現代文化のイデオロギーと美学 | ウディス・デマタゴダ博士
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- เผยแพร่เมื่อ 17 ธ.ค. 2024
- 美学は政治的メッセージだけでなく、社会の方向性を理解するのに役立つのでしょうか?はい、可能です。実際、社会の最も暗い瞬間はしばしば最も美学化されており、ウォルター・ベンヤミンが言ったように、「ファシズムの論理的結果は、美学を政治生活に導入することである。政治を美学化するすべての努力は一つのことに集約される:戦争。」 ウディス・デマタゴダがSubstackで: udith.substack... TH-camで: / @empyreanpath 今日は、スコットランドの作家であり、モダニスト文学と批判理論を研究する学者であるウディス・デマタゴダ博士と話しています。彼は現在シュトゥットガルト大学で働いており、最近「イデオロギーの美学:不可避で副次的な「政治」」という興味深い記事を発表しました。その中で、彼と共著者は政治、芸術、そして必然的にファシズムについて議論しています。
Original Video: • Ideology and Aesthetic...
Produced by: Neutrality Studies
Originally Published on: 2024-11-28
Translations by: www.video-translations.org
Disclaimer: Read by A.I. Voices. Auto-translated.
This video is owned by this channel.
専門的な単語の出てくるお話、とても興味深いです。
しかし結論から言うと、翻訳の関係かもしれませんが、ネットを止めるべきだというのが矛盾しているように聞こえました。
象徴的なものが井戸の中のカオスなどを統一的にする試みで、現実的なものは主観の外にある現実で、イデオロギーが、現実の象徴的なものと自我の創造的なものとの関係の一種の媒介的な関係ってことは、象徴的なものではないという定義が成されているようですが、イデオロギーも象徴的なものに含まれ、象徴的なものの中の試みの一つの形態に過ぎないということですが、重複した言い方になりますが、イデオロギーは象徴的なものの中を統一する象徴なわけですので、井戸の中を統一する象徴的なものを集めた象徴的なものであり、定義上の齟齬が生まれていると考えられます。
そのことによって結論が真逆になっているのだと考えられますが、イデオロギーが象徴的なものの中の一種の媒介としての関係だと考えた場合に美的なイデオロギーで人々が操作されるのでネットから離れた方が良いと考える場合、単に象徴的なもの一部が影響を受けるだけなので問題ではなく、それはネットでなくとも例えば街並みや家屋などからの影響すらもイデオロギーを決定づけるので危険だと言っているようなものであり、例えネットの強い影響力が問題だとしたとしても、それはもはや人間関係の全てを排除するべきだと言っているのと同様ですが、象徴的なものを集めた象徴としてのイデオロギーということであれば話は別で、全体的な考えが変化し、人格形成に影響を及ぼし、ネットで操作されるのであればこれは重大な問題であると言えますが、しかしその重要性は前述のとおり全てに言えることであり、イデオロギーが美感に騙され誘導されることを恐れるのであれば、それはあらゆる文化を破壊するべきだというような思想に直結するものであり、文明の否定や人間性の否定とすら言える哲学的な提起をしていることとなり、まったくナンセンスだと言わざる負えません。
しかしこの考えは、ファシズムを危険視する人々こそが文明破壊の権化、ファシズムだと定義されるものであり、国際的にはファシズムの定義からやり直す必要が在るのだと確信しました。
翻訳の問題なのかもしれませんのでここで何かを断定的に語ることはできませんが、日本語を操れるラカン派論者などと議論を交わしてみたいものです。
なのでここで私くしが挙げた論点はサムネイルにある答えを現実的に示していると私くしは考えます。つマリなぜトランプはより包括的になったのか、それは、イデオロギーというものが、現実的なものに強く影響を及ぼす象徴的なものの中でその多くを包括する象徴的なものだからです。
