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信長の凄いところは裏切りが当たり前の戦国にあって、2万5千の今川軍に対して家来たちは逃げずに信長と共に戦った、信長がいかに信頼され一目置かれていたかということ…
そう言われてみるとそうですね。その見解すごいな
ドリフターズ内でも語っていましたが、信長に仕えた武将の中にも離反・反逆したのが数々いましたからね…
尾張統一から桶狭間の戦いの勝利まで簡潔にまとめられ、わかりやすかったです
このチャンネルマジで好き。最近の楽しみの1個。
面白いんだけど、この声の妙な心地よさに寝落ちしちゃう
マジ?
ユキムラチャンネルと正反対のテンポがまたそれが良い🙌
❤【麗隠峰】❤【要検索】❤
テンポが良くて聞き入ってしまう
長篠の戦いを見た時に桶狭間も作って欲しいと思いましたが早速来るとは分からないことは分からないというスタンスが良いですね「信長、青春の戦い」良いフレーズです
このチャンネルを初めて見ました。ありがとうございます。
桶狭間(田楽狭間)の戦いは、最近の分析では運が良かった訳ではなく、今川が攻めて来る前から今川侵攻を想定した幾度と無い2人1組の領内の情報網運用の演習を何ヶ月間も行っていた事や、六角家など他家からの援軍が来ていた事などが近年分かっています。これら複数の要因から局地戦の兵数と地の利を活かした情報網の優位性から、奇跡的な勝利ではなく今川家侵攻を何ヶ月も前から想定し準備を整えていた信長の計画的勝利だったと思います。
面白い動画でした。ドラマもいろいろ見、いろんな記述も読み、桶狭間にも実際に行ってみたりしたりしました。そんなわたしですがこの動画はテンポもよく、画像もきれいで一気に全部見てしまいました。出色の出来ですね。ほかの動画も見てみたいと思います。
素晴らしいチャンネルだ✨ここまで明瞭簡潔にそして劇場的に惹きつける展開の動画は中々無い👍
信長公記派としては非常に落ち着いてストーリーを追える動画。昨今は奇襲から急襲だとか、上洛ではなく国境を決める戦だったとか幅広い考察が面白いですね。大名が戰場にて裏切りや暗殺でもないのにその場で首を取られるなんて全国の大名は何が起こったのかと震撼したでしょうね。
レニングラードの動画から来ました。戦国時代の武将の「知恵と工夫の戦い」が一番好きです。大好物です。桶狭間の戦いは奇襲戦と言われています。正面攻撃では数と兵科と練度の勝負だけになります。自軍の数が少ない場合、他の要素をうまく(使えるものは何でも使う。。。)使い、兵隊の番倍もの効果を上げるというところに、興味があり面白いと感じます。歴史の戦記物は大好物で好きな順番に並べると、戦国時代、第二次世界大戦のドイツ軍、太平洋戦争の日本軍、第二次世界大戦のアメリカ軍、ベトナム戦争、、、という感じです。戦記好きなのでまたこちらにお邪魔したいと思います。
語り口が絶妙で、聞き入ってしまいます😊。桶狭間の勝利は信長の頭には、大高城攻撃時点できまっていたと思います。これは信長の絶妙な誘導の結果で義元の討死以外は事前にきまっていたと感じます。相手の嫌がるところに、付け城を築き、相手の布陣が崩れるのを待つ作戦で信長の代表的な戦術の一つです。これ以降、信長の付け城作戦が炸裂し、美濃、近江、武田、毛利全てこの作戦を用いて撃破してます。今川義元は大高城が織田の城に囲まれた事で救援せざるを得ず、海沿いだと知多半島に閉じ込められ、内陸は織田要塞の点在する危険地帯を進まなければなりません。そして内陸を選択し歴史通りの結果となったと思います。ワンチャン義元が勝つとすれば、大高救援部隊と刈谷に陣取り、別働隊で瀬戸方面から迂回して撹乱して、美濃と挟み撃ちにするくらいでしょうか
おススメに出てきて見入ってしまいました。チャンネル登録させて頂きました。自分は桶狭間にて生まれ育った者です、この地域小高い山谷が数多くあるんですよね信長はウツケ時代にそんな地形を熟知していたと思いますね。運はあったにせよ、信長の戦略的作戦勝ちと思います。
とても勉強になりました、面白かったです。信頼出来る資料が有りません。が逆にとても信頼出来ます一番事実に近いと安心して見てます。
バトルヒステリーさんは正しい最新の情報を教授して下さる事が誠に嬉しい!新しい事を知れることほど楽しいことは無い!
尾張統一や桶狭間、美濃攻略位までのガンガン行く信長、格好良い。主人公感があります。
その後も最前線でガンガン行くのが信長
初め弱いのが劉備を主人公とする三国時代に通ずるね 結局この人も人望で成り立ってたし
戦国時代にハマっている時と同じ感情で動画を観ていました!とても面白かったです!大河内城の戦いや姉川の戦いも観てみたいです!
信長のうつけの部分が最もいい方向へ動いた戦いでしたね。
三郎「うつけでなくば天下は取れぬわ!」
別の説では今川義元を尾張の戦場に誘き寄せて、城、砦攻略に兵力分散させて、勝利に酔う今川本陣を占領した城、砦に逃げるには遠い場所を狙って奇襲を仕掛けて勝利したというのも有りますね。この説だと、今までの通説の信長の戦術に義元が負けたのでは無く、信長の戦略に義元が負けた事になりますね。
下手なNHKの時代考証番組より遥かに良い。
将軍としての信長って資質的には本営で作戦指導する総帥タイプってよりは、自身の直接指揮が通る規模の親衛隊率いて感覚的に戦う陣頭の猛将タイプですよねぇ
内容もそうだけど、AIってまじですげえな
余りにも有名な戦いですが、魅力的な動画で思わず2度見してしまいました。もっとも、貴チャンネルのどの動画も繰り返し見たくなるものばかりなのですが。今川 義元公の画像もいかにもお公家さん風ではなく、文武両道に秀でた精悍な名将という感じで良かったです。この戦いは喩えていえば、選抜で優勝し、夏の大会も断トツの優勝候補であった私立今川学園が、1回戦で1年生投手を擁する無名の県立尾張高校にまさかの完封負けを喫したようなもの。順当に勝ち上がって、2回戦で斎藤 道三公率いる強豪の「美濃高校亅との激突があったかも知れないと思うと義元公の早々の退場は実に惜しまれます。
じゅうよう。こっちが勉強になりました!ありがとうございます!
