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Ti 22
Japan
เข้าร่วมเมื่อ 28 มิ.ย. 2016
西日本、特に北部九州の写真・映像を紹介します。
【森町】 森のまつり 夜巡行 (令和6年版)
遠州(遠江国、静岡県西部)の「喧嘩まつり」として名高い「森のまつり」です。遠州の祭は「横須賀(三熊野神社大祭)に始まり、森に終わる」と言われ、この地方では必ず名前が挙がる祭礼となっています。
祭礼のある森町(もりまち)はかつて秋葉山(秋葉神社)参詣の宿場町であったほか、河川舟運の拠点として、また江戸時代には相場に大きな影響を持つほどの古着市場で栄えていました。この経済的背景をもとに江戸時代後期には庶民による山車祭りが始まっており、現在の「森のまつり」は町中心部の「三島神社」の氏子区域と、その周辺の地区との合同祭礼として拡大しています。最終日(三日目)には御旅所である「金守神社」からの還幸と「舞児還し」と呼ばれている祭礼に奉仕(奉納演舞)した子供(舞児)を神社から自町まで送り返す行事が主に行われています。
映像は最終日の夜の巡行の様子を中心に構成しています。各町の祭式の大半が終了して、「舞児還し」を控える場面から始まります。各町から選出された舞児は、三島神社での「舞児還し式」に参列(一般者は観覧不可)し、その後屋台に乗せられてそれぞれの町内に帰ります。町内では総出で舞児を出迎え、感謝や慰労の口上と万歳三唱とともに式典は終わります。「舞児還し式」の出立から自町の式典まで、舞児は地面に足をつけてはならないしきたりで、屋台の乗り降りの場面では若衆(青年団)が担ぐことになっています。このしきたりは同地域にある天宮(あめのみや)神社の例大祭(国重文)の若衆「天社轂(てんしゃこく)」が行っていたものを大正時代に三島神社でも取り入れたいきさつがあり、以降森町や袋井市一帯で同様の「舞児還し」が行われています。
「舞児還し」の後、屋台は森町の中心部に再度繰り出し、乱曳き(実際は行路が指定されている)となります。屋台が練り進み、各場所で手木合わせが行われます。
三島神社参集 2:23
舞児還し 13:52
乱曳き(森地区) 30:14
帰町(凱生社:屋台格納) 58:17
祭礼のある森町(もりまち)はかつて秋葉山(秋葉神社)参詣の宿場町であったほか、河川舟運の拠点として、また江戸時代には相場に大きな影響を持つほどの古着市場で栄えていました。この経済的背景をもとに江戸時代後期には庶民による山車祭りが始まっており、現在の「森のまつり」は町中心部の「三島神社」の氏子区域と、その周辺の地区との合同祭礼として拡大しています。最終日(三日目)には御旅所である「金守神社」からの還幸と「舞児還し」と呼ばれている祭礼に奉仕(奉納演舞)した子供(舞児)を神社から自町まで送り返す行事が主に行われています。
映像は最終日の夜の巡行の様子を中心に構成しています。各町の祭式の大半が終了して、「舞児還し」を控える場面から始まります。各町から選出された舞児は、三島神社での「舞児還し式」に参列(一般者は観覧不可)し、その後屋台に乗せられてそれぞれの町内に帰ります。町内では総出で舞児を出迎え、感謝や慰労の口上と万歳三唱とともに式典は終わります。「舞児還し式」の出立から自町の式典まで、舞児は地面に足をつけてはならないしきたりで、屋台の乗り降りの場面では若衆(青年団)が担ぐことになっています。このしきたりは同地域にある天宮(あめのみや)神社の例大祭(国重文)の若衆「天社轂(てんしゃこく)」が行っていたものを大正時代に三島神社でも取り入れたいきさつがあり、以降森町や袋井市一帯で同様の「舞児還し」が行われています。
「舞児還し」の後、屋台は森町の中心部に再度繰り出し、乱曳き(実際は行路が指定されている)となります。屋台が練り進み、各場所で手木合わせが行われます。
三島神社参集 2:23
舞児還し 13:52
乱曳き(森地区) 30:14
帰町(凱生社:屋台格納) 58:17
มุมมอง: 255
วีดีโอ
【磐田市】 掛塚まつり 夜巡行
มุมมอง 181หลายเดือนก่อน
静岡県磐田市の南西部、掛塚の「掛塚まつり(貴船神社例大祭)」です。 天竜川河口に位置する掛塚は天竜川舟運の終点として、また大坂と江戸を結ぶ 船の中継地として大きく栄えた時代がありました。鎮守の貴船神社は治水と航海安全の神様として崇められ、船舶・ 船業と深い関わりがみられる祭礼です。(一般の方が直接見ることはできませんが、神輿の中には船(フタナリ船と呼ばれる大型和船を模したもの)が納められている) 映像は本祭で、神社に神輿が到着する(着輿)の場面から始まります。掛塚地区では昭和30年(1955)に天竜川に現行の掛塚橋が架橋されましたが、それと同時に国道150号が集落を東西に横断するかたちとなり集落が南北に分断されました。以降、祭礼では供奉する山車は神社まで戻らず、参道南側で解散することが大半となっていました。今回、かつてのように神社に戻るかたちが予定されていましたが、当日の諸事情に...
