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世の中の善悪と仏教の善悪がよく分かりました。心が一番大切と改めて知りました。やはり醜い心が自分にもあります。😵💦菊谷さんいつもありがとうございます。🙇南無阿弥陀仏🙏
見た目では大笑いして、腹の底では妬みや恨みで煮えくり返っている人もいます。我利我利亡者という言葉はじめて知りました。利己主義な人は、人の死は自分にはなくて、自分の命は永遠の尊厳で満ち溢れています。仏心はなくても、人は自分の境遇に於いて、気づく人の痛みもあります、私はそれを大事にしています。大勢の人の幸せという環境があって、人は平和のうちに笑顔になります。また一つ学べました、ありがとうございました。
仏教に説かれている本当の幸福とはどんなものか、20日間の無料メール講座で話しをしています。peraichi.com/landing_pages/view/reiwamail
誰も言ってはくれない事を、言って貰えました、気持ちが良いです。ありがとうございます。
菊谷先生のお話をTH-camを通じて毎晩数本観させていただいております。本当に有難く感じています。日々日々、こうして仏教の教えを少しずつお聞きしていると、だんだんと仏教がわかったような傲慢な気になってきますが、ふと思い返してみると、やはり「我利我利亡者」の自分が今日もあの場面でこの場面であったなと思い知らされ、やはりもっと精進せねばならないという思いにさせられます。
客先周り中の休憩でノジマ電機店の健康チェアでスピード視聴中です。帰宅後にも再視聴して勉強にいたします。
ありがとうございました。😆✌️✨
菊谷さんいつもありがとうございます😊他人の災難を心の中で笑う自分、確かにいます。そのくせ野次馬根性丸出しの人を見て「人の不幸を笑うなんてありえない!」と偽善者ぶる自分もまた存在しています。どうしましょう、、、😥菊谷さんの過去のお話もたくさんこれから聴いていきます。救われる日がくることを願います。
我さえよければよし、自分の心をみればみるほどにその通りですいつでもそうなのでうんざりしますそして周りの人々も同じくそうなんでしょうこの心のまま幸せを望み、正しいと思っているですから自分も含めいかに狂っているか知らされます
菊谷先生、ありがとうございます。「本性」とは生まれたばかりの時に持っている穢れのない仏の心と理解していました。その心が己の悪、事故などに依って苦しみをを生み、その苦しみが直ぐに解決できないと心の奥に閉ざされてしまい、そうなると人によってはどうにもこの苦悩の解決はできません。仏法を聴聞し法鏡によって本性に会うことができると、そこで苦しみから解放され「絶対の幸福」をつかむことができると思います。🙏
いつも拝見しています。後半はとてもズシッと胸にささりました。善人とは心から感情移入できる人のことを差すのかな、と思いました。
基本的に、性悪説という事ですね。善人とは未熟な凡人、偽善者という事ですね。性善説を主張する人達は、まだ善人でしかなく、人間の真の姿、心を知らないという事ですね。なんだかんだ言っても、人間は皆悪人なんだと知る必要がある訳ですね。なる程、奥が深いけど、残念ながら納得せざるを得ない事実だと思います。
『心の本性』のお話にあったように、テレビの災害や人権侵害のニュース等を見て大変だなぁーと思いながらも、どこか他人事の自分がいます。私も悪人(我利我利亡者)の一員であることは、間違いないと思います。
マルクス・アウレリウスの思想がわたしは好きです。なぜなら彼は現場にいた。命懸けで戦った。自省録。いまだ理解に苦しむ。ですが読む。わたしはまだまだだ。
法律で善人でいても、道徳のなかで善人だと思えても、仏の目からみたらまだまだ私達は悪人なんだなぁと思えました。。お話勉強になりました。ありがとうございます。
我利我利亡者を卒業しようと非人を目指せば何も出来無い!何も思え無い般若心経!
善人と悪人の定義がよくわかりました。ありがとうございます。
せめて道徳的な人間で在りたいと思います。先生ありがとう御座います🙏
わかりやすい。あざす!