近代のノルマンディー上陸作戦とか見てみたいです
桶狭間の戦いは、多くの説があって楽しいですね。ですが近年、奇襲でないことが有力のようです。桶狭間山では正面攻撃で信長は五の備えでの波状攻撃、乱戦の末ほぼ力技でゴリ押しで勝利したというのが有力。また、雨は早朝に降り合戦時は雨は止んでいたようです。当時には珍しく信長軍は戦闘専門部隊を組織しています。一部隊は800が最も当時の地形や伝達に適しているといった独自の軍略も持っていました。局地戦で地元ということで、かなりの勝算があったものと思われます。
素晴らしいクオリティ!是非天王寺砦の戦いも描いて欲しい!
義元が京かぶれのダメ君主だった説は、後世の創作だと思います。
ゲームの信長の野望の今川義元の顔画像も、昔は公家風の悪人顔だったのが、最近はイケメンになってるので、評価が変わってきてるんでしょうね。
@@bluestar_1213 戦国大戦のイケメンだけど怪しくてうるさい今川親子すき
義元が公家風なのは歴史公証的に正しく、彼が室町幕府の上級武家だったというだけの話なんですよwもともと室町幕府の礼法では極一部の限られた名門武家にだけは公家風に装い、輿に乗り「屋形(やかた)」を号することを認めていました。居館を「屋形」と呼び、家臣が「お屋形様」と呼んでよいのは屋形号を許された武家だけで、たとえば義昭奉戴以前の信長は屋形号を許されてませんので単に「殿(との)」としか呼ばれません。
@@通りすがりの赤い人 甲斐武田も屋形号をもってましたよね?でも信玄に公家風なイメージはない(晴信の頃も)から、義元の公家趣味(衣装やお歯黒など)は個人的な趣味?wまぁ実際に見たわけではないですが......
「義元が京かぶれのダメ君主」なんて説は聞いた事が無い。「氏真」では?義元公は本来、公家方の血筋や。てか、「将軍職」に就けるのは源氏嫡流であり、源氏 及び 平氏は皇家出身。武田家も徳川家も、元を辿れば源氏の流れ。即ち、「公家の血筋」や。
今川方の手をことごとく封じられた挙げ句に電撃的に尾張統一をされてしまった今川義元は、信長を一流の英雄と認めたうえで、動 員力1万5000をはるかに超える2万5000の無理な動員で、全力で信長に立ち向かっていき、最後は旗本同志の決戦に敗れ散った。決して舐めプで敗れたわけではありませんでした
義元はかなり優秀な男だったからね。結果として相手が悪かったというしかない。
私の持ってる書籍では、自身5000に対し今川軍25000では籠城したところで絶対に勝ち目はない いちかばちかで本陣のみを目指して突撃するしかなかったとあります逆に後方を警戒して1万程度であれば、籠城した方が有利と思わせた可能性もあります舐めプどころか万全を期した結果、逆にやられたというのが戦の不可思議なところクラウセヴィッツなら「これぞ戦場の霧」と言ったかもしれませんね
@@人食いレッサーパンダ それほどの強運に恵まれた人物が不世出級の天才児と言うのは凄い話ですね。「歴史の神に選ばれた」という事なのでしょうか?
2:57 たわけが!我こそが弾正忠である!え?弾正忠は、かなり後に、畿内を平定した後に正式に貰ったヤツでは?その頃は上総介じゃないの??
桶狭間の戦いで最後まで抵抗した鳴海城の岡部元信…それから20年以上後の高天神城の戦いの守将として壮絶な戦死を遂げるとは諸行無常…😢
臨場感が伝わって良かった
あまり歴史書には書かれてない事ですが、尾張侵攻は今川領の三遠駿を総動員して戦った初めての戦役だったのではないでしょうか。その為に各部隊との連携と摺り合わせが上手くいかず、接近する織田勢が敵か味方かの判別も出来ずに本陣への攻撃を許してしまったのでは。
まあ今川は熱田が欲しかっただけやろ。海湾利権は美味しい。
ローマ内戦とか、3世紀の危機とかをお願いします。
今川方の本隊侍大将の墓になんと武田菱が彫られているのです。桶狭間山にも行きましたが当たり前の陣構え。6000の本隊の侍大将は武田の草だったのかもしれません。家に入り込みその家の人間に成り切る。山に駆け上がる信長軍は丸見えの筈。武田信玄が一策弄した感がありますね❗️❤
信玄の親父が今川にいた
こういった映像が皆無の歴史モノに映像生成出来るAIには意義があるし、ここからまた発展性もあるね。
私の父方の先祖は織田家旧臣の国人領主だった。桶狭間の合戦にも参戦し、その時に使用した(?)とされる古びた大刀が今も父の実家に伝わっている。あの時、歴史が動いた瞬間に、私の先祖もこの大刀を携えて桶狭間にいた思うと誠に感慨深い。まるで実写を見ているような本作に、思わず引き込まれてしまった。怒涛の如く戦場を駆け抜け白刃を振るう織田軍の武者に、在りし日の先祖の勇姿を見た思いがした。
確かに信玄は義元亡き後の今川本拠の駿河を容赦無く攻め取って滅亡させている。後継者である太郎義信の妻の実家を、北条とも敵対するのを覚悟で攻め入るのは、思いつきではできない。桶狭間で最も利を得たのは武田であり、何か決定的な役割を武田が担っていたとしても不思議ではない。
岡部元信は、確か駿河へ帰国する途中で刈谷城を数百で攻略した強者。最期は、髙天神城の戦いで壮絶な死を遂げたそうですね。マイナー武将だけど、もっと高い評価をしてほしいと思います。桶狭間ときたので、いつか西の桶狭間と呼ばれた沖田畷の戦いもやってほしいですね。
今川ってこのやらかしが二度目なのを知って伝統芸なのかなと思いました。今川義忠(祖父)の二の舞になるとは・・・・。
素晴らしいと思いますよ!