【香取市】 佐原の大祭 秋祭り 最終日
มุมมอง 606หลายเดือนก่อน
千葉県北東部、香取市で行われる国指定重要無形民俗文化財・ユネスコ無形文化遺産の「佐原の大祭」です。この「佐原の大祭」とは国選定伝統的建造物群保存地区でもある川湊「佐原」の夏祭り(本宿八坂神社祇園祭)と秋祭り(新宿諏訪神社秋季例大祭)の総称で、川越氷川祭(埼玉県、川越まつり)・常陸國總社宮大祭(茨城県、石岡のおまつり)とともに関東三大祭の一つにも列挙されています。 映像は秋祭りの最終日の巡行の様子で、佐原中心部を流れる小野川をはさんだ西側一帯(新宿地区)に14台の山車が曳き されます。神輿は初日(13日)に御旅所まで渡御しており、最終日(15日)のこの日に還御となっています。御旅所の位置は毎年異なり、今年は香取駅近くに設営されています。山車(弊台)は神輿に供奉することなく別行動していますが、神輿列が山車に近づいた場合は、囃子演奏と曳き しをやめて低頭しその通過を待つかたちとなってい...
【香取市】 佐原の大祭 秋祭り 中日
มุมมอง 546หลายเดือนก่อน
千葉県北東部、香取市で行われる国指定重要無形民俗文化財・ユネスコ無形文化遺産の「佐原の大祭」です。この「佐原の大祭」とは国選定伝統的建造物群保存地区でもある川湊「佐原」の夏祭り(本宿八坂神社祇園祭)と秋祭り(新宿諏訪神社秋季例大祭)の総称で、川越氷川祭(埼玉県、川越まつり)・常陸國總社宮大祭(茨城県、石岡のおまつり)とともに関東三大祭の一つにも列挙されています。 映像は秋祭りの中日の夜の巡行の様子で、佐原中心部を流れる小野川をはさんだ西側一帯(新宿地区)に14台の山車が曳き されます。今年は年番引継等特別な行事のない年で、開催期間中はすべて「乱曳き」となり、同じ北総地域の「佐倉の秋祭り(佐倉市)」と日程が重なるなど、土曜日夜の様子としてはやや人出が少ない印象を受けました。 夜支度(上宿通り) 1:18 のの字 し(下川岸) 15:53 のの字 し(上宿) 30:34 川岸通り(...
【掛川市】 八坂神社祇園祭 大祭
มุมมอง 774หลายเดือนก่อน
静岡県掛川市の南部、中地区の「八坂神社祇園祭(県指定文化財)」です。かつて中(なか)という村(中村四ヶ郷)であったため、神社は「中八坂神社」や「中村祇園社」、「中村のお天王様」などの呼称もあります。夏に行われるべき祇園祭が、秋の時期に行われる(明治以降秋に移動)のは農村地帯で農閑期に行わざるを得なかった事情があるようです。 映像は大祭(本祭二日目)で、御旅所での祭式(例祭行事)を終え、八坂神社に還御する(旧暦時代は6月14日)様子です。神幸列には「貞享」や「元文」など江戸時代中期に奉納された大幟が連なっており、中村四ヶ郷に統廃合される前の地名(海戸村・大石村)や神仏混淆を想い起こす「祇園牛頭天王」など歴史を感じさせるものとなっています。 この祭礼では山車の進行を司る役として警護(警固 けご)の姿も遺っています。現代の祭礼では無線や電話で状況確認しながら進行することが多いのですが、この...
【掛川市】 ちいねり 夜巡行
มุมมอง 340หลายเดือนก่อน
国選択無形民俗文化財となった静岡県掛川市横須賀地区の「三熊野神社大祭の祢里(ねり)行事」似とよく似た秋の小祭り「ちいねり」です。実態は横須賀地区の各町内の鎮守である水神宮、軍全坊神社、愛宕神社、松室神社などの合同祭礼です。かつては各神社の例祭時期はまちまちで子どもが竹の棒を担ぎ、それをたたいて回ったかたちでしたが、昭和40年代以降に三熊野神社の春の大祭と同じような様式に変化しました。変化後も子ども主体の祭礼として引き継がれており、準備、太鼓の指導から当日の祢里の運行に至るまでも、中学生以下の子どもたちだけで行います。 各町内は春に行われる三熊野神社大祭の祢里(山車)と、もう一つちいねり専用のやや小型の祢里保有しており、祭礼当日は春の13町とさらに1町(南番町)を加えた合計14台の小ぶりな祢里が登場します。 松室神社 0:54 愛宕神社 1:38 軍全坊神社 5:56 スンエン電気前 ...
