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百済の意多郎は武烈天皇の巻に「是の月に、百済の意多郎卒す。高田丘上(たかだのおかのへ)に葬る。」と唐突に出て来るだけでどんな人物だったのか全然わかりませんね。むしろ何でこんなあっさりとした記述しかないのか逆に不思議ですね☺
金子さんの博識ぶりにはいつも感心させられます。弟子にしてください(笑)。
@@koukogaku 様 いえいえ、こちらこそいつも勉強させていただいております。ありがとうございます。武烈天皇の巻を見ると平群氏と対立していたり、一方で天皇の暴虐性ばかりが強調されていたりするのでどこまで事実か怪しい部分もあるのですが百済意多郎は百済の王族か王族と関係が深い人物だったのでしょうね。興味は尽きませんね☺
@@金子宏二 武烈天皇に限らず、本当にどこまでが本当なんですかね? 天皇家の歴史を叙述するのに、この人は暴虐だったって普通書きますかね? 今の感覚だったら、本当だったとしても隠すような気がしますが。どういう意図なのか知りたいです。
@@koukogaku 様 一般的な説としては次代の継体天皇が応神天皇5世の来孫ということで本来は皇位を継ぐ立場ではないわけですね。いうなれば「地方の王様」ですから。その人が皇位を継いだと言う事はここで物凄く大きな政変が起きているということですね。なので前代の武烈天皇がいかに「徳」の無い人物だったかを強調することで政権交代の正当性をアピールしている。といわれていますね。ただ武烈天皇は実在したかどうかも疑う説もあるようで、本当のところは謎なのかもしれませんね☺
横から失礼します。神武から10人(?)は実在が疑わしいという話はよく聞きますが、それ以降も実在が疑わしい天皇がおられるということですか
CGを伴う解説が相変わらず素晴らしいです。毎度勉強しております。
いつもありがとうございます。参考になれば良かったです。CGだと写真では表現できないようなことが出来るので面白いですよね。またチャンネルに遊びに来てくださいね。
古代からの地名が残っているというのは凄いことだなと感じました
ご視聴ありがとうございます。高田丘のことですかね? 資料館に確認したところ、現時点では高井田という地名は、資料的には中世までしか遡れないとのことでしたので、高井田=高田丘かどうかは不明のようです。同じであると面白いのですが。何か発見があるといいですね。
素晴らしい!百聞は一見に如かず。臨場感すら感じられる。
こちらこそ過分なコメントをいただき、ありがとうございます。3Dは実際には見えない場面を作ることが出来るので、使い方によってはとても面白いですね。またチャンネルに遊びに来てくださいね。
地元の古墳にこんな立派な存在していた事にびっくりしました。高井田横穴は小学生時代に見学をさせてもらっていたので、再度見学てもらいます。
地元に住んでいると意外に分かりにくいかもしれませんね。灯台下暗しですよね。柏原市・藤井寺市・羽曳野市一帯は、凄い古墳や史跡が目白押しですよね。戦後の航空写真を見ていると、大阪の変わりようの凄まじさに驚きます。きっと多くの遺跡が破壊されたんでしょうが、それでも今これだけのものが残っているのは素晴らしいと思います。資料館と高井田山古墳、是非見学に行ってください!