信長は石山合戦でも最前線で戦ってますからね…武闘派ですな
信長は、うつけ時代、野山を駆け巡り、桶狭間の地形を熟知していたのでしょう。党首、自ら戦いに討っていく姿に、部下を引き付けたのでしょう、ここから、日本の戦国時代は彼中心に流れていくのです。時代のキーポイントですね。以後、信長、秀吉、家康の時代に入っていくのです。
今なら桶狭間からの本能寺を映画化したら世界的なヒットになりえる
毛利新助はその後も信長の馬廻を務め、信長の嫡男である信忠付きとなり、本能寺の変で信忠に殉じた。服部小平太は信長の死後は羽柴秀吉に仕え、大名にまで昇りつめたが、秀次事件に連座して切腹した。
大坂冬の陣夏の陣、ヘースティングスの戦い、ナポレオンのロシア遠征をお願いします。
語りがうまくて、いつも楽しませてもらっています!明確に記録がないことが、この信長の出撃が「計画的ではない」ことの証のようにも思える。勝利した後であれば国内への宣伝のためにも盛った話であれ詳細に記録を残して広めそうなものだけどそういった動きがあまりないことから、せめて一戦しておかないと示しがつかないので出てみたが位置を正確に補足できておらず、見つけた部隊も雨の中で疲弊してるだろうから、支隊の一つだけでもとりあえずつぶしておこうと突撃したらうっかり本隊だったという話は、案外真実に近いのではない思う。
桶狭間合戦は、信長殿と義元殿の知恵比べだったという説を聞いたことがあります。尾張の奥深くまでおびきだし、各砦に兵を配置し、兵を分散させることで今川本陣を手薄にさせた。雨が降ったことは偶然だったかも?気象予報士のような人がいた可能性もありますけどね。平幹次郎さんではありません笑。
声と画像に、グッジョブ!
信長は討ち取った大将首には礼儀正しく接したと信じている。勝頼の首を前にして勝頼を褒め称え、そして、勝頼の不運を嘆いたという逸話はもともと信長のエピソードだった。最近のTVで家康のエピソードにしてしまっているものを見た。以前、大谷吉継の鼻水入りのお茶を飲んだのを秀吉のエピソードにしているものもあった。TVなんてものは「どうせ昔のことだからどうだっていい」と思っているとしか思えない。歴史好きならTVは観ないほうが良い。
迫力あってよかった!
めっちゃ神話レベルの古代か現代のような戦闘機、ミサイルが出てくるような時代を取り上げて欲しいです。
桶狭間の闘いは昭和年代の小説では、弱小大名の織田が大大名の今川を倒したという逆転劇として語られてきたが、領国の経済力を見ると尾張の60万石に加え津島と熱田という当時の貿易港を2つも抱える織田家の経済力は、今川家のそれと比較して大きな差は無く、ホームグラウンドでの戦いで兵站も短くむしろ互角以上と言ってよかった加えて、戦後の論功行賞で一番槍の服部小平太や首を取った毛利新助より今川本陣の位置を伝えた梁田正綱が一番手柄とされたが、これは戦国時代の常識ではあり得ないことだった、このように当時の常識を覆した信長の戦略こそ勝利の源泉であるちなみに、この梁田が一番手柄を取ったことで、武力より諜報力で出世できることを学んだのが秀吉だったとも言われてる
今川義元はバカ殿って言われ続けてきたけどそうじゃないんだよな義元がいたからこそ三河や井伊谷にいた人物たちも生活出来ていた訳だし名弓取りでカリスマ性もあったけど運が悪かったってのもあるんだよな
信長誕生から桶狭間までを長編ドラマにしてほしいわ
織田信長は、ズバリ、カッコ良いですね、短気な、性格ですが、頭の良い人物でしたのです、父親の信秀は弟より信長を信頼していました、戦国武将では、やはり引き付ける魅力は、織田信長に有り、斎藤道三さえ認めた才覚は、桶狭間や長篠の戦いで若き信長は、頭脳作戦で勝利しています、時代は変わるがやはり織田信長は最高な理想像ですね。
義元存命中はあの信玄が今川にも駿河にも手を出せなかったのに、桶狭間のために信長の引き立て役にされてかわいそ過ぎる(´・ω・`)>義元
信長が優秀なのは疑う余地もないけれど、義元も戦歴を見てもほぼミスらしいミスがない名将ですしね
信長って日本人最高の英雄だよなあ
そう、そして大谷翔平が信長にチャレンジしてる。
今川義元の評価をもっと見直すべきだと思う。寄親・寄子制は当時としては画期的な制度だし、今川仮名目録もまた高評価されるべき法。
桶狭間の戦いは、武田信玄が義元の金山欲しさの戦略で、信長に勝たせたと聞いております。梁田政綱は信玄から派遣され信長に情報提供の役割をさせ、信長には城から出て戦うように進言したとの話です。織田家単独では勝てない戦でもあるので、信憑性かあるなと思いました。
自分が納得する桶狭間は、マンガの「センゴク」の外伝で「桶狭間戦記」です。信長の父親の時代や、今川家のことも詳しく描写してあって好きな桶狭間ストーリーです。
ついに桶狭間きましたね!信長って信秀の第一子じゃないんだよね…結果的には嫡男になったけど。桶狭間だけでなくその前の家督争いもやってくださるという😊😊
