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260年間徳川滅亡を願い続けた?毛利氏 江戸時代のその後
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- เผยแพร่เมื่อ 13 ก.ย. 2022
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260年間徳川滅亡を願い続けた?毛利氏 江戸時代のその後 をお届けします。
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#日本史の謎 #歴史
改めて、毛利家は、天下を望んではならぬという遺訓って深いなあと思う。
ほどほどが一番
長州人の恨みをいつまでも忘れない気質は、徳川だけでなく、吉川氏にも向けられました
吉川氏は、関ヶ原の恩賞としてもらうはずだった長門周防の2か国を渡しでまで毛利本家を守ろうとしましたが
関ヶ原で東軍に付いたという長州藩士の恨みは相当なもので、
実際、幕末まで、吉川氏は毛利一門でありながら裏切り者のそしりを受け続けたそうです
また、関ヶ原の後、120万石から30万石に減封されても、
ほとんどの家臣たちは、武士から農民や町人に身を落としてでも、毛利氏の元に留まったたそうです。
そのため、長州藩には、かつては毛利の家臣だったという誇りや武士の気概を捨てない農民や町人が多く、
武士として残った家臣たちも、かつての仲間だった農民や町人に対して、身分を振りかざすこともなかったそうです。
その気風も、幕末の松下村塾や奇兵隊で、多くの町人や農民が立ち上がったことに繋がったと思ってます。
もう、長州藩に住む人間全員が打倒徳川に凝り固まっていたと言えるでしょう。
まったくその通りです、山口県民だから分かる
一丸となって討幕に向かったのではなく藩論が討幕にまとまる前に藩内でも佐幕派と改革派との壮絶な闘争があったことも忘れちゃあいけん
あれは傍目で見てもめちゃくちゃですよね。
それな!!!!!!!!!!
晋作さん!
そして、本家と分家を一つに纏めるために、敬親がわざわざ確執のある徳山毛利家から後継ぎを迎えたことも忘れてはいけない
凄いね衰退と繁栄をこんなに繰り返した一族はなかなか居ないね…
徳川時代を通して「今年こそは徳川を、、云々」この話は萩が故地の祖母から幼いころよく聞かされました。
明神池の話、幕末四境の戦い時には藩を挙げて民衆全て老若男女戦いに参加した話。殿様が馬で立ち寄られ「滝の家の飯はうまい」と言って頂いた、とも聞かされました。防長は血に繋がる遠い故郷です。 横浜77歳
す...すごい。差し支えなければ、お祖母様は何年生まれか教えて頂けませんか?
@@twelvetwelve7874 さんへ。祖母は1955年70台で亡くなりましたので明治中頃と思います。ですから明神池は自分で見ていますが他は親からの話だと思います。没落士族負け惜しみのグチとお聞き流し下さい。
ただ柳沢が実家の苗字、嫁ぎ先が滝、どちらも萩藩藩士に名があり、松陰語録に滝の名が出るのも「血」を感じます。祖母は貧窮生活の中、馬鹿愚鈍な孫にしっかりしろと言いたかったのでしょう。
@@taroukuma7125 なるほど...とても愚痴とは思えません!貴重すぎるお話です!そのお話が次代へ次代へ語り継がれて行くことを祈ります。その血を是非誇りになられてください。他にもエピソードがありましたらお聞きしたいです笑。
@@twelvetwelve7874 さんへ、馬鹿もおだてりゃ、、です。祖母は剣術は居合の一撃で、渾身の一撃で倒す。とも言っていました。多分幕末長州人が多く学んだ斎藤弥九郎練兵館の立ち居合の事だったと思います。柳沢氏は甲州武田家の末流で足利義昭に随身し鞆に来てその後毛利家で二千石。滝氏は40石程度の小身で需家とも聞いていますが、動乱時で高杉 桂達と行動を共にしたのかもと思います。私は父が戦死、戦争未亡人の母と祖母の手で、、各地を転々恥ずかしながら何の取り柄無く低学歴、恥をかくばかりでした。ただ子供たち二人は「飛び血」?か優秀、若年ながら身を立て、、親馬鹿で期待しております。有難うございました。
@@taroukuma7125 義昭公に伴い鞆の浦に!あの高杉晋作や桂小五郎と!ご先祖さま、すごいですね...!そんなにご自身を卑下なさらないでください。僭越ながら、そのような状況の中ご立派にご子息を育て上げた石井さんはとても素晴らしい方だと思います。ところで、島津四兄弟の次男坊、名将・島津義弘公と同名でいらっしゃいますが、名付け親の方は薩長の繋がりを意識して名付けられたのでしょうか。
興味深く拝見しました。
それに関する資料が残っていればガッテン!ですよね。個人的に毛利氏好きです。尼子氏も大内氏も好きですが…。
いつの世も幕府初代は戦乱を鎮めた太守としてあがめられ太平になるのですが、幕末期には名ばかり将軍(執権)で荒廃し倒幕の傾向になるのが常です。鎌倉~室町~江戸とパターンは同じ事の繰り返しです。
現代の世襲企業も同じですが、やはり初代は志があり立派で、その後少し下降し、中興の祖で建て直し、末期には名ばかり君主になるのでしょう。
なのでいち早く西洋の近代文明を率先して取り入れた『薩長土肥』の藩主も藩士も人材の宝庫だったのではないかと思います。
失礼しました。
広島県の吉田町に毛利氏の記念館や毛利元なりの神社がありますので広島へお越しの際はたちよってみられてはどうでしょうか
恨むなら肝心な時に大坂から動かなかった輝元を恨んでくれとしか
それ言えてますね🤔👍‼️
ほんとそれ!
