邪馬台国90度回転説の謎!なぜ方角がズレた?魏の使者が騙された理由
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- เผยแพร่เมื่อ 25 ก.ค. 2024
- 日本列島を90度回転すると、邪馬台国の位置が見えてくる?
一体どういうことなのだ?
今回は、邪馬台国90度回転説について深掘りするのだ!
エンターテイメントとしてお楽しみください!
#古代ミステリー #邪馬台国 #90度回転説 #卑弥呼 #魏志倭人伝 #畿内説
00:00 日本列島90度回転説ってどういうこと?
01:27 言語的な誤謬説(翻訳混乱説)
11:04 卑弥呼の策略説
19:47 本当に回転していた!?
23:59 翻訳混乱説に対する疑問
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いくら古代でも太陽が昇る方向、沈む方向でおおよそわかりそうなもんですが・・・・
私は松浦郡周辺の出身で、いつも松浦郡の北西東がめちゃくちゃだなと疑問に思っていましたw
まさか邪馬台国の話で、私の地元の棚倉断層が出て来るとは思わなかった。
面白かった! 浪漫しかない。色んな説があるよねっていう動画だよね?
「倭人」が古くは中国南部の人を指したという話があるので、古琉球語での方角を参照するのは一定の説得力があるように思えます。
で、伝言ゲーム的に方角が変わったとしてら…面白い説ですね。検証する意義があると思います。
魏の使者は北九州から先へは行けずにそこから先は、日本人の話を鵜呑みにしただけですもんね。
首都の位置を把握されないようにしてたり、ニシ間違いで誤訳だったり、どれもありそうですね。
実際に行けばこんな事になってないでしょうけど、江戸時代の出島みたいに北九州が当時の窓口で、使者は首都まで行かせてもらえなかったんでしたよねたしか。
魏志倭人伝に、「末盧国(松浦)から東南に陸行すること五百里にして伊都国に到る」とあるが、実際には伊都国(糸島)は北東にありますね。
東南だと伊万里方向になります。東南方向に出発して伊万里を経て東北に向かって伊都国という意味かもしれませんが。そうであれば最初から壱岐島から伊都国に船で行く方が合理的かと思われるのですが。
赤ちゃん突然喋って「あるでちね?」なんて言われたらキュン死しちゃいます😊🎉😊🎉😊🎉😊
なんか技みたいになってて
バトル物になってるの笑った
日本列島が回転したってそれは1000万年単位の期間の話だもんね。卑弥呼の時代はたったの1800年前。
太陽の動きで気付かないんかい!
北極星もあるぜ!
そう思う。
魏志倭人伝の記述は北九州上陸するまでは道のりの険しさやそこに住まう人の生活などが書かれてるのに
それ以降は道程と国名と官の名前、ざっくりした戸数しか書かれてないから魏の使者は実際に行ったのでなく口伝だった可能性もあります(´・ω・`)
@@pkabFFpack さん
対海国(対馬)~不彌国までは人口は「有何千戸」と断定形です。
が投馬国と邪馬壱国(邪馬台国)は「可何万戸」と、推測又は伝聞です。
距離ではなく日数表示にもなっている。
従って「少なくとも不彌国までは行ったが投馬国と邪馬台国は倭人からの伝聞ではないのか」という推測も成り立ちます。
@@pkabFFpack
確かに口伝であれば方角が意図的にズラされてても何ら不思議はないですな
小学生の頃、地図帳見て気付いた。北九州の地名、90度おかしい
そうなんですよ
北東に伸びている東松浦半島はまだわかるのですが
南西に伸びているのに北松浦半島はどういうこと?ってね
このコメント読んでも北九州は福岡県(九州の右上)、松浦は佐賀県(左上)という知識があるといろいろ混乱する。
なんで北九州の話に佐賀の話が出てくる???となるw
よくよく読めば「北九州は北じゃないのがおかしい」と「松浦の地名もおかしいよね」という話だった
んー、方位磁石やスマホがない分、太陽や星で方角を悟っていたでしょうから、方角をだまされたとはさすがにないのではないかと思いました。
いきなり赤ん坊👶ダーイは笑いました😂❤
皇室の古文書の修復の仕事をしていた知り合いが
地図も沢山有ったらしいが
その地図は全て日本列島が逆さ向いてた
と
当たり前の様に言ってた
日本列島だけの地図ならば、東西南北が決められて地図が記されると考えるのが間違い。書物の文章の書き方を見れば、日の出る方向が始めと考えれば東が上でもおかしくはないし、畿内の結界の五芒星の向きから見れば南が上である。
@@user-od7uk5nq7t
中国朝鮮半島樺太等が描き込まれた世界地図上で
日本列島が逆さを向いているんですが
昔は「天子は南面する」とか、方角を示す機会も「指南車」、水に浮かべる方位磁針も「指南魚」と、南を基準にしていました。
日本列島の地図ではなくても、南が基準という考えは昔の中国にもあったと思います。
(誤記修正)天使 → 天子
アジアの広域地図で
日本列島が逆さ向いていたんですよ
抹消の曼荼羅でも方位が記されているものがあってそれも確か南が上だったような
船乗りが方向を間違える時点で有り得ない。書いた人が出鱈目だったと言う事。
20年前、あすかあきお先生の言う通り!日本のプレート4つ合体を詰まった。日本海プレート、中央プレート(静岡県)、南西プレート(邪馬台国)、北東プレートを合わせる。
青森説すき 八幡平=ヤマタイだけでゴリ押していくパワーに惹かれた
それに付け加えて、「~と聞く」の記述から使者は邪馬台国に着いてないとする説があって、それを支持するなぁ。
鯨統一郎の「邪馬台国はどこですか」?
