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動画配信ありがとうございます😊。子供の頃に間人でよく海水浴にいった思い出があります。今後も楽しみにしております。
ご視聴コメントありがとうございます!より良い動画が作れるよう頑張ります!
@@nacretango ありがとうございます😊。私は城陽で育ちましたが、父が弥栄で、母が峰山の出身です。子供の頃の思い出がよみがえっております。夏休みや冬休みに両親の実家に帰省し、遊び呆けていました。今後もご活躍期待しております😊。
丹後町、凄い!阿波や大倭との繋がりを想像するだけでわくわくしてきました。次回の配信が待ち遠しいです。有難うございました。
ありがとうございます!阿波も興味深いです。また別の動画で阿波と丹後のつながりをまとめてみたいです。
面白かった!
ありがとうございます!
今から30年ばかり前、丹後のほぼ全ての盟主墳を見学したことがあり、懐かしく視聴しました。ただ、タイトルや解説などにやや問題があると想え、ヤマト政権に葬られたのではなく、4世紀以後丹後から大首長(「王」ではない)が出ず、代わって但馬・丹波から順に輩出されたと言う理解が正しい筈。白米山(4世紀前半)→蛭子山1号(4世紀中葉)→網野銚子山(4世紀後半)→神明山(4世紀後葉)→黒部銚子山(4世紀末~5世紀初頭)が丹後で、以後、但馬・池田(5世紀前葉)→丹波・雲部車塚(5世紀中葉)→但馬・船宮(5世紀後半)→丹波・千歳車塚(6世紀初頭)という編年が辿れます。白米山には埴輪は無いが、蛭子山1号~神明山はⅡ期の埴輪、黒部山・池田はⅢ期の埴輪、雲部車塚・船宮はⅣ期の埴輪、千歳車塚はⅤ期の埴輪をもつのが時期の根拠。 以前から言われていることだが、広く「タニハ」という地域での大首長の変遷が辿れます。ただし、冒頭の湧田山1号は、ほかの各大型墳とは異なり葺石さえ欠いており、しかも「帆立貝形」なので大首長墳には相応しくない。また、造出部を後円部に付設するとう特徴から、仮に遡っても大和・景行陵程度が上限時期。ついでに、5世紀以後丹後には前方後円墳が築造されなくなるのではなく、作山4号を初め、峰山町の盗人神6号・下和田9号・八幡山3号など5~7基が、後期もほぼ同数の散在が確認済みです。 念のため、網野銚子山の主は「四道将軍」の一人の「丹波道主命」であり、「日葉酢媛」の実父(なので墳形が酷似)〔荊木2020『「播磨風土記」の史的研究』燃焼社、参照〕。神明山は「竹野比売」関係者、千歳車塚は継体紀の「倭彦王」と見るのが穏当と言えます。ヤマト王権の成立後には地方に「王国」は存在せず、王権にとって特に重要な地である丹後には「王族」関係者を移配。
初めて動画を拝見しましたが 丁寧に考察されているのに バックの音楽が大きすぎて解説がききとりにくく 理解する前に話がどんどん進んでしまいます音量を調整された方がよいのではと思いました
ご視聴コメントありがとうございます!音量の調整難しいですね。次回はより良いものになるよう頑張ります。また気になるところがあったら教えてください!
神谷太刀宮神社から37本一気に拝見しました。良い意味で寂しさと儚さがコーヒーの香りの中で交わってる感じです。良かったですです。できればスーパーの尺を長めにお願いします。固有名詞がなかなか読めなくて・・・・
全部見ていただきありがとうございます!びっくりです。とても嬉しいです。字幕短くてすみません!次回はできるだけ長めにします。
自分も字幕の尺をもう少しながめで…お願いしたいです。🙏
長めにします!