【掛川市】 事任八幡宮例大祭 夜巡行 (令和6年版)
มุมมอง 134หลายเดือนก่อน
静岡県掛川市東部の縣社「事 八幡宮(ことのままはちまんぐう)」の例大祭です。御祭神は己等乃麻知媛命 (ことのまちひめのみこと)と八幡三神で、「ことのまま」の名称が「願い事が意のままに叶う」として古くから知られており、神社が式内社で旧東海道沿いに鎮座することからも、多くの道中記・紀行文に登場しています。 遠州(遠江国、静岡県西部)に秋を告げる祭礼として、地元では「日坂(にっさか)の祭り」の名称でも親しまれている祭礼です。この名称で呼ばれる理由は日坂が旧東海道の宿場町として知名度があるためですが、この祭礼は厳密には「八坂」と「日坂」両地区の祭礼で、合計8台の山車が巡行します。 山車は遠州ではおなじみの二輪屋台で御所車型の系統です。この祭礼の山車は「日坂型(アサガオ屋台)」として区分もされており、御所車型のなかでも特に古い様式とされ、遠州の二輪屋台のはしりである「一本柱万度型(祢里(ねり...
【桑名市】 桑名石取祭 本楽
มุมมอง 2.4K5 หลายเดือนก่อน
三重県北部、桑名市に鎮座する縣社「桑名宗社(俗称:春日神社)」の「石取祭」です。 桑名宗社の例祭のひとつである「比与利祭」から江戸時代に独立して行われるようになった祭礼で、国指定重要無形民俗文化財・ユネスコ無形文化遺産になっています。近くの町屋川で石を拾い(石取り)、奉納する(献石)することから石取祭と呼ばれ、現在では周辺地域でも石取祭が行われていることから「桑名石取祭」として呼び分けられています。派手に鐘と太鼓を打ち鳴らす様から「日本一やかましい祭り」としても知られています。 映像は本楽で、「渡祭」と呼ばれる山車(祭車)が順に神社で囃子を奉納する祭式が見どころとなっています。私自身としては例祭から独立したいきさつや、拝殿に並列している二社(桑名神社・中臣神社)の構造、複数の神紋など、この石取祭を見るだけでは不可解な点が多い不思議な神社・祭礼の印象を受けました。 山車の巡行では地域の...
【津島市】 尾張津島 天王祭
มุมมอง 1065 หลายเดือนก่อน
愛知県西部、津島市の「尾張津島天王祭(津島祭)」です。 津島は木曽三川(濃尾平野を流れる木曽川、長良川、揖斐川の3つの川の総称)の下流域に位置し、古くは「津島湊」の名で物流の集積地として、また「津島神社」の鳥居前町として栄えていました。 津島神社は全国に約三千社ある津島神社(天王社)の総本社で、京都の八坂神社と並び「東の天王社、西の祇園社」として「牛頭天王信仰(祇園信仰)」の中核に位置付けられています。 この天王祭は600年余りの歴史を持ち、国指定重要無形民俗文化財・ユネスコ無形文化遺産となっています。また厳島神社「管弦祭」・大阪天満宮「天神祭」と並ぶ「日本三大川祭」としても知られている祭礼です。かつて旧暦の6月14日・15日を中心として行われてきましたが、昭和38年に新暦の7月第4土曜日 (宵祭)と翌日の日曜日(朝祭)に変更されました。宵祭には津島の5つの地区の車楽舟(津島五車:木...
佐原の大祭をアップしていただきありがとうございます! 主様の守備範囲の広さに驚きました。 ぜひ、またおこしください。
戸畑祇園山笠最高ですしびれます
遠州の祭りで夜ろうそくを使って明かりを灯すところは掛塚と日坂だけですね!浜松祭りとか福田などの祭りみたいに電気を使う方が提灯燃えたりする心配がなくていいですがろうそくを使って提灯を付けると屋台が優しいろうそくの灯りで幻想的になりますよね!
