありがとうございます!小悪党な面はありますよね🙄🙄
殿様の子供じゃないかと噂される武将ってNTRの結果だよね毛利に限らず豊臣政権の動員や賦役の基礎になる石高だけどじっさ現地の農業以外の副業や総人口やインフラや距離面積を考慮してないという欠陥があって単純に石高=国力で考えてるしかも尾張美濃近江山城辺りの人口密集地で商工業の発達した地域を基準にしてるから九州中国などには厳しい要求になる今も昔もも官僚の計画は現場を無視した絵空事
コメントありがとうございます!石高制は実態はともかく、日本全国をまがりなりにも統一的な基準で把握しようとした点に意味があるのでしょうね。
広島周辺に移動するにしても、なんであんな地盤の緩い場所?
😮😮
本編では割とさっくりと述べられているけど、広島城周辺は平成時代に地下鉄を掘ろうとしたら、周囲のビルが傾いて断念したと言われるほどの軟弱地盤。当時も難工事であった事は容易に想像できたが、一説によると秀吉は「あんな軟弱地盤に城を築くとは、毛利は大人しく従属する事に決めたに違いない」と思ったとかなんとか。
コメントありがとうございます!相当な難工事の中でよく完成できたなと思います。
検知や中央集権化はこの時全国の大名がやってたことだからなぁ・・・。輝元が自分の意思でやったかって言われるとちょっとこれだけ広くて112万石しかないのか
コメントありがとうございます!豊臣政権からのプレッシャーで嫌でも中央集権を進めなければいけなかったという面は確かにあるでしょうね😣😣
毛利家に限らず大名の権限強化と国衆家臣化は豊臣政権の根幹政策だから輝元はそれに応えただけの話桃山時代は過渡期で江戸時代で完成する
コメントありがとうございます!それに応えられなかった大名もいた中で上手く乗り切った輝元はその点評価はできるかなと思います😃😃
輝元は一門や重臣と大きなお家騒動を起こさなかったのは凄い駄目な大名なら隆景あたりを粛清しようとして争いを起こしてるよ別に一カ国を賜った隆景も輝元との共同歩調は崩さないし秀吉に付け込むすきを一度も与えなかったとも言える
コメントありがとうございます!そのあたりは祖父元就からの教訓が生きてたのかもですね。
渡辺勝(榎本孝明)
コメントありがとうございます!懐かしいです😄😄
織田信長も安土城に有力家臣を住まわせることは無かったですね。現在〇〇屋敷跡と安土城にあるのは安土城出仕時の宿舎としての機能しかなかったようですしね。近習や母衣集は安土城下に家族ごと住むよう強要しましたが、有力家臣の家族は寧ろ積極的に赴任地に住むように勧めていますね近習家族を安土城下に住まわせる経緯を見ると、信長は家族のバックアップと言うのを高く評価して居る様で家臣から人質を取ると言う発想そのものが皆無ですよね輝元を見ていると幕末の当主と一緒で人の能力を見る目だけはしっかりしていたようですね。特に内政の上手い家臣を取り立てるのが得意で関ケ原後の財政破綻を強引ながらもなんとかして見せた家臣も輝元の取り立てが多いですね
近世大名への移行
コメントありがとうございます!近世大名化の基礎をちゃんと作った点で輝元は評価されるべきだと思います。
親が死んでからも、口出しして来る親戚は、確かに鬱陶しい🤐分かるよ輝りん😙でも、外道の行いは良くないぞ😗
😣😣
やっと、主人公😅
3だ!
3コメありがとうございます😄😄
豊臣政権はブラック化というよりはホワイト化じゃねーかな全国バラバラだった基準を統一して検地で脱税も取り締まったんだから真面目に生きてた庶民が得している。好き勝手やってた連中がルールにがんじがらめにされるのはブラック化とは言わない気がする。
コメントありがとうございます!そのあたりは中世と近世の評価の違いにもつながってくると思います。
2だ!
2コメありがとうございます😃😃
1か⁉️
1コメありがとうございます😄😄
5は貰っていく
5コメありがとうございます😄😄
女の子の方が目立つって😢 イイモン、領国安定さえ達成すれば。 お猿サンにも一応認められているし(アノ人怖いし)😅 タヌキはちょっとな😮💨(萩は無いわぁ)
😓😓
よく吉田郡山城捨てる(3:15)決心したよな輝元は……。だって吉田郡山って親父の隆元や(戦国大名としての)毛利家の家祖たる元就の墳墓のある毛利家揺籃の地だろ?