宇佐八幡宮=卑弥呼の墓説を推してます。
サムネの地図見て、だいぶ前にムーで見てテンション上がったやつキター!(ヒャッホイ)てなった四国民ですどうも。
今は瀬戸内海海洋国家説が好きですねぇ!
太陽が見えづらくても、中国人は古代から北斗七星と北極星と季節・12ヶ月の方位関係を把握していたし、満月の登り降りからも東西は分かるし、方角が長期間に渡り、90度レベルでわからなくなることはあり得ない
この古代の極東の地図を数十年前に見たことがあります。その時にすぐにわかりました、90度回転されたこと。日本に来た魏国の使者は正しく方位を記述していたが報告を受けた本国の高級官僚が愚かな下級役人は方位も解らないのかと当時の地図に合わせて90度回転したのだろうと。ちなみに「邪馬台」を中国の古代語を研究している学者に読ませると「ヤーマード(ト)」と発音しているのを聞いたことがあります。ヤマタイと発音したのは日本人です。
邪馬台国 連合国家だし、卑弥呼が居てる場所 は最初から一定じゃなかった
となんで言う人居ないのかな?
つまり卑弥呼は巫女として国家を渡り歩き祭祀を行う事で連合国家間の鎹になっていたと思うけどな。
で、魏が来た時 卑弥呼は九州に居たと私は思う。先進地域は九州だったのだろう。だが、魏が来た時 卑弥呼は九州では危ないので畿内で会った。
あと、魏の使者が国の名前は?と聞かれたので
ヤマト大国と言ったのに魏の使者は邪馬台国と書いたと思う。もしそうならヤマトと言えば畿内だが、とっくに中心地は九州に移ってたんじゃないかな?
あと魏の使者がトップはだれ?
と聞きてきたから姫巫女様です。と答えたのが卑弥呼が支配してるとなった‥と誰か書いてた。
だから卑弥呼なんて人物は居ない。姫巫女に当たる人物が色々居てるがその内の誰がが卑弥呼(姫巫女)私もそう思う。
現代人でも日本のトップ誰?と聞かれたら名前で答えず天皇ですと答えるだけ。
あと中華思想バリバリの未開調査団
ヤマト大国を邪馬台国、姫巫女を卑弥呼って 蔑称混じりで伝えてても全然不思議じゃない。
九州が本拠地で実際に政治を行なってたのが近畿
赤さん生きてて良かった。
茶番を交えてわかりやすくまとめられてておもしろかったです。
いわゆる「民俗方位」というのがあって、地域の特徴的な形や集落の位置なんかによって、呼ばれる方位が変わることはよくある
正確には北北西にある山脈から吹いてくるのが北風…
日の出山と俗称される山の朝日が素晴らしいと地元で言われているが、市街地から見ると南南東…
南北道路と言っているものの、くの字型に曲がっててどの直線部分も南北を正確に表してない…
ずんだ西駅が街の中心部にあるので地元の人が「西に行く」というときは、街の中心部を指す…
みたいな
古代の日琉祖語での方角はまさにその民俗方位であって、中華王朝の正確な方位認識とはズレるのは仕方ない
中国が使ってたような絶対的な方位(当時だと十二支かな)みたいな文化はまだ倭国にはなかっただろうしね
日琉祖語での方角を調べてたら、現代波照間島での方言がちと面白かった
北:ニシ
南:ペー
東:アリ
西:イリ
波照間島民「お店はペーの方にあるよ」
ずんだもん「ありがとう!中国語で言うなんて麻雀みたいで面白いのだ(てくてく)
波照間島民「おおい、そっちはニシだよ!」
ずんだもん「島の探検もしたいからそれもありなのだ」
波照間島民「ああ、そっちはアリじゃないよ!」
確かに、北枕も西枕も縁起が悪くて寝ないですね。ちな、鹿児島県の屋久島出身です。
北枕は誤った情報ですよ。縁起の悪い方向に仏様を寝かせるの?
