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朝鮮出兵の話はイデオロギーに邪魔されてちゃんと語る人がいないんで大変ありがたい
毛利輝元が朝鮮出兵を批判して小早川隆景に説教されたというのは事実か後の創作か????
輝元は、裏方😂
お疲れ様です。 輝元はじめ毛利家は結構活躍していて、国人らもそれぞれ働いており、秀吉から直々に感状を貰うこともあって、毛利家の底力を両度の戦いで秀吉も朝鮮側も改めて思い知ったと思います。 また、隆景と宗茂がともに戦っており、これもまた時運なのかなと感じました。 叔父たちも活躍していて、元政は上月城の戦いでも将として軍を率いていましたし、元康も元秋死去後出雲統治を任されるほどの人物だったので、元就の息子たちはしっかりと色々な面で活躍していることを、やはり再確認することが必要です。 海外での役を終えた輝元、隆景・元清がいなくなった後、どうなるかが心配です。
輝元にとっては文禄慶長の役は勝ったら勝ったで戦勝で得た外地へ国替えされる恐れがあり、こんな土地は欲しくないと書状で愚痴り、病気になるの分かる気がします。それでも秀元に上手く立ち回らせたり、毛利家中の集権化は着実にしてるところはただ者ではないですね。慶長の役では諸将に関ケ原の伏線になるようなことがありますが、輝元・秀就宗家にとっては秀元の活躍と名声がかえって家光家綱時代まであるいは秀元系が宗家を継ぐまで宗家(長州)と毛利甲斐守家(長府)の悶着の種になりますね。
でも、関ケ原で、約定もなく口約束で大坂城を出たら減封されるって、抜けてますよね。
@@ju6522そうですね。武将としては抜けてますよね。 輝元は安国寺作成の「西軍勝利シナリオ」と吉川広家の「東軍内応シナリオ」に二股をかけ安全保障を図ったつもりだったのでしょう。だから西軍敗走を聞き、内応シナリオ通り大坂から素直に退去し、秀頼を大坂城に釘付けにした大功労者の体をとったつもりだったかもしれません。ところが家康に西軍シナリオに積極的に関与していたことがばれ、家康はこれを奇貨として石見銀山の召し上げ直轄化、合わせて大きすぎる毛利領も削減。自分は動かず漁夫の利を得ようとしたこと、合戦で知略・実力とも鍛え抜かれた家康を騙し通せると思ったところは輝元の甘いところ・抜けたところですね。
朝鮮出兵で、小西行長による休戦協定という名の50日間の無駄待ちが無ければ、敗走もせずに日本に有利な戦の展開になってたと思う🤔。あと、高齢の小早川隆景に対する心身への重い負担によって、死を早めてしまったと思う😢
古は知らんけど、今は第13旅団として生き長らえている。毛利軍に栄光あれ!
三成って島津家だけじゃなくて毛利家にもお節介を焼いてたんか……。(22:38)ってか、以前の島津家編では三成って島津家に内政干渉し過ぎてたけど毛利家も三成との関係に苦労してたんかな?