信長が十代の頃に野山を駆け回って地勢をよく把握した地に、今川義元本人が入るのを待っていた。また、地元民に酒やご馳走を用意させ、今川軍が食事で休憩するタイミング一点を狙っていたのではないか。信長なりの情報収集が功を奏し、さらに、悪天候という神風も重なり、本陣奇襲が成功したと推察します。本陣には5千の今川兵がいたことから、単に2千の兵で奇襲しただけでは、義元は討てなかったことでしょう。まさにここしかないという「ワンチャンス」をものにした、というところでしょうか。
わかりやすー、
初めて見たけど声が好きだわ
15:54ズブリw
アジアは好きなんだけどたまにはローマとか大英帝国の話もみたいですね。特にイギリスが無敵艦隊を打ち破った話がみたいです
なかなか引き込まれてしまいます
桶狭間の戦いって本当にあったのかな?地形的に名古屋から安城、岡崎、豊橋、静岡とず〜っと平野なんですよね。しかも鯛が届けられたとなると海に近かったことになるので東海市とか東浦町、高浜市辺りになってくる。高台がないことはないが余りにも見通しが良過ぎる😅
これ見たら、戦国無双プレイしたくなってきますね。
10:37誰かコレでラップ作って
桶狭間の戦いが無ければ、徳川家康は独立できず、長く太平の世を築いた徳川幕府も無かったのです
そんな事分からないだろ(笑)
↑えぇ…?織田と豊臣の台頭が無ければ、どう考えても無理な様な…
@@toki8606 長く続いた戦国時代を終わらせるために信長・秀吉・家康が立ち上がった古い世襲豪族を破り武士以外から刀狩り、荘園以来の荒地から太閤検地、名主に土地を与え開墾奨励、治安回復の為私的報復の禁止と御前仇討ち、武士の狼藉刃傷事件排除と試し切り禁止の生類憐みの令の徳川幕府は一体の社会作り。
その時は無理でも歴史の修正によりいずれ天下を納めることになるであろう
過去の話しに対して、今になってたらとか、もしなどと言っていても、過ぎた歴史は変わりませんよ。桶狭間の戦いとて、信長に運気があったまでの事。一つたらで言わせてもらうと、豊臣秀吉の幕府になっていたら、きっと領土を広がる為にもっと外国と戦っていたかもしれません。かも話しをしてたらキリがないですね。
今の日本に信長が居たらどうなるかな?今の日本を見て何を思うか…。
天が選んだ男だ・・・かっこいいな
普通に考えて、5千の兵で2万5千に挑もうとは思わないでしょう。信長は、戦の博才に長けて居たのでしょうね。それと同時に部下の人心を掴んで居たのだと思います。
最近の桶狭間の戦いは信長が今川義元を誘き出す為の信長の誘導作戦だったという説が有りますね📝
あれ?吉川英治「太閤記」や山岡荘八「徳川家康」は?どちらも桶狭間は詳細に記載、小説なれど静岡・愛知の各ゆかりの寺などの資料・伝承を調べているが…
いっそ神話時代とかどうです?三韓征伐とか
雨天を予想して柳川と言う部下が働いていたはずです。
将軍の次は、信長を製作してほしい!
新説では信長が大高、鳴海両城は義元をおびき出す餌に使われ義元がのこのこ出て来たところを始めから急襲するつもりだったと言われています
義元が2万を超える大軍を動員したのは信長も想定外で、内心「ミスった」とおもってそうw
ぜひミッドウェー海戦お願いします
父、信秀の葬式でのエピソード。信長公記にも載っていて有名ですが、実は著者の太田牛一はこの頃はまだ信長に仕えておらず、実際には見ていないんですね。だから、かなり話が盛られている可能性があります。ただ、信長公記以上に信頼性の高い記録が無いのも事実です。
敦盛じんかん50年といったらもっと良かったのだけど、おおむぬ高評価です
ノッブ「いままでワシを描いてくれたフィクションの中で一番かっこいいのう(ウットリ」桶狭間以前の信長を描いたドラマが、二十年前にあったのを思い出す。キムタクが信長を演っていた。
尾張の大名も分家だった信長が尾張を統一する過程が一番の苦労だったはずなのにそこが端折られてる。
偶然の粗い作戦⁉️⁉️桶狭間の勝利は、そんなことでは無い確かに偶然にもいっときの積乱雲と雷、豪雨が味方したが、今川本陣は、雨が降ると泥濘地に変わる場所であったことは、信長は知り尽くしていた。しかも礼の者達の差し入れは酒や肴、ちまきに魚まで酒を混ぜて、兵士を酔わせてたと観る。この知恵は濃御前と藤吉郎又、追放した前田利家は藤吉郎と連絡を取り、地元の漁師、農民、老若男女を大量に集め、ムシロ旗やフンドシ旗を多数作り、地元民に擬勢をさせ、精鋭の前衛部隊20000を引き付けて分散させていた。この為、信長は今川本軍だけと戦える事となり、手勢2000で5000の本陣を豪雨の中、奇襲する事が出来た。尚、前哨の丸根砦や鷲津砦は、わざと負けさせて犠牲にさせた。コレは信長の計算に入っていて義元を油断させる為だった。だが、丸根砦指揮官の知恵者、佐久間大学を失ったのは信長にとって大きな痛手だったと思う。恐らく、攻められ脱出する手筈が失敗に終わり、大学は討死を覚悟し、信長の為に命を捧げたと解釈丸根を攻めた松平元康は、丸根を完全包囲して脱出口が無かったのだろうと推測してます。
利口だと判ると、命が幾つ有っても足りない時代、うつけの振りをする信長であった。ハムレットも敵を油断させる為に狂人の芝居をした。
