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キロとは関係ないけど、背景CGがどんどんすごくなっていきますね。
今回は中央東線の優等列車発展史みたいな感じでとても良かったです!!特にキハ55系の準急アルプスの登場振りはその後、全国の機関区から配置要望が相次ぎ気動車の大量増備になるんですね。
お疲れ様です。キロ58があること知りませんでした。アルプス越え車両と言うことで限られた線区でしか使用されてなかったんですね。ありがとうございました。
地元を取り上げてくださってありがとうございます。ディーゼルアルプスにヘッドマークあったのは知りませんでした。新宿駅の隅っこにキハの長大編成、ノッチオンで鳩が一斉に飛び立ち退避する景色、あったんですよね。
キロ58は冷房化するときにキハ28を繋がなければならず、「それキハ58+キロ28でいいじゃん」となってそう
このアルプスに小淵沢まで併結されていた小海線直通の急行八ヶ岳に幼少時に乗ったことがあります。この時に乗ったキハ65は関東圏唯一のものだったんですよね(中央東線急行電車化の際に秋田に回せばよかったのに同じエンジンのキハ181のトラウマから拒否されて西日本に行ってしまいました)。
「なんちゃって」でもよいので、151系パーラーカー連結の「特急アルプス」を見てみたい!しかし、クロ151のヒョウ柄シートモケットや斜め向きの座席まで再現してるの凄すぎ!
アッ‼️頭のライトが取られて赤帯巻かれたかもしれないけれど、今なら中央線観光特急としてはそれありかも。
DC急行「アルプス」のキハ65 500番台組み込み以前に、キロ58×2へ冷房電源を供給するためだけに、国鉄はキハ28 1500番台車を製造して夏季の冷房サービス提供を凌いだことがあります。 当初このキハ28 1500番台車は自らには冷房装置を搭載せず、只々キロ58の冷房電源としてだけ編成に組み込まれました。 ですが、ここで再び1エンジン車の編成組み込みで編成出力が下がりました。 その解決策としてキハ65 500番台車が製造された経緯があります。 その後、キハ28 1500番台車は自身にも冷房装置を搭載し、キハ28 2500番台に改番され、比較的近年のJR東日本キハ58系列終焉の時まで生き残りました。
特急みたいに2エンジン+サービス電源の3エンジン車作れば良かった煮。定員減らすわけに行かなかったならハイデッカーグリーン車の発想はなかったか。80センチの嵩上げで置けたはず。エアコンも床上にしておけば重心は上がらない。
キハ58アルプスは当時最寄りの武蔵小金井駅で見ましたが、キハ65が連結されていたのは初めて知りました。165系のクハが2両連続した編成も懐かしいです。この動画とは関係ないですが、武蔵小金井駅で101系の増解結をしていた事、115系はクモハモハクハ3連×2の中間にサハ2両を入れた変則的な編成だった事を思い出しました
三鷹の800番台編成はMcM'TTc×2へ改められましたが、その後に篠ノ井線電化と同時期に投入された300番台の編成は、McM'TcTTMcM'Tcの編成組成を踏襲しています。 中央東線甲府周辺ローカル運用(塩山⇔韮崎)があり身延線の車両も間合い運用があったことから、800番台編成は同じ4両編成に組み替えたのだろうと思われます。 その証拠に、身延ローカル代替用で1編成だけ新造されたスカ色1000番台は、McM'TTcで登場しています。
キハ58が日本で一番初めに投入されたのも中央線です。キロ58は、全部で8両製造されました。昭和50年3月に全列車電車化される直前は、糸魚川までのものも含み2往復あった急行「アルプス」の気動車編成は、「こまがね」「八ヶ岳」「かわぐち」を併結する多層建て列車でもありました。登山の時によく利用しました。この編成には珍車がよく連結され、「かわぐち」には富士急行のキハ58003という製造当初からの同系列唯一の両運転台車もくっついていた時期もあります。山岳部では連続する急勾配区間を多数擁し、都内新宿までの都市部では中央快速線の高速高密度ダイヤで運行することになるので、のちに連結されたキハ65も500番台という17両しか造られなかった寒冷地仕様車の珍車でした。