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Hobby Videos41さん。急行「但馬4号」の後ろのキハ58系・急行形液体式ディーゼル気動車 パノラミックウインドウは、1100番台ですよ。
そうなんですね。
但馬出身の者です。江原駅の近所に住んでいました。毎日、列車を見て通学していました。懐かしい映像ですね。84年は私は中学生でした。3:45付近に出ていた12系の列車は夏の臨時列車「但馬ビーチ」ではないでしょうか?時期と、場所、DD51が牽引する急行列車はこれしかなかったはずです。(もうひとつ「はしだてビーチ」もありますがこっちは宮津線)当時の但馬は、高速道路も無く大阪、神戸から但馬北部へのアクセスは道路事情も良くなかったので、都会からいらっしゃる浜坂、竹野方面の海水浴客の皆さまの為に「但馬ビーチ」が走っていました。私はなにせ、田舎者で旧客しか知らないところに、都会からエアコンが付いているらしい(地元なので乗ったこと無い(^^;)綺麗な青い客車がやってくるので、夏になると線路わきの田んぼで鼻たらして見とれていました(^^ゞ
tachan1114さんメッセージありがとうございます。情報ありがとうございます。私の持っている時刻表は、夏の臨時列車が出てなくて、さっぱりわからないのです。やはり、地元の人は詳しいですね。当時の道路事情も良くなかった時代って書いてありますが、まったくその通り。私は、敦賀から国道27号を走り、舞鶴から178号312号また178号を走り餘部山陰本線の撮影に行っていました。今は、長い間山陰には行っていません。ずいぶん変わっただろうね!って思っています。・・・・・ちなみに、私自身もずいぶん老けました。(笑)
餘部駅懐かしく拝見しました。今は駅ホームが海側にありますが、昔は山側にありました。
メッセージありがとうございます。餘部鉄橋は、新しくなってからは行った事が無いので、このTH-camで拝見させてもらっているくらいなのです。また、落ち着いたら山陰の方も行ってみたいと思います。
angelspringsTavioさんより頂いたメッセージの転記です。地元なので、涙が出そうなくらい懐かしい列車ばかりです。96年の天橋立電化で、近畿北部の昼行急行は全廃されましたが、それまでは当地域では特急列車は“高嶺の花の贅沢な乗り物”と思う人が本当に多く居ました。電化当初、やむ得ず特急電車に乗ったお年寄りたちから「特急なんて一生乗らん思ってたのに」という声が、車内のあちらこちらから聞こえたのを思い出します(^^;
けいせんさん メッセージありがとうございます。臨時快速丹後って、不明の列車ですか?私も、全然分からないのです。当時は、定期列車は、時刻表に乗っているので、それを目安に撮影していましたから、臨時は、そのシーズンの時刻表を持っていなかったら、記載されていない事もあって、分からないままになってしまいました。
電車でGO!だ。ここは今はトロッコ列車が走ってる。
ここは、余部鉄橋で今は新しい鉄橋に替わっています。トロッコが走っているのは、保津峡なんです。電車でGO やったことがあるのですね。
小学校の卒業式後の春休みで急行丹後8号に乗りました。国鉄時代の急行って感じでしたね。社内販売でとんがりコーン食べたのを覚えています
そうか!急行丹後は、車内販売もあったのですね。やっぱり急行ですね。いやいや、私旧型客車の普通列車に乗っていても車内販売やって来ましたよ。今は、北陸本線のサンダーバードや、しらさぎも、車内販売は、無いのです。
そんなに喜んで頂いてありがとうございます。地元なんですか?もしかして、私が撮影していたのを、どこかで見られていたかもね。でも、どうして、「特急なんて一生乗らん思ってたのに」って言うのですか?お年よりは、窓が開いて、駅弁を買うことが出来るのが良かったのかもね。特急は、窓が開かないもんね。・・・・・ちがうか!また、春や秋の映像もあるのでお楽しみに。その前に、夏のどん行列車もアップしますのでよろしくお願いします。
かつては当たり前のようにできていた、「心の贅沢を知るこの一時」。1980年10月改正時点での京都発着の急行「丹後」1.5.11号(これは敦賀行きを連結していたため)や名古屋~出雲市・大社間の「大社」(但し派生種別の「わかさ」とは若干異なり、西行きは本来なら急行停車駅であるはずの上中・若狭本郷は通過していたが、東行きは2駅とも停車)、それに京都~出雲市間の「白兎」(出雲市行きは敦賀11時56分発の936レからでも、京都行きは福知山で敦賀行き957Dにもそれぞれ余裕綽々で間に合った)でも思う存分堪能できていたはずでしたが、あれから約40年経過した今ではもう二度と堪能できないのが悔やまれます。おやつはお酒片手におつまみ(柿の種もしくはスルメイカや竹輪など)を、お食事はお茶片手に京都または敦賀などの名物駅弁を味わう。なんとも贅沢で心豊かな時代だったに違いない。