一応九州や四国では動いていたんですけどね、、、
長期戦になると考えていたのでしょうね。
殿のおなーりーって、鈴がなって仰々しい行列がやって来た
と思ったら、そのままトイレに入って消えていったみたいな
事ばっかりしてるもんな、彼。
間違いない
毛利は根性あるよ。第二次長州征伐の戦いをみて!感激
何故地方都市の山口県をメインに中国地方及び鹿児島等西日本から集中して総理大臣を多く輩出してるかと言ったらそういう系譜があるからなんですよね
関係ないようで今の時代にもしっかり歴史が引き継がれてるって事ですよね
冷静に考えて長州藩単体だけで、江戸幕府と世界の列強4カ国と戦うって相当すごいね
明治維新=イギリスが幕府を日本人に討幕(国家転覆)させてイギリスの操り人形を日本政府に置く
明治維新は日本だけで全て行ったんではない、お金武器全て裏でイギリスが協力(自国の日本支配)したから
普通なら無茶な事は絶対しない。
200年以上信念を持ち続ける一族ってすごい。
吉川の空弁当がなかったら今どーなってたんでしょーね
毛利氏は強大な敵に対する時はいつも味方を助け(られ)ない。
殿、今年は?!いや、まだまだ。の260年の末の倒幕はさぞかし悲願だったんだろな。
長州は260年間ずっと恨んだというのは忠臣蔵と同じで誇張された話で事実ではなく、幕府とは9割は蜜月関係であった。確かに関ヶ原直後ね萩城の築城を見ると幕府に対する徹底抗戦を伺えるが、それ以降の毛利家のポカに対して幕府の毛利に対しての優遇は不思議なくらいである。まず、大阪の陣での数々の失策も改易どころか不問に付されている。また秀元は家光の砥衆となり、幕政に影響力を持ちご三家親藩でも類例のない孫藩の清末藩の立藩に成功している。宗家の登城拒否も不問。長府毛利の刃傷事件も不問。清末藩や徳山藩の短期間でのお家最興などあり得ない優遇をうけている。幕末もよく考えれば力が衰えたと言えども幕府は長州に対する処置が甘すぎる。
幕府軍と戦う時は流石に関ヶ原の恨みが力の一部になったであろうが、日本の将来を思い募兵であった長州兵は戦っている。幕府を恨んで足を江戸に向けて寝たのは高杉家だけである。また、正月の毛利家の儀式も創作である。明治になって新聞記者がその件を最後の藩主元徳公に質問したら、笑いながら否定している。親敬公の暗君話同様、間違った毛利家が面白おかしく伝わるのはいかがと思う今日この頃。
毛利は宗家残ってるから、徳川についてはそこまではって話してましたね。
ただ、下級藩士が尊王に染まっちゃったんで仕方ないところがあると思います。
安政の大獄で吉田松陰を殺すから下級藩士がブちぎれたんだよ
そうせい侯がそんな怨みや野望を持っていたのかな?
