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事故直後の津川さんのコラムを覚えています。殆どのメディアが「悲劇・F1への警告」として伝えているなかで、津川さんだけは違った。「レースは俺の血だと言い、最速と勝利しか頭になかった男が ポールポジションからスタートしてトップ走行中に死んだのだ。 彼にとって、これ以上に幸福な死はないだろう。」悲しみと、故人に対する敬意をあれ以上に感じた記事は他にありませんでした。僕はあのコラムを読んで人生観というものを学んだと思っています。
セナも津川さんも密度の高い生き方をした、それに比べるとなんて無駄な時間を送ってしまったことか
@@Fitzgerald786 僕もです。津川さんとセナで印象に残っているのは91年のブラジルです。悲願の地元優勝を果たしたセナに対し、解説やってた津川さんが「彼、これでやりたい事を全部やっちゃったんじゃないかな?」「これからどうするんだろう?」って。あれは正にその後のセナを予見していましたね。
F1ドライバーは命懸けの仕事 という旧来からの固定概念による最後のドライバーならではの讃辞ですねそれが美徳だった時代は確かにあったしかし、それによって失うものの大きさをセナの事故で皆が実感した
@@venus9933 70年代、1シーズンに1人は死んでいくような時代にニキ・ラウダが言ったそうです。「レースに命はかけていない。 けれどレースに人生をかけている」
@dadgad412私も91ブラジルでの津川さんコメントは凄くドキッとしたのを覚えています。実際にその後のセナは92年に情に流されてマクラーレンに残った事を「自分のミスだった」と後悔する年、93年には自己中言い過ぎてマクラーレンと関係悪化、それを知ったルノーがプロストとの契約条項を裏切ってフランクウィリアムズにセナをごり押し、プロストが引退決断、ウィリアムズに「乗ってしまった」セナの94年の運命…と続くわけですね。
セナデビューした頃の貴重な話をありがとうございました!
津川哲じいらしい懐かしい話ですねデビューの頃はセナという名前は知られてなく、A.S.ダシルバという表記だったのを思い出しました
NHKでは、「センナ」と呼んでいましたね
セナに津川さんただただ涙が止まらない、共に尊敬します
自分にとって セナはF1の全てでした新婚旅行で行った93年ハンガリーGPのレース終了後、今宮さんと一緒に通路から出て来られた津川さんにお会いし、ビデオに収まって頂きましたお忘れでしょうが、優しく対応してくださり 本当にありがとうございました津川さんがセナを「エヤトン」と呼ぶ事も存じておりますまさか 観戦した翌年にセナが亡くなるなんて思いもせず、当時の自分には到底受け入れ難く....しかし時が経つに連れ、津川さんと同じ様に思えてきました誰よりも速かったセナ乗りにくい車でもポールポジションだけは譲らず、トップを走ったまま天国へ駆け抜けた誰にもセナを抜く事は出来ませんそれが 史上最高のドライバー アイルトン・セナですよね素晴らしいお話、ありがとうございます
そのレースは確かセナはリタイアでデイモン・ヒルの初優勝レースでしたね。
セナの初期のエピソード、ありがとうございます。身体(筋力)も体力(エネルギー)も、まだ十分でない若手ドライバーながら、勝利への情熱と執念は特別だったんですね。レースに関しては厳しかったセナが、そこから離れると優しく、細かい気遣いをするというエピソードも、聞けてよかったです。クラッシュの原因についての考察も、ありがとうございます。トップを走ったまま、別世界に飛び立って30年。セナに悔いはなかったのでしょうね。もっと、セナの走りが見たかったと思うけど、セナらしい最期だったようにも思います。貴重なお話を、ありがとうございました。
津川さんのトークに聞き入ってしまいました。
もうそんなになりますか。セナが生前、私はF1誌の編集部で働いていて、津川さんにも記事を書いて頂いたことがあります。電話でお話したことも(笑)それはさておき、当時のセナは一番ピークだった頃で、フジテレビに来た時に握手してもらったのですが意外と手が柔らかかったのを覚えています(笑)懐かしいなぁ。
あれから30年ですか。今でも究極の伝説のレーサーだと思っています。
一緒に人生をかけて戦った仲間にたいする、津川さんの想い、深 いですね。
あのレースを観戦してました。木曜にトラックを1周した時に路面品質が悪くて、一緒に回ってた友人とパッシブだと跳ねてヤバそうと話して、その後の2件の死亡事故は非常に悲しかったです。
あのレースウイークは金曜日にバリチェロの大クラッシュがあり土曜日にラッツエンバーガーの悲しい事故そして日曜日の決勝で・・・後の映像でスタート前のセナの表情が今まで見たことがない悲しい顔と言うか苦悩に満ちた表情に見えました鈴鹿の130Rでセナが見た神はイモラにはいなかったのか?当時インターネットもない時代でスポーツ新聞(東京中日スポーツ)を穴が開くほど何回も読み直したな
良いお話聞けました。当時私はまだ子供で、ニュースで流れてるのを見ながら、凄い速い人が事故で亡くなったんだな、って事だけを覚えていました。当時後ろを走ってたミハエルが、後にセナの記録を抜いた時の会見で涙してたのが、大人になってF1ファンになっていた私にはとても印象的でした。ガスリーもセナには強く影響を受けてるみたいで、イモラではスペシャルヘルメットを用意してますね。是非とも頑張って欲しいと思いながら観戦したいと思います。
津川さん、ありがとうございました🙇エヤトンって呼ぶくらい深い仲…本当に形にしてくれて感謝です。
セナの担当メカニックだったって......今思うと凄い事ですよね。92年の鈴鹿で1周目でリタイアした時もたくさんのマイクを向けられた時も昔なじみの津川さんのマイクにだけ答えたって総集編で言ってましたよね......