そうですね。そんな事考えると、今の贅沢って何かな?まあ、この当時もただの移動目的なら、特急に乗れば良かったでしょうし、時間をたっぷりと使っての普通に乗っての旅・・・・・でも、この贅沢って、贅沢をしてもらうために走らせていたわけでもないところに、今の贅沢とは、また違った贅沢ですね。今は、トワイライト瑞風に乗るとか、グランクラスに乗るとか、それが、今の贅沢なのかも知れませんね。
@@HobbyVideos そういえば1ヶ月前から「くろしお」「やくも」のパノラマ型グリーン車最前席をいっそのこと予約して、当日はそれに乗る。これも贅沢さを極めた至福の一時になるはず。
急行 丹波 丹後 福知山いくときは必ずと言っていいぐらい乗りました。これも復活して山陰線は電化になる前の方がよかった
メッセージありがとうございます。そか、城崎まで電化されたのですね。城崎から先は、どうするのでしょうね。やはり、餘部鉄橋がネックなのかも。キハ58って、どこか旅をするって言う雰囲気のある車輌ですよね。キハ65は、窓が2段になっていますが、キハ58は、旧型客車と同じ1枚窓で雰囲気は良かったです。キハ58の先輩になる、キハ55も、また一味違った雰囲気なんですよ。
羨ましいですね。あと5年か6年早く生まれていれば山陰急行に一人旅できていましたね。大社線に入る大山なんですね。
一人で山陰に行くって、やっぱり高校くらいになってからかな?私は奈良に住んでいた頃、中学校くらいでは、日帰りの一人旅をしてました。高校になってユースホステルで宿泊の旅をするようになったのです。
e3keitsubasaさんメッセージありがとうございます。ナレーションは、当時の思い出を振り返って適当に喋っています。時々、いい加減なところがありますのでご了承ください。(汗)名前の通り、新幹線がお好きなようですね。映像から見て、関東にお住まいですか?
後年になると鈍行列車も12系になっていたり、『山陰』も座席車部分は12系になったりしていましたが・・・この時代にここを通る列車でしたら『但馬ビーチ』でしたし、 サボも『急行・指定席』と写ってあったりするので、但馬ビーチじゃないかなと私も思って見てたのですが でも、私が子どもの頃を記憶するに、夏休み中などではときどき この12系を使った『団体』列車が走っていたこともありましたね。香住駅の3番線での停車中や、宿南信号場だったか、相谷信号場だったかちょっと忘れてしまいましたが、 列車交換の際に、方向幕に『団体』と表示されていたものを見た記憶がありますし。なにせ、30年前の記憶ですから曖昧ですけどね(苦笑)
+jxfds369 さん メッセージありがとうございます。30年って本当にあっと言う間だったように思います。当時は、必死になって撮影していた列車が、もう今はすっかり走っていないのですよね。また、山陰にも行ってみたいのですが、なかなか時間が無くて。でも、また、行ってみたいと思います。私も、夜行の「山陰」にも乗りました。でもDF50牽引の旧型客車で、当時は、山陰号と言う名前すらありませんでした。でも、あの旧型客車が良いのですね。なんかタイムスリップした雰囲気と言うか、なんとも言えない雰囲気なんです。自分が子どもに戻ったような・・・・・
昔は長距離列車が多かったですね
メッセージありがとうございます。そうですね。今は列車よりも高速バスの方が、安くて利用しやすいのかな?時代の流れですね。
この当時だったら夏は但馬の臨時列車ですね豊岡に帰省する時によく利用しました
但馬の臨時列車ですか。今は、鉄橋も変わってしまい、列車も変わってしまいましたね。
急行「丹後」は運行区間も複雑でした。城崎(現:城崎温泉)行きでさえも、綾部から山陰本線を直進するものや、綾部から舞鶴線に入り、さらには西舞鶴で現在の京都丹後鉄道宮舞線・宮豊線を経由するものの2タイプがありました。ここで驚くべき事実は、西舞鶴まで敦賀行きが連結されていたことで、正直言って湖西線経由が速いのに「これ山陰本線の列車なのに敦賀行きかよ!」と疑いたくなる列車でした。さらに驚くべきこと、京都方面から東舞鶴やそれ以遠への利用者に対しては急行料金は西舞鶴までで済むものや(これは列車自体が西舞鶴から普通列車となるため)、東舞鶴まで徴収されるものの2タイプが存在しました。特に丹後1号・敦賀行き(1980年10月改正当時で京都10:15発 敦賀14:50着)では西舞鶴から普通列車のように見せかけていながら、京都~西舞鶴間を901Dとして運転したあとも、西舞鶴~東舞鶴間も急行4901Dとして運転しており(東舞鶴で福知山からやってきた955Dと一緒になり、残りの区間は4955Dとして一路敦賀を目指す)、先述したとおり東舞鶴まで急行料金を徴収するという「あれっ?」的な存在でした。
メッセージありがとうございます。西舞鶴と東舞鶴間なんて、1駅で急行での普通でも一緒ですよね。もし、西舞鶴から東舞鶴へ行こうと思ったら、やっぱり急行料金を払わないとダメなんですかね。色々とおもしろい情報をありがとうごxざいます。