最も東を走ったキハ65でもあります。急行「アルプス」気動車編成は、12両中1~2両の1エンジン車を付けていたケースもありますが、ほぼすべて2エンジン車か、キハ65になっていました。これとはまったく反対だった編成が、その10年後の昭和60年3月まで走り続け、東京23区内乗り入れ最後の定期の気動車列車となった常磐線、水郡線の急行「ときわ」「奥久慈」併結列車でした(上野)。こちらは、1エンジン車の編成12両中、1~2両が2エンジン車となっており、2エンジン車をなぜ一部に連結したのかについて、当時の国鉄の説明だと、「加速をよくするため!」と言っていました。そして、何の因果か知らないけれども、かつてのキロ58の一部(6~8の3両)は、常磐線用の荷物気動車キニ58に改造されて、この頃もこの辺を走っていました。常磐線では、長距離の荷物輸送には電気機関車牽引の荷物客車を用い、短距離輸送には、交直流電車の荷物車がないので、気動車の荷物車を使っていたからです。ここでもまた、常磐線の高速高密度ダイヤで運行するために、2エンジン車の元キロ58が使われていたのでした。
2:23 まるで東武日光線下小代〜板荷間を走るキハ55のような光景。
キロ58とペアを組んでたキハ28-1500は新潟にいたんでよく覚えてますちゃんと冷房化されて2500番台でしたが、最初は冷房装置無しで発電エンジンだけあるっていう珍車だったのが驚きですパノラミックウィンドウで新潟色とも相まってカッコよかったですねキロ58は新潟に縁がないと思ってたんですが、調べてみるとアルプスから撤退後に急行ちくまで長野→大阪、急行越後で大阪→新潟で来てたみたいでした1度見てみたかったですね
話によると急行紀州の運用で紀伊半島周りで天王寺まで来ていたとも。
@@minakatamanabu7413 国鉄時代の運用ってすごいっすね第1富士脱線事故の時の運用とか感動します
ああ、55アルプス、165ー800低屋根、なっつかしいなー。新宿でアルプスを見ると、ときめいたもんです。
まあ、結局は山岳線向けの電車が隆盛となることで、こうした2エンジングリーン車は廃れていくわけですがンで、使い道が無くなったので荷物車に順次改造されていったそのうちの1両が碓氷峠にあるキニ58なわけですが
急行形気動車が中央東線を闊歩する中特急形は1965年の中央東・篠ノ井線松本電化後こだまを追われた181系による1966年まで待たされる事となります。先の動画の通り山岳区間に弱いギア構成だったキハ82系にしんどい線区ですね。この列車も急行「かわぐち」やオール二機関12両編成、キハ28 1500番台などネタはたくさんあります。
1965年から初めから181系の100番代が製造されてます。
2エンジン車グリーン車と言うとキロ58型の事ですね、
だからその動画でしょ笑笑。
この形式、真っ先に荷物車に改造された。電源は結局、キハ65から受けていたと聞く。
一方で、中央西線では、大馬力エンジンの、キハ90が、試験運行され、グリーン車には、無動力の『キサロ90』が、組み込まれました。一方で、中央西線の電化は、東線に比べて、かなり遅れ、1966(昭和41年)に、名古屋から瑞浪まで(機関車の切り替えは多治見)、2年後の1968(昭和43年)に、中津川まで延伸し、機関車の切り替えも、中津川で行われるようになりました。同時に、中央西線初の特急『しなの』が、キハ181系で登場し、神領電車区(現神領車両区)が、愛知県春日井市に完成しました。その後、1973(昭和48年)、塩尻までの全線電化が完成し、振り子式の381系による『しなの』号が登場し、1975(昭和50年)までに、置き換えが完了しました。その後も、気動車急行として、『赤倉』号が、名古屋~新潟間に運行されて、1982(昭和57年)に、165系に置き換えののち、1985(昭和60年)のダイヤ改正で、名古屋~長野間は『しなの』、長野~新潟間は、急行『南越後』として、系統分割されました。(24‐01‐20)
もう一つ、キロ58は確かキユ58に改造された?常磐線で撮影した記憶が。
アッ、キニ58だ‼️
キロ58は結局余剰になってしまったのですよね。もう少し他所でもキハ65と組んで活躍できたかもしれないのに残念です...