大変に参考になる動画をありがとうございます。私も古代丹後に注目しています以下、私の解釈で恐縮ですが、天火明(太陽神)→五十猛がタニハ王朝で、3世紀にその子の村雲が纏向に初期ヤマト王権(海部王朝)を立ち上げた初代大王だと推測しています海部王朝はヤマトの地で出雲族と融合して磯城王朝へ変化するとともに、一部が紀伊や伊勢や尾張へ広がり、そこで天火明は天照大神へ変化します5世紀に九州から天孫降臨神話を持った物部族が進出してきて磯城王朝とタニハ王朝は崩壊し、畿内は河内王朝へと移りますしかし、壬申の乱で伊勢と尾張が復権し、記紀では天照大神が天孫降臨神話に割り込んで、大王家の祖神に復活したと解釈しています
コメントありがとうございます。こちらこそ大変興味深いお話ありがとうございます。僕は歴史学や考古学に詳しくなくて、動画の制作を通じて勉強しているところです。海部王朝面白そうです。早速勉強してみます!
北九州勢力が新羅と連帯を強めていったので、任那や百済からの脱出者達は九州から離れた丹後に住み着いたという事かな?
コメントありがとうございます!興味深いご意見です。朝鮮半島の歴史もあわせてさらに調べてみたくなりました!
@@nacretango 磐井の乱で新羅と博多湾勢力が結託していたことが判りますね。 磐井と安曇族と新羅は鉄の売買で結びついたんでしょう。 彼等が出雲を作ったのかも知れません。九州からも、出雲からも離れた若狭湾周辺が、任那や百済からの避難民を迎える港となったという仮説です。
@@nacretango 朝鮮半島の歴史、私もほとんど知りません。磐井の乱からの想像です。博多湾の安曇族は東アジアの情報を集められる立場にいたと思います。鉄だけでも新羅が良い交易の相手だったでしょう。倭人あい別れて大いに争うと言うのは朝鮮半島の倭族が分裂、対立していた事を指しているのではないかと思います。
興味深く拝見させていただきました。ありがとうございます。お時間のある時に、「鉄」の 流れを追ってみて下さいませんか?骨の折れることでしょうが、、、。
ご視聴コメントありがとうございます。鉄についても興味があります!近いうちに調べてまとめてみたいと思います。
だんだん、だんだんだんだん…丹後王国の王のなぞ…浦島太郎が王なのか?太郎として消されたのか('_'?)…興味深いです。時々ながれるセロもよいです。
調べれば調べるほど古代丹後は面白いです。浦島太郎伝説も奥が深くワクワクします!
動画配信ありがとうございます😊。子供の頃に間人でよく海水浴にいった思い出があります。今後も楽しみにしております。
ご視聴コメントありがとうございます!より良い動画が作れるよう頑張ります!
@@nacretango ありがとうございます😊。私は城陽で育ちましたが、父が弥栄で、母が峰山の出身です。子供の頃の思い出がよみがえっております。夏休みや冬休みに両親の実家に帰省し、遊び呆けていました。今後もご活躍期待しております😊。
丹後町、凄い!阿波や大倭との繋がりを想像するだけでわくわくしてきました。
次回の配信が待ち遠しいです。有難うございました。
ありがとうございます!阿波も興味深いです。また別の動画で阿波と丹後のつながりをまとめてみたいです。
面白かった!
ありがとうございます!
今から30年ばかり前、丹後のほぼ全ての盟主墳を見学したことがあり、懐かしく視聴しました。ただ、タイトルや解説などにやや
問題があると想え、ヤマト政権に葬られたのではなく、4世紀以後丹後から大首長(「王」ではない)が出ず、代わって但馬・丹
波から順に輩出されたと言う理解が正しい筈。白米山(4世紀前半)→蛭子山1号(4世紀中葉)→網野銚子山(4世紀後半)→
神明山(4世紀後葉)→黒部銚子山(4世紀末~5世紀初頭)が丹後で、以後、但馬・池田(5世紀前葉)→丹波・雲部車塚(5世紀
中葉)→但馬・船宮(5世紀後半)→丹波・千歳車塚(6世紀初頭)という編年が辿れます。白米山には埴輪は無いが、蛭子山1号~
神明山はⅡ期の埴輪、黒部山・池田はⅢ期の埴輪、雲部車塚・船宮はⅣ期の埴輪、千歳車塚はⅤ期の埴輪をもつのが時期の根拠。
以前から言われていることだが、広く「タニハ」という地域での大首長の変遷が辿れます。ただし、冒頭の湧田山1号は、ほかの
各大型墳とは異なり葺石さえ欠いており、しかも「帆立貝形」なので大首長墳には相応しくない。また、造出部を後円部に付設する
とう特徴から、仮に遡っても大和・景行陵程度が上限時期。ついでに、5世紀以後丹後には前方後円墳が築造されなくなるのではな
く、作山4号を初め、峰山町の盗人神6号・下和田9号・八幡山3号など5~7基が、後期もほぼ同数の散在が確認済みです。
念のため、網野銚子山の主は「四道将軍」の一人の「丹波道主命」であり、「日葉酢媛」の実父(なので墳形が酷似)〔荊木2020
『「播磨風土記」の史的研究』燃焼社、参照〕。神明山は「竹野比売」関係者、千歳車塚は継体紀の「倭彦王」と見るのが穏当と言
えます。ヤマト王権の成立後には地方に「王国」は存在せず、王権にとって特に重要な地である丹後には「王族」関係者を移配。
初めて動画を拝見しましたが 丁寧に考察されているのに バックの音楽が大きすぎて
解説がききとりにくく 理解する前に話がどんどん進んでしまいます
音量を調整された方がよいのではと思いました
ご視聴コメントありがとうございます!音量の調整難しいですね。次回はより良いものになるよう頑張ります。また気になるところがあったら教えてください!