@@HobbyVideos 本当にそうなんです。「丹後」1号の敦賀編成は西舞鶴~東舞鶴間も急行扱いだった以上は、東舞鶴までの急行券が必要でした(西舞鶴~東舞鶴間の1駅利用だけでも規約通り急行券が必要)。1980年度下半期当時の東舞鶴は急行専従で特急は全く乗り入れていませんでしたが、1985年3月14日のダイヤ改正で「丹後」1往復が特急「あさしお」に格上げされたため、のちに現在の特急「まいづる」を生み出す原点となる念願の東舞鶴への特急乗り入れが叶いました。
行き違い交換の列車が鎧駅15:11の837レ(w01.tp1.jp/~a073009361/JIKOKU/local80/sanin.htm)だと、『1984 夏の山陰本線のどん行列車』でおっしゃっていますので、DD51牽引の12系急行は9606レの急行「但馬ビーチ4号」だと思います。w01.tp1.jp/~a073009361/JIKOKU/exp83/tajima.htm
メッセージありがとうございます。こんな、サイトがあるのですね。わざわざ、調べていただいてありがとうございます。もう、昔の事なので、当時の運行図表を書かないと不明な列車も出てきたりして、本当に大変なのです。 時々、こういう不明なビデオなどがありますが、ご了承願います。
Kodohaさんより頂いたメッセージの転記です。キハ58の急行が大活躍していた,良き日の記録ですね。「丹波」2号は「但馬」2号の誤りではないでしょうか?HPにも「但馬」2号との記述がありましたので,そう指摘させていただきます。
e3keitsubasaさんより頂いたメッセージの転記です。ナレーション良いですね(^^)
国鉄時代の嵯峨〜馬堀までの映像はあれば、アップして欲しいです。
ごめんなさい!これは写真でしかないですね。
最後の8828レですが、おそらくMassanさんが正解と思いますよ。列車番号が下二桁目が2でしたら急行にならないです。急行は下二桁目が0か1のはずですから。ちなみに多分下二桁目が1なら旧準急と言う考え方だったんじゃないでしょうか?
8000代だから、予定臨だね?800代は山陰だと京都口関連のスジで、ダイヤグラムには載っていたわけ。以下はあくまでも推測。映像では乗客がいない感じだったから、回送かも。臨時列車用車両の福知山への帰還か何かかも…。いずれにせよ、古い投稿だから仕方ないが、蛇足感丸出しの関係ない動画を最初にくっつけて始まるものだから、一瞬違う動画をクリックしたのかと思ってしまう不親切設計。いい加減な調査でうるさいだけのナレーションと相乗で価値をおとしめていることに、そろそろ猛省を望みたい。せっかくブレが少なく、カメラの特性を活かした撮影をして、音もクリアーに入っているのに…。ビデオそのものは非常に高水準なのに、その編集(ナレーション追加も含めて)のまずさが痛すぎ。
これの一年後に座席車に乗りましたけど、座席車も混結していた記憶がありますよ。だいせん5号。寝台は20系使ってましたけど、座席車は14系だった記憶が。
メッセージありがとうございますもう、その時代は、だんだん特急の格が落ちて来た時代なのかな?急行は、12系特急は、14系なんて時代は終わったようですね。余談ですが、昔は12系の特急がありました。100円安かったみたいです。
そうですね、その頃あたりから全座席指定の特急が消えだしたような気がします。
そうなんや!昔は特急に乗ろうと思うと、切符を早めに買わないと乗れなくて、特急なんてなかなか乗れない列車だったのが、自由席とかで、立ってでも乗れるようになったのが、特急の格が落ちた1つの要因かもしれませんね。
何度も失礼をいたします。それと・・・夜行の『だいせん』、懐かしいです。この頃のは20系でしたね。別のところでも書かせていただきましたが、20系が好きだったので、父親にゴネてゴネて一度だけでしたが、父親といっしょに香住に行くときに「5号」に乗せてもらったことがありました。ただ、このときは期待していた寝台ではなく、指定席だったか自由席だったかは忘れてしまいましたが座席車だったので、ずっとブツブツ言いながら乗っていたのを覚えています。(そのあとに、父親と鉄道旅行へ東北へ行ったときに、『天の川』で寝台には乗せてもらいましたが)でも今思うと、あの当時のだいせんの座席車というと、20系の開放A寝台を改造したシートだったので、貴重といえば貴重な体験だったようにも思っています。私自身、20系寝台特急全盛の頃は写真などでは見たことはあるものの、実際に目の前で見たことがなく、ほとんどは急行に格下げされていた時代だったので。。。20系というと、手動式の折り戸が印象的でしたが、あの車内チャイムの音が違っていたりしましてね。山陰を走るたいていの列車では「アルプスの牧場」でしたが、後年いろいろ調べてみると20系では「ブラームスの子守唄」が鳴らされていたりして、この『だいせん』でも使われていましたね。当時、曲名までは知らなかったのですが、違いだけはわかりました。また同様に調べると、キハ80系とこの20系客車にしか「ブラームスの子守唄」はなかったようで。最近は国鉄時代からの特急車両でも車内チャイムはほとんど電子音に変わったりしてますし、今はもう絶滅危惧種となってしまったあの機械式オルゴールの独特の音色、近いうちにもうぜんぜん聞けなくなるのでしょうね。これもまた時代ですね。