車体を載せ替えてキニ58になりました。キハ55改造のキニ56が老朽化したのでその置き換え用に常磐線に投入されました。交流電化区間を走る関係で気動車が使われていた常磐線の荷物列車は平坦線区でありながら2エンジン車が投入され、電車の邪魔にならないようにエンジンを限界までぶん回して必死で走っていました。キロ58の2エンジンが、意外なところで役に立ったというお話です。
富士急行編成を探してしまう。揚げ足取りですみません。
1エンジン車と2エンジン車とじゃほぼ乗り心地変わらない気がするし、実のところ乗客も差に気付いてなかったんじゃないかと思う国鉄の中ではこだわりが強かったみたいだけども…
最強の助っ人はキハ65でしたね。国立駅で撮った下手くそな写真が残っています。キロ58かは全くわからない💦
キロ組み込み急行は「丹後」しか知らないです
キロ58はアルプスの全面電車化で松本から名古屋と美濃太田に全車転出してきそ、つがいけ、紀州、のりくらに使われたけど結局運用に制約があって最終的にキニ58に改造されたわな当初は強力編成組める強みがあったけど冷房化の足かせになってしもたしそやけどキロ58知らんかったとかこの程度で参考になったとかどんだけ知識あらへんねん、、模型買う前にちょっとは資料集めて調べんかいって思うわ
自分基準で物事いうな。youtube も検索基準。
キロとは関係ないけど、背景CGがどんどんすごくなっていきますね。
今回は中央東線の優等列車発展史みたいな感じでとても良かったです!!特にキハ55系の準急アルプスの登場振りはその後、全国の機関区から配置要望が相次ぎ気動車の大量増備になるんですね。
お疲れ様です。キロ58があること知りませんでした。アルプス越え車両と言うことで限られた線区でしか使用されてなかったんですね。ありがとうございました。
地元を取り上げてくださってありがとうございます。ディーゼルアルプスにヘッドマークあったのは知りませんでした。新宿駅の隅っこにキハの長大編成、ノッチオンで鳩が一斉に飛び立ち退避する景色、あったんですよね。
キロ58は冷房化するときにキハ28を繋がなければならず、「それキハ58+キロ28でいいじゃん」となってそう
このアルプスに小淵沢まで併結されていた小海線直通の急行八ヶ岳に幼少時に乗ったことがあります。この時に乗ったキハ65は関東圏唯一のものだったんですよね(中央東線急行電車化の際に秋田に回せばよかったのに同じエンジンのキハ181のトラウマから拒否されて西日本に行ってしまいました)。
「なんちゃって」でもよいので、151系パーラーカー連結の「特急アルプス」を見てみたい!
しかし、クロ151のヒョウ柄シートモケットや斜め向きの座席まで再現してるの凄すぎ!