神谷太刀宮神社から37本一気に拝見しました。良い意味で寂しさと儚さがコーヒーの香りの中で交わってる感じです。良かったですです。できればスーパーの尺を長めにお願いします。固有名詞がなかなか読めなくて・・・・
全部見ていただきありがとうございます!びっくりです。とても嬉しいです。
字幕短くてすみません!次回はできるだけ長めにします。
自分も字幕の尺をもう少しながめで…お願いしたいです。🙏
長めにします!
大変に参考になる動画をありがとうございます。私も古代丹後に注目しています
以下、私の解釈で恐縮ですが、天火明(太陽神)→五十猛がタニハ王朝で、3世紀にその子の村雲が纏向に初期ヤマト王権(海部王朝)を立ち上げた初代大王だと推測しています
海部王朝はヤマトの地で出雲族と融合して磯城王朝へ変化するとともに、一部が紀伊や伊勢や尾張へ広がり、そこで天火明は天照大神へ変化します
5世紀に九州から天孫降臨神話を持った物部族が進出してきて磯城王朝とタニハ王朝は崩壊し、畿内は河内王朝へと移ります
しかし、壬申の乱で伊勢と尾張が復権し、記紀では天照大神が天孫降臨神話に割り込んで、大王家の祖神に復活したと解釈しています
コメントありがとうございます。
こちらこそ大変興味深いお話ありがとうございます。僕は歴史学や考古学に詳しくなくて、動画の制作を通じて勉強しているところです。海部王朝面白そうです。早速勉強してみます!
北九州勢力が新羅と連帯を強めていったので、任那や百済からの脱出者達は九州から離れた丹後に住み着いたという事かな?
コメントありがとうございます!興味深いご意見です。朝鮮半島の歴史もあわせてさらに調べてみたくなりました!
@@nacretango 磐井の乱で新羅と博多湾勢力が結託していたことが判りますね。
磐井と安曇族と新羅は鉄の売買で結びついたんでしょう。 彼等が出雲を作ったのかも知れません。
九州からも、出雲からも離れた若狭湾周辺が、任那や百済からの避難民を迎える港となったという仮説です。
@@nacretango 朝鮮半島の歴史、私もほとんど知りません。
磐井の乱からの想像です。博多湾の安曇族は東アジアの情報を集められる立場にいたと思います。鉄だけでも新羅が良い交易の相手だったでしょう。
倭人あい別れて大いに争うと言うのは朝鮮半島の倭族が分裂、対立していた事を指しているのではないかと思います。
興味深く拝見させていただきました。ありがとうございます。お時間のある時に、「鉄」の 流れを追ってみて下さいませんか?骨の折れることでしょうが、、、。
ご視聴コメントありがとうございます。鉄についても興味があります!近いうちに調べてまとめてみたいと思います。
だんだん、だんだん
だんだん…丹後王国の王のなぞ…浦島太郎が王なのか?
太郎として消されたのか('_'?)…
興味深いです。時々ながれるセロもよいです。
調べれば調べるほど古代丹後は面白いです。
浦島太郎伝説も奥が深くワクワクします!