今川義元公がバカ殿ではなく名弓取りで強かったと最近知りました。故に信長公は味方も欺く程の念入りな計画で戦をしたのでしょうね。短時間に大軍を動員して軍事作戦を開始はバカ殿では出来ないですね。ただ人は勝ちを意識したときに油断する。これは現代でも同じ(仕事の終わりが見えて気が緩んだ隙を突いて要件変更され事故る)ですね。
最近の研究では、偶然等では決してない。信長が周到に準備して、義元をおびき出していた。
偶然が重なった?確かに信長にとって幸運に恵まれたのは事実だろう。が信長が何かしらの策を練っていたと思う。槍の長さが今川軍とは違ったとの説を見た。どこまで検証されたかは定かではないが、織田軍の努力は何かしらあったと思う。
信長が実力と運に恵まれていることは賛同しますが、桶狭間の戦いで、信長が高所に陣取って今川本陣に駆け下ったかのように取れる表現は、現在では否定的となっている迂回攻撃説を今更主張するような表現であり、そこは強く修正を求めます。
家康の生母はやがて来る信長の時代にそなえよと元康に教えた。信長、秀吉。戦乱の雲は怒濤の渦に巻き込まれた。
本編とは関係ないかもですが、信長が木村拓哉(映画「レジェンド&バタフライ」では実際に主演)か岡田准一に見えてしまうのは、AIまでもがそういう風にイメージしてしまうからなんでしょうかね。
信長で一番凄いと思ってるところは、茶道具の価値を高め、政治の道具にしたところ
ノッブイケメソ過ぎて
2万5千人・・・うんこと飯の対策が大変
動画は素晴らしい出来だと思いますが、歴史学者たちの間では「偶発的な正面衝突説」が主流ですよね。今川軍は隊を分散していたため、義元の本隊は5千程度。その義元本隊と信長の本隊が偶発的に正面衝突した結果、兵力にほとんど差が生じなかったと考えられています。
義元左文字……
信長の凄いところは裏切りが当たり前の戦国にあって、2万5千の今川軍に対して家来たちは逃げずに信長と共に戦った、信長がいかに信頼され一目置かれていたかということ…
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別の説では今川義元を尾張の戦場に誘き寄せて、城、砦攻略に兵力分散させて、勝利に酔う今川本陣を占領した城、砦に逃げるには遠い場所を狙って奇襲を仕掛けて勝利したというのも有りますね。
この説だと、今までの通説の信長の戦術に義元が負けたのでは無く、信長の戦略に義元が負けた事になりますね。
下手なNHKの時代考証番組より遥かに良い。
将軍としての信長って資質的には本営で作戦指導する総帥タイプってよりは、自身の直接指揮が通る規模の親衛隊率いて感覚的に戦う陣頭の猛将タイプですよねぇ
内容もそうだけど、AIってまじですげえな
余りにも有名な戦いですが、魅力的な動画で思わず2度見してしまいました。
もっとも、貴チャンネルのどの動画も繰り返し見たくなるものばかりなのですが。今川 義元公の画像もいかにもお公家さん風ではなく、文武両道に秀でた精悍な名将という感じで良かったです。この戦いは喩えていえば、選抜で優勝し、夏の大会も断トツの優勝候補であった私立今川学園が、1回戦で1年生投手を擁する無名の県立尾張高校にまさかの完封負けを喫したようなもの。順当に勝ち上がって、2回戦で斎藤 道三公率いる強豪の「美濃高校亅との激突があったかも知れないと思うと義元公の早々の退場は実に惜しまれます。
じゅうよう。こっちが勉強になりました!ありがとうございます!
近代のノルマンディー上陸作戦とか見てみたいです
桶狭間の戦いは、多くの説があって楽しいですね。ですが近年、奇襲でないことが有力のようです。桶狭間山では正面攻撃で信長は五の備えでの波状攻撃、乱戦の末ほぼ力技でゴリ押しで勝利したというのが有力。また、雨は早朝に降り合戦時は雨は止んでいたようです。当時には珍しく信長軍は戦闘専門部隊を組織しています。一部隊は800が最も当時の地形や伝達に適しているといった独自の軍略も持っていました。局地戦で地元ということで、かなりの勝算があったものと思われます。
素晴らしいクオリティ!
是非天王寺砦の戦いも描いて欲しい!
義元が京かぶれのダメ君主だった説は、後世の創作だと思います。
ゲームの信長の野望の今川義元の顔画像も、昔は公家風の悪人顔だったのが、最近はイケメンになってるので、評価が変わってきてるんでしょうね。
@@bluestar_1213 戦国大戦のイケメンだけど怪しくてうるさい今川親子すき
義元が公家風なのは歴史公証的に正しく、彼が室町幕府の上級武家だったというだけの話なんですよw
もともと室町幕府の礼法では極一部の限られた名門武家にだけは公家風に装い、輿に乗り「屋形(やかた)」を号することを認めていました。
居館を「屋形」と呼び、家臣が「お屋形様」と呼んでよいのは屋形号を許された武家だけで、たとえば義昭奉戴以前の信長は屋形号を許されてませんので単に「殿(との)」としか呼ばれません。
@@通りすがりの赤い人 甲斐武田も屋形号をもってましたよね?でも信玄に公家風なイメージはない(晴信の頃も)から、義元の公家趣味(衣装やお歯黒など)は個人的な趣味?w
まぁ実際に見たわけではないですが......