中年になった輝元が頑張って小早川のおじいさんが戦国期最強武将レースでデビューをはたす毛利家大活躍の唐入りだが日本では評価は今ひとつだったのかも。なかなか白黒はっきりしない状況で秀吉が総大将で指揮を執ると言い出したのをいさめた家康が「殿下の代わりに総指揮をとって明の軍勢など蹴散らして見せましょう」といったとか。唐入り当時は毛利、島津、宇喜多なんかは眼中になく、秀吉も家康も自分たちこそ生き残りの武将では双璧だと認めていたという話。しかし秀吉はともかく、長期の遠征した戦や長距離の海上輸送での兵站の経験のない家康が徳川家臣団を引き連れて攻め込んでも毛利ほど上手に海外での戦ができたのかはかなり怪しい。歴史のIFで秀吉の寿命がもう一年あれば徳川家vs明の決戦もあったのに、秀吉のあのタイミングでの謎の死が惜しまれる。
なんだこの隣で島津忠恒君が居たら泣き崩れそうな国衆統制は…
伊集院忠棟が妨害してたんだよな確か……。そんなこんなで忠恒の恨みを買って後に忠棟はぶっ殺されてるし……。
毛利さんこき使われてますな。毛利の勢力を落とすのにはうってつけだけど家康の方は・・・
一応出兵はしてたけど、関東256万石の太守(ちなみに秀吉の石高は226万石)ということと、政権の重鎮格になったという事情から名護屋城で待機ってなってたんですよね……。それによって朝鮮半島には一兵も出さずに済んで、後々権力を握る上でのアドバンテージになっていったと……。
秀次の東北仕置にも軍事支援、利家と共に蒲生秀行の相続検地携わる、田中吉政等の秀次子飼いが家康旧領に移封したので統治支援とマジで切っても切れない存在で忙しいし、秀次事件が起きてからは左大臣(切腹)・右大臣(配流&秀次に嫁いでたが斬首)・内大臣が朝廷不在&武士に官位濫発で公家が朝廷に上がれないから朝議ができない異常事態実際朝議が復活したのは関ヶ原前後に家康が九条兼孝を関白と左大臣を朝廷に再配置による六摂家持ち回り体制に復帰&菊亭の復職から
朝鮮出兵で吉川広家と安国寺恵瓊が揉めたのは、実話なんでしょうか。後、国衆の統率はできたかもしれないですが、一門衆の軋轢がこの頃から始まったと思っているのですが、どうなんでしょう
明の主戦力の北方部隊も西日本戦国オールスターの前では話にならなかった
領国開拓で家康を疲弊させて、毛利は経済的に疲弊させようとしてたのかもしれないけどこの時、家康は着実に力を付けていた、これが秀吉最大の失敗かもしれない秀忠あたりを指名して1万位の兵を出させて失敗させれば領国削減とか出来たかもしれないのにまあ、それを命令できるだけの力の差はなかったのだろうけど
小牧・長久手で家康に負けたっていう弱み(三河を奇襲攻撃するはずが家康に見破られて返り討ちにあった、あの……。)があったからね秀吉は……。だから家康に強く出ることができなくて、豊臣政権下での一種の特権的な地位(秀吉の所領よりも多い領地宛行)を家康に与えざるを得なかったと……。
家康に転けられると豊臣政権もかなりのダメージなのでなぁ…
@@kenta-z3e結局の所、小牧長久手の戦いで家康に決定的な敗北を与えられず従属を促すための人質母親まで出してしまった事が秀吉に次ぐ実力者として地位や存在感を内外に認めさせてしまった地震の影響や敵の長宗我部や島津、一応味方だけど不安定な毛利などの関係もあってこれらの問題を解決するための策だったかもしれませんが下手したら織田信雄を従属させず、無茶してでも力で家康を敗北させて領土を大幅に削減した方が良かったかもしれない……
@@佐竹ラスベガスでも小牧・長久手当時の徳川方の背後には同盟を組んだばかりの小田原北条家がいるから、北条との連合軍で秀吉と戦えば逆に秀吉を破る可能性もあったはずですよね
@@kenta-z3e 東西で挟む形になるならともかく、並んでいるだけの配置だと徳川・北条の連合軍で戦うのは現実的ではないですね。
お年寄りだった小早川隆景と宇喜多忠家。この二人互いに戦って隆景が討ち取られそうになったことがあったはず。宇喜多忠家ってこの時は戦いに行ったというよりお家騒動を心配して必要もないのに秀家についていっただけなのに活躍しちゃうところがおもしろい。
唐入りは小早川隆景の寿命にも少なからず影響してるし、いやほんと老いた秀吉には困り者でしたね💧 元清の寿命にも影響してそうだし… 九州征伐といい秀秋の養子問題といい、秀吉に関わるとろくな事がない💧
関ヶ原前後での振る舞いのせいで暗愚扱いされがちな輝元ですが印象全然違いますな
日本側の圧倒的主力である毛利軍の面目躍如
碧蹄館の戦いの戦いは色んな所で紹介されていますが、何度見ても戦国日本のオールスター感が溢れてていいですね。無論、渡海した大名は皆、大変な苦労をされたと思いますが、せっかくのロマン溢れる戦いが、歴史愛好家の中だけにとどまって、一般人にはほとんど知られていないのは残念至極。
やっとまともに軍事遠征の指揮をとるのかと思ったら即座に病気ってさぁw 朝鮮出兵で毛利が何をしていたのか全く知らなかったので勉強になった
まぁ恵瓊は安芸武田氏の出なので説法だけのお坊さんではなかったんでしょうね。北条玄庵や太原雪斎並にチート僧侶だったら関ヶ原で間違うこともなかったでしょうけど。
組とか組頭とか構成員とかいう単語がばんばん出てきて、任侠映画の解説かと思えなくもないような、そうでもないような……w(構成員は当時の単語じゃないでしょうけど)もしかしてこの時の単語が数百年後のヤのつく自由業の方々に受け継がれた、とかが多少なりともあったりするんですかね。ほら広島だし……w
日本軍ってなんでこんな強いん?