元来風水学で縁起が一番良い方角が北枕。
だから敬うべき仏様を北枕に寝かせる。
@@user-fjomikoto へぇ、そうなんですね。風水興味無いから知りませんでした。
@@user-di2wo6tw9h さん
北枕は縁起がいいというサイト(論拠は上の方が仰る通り風水)と、縁起が悪いというサイト(論拠はタヒんだ人をこの向きに寝かせるから)両方ありました。
@@user-xq4ux7ob1m 自分が寝やすい向きで寝るのが1番ですね。
南(ハエ)は
苗字で南風原(はえばる)って呼んでる沖縄出身の同級生がいたなぁ。
長崎県佐世保市には「南風崎」と書いて「はえのさき」と読む駅があります。
南風をハエと読むのかなと思ってました。
(東風がコチみたいな感じで)
誤字修正
どこの島か忘れたけれど南風(ハエ)という名称のレストランがありました
発見した時はすでに廃墟になっていました 20年近く前の話しです
言葉遊び、概念遊びの域を出ない話で、学問の香りがしない。ドコにいようが太陽がある以上、方角は修正されてしまう。
魏志倭人伝を書いた人が…
倭人からの聞伝えだけをもとに書いたのか?
自分で行った経路を記録したのか、もしくは中国人の使者から聞いたことが書かれてるのか?
そのあたり次第では可能性があるかもですね。
当時の中国に方角を測る道具があったのか?とかにもよるかも…
ただ長い時間移動する中で太陽の動きが見えるような開けた道を移動したなら、なかなか方角をミスリードすることはなさそうにも思いますが…
昔だから、結構な大森林で空が見えないような道なき道を進んだこともありえますしね
おもしろい学説ですね
魏の時代には指南車があったが
羅針盤は無い
精度は❓
@@user-re2dg4pv5y さん
羅針盤まではないとしても、方位磁針に相当する指南魚はあったのでは?という話です。
当時、南北の距離を測るのに一寸千里法という技法が用いられていました。これは夏至の日の南中時に地面に垂直に立てた長さ8尺の棒の影の長さを測るというものです。その影の長さが1寸違う場合その距離を千里とする(洛陽付近の緯度に限る)というものです。
となると、正確に方角を調べることもやっていて、そこに指南魚があれば「真南から何度位ズレる」というのも把握してたと思います。
「東」と書いて「あがり」と読むのは昔々にFSSで・・・・・
魏の使いが北九州まで到達してたのは分かってるけどそれ以降は曖昧さが強く所謂口伝ぽいんですよね
邪馬台国は純粋にヤマトクニ(まだヤマトの名前がなかったと言われてますけどそこが怪しい)の口伝の当て字と考えるのが妥当で僕は近畿説が濃厚だと思いますけどね
そもそも過去世界的に見た文明の例でもかなり文化が発展するまでは災害の少なく水量の多い地域に都市を築いたら何百年に何層にもなって栄える傾向があって
そんなホイホイ海を越えた先に遷都するとは考えづらいと思うんです
今の歴史研究はそういったあたり前のことを無視して権威に従う傾向が強く
反対意見が言いづらい環境があるんですよね
僕はこういった流れを変えない限り歴史研究は進歩しないと思うんです(´・ω・`)
新幹線のアイス、硬くて食えねーでち~‼️
販売終了しましたね~。残念
そのアイスがなくなったでち~
悲しいでち~‼️
神武東征時に、日に向かったから負けたとか
日を背負って戦えとか
そう言う話がヒントかな? って
つまり、邪馬台国は太陽のある方角にある説ですかね😊
卑弥呼の2代後の後継者は「台与(とよ)」。そう、古代中国では「台」を「と」と読んだ。とすれば、邪馬台国は「やまと国」です。
台はəї(アイ)と読んでたようです。
「百度百科 台」で出てきます。
現在でもタイだったりイ(Yi)だったりします。
話はちょっとずれますが、仏教用語でも「h」を「k」で発音するものが多いので混乱します。例えば「蘇婆訶」は梵語で「スヴァーハー」、日本読みでは「ソバカ」または「ソワカ」だったり。空海最澄の時代以前の飛鳥時代に表音された漢字が代々使われているようです。
当時は星だったり、日の出、日の入りで方向の確認はするでしょ
全然信用できん説だわ
卑弥呼が占いで九州から近畿に移住したとしたら、両方の説が成り立ちますよね。
九州で災いや自然災害のせいで、近畿に移住した可能性はあると思います。
マクモニーグル説ですね
調査隊じゃないけど呉が東方の海上にある夷洲・亶洲に人狩りに行って失敗した話があるんだよね。26:35
で、夷洲・亶洲は実は日本列島の一部だったのではないかと言われている。
夷洲・亶洲は秦の始皇帝が徐福に不死の薬を探しに行かせた場所でもある。
元ネタは比較言語学のMinervaScientiaかな。
これって35年前に月刊ムーに書いてあって、吹き出した思い出があります