アンダーパスげんた君が、おるー😱
桑名っ子はこの1年を楽しみに待ってます。 石取囃子は子守唄です。
これぞ‼️猛暑‼️ザ❗真夏‼️三重県桑名市 石取祭❗数40祭車❗三日三晩‼️👍伝統だ‼️
令和六年度は9月13〜15日です。 よろしくお願いします。
来年の競演会の件は 今年のうちから役所と 打ち合わせをすること 山笠関係者だけの祭りではない ユネスコ無形文化遺産の名が泣く
200年以上の伝統を繋いでいかれてる皆様に敬意を感じます。
私今年から若者連合に入ることになったんですが東町の竹馬という磐田市の文化財に指定されたのをきっかけに竹馬にまつわる興味深い話を聞いたのでお聞かせします! そもそも掛塚の竹馬の由来は神馬を引き出す習俗とササラで渡御の道を祓い清める習俗とが合体して竹馬と呼ぶようになったんだそうで竹馬というのは本来竹馬が持っている(バレン)を意味しているようです、バレンの長さ12尺(3.6メートル)あって持ち手の部分は轡のようになっていて轡を着けた馬を表していると聞きました、それから隣の白羽祭りで見る天狗とおかめが御渡りのお供をしていますが白羽の天狗は矛を持っていて(ぼっこ)と呼んでいましたが古老の方の話では白羽の天狗も竹馬と呼んでいまして実はかつての掛塚祭りでもおかめが御渡りのお供をしていたんだそうで私が虫干しの休憩時間に公会堂内で虫干しされていた天狗の衣装を見ていた時に箱の中におかめの面が入っていたのを話の中でおかめが出て来た時に思い出しまして興味深い話が聞けて大変興奮しました!貴船神社の大祭で天狗の記録が出て来るのは古いもので天保の時代の記録あると伺いましてまた神楽箱に乗っている獅子頭もその昔神前で舞っていたとどっかのサイトで見たことがあります、新田町(現在の東町)には竹馬とおかめがいたもののいつから竹馬だけが御渡りのお供をするようになりなぜおかめだけやらなくなったのかが不明で東町のおかめがもし今日まで残っていたら白羽のおかめとは違った衣装でどんなものを持っていたのかと想像をしてしまいます!
筑前 戸畑 ここは、小倉藩でなく福岡藩ですね。 北九州市=小倉と思っている方が多いですが、旧五市それぞれに、固有の文化、祭りがあります。😊
小天は競演会でるんですか?
よっさーよっさ 糸田祇園も同じ掛け声でお囃子も似てますね
途中、おおたろう囃子でワープ 伝統変わった
素晴らしい動画
話を聴かない役所も悪い
西です!競演会8基揃わないのめちゃくちゃ寂しいです😢😢大登り、大下りも天籟寺は不参加なんですかね?😢
そーですね。
参加しないの競演会だけじゃ無いんですか?
小之座は❓
@@iwasana75 2000年迄ですよ🖐七切螺鈿✌
自慢ちゅぬちょうちん山笠🎉
コメントありがとうございます。 「うちの提灯山が一番やけんね!」 と勝手に解釈させていただきました。 幟山の良さもあるんで甲乙つけがたいですね!
ピ-スボ-ト🎉
コメントありがとうございます。 「言葉にならんくらい、素晴らしいでしょ!」 と勝手に解釈させていただきました。
🙆♀️
コメントありがとうございます。 「あの暑さのなか、前夜祭の一日を追い続けた素晴らしい作品です!」 と勝手に解釈させていただきました。
一斉車切〜以前は昼間も行われてました🖐
コメントありがとうございます。 昼間の車切となると、天王通り上ということでしょうか。 坂下ろし(車切落とし)される山車もあるので、神社参集の時間が今以上にかかったでしょうね。 情報ありがとうございます。
@@iwasana75 はい天王通りでした! もともとは2005愛・地球博で行われたのを地元でやる様になったんですよ🖐
やっぱ僕は呉服町が1番好きだなぁ
東町の神楽箱は今では台車に乗せて運行していますが昭和の時代に撮られた掛塚祭りの写真を見ると神楽箱を数人で担いで運行していました。
コメントありがとうございます。 昔は神楽箱に限らず太鼓も幟も御船も神輿もみんな担ぐなり、持つなりしていたんでしょうね。道路が舗装されたことで台車による効率化が図られたと思われます。 学術的に言えば山車自体、原型は練り物の「担ぎ山」として担がれていたものの、巨大化したことでやむなく車輪がついたわけですから。 そう思うと、博多や戸畑の山笠の方々は、昔からのやり方をきちんと受け継いでいる、ということになりますね。
掛塚祭りの天狗は竹のバレンを持っているので(竹馬)と呼び、白羽地区の天狗は矛を持って追っかけて来るので(ぼっこ)と呼んでいて面の作りも異なるので白羽地区の祭りにも興味があったら見に来てみて下さい!