強かったけど、何をしに行ったのか?天下人気取りのおサルさんが阿呆で無駄に兵を消耗しただけに終わった。
日本兵の士気、統率力、火縄銃の性能と数を考慮すれば圧倒的に強い。明軍は精鋭部隊が日本には無い大砲を上手く使えれば日本軍に一泡吹かせるぐらいはできたのだろうけど。
知らないことばかりで 役に立ちました でもやはり 加藤清正と小西行長の活躍を取り上げた方が面白いな
援軍全部関羽やめて😅
しかかくさんとコラボしてほしい
まだ元就の時代を扱ってるので、コラボしても大分先になるんじゃね?ってか、こっちのお題が輝元なのにコラボって、向こうの扱ってるお題が元就の時代(現在は陶晴賢との手切れ)だから、そこまで巻き戻さないとダメでしょ……。
朝鮮出兵の話はイデオロギーに邪魔されてちゃんと語る人がいないんで大変ありがたい
毛利輝元が朝鮮出兵を批判して小早川隆景に説教されたというのは事実か後の創作か????
輝元は、裏方😂
お疲れ様です。
輝元はじめ毛利家は結構活躍していて、国人らもそれぞれ働いており、秀吉から直々に感状を貰うこともあって、毛利家の底力を両度の戦いで秀吉も朝鮮側も改めて思い知ったと思います。
また、隆景と宗茂がともに戦っており、これもまた時運なのかなと感じました。
叔父たちも活躍していて、元政は上月城の戦いでも将として軍を率いていましたし、元康も元秋死去後出雲統治を任されるほどの人物だったので、元就の息子たちはしっかりと色々な面で活躍していることを、やはり再確認することが必要です。
海外での役を終えた輝元、隆景・元清がいなくなった後、どうなるかが心配です。
輝元にとっては文禄慶長の役は勝ったら勝ったで戦勝で得た外地へ国替えされる恐れがあり、こんな土地は欲しくないと書状で愚痴り、病気になるの分かる気がします。それでも秀元に上手く立ち回らせたり、毛利家中の集権化は着実にしてるところはただ者ではないですね。
慶長の役では諸将に関ケ原の伏線になるようなことがありますが、輝元・秀就宗家にとっては秀元の活躍と名声がかえって家光家綱時代まであるいは秀元系が宗家を継ぐまで宗家(長州)と毛利甲斐守家(長府)の悶着の種になりますね。
でも、関ケ原で、約定もなく口約束で大坂城を出たら減封されるって、抜けてますよね。
@@ju6522そうですね。武将としては抜けてますよね。
輝元は安国寺作成の「西軍勝利シナリオ」と吉川広家の「東軍内応シナリオ」に二股をかけ安全保障を図ったつもりだったのでしょう。
だから西軍敗走を聞き、内応シナリオ通り大坂から素直に退去し、秀頼を大坂城に釘付けにした大功労者の体をとったつもりだったかもしれません。
ところが家康に西軍シナリオに積極的に関与していたことがばれ、家康はこれを奇貨として石見銀山の召し上げ直轄化、合わせて大きすぎる毛利領も削減。
自分は動かず漁夫の利を得ようとしたこと、合戦で知略・実力とも鍛え抜かれた家康を騙し通せると思ったところは輝元の甘いところ・抜けたところですね。
朝鮮出兵で、小西行長による休戦協定という名の50日間の無駄待ちが無ければ、敗走もせずに日本に有利な戦の展開になってたと思う🤔。
あと、高齢の小早川隆景に対する心身への重い負担によって、死を早めてしまったと思う😢
古は知らんけど、今は第13旅団として生き長らえている。毛利軍に栄光あれ!