元就時代からあの辺に新しい城を建てる計画自体はあった
輝元の一存かどうかは不明。拠点の移動・新城建築に太閤殿下の意向を一切聞かなかったとは考えにくい。
コメントありがとうございます!時勢に対応できなければダメだという強い危機意識が輝元を突き動かしたのかもですね。
父親譲りの内政能力の片鱗が見えてきた回と言えますね。※隆元のような善良さはないのが・・・・・・・・気がかりですが・・・・・・
コメントありがとうございます!小悪党ぶりもしっかり発揮しています😅😅
今回も面白かったです。
今回の解説を聞いていて輝元や島津家久(悪久)は本当の意味でのリストラ能力が高かったと思いました。
家康のように成長戦略の中での組織づくりはできませんでしたが、二人は時代の変わり目に対応した組織再編再構築に高い能力を発揮し、その後の薩長の基盤を整えたやはり有能な政治家だったのだと思いました。
コメントありがとうございます!守成の君主とししては十分に優秀な能力の持主だったと思います😄😄
Xで見た毛利自体が他家を乗っ取る(養子に送りこむ)形で家を拡大してきたので、秀吉養女を正室にした秀元に危機感を持っていたので自身の血筋に拘った結果って考察がしっくりきた
この頃から政治手腕は非凡だったのですね。
国外からも人材登用する柔軟さ。そして親父や叔父と違って正室以外の女性〔人妻〕にも手を出す柔軟さ〔節操がないだけか〕
コメントありがとうございます!色んな意味で開放的だった…のかもしれません。
内製手腕や父親世代に干渉されて自分の色を出せない所とか見るに、秀忠と気が合いそうな人物だなと思いました
コメントありがとうございます!確かに共通点は多いですよね。
益田元祥さんは大久保長安を通じて徳川家にヘッドハンティングされても毛利家に忠義を尽くします。と答えた気骨のある家臣です。毛利家に従順な家臣だけではないからこそ毛利輝元さんの苦労はなくならないのですが心血注いだ広島城も福島正則さんに奪われる悲哀も味わいますから幕藩体制が成立する前の殿様は本当に大変です。
コメントありがとうございます!死ぬまで気が休まらなかったでしょうね😥😥
投稿お疲れさまです
輝元が実力発揮していく段階で、16年の上洛及び従四位下侍従兼参議昇叙・補任が行われ、また被官らも口宣案で従五位下に昇叙したりなど、豊臣家諸大夫の毛利家、その毛利家の中に諸大夫がいるみたいな状態に近づき、また分国の社家の中にも昇叙している人たちもいたため、何かと大内義隆の頃のようになってきました。やはりこれはすごくて、元就や隆元のときは毛利家当主が中心に叙されていましたが、輝元期には秀吉にとって陪臣に当たる毛利氏被官が叙されていることに、着目すべきところなのだなと思いました。秀吉の影響もあると思いますが、輝元は義隆の孫であり、元就によって石見銀が献上されて正親町天皇の即位礼を成し遂げることができ、また朝廷にとって義隆が重きを成していたことは天皇から公卿らにまでも伝わっていたので、その恩返しという意味でもあり、朝廷は毛利氏被官の叙任には乗り気であったのではないかなと思います。
そして、ついに広島城の建設が始まり、秀就の誕生となりました。しかし、元宣の家は大内氏時代、安芸国守護代級の東西条代官職という重要な職を任されるほどの家で、毛利氏時代にも山口の氷上山興隆寺修二月会の大頭役に任命されているほど、元就・隆元から信頼されている家でした。毛利家が元宣に手を掛けたことで、大事な家を失ってしまいました。
輝元の国衆知行地総入れ替え政策、これもすごいことですが、動画にも出てきた益田氏だけでなく、吉見氏にしろ、知行入れ替えに関しては反対している国衆も少なからずいました。それでも、輝元はその人たちの意見も聞きながら、政策を実行していったことは、輝元の自立にも繋がっているのではないかなと思います。
ただ、この政策がのちのち大きな禍根を残すようになり、吉見氏滅亡につながるとは輝元自身考えてもいなかったと思います。
次回の朝鮮出兵、毛利軍が朝鮮でどう戦うのか、楽しみです
コメントありがとうございます!毛利家が名実ともに大内の正統な後継者になった感があるんですね😄😄
こういう現代的な政治情勢だと力を発揮できるんだな
コメントありがとうございます!基本的には内政向きの人物ですよね。
佐世元嘉も旧尼子家臣の家系ですし
面白いですよね。
コメントありがとうございます!人を見る目はあったのかなと思います😄😄
一所懸命 まさにこれに尽きますね城持ち領主たちも 自前の家臣を抱えていますから それらに反対されたり 消極的な姿勢を取られたら 仮に 輝元の意向を理解していたとしても家中の意向を無視してまで積極的に 受け入れることはできませんね こういった 江戸時代 禄高制に移行して行ったのも こういった 煩わしさを避けるため もあったんでしょうね
国衆を纏めるのは辛いよ。
コメントありがとうございます!ストレスが半端なく溜まりそうですね😣😣