しかし「そうせい」と言わなかったら明治維新は無理だったよ
元就は戦国最強の化け物ですね。
11ヵ国で120万石って、国数のわりに石高が少ないよね。やはり山ばかりだからか。
中国地方はコメ取れない
色々と揉めたりコメントあるけど…
最終的には、「毛利輝元はバカ」で一致団結するところが笑うw
むしろ関ヶ原で西軍でたたかった武将全員から毛利はうらまれてるだろ
家康最大の誤算は毛利と島津を滅亡させなかった事
家康もあの世でびっくりしただろう
まにか、振り返れば’うん’納得できるところ大いにありです。今日の地方と中央の関係だけでなく、政治の中央でよく感じるでありました。これはいい解説です、感謝というかスッキリしますね。
明治維新で薩長とよく言われるが、本当に薩摩は凄いわ。
関ケ原では島津義久、幕末は西郷隆盛と男気メンツばっかり。
豪胆な人間は薩摩って感じ。長州はどっちかというと文官っぽい。
そして「こんなはずじゃなかった・・・」って政府に反乱を起こすのも薩摩
まあ有志の反乱といえなくもないが
ほんと長州は政治家多いんだよね、末は博士か?大臣か?二十過ぎればただの人、乃木希典は厳ついぞ、安倍さんは残念!from下関市民
薩摩藩の狡猾さは大久保利通が担っていた。
@@user-fk4up1rj8mさん
乃木さんの奥様は薩摩出身の方ですね。
逆恨みっす🦧
会津の人には嫌われてるんだよなぁ・・・会津戦争の主力は土佐と薩摩だったのにね。
毛利家が大江広元の子孫だったとは知らなかった。寒河江の荘と親戚ではないか。
田布施システムは陰謀論に過ぎないが、関ヶ原でも天下獲りたかった毛利はガチ
家康の孫娘が毛利に嫁いでた気がするんですが、そのあたりについてはどう思ってたんだろうとこの話聞くたびに思います
それは毛利秀元に徳川家の姫が嫁いでいたと思う。毛利秀元を懐柔しあわよくば毛利を分断させるために。賢いやり方です。
輝元の関ヶ原と慶喜の戊辰戦争の立ち振る舞いはよく似てるよなあ
元就の墓が広島の吉田にあるのは何故ですか?教えて下さい。
吉田が毛利氏の本拠地だからですよ
@@otaru6042 ありがとうございます。
私の父方は毛利宗家の譜代の家臣でした。学生時代自転車で日本一周したとき会津若松市によりました。会津若松城を見学し近くのうどん屋で食時し山口出身の事や雑談していたら金は要らんから出ていってくれと追い出されました。戊辰戦争の怨みは幕府方もすごいです。明治維新後優秀な人財は幕府方のほうが多いように思われます。結局薩摩長州人は体制を倒すだけだったのでしょう。渋沢栄一、榎本賢明等がいいれいでしょう。倒幕はしましたが行政には全くのどしろうとです。
何か月か前に某サイトで大河の毛利元就を50話くらい見た。面白かった。
土佐の武士もそうだったように、国替え制度が問題だったのでは…
これが戊辰戦争の「幕府無くとも徳川憎し」か
すいません。 山代国の和紙にからんだ酷税もありましたね。
何を今更。だったら関ヶ原で西軍として働けよ
歴史は現在残存している文献や資料等を参考とした現実的な考えになりますが、
毛利は確実に輝元が原因ですよね。
広家は毛利不利と読んでいたかもしれないが結果を知る私からすれば徳川主力37000がいない
西軍主力の石田隊、宇喜田隊で互角の戦いをしていた。
広家が動けば勝てていたし輝元も出陣していれば勝てたかも?
大阪城に籠城していれば夏、冬の陣と違い援軍も見込まれるからなぁ
立花隊もいるし。
敗戦後の広家 立場なかったろうなぁ
それこそ見込み違い
家康が一枚も二枚も上手
関ヶ原が互角だったかはもはや分からないの近年関ヶ原事情
一応、秀忠の中山道の部隊が真田にとめられたのは当時では分からなかったと思うよ
この部隊が関ヶ原に合流出来ていれば東軍の圧勝だったかと
広家のせいで滅ぼされた長宗我部や宇喜田や大谷も不憫だよね
輝元さんは名将ではないと思います。
徳川への媚びは相当だったらしいから、家を残すという面では頑張ったと思うよ。
迷走した迷将だと思います。
輝元・暗君、広家・愚将、恵瓊・凡臣、これでは話にならない
長州藩は、関ヶ原を反省し徹底した文書記録主義(すべてをデータベース化)を始めます。このため各藩の中で、長州藩のみGDPが計算できます。この方法は、明治政府にも受け継がれてゆきます。また、江戸期の財政改革の中で、今でいう一般会計と特別会計の仕組みを初めています。これも、明治政府に受け継がれてゆきます。
ペリー来航のペリーさんが安倍首相に顔が似てるのは、たまたまなのかな?