jxfds369 さん メッセージありがとうございます。20系寝台なんですが、私も、特急としては乗ったことが無く、すでに急行に格下げになってから、1度だけのりました。それまでは、14系寝台特急あかつきに乗ったことがあったのですが、20系の方が、すっごく良い乗り心地ですね。ジョイント音が静かで、思わず走行音を録音してしまいました。当時、12系との混結編成だったので、チャイムは、普通の客車のチャイムでした。その後、24系25型の寝台特急に乗ったのですが、ベッドは、24系の方が断然広く、良かったのですが、車内の走行音、乗り心地は20系の方が断然良かったです。ブラームスの子守歌は、キハ80系に乗った時、初めて聞きました。でも、20系とキハ80系にしか、使われていなかったとは、知りませんでした。 でも、私も、テープレコーダーや、ビデオで少しは録音した音がありますので、このバーチャル空間で、永久に聞くことが出来るかと思います。また、少しづつではありますが、アップしますのでよろしくお願いします。
だいせん5号は20系で正解です。大阪ー倉吉まで急行、倉吉ー出雲市、快速 出雲市ー大社は普通でしただいせん6号は、出雲市ー倉吉迄快速扱いでした。後、DD51で正解ですよ、何回か乗車したことがあるので。当時は、京都ー出雲市、山陰号で福知山で乗り換える事も可能でした。
メッセージありがとうございます。やっぱり20系ですか。餘部の鉄橋の下から見たら、後ろのヘッドマークがどうも20系っぽかったので。へぇ~~~~~20系に乗車券だけで乗れる区間があったのですか?出雲市の辺に住んでいた人は、幸せだったのですね。私も昔、急行越前の音を録音しに行ったけど、しっかり始発から急行券を取られました。しかも20系どころか、旧型客車(笑)。この差は、いったに何?って感じですね。 何回か乗車されたそうで、20系ってとっても静かで乗り心地が最高では無かったですか?
国鉄時代の鉄道ファン 様前3両が自由席と指定席でしたね。開放A寝台の上段を無くした形で・・・B寝台の3段式でしたでしょうか。快速扱い区間は最終列車でもあり(大阪行)、倉吉駅からの朝始発列車でもありました。出雲市ー大社間。無人駅は通過扱いでした。列車番号は3735と3736 急行区間は 705と706
急行だいせんってエーデル65がついてるイメージ😄
急行だいせんにエーデル65が付いていた時代があったのですか?もう、その時代は山陰本線には行っていなかったので全く分からないです。
@@HobbyVideos だいせんのだいぶ末期の頃なのですがエーデル65での運用やったらしいです😅※映像で見ただけで14系客車の頃も もちろん 全くみたことがない 世代のもので😅※非電化時代の京都~城崎を 全くの知らないものです😅
夏場の山陰海岸への12系客車の臨時急行と言えば、”但馬ビーチ”だと思いますが、”急行但馬ビーチ”で検索して出てくる臨時列車のサイトを見ても、8828は見当たりませんね。
メッセージありがとうございます。私の時刻表にも、8828列車が見当たりません。この、交換している普通列車は、835列車です。835列車の鎧駅発車時刻は、1984年9月時刻表では、鎧駅15:11発になっています。この8828列車と言う番号を控えてあるのは、当時、ダイヤ情報を持っていて、それから列車番号を取得したのかもしれません。 昔の事なので、あいまいな点が多くすみません。 やっぱり、撮影データは、しっかりと記録する必要があると痛感しています。
但馬ビーチで間違いないです。但馬ビーチ四号で、鎧駅15:12発です。時間的にもピッタリです。確か9606列車のハズです。
OPのBGMはなんですか?
著作権フリー楽曲のサイトdova-syndromeの中の、「春の出会いの喜びを…」です。
城崎温泉ー鳥取を 電化するべきだと 思います このあたり 自動車道が国より 予算が 降りるくらいだから 電化ぐらい わけないと 思います ただ トンネルの改修が 少し 大変ですが まだ 免許のない人も たくさん おられるのですから ぜひ お願いしたいと 思います よろしく!
+たけし安田 さん メッセージありがとうございます。この時代、もう電化するだけではだめだと思います。もともと、狭軌でスピードの出ない丘蒸気で始まった線路。そんな速度の出せない線路を電化してもせいぜい120km/hくらいしか出せないと思います。今の時代、在来線でももっともっとスピードを出して走れる線路を作らないと車社会に負けてしまい、列車の本数は減り、ますます不便になると思います。いい加減山陰本線も200km/h近くまで出せる鉄道に作り替える時代に来ていると思います。風が吹いても鉄橋から落ちにくい安全な標準軌で。
Hobby Videos41さん。
急行「但馬4号」の後ろのキハ58系・急行形液体式ディーゼル気動車 パノラミックウインドウは、1100番台ですよ。
そうなんですね。
但馬出身の者です。
江原駅の近所に住んでいました。
毎日、列車を見て通学していました。
懐かしい映像ですね。
84年は私は中学生でした。
3:45付近に出ていた12系の列車は夏の臨時列車「但馬ビーチ」ではないでしょうか?
