【磐田市】 掛塚まつり 本祭 (令和5年版)

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  • เผยแพร่เมื่อ 20 ธ.ค. 2023
  • 静岡県磐田市の南西部、掛塚の「掛塚まつり(貴船神社例大祭)」です。
    天竜川河口に位置する掛塚は天竜川舟運の終点として、また大坂と江戸を結ぶ廻船の中継地として大きく栄えた時代がありました。鎮守の貴船神社は治水と航海安全の神様として崇められ、御仮宮(御仮屋・御旅所)の大幟に「当湊 船長中」とあるのはその名残りですが、ほかにも神社に帆船模型(明治期に活躍した西洋帆船)が奉納されていたり、御輿列には御船(おふね:和船の御座船「明神丸」、宝暦11年(1761)奉納)や「廻船長久」「渡海安全」「順風自在」の幟が進むなど船舶・廻船業と深い関わりがみられる祭礼です。(一般の方が直接見ることはできませんが、神輿の中には船(フタナリ船と呼ばれる大型和船を模したもの)が納められている)
    冒頭の猿田彦(天狗)は地元で「たけんま」と呼ばれ、「バレン」と呼ばれている竹を使い辻と街路を清め進む役割を担っています。映像前半に(工業団地に向けて)一方向だけ清めるシーンがありますが、そこはかつて集落の外れで天竜川流路(東派川)があったことをもの語ります。「バレン」は貴船神社縁起に関わる神聖な竹であり、昔の神幸列では「たけんま」とともに神輿のすぐ前に連なっていましたが、巡行時間の短縮化を図るために平成以降は先頭を進むようになりました。また昭和30年(1955)の掛塚橋(現行)と国道150号の整備以降、供奉する山車は神社まで戻らず、参道南側で解散することが大半となっています。これも国道横断の手間と巡行時間の短縮化(22時までに制限)が大きな原因です。山車が神輿に連なって神社に戻る本来の形式のものは昭和30年に途絶えて以来、平成23年(2011)に58年ぶりに復活しているのですが、その後も断続的となっており、今回も参道南側での解散となっています。
    たけんま(竹馬) 0:22
    神輿渡御  11:26
    宮出し 21:24
    御仮宮(御仮屋・御旅所) 41:23
    夜支度 1:08:58
    手打式 1:16:04
    ※撮影後半で機材トラブル(三脚部品脱落)が発生しています。

ความคิดเห็น • 8

  • @iwasana75
    @iwasana75  7 หลายเดือนก่อน

    5年前、私は初めて「掛塚まつり」を見ました。初めてなのにすんなり撮影できて、編集もスムーズ、おかげさまで再生回数も1万5千回(2023年12月現在)を超えて、私の静岡県下で撮影した祭礼で最も再生されています。”なぜだろう?”と理由をいろいろ考えて、自分なりに出した答えが”一年前に「唐津くんち」を見たから(今年になって本祭の夜の曳き込みの有無も関係していることに気づきましたが)”でした。掛塚は四輪の山車、砂地での巡行、山車の舵取りなど唐津と類似点の多い祭礼だと感じています。感染症の蔓延で山車巡行が中止されていた数年前、コメント欄に地元の方々からの投稿が続いたことで、改めて由緒などを調べるようになりました。この頃に「掛塚まつりの謎(判然としない山車導入期)」を知り、唐津と掛塚を結ぶキーワードが「水野忠邦」であることに辿り着いています。