無能武将で名前がよくあがるけど輝元ちゃんとしてるんだよな
毛利領国の中心地点にある郡山城と上方との交通に便利な広島城では役割に違いがあって、輝元期には両者は使い分けられていたかと思います。広大な領国で検地や知行代えなどの内政政策は、豊臣政権の威光を借りるだけで遂行できるものでもないですし、輝元やその側近らの優れた手腕の賜物でしょう。
12:25 まだ若年とはいえ、年寄衆に吉川広家の名がないのがねえ・・。穂井田元清はいるのに。
コメントありがとうございます!若いころは素行があまりよくなかった的な話もありますし、そういった点を輝元が懸念したのでしょうか。
叔父さんうるせーんだよなぁ・・・と思ってたかもしれないけど関ヶ原の事を考えると叔父さんの危惧は正しいと言わざる得ない。
大名権力を強化出来たのは秀吉様の後ろ盾が大きかったと思うな。こちとら秀吉様の認めた大名だぞ。逆らうってことは秀吉に逆らうってことだからな?という感じだったろうから、比較的スムーズに強権を振るえたんじゃないかな?
コメントありがとうございます!調子に乗った輝元の危なっかしさを見抜いてたのかもですね🙄🙄
@@YY-rj4upまぁ、秀吉の威光があっても色んな理由で失敗した大名もいる中、上手い事やった方でしょうw
お節介だけど気を遣ってくれる隆景見てると島津の多頭飼い失敗がどれだけすごかったのか考えさせられる😂
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コメントありがとうございます!島津はまあ…😓😓
毛利輝元の人格はともかくきびきびとした政治手腕が発揮された回でしたね
同じ当主でも島津義久とでは天と地の差が感じられますね(笑)
ただこの頃からも小早川家の隔たりが感じられますし
輝元も何処か一門や重臣に出来る所を見せつけたい、と思えるような行動の早さに見えて
既に関ヶ原の三本の矢、空中分解の気配が漂っていますね……
コメントありがとうございます!おっしゃるようにいいところを見せたい輝元の内心が透けて見える感はありますよね。
昔どこかで読んだ記事で、毛利領は太閤検地で使われている基準である、畿内で使われていた枡(京枡)を使って検地をしていない、というのがあったなあ。京枡は西国で使われていた枡よりも小さく、もし京枡を基準に収穫高を計算すると軽く150-160万石に達するということ。
これは豊臣家から黙認された、実質的な軍役減免処置なのか、それとも毛利家の方からの軍役負担を軽くするための消極的抵抗なのかどっちだったんだろう?(黒田家も支配地の割に石高が低すぎるのも減免処置?)
あと、ネタバレになるから軽くしかいわないけど、やっぱり毛利家は穂井田元清系の子孫は優秀で、輝元系の人間はちょっと馬鹿なのでは、と思うことが多いですなあ(泣)
徳川も毛利も島津も、中央に習って中央集権化に成功した側ですが、失敗した側も見てみたくはありますね。
それこそ島津の伊集院も、その中央集権化の過程で生まれたとも言えそうですし。
となると、次は南部・津軽と予想😅
コメントありがとうございます!東北の大名もいつかは取り上げてみたいのですが、南部・津軽あたりは史料がちょっと😥😥
戦に有利だが流通に不利な山城を捨てて、海沿いの河口の平野を抑える場所に拠点を移したんでしょう。
江戸時代以降、発展したのは、平地が広く流通に有利な場所だから。
コメントありがとうございます!戦時体制から平時体制への移行ですね。
当時の中国地方には大きな天守閣を作る技術は無かったと思うので、黒田官兵衛が関わっていなくても、他の豊臣政権内の誰かが設計とかを手助けしてないと、
毛利氏自前の技術力だけでは広島に立派な天守閣は作れなかったと思うんですよね。
コメントありがとうございます!自分は城郭についてはズブの素人ですので、色々教えていただけるとありがたいです😄😄
外圧でまとまるとは物理は強い
13:15 もとよし 多すぎやろ笑
確かにそうですね🤣🤣
輝元の人物評がいちばんまとまってる回
そうなんだよな。「腹黒いバカ殿」ってのが一番似合う。
女癖悪すぎだし道徳心もないんだけど、機略と世渡りはまぁまぁ得意。
コメントありがとうございます!小悪党な面はありますよね🙄🙄
殿様の子供じゃないかと噂される武将ってNTRの結果だよね
毛利に限らず豊臣政権の動員や賦役の基礎になる石高だけど
じっさ現地の農業以外の副業や総人口やインフラや距離面積を考慮してないという欠陥があって
単純に石高=国力で考えてる
しかも尾張美濃近江山城辺りの人口密集地で商工業の発達した地域を基準にしてるから
九州中国などには厳しい要求になる
今も昔もも官僚の計画は現場を無視した絵空事
コメントありがとうございます!石高制は実態はともかく、日本全国をまがりなりにも統一的な基準で把握しようとした点に意味があるのでしょうね。
広島周辺に移動するにしても、なんであんな地盤の緩い場所?