時期と、場所、DD51が牽引する急行列車はこれしかなかったはずです。
(もうひとつ「はしだてビーチ」もありますがこっちは宮津線)
当時の但馬は、高速道路も無く大阪、神戸から但馬北部へのアクセスは道路事情も良くなかったので、都会からいらっしゃる浜坂、竹野方面の海水浴客の皆さまの為に「但馬ビーチ」が走っていました。
私はなにせ、田舎者で旧客しか知らないところに、都会からエアコンが付いているらしい(地元なので乗ったこと無い(^^;)綺麗な青い客車がやってくるので、夏になると線路わきの田んぼで鼻たらして見とれていました(^^ゞ
tachan1114さん
メッセージありがとうございます。
情報ありがとうございます。私の持っている時刻表は、夏の臨時列車が出てなくて、さっぱりわからないのです。やはり、地元の人は詳しいですね。
当時の道路事情も良くなかった時代って書いてありますが、まったくその通り。
私は、敦賀から国道27号を走り、舞鶴から178号312号また178号を走り餘部山陰本線の撮影に行っていました。
今は、長い間山陰には行っていません。ずいぶん変わっただろうね!って思っています。・・・・・ちなみに、私自身もずいぶん老けました。(笑)
餘部駅懐かしく拝見しました。今は駅ホームが海側にありますが、昔は山側にありました。
メッセージありがとうございます。
餘部鉄橋は、新しくなってからは行った事が無いので、このTH-camで拝見させてもらっているくらいなのです。また、落ち着いたら山陰の方も行ってみたいと思います。
angelspringsTavioさんより頂いたメッセージの転記です。
地元なので、涙が出そうなくらい懐かしい列車ばかりです。
96年の天橋立電化で、近畿北部の昼行急行は全廃されましたが、それまでは当地域では特急列車は“高嶺の花の贅沢な乗り物”と思う人が本当に多く居ました。
電化当初、やむ得ず特急電車に乗ったお年寄りたちから「特急なんて一生乗らん思ってたのに」という声が、車内のあちらこちらから聞こえたのを思い出します(^^;
けいせんさん メッセージありがとうございます。
臨時快速丹後って、不明の列車ですか?
私も、全然分からないのです。
当時は、定期列車は、時刻表に乗っているので、それを目安に撮影していましたから、臨時は、そのシーズンの時刻表を持っていなかったら、記載されていない事もあって、分からないままになってしまいました。
電車でGO!だ。ここは今はトロッコ列車が走ってる。
ここは、余部鉄橋で今は新しい鉄橋に替わっています。
トロッコが走っているのは、保津峡なんです。
電車でGO やったことがあるのですね。
小学校の卒業式後の春休みで急行丹後8号に乗りました。国鉄時代の急行って感じでしたね。社内販売でとんがりコーン食べたのを覚えています
そうか!急行丹後は、車内販売もあったのですね。やっぱり急行ですね。
いやいや、私旧型客車の普通列車に乗っていても車内販売やって来ましたよ。
今は、北陸本線のサンダーバードや、しらさぎも、車内販売は、無いのです。
そんなに喜んで頂いてありがとうございます。
地元なんですか?
もしかして、私が撮影していたのを、どこかで見られていたかもね。
でも、どうして、
「特急なんて一生乗らん思ってたのに」
って言うのですか?
お年よりは、窓が開いて、駅弁を買うことが出来るのが良かったのかもね。
特急は、窓が開かないもんね。・・・・・ちがうか!
また、春や秋の映像もあるのでお楽しみに。
その前に、夏のどん行列車もアップしますのでよろしくお願いします。
かつては当たり前のようにできていた、「心の贅沢を知るこの一時」。1980年10月改正時点での京都発着の急行「丹後」1.5.11号(これは敦賀行きを連結していたため)や名古屋~出雲市・大社間の「大社」(但し派生種別の「わかさ」とは若干異なり、西行きは本来なら急行停車駅であるはずの上中・若狭本郷は通過していたが、東行きは2駅とも停車)、それに京都~出雲市間の「白兎」(出雲市行きは敦賀11時56分発の936レからでも、京都行きは福知山で敦賀行き957Dにもそれぞれ余裕綽々で間に合った)でも思う存分堪能できていたはずでしたが、あれから約40年経過した今ではもう二度と堪能できないのが悔やまれます。
おやつはお酒片手におつまみ(柿の種もしくはスルメイカや竹輪など)を、お食事はお茶片手に京都または敦賀などの名物駅弁を味わう。なんとも贅沢で心豊かな時代だったに違いない。
そうですね。そんな事考えると、今の贅沢って何かな?