魏の使者が常に魏の都に北に向けておけば話が簡単。北松浦郡、西松浦郡の位置関係をグーグルの地図上でやればすぐにわかる事。
結局の所、説を確定させるのは物証しか無いという事がよく分かりましたw
衝撃のオープニングだったわ😂
賢い赤ちゃんだなぁ
書かれている時代の順序が逆なので誤解されがちですが『後漢書』のほうが「魏志倭人伝」を収めた『三国志』よりも100年くらい後に編纂されている歴史書です。
そして「魏志倭人伝」正確には『三国志』東夷伝、倭人条ですが
『三国志』という歴史書が編纂された理由として三国を滅ぼして中国を一時的に統一した晋を正統と記録させるという意図があります。その文脈で晋の皇帝の先祖である司馬懿が遼東半島に割拠した公孫氏を滅ぼして、その結果朝鮮半島や日本列島の国々と直接交流を持てた。という功績を強調したいがために邪馬台国までの距離を正確なものより「盛った」記録をしたことで司馬一族の威光は遠く太平洋上まで及んだ、としたかったのかな?とずっと考えていました。でもこの動画の魏の人が方角を違えて記録したという仮説はそれを覆すだけのものがあると思いますので、そのへん考え直してみたいと思います。
毎度長々としたコメント失礼します。
司馬一族を持ち上げるために距離を盛った説はありますね。でも突っ込まれたら言い逃れできるように短里で記したという話も聞きます。
@@user-xq4ux7ob1m そうなのですよね。そういう言い逃れができる余地を残して記述できるのが、中国の歴史家のすごいところだと思います。そういうとこから後世の読者が色々察することができますし。
根本的なところでは日本の一里と中国の一里は長さがかなり異なります。
中国の漢代では一里は400mほどとされています。(清代のころは500mほど)
日本でも古代の頃は一里=500mほどでしたが、秀吉の頃には一里=約3.9kmという基準が生まれており
これがそのまま江戸時代以降から現代まで受け継がれています。
江戸時代の学者がこの距離の違いを知らずにそのまま記載してしまった、という可能性もあります。
@@wonder7397 さん
魏志倭人伝には、帯方郡から狗邪韓国(今の釜山)まで七千里(kmで言うと500~600km)とあります。
狗邪韓国~対馬、対馬~壱岐は千里とあり、80kmほどです。
当時の測量技術として、長さ8尺の棒を地面に垂直に立てて、夏至の南中時の長さを測定する。
その影の長さが1寸異なる場合の南北間の距離を千里とする、という技術が用いられて、
ここでいう里は「短里」と言います。これだと一里=76mほど(千里=76kmほど)となり、
Google Mapに照らして誤差の範囲で方角も距離も正確です。
尚、魏の当時1里は435mというのが一般的な度量衡でした。
近畿説では九州に上陸するまでは短里(76m)で、上陸してからは普通の里(435m)で考えています。
江戸時代の学者も「ここでいう1里は75m(1尺30cmとして250尺)位」というのは把握していたはずです。
でも当然に邪馬台国は近畿である。
この矛盾を解決するために、九州内部は短里でそれ以降は魏の普通の里で記載されていたに違いない、という解釈に至ったものです。
太陽みたく、地磁気が分極した時期があって※?人の認識が左右ミラー反転して南岸伝いで筑波まで来た。(無理矢理だな💦)ブッアバ~ッ血😵
このシリーズずんだもんがかわいいので好き😊
奄美では、秋に吹く始めの北風をミィニシと言います。ミィは新しいなので、北風をニシというと思ってます。
帯方郡から女王国まで1万2千里
邪馬台国は九州
238年頃は魏、特に帯方郡は慌ただしく大変でしたからね〜😅
公孫淵が叛くわ、明帝亡くなるわ。
倭を蔑ろにして新たな争いの種を蒔きたくない時期である程度の誤謬には目をつぶっていたのでしょう。というワケで魏志倭人伝の内容は当時の倭が主導のファンタジー、とにらんでます😊
なぜ方角がちがうのか、は航海の要となる羅針盤(コンパス、方位磁石)の発明が9〜10世紀なので、まだ羅針盤がなく、しかも地動説なので、太陽は東から上り、上下に動いて、東に沈むと考えたからです。
つまり、早朝に出発する時と朝10時頃出発する時、など出発時刻により出発方角は異なります。
倭国(福岡)は、その一族か、その系統が分かれて、奈良にできた国を倭国(やまとこく)というと旧唐書や新唐書に記載されています。
後漢書東夷伝には、倭国(福岡)はやまと国の南端の国(または地域)と書かれています。
対馬と五島と間違えていたら、あり得る
こんな説あったのね。北が上ってのも確かに今の概念か。
回転説面白いよね。
でも確実に言えることは赤ちゃんにアイスは炎天下じゃなければ腹下すのだ!