5年前、私は初めて「掛塚まつり」を見ました。初めてなのにすんなり撮影できて、編集もスムーズ、おかげさまで再生回数も1万5千回(2023年12月現在)を超えて、私の静岡県下で撮影した祭礼で最も再生されています。”なぜだろう?”と理由をいろいろ考えて、自分なりに出した答えが”一年前に「唐津くんち」を見たから(今年になって本祭の夜の曳き込みの有無も関係していることに気づきましたが)”でした。掛塚は四輪の山車、砂地での巡行、山車の舵取りなど唐津と類似点の多い祭礼だと感じています。感染症の蔓延で山車巡行が中止されていた数年前、コメント欄に地元の方々からの投稿が続いたことで、改めて由緒などを調べるようになりました。この頃に「掛塚まつりの謎(判然としない山車導入期)」を知り、唐津と掛塚を結ぶキーワードが「水野忠邦」であることに辿り着いています。
今年の公共放送の大河ドラマは「徳川家康」をテーマにした物語でした。家康が浜松に長く居城を構え、後に天下人となったことで浜松城が「出世城」として名を馳せ、その後も浜松藩主が幕府要職に就いたこともあり、浜松市は『出世の街 浜松』として売り出しています。浜松市では、さまざまな媒体でこの”出世”をアピールしていますが、浜松藩主としては最も出世したであろう「水野忠邦」の紹介のしかたがあまりに淡々としていたことで違和感を覚えました。忠邦は幕府の立て直しとして「天保の改革」を行ったものの、うまくいかず失脚した程度は頭にありました。”教科書に載るほどの有名人ならだいたいヨイショするのに…””田沼意次とかでも地元(牧之原市)では良君と慕われていることが多いのに…”この違和感から浜松視点で水野(忠邦以降)治世を調べてみると増税と倹約令が続く領民にとって不遇の時代であったこと、念の為唐津の水野(忠邦以前)治世も調べてみると同じ様相が垣間見えます。どちらも藩下で一揆が起きるほど酷い時代で、浜松藩下の一揆は「弘化三年(1846)の一揆」として地元中学校の郷土学習副読本に掲載されるほどのものです。なぜ領民に増税と倹約令を押し付けたのか、その理由のひとつが忠邦自身の出世のための政治資金集めでした。
■ 唐津くんちと掛塚まつりの共通・類似点について(→印は個人的な推測) 【立地が同じ(河口・砂地)】 唐津:松浦川河口 掛塚:天竜川河口 【神社の縁起がどちらも漂着伝説】 唐津:西の浜に光るもの(鏡)が流れ着いた 掛塚:前浜(遠州灘)に白く光るもの(神符)が流れ着いた(津島神?) 天竜川の氾濫の折、津島神社に白く光るもの(竹)が流れ着いた(貴船神?) 【藩主水野家の存在と、やり手の忠邦公】 唐津:〜文化14年(1817)、強引な政治工作で幕府入閣を狙い、異例の国替えに成功 掛塚:文化14年(1817)〜(浜松藩)、幕府領である掛塚湊の囲い込み(利権獲得)に奔走 →政治資金調達最優先で唐津藩・浜松藩ともに藩財政が逼迫。領民には増税と倹約を推奨し、不人気な領主。 【祭礼の拡大のため、従来(庶民・農村型)の祭礼に後付け(官製・都市型)の祭礼を上書き?】 唐津:唐津神社(藩の祈願所の性格)御神幸に別の神社(大石神社:水主町、船乗りの町の鎮守)の神輿が参列 掛塚:貴船神社御神幸の目的地を天王(津島神社)仮屋と表記する古地図(天竜川御普請絵図:文化12年(1815)) →参列の「神楽」は伊勢湾北岸に多く見られる「獅子屋形(神楽屋形)」であり、津島神社御神幸列の名残りの可能性。宝暦11年(1761)に新町の御座船(明神丸・練り物)を導入し、祭礼目的が天竜川の水害除け(津島神)から水害除けと航海安全(貴船神)に拡大変化。廻船問屋が地域の実権を握る(庄屋・名主の役割)。 貴船神社による「国の大祓(文化13年・1816)」の開催(遠州一帯に漂う悪霊や災厄を大河(天竜川)に流し清めてしまおうという行事) →忠邦、貴船神社(神主:関大和)ともに国学に熱心。当時の貴船神社は祭礼の力で世の中をなんとかしたいという思いが強かった。大祓としているので、6月末または12月末に開催した可能性が高く、6月であれば祇園・天王祭との関連も。 【練り物・傘鉾の巨大化と山車導入の時期・背景】 唐津:木綿町(きわたまち)の仁王・塩屋町の天狗などから巨大化。