    • @iwasana75
      @iwasana75  7 หลายเดือนก่อน

      今年の公共放送の大河ドラマは「徳川家康」をテーマにした物語でした。家康が浜松に長く居城を構え、後に天下人となったことで浜松城が「出世城」として名を馳せ、その後も浜松藩主が幕府要職に就いたこともあり、浜松市は『出世の街 浜松』として売り出しています。浜松市では、さまざまな媒体でこの”出世”をアピールしていますが、浜松藩主としては最も出世したであろう「水野忠邦」の紹介のしかたがあまりに淡々としていたことで違和感を覚えました。忠邦は幕府の立て直しとして「天保の改革」を行ったものの、うまくいかず失脚した程度は頭にありました。”教科書に載るほどの有名人ならだいたいヨイショするのに…””田沼意次とかでも地元(牧之原市)では良君と慕われていることが多いのに…”この違和感から浜松視点で水野(忠邦以降)治世を調べてみると増税と倹約令が続く領民にとって不遇の時代であったこと、念の為唐津の水野(忠邦以前)治世も調べてみると同じ様相が垣間見えます。どちらも藩下で一揆が起きるほど酷い時代で、浜松藩下の一揆は「弘化三年(1846)の一揆」として地元中学校の郷土学習副読本に掲載されるほどのものです。なぜ領民に増税と倹約令を押し付けたのか、その理由のひとつが忠邦自身の出世のための政治資金集めでした。

    • @iwasana75
      @iwasana75  7 หลายเดือนก่อน

      ■ 唐津くんちと掛塚まつりの共通・類似点について(→印は個人的な推測)
      【立地が同じ(河口・砂地)】
      唐津:松浦川河口
      掛塚:天竜川河口
      【神社の縁起がどちらも漂着伝説】
      唐津:西の浜に光るもの(鏡)が流れ着いた
      掛塚:前浜(遠州灘)に白く光るもの(神符)が流れ着いた(津島神?)
         天竜川の氾濫の折、津島神社に白く光るもの(竹)が流れ着いた(貴船神?)
      【藩主水野家の存在と、やり手の忠邦公】
      唐津:〜文化14年(1817)、強引な政治工作で幕府入閣を狙い、異例の国替えに成功
      掛塚:文化14年(1817)〜(浜松藩)、幕府領である掛塚湊の囲い込み(利権獲得)に奔走
      →政治資金調達最優先で唐津藩・浜松藩ともに藩財政が逼迫。領民には増税と倹約を推奨し、不人気な領主。
      【祭礼の拡大のため、従来(庶民・農村型)の祭礼に後付け(官製・都市型)の祭礼を上書き?】
      唐津:唐津神社(藩の祈願所の性格)御神幸に別の神社(大石神社:水主町、船乗りの町の鎮守)の神輿が参列
      掛塚:貴船神社御神幸の目的地を天王(津島神社)仮屋と表記する古地図(天竜川御普請絵図:文化12年(1815))
         →参列の「神楽」は伊勢湾北岸に多く見られる「獅子屋形(神楽屋形)」であり、津島神社御神幸列の名残りの可能性。宝暦11年(1761)に新町の御座船(明神丸・練り物)を導入し、祭礼目的が天竜川の水害除け(津島神)から水害除けと航海安全(貴船神)に拡大変化。廻船問屋が地域の実権を握る(庄屋・名主の役割)。
         貴船神社による「国の大祓(文化13年・1816)」の開催(遠州一帯に漂う悪霊や災厄を大河(天竜川)に流し清めてしまおうという行事)
         →忠邦、貴船神社(神主:関大和)ともに国学に熱心。当時の貴船神社は祭礼の力で世の中をなんとかしたいという思いが強かった。大祓としているので、6月末または12月末に開催した可能性が高く、6月であれば祇園・天王祭との関連も。
      【練り物・傘鉾の巨大化と山車導入の時期・背景】
      唐津:木綿町(きわたまち)の仁王・塩屋町の天狗などから巨大化。一番曳山の「赤獅子」は文政2年(1819)制作
      →水野家の治世で起きている「虹の松原一揆(明和8年・1771)」や政治工作(藩領の一部を幕府領に転換)など領民の不満を逸らすための藩による懐柔策。あるいは領民自身が不人気だった水野家転封(文化14年・1817)のお祝いとして企画した可能性(唐津神社は藩の祈願所でもあるので懐柔策の可能性が高いが、浜松では山形転封の喜びで領民がお祭り騒ぎした記録がある)。
      掛塚:新町の御座船(明神丸)から船形山車・船だんじりに発展。現存最古の山車(大当町)は嘉永6年(1853)以前に建造
      →地域主要産業(廻船・造船業)の振興。湊(幕府領・中泉代官所管内)の利権獲得のために水野浜松藩が接近・介入。唐津から浜松の国替えで、これまで参勤交代等で使用していた御座船は不要・規模縮小となり、政治資金調達のため払い下げ。