「義元が京かぶれのダメ君主」なんて説は聞いた事が無い。「氏真」では?
義元公は本来、公家方の血筋や。てか、「将軍職」に就けるのは源氏嫡流であり、源氏 及び 平氏は皇家出身。
武田家も徳川家も、元を辿れば源氏の流れ。即ち、「公家の血筋」や。
今川方の手をことごとく封じられた挙げ句に電撃的に尾張統一をされてしまった今川義元は、信長を一流の英雄と認めたうえで、動 員力1万5000をはるかに超える2万5000の無理な動員で、全力で信長に立ち向かっていき、最後は旗本同志の決戦に敗れ散った。
決して舐めプで敗れたわけではありませんでした
義元はかなり優秀な男だったからね。
結果として相手が悪かったというしかない。
私の持ってる書籍では、自身5000に対し今川軍25000では籠城したところで絶対に勝ち目はない いちかばちかで本陣のみを目指して突撃するしかなかったとあります
逆に後方を警戒して1万程度であれば、籠城した方が有利と思わせた可能性もあります
舐めプどころか万全を期した結果、逆にやられたというのが戦の不可思議なところ
クラウセヴィッツなら「これぞ戦場の霧」と言ったかもしれませんね
@@人食いレッサーパンダ それほどの強運に恵まれた人物が不世出級の天才児と言うのは凄い話ですね。
「歴史の神に選ばれた」という事なのでしょうか?
2:57 たわけが!我こそが弾正忠である!
え?弾正忠は、かなり後に、畿内を平定した後に正式に貰ったヤツでは?
その頃は上総介じゃないの??
桶狭間の戦いで最後まで抵抗した鳴海城の岡部元信…それから20年以上後の高天神城の戦いの守将として壮絶な戦死を遂げるとは諸行無常…😢
臨場感が伝わって良かった
あまり歴史書には書かれてない事ですが、尾張侵攻は今川領の三遠駿を総動員して戦った初めての戦役だったのではないでしょうか。
その為に各部隊との連携と摺り合わせが上手くいかず、接近する織田勢が敵か味方かの判別も出来ずに本陣への攻撃を許してしまったのでは。
まあ今川は熱田が欲しかっただけやろ。海湾利権は美味しい。
ローマ内戦とか、3世紀の危機とかをお願いします。
今川方の本隊侍大将の墓になんと武田菱が彫られているのです。桶狭間山にも行きましたが当たり前の陣構え。6000の本隊の侍大将は武田の草だったのかもしれません。家に入り込みその家の人間に成り切る。山に駆け上がる信長軍は丸見えの筈。武田信玄が一策弄した感がありますね❗️❤
信玄の親父が今川にいた
こういった映像が皆無の歴史モノに映像生成出来るAIには意義があるし、ここからまた発展性もあるね。
私の父方の先祖は織田家旧臣の国人領主だった。
桶狭間の合戦にも参戦し、その時に使用した(?)とされる古びた大刀が今も父の実家に伝わっている。
あの時、歴史が動いた瞬間に、私の先祖もこの大刀を携えて桶狭間にいた思うと誠に感慨深い。
まるで実写を見ているような本作に、思わず引き込まれてしまった。
怒涛の如く戦場を駆け抜け白刃を振るう織田軍の武者に、在りし日の先祖の勇姿を見た思いがした。
確かに信玄は義元亡き後の今川本拠の駿河を容赦無く攻め取って滅亡させている。後継者である太郎義信の妻の実家を、北条とも敵対するのを覚悟で攻め入るのは、思いつきではできない。
桶狭間で最も利を得たのは武田であり、何か決定的な役割を武田が担っていたとしても不思議ではない。
岡部元信は、確か駿河へ帰国する途中で刈谷城を数百で攻略した強者。最期は、髙天神城の戦いで壮絶な死を遂げたそうですね。マイナー武将だけど、もっと高い評価をしてほしいと思います。
桶狭間ときたので、いつか西の桶狭間と呼ばれた沖田畷の戦いもやってほしいですね。
今川ってこのやらかしが二度目なのを知って伝統芸なのかなと思いました。今川義忠(祖父)の二の舞になるとは・・・・。
素晴らしいと思いますよ!
信長は石山合戦でも最前線で戦ってますからね…武闘派ですな
信長は、うつけ時代、野山を駆け巡り、桶狭間の地形を熟知していたのでしょう。
党首、自ら戦いに討っていく姿に、部下を引き付けたのでしょう、ここから、日本の戦国時代は彼中心に流れていくのです。
時代のキーポイントですね。以後、信長、秀吉、家康の時代に入っていくのです。
今なら桶狭間からの本能寺を映画化したら世界的なヒットになりえる
毛利新助はその後も信長の馬廻を務め、信長の嫡男である信忠付きとなり、本能寺の変で信忠に殉じた。服部小平太は信長の死後は羽柴秀吉に仕え、大名にまで昇りつめたが、秀次事件に連座して切腹した。
大坂冬の陣夏の陣、ヘースティングスの戦い、ナポレオンのロシア遠征をお願いします。
語りがうまくて、いつも楽しませてもらっています!明確に記録がないことが、この信長の出撃が「計画的ではない」ことの証のようにも思える。勝利した後であれば国内への宣伝のためにも盛った話であれ詳細に記録を残して広めそうなものだけどそういった動きがあまりないことから、せめて一戦しておかないと示しがつかないので出てみたが位置を正確に補足できておらず、見つけた部隊も雨の中で疲弊してるだろうから、支隊の一つだけでもとりあえずつぶしておこうと突撃したらうっかり本隊だったという話は、案外真実に近いのではない思う。
桶狭間合戦は、信長殿と義元殿の知恵比べだったという説を聞いたことがあります。
尾張の奥深くまでおびきだし、各砦に兵を配置し、兵を分散させることで今川本陣を手薄にさせた。雨が降ったことは偶然だったかも?