一番曳山の「赤獅子」は文政2年(1819)制作 →水野家の治世で起きている「虹の松原一揆(明和8年・1771)」や政治工作(藩領の一部を幕府領に転換)など領民の不満を逸らすための藩による懐柔策。あるいは領民自身が不人気だった水野家転封(文化14年・1817)のお祝いとして企画した可能性(唐津神社は藩の祈願所でもあるので懐柔策の可能性が高いが、浜松では山形転封の喜びで領民がお祭り騒ぎした記録がある)。 掛塚:新町の御座船(明神丸)から船形山車・船だんじりに発展。現存最古の山車(大当町)は嘉永6年(1853)以前に建造 →地域主要産業(廻船・造船業)の振興。湊(幕府領・中泉代官所管内)の利権獲得のために水野浜松藩が接近・介入。唐津から浜松の国替えで、これまで参勤交代等で使用していた御座船は不要・規模縮小となり、政治資金調達のため払い下げ。
■ 当初の掛塚屋台が”山車が大きく重かった”という伝承(出典不明)の推察 ①新規に造るのであれば、街路の寸法や砂地での巡行条件は分かっていたはず。また大き過ぎた、重過ぎたのであれば都度改良すれば良いのに、それをしなかったのはなぜか。 ②江戸時代末期に多くの山車が一旦消えて、その後形状変化させたのはどうしてか。 →①水野家の提案で御座船を拝領(または有利な条件で払い下げ)し、それをもとに山車にしたので改造の規模に制限があった。幕府要職を務める水野家の顔を立てるため、多少の不便さには目を瞑った。 ②忠邦失脚後、印象悪い水野家ゆかりの山車を使い続けると襲撃対象になりかねない、また周辺地域(特に浜松方面の親類縁者)や取引先(江戸や天竜川流域)の目を気にして破却せざるを得ない状況で、地域を守るため水野色を消す必要があると考えた。
以上を踏まえた「掛塚屋台の源流(当初の掛塚屋台)が唐津藩(水野家)の御座船」説のまとめ 水野忠邦は従来の祭礼をより大規模で盛大な祭礼行事として行うことで地域振興を図った。ただそれは表向きの理由で、実際は政治への不満を逸らしたり、地元商人等有力者の囲い込み(利権獲得)と、政治資金の調達を狙った。度重なる増税と倹約令、天保の改革の失敗、江戸屋敷の投石騒ぎ、浜松藩下での借金踏み倒し騒動(弘化三年の一揆・打ち壊し)など、各方面に印象が悪いまま山形に転封したことは、後の山車(掛塚屋台)の形状変化の一因となった。当件は地域のタブーとして取扱われ、水野家に関わる資料一切を消し去ってあいまいな噂(口伝)だけが残った…というストーリー。 ※貴船神社に残る能面11面(文化2年制作)は数少ない水野時代を偲ぶもので、当時の神主である関大和が国学つながりで入手したもの、あるいは水野浜松藩との借金の形とか寄付金の返礼品であった、という見方もできる。また、これらの能面を使い山車の上で演目を行ったことで、掛塚屋台(山車)のことを「本舞台」とか「曳舞台」とか言うことになった(山車を仮設舞台・移動舞台として使用していた)…という筋書きもできる。
『掛塚まつりの謎』について 掛塚まつりは、あえて「掛塚屋台まつり」と言われるほど”屋台(山車)”で名が知られています。湊町掛塚ならではの「担ぎ山(かつぎやま)」「走り山(はしりやま)」であった「新町の御船(明神丸、宝暦11年(1761)奉納」がその原型となることは学術的にほぼ間違いないのですが、これをもとに大きくなったであろう当初の屋台が江戸末期に一旦姿を消したとされています。 現存する最も古い大当町の屋台は嘉永6年(1853)以前の建造とまでは推定されているのですが、はっきりした時期は不明(一説に寛政10年(1798)製作)です。祭礼や地域に関する古文書・資料の多くは明治の大火等で失われ、掛塚まつりの拡大(山車導入)期は謎に包まれています。 私は当初の屋台は弘化3年(1846)前後に姿を消したと類推しています。そこには掛塚にある人物が大きく関わったと考えているからです。私の投稿した唐津くんちや掛塚まつりの動画のコメント欄に書き連ねていますので併せてご覧ください。
掛塚東町の竹馬が文化財に指定されたというので令和6年度版の掛塚祭りを撮りに来て欲しいです!私は今年の祭りで若者連合の一員として祭りをがんばりたいと思います!!