まあ、この当時もただの移動目的なら、特急に乗れば良かったでしょうし、時間をたっぷりと使っての普通に乗っての旅・・・・・でも、この贅沢って、贅沢をしてもらうために走らせていたわけでもないところに、今の贅沢とは、また違った贅沢ですね。
今は、トワイライト瑞風に乗るとか、グランクラスに乗るとか、それが、今の贅沢なのかも知れませんね。
@@HobbyVideos そういえば1ヶ月前から「くろしお」「やくも」のパノラマ型グリーン車最前席をいっそのこと予約して、当日はそれに乗る。これも贅沢さを極めた至福の一時になるはず。
急行 丹波 丹後 福知山いくときは必ずと言っていいぐらい乗りました。これも復活して
山陰線は電化になる前の方がよかった
メッセージありがとうございます。
そか、城崎まで電化されたのですね。
城崎から先は、どうするのでしょうね。やはり、餘部鉄橋がネックなのかも。
キハ58って、どこか旅をするって言う雰囲気のある車輌ですよね。
キハ65は、窓が2段になっていますが、キハ58は、旧型客車と同じ1枚窓で雰囲気は良かったです。キハ58の先輩になる、キハ55も、また一味違った雰囲気なんですよ。
羨ましいですね。あと5年か6年早く生まれていれば山陰急行に一人旅できていましたね。大社線に入る大山なんですね。
一人で山陰に行くって、やっぱり高校くらいになってからかな?
私は奈良に住んでいた頃、中学校くらいでは、日帰りの一人旅をしてました。
高校になってユースホステルで宿泊の旅をするようになったのです。
e3keitsubasaさんメッセージありがとうございます。
ナレーションは、当時の思い出を振り返って適当に喋っています。時々、いい加減なところがありますのでご了承ください。(汗)
名前の通り、新幹線がお好きなようですね。
映像から見て、関東にお住まいですか?
後年になると鈍行列車も12系になっていたり、『山陰』も座席車部分は12系になったりしていましたが・・・
この時代にここを通る列車でしたら『但馬ビーチ』でしたし、 サボも『急行・指定席』と写ってあったりするので、但馬ビーチじゃないかなと私も思って見てたのですが でも、私が子どもの頃を記憶するに、夏休み中などではときどき この12系を使った『団体』列車が走っていたこともありましたね。
香住駅の3番線での停車中や、宿南信号場だったか、相谷信号場だったかちょっと忘れてしまいましたが、 列車交換の際に、方向幕に『団体』と表示されていたものを見た記憶がありますし。
なにせ、30年前の記憶ですから曖昧ですけどね(苦笑)
+jxfds369 さん メッセージありがとうございます。
30年って本当にあっと言う間だったように思います。
当時は、必死になって撮影していた列車が、もう今はすっかり走っていないのですよね。
また、山陰にも行ってみたいのですが、なかなか時間が無くて。
でも、また、行ってみたいと思います。
私も、夜行の「山陰」にも乗りました。でもDF50牽引の旧型客車で、当時は、山陰号と言う名前すらありませんでした。
でも、あの旧型客車が良いのですね。なんかタイムスリップした雰囲気と言うか、なんとも言えない雰囲気なんです。自分が子どもに戻ったような・・・・・
昔は長距離列車が多かったですね
メッセージありがとうございます。
そうですね。今は列車よりも高速バスの方が、安くて利用しやすいのかな?時代の流れですね。
この当時だったら夏は但馬の臨時列車ですね
豊岡に帰省する時によく利用しました
但馬の臨時列車ですか。今は、鉄橋も変わってしまい、列車も変わってしまいましたね。
急行「丹後」は運行区間も複雑でした。城崎(現:城崎温泉)行きでさえも、綾部から山陰本線を直進するものや、綾部から舞鶴線に入り、さらには西舞鶴で現在の京都丹後鉄道宮舞線・宮豊線を経由するものの2タイプがありました。ここで驚くべき事実は、西舞鶴まで敦賀行きが連結されていたことで、正直言って湖西線経由が速いのに「これ山陰本線の列車なのに敦賀行きかよ!」と疑いたくなる列車でした。さらに驚くべきこと、京都方面から東舞鶴やそれ以遠への利用者に対しては急行料金は西舞鶴までで済むものや(これは列車自体が西舞鶴から普通列車となるため)、東舞鶴まで徴収されるものの2タイプが存在しました。特に丹後1号・敦賀行き(1980年10月改正当時で京都10:15発 敦賀14:50着)では西舞鶴から普通列車のように見せかけていながら、京都~西舞鶴間を901Dとして運転したあとも、西舞鶴~東舞鶴間も急行4901Dとして運転しており(東舞鶴で福知山からやってきた955Dと一緒になり、残りの区間は4955Dとして一路敦賀を目指す)、先述したとおり東舞鶴まで急行料金を徴収するという「あれっ?」的な存在でした。
メッセージありがとうございます。
西舞鶴と東舞鶴間なんて、1駅で急行での普通でも一緒ですよね。
もし、西舞鶴から東舞鶴へ行こうと思ったら、やっぱり急行料金を払わないとダメなんですかね。
色々とおもしろい情報をありがとうごxざいます。
@@HobbyVideos 本当にそうなんです。
「丹後」1号の敦賀編成は西舞鶴~東舞鶴間も急行扱いだった以上は、東舞鶴までの急行券が必要でした(西舞鶴~東舞鶴間の1駅利用だけでも規約通り急行券が必要)。
1980年度下半期当時の東舞鶴は急行専従で特急は全く乗り入れていませんでしたが、
1985年3月14日のダイヤ改正で「丹後」1往復が特急「あさしお」に格上げされたため、のちに現在の特急「まいづる」を生み出す原点となる念願の東舞鶴への特急乗り入れが叶いました。
行き違い交換の列車が鎧駅15:11の837レ(w01.tp1.jp/~a073009361/JIKOKU/local80/sanin.htm)だと、『1984 夏の山陰本線のどん行列車』でおっしゃっていますので、DD51牽引の12系急行は9606レの急行「但馬ビーチ4号」だと思います。
w01.tp1.jp/~a073009361/JIKOKU/exp83/tajima.htm
メッセージありがとうございます。
こんな、サイトがあるのですね。
わざわざ、調べていただいてありがとうございます。
もう、昔の事なので、当時の運行図表を書かないと不明な列車も出てきたりして、本当に大変なのです。
時々、こういう不明なビデオなどがありますが、ご了承願います。
Kodohaさんより頂いたメッセージの転記です。
キハ58の急行が大活躍していた,良き日の記録ですね。
「丹波」2号は「但馬」2号の誤りではないでしょうか?