気象予報士のような人がいた可能性もありますけどね。平幹次郎さんではありません笑。
声と画像に、グッジョブ!
信長は討ち取った大将首には礼儀正しく接したと信じている。
勝頼の首を前にして勝頼を褒め称え、そして、勝頼の不運を嘆いたという逸話はもともと信長のエピソードだった。
最近のTVで家康のエピソードにしてしまっているものを見た。
以前、大谷吉継の鼻水入りのお茶を飲んだのを秀吉のエピソードにしているものもあった。
TVなんてものは「どうせ昔のことだからどうだっていい」と思っているとしか思えない。歴史好きならTVは観ないほうが良い。
迫力あってよかった!
めっちゃ神話レベルの古代か現代のような戦闘機、ミサイルが出てくるような時代を取り上げて欲しいです。
桶狭間の闘いは昭和年代の小説では、弱小大名の織田が大大名の今川を倒したという
逆転劇として語られてきたが、領国の経済力を見ると尾張の60万石に加え津島と熱田
という当時の貿易港を2つも抱える織田家の経済力は、今川家のそれと比較して大きな
差は無く、ホームグラウンドでの戦いで兵站も短くむしろ互角以上と言ってよかった
加えて、戦後の論功行賞で一番槍の服部小平太や首を取った毛利新助より今川本陣の
位置を伝えた梁田正綱が一番手柄とされたが、これは戦国時代の常識ではあり得ない
ことだった、このように当時の常識を覆した信長の戦略こそ勝利の源泉である
ちなみに、この梁田が一番手柄を取ったことで、武力より諜報力で出世できることを
学んだのが秀吉だったとも言われてる
今川義元はバカ殿って言われ続けてきたけどそうじゃないんだよな
義元がいたからこそ三河や井伊谷にいた人物たちも生活出来ていた訳だし名弓取りでカリスマ性もあったけど運が悪かったってのもあるんだよな
信長誕生から桶狭間までを長編ドラマにしてほしいわ
織田信長は、ズバリ、カッコ良いですね、短気な、性格ですが、頭の良い人物でしたのです、父親の信秀は弟より信長を信頼していました、戦国武将では、やはり引き付ける魅力は、織田信長に有り、斎藤道三さえ認めた才覚は、桶狭間や長篠の戦いで若き信長は、頭脳作戦で勝利しています、時代は変わるがやはり織田信長は最高な理想像ですね。
義元存命中はあの信玄が今川にも駿河にも手を出せなかったのに、桶狭間のために信長の引き立て役にされてかわいそ過ぎる(´・ω・`)>義元
信長が優秀なのは疑う余地もないけれど、義元も戦歴を見てもほぼミスらしいミスがない名将ですしね
信長って日本人最高の英雄だよなあ
そう、そして大谷翔平が信長にチャレンジしてる。
今川義元の評価をもっと見直すべきだと思う。寄親・寄子制は当時としては画期的な制度だし、今川仮名目録もまた高評価されるべき法。
桶狭間の戦いは、武田信玄が義元の金山欲しさの戦略で、信長に勝たせたと聞いております。梁田政綱は信玄から派遣され信長に情報提供の役割をさせ、信長には城から出て戦うように進言したとの話です。織田家単独では勝てない戦でもあるので、信憑性かあるなと思いました。
自分が納得する桶狭間は、マンガの「センゴク」の外伝で「桶狭間戦記」です。信長の父親の時代や、今川家のことも詳しく描写してあって好きな桶狭間ストーリーです。
ついに桶狭間きましたね!信長って信秀の第一子じゃないんだよね…結果的には嫡男になったけど。桶狭間だけでなくその前の家督争いもやってくださるという😊😊
信長が十代の頃に野山を駆け回って地勢をよく把握した地に、今川義元本人が入るのを待っていた。
また、地元民に酒やご馳走を用意させ、今川軍が食事で休憩するタイミング一点を狙っていたのではないか。
信長なりの情報収集が功を奏し、さらに、悪天候という神風も重なり、本陣奇襲が成功したと推察します。
本陣には5千の今川兵がいたことから、単に2千の兵で奇襲しただけでは、義元は討てなかったことでしょう。
まさにここしかないという「ワンチャンス」をものにした、というところでしょうか。
わかりやすー、
初めて見たけど声が好きだわ
15:54ズブリw
アジアは好きなんだけどたまにはローマとか大英帝国の話もみたいですね。特にイギリスが無敵艦隊を打ち破った話がみたいです
なかなか引き込まれてしまいます
桶狭間の戦いって本当にあったのかな?地形的に名古屋から安城、岡崎、豊橋、静岡とず〜っと平野なんですよね。
しかも鯛が届けられたとなると海に近かったことになるので
東海市とか東浦町、高浜市辺りになってくる。
高台がないことはないが余りにも見通しが良過ぎる😅
これ見たら、戦国無双プレイしたくなってきますね。
10:37誰かコレでラップ作って
桶狭間の戦いが無ければ、徳川家康は独立できず、長く太平の世を築いた徳川幕府も無かったのです
そんな事分からないだろ(笑)
↑えぇ…?織田と豊臣の台頭が無ければ、どう考えても無理な様な…
@@toki8606
長く続いた戦国時代を終わらせるために信長・秀吉・家康が立ち上がった
古い世襲豪族を破り武士以外から刀狩り、荘園以来の荒地から太閤検地、名主に土地を与え開墾奨励、治安回復の為私的報復の禁止と御前仇討ち、武士の狼藉刃傷事件排除と試し切り禁止の生類憐みの令の徳川幕府は一体の社会作り。
その時は無理でも歴史の修正によりいずれ天下を納めることになるであろう
過去の話しに対して、今になってたらとか、もしなどと言っていても、過ぎた歴史は変わりませんよ。
桶狭間の戦いとて、信長に運気があったまでの事。一つたらで言わせてもらうと、豊臣秀吉の幕府になっていたら、きっと領土を広がる為にもっと外国と戦っていたかもしれません。かも話しをしてたらキリがないですね。
今の日本に信長が居たらどうなるかな?今の日本を見て何を思うか…。
天が選んだ男だ・・・かっこいいな
普通に考えて、5千の兵で2万5千に挑もうとは思わないでしょう。
信長は、戦の博才に長けて居たのでしょうね。
それと同時に部下の人心を掴んで居たのだと思います。
最近の桶狭間の戦いは信長が今川義元を誘き出す為の信長の誘導作戦だったという説が有りますね📝
あれ?吉川英治「太閤記」や山岡荘八「徳川家康」は?どちらも桶狭間は詳細に記載、小説なれど静岡・愛知の各ゆかりの寺などの資料・伝承を調べているが…
いっそ神話時代とかどうです?三韓征伐とか
雨天を予想して柳川と言う部下が働いていたはずです。
将軍の次は、信長を製作してほしい!