アッ‼️頭のライトが取られて赤帯巻かれたかもしれないけれど、今なら中央線観光特急としてはそれありかも。
DC急行「アルプス」のキハ65 500番台組み込み以前に、キロ58×2へ冷房電源を供給するためだけに、国鉄はキハ28 1500番台車を製造して夏季の冷房サービス提供を凌いだことがあります。 当初このキハ28 1500番台車は自らには冷房装置を搭載せず、只々キロ58の冷房電源としてだけ編成に組み込まれました。 ですが、ここで再び1エンジン車の編成組み込みで編成出力が下がりました。 その解決策としてキハ65 500番台車が製造された経緯があります。 その後、キハ28 1500番台車は自身にも冷房装置を搭載し、キハ28 2500番台に改番され、比較的近年のJR東日本キハ58系列終焉の時まで生き残りました。
特急みたいに2エンジン+サービス電源の3エンジン車作れば良かった煮。定員減らすわけに行かなかったならハイデッカーグリーン車の発想はなかったか。80センチの嵩上げで置けたはず。エアコンも床上にしておけば重心は上がらない。
キハ58アルプスは当時最寄りの武蔵小金井駅で見ましたが、キハ65が連結されていたのは初めて知りました。165系のクハが2両連続した編成も懐かしいです。この動画とは関係ないですが、武蔵小金井駅で101系の増解結をしていた事、115系はクモハモハクハ3連×2の中間にサハ2両を入れた変則的な編成だった事を思い出しました
三鷹の800番台編成はMcM'TTc×2へ改められましたが、その後に篠ノ井線電化と同時期に投入された300番台の編成は、McM'TcTTMcM'Tcの編成組成を踏襲しています。 中央東線甲府周辺ローカル運用(塩山⇔韮崎)があり身延線の車両も間合い運用があったことから、800番台編成は同じ4両編成に組み替えたのだろうと思われます。 その証拠に、身延ローカル代替用で1編成だけ新造されたスカ色1000番台は、McM'TTcで登場しています。
キハ58が日本で一番初めに投入されたのも中央線です。キロ58は、全部で8両製造されました。
昭和50年3月に全列車電車化される直前は、糸魚川までのものも含み2往復あった急行「アルプス」の気動車編成は、「こまがね」「八ヶ岳」「かわぐち」を併結する多層建て列車でもありました。登山の時によく利用しました。
この編成には珍車がよく連結され、「かわぐち」には富士急行のキハ58003という製造当初からの同系列唯一の両運転台車もくっついていた時期もあります。
山岳部では連続する急勾配区間を多数擁し、都内新宿までの都市部では中央快速線の高速高密度ダイヤで運行することになるので、のちに連結されたキハ65も500番台という17両しか造られなかった寒冷地仕様車の珍車でした。最も東を走ったキハ65でもあります。
急行「アルプス」気動車編成は、12両中1~2両の1エンジン車を付けていたケースもありますが、ほぼすべて2エンジン車か、キハ65になっていました。
これとはまったく反対だった編成が、その10年後の昭和60年3月まで走り続け、東京23区内乗り入れ最後の定期の気動車列車となった常磐線、水郡線の急行「ときわ」「奥久慈」併結列車でした(上野)。
こちらは、1エンジン車の編成12両中、1~2両が2エンジン車となっており、2エンジン車をなぜ一部に連結したのかについて、当時の国鉄の説明だと、「加速をよくするため!」と言っていました。
そして、何の因果か知らないけれども、かつてのキロ58の一部(6~8の3両)は、常磐線用の荷物気動車キニ58に改造されて、この頃もこの辺を走っていました。
常磐線では、長距離の荷物輸送には電気機関車牽引の荷物客車を用い、短距離輸送には、交直流電車の荷物車がないので、気動車の荷物車を使っていたからです。
ここでもまた、常磐線の高速高密度ダイヤで運行するために、2エンジン車の元キロ58が使われていたのでした。
2:23 まるで東武日光線
下小代〜板荷間を走るキハ55の
ような光景。
キロ58とペアを組んでたキハ28-1500は新潟にいたんでよく覚えてます
ちゃんと冷房化されて2500番台でしたが、最初は冷房装置無しで発電エンジンだけあるっていう珍車だったのが驚きです