下中町区は素晴らしい山車ですね。 大人形も代々まで継いで行ってもらいたいです。
コメントありがとうございます。 下仲町区の山車は佐原で現存する最も古い(文政5年(1822)制作)もの。唐津くんちの赤獅子、青獅子と同年代ですね。 最終日の動画には、夜の佐原の街を巡行する下仲町区の山車を収めています。よろしかったら、そちらもご覧ください。
お尋ねします。 中東遠(遠州の中東部)では一本柱万度型などの二輪屋台が主流ですが、中地区を中心とした一帯では、夜装で花(おそらく牡丹)の図柄が入った提灯を掲げています。 祇園社・天王社(八坂神社・津島神社)の神紋である木瓜紋、満勝寺(日蓮宗)の宗紋である橘紋とも異なります。牡丹柄の提灯は盆提灯のイメージが強いので、かつての徳川武田の大規模攻防戦(高天神城争奪戦)の弔い(北西側隣接地区に千人塚)とか、当初の開催時期と一帯が農村地帯であることから「虫送り」の風習が関係するような気もします。 花柄提灯の意味は何なのでしょうか。
提灯が牡丹の図柄の理由はまず、満勝寺を開山したのが京都本満寺の日秀上人という人でこの人は近衛道嗣の嫡子です。そのため満勝寺が建てられた時に近衛の資格と10万石の領土を貰い、満勝寺は近衛家の家紋である近衛牡丹を使っています。そして明治以前の中村八坂神社祇園祭は神仏習合で主祭は満勝寺でした。なので満勝寺の象徴である近衛牡丹をモチーフにして提灯に牡丹の絵柄が使われています。
お返事ありがとうございます。 牡丹柄は満勝寺固有の寺紋に由来する、ということですね。映像をよくよく見ると本堂の屋根瓦の意匠にも牡丹らしきものがありますね。
「高天神を制するものは遠州を制す」の意味も理解できたような気がします。 堅固な山城だからという地形的理由だけでなく、あの立地が満勝寺(日蓮宗)をはじめ貞永寺(安国寺:臨済宗)、尊永寺(真言宗)、遠州の熊野三山(熊野信仰)などの遠州の基幹寺社に目が届きやすい位置・距離なので、間接的に遠州中央部一帯(旧笠原荘やその周辺部)を支配できたという理由もありそうです。
@@iwasana75満勝寺参拝の時に和尚さんの両隣に檀家さんが1人ずついたと思いますがその檀家さんが持っていた提灯に近衛家の家紋である近衛牡丹が描かれているのでもし、撮られていたら確認してみてください。
@@iwasana75 満勝寺は格式が高かったです。そのエピソードとして江戸時代、横須賀城主が参勤交代をしてる時に中村では祭りを行っていました。土曜日の日で海戸村【現高塚と東大坂の東側部分(昔は公文、大石、毛森、下方、海戸の5か村で行っていた)】に向かっている時に横須賀城主が通りました。中村の祭りは太鼓を止めてはいけないため、台(山車、練裡)の上から見下す形になり、それに横須賀城主は怒りました。人々は満勝寺に逃げ込み、助けを求めました。横須賀藩8万石に対して満勝寺10万石と満勝寺の方が位が高かったため、和尚さんがその場を治め、城主を帰したと言われています。そのことで土曜日は満勝寺に感謝の意味で参拝するようになりました。
練り込みのリズムが好きです
コメントありがとうございます。 場面場面で趣きありますね。
そういえば、毛森の林惣平さんが好きで、毎年聞いていました。
めっちゃ上手かったらしくて伝説の人ですね。
コメントありがとうございます。 囃子方の名人なんですね。
やっぱり、伝統のある祭りはすごくて、趣もありますね。ぼくは、毛森と公文のお囃子が好きです。
コメントありがとうございます。 小規模ながらも県指定文化財だけあって、裃姿の警固やその口上が印象的ですね。
下仲町の最後の映像は素晴らしいですね。このアングルから撮影しているのには感動しました。
コメントありがとうございます。 地元北総の方でしょうか。お褒めの言葉ありがとうございます。 佐原の大祭は初めてで、夜の撮影では金曜は比較的動けたものの、土曜は人混みが酷く断念していました。ただ、最終日の終い砂切はどうしても見ておきたかったので神輿年番の下仲町に定め、山車の出発から追いかけたものです。 出発が遅れたことや最終日で人出が早く落ち着いたことも幸いしました。
私二俣祭りです
私二俣祭り
懐かしい😊 むかし天籟寺に住んでいました あの頃の暑い夏を思い出します
コメントありがとうございます。 今日の天籟寺は晴れ、蒸し蒸しした暑さのなかで山笠が巡行されています。
祢里(ねり)はお祭りの神輿や山車の行列が「練り廻す」「練り歩く」様子を表す練りから転じて、 祭りにでる山車(練り物)その物の名前になったんでしょうか?