多賀城創建、修復の記録として作られた石碑の上部には大きく「西」と書かれています。
石碑には修復の記録と将軍大野朝臣東人の名前、各地への里程が書かれてます。(8世紀)
邪馬台国の台は簡略化された漢字で書物に残っているのは邪馬臺や邪馬壹です
臺と壹の違いは下部の部分が至と豆という事がわかります
至は氷室の室と同じようにムロと読むこともできます
ムロを縦に並べると台になります
簡略化する時に遊び心を発揮したのでしょうね
そして至は倒壊の倒と同じようにトウと読むこともできます
つまり至と豆の共通の読み方のトウが正しい読み方というわけです
という事でヤマトが正しい読みという事です
魏の発音が記載されているサイトがあります。
「百度百科 臺」で出てきます。
臺はəї(アイ)と読まれていたようです。
ポールシフトで地軸がずれていたのかもですね。
そうだよな、道に迷うときは現代でも道に迷うもんな
中島みゆきの「糸」
縦の糸はあなた(男)、横の糸は私(女)
経度線と緯度線の経緯の字義は織物の縦糸と横糸です。
神功皇后が鮎釣りをするためスカートの裾から糸を抜きました。横糸(女性)でしょう。なので縦糸(男性)は釣れません。
神社の千木の区別。縦に削られている外削ぎ(男神)、横に削られてある内削ぎ(女神)も縦横区別があります。
イザナギとイザナミどちらが先に声をかけるかの間違いは、縦糸横糸の関係で90°回転になります。
緯度と経度の勘違いは、同じ度数ですら、緯度により経度間隔は異なるので、方角の勘違いになります。
国産みに失敗したのは、緯度を先に呼ぶ(女性である横糸を呼ぶ)べきを、逆にしたからです。
そのような90°回転の間違いがあるのです。
ロマンあるな~
20年前にあすかあきお先生が言ってたあれか
言ってましたね。私、コミックで持ってましたw
20年どころか30年以上前に漫画で言ってましたね
懐かしい名前が、アスカアキオ先生の😅‼️
『あすか先生、お久しぶりです。カトウ(仮名)です。教授の指示により参りました。
日本地図の謎解きの初出は、かつて1988~92年の間に小学館から出版されていた(ある意味伝説の)隔月オカルト雑誌「ワンダーライフ」で先生が連載なさっていた「ショックサイエンス」シリーズですね。実は私もその主要な登場人物の一人です。
毎回冒頭2ページで先生本人の写真が何枚も貼られていたり、見開きで先生のドアップと共に新説を世界に向けて発表するのが、実に味わい深かったですね。』
そうでちね
好きな説でち
魏志倭人伝の記述通りなら邪馬台国は沖縄県であり、否定するためになんか無理矢理に太平洋上としているが、南方を真南とするのが間違い🗾至と到の解釈違いもある🗾
言語的に方位の90度回転の概念があったとして、日の出日の入りまで90度できるわきゃねーので、ちょっとムリゲーですね。
魏の勅使が、籠に乗って移動していたら、行程の移動方向を間違う(騙される?)可能性がある、と思う🙄
なお、琉球方言?は日本(大和)の現代まで続く古語なので、発音「ニシ」は古代日本の「北」でよい🎯、と思う🤔
@@yari-pg1tv さん
方角はともかく距離はどうやって出したの、という疑問が湧きます。
距離は一寸千里法という方法で測定したとのことです。
これは、夏至の日の南中時、地面に垂直に立てた八尺の棒の影の長さを測るという方法です。それが1寸違う場合、南北の距離を千里とする(あくまでも洛陽に近い緯度の場合。緯度が変わってくると1寸の影の長さの差が距離と合わなくなってきます)という方法です。
末盧国~不彌国までは距離が里数で書いてあるので、魏の人間が測定したのではないかと思います。
日の出日の入りは季節によって60度は変わります。
90度までは流石に変わりませんが、古代において季節による方角呼称のブレや正確性の大小はあったとしてもおかしくは無いでしょう。