パノラミックウィンドウで新潟色とも相まってカッコよかったですね
キロ58は新潟に縁がないと思ってたんですが、
調べてみるとアルプスから撤退後に急行ちくまで長野→大阪、急行越後で大阪→新潟で来てたみたいでした
1度見てみたかったですね
話によると急行紀州の運用で紀伊半島周りで天王寺まで来ていたとも。
@@minakatamanabu7413 国鉄時代の運用ってすごいっすね
第1富士脱線事故の時の運用とか感動します
ああ、55アルプス、165ー800低屋根、なっつかしいなー。新宿でアルプスを見ると、ときめいたもんです。
まあ、結局は山岳線向けの電車が隆盛となることで、こうした2エンジングリーン車は廃れていくわけですが
ンで、使い道が無くなったので荷物車に順次改造されていった
そのうちの1両が碓氷峠にあるキニ58なわけですが
急行形気動車が中央東線を闊歩する中特急形は1965年の中央東・篠ノ井線松本電化後こだまを追われた181系による1966年まで待たされる事となります。先の動画の通り山岳区間に弱いギア構成だったキハ82系にしんどい線区ですね。
この列車も急行「かわぐち」やオール二機関12両編成、キハ28 1500番台などネタはたくさんあります。
1965年から初めから181系の100番代が製造されてます。
2エンジン車グリーン車と言うとキロ58型の事ですね、
だからその動画でしょ笑笑。
この形式、真っ先に荷物車に改造された。電源は結局、キハ65から受けていたと聞く。
一方で、中央西線では、大馬力エンジンの、キハ90が、試験運行され、グリーン車には、無動力の『キサロ90』が、組み込まれました。一方で、中央西線の電化は、東線に比べて、かなり遅れ、1966(昭和41年)に、名古屋から瑞浪まで(機関車の切り替えは多治見)、2年後の1968(昭和43年)に、中津川まで延伸し、機関車の切り替えも、中津川で行われるようになりました。同時に、中央西線初の特急『しなの』が、キハ181系で登場し、神領電車区(現神領車両区)が、愛知県春日井市に完成しました。その後、1973(昭和48年)、塩尻までの全線電化が完成し、振り子式の381系による『しなの』号が登場し、1975(昭和50年)までに、置き換えが完了しました。その後も、気動車急行として、『赤倉』号が、名古屋~新潟間に運行されて、1982(昭和57年)に、165系に置き換えののち、1985(昭和60年)のダイヤ改正で、名古屋~長野間は『しなの』、長野~新潟間は、急行『南越後』として、系統分割されました。(24‐01‐20)
もう一つ、キロ58は確かキユ58に改造された?常磐線で撮影した記憶が。
アッ、キニ58だ‼️
キロ58は結局余剰になってしまったのですよね。もう少し他所でもキハ65と組んで活躍できたかもしれないのに残念です...
車体を載せ替えてキニ58になりました。キハ55改造のキニ56が老朽化したのでその置き換え用に常磐線に投入されました。交流電化区間を走る関係で気動車が使われていた常磐線の荷物列車は平坦線区でありながら2エンジン車が投入され、電車の邪魔にならないようにエンジンを限界までぶん回して必死で走っていました。キロ58の2エンジンが、意外なところで役に立ったというお話です。
富士急行編成を探してしまう。揚げ足取りですみません。
1エンジン車と2エンジン車とじゃほぼ乗り心地変わらない気がするし、実のところ乗客も差に気付いてなかったんじゃないかと思う
国鉄の中ではこだわりが強かったみたいだけども…
最強の助っ人はキハ65でしたね。国立駅で撮った下手くそな写真が残っています。キロ58かは全くわからない💦
キロ組み込み急行は「丹後」しか知らないです
キロ58はアルプスの全面電車化で松本から名古屋と美濃太田に全車転出して
きそ、つがいけ、紀州、のりくらに使われたけど結局運用に制約があって最終的にキニ58に改造されたわな
当初は強力編成組める強みがあったけど冷房化の足かせになってしもたし
そやけどキロ58知らんかったとかこの程度で参考になったとか
どんだけ知識あらへんねん、、模型買う前にちょっとは資料集めて調べんかいって思うわ
自分基準で物事いうな。youtube も検索基準。