徳川家に恨みを持つ人達も多いようだけど、日本国内あちこち旅してみて、一番治安もよく、人々も穏やかで優しい人達が多かった地域の一つが、静岡県ですね。伊豆、伊東辺りは、とても良かったです。
あとは、岩手県も人が良い。
鬼の伝承がある地域は、酷いイジメも多いですね、何故か。秋田県の畠山鈴香さんの卒アルが参考になります。AV関係者も多い。余所からきた医者が虐められて一ヶ月で出ていった話も有名ですね。あまり良い印象はないです。
明治維新が成った後で、逆算でこんな事やあんな事を200年ズッとやってたんだよと
でっち上げたりしてない?
黒船が来ようがGHQが来ようが、我が国の政治の在りようが家どうしの私闘で決まるのは何故だろう。
総大将の癖に戦わずに逃げるし、身内が裏切って関ヶ原の戦いで西軍を敗けにするは、恨まれるのはお前等だぞ!
輝元は暗君、広家は愚臣、家康が内通に応じる訳ない
@@user-fk4up1rj8m 輝元が堂々と関ヶ原に言ってたら、少なくても裏切らなかったろうがな~
@@user-fk4up1rj8m 毛利秀元は元就の再来と評判の優秀な武将だが当時20才と若すぎたので、関ヶ原で南宮山にいた時は歴戦の武将40才の従兄の吉川広家が毛利の指揮を取っていたようです。
@@user-rh5mb9ur8q さん
長州人だけど広家は評判が悪い、安国寺恵瓊に責任押し付けて「忠臣」とされている感じかな、黒田長政の調略に掛かったからね、「毛利の空弁当」は情けないと思っています、山口では家康より広家が嫌われている
いやー、勉強になりました、、いい動画ですねー。
輝元がじーさま元就の片鱗をもう少し受け継いでいたら、もっと上手く立ち回れたんじゃないかなーと思う。
防長2カ国に減封された後は目が覚めて国作りに奔走したらしいが、関ヶ原前後のしくじりは凡庸感が半端なくて草。
山口県、今でもド田舎のイメージだけど凄いね
南はそうでもないでしょ
ド田舎です。
桶狭間合戦で義元の首級を取った、『毛利新介』との関連性はないのだろうか⁉︎
明治維新以降150を超えても長州毛利を怨敵の怨みを持つ者もいることをお忘れなく‼️
会津ですか?
蛤御門の変で長州藩は京都市中に火を放ち2万戸以上の家屋を焼き
京都は荒廃した史実もお忘れなく‼
(´-`).。oO(むしろ逆に取り潰されなくて良かったレベルで豊臣公儀をクーデターで崩壊させたのが輝元では
秀吉死んだから豊臣政権なんか知ったことではないしてますからね輝元
何かこう、恨むとか筋違いじゃないですかねー…
大阪城に入った時点で言い訳不可でしょう。
中途半端は良くないと言うことですな。
賛成
でも本領安堵を約束してたからねぇ。
騙される方が悪いと言えばそれまでだけど。
萩城行ったことあるけど
あそこは海を掘りにして海を背にしてたから
多分水軍を使わんと攻め込むのは無理だろうね
兵糧攻めで水を絶たれたらアウトだっただろうけど
毛利って戊辰戦争後
いつわしは将軍になるんだ?って言ってた話もあった気はするけど
西枕の話は大河ドラマなどで昔からよく聞いたはなしだけど、藩主や家族が江戸詰めだから不敬になってしまうんじゃないかと疑問に思っていました。萩城は防衛に適した立地と考えると悪いことばかりではないですね。
毛利の殿様よりも、家来のほうが徳川に対する恨みが強かったのでは?毛利元就・輝元の側近であった林就長は豊臣秀吉とプライベートで友人としてお付き合いしており、豊臣姓を賜るほどでした。幕末に家老の周布政之助らと共に倒幕派の志士を率いていたのは林就長の子孫である林主税で、豊臣秀吉と親しかった人物の子孫によって徳川の悪政が終焉を迎えたといえます。
現代でも、元長州藩が幅を利かせているように見えるな。
長州閥は確かにあるんだけど肝心の山口県は涙が出るほど勢いも存在感もないな
薩摩と長州くっつけたのは竜馬だけやなくて外国もくっついてたとききますね
いろんな苦労があったんですね!