先の余計なコメントお詫び申し上げます。本動画ではありませんが、最近あまりな動画が多く、少しでも正しい例が多くなるべく要らざるコメントをしました。ただ、多くの自由なコメントを見ていると、やはり自治体関係者を初め、埋蔵文化財関係者の一般の方々への丁寧な説明が欠けている気がしてなりません(そうした努力こそ自らのためにもなりますし)。 ちなみに、「百済の意多郎」墓説の提起者の論考掲載文献は、確か 坂本和俊2004「古墳時代の葬制をめぐって」(『幸魂―増田逸郎氏追悼論文集―』北武蔵古代文化研究会)、だったような気がします(私蔵分はコピーのためそれ自体探し出せません。ただ、後年への備えや参考の為、機会あればご一読を)。 ついでながら、たまたま先行のコメントが目に入ったが、武烈については、以前から同天皇の陵が有力とされてきた奈良県香芝市の狐井(きつい)城山古墳との関係で、北接の狐井稲荷古墳が一昨年確認調査され、まず顕宋陵であろうとの論定が進んでいます(トレンチで墳形・葺石・埴輪列など確認済)。宜しければ、同市教委などと相談の上、今後動画の作成でも。
とんでもありません。コメント、本当にありがたかったです。先日は未完成版を公開してしまい、改めて本動画をアップしたのですが、邑人様からコメントをいただけたことは、本当に良かったです。拝読し、一読して私よりもはるかに考古学に対する造詣が深いことがわかりました。一部で申し訳なかったのですが、いただいたご指摘について動画に反映させていただきました。前回の動画は気づいた時点ですぐに非公開としたため、邑人様への返信は届いていないだろうなと思っていましたので、こちらに改めてコメントをいただき、本当に嬉しかったです。親切・丁寧にご教示いただき、本当にありがとうございました。今後ともよろしくお願いいたします。
@@邑人-k1s 重ね重ねありがとうございます。またゆっくり読ませていただきます。今後ともよろしくお願いいたします。
本当に見事な再現!お時間かかったでしょう。博物館で単にボロボロの鉄鏃や破片をみても「ふーん」だけですが、事前にこの当時の立体的な古墳内部を見てからだと臨場感ぜんぜん違いますね👏私、先月多分橿原考古学研究所で多分ヒノシ?を見てきたんだけど、素通りしてました、、、クヤシイ。(~_~;)
ありがとうございます! とても嬉しいです。ずっとこれを作っていたわけではなく、途中中断していた時もありましたが、作り始めてからだと3ヵ月くらいかかりましたかね。やはり残っているものだけだと、なかなか元はどんな風だったのかイメージすることは難しいですよね。3Dだと残っていないものも含めて、写真では表現できないことも表現できるので、とても面白いです。良かったらまたチャンネルに遊びに来てくださいね。
外国の考古学チャンネルも良く見ておりますが、分かり易く素晴らしいと思いました。
ありがとうございます。またチャンネルに遊びに来てくださいね!
椿井宮山塚古墳の名前が出てくるとは思わなかった。
いつか近畿地方における初期の横穴式石室みたいなのをやれないかと思ってコツコツ撮っているんです。またアップロードしたらご覧ください。
@@koukogaku 就職するまで烏土塚古墳のすぐ下に住んでて、子供のころはよく西宮古墳とか椿井古墳とかで遊んだし、犬の散歩で烏土塚古墳に毎日登ってました^^;
@@fujiwara_shino そうなんですか。西宮と烏土塚も行きましたよ。烏土塚の周りの環境はある意味凄いですね。よくあれだけ残ったというか・・・。烏土塚は動画をアップしていますので、また良かったらご覧ください。
大陸や半島では、墓誌を残す風習が一般的です。その風習が日本に来てからパッタリなくなりました。これは不思議です?