HPにも「但馬」2号との記述がありましたので,そう指摘させていただきます。
e3keitsubasaさんより頂いたメッセージの転記です。
ナレーション良いですね(^^)
国鉄時代の嵯峨〜馬堀までの映像はあれば、アップして欲しいです。
ごめんなさい!これは写真でしかないですね。
最後の8828レですが、おそらくMassanさんが正解と思いますよ。列車番号が下二桁目が2でしたら急行にならないです。急行は下二桁目が0か1のはずですから。ちなみに多分下二桁目が1なら旧準急と言う考え方だったんじゃないでしょうか?
8000代だから、予定臨だね?
800代は山陰だと京都口関連のスジで、ダイヤグラムには載っていたわけ。
以下はあくまでも推測。
映像では乗客がいない感じだったから、回送かも。
臨時列車用車両の福知山への帰還か何かかも…。
いずれにせよ、古い投稿だから仕方ないが、蛇足感丸出しの関係ない動画を最初にくっつけて始まるものだから、一瞬違う動画をクリックしたのかと思ってしまう不親切設計。いい加減な調査でうるさいだけのナレーションと相乗で価値をおとしめていることに、そろそろ猛省を望みたい。
せっかくブレが少なく、カメラの特性を活かした撮影をして、音もクリアーに入っているのに…。
ビデオそのものは非常に高水準なのに、その編集(ナレーション追加も含めて)のまずさが痛すぎ。
これの一年後に座席車に乗りましたけど、座席車も混結していた記憶がありますよ。だいせん5号。寝台は20系使ってましたけど、座席車は14系だった記憶が。
メッセージありがとうございます
もう、その時代は、だんだん特急の格が落ちて来た時代なのかな?
急行は、12系
特急は、14系
なんて時代は終わったようですね。
余談ですが、昔は12系の特急がありました。100円安かったみたいです。
そうですね、その頃あたりから全座席指定の特急が消えだしたような気がします。
そうなんや!
昔は特急に乗ろうと思うと、切符を早めに買わないと乗れなくて、特急なんてなかなか乗れない列車だったのが、自由席とかで、立ってでも乗れるようになったのが、特急の格が落ちた1つの要因かもしれませんね。
何度も失礼をいたします。
それと・・・
夜行の『だいせん』、懐かしいです。この頃のは20系でしたね。
別のところでも書かせていただきましたが、20系が好きだったので、父親にゴネてゴネて一度だけでしたが、父親といっしょに香住に行くときに「5号」に乗せてもらったことがありました。ただ、このときは期待していた寝台ではなく、指定席だったか自由席だったかは忘れてしまいましたが座席車だったので、ずっとブツブツ言いながら乗っていたのを覚えています。
(そのあとに、父親と鉄道旅行へ東北へ行ったときに、『天の川』で寝台には乗せてもらいましたが)
でも今思うと、あの当時のだいせんの座席車というと、20系の開放A寝台を改造したシートだったので、貴重といえば貴重な体験だったようにも思っています。私自身、20系寝台特急全盛の頃は写真などでは見たことはあるものの、実際に目の前で見たことがなく、ほとんどは急行に格下げされていた時代だったので。。。
20系というと、手動式の折り戸が印象的でしたが、あの車内チャイムの音が違っていたりしましてね。
山陰を走るたいていの列車では「アルプスの牧場」でしたが、後年いろいろ調べてみると20系では「ブラームスの子守唄」が鳴らされていたりして、この『だいせん』でも使われていましたね。当時、曲名までは知らなかったのですが、違いだけはわかりました。また同様に調べると、キハ80系とこの20系客車にしか「ブラームスの子守唄」はなかったようで。
最近は国鉄時代からの特急車両でも車内チャイムはほとんど電子音に変わったりしてますし、今はもう絶滅危惧種となってしまったあの機械式オルゴールの独特の音色、近いうちにもうぜんぜん聞けなくなるのでしょうね。これもまた時代ですね。
jxfds369 さん メッセージありがとうございます。
20系寝台なんですが、私も、特急としては乗ったことが無く、すでに急行に格下げになってから、1度だけのりました。
それまでは、14系寝台特急あかつきに乗ったことがあったのですが、20系の方が、すっごく良い乗り心地ですね。
ジョイント音が静かで、思わず走行音を録音してしまいました。