菊谷先生、今回も大切なお話と有り難い説法に心より深く感謝申し上げます。我々の心は虚仮不実の心で、言念無実で真の心はありません。「皆人の心の底の奥の院、探してみれば本尊は鬼(遠仁)」なのですね。善人とは自力作善の善人で、慢心自惚れに満ちた自己の姿ですね。我々は煩悩具足、曽無一善、一生造悪で自力無功の存在ですね。「世間虚仮唯仏是真(世間は虚仮にしてただ仏(弥陀の本願)のみこれ真なり)」ですね。弥陀から賜る真実の信心こそが悟りを得る「因」、「弥陀如来廻向の真実信心を阿耨菩提(弥陀同体の悟り)の因とすべしとなり」ですね。弥陀の智慧の光明(縁)に照らされて信心獲得(果)するまで法鏡に照らして、まずは真実の自己の姿を知るしかありません。只仏法は聴聞に極まることなり、聞法を続けていきます。本当にありがとうございます。今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。三戸拝
どうしてわざわざ誤解を招くような言い回しをなされたんでしょうね。「人は善人になどなれない、それが分からないものでも救われるのに悪人だと自覚しているものなら尚更だ」とストレートに言えなかった理由は本に書いてあるのでしょうか?
私が以前きいた解釈は、「悪人は阿弥陀仏の慈悲を信じているから悪い行いができるのであって、善人は信じきれていないから出来ないのである」といった内容のものでした。私個人としては、人は唯の人であり善人も悪人も存在しない、唯の評価に過ぎない物だと考えています。
尊い、ご説法、誠に、ありがとうございました。
「悪人(己の悪を自覚し深く苦海に沈む人)が本願力により往生する」との説明は理解できますが、ここでの善人が「己の本性(我利我利亡者/悪)を知らない人/苦海に沈まない人」であれば弥陀如来の本願、本願力の対象ではないと考えますがいかがでしょうか。なぜ「善人なおもて往生」するのでしょうか。ここでの善人は往生できないはずです。
悪人(迷い、悩み、苦しみの中にある人)↔善人(迷い、悩み、苦しみから離れた人)
本を手に取ってみたいと思います。
😀👍🤔🎶
大変勉強になりましたm(__)m
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人間に善人しか、いないと思います。
「神は人類を洪水で皆殺しにしたとんでもない奴だ」と心の中でいつも思っている皆殺しにした神が悪いのか――それとも、「とんでもない奴だ」と思ってるオレが悪いのか・・・
世の中の善悪と仏教の善悪がよく分かりました。心が一番大切と改めて知りました。やはり醜い心が自分にもあります。😵💦菊谷さんいつもありがとうございます。🙇南無阿弥陀仏🙏
見た目では大笑いして、腹の底では妬みや恨みで煮えくり返っている人もいます。我利我利亡者という言葉はじめて知りました。利己主義な人は、人の死は自分にはなくて、自分の命は永遠の尊厳で満ち溢れています。仏心はなくても、人は自分の境遇に於いて、気づく人の痛みもあります、私はそれを大事にしています。大勢の人の幸せという環境があって、人は平和のうちに笑顔になります。また一つ学べました、ありがとうございました。
仏教に説かれている本当の幸福とはどんなものか、20日間の無料メール講座で話しをしています。
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誰も言ってはくれない事を、言って貰えました、気持ちが良いです。ありがとうございます。
菊谷先生のお話をTH-camを通じて毎晩数本観させていただいております。本当に有難く感じています。
日々日々、こうして仏教の教えを少しずつお聞きしていると、だんだんと仏教がわかったような傲慢な気になってきますが、ふと思い返してみると、やはり「我利我利亡者」の自分が今日もあの場面でこの場面であったなと思い知らされ、やはりもっと精進せねばならないという思いにさせられます。
客先周り中の休憩でノジマ電機店の健康チェアでスピード視聴中です。
帰宅後にも再視聴して勉強にいたします。
ありがとうございました。😆✌️✨
菊谷さん
いつもありがとうございます😊
他人の災難を心の中で笑う自分、確かにいます。そのくせ野次馬根性丸出しの人を見て「人の不幸を笑うなんてありえない!」と偽善者ぶる自分もまた存在しています。
どうしましょう、、、😥
菊谷さんの過去のお話もたくさんこれから聴いていきます。救われる日がくることを願います。
我さえよければよし、