北をニシと呼んだとして時間軸では大和言葉は混乱してるけど、ニシと呼ばれて西を想像できない当時の通訳が間違うわけはないわ。
@@majesty164 さん
自分は「一寸千里法」という技法をちょこっと書きましたが、夏至の日の南中の影の長さをもって南北の距離を知る方法です。
夏至ではなくても南中時の影の方向から、真北はどちらか、というのは理解されていたと思います。
日の出日の入りが、その日の真東、その日の真西、という考えはないと思いますよ。
鯨統一郎の書籍でもこの推してたな
方角は即座にわかります。方角は常に気にして生きています、昔の人は。
_そもそも琉球語でも古い時代には西をニシと呼んでいて、そこからイリに変わって現在に至るのが判っていますので、古代で既に北をニシと呼んでいたとするのは無理があります。
仲哀帝のエピソードにしても、地図を観れば朝鮮半島の東端は九州の西端はほぼ同じ経度なので、朝鮮が(日本の)北にあるという解釈も無理があります。まあ対馬から観れば確かに北なのですが、はたして対馬が神託の基準になり得るかというと微妙でしょう。
沖縄方言だとニシが北というのは聞いたことあるが…
8:23 勘違いしたまま、というのはどうだろう? 太陽は東から昇るし西に沈む。途中で気づきそうなものだが。日本で北をニシと言っていようが関係ないんじゃ?
9:24 日本の古い地図は地名注記も一定の方角を向いていないことが多いから……。
昔、飛鳥昭雄先生が物理的な90度回転説を唱えてた。
西日本は時計回りに90度回転していて、東日本は180度回転していた(だから、昔は南側で暖かだった東北に大規模縄文遺跡がある)。ある日、突然東西日本が回転を始めて衝突。驚天動地の出来事を経て、別国家だった蝦夷との戦いが起こるようになったと。
あるはず無い話だけど、好きな話ではある。
背ぶり山通ってくるかな~1000m上るんだぞ いまでこそ道があるけどヘアピンカーブだらけ 断崖だらけ
遠くからわざわざ使者つれてきてんだから発展してない地域みせるかな~ 筑紫鳥栖あたりは街道が整備されてたのだから通りやすい道通すと思うけど
背ぶり山上れば佐賀と福岡一望できるから方向を見る上で上る価値はあるけど使者を伴っては危険すぎるし、わざわざ地形を見せるような山を登らせるかな~
背振山は無理ではないかと思います。
唐津から背振山の西側を通って小城に至るルートであれば、唐津から東南に五百里(40km位)であり、位置的にも距離的にも大体合ってますし山道とはいえ背振山を通るのよりは説明がつくと思います。
鯨統一郎先生の「邪馬台国はどこですか?」をお読みください。
海上で方位を間違えない人間が陸上で間違うわけなくない?
籠などの外が一切見えない乗り物に夜明け前から日没後まで乗りっぱなしってのも現実的ではないと思うし、仮に乗っていたとしたら距離がわからなくなると思う
当時の沖縄九州人が90度回転し認識してても、海を渡ってくる勅使一行が方位を間違うはずがないし、三国志を書いたのは中国人。
中国人からしたら海の向こうの蛮族の言うことを鵜呑みにするわけないでしょ。
卑弥呼があえて難所を通り、遠回りしてルートを偽装した可能性はあると思うけど。
屋根付きの船を使っていたら方位をごまかすのは容易だね。
2:39 仏教では「北の方角に死後の世界がある」と考えているわけではありません。あくまで「お釈迦様が亡くなった時に頭が向いていた方角」です。
沖縄の話は知りませんが、動画を信用するなら死後の世界が西にあるという理解ですが、仏教でも西方浄土という考えで死後の世界は西に在ります。
(阿弥陀如来の極楽浄土の方角が西という考え)
自転軸という意味での北(北極)を軸とした東西南北はそれほど変わるものではありません。
が、磁石で言う北(磁北極)は結構流動的です。
磁北極が今とズレてるだけ、という可能性は詰めているのでしょうか?