関ケ原でも、その後もチキって何もできなかったくせに・・・人はそれを逆恨みという
家康が毛利を土佐辺りに飛ばしとけば幕末も安泰だったのにな。
これは良い動画です。明治維新とか言って、さも日本国の方向性を良い方に向けたみたいな大嘘が語り継がれてきましたが、明治維新は単なる関ヶ原の恨みから生まれた反乱で、偶々成功したので革命もどきに見なされてるだけです。考えてみて下さい。徳川260年間は大きな戦乱は無かったのに、大東亜戦争が終わるまで、日本は戦争が尽きる事がありませんでした。これは明治維新が如何に暴力的、近視眼的だったかの証拠です。
🇯🇵の歴史の中で、あの三代英傑との対峙とその後の徳川幕府との長い恨み晴らしを作った毛利輝元公は中々の器の持主。普通🇯🇵人は元就公へと行きますが、私は輝元公ですなぁ。🇯🇵の政治家にも輝元公の様に反骨精神のある方々がどんどんと出てきて欲しい❗️
輝元は何と言うか三国志の劉表みたいなんだよなぁ。「治世の能臣、乱世の盆暗」って感じ。中途半端に野心を持って領地を減らしてしまったけど、その領地減らした後に内政で毛利家を立て直したのは見事、と言えるかな。
長州藩と言う藩は江戸時代には無かった
萩藩が正しい名前であり、長州と言う名は維新後に出てきた名前
たしか、長府藩や岩国領を全て含んだ言い方→長州藩
毛利本家が治める領土→萩藩だったと思う。
藩は明治以降の歴史用語でしょう。
萩毛利家が当時の名乗り。領域も家臣も家中のもの。
(正確には公式な名乗りは萩松平家)
中国では皇帝を守護する諸侯の呼び名だったので、志士が好んで使い始めたのでしょう。
安土桃山時代の文献に見られるものの、将軍をトップにした江戸時代に使っていません。
というか、天皇の守護者と言えないし、呼ばないでしょう。
家康が約束を反故にしたとあるが、総大将の立場で徹底抗戦まで考えた者に本領安堵は都合良すぎるのではと思うし、秀吉が台頭したらすぐに臣従しておきながら、徳川に敵対して領地を減らされたから恨み続けると言うのはお門違いのような気がするな。
本来は改易のところ、広家の功績によって温情で減封ですんだという説もあるし
名門の長宗我部や立花は改易だよね、山口県民は減封は有り難いと思っている、そうでないと松陰先生の出番がなくなる、by下関市民
この話を聞くたびに積年の恨みが筋違いだと思う。
そもそも毛利が四国で東軍の城攻めてるからね。
それ聞いた家康が話違うじゃないかってなった話。
幕府は毛利家をとり潰すチャンスは沢山あったけどそれでも毛利家に気を遣って存続させてたのに
命を助けてもらったのに....
なら氏刑の方が良かったのか?
三本の矢は逸話だよ、元就より隆元が先に亡くなってる
三本の矢は逸話でしょうね。ただ隆元の息子は毛利両川とうたわれた叔父の吉川元春、小早川隆景の補佐を受けている。関ヶ原後は元春息子の広家が毛利存続の為に奔走しています。
萩城見てみたい、復元は財政的に無理なんかな。
関が原に関しては毛利を恨みたい人の方が多そうだけど…
戦国時代の時の毛利が徳川を恨んだ?どの様に?
…まさか、徳川家康は輝元など毛利家の野心を見抜いて警戒し幕府にも抵抗する力を奪い続けろと指示したけど抑えきれず、倒幕富国強兵へとつながったのでしょうか? ただ幕府倒した後の維新志士明治政府の野心は幕府の時代苦しんできた弱き民への慈悲とはならず外国から奪えとなったのは、とても悲しいです。それとも、毛利家は弱肉強食の本質や必要性を熟知し日本の植民地化防止に貢献したのでしょうか? 是非を決めるのは難しく、いろいろ深いですね。ありがとうございました!
