安息日は現代でも守るべきなのか <マタイの福音書12章前半>【聖書の話108】クラウドチャーチ牧仕・小林拓馬
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- เผยแพร่เมื่อ 10 ก.ค. 2024
- 完全オンライン教会クラウドチャーチのプレミアム集会での聖書の話です。
「安息日は現代でも守るべきなのか 」
新約聖書 マタイの福音書 12章前半
※事前に準備をせず、クラウドチャーチの集会で参加者が語り合った内容から話を構成しています。
<目次>
00:00 安息日とは何か
08:58 現代でも安息日を守るべき?
10:11 イエスの3つの理論
27:29 イエスを拒絶したユダヤ人
33:55 キリスト教も同じことをしている
37:24 本当の安息日とは
43:33 異邦人のさばきとは
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※動画内の聖書の言葉は、特に断りがない限り「聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会」から、著作権法第32条に基づき引用しています。
慰めのメッセージでした。有り難うございます。感謝します。
アーメン。
今回の動画であらためて、自身の聖書の読みが足りなさがわかります。
私の器では、真っ黒になるぐらいに聖書を読まなければダメなような気が•••••
導きによ頼みつつ、ベレアの人たちのように日々学びですね。
今週も気づき学びを有り難うございます、感謝。
確かに「ヘブル人への手紙4章」で、神の安息に私達が生きていることは明確に書かれてます。それに安息日を守る律法にのみ縛られる事も必要はありません。ただ、日常から離れて、神様に崇める事に焦点を合わせる時を最低一週間に一度設持つことがキリスト教に対して非本質になっていくだろうか?!安息(日)の本当のコアの意味とは違っても週一回兄弟姉妹と顔を合わせ祈り合うことは、私にとっては神の安息を感じる大事な時間です。
'聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。 '
テモテへの手紙二 3:16
旧約聖書の教え、律法に従うのは一つのフレームとして信仰生活の助けになると思います。人間は自由な環境だけでは、神を見失いがちです。安息日を守る事にもそう言う意味はあると思います。
ありがとうございます!
その通りだと思います!!
カルト化した教会から出た今は動画の内容を理解できます。が、まだ教会に行っていた時、牧師(や長老)に「安息日を守りなさい(=主日礼拝には来るのが当たり前)」と言われると、休まざるを得なかった場合は非常に罪責感がありました。
キリスト教の口伝律法を口伝律法と思わず、純粋に神様に従っていると思ってしまう、、、私は抜け出せましたが、まだ勘違いだらけのキリスト教文化の渦中にいる人達、教師も含め知らずとも加害者でもあり被害者でもあるんですよね、、、
今回も真実の発信をしてくださりありがとうございます。批判はあると思いますが、正しいと思うことを発信し続ける勇気に感謝。それにより、互いに健全な議論や教え合い、戒め合うことができたら素晴らしいことですね😊
大変勉強になりました。
安息日をテーマに取り上げていただきありがとうございます!
すごく気になるテーマだったので、拝聴させていただき、とても参考になりました。
自分の中で疑問があるのでいくつか挙げさせていただきます。
「あなたがたの逃げるのが、冬または安息日にならないように祈れ。」
マタイによる福音書 24:20
という箇所からイエスが天に帰られた後も、安息日はあるということを以前違うTH-camの牧師さんがおっしゃってたのもあって、私は安息日を毎週過ごすように心がけてたのですが、そこをふまえるとどうなんでしょう。
安息日の過ごし方が問題であって、イエスは安息日を過ごさなくてもいいとは語っていないようにも思います。
そして、十戒は今も破るべきではない戒めとして、生きていると考えると安息日だけ過ごさなくてもいいという風には考えられないような気もします。
安息日を過ごすことで受けられる恩恵もあるのでは?と考えると、信仰を持って安息日を過ごすのは良いことであるようにも思います。
安息日について一番大切で基本的な事はいつかと言うことだと思います。それは、第7日目、土曜日ですね。
悪は「時と律法を変えようと望む」とあるように神の律法である十戒を改変しようとする(した)。
安息日は神様が聖別された日だから休んでもいい日で、神様も休んだからこそ、
私たちも呪われた土地で食べるために苦労しなければならない苦労から解かれる日。
この概念がなかったらずーっと労働しないといけなかったのかもなのですね(^_^;)
と思うと、安息日はわざわざ仕事しないで休んで神様に思いを馳せたいなと思います。
神の民に残されている安息は、6000年の地上歴史のあとにくる7000年目の1000年王国は安息の時期のことかな。
個人的には小林拓馬さんが安息日に聖書の話のライブ配信してくれたらかなり嬉しいかも。
「キリスト教の口伝律法」まさにその通りだと思います。教会の独自のルールをつくり、その枠のなかに押し込めようとする。
指導する立場(牧師)としてはその方が牧会しやすいからそうするのか、はたまた本気でそれが神様のみこころだと考えてやっているのか……