他の文献には、今の壱岐島は「一支国」として出てきますが、魏志倭人伝だけ「一大国」です。
ここは崩し字を読み間違った、そもそもの表記ゆれ、などの可能性が指摘されていますが、
一大卒(大きな軍隊)を置いたから一大国と記した、という可能性があると考えています。
狗邪韓国(釜山)から対馬、壱岐までは一本道です。壱岐からは上陸する場所はいくつも考えられますが。
であれば、壱岐島に一大卒を集めておけば対処しやすいと思います。
それでも水城と言った土塁を作ってます。福岡に上陸されたら最も内陸に攻めてこられやすいです。
卑弥呼は外交上、唐津から東南方向に山道を進んで到達するところを伊都国にしたのではと思います。
今の地名で言う小城市か佐賀市が伊都国ではないのかと思います。
まず三国志で倭国の旅程を記したのが中国の人間である事
次に倭国への旅程が短里で記述されてる事
短里とは夏至正午の八尺棒の影の長さを基準としており、影の向きは真北を向いているのだから方角など間違えるわけがない
最初に述べたように中国の使者は遥か洛陽から朝鮮半島を経由して海を越えてやってくるわけで、そんな事測量技術無しにできるわけがない
九州の地名を見ると東○○とか西○○を90度回転にするとちょうど良いし岩手の南部地方が見事に日本列島の南部になるから納得
いろんな説を聞いたけど今は阿波説が一番理にかなってるように思う。なんでその説が今主流になってないかの説明も含めて。
「北枕が縁起が悪い」
は誤った情報。
風水学で最も縁起の良い北枕。
だから尊い仏様になった人を北枕で寝かせる。
これはいい発見です。しかし、申し訳ないですが、誰がなぜ行程記事を書いたかを推理する必要があります。でもその前に、邪馬台国の場所を魏志倭人伝の行程記事からではなく、考古学から推理する必要があります。倭国大乱は二世紀後半の鉄鏃・銅鏃の出土状況を調査するとその痕跡が見つかりました(詳細は「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」参照)。
そういう事実に基づいて推理すると真相に近づけます。多くの方は文献に基づいて仮説を立てるので、事実と合わなくてもちゃんと解釈すれば正解にたどり着けるはずという信仰があるようです。まったく非論理的な発想なのです。事実に基づいて、文献にウソが書かれた目的を考え、仮説を立てて、検証していくと真相に近づけます。アブダクションという第三の推論法です。よろしければ、【刮目天の古代史】古代史を推理するをご参照ください!
なお、行程記事を書いたのは倭国王帥升の孫の難升米だと分かりました(詳細は「伊都国の意味がヒントだった?」参照)。卑弥呼が居た場所で魏志倭人伝にある日本最大の円墳「三柱山古墳」も発見しています。どうもお邪魔しました(;^ω^)
そもそも魏の使者が邪馬台国に到着して謁見した的な記述がないんだよね。
女王は伊都の国にいたと思います。
魏志倭人伝には女王は伊都国にいたとあります。
國國有市交易有無使大倭監之 自女王國以北特置一大率檢察諸國諸國畏憚之。
常治伊都國 ← この部分
於國中有如刺史。
また、末盧国の次に伊都国が出て来るところでは、帯方郡の使者が常に足を停めるともあります。
郡使往來常所駐。 ← この部分
また、伊都の伊は「神を呼び寄せる聖職者」の意味があり、都は「みやこ」首都です。
卑弥呼がここにいたのならぴったりの名前です。
従って、魏の使者が倭人の発音に漢字を充てただけという説にも疑問を持っています。
邪馬壹国をどうして皆んな邪馬台国って書くのか謎です。素直にヤマト国で検証した方が混乱しないと思うんだけど…読み方の違いも正確な情報を与えないのも両方有ったのかも。
呉は日本に調査隊を派遣したよね。辿り着けなかったけど。
呉の年号(赤烏元年と赤烏七年)と記載された鏡が出土しています。どこかが呉と繋がっていたとも見えます。
恐らく台湾~琉球~南九州~ ではないでしょうか。
それが大和朝廷ではないのか、という気がします。
日本語には呉音は残っているが魏音は残っていません。
この理由は、定説では「漢音が入ってくる前からあった音を、漢音が入ってきたときに区別するために呉音と呼んだ」
「呉というのは、稲作が伝わった南方という程度の意味であろう」というものらしいです。