三成って島津家だけじゃなくて毛利家にもお節介を焼いてたんか……。(22:38)
ってか、以前の島津家編では三成って島津家に内政干渉し過ぎてたけど毛利家も三成との関係に苦労してたんかな?
中年になった輝元が頑張って小早川のおじいさんが戦国期最強武将レースでデビューをはたす毛利家大活躍の唐入りだが日本では評価は今ひとつだったのかも。
なかなか白黒はっきりしない状況で秀吉が総大将で指揮を執ると言い出したのをいさめた家康が「殿下の代わりに総指揮をとって明の軍勢など蹴散らして見せましょう」といったとか。
唐入り当時は毛利、島津、宇喜多なんかは眼中になく、秀吉も家康も自分たちこそ生き残りの武将では双璧だと認めていたという話。
しかし秀吉はともかく、長期の遠征した戦や長距離の海上輸送での兵站の経験のない家康が徳川家臣団を引き連れて攻め込んでも毛利ほど上手に海外での戦ができたのかはかなり怪しい。
歴史のIFで秀吉の寿命がもう一年あれば徳川家vs明の決戦もあったのに、秀吉のあのタイミングでの謎の死が惜しまれる。
なんだこの隣で島津忠恒君が居たら泣き崩れそうな国衆統制は…
伊集院忠棟が妨害してたんだよな確か……。
そんなこんなで忠恒の恨みを買って後に忠棟はぶっ殺されてるし……。
毛利さんこき使われてますな。毛利の勢力を落とすのにはうってつけだけど家康の方は・・・
一応出兵はしてたけど、関東256万石の太守(ちなみに秀吉の石高は226万石)ということと、政権の重鎮格になったという事情から名護屋城で待機ってなってたんですよね……。
それによって朝鮮半島には一兵も出さずに済んで、後々権力を握る上でのアドバンテージになっていったと……。
秀次の東北仕置にも軍事支援、利家と共に蒲生秀行の相続検地携わる、田中吉政等の秀次子飼いが家康旧領に移封したので統治支援とマジで切っても切れない存在で忙しいし、秀次事件が起きてからは左大臣(切腹)・右大臣(配流&秀次に嫁いでたが斬首)・内大臣が朝廷不在&武士に官位濫発で公家が朝廷に上がれないから朝議ができない異常事態
実際朝議が復活したのは関ヶ原前後に家康が九条兼孝を関白と左大臣を朝廷に再配置による六摂家持ち回り体制に復帰&菊亭の復職から
朝鮮出兵で吉川広家と安国寺恵瓊が揉めたのは、実話なんでしょうか。後、国衆の統率はできたかもしれないですが、一門衆の軋轢がこの頃から始まったと思っているのですが、どうなんでしょう
明の主戦力の北方部隊も
西日本戦国オールスターの前では話にならなかった
領国開拓で家康を疲弊させて、毛利は経済的に疲弊させようとしてたのかもしれないけど
この時、家康は着実に力を付けていた、これが秀吉最大の失敗かもしれない
秀忠あたりを指名して1万位の兵を出させて失敗させれば領国削減とか出来たかもしれないのに
まあ、それを命令できるだけの力の差はなかったのだろうけど
小牧・長久手で家康に負けたっていう弱み(三河を奇襲攻撃するはずが家康に見破られて返り討ちにあった、あの……。)があったからね秀吉は……。
だから家康に強く出ることができなくて、豊臣政権下での一種の特権的な地位(秀吉の所領よりも多い領地宛行)を家康に与えざるを得なかったと……。
家康に転けられると豊臣政権もかなりのダメージなのでなぁ…
@@kenta-z3e