自分の心をみればみるほどにその通りです
いつでもそうなのでうんざりします
そして周りの人々も同じくそうなんでしょう
この心のまま幸せを望み、正しいと思っているですから
自分も含めいかに狂っているか知らされます
菊谷先生、ありがとうございます。「本性」とは生まれたばかりの時に持っている穢れのない仏の心と理解していました。その心が己の悪、事故などに依って苦しみをを生み、その苦しみが直ぐに解決できないと心の奥に閉ざされてしまい、そうなると人によってはどうにもこの苦悩の解決はできません。仏法を聴聞し法鏡によって本性に会うことができると、そこで苦しみから解放され「絶対の幸福」をつかむことができると思います。🙏
いつも拝見しています。
後半はとてもズシッと胸にささりました。善人とは心から感情移入できる人のことを差すのかな、と思いました。
基本的に、性悪説という事ですね。善人とは未熟な凡人、偽善者という事ですね。
性善説を主張する人達は、まだ善人でしかなく、人間の真の姿、心を知らないという事ですね。
なんだかんだ言っても、人間は皆悪人なんだと知る必要がある訳ですね。
なる程、奥が深いけど、残念ながら納得せざるを得ない事実だと思います。
『心の本性』のお話にあったように、テレビの災害や人権侵害のニュース等を見て
大変だなぁーと思いながらも、どこか他人事の自分がいます。
私も悪人(我利我利亡者)の一員であることは、間違いないと思います。
マルクス・アウレリウスの思想がわたしは好きです。なぜなら彼は現場にいた。命懸けで戦った。自省録。いまだ理解に苦しむ。ですが読む。わたしはまだまだだ。
法律で善人でいても、道徳のなかで善人だと思えても、仏の目からみたらまだまだ私達は悪人なんだなぁと思えました。。お話勉強になりました。ありがとうございます。
我利我利亡者を卒業しようと非人を目指せば何も出来無い!何も思え無い般若心経!
善人と悪人の定義がよくわかりました。ありがとうございます。
せめて道徳的な人間で在りたいと思います。先生ありがとう御座います🙏
わかりやすい。あざす!
菊谷先生、今回も大切なお話と有り難い説法に心より深く感謝申し上げます。我々の心は虚仮不実の心で、言念無実で真の心はありません。「皆人の心の底の奥の院、探してみれば本尊は鬼(遠仁)」なのですね。善人とは自力作善の善人で、慢心自惚れに満ちた自己の姿ですね。我々は煩悩具足、曽無一善、一生造悪で自力無功の存在ですね。「世間虚仮唯仏是真(世間は虚仮にしてただ仏(弥陀の本願)のみこれ真なり)」ですね。弥陀から賜る真実の信心こそが悟りを得る「因」、「弥陀如来廻向の真実信心を阿耨菩提(弥陀同体の悟り)の因とすべしとなり」ですね。弥陀の智慧の光明(縁)に照らされて信心獲得(果)するまで法鏡に照らして、まずは真実の自己の姿を知るしかありません。只仏法は聴聞に極まることなり、聞法を続けていきます。本当にありがとうございます。今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。三戸拝
どうしてわざわざ誤解を招くような言い回しをなされたんでしょうね。
「人は善人になどなれない、それが分からないものでも救われるのに悪人だと自覚しているものなら尚更だ」とストレートに言えなかった理由は本に書いてあるのでしょうか?
私が以前きいた解釈は、
「悪人は阿弥陀仏の慈悲を信じているから悪い行いができるのであって、善人は信じきれていないから出来ないのである」
といった内容のものでした。
私個人としては、人は唯の人であり善人も悪人も存在しない、唯の評価に過ぎない物だと考えています。
尊い、ご説法、誠に、ありがとうございました。
「悪人(己の悪を自覚し深く苦海に沈む人)が本願力により往生する」との説明は理解できますが、ここでの善人が「己の本性(我利我利亡者/悪)を知らない人/苦海に沈まない人」であれば弥陀如来の本願、本願力の対象ではないと考えますがいかがでしょうか。なぜ「善人なおもて往生」するのでしょうか。ここでの善人は往生できないはずです。
悪人(迷い、悩み、苦しみの中にある人)↔善人(迷い、悩み、苦しみから離れた人)
本を手に取ってみたいと思います。
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「神は人類を洪水で皆殺しにしたとんでもない奴だ」と心の中でいつも思っている
皆殺しにした神が悪いのか――それとも、
「とんでもない奴だ」と思ってるオレが悪いのか・・・