当時、12系との混結編成だったので、チャイムは、普通の客車のチャイムでした。その後、24系25型の寝台特急に乗ったのですが、ベッドは、24系の方が断然広く、良かったのですが、車内の走行音、乗り心地は20系の方が断然良かったです。ブラームスの子守歌は、キハ80系に乗った時、初めて聞きました。でも、20系とキハ80系にしか、使われていなかったとは、知りませんでした。
でも、私も、テープレコーダーや、ビデオで少しは録音した音がありますので、このバーチャル空間で、永久に聞くことが出来るかと思います。また、少しづつではありますが、アップしますのでよろしくお願いします。
だいせん5号は20系で正解です。
大阪ー倉吉まで急行、倉吉ー出雲市、快速 出雲市ー大社は普通でした
だいせん6号は、出雲市ー倉吉迄快速扱いでした。
後、DD51で正解ですよ、何回か乗車したことがあるので。
当時は、京都ー出雲市、山陰号で福知山で乗り換える事も可能でした。
メッセージありがとうございます。
やっぱり20系ですか。餘部の鉄橋の下から見たら、後ろのヘッドマークがどうも20系っぽかったので。
へぇ~~~~~20系に乗車券だけで乗れる区間があったのですか?
出雲市の辺に住んでいた人は、幸せだったのですね。私も昔、急行越前の音を録音しに行ったけど、しっかり始発から急行券を取られました。しかも20系どころか、旧型客車(笑)。この差は、いったに何?って感じですね。
何回か乗車されたそうで、20系ってとっても静かで乗り心地が最高では無かったですか?
国鉄時代の鉄道ファン 様
前3両が自由席と指定席でしたね。開放A寝台の上段を無くした形で・・・
B寝台の3段式でしたでしょうか。
快速扱い区間は最終列車でもあり(大阪行)、倉吉駅からの朝始発列車でもありました。
出雲市ー大社間。無人駅は通過扱いでした。
列車番号は3735と3736 急行区間は 705と706
急行だいせんって
エーデル65がついてるイメージ😄
急行だいせんにエーデル65が付いていた時代があったのですか?
もう、その時代は山陰本線には行っていなかったので全く分からないです。
@@HobbyVideos
だいせんの
だいぶ末期の頃なのですが
エーデル65での
運用やったらしいです😅
※映像で見ただけで
14系客車の頃も もちろん
全くみたことがない
世代のもので😅
※非電化時代の京都~城崎を
全くの知らないものです😅
夏場の山陰海岸への12系客車の臨時急行と言えば、”但馬ビーチ”だと思いますが、”急行但馬ビーチ”で検索して出てくる臨時列車のサイトを見ても、8828は見当たりませんね。
メッセージありがとうございます。
私の時刻表にも、8828列車が見当たりません。
この、交換している普通列車は、835列車です。
835列車の鎧駅発車時刻は、1984年9月時刻表では、鎧駅15:11発になっています。
この8828列車と言う番号を控えてあるのは、当時、ダイヤ情報を持っていて、それから列車番号を取得したのかもしれません。
昔の事なので、あいまいな点が多くすみません。
やっぱり、撮影データは、しっかりと記録する必要があると痛感しています。
但馬ビーチで間違いないです。
但馬ビーチ四号で、鎧駅15:12発です。
時間的にもピッタリです。
確か9606列車のハズです。
OPのBGMはなんですか?
著作権フリー楽曲のサイトdova-syndromeの中の、「春の出会いの喜びを…」です。
城崎温泉ー鳥取を 電化するべきだと 思います このあたり 自動車道が国より 予算が 降りるくらいだから 電化ぐらい わけないと 思います ただ トンネルの改修が 少し 大変ですが まだ 免許のない人も たくさん おられるのですから ぜひ お願いしたいと 思います よろしく!
+たけし安田 さん メッセージありがとうございます。
この時代、もう電化するだけではだめだと思います。
もともと、狭軌でスピードの出ない丘蒸気で始まった線路。
そんな速度の出せない線路を電化してもせいぜい120km/hくらいしか出せないと思います。
今の時代、在来線でももっともっとスピードを出して走れる線路を作らないと車社会に負けてしまい、列車の本数は減り、ますます不便になると思います。
いい加減山陰本線も200km/h近くまで出せる鉄道に作り替える時代に来ていると思います。風が吹いても鉄橋から落ちにくい安全な標準軌で。