結局の所、小牧長久手の戦いで家康に決定的な敗北を与えられず
従属を促すための人質母親まで出してしまった事が秀吉に次ぐ実力者として地位や存在感を内外に認めさせてしまった
地震の影響や敵の長宗我部や島津、一応味方だけど不安定な毛利などの関係もあってこれらの問題を解決するための策だったかもしれませんが
下手したら織田信雄を従属させず、無茶してでも力で家康を敗北させて領土を大幅に削減した方が良かったかもしれない……
@@佐竹ラスベガス
でも小牧・長久手当時の徳川方の背後には同盟を組んだばかりの小田原北条家がいるから、北条との連合軍で秀吉と戦えば逆に秀吉を破る可能性もあったはずですよね
@@kenta-z3e 東西で挟む形になるならともかく、並んでいるだけの配置だと徳川・北条の連合軍で戦うのは現実的ではないですね。
お年寄りだった小早川隆景と宇喜多忠家。この二人互いに戦って隆景が討ち取られそうになったことがあったはず。宇喜多忠家ってこの時は戦いに行ったというよりお家騒動を心配して必要もないのに秀家についていっただけなのに活躍しちゃうところがおもしろい。
唐入りは小早川隆景の寿命にも少なからず影響してるし、いやほんと老いた秀吉には困り者でしたね💧 元清の寿命にも影響してそうだし… 九州征伐といい秀秋の養子問題といい、秀吉に関わるとろくな事がない💧
関ヶ原前後での振る舞いのせいで暗愚扱いされがちな輝元ですが印象全然違いますな
日本側の圧倒的主力である毛利軍の面目躍如
碧蹄館の戦いの戦いは色んな所で紹介されていますが、何度見ても戦国日本のオールスター感が溢れてていいですね。無論、渡海した大名は皆、大変な苦労をされたと思いますが、せっかくのロマン溢れる戦いが、歴史愛好家の中だけにとどまって、一般人にはほとんど知られていないのは残念至極。
やっとまともに軍事遠征の指揮をとるのかと思ったら即座に病気ってさぁw 朝鮮出兵で毛利が何をしていたのか全く知らなかったので勉強になった
まぁ恵瓊は安芸武田氏の出なので説法だけのお坊さんではなかったんでしょうね。北条玄庵や太原雪斎並にチート僧侶だったら関ヶ原で間違うこともなかったでしょうけど。
組とか組頭とか構成員とかいう単語がばんばん出てきて、
任侠映画の解説かと思えなくもないような、そうでもないような……w
(構成員は当時の単語じゃないでしょうけど)
もしかしてこの時の単語が数百年後のヤのつく自由業の方々に受け継がれた、
とかが多少なりともあったりするんですかね。ほら広島だし……w
日本軍ってなんでこんな強いん?
強かったけど、何をしに行ったのか?
天下人気取りのおサルさんが阿呆で無駄に兵を消耗しただけに終わった。
日本兵の士気、統率力、火縄銃の性能と数を考慮すれば圧倒的に強い。
明軍は精鋭部隊が日本には無い大砲を上手く使えれば日本軍に一泡吹かせるぐらいはできたのだろうけど。
知らないことばかりで 役に立ちました でもやはり 加藤清正と小西行長の活躍を取り上げた方が面白いな
援軍全部関羽やめて😅
しかかくさんとコラボしてほしい
まだ元就の時代を扱ってるので、コラボしても大分先になるんじゃね?
ってか、こっちのお題が輝元なのにコラボって、向こうの扱ってるお題が元就の時代(現在は陶晴賢との手切れ)だから、そこまで巻き戻さないとダメでしょ……。