    • @iwasana75
      @iwasana75  7 หลายเดือนก่อน

      ■ 当初の掛塚屋台が”山車が大きく重かった”という伝承(出典不明)の推察
      ①新規に造るのであれば、街路の寸法や砂地での巡行条件は分かっていたはず。また大き過ぎた、重過ぎたのであれば都度改良すれば良いのに、それをしなかったのはなぜか。
      ②江戸時代末期に多くの山車が一旦消えて、その後形状変化させたのはどうしてか。
      →①水野家の提案で御座船を拝領(または有利な条件で払い下げ)し、それをもとに山車にしたので改造の規模に制限があった。幕府要職を務める水野家の顔を立てるため、多少の不便さには目を瞑った。
      ②忠邦失脚後、印象悪い水野家ゆかりの山車を使い続けると襲撃対象になりかねない、また周辺地域(特に浜松方面の親類縁者)や取引先(江戸や天竜川流域)の目を気にして破却せざるを得ない状況で、地域を守るため水野色を消す必要があると考えた。

    • @iwasana75
      @iwasana75  7 หลายเดือนก่อน

      以上を踏まえた「掛塚屋台の源流(当初の掛塚屋台)が唐津藩(水野家)の御座船」説のまとめ
      水野忠邦は従来の祭礼をより大規模で盛大な祭礼行事として行うことで地域振興を図った。ただそれは表向きの理由で、実際は政治への不満を逸らしたり、地元商人等有力者の囲い込み(利権獲得)と、政治資金の調達を狙った。度重なる増税と倹約令、天保の改革の失敗、江戸屋敷の投石騒ぎ、浜松藩下での借金踏み倒し騒動(弘化三年の一揆・打ち壊し)など、各方面に印象が悪いまま山形に転封したことは、後の山車(掛塚屋台)の形状変化の一因となった。当件は地域のタブーとして取扱われ、水野家に関わる資料一切を消し去ってあいまいな噂(口伝)だけが残った…というストーリー。
      ※貴船神社に残る能面11面(文化2年制作)は数少ない水野時代を偲ぶもので、当時の神主である関大和が国学つながりで入手したもの、あるいは水野浜松藩との借金の形とか寄付金の返礼品であった、という見方もできる。また、これらの能面を使い山車の上で演目を行ったことで、掛塚屋台(山車)のことを「本舞台」とか「曳舞台」とか言うことになった(山車を仮設舞台・移動舞台として使用していた)…という筋書きもできる。

  • @user-sr6ew9sh7l
    @user-sr6ew9sh7l 7 หลายเดือนก่อน

    東町の神楽箱は今では台車に乗せて運行していますが昭和の時代に撮られた掛塚祭りの写真を見ると神楽箱を数人で担いで運行していました。

    • @iwasana75
      @iwasana75  7 หลายเดือนก่อน

      コメントありがとうございます。
      昔は神楽箱に限らず太鼓も幟も御船も神輿もみんな担ぐなり、持つなりしていたんでしょうね。道路が舗装されたことで台車による効率化が図られたと思われます。
      学術的に言えば山車自体、原型は練り物の「担ぎ山」として担がれていたものの、巨大化したことでやむなく車輪がついたわけですから。
      そう思うと、博多や戸畑の山笠の方々は、昔からのやり方をきちんと受け継いでいる、ということになりますね。

    • @user-sr6ew9sh7l
      @user-sr6ew9sh7l 6 หลายเดือนก่อน +1

      掛塚祭りの天狗は竹のバレンを持っているので(竹馬)と呼び、白羽地区の天狗は矛を持って追っかけて来るので(ぼっこ)と呼んでいて面の作りも異なるので白羽地区の祭りにも興味があったら見に来てみて下さい!