新説では信長が大高、鳴海両城は義元をおびき出す餌に使われ義元がのこのこ出て来たところを始めから急襲するつもりだったと言われています
義元が2万を超える大軍を動員したのは信長も想定外で、内心「ミスった」とおもってそうw
ぜひミッドウェー海戦お願いします
父、信秀の葬式でのエピソード。信長公記にも載っていて有名ですが、実は著者の太田牛一はこの頃はまだ信長に仕えておらず、実際には見ていないんですね。だから、かなり話が盛られている可能性があります。
ただ、信長公記以上に信頼性の高い記録が無いのも事実です。
敦盛
じんかん50年といったらもっと良かったのだけど、おおむぬ高評価です
ノッブ「いままでワシを描いてくれたフィクションの中で一番かっこいいのう(ウットリ」
桶狭間以前の信長を描いたドラマが、二十年前にあったのを思い出す。キムタクが信長を演っていた。
尾張の大名も分家だった信長が尾張を統一する過程が一番の苦労だったはずなのにそこが端折られてる。
偶然の粗い作戦⁉️⁉️
桶狭間の勝利は、そんなことでは無い
確かに偶然にもいっときの積乱雲と雷、豪雨が味方したが、今川本陣は、雨が降ると泥濘地に変わる場所であったことは、信長は知り尽くしていた。しかも礼の者達の差し入れは酒や肴、ちまきに魚まで酒を混ぜて、兵士を酔わせてたと観る。
この知恵は濃御前と藤吉郎
又、追放した前田利家は藤吉郎と連絡を取り、地元の漁師、農民、老若男女を大量に集め、ムシロ旗やフンドシ旗を多数作り、地元民に擬勢をさせ、精鋭の前衛部隊20000を引き付けて分散させていた。
この為、信長は今川本軍だけと戦える事となり、手勢2000で5000の本陣を豪雨の中、奇襲する事が出来た。
尚、前哨の丸根砦や鷲津砦は、わざと負けさせて犠牲にさせた。
コレは信長の計算に入っていて義元を油断させる為だった。
だが、丸根砦指揮官の知恵者、佐久間大学を失ったのは信長にとって大きな痛手だったと思う。
恐らく、攻められ脱出する手筈が失敗に終わり、大学は討死を覚悟し、信長の為に命を捧げたと解釈
丸根を攻めた松平元康は、丸根を完全包囲して脱出口が無かったのだろうと推測してます。
利口だと判ると、命が幾つ有っても足りない時代、うつけの振りをする信長であった。
ハムレットも敵を油断させる為に狂人の芝居をした。
今川義元公がバカ殿ではなく名弓取りで強かったと最近知りました。故に信長公は味方も欺く程の念入りな計画で戦をしたのでしょうね。短時間に大軍を動員して軍事作戦を開始はバカ殿では出来ないですね。ただ人は勝ちを意識したときに油断する。これは現代でも同じ(仕事の終わりが見えて気が緩んだ隙を突いて要件変更され事故る)ですね。
最近の研究では、偶然等では決してない。信長が周到に準備して、義元をおびき出していた。
偶然が重なった?確かに信長にとって幸運に恵まれたのは事実だろう。が信長が何かしらの策を練っていたと思う。槍の長さが今川軍とは違ったとの説を見た。どこまで検証されたかは定かではないが、織田軍の努力は何かしらあったと思う。
信長が実力と運に恵まれていることは賛同しますが、桶狭間の戦いで、信長が高所に陣取って今川本陣に駆け下ったかのように取れる表現は、現在では否定的となっている迂回攻撃説を今更主張するような表現であり、そこは強く修正を求めます。
家康の生母はやがて来る信長の時代にそなえよと元康に教えた。信長、秀吉。戦乱の雲は怒濤の渦に巻き込まれた。
本編とは関係ないかもですが、信長が木村拓哉(映画「レジェンド&バタフライ」では実際に主演)か岡田准一に見えてしまうのは、AIまでもがそういう風にイメージしてしまうからなんでしょうかね。
信長で一番凄いと思ってるところは、茶道具の価値を高め、政治の道具にしたところ
ノッブイケメソ過ぎて
2万5千人・・・うんこと飯の対策が大変
動画は素晴らしい出来だと思いますが、歴史学者たちの間では「偶発的な正面衝突説」が主流ですよね。
今川軍は隊を分散していたため、義元の本隊は5千程度。
その義元本隊と信長の本隊が偶発的に正面衝突した結果、兵力にほとんど差が生じなかったと考えられています。
義元左文字……