が、大和朝廷が呉と繋がっていたために呉音が残ってて、北九州が魏と繋がっていて魏音を使っていたとしたら、
後に大和朝廷が九州を平定しますので、魏音が残っていなくても不思議ではないと考えています。
そのころには、羅針盤はあったはず。南北を間違えることは考えられません。問題は距離だと思います。
神は東からエルブラス山頂を越えてやって来た❗と聖書には書いてある。その当時は東を上にした地図が当たり前の描きかたでした
あの当時の一里の長さが、今とは違っているんじゃないの
むちゃくちゃで面白いでち
当時の中国語を現在の日本語で読んでる事が間違いらしいですよ。
それはあります。
卑弥呼の卑ですが、日本では「いやしい」という意味で、卑弥呼も「いやしい(と蔑まれた)みこ」と読みがちです。
が、台湾の学者の見解によると「酒器」を意味し、「酒器を持って神に仕えるという職業も表すようになった」との事。
記述の通りだったとしたら、太平洋の真ん中……。
大きなUFOの母船が浮かんでいたのでは?😂
最後の説が一番ありそう
いずれにせよ、ヤマトは邪馬台国との関連(剽窃・簒奪を含めて)があるのは音的に疑い得ないとは思う。ただし、奈良で勃興したかどうかと言われれば、それは違うとは思うんだよね。山に囲まれて平野部が小さい土地だからさ。それに海辺でもない。神武東征との関係もあるので。
なので邪馬台国となった時にどこにあったかは別としてルーツは九州だと思ってる
因果関係が逆である可能性もあるのです。
魏から西晋に変わり蜀漢と呉を平定しました。その後西晋から東晋、ゴタゴタして隋になります。
隋の時代には近畿から遣隋使が渡っています。
日本の正当な系譜は大和朝廷である、ということを推したために、大和朝廷は邪馬台国の流れを汲むものという歴史をでっちあげた可能性を考えています。
古事記と日本書紀を作った人は魏志倭人伝を読んでいたらしい。
つまり、「南に水行二十日で投馬国、南に水行十日陸行一月で邪馬台国」という部分と整合性を持たせるために、
小野妹子が「これが大雑把な倭国の範囲図です」などと言って、90度回転した図を見せたのではないかと勘繰っています。
それが後の混一疆理歴代国都之図(動画の図)まで尾を引くことになったのかも知れません。
もし、そう言う風に大和朝廷が整合性を持たせて地名などを作ったのであれば、邪馬台国に発音を似せて大和をヤマトと読ませたり、
九州の地名も90度違ってることを示すために北とか西がおかしくなるように地名を付けた。
大和朝廷は九州討伐を行って九州を征伐していますから、その時に証拠になりそうなものは壊すなり地名ロンダリングしたり、
そういうことを行ったかもしれません。
オレは推す!「魏の使者勘違い説」ハイハイも出来ない赤ちゃんにアイスはイカン!
最後まで観たけど結局何も分からなかった
近畿説と畿内説で混乱しているのだ
邪馬台国は無かった可能性はないのでしょうか?
赤ちゃんキャラは笑い取れます😆
隋書には邪馬台国には阿蘇山があると記載がある。
従って、九州です。
無理なのだ。
日の巫女、卑弥呼様でも日の出(東)、日の入(西)までは変えれないのだ。
また、魏の使者が海を渡って来てるので日の昇る方向が分からないほど阿呆ではないのだ。
卑弥呼の卑は、台湾の学者の見解によると「酒器」を意味し、酒器を持って神に使える仕事をする人も意味するようになったとの事。
当時倭国には文書があったと魏志倭人伝にありますから、漢字もその意味も理解されていたと思われます。
すると、卑を火や日に結びつける(卑弥呼は日の巫女)論には疑問符が付きます。
そもそも、巫はフとかカンナギと読みます。巫女でミコという読み方にはなりにくいと思う。後付けで秋桜をコスモスと読ませたようなものだと思う。
元寇の上陸ルートもその名残だった…?
邪馬台国旅団説
移動しながら大和政権に変化
無いなー
太陽のある南の位置は変わらない
旅をしていれば太陽の位置を知ることができるのだから、この説には無理があると思う。季節によらず、北回帰線よりも北側では太陽は南東から昇り南西に沈むのだから。
木の切り株を見る機会があればなおさらのこと
近畿ではなく阿波だよん。
太陽の位置から方角が分かるの出羽?今以上に、方角は、大切ですよね
星や月や太陽の動きから、季節を読まないと農業はできません。
農業がおこなわれている以上、東西南北の感覚は今の人以上に有ったと思います。