同時にこれはある種の美意識も含む全ての人間の感覚的な善し悪しを決定する根源的な反応が意志(自由意志と言い換えても良い)そのものの事であり、ネットで誘導されようと抵抗しようと、それが生み出すなにかに善悪を決定する決定的な要因はないということでもあります。
つまり、象徴的なものに誘導され、現実的なものに影響を与えるということは、想像的なものから独り立ちをするということと同じことであり、想像的なもので享楽にふける赤ちゃんと現実的なものを恐れ危険視し名誉の為に戦う戦士も同じものであり、そのどちらから見ているかで其れが享楽なのか戦いなのか、或いは悪なのか善なのか、美しいのか美しくないのかを決定しているだけであるということであり、その根源的な決定要因はどちらとも想像的なものにすぎないということだということがこのコメントで証明されたということになります。
そしてもちろん現実的なものの中で支配的なもの、それは物理的な必然性や地球環境などと言い換えても良いのかもしれませんが、これら限りある世界の中で限りない良く部を持つ我々人類が現実的にやらなければならないことは、現実的に更なる資源を求めることや限りない欲望を想像的なもので穴埋めしたりすることであり、ネットから離れることや宇宙開発を止めることではないということになります。
もちろん後はバランスの問題や美意識や文化的な趣味趣向や善悪と言い換えても良いのかもしれませんが、そうしたものがどの程度が適切だと求めるのかをどのように決定することができるのかということになるわけですが、結局は民意をどのように集約することができるのかということであり、トランプが一部の人々にとって危険であるかどうかということや現実的なものが足りないということですらなく、それが本当に民意を反映していると言えるのかどうかということであり、ネットから離れたとしてもネットから離れるという想像的なものとしての享楽に甘んじるだけで現実的なものの影響としてどれがだれの都合に合わせて都合がよいのかどうかはまた個別に精査する必要が在り、普遍的な観点からは語ることは個別具体的な現象に対してイデオロギー的にしかできませんし、個別具体的な現象自体の持つイデオロギー的な要素と観測している個体のイデオロギーとの相対性の中で生まれるイデオロギーがその双方のイデオロギーと同じものであるという保証もありませんし、ある見方をすればそれ等はそもそもが同じものであるという見方もできます。
なのでやはりできることはより多くの人々がネットに食いついて、個々が感じている嘘も含めた真実を明らかにし透明性を確保するということであり、透明性が失われた社会や状況でどのように正しくあろうと、或いは倫理観や善悪を排除した合理的な観点、それは軍事的な強度と言い換えても良いのかもしれませんが、そうした現実的なものから生まれる悪いもの矢不都合なもろもろのものたちから逃れる術はありません。
そうなってくると結局は嘘が諸悪の根源だという論理が光を明らかにしますが、透明性を確保することが正しいという前提に立てば、例え嘘があろうともさしたる問題とはなりません。明らかにしたり、必要最低限の規制や差別と言い換えても良いのかもしれませんが、社会的な悪を抑えることが可能だからです。
そうすると、個人正義と社会悪の同立が生まれますがこれも同様で、透明性が確保されることが正しいという前提に立てば、悪が社会悪だと規定されている以上、個人正義として嘘を正当化しようとも社会的な制裁を受けることが前提となる可能性が高く個人的な正義と反するというような社会を構築することができます。
となると後に問題なのは過去の出来事であって、これらのあるべき個人や社会の姿が、これまでのあるべきでなかった過去を全て清算するわけではないということが、人類が抱え持つ最大級の解決困難な問題です。
しかしこれらに対抗する様々な方法を人類は生み出してきました。
それが例えば被害弁済や復讐やお祭りなどの神事や禊、区切りであり、その背景にある想像的で象徴的で現実的なものは合意であり大義です。
なので逆に言えば、大義のない、合意のない、民意のない介入や権力の行使、特にそれ自体が対象にとって不都合なものは、社会悪であると断定することができます。
美学の定義がわからない
やらなくてもいい議論や定理を無理矢理作り、なんの役にも立たない。議論のためだけの無駄定理をこねくり回しているだけに見える。