😮😮
本編では割とさっくりと述べられているけど、広島城周辺は平成時代に地下鉄を掘ろうとしたら、周囲のビルが傾いて断念したと言われるほどの軟弱地盤。当時も難工事であった事は容易に想像できたが、一説によると秀吉は「あんな軟弱地盤に城を築くとは、毛利は大人しく従属する事に決めたに違いない」と思ったとかなんとか。
コメントありがとうございます!相当な難工事の中でよく完成できたなと思います。
検知や中央集権化はこの時全国の大名がやってたことだからなぁ・・・。輝元が自分の意思でやったかって言われるとちょっと
これだけ広くて112万石しかないのか
コメントありがとうございます!豊臣政権からのプレッシャーで嫌でも中央集権を進めなければいけなかったという面は確かにあるでしょうね😣😣
毛利家に限らず大名の権限強化と国衆家臣化は豊臣政権の根幹政策だから
輝元はそれに応えただけの話
桃山時代は過渡期で江戸時代で完成する
コメントありがとうございます!それに応えられなかった大名もいた中で上手く乗り切った輝元はその点評価はできるかなと思います😃😃
輝元は一門や重臣と大きなお家騒動を起こさなかったのは凄い
駄目な大名なら隆景あたりを粛清しようとして争いを起こしてるよ
別に一カ国を賜った隆景も輝元との共同歩調は崩さないし秀吉に付け込むすきを一度も与えなかったとも言える
コメントありがとうございます!そのあたりは祖父元就からの教訓が生きてたのかもですね。
渡辺勝(榎本孝明)
コメントありがとうございます!懐かしいです😄😄
織田信長も安土城に有力家臣を住まわせることは無かったですね。現在〇〇屋敷跡と安土城にあるのは安土城出仕時の宿舎としての機能しかなかったようですしね。近習や母衣集は安土城下に家族ごと住むよう強要しましたが、有力家臣の家族は寧ろ積極的に赴任地に住むように勧めていますね
近習家族を安土城下に住まわせる経緯を見ると、信長は家族のバックアップと言うのを高く評価して居る様で家臣から人質を取ると言う発想そのものが皆無ですよね
輝元を見ていると幕末の当主と一緒で人の能力を見る目だけはしっかりしていたようですね。特に内政の上手い家臣を取り立てるのが得意で関ケ原後の財政破綻を強引ながらもなんとかして見せた家臣も輝元の取り立てが多いですね
近世大名への移行
コメントありがとうございます!近世大名化の基礎をちゃんと作った点で輝元は評価されるべきだと思います。
親が死んでからも、口出しして来る親戚は、確かに鬱陶しい🤐
分かるよ輝りん😙
でも、外道の行いは良くないぞ😗
😣😣
やっと、主人公😅
3だ!
3コメありがとうございます😄😄
豊臣政権はブラック化というよりはホワイト化じゃねーかな
全国バラバラだった基準を統一して検地で脱税も取り締まったんだから真面目に生きてた庶民が得している。好き勝手やってた連中がルールにがんじがらめにされるのはブラック化とは言わない気がする。
コメントありがとうございます!そのあたりは中世と近世の評価の違いにもつながってくると思います。
2だ!
2コメありがとうございます😃😃
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タヌキはちょっとな😮💨(萩は無いわぁ)
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よく吉田郡山城捨てる(3:15)決心したよな輝元は……。
だって吉田郡山って親父の隆元や(戦国大名としての)毛利家の家祖たる元就の墳墓のある毛利家揺籃の地だろ?
元就時代からあの辺に新しい城を建てる計画自体はあった
輝元の一存かどうかは不明。拠点の移動・新城建築に太閤殿下の意向を一切聞かなかったとは考えにくい。
コメントありがとうございます!時勢に対応できなければダメだという強い危機意識が輝元を突き動かしたのかもですね。