どちらにせよ牧師のマインドが変わらない限り、いつまでたってもキリスト教会から閉塞感はなくならないと思います。既存の教会が衰退していくのは自明の理です。
今日のメッセージも素晴らしかったです。
拓馬さんに質問があります。
ときどき、拓馬さんは、「金曜の日没から土曜の日没まで」の「土曜の安息日」が正しい趣旨のことを言っていると思います。
※日没の概念は、私は次の聖句から来ていると、個人的には考えます。誰かに確認した訳ではないです。
「新共同訳 創世記 1:5b」の『夕べがあり、朝があった。第一の日である。』なので、1日の初めの起点は「夕べ」と解釈が出来ます。
<天地創造の安息日の曜日の概念の話題>
創世記 1-2章のヘブライ語で、天地創造の1日目は序数(1番目、英語はfirst)でなく基数(1つ、英語はone)が使われています。また、5、6、7の日は、「その」の冠詞がついています。
全ての日本語訳の小さな語訳と思っています。
直訳的には、次のように訳すのが正しいと思います。
「1つの日、2番目の日、3番目の日、4番目の日、その5番目の日、その6番目の日、その7番目の日」
正直、1つの日は、初めの起点がない状態です。日本語訳の1日目の起点は決まらないです。
これは、創世記の1-2章をヘブライ語で読まないと分からない部分だと思っています。
安息日とは「6日間働いて、1日を休む。」ただし、例外として「人の為で、人に対して善を行うことは赦されている。」と私は理解しています。
「①の質問」聖書のどこに、「この土曜」が安息日になると書いているのですか。
土曜の安息日も、ユダヤ教の方が人間の理解で決めていると思います。
今回は安息日でしたが、聖書全体の意味で、拓馬さんは、聖書に書いてある事は守り、書いていない事は守らなくてもいい。特に、異教の宗教の文化であれば、なおさら守らなくてもよいと言っているように、聞こえます。
「②の質問」聖書のどこに、「何を守って、何を守らなくても」良いと書かれているのですか?
ただし、イエスが守りなさいと書いてある部分を除いての意味です。
「新共同訳 ルカ伝 10:27」『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』
※旧約聖書からの御言葉なのは知っています。
「新共同訳 ローマ 13:8b」「人を愛する者は、律法を全うしているのです。」
聖書には直接的には書いてないが、ルカ10章、ローマ13章から類推適用をする場合は赦されていると思います。
他にも、類推適用が出来る御言葉はあるかもしれませんが、今の所は思いつかないです。
当時週6で働いて唯一の休みを教会に行きまた奉仕し身体は疲れます。神様は休みなさい。安心して。と言われていたのに...そして大体の牧師は月曜日が休みだと聞きました。
私の通っていた牧師は月火休み。
勤務時間まで書いて信徒に配布しましたよ。
今日は、拓馬さん 確かに所属する教会には色々な決まり事があって初めは主の愛に満たされて信仰生活を始めたはずなのにいつの間にか教会の決め事を守るのが全てになって救いの喜びを失ってしまっている羊さんが何と多くいるのか・・・私はこのような決まりで縛られる事がいやなのである教会を後にしました。救いの喜びを失ってしまうほど多くの奉仕と言う言葉で雁字搦めにされてる羊さんが何と多い事でしょう。これでリバイバルを求めるのは無理があるような気がするのは私だけでしょうか?
私は 安息日 は、あんそくび
と云っております。
私の所有する日本聖書協会の
文語訳聖書では あんそくにち
と云うルビがふられていますが、
誕生日(たんじょうび)と同様の読み方をします^_^
キリスト教の口伝律法、、、言いえて妙、そのとおりですね。そして、本質を大事にすること、これがまた日本人には難しいようです。どうしても表の部分を優先してしまうのかな。
やはり我々クリスチャンにとって安息日は緊急の時を除き、ユダヤの慣習に則って、土曜日(金曜の日没〜土曜の日没)を安息日とし、かつ実践すべきであると考えます。
安息日が土曜日であったと認識しつつ、主の甦られた日曜日を記念して礼拝日として実践して行ったらいいと考えます。新しい律法の下にある者として
わたしもそう思います。 天地創造からの神の法、十戒で命じられているように
神が聖別された重要な日であるから、極力守るように努めております土曜日に(笑)
安息日は、月曜日だろうが、火曜日だろうが、日曜日だろうが、『守れない』日曜日の仕事の人の為に、別の曜日に「その人の為に礼拝日」を作っても『来ない!』だから礼拝の日は、日曜日しかしません。これが現実。
マタイ5章の「律法(十戒)の一点、1画も廃れることはない」と、神自身が念を押しておられる。
また、夜の終わりの話をされているときに、「その日が安息日にならないよう祈れ!」とある。
出エジプト31章13節〜には「七日目遵守することは神の印(神の刻印)」とある。反対に七日目以外を聖なる日とすることは「獣の刻印」を、受けること。
だから、「十戒は今の時代も守るべき」と聞いたことがあります。これは間違いですか?
イエスの「律法の一点、1画も廃たれることはない」とあるのは、全て十戒を守るということではないのですね?
この点いかがでしようか?
ヤコブも、「一つでさえ、律法を破れば全体を破ったことになる」と言ってますが、これはどうなんでしようね?
七日目は、聖別された日、「ハレの日」、他の日は「ケ」(普通の日)。これは天地創造以来変わらないとも聞きましたが、、、、いかがでしようかね?