明治維新当時の当時の世界情勢を考えてみましょう。
外国から奪うようなことはしていませんね。
11:26
今年はどうしようかって言う奴は吉川を許すかどうかっていう話を聞いたことあるけど…
主に薩摩だが土佐や肥前佐賀など長州の味方をして長崎を握って新しい物を取り入れ四鏡戦や鳥羽伏見で圧勝できたと言う事だね
足利家にしろ毛利家にしろ何代にもわたり恨みを忘れず、結果積年の恨みを果たしたのは素晴らしいと思う。私の先祖は長州人だが、それを誇りに思う。
えっ
足利本家当主や足利有力分家当主は北条の娘が代々母親のケースが多く、領地もかなり加増されたり官職なども高い位を与えられたり厚遇されているのに何故北条を恨むのか理解できない。因みに足利尊氏の息子の義詮の母は鎌倉北条氏で得宗家に次ぐNo.2の家格の赤橋家出身です。
攘夷派のわたしとしては田舎物が調子こいて
たまたまうまく行ったとしか思えません?、
江戸時代のその後と書かれているから
当然子孫の話があるかと思いきや何もなく、誰でも知っている事やん。
下関市民だけど「毛利君」と遊んではいけないんだよ、アンタッチャブルなんだ
さすが、毛利元就の子孫、ずっと、広島藩だったら、歴史は違ったかな、
これだけ、関ヶ原の怨みがあれば戊辰戦争の後の幕府側の戦死者も埋葬の扱いが悪かったんだなぁ…やっぱり関ヶ原から始まってたか…
「ん〜〜ん?わざわざUpする事か????」
関ヶ原で西軍のトップ(秀頼は不参加)に立った
「毛利が減封&国替えで済んだ」のは感謝するべきだし、実際、幕末迄は徳川に対して頭を下げ続けて居た。
但し、これは毛利氏以外の西側大名の全てに言える事で
「わざわざUpする事の無い話ですよね」
今の自民党は薩摩長州多いなら毛利島津勝利
でもそのへんどうなんだろ
私は常々疑問に思ってました。長州藩は小藩で中国地方の西の端、幕末のあのエネルギーはどこから
来たのかと・・・全ての根源は関ヶ原にあったのですね。
東軍・西軍のイントネーションが変……
毛利輝元と吉川広家が悪い
怨むなら安国寺恵瓊を怨めばいいのに
徳川を破ったのは旧豊臣派の藩だったのが皮肉だったけどその後の彼らの政治が後に日本が暴走する火種を作ってしまう事になる
私の母方は徳山藩家臣
百人一首の大江千里
鎌倉幕府の重臣大江広元
恵瓊が余計なことしなければ東軍だったかも
でも関ヶ原へ行くには大阪城が
福島県は国道4号13号49号があるんだぞ、積年の恨みたまるぞ
縁起の悪い数字割り当てられてるな
49はわざとくさいし
(新潟~平)
輝元さんがねー、だいぶやらかしたもんなぁ。゚(゚´Д`゚)゚。
関ヶ原で華々しく闘ったり大坂城に入って籠城しとけば徳川の天下はなかなかに厳しかったと思うんよなぁ😂
華子さんの親の代で結婚してんだな
討幕に成功した理由は 多々あるでしょう ね。ただ 周防大島での四境の役で 、島民 僧侶 など一丸になっての 命をかけた戦いがありました そしてその財政力は 山城国の わしに絡んだ国税がありましたよ
毛利イコール長州。
関ヶ原の吉川広家の内通は輝元も知っていたという話もあるようですが…。
どうでしょう。
知っていたと思う。俺が輝元ならどっちが勝っても家名は残せるように二股かける。バレたら危ないが。
関ヶ原は小悪党輝元くんの責任かな
実際のところ毛利を潰すのは現実的じゃなかったんやろなぁ…
実際は改易されかかったんだけど、東軍に貢献した吉川広家に渡すはずの2カ国を、吉川広家の嘆願で毛利に渡したので、吉川広家が動いてなかったら改易されてたでしょうね。
徳川の半分以下とは言え120万石の大大名ですから、どんな理由を付けてでも改易したかったところを、吉川広家の頑張りで大幅に減封して田舎に押し込めておけば、そう危険は無いだろうってところに落ち着いたんでしょうね。
@@user-ey8uu5gv8p 改易ともなると毛利征伐まで視野に入れなきゃならないと思うんですよね
単なる毛利氏の逆恨みだろ(笑)
幕末では毛利氏と尾張徳川氏に感謝しています。
ワンピースのオロチみたいです。
いつも思うが 薩摩のクソさよ。
明治以降は陸軍の長州がクソなんだけど。