そうですね。墓誌は日本では定着しなかったですね。どういう選択の意図が働いたのでしょうか。これに限らず不思議・わからないことだらけです(笑)。
新聞記事で太安万侶の墓誌が茶畑から出たって話を平成時代に読んだ気がしますけど墓誌が墓に添えられていたのは単に『古事記』の作者が実在した証拠ってだけでなく大変珍しい話だったのでねぇ❗️
盗掘しにくい構造の石室と羨道。金銅製馬具や金銅製の装飾品も無い、何だらか切羽すまれます。こういう人々は、私達日本人の祖先ともなってます。日韓同士で研究すべき事です✨歯等が残れば良かっただろうだけどね。遺伝子レベルで、調べることも夢ではないでしょう。楽しく夢見るのも考古学。ドラマが出来そうな予感!❤
当時からすれば残っているのはほんのわずかでしょうが、そのわずかなものから如何に歴史を復元するかが、考古学者の皆さんの腕の見せ所でしょうね。これからも次々に新しいことがわかってくるかと思うと、楽しみですね。
百済の意多郎は武烈天皇の巻に「是の月に、百済の意多郎卒す。高田丘上(たかだのおかのへ)に葬る。」と唐突に出て来るだけでどんな人物だったのか全然わかりませんね。むしろ何でこんなあっさりとした記述しかないのか逆に不思議ですね☺
金子さんの博識ぶりにはいつも感心させられます。弟子にしてください(笑)。
@@koukogaku 様 いえいえ、こちらこそいつも勉強させていただいております。ありがとうございます。武烈天皇の巻を見ると平群氏と対立していたり、一方で天皇の暴虐性ばかりが強調されていたりするのでどこまで事実か怪しい部分もあるのですが百済意多郎は百済の王族か王族と関係が深い人物だったのでしょうね。興味は尽きませんね☺
@@金子宏二 武烈天皇に限らず、本当にどこまでが本当なんですかね? 天皇家の歴史を叙述するのに、この人は暴虐だったって普通書きますかね? 今の感覚だったら、本当だったとしても隠すような気がしますが。どういう意図なのか知りたいです。
@@koukogaku 様 一般的な説としては次代の継体天皇が応神天皇5世の来孫ということで本来は皇位を継ぐ立場ではないわけですね。いうなれば「地方の王様」ですから。その人が皇位を継いだと言う事はここで物凄く大きな政変が起きているということですね。なので前代の武烈天皇がいかに「徳」の無い人物だったかを強調することで政権交代の正当性をアピールしている。といわれていますね。ただ武烈天皇は実在したかどうかも疑う説もあるようで、本当のところは謎なのかもしれませんね☺
横から失礼します。神武から10人(?)は実在が疑わしいという話はよく聞きますが、それ以降も実在が疑わしい天皇がおられるということですか
CGを伴う解説が相変わらず素晴らしいです。毎度勉強しております。
いつもありがとうございます。参考になれば良かったです。CGだと写真では表現できないようなことが出来るので面白いですよね。またチャンネルに遊びに来てくださいね。
古代からの地名が残っているというのは凄いことだなと感じました
ご視聴ありがとうございます。高田丘のことですかね? 資料館に確認したところ、現時点では高井田という地名は、資料的には中世までしか遡れないとのことでしたので、高井田=高田丘かどうかは不明のようです。同じであると面白いのですが。何か発見があるといいですね。
素晴らしい!百聞は一見に如かず。臨場感すら感じられる。
こちらこそ過分なコメントをいただき、ありがとうございます。3Dは実際には見えない場面を作ることが出来るので、使い方によってはとても面白いですね。またチャンネルに遊びに来てくださいね。
地元の古墳にこんな立派な存在していた事にびっくりしました。高井田横穴は小学生時代に見学をさせてもらっていたので、再度見学てもらいます。
地元に住んでいると意外に分かりにくいかもしれませんね。灯台下暗しですよね。柏原市・藤井寺市・羽曳野市一帯は、凄い古墳や史跡が目白押しですよね。戦後の航空写真を見ていると、大阪の変わりようの凄まじさに驚きます。きっと多くの遺跡が破壊されたんでしょうが、それでも今これだけのものが残っているのは素晴らしいと思います。資料館と高井田山古墳、是非見学に行ってください!