コメントありがとうございます。 山車(曳山・山笠などを含めて)のことを「ヤマ」と呼ぶ地域が多いなか、遠州(静岡県西部)では「屋台」と呼ぶことが一般的です。遠州で祭礼の屋台の話をすると、その意味が”山車のこと”なのか”露店のこと”なのか混乱するのはあるあるです。それなのに遠州の祭礼で山車の導入が最も早かった横須賀では山車全体(二輪屋台)を「祢里(ねり)」と呼び、山車の一番上に据える人形などの部分を「だし」と呼び分けています。不思議です。 文化資源学会のサイトにはKomatsu / コマツさんの意見同様に祢里とはもともと”出し物行列”の意味で使われていたのではないか、との私見が掲載されています。折角なのでこのコメントに続いて地元の方々のご意見も待ちたいと思いますが、この祭礼は重要無形民俗文化財の国指定に向けて調査研究が続けられており、関係者への聞き取りや古文書の調査から袮里のおおよその起源・意味が近々まとまるのではないかと思います。 ちなみに同じ遠州で四輪屋台の発祥地、掛塚(磐田市)では「本舞台」とか「曳舞台」という別称があります。
去年の掛塚祭りは自町だけで屋台を引いて御仮屋への御渡りだけ威勢良くやりましたが2023年10月まではまだまだ先ですが貴船神社に屋台が揃って昔のような掛塚祭りをやって欲しいですよ!
これくらいがちょうどいいわー 岸和田?とかその辺のあの大人が 猛スピードでやるやつはマジで死人出る
小石山笠?32:50 |
初めて大上り(天籟寺地区巡行)を見に行った5年前、ある担ぎ手の方が若松の小石や佐賀の多久にも提灯山があるんだよ〜と、戸畑祇園についていろいろ教えていただいたことを思い出します。
8:00 天津祝詞かと思ったら須賀大神(素戔嗚神I)への祝詞。安全祈願してるね
コメントありがとうございます。 祝詞のことでどんなお返事差し上げようか考えあぐねていたら、晦日を迎えて「おついたち」のことが頭に浮かびました。 神社によっては深夜0時を迎えると同時に御祭典(御祈祷など)が始まります。「朔日詣り」とともに「奥之宮八社巡り」をしたことや、帰りに「松ヶ枝餅」や「朔日餅(一の餅)」を買い求めたことを思い出しました。これまでの神恩感謝とこれからの御加護を願う多くの方々の姿が印象的でした。
祭りはやるもの お囃子を聞いて育った私も今は見るだけでとても寂しく思います😭父の作った屋台に逢いに今年も来てますよ❗親父も側にいてくれるよね😃
コメントありがとうございます。 3年ぶりに平年通りの開催とのこと、御祭礼おめでとうございます。 私も日頃の嫌なことや辛いことから離れて、何かに守られたいとか包まれたい想いのなか、祭礼のその日を過ごしていたんだと思います。 今日は満月、出雲では各地の神様が集まり、私たちの”しあわせの縁”の話し合いをなされているそうです。
懐かしい!
コメントありがとうございます。 なかなか平穏な生活に戻りませんが、この動画が少しでも癒しになれば幸いです。
今は県外就職して現地に行けてないけど中学生のころ小中で祭典やってた頃が懐かしい
コメントありがとうございます。 撮影から3年経ちますが、今でもこうしてコメントいただいたり、再生回数が伸びていることを思うと、いまだお役に立ているようでうれしく思います。
最後の方で天籟寺の「ヨッサーヨッサ」のお囃子が聞けて良かったです。私の住んでた70年代の天籟寺はこのお囃子のイメージでした。
コメントありがとうございます。 天籟寺ならではの「大上り」ですね。懐かしんでいただけて何よりです。 今年の天籟寺は当番山、同時に幕類の新調を予定しているとのこと。見送り幕の柄が「牡丹に唐獅子(唐獅子牡丹)」から、かつての「八岐大蛇退治(須佐之男命)」の柄に。 須佐之男命は祗園祭の由緒に大きく関係する神様です。今年が疫病平癒の解願となるよう、切に願います。
撮り方好きです
嬉しいコメントありがとうございます。 初めてご覧になる方でも、街の雰囲気とか、段取りなどがなんとなく理解していただけるよう心がけています。旅行者の目線で構成している感じでしょうか。 私は子供の頃、同級生らが手木で騒ぐとか台上がりとか、目立つ姿を遠目に見ている性格でした。山車の脇とか後ろで、どちらかというと地味な仲間らとついて歩いているタイプ。その性格も映像の個性として反映されてしまっているような気もします。
今年は夜祭に行きたいけど、帰りが虚しくなるから、この動画を観て余韻に浸ろうかと思います。津島秋祭りは、死ぬほど素晴らしいですね。
コメントありがとうございます。 秋祭りの賑やかさとか天王祭の静々とした船の姿とか、鬼夜にも似た開扉祭の様子とか、同じ津島神社に関わる祭礼でもそれぞれに趣がありますね。 「夜の山車まつり」のタイトルで動画をアップしていますが、最後の山車蔵のシーンにどこか虚く感じる場面があります。想いはみんな同じなんですね。
子供めっちゃカメラ目線笑笑笑
コメントありがとうございます。 カメラを構えた高さがたまたま子供の目線と同じになりましたね。3年もの時が経てば、この子たちの姿もずいぶんと成長した姿になっているのでしょうか、機会あればまたくんちに行ってみたいです。