先の余計なコメントお詫び申し上げます。本動画ではありませんが、最近あまりな動画が多く、少しでも正しい例が多くなる
べく要らざるコメントをしました。ただ、多くの自由なコメントを見ていると、やはり自治体関係者を初め、埋蔵文化財関係者
の一般の方々への丁寧な説明が欠けている気がしてなりません(そうした努力こそ自らのためにもなりますし)。
ちなみに、「百済の意多郎」墓説の提起者の論考掲載文献は、確か 坂本和俊2004「古墳時代の葬制をめぐって」(『幸魂
―増田逸郎氏追悼論文集―』北武蔵古代文化研究会)、だったような気がします(私蔵分はコピーのためそれ自体探し出せま
せん。ただ、後年への備えや参考の為、機会あればご一読を)。
ついでながら、たまたま先行のコメントが目に入ったが、武烈については、以前から同天皇の陵が有力とされてきた奈良県
香芝市の狐井(きつい)城山古墳との関係で、北接の狐井稲荷古墳が一昨年確認調査され、まず顕宋陵であろうとの論定が進
んでいます(トレンチで墳形・葺石・埴輪列など確認済)。宜しければ、同市教委などと相談の上、今後動画の作成でも。
とんでもありません。コメント、本当にありがたかったです。先日は未完成版を公開してしまい、改めて本動画をアップしたのですが、邑人様からコメントをいただけたことは、本当に良かったです。拝読し、一読して私よりもはるかに考古学に対する造詣が深いことがわかりました。一部で申し訳なかったのですが、いただいたご指摘について動画に反映させていただきました。前回の動画は気づいた時点ですぐに非公開としたため、邑人様への返信は届いていないだろうなと思っていましたので、こちらに改めてコメントをいただき、本当に嬉しかったです。親切・丁寧にご教示いただき、本当にありがとうございました。今後ともよろしくお願いいたします。
@@邑人-k1s 重ね重ねありがとうございます。またゆっくり読ませていただきます。今後ともよろしくお願いいたします。
本当に見事な再現!お時間かかったでしょう。
博物館で単にボロボロの鉄鏃や破片をみても「ふーん」だけですが、事前にこの当時の立体的な古墳内部を見てからだと臨場感ぜんぜん違いますね👏
私、先月多分橿原考古学研究所で多分ヒノシ?を見てきたんだけど、素通りしてました、、、
クヤシイ。(~_~;)
ありがとうございます! とても嬉しいです。ずっとこれを作っていたわけではなく、途中中断していた時もありましたが、作り始めてからだと3ヵ月くらいかかりましたかね。やはり残っているものだけだと、なかなか元はどんな風だったのかイメージすることは難しいですよね。3Dだと残っていないものも含めて、写真では表現できないことも表現できるので、とても面白いです。良かったらまたチャンネルに遊びに来てくださいね。
外国の考古学チャンネルも良く見ておりますが、分かり易く素晴らしいと思いました。
ありがとうございます。またチャンネルに遊びに来てくださいね!
椿井宮山塚古墳の名前が出てくるとは思わなかった。
いつか近畿地方における初期の横穴式石室みたいなのをやれないかと思ってコツコツ撮っているんです。またアップロードしたらご覧ください。
@@koukogaku
就職するまで烏土塚古墳のすぐ下に住んでて、子供のころはよく西宮古墳とか椿井古墳とかで遊んだし、犬の散歩で烏土塚古墳に毎日登ってました^^;
@@fujiwara_shino そうなんですか。西宮と烏土塚も行きましたよ。烏土塚の周りの環境はある意味凄いですね。よくあれだけ残ったというか・・・。烏土塚は動画をアップしていますので、また良かったらご覧ください。
大陸や半島では、墓誌を残す風習が一般的です。その風習が日本に来てからパッタリなくなりました。これは不思議です?
そうですね。墓誌は日本では定着しなかったですね。どういう選択の意図が働いたのでしょうか。これに限らず不思議・わからないことだらけです(笑)。
新聞記事で太安万侶の墓誌が茶畑から出たって話を平成時代に読んだ気がしますけど墓誌が墓に添えられていたのは単に『古事記』の作者が実在した証拠ってだけでなく大変珍しい話だったのでねぇ❗️
盗掘しにくい構造の石室と羨道。
金銅製馬具や金銅製の装飾品も無い、何だらか切羽すまれます。
こういう人々は、私達日本人の祖先ともなってます。
日韓同士で研究すべき事です✨
歯等が残れば良かっただろうだけどね。
遺伝子レベルで、調べることも夢ではないでしょう。
楽しく夢見るのも考古学。
ドラマが出来そうな予感!❤
当時からすれば残っているのはほんのわずかでしょうが、そのわずかなものから如何に歴史を復元するかが、考古学者の皆さんの腕の見せ所でしょうね。これからも次々に新しいことがわかってくるかと思うと、楽しみですね。