セナに憧れてカートの世界に飛び込み、本格的にレースに参戦したのが94年、その年にイモラの事故が起きました。当時高校生だったのですが、クラスのみんなから事故について声をかけられたのを覚えています。F1ブーム、セナブームの直後だったので、みんながセナを認知してましたね。そのセナのデビュー時を担当していた津川さん、その後に「俺のマシンが勝った!」と日本GPで叫んでいた津川さん、いつまでもお元気で!
津川さんありがとうございます第7戦のP1放送中に見ました今でもセナのレースは頭に焼き付いてます
このような動画を作ってくれてありがとうございます。
私も当時、トップのまま天国へ行ったなんてセナらしいと思いました😢
涙が出てきました。事故の津川さんの見解もなるほどと思いました。もうあれから30年ですか、皆さんも私も歳をとるはずです。
津川さんいつもお疲れ様でございます。セナ没後、あれから30年経ちますね。まだ記憶に新しくF1最大の悲劇として残っております。当時セナ追悼番組にて森脇さんが感じて仰っていた[虫の知らせ]は私も感じました。私は1991年のイモラのレースから本格的に中継を観始めて、三年後のイモラでセナが亡くなった時は何か意味深なものを感じましたし、セナがいなかったら私はF1のファンにはならなかったんです。あの三年ちょいのシーズンではセナのレースへの意気込みや走り方の思想を学びましたし、プロストやマンセルの走り方や戦い方も学びましたね。何よりセナがくれたのはレースでの鳥肌がたつような本物の感動と興奮そのものでしたね。[追記]セナはやっぱりコース上でトップを走行するのもお似合いでしたが、カーナンバー1番が一番お似合いでしたよね。現在、無敵の天才フェルスタッペンがカーナンバー1を背負って走る姿にセナの面かげがちょっとだけ見えてたりしますよ。彼がまだ現役だったらミハエルなんかとトップ争いを続けてきっとまたホンダとパートナーシップをとり今のフェルスタッペンみたいな次元の違う走りをしていたかも知れないですよね?天才F1ドライバーという意味ではセナを継いでミハエルとフェルスタッペンの二人と言えるような気がします。
いい話を聞かせて頂き有難うございます。津川さんも益々お元気でこれからも御活躍を期待します。😂
いつも詳しい解説ありがとうございます。もう30年経つんですね・・・当時、高校生で当時のイモラは高速サーキットでしたよね。LIVEで見てました。三宅さんの「あ~セナが~なんと~ウォールにクラッシュ~イモラが今度はセナに牙をむきました!!!」いまでも耳に残ってます。ボトミングしながら壁に直進していくセナのマシンは今でも鮮明に覚えていますね。今は今宮さんや本田宗一郎さんと天国で仲良くF1見てるんでしょうね(笑)もしセナが生きてたら、いまのF1をなんて言うのかな?
天邪鬼なので主役級より脇役を応援することが多いのですが、83年のイギリスF3に「アイルトン・センナ・ダ・シルヴァ」として彗星の様に現れトップを独走した時も彼よりも2位に甘んじることが多かったマーティン・ブランドルを応援していました。F1に来てからも関心は持っていましたが特に応援することはありませんでした。しかし乍らセナの事故の際はリアルタイムで中継を観ていて背中が凍り付くくらいショックを受けたのを覚えています。津川さんのエレベータ―でセナと会った時のお話、臨場感に溢れていて情景が目に浮かびました。
1987年以前、車雑誌を買いあさってむさぼるように読んでました。津川先生はベストカーガイドだったかな。エアトンでしたね。雑誌によってはアイルトンセンナ、A センナ ダ シルバ、エアトン センナ、ダ シルバ どれが正しいのか?でした。1987年のフジテレビ放映後はアイルトンセナで事実上統一されましたが、私はエアトンが一番好きです。今日のTH-cam 涙流しながら聴いています。有り難うございました。
感慨深いですね。日本は今ひとつですが、F1も世界規模で人気が出てきて、でもそれは安全あってこそですね。セナの死は無駄では無かったと思います。
放送中の事故を見て、なぜ真っすく突っ込んだのか不思議で仕方がなかった。鉄人の話を聞くとレース直前に大きなセッテングの変更があったのではないかと思いたくなる、ボルトの締め忘れなど・・・スタッペンがタイヤ付近から火を噴いてリタイヤ、原因はボルトの締め忘れ・・・ありえないミスをしていた。
あの杜撰なステアリングコラムの改造、溶接、セナ自身は知らなかった気がする。細かく指示する神経質なセナがもし知ってたら絶対乗ってないと思う。自分も怖くて乗れない。マクラーレンの時と同じ感覚で仕事してくれてると思ってたとおもう。マクラーレン なら溶接じゃなくてちゃんとしたパーツを作って装備させてたと思う。ウィリアムズチームもマンセル、プロストと違ってセナ面倒だなーって思われてた気がする、、勝手な想像ですけどね〜ウィリアムズとホンダの仕事に対する違いもあったし、、いつあの改造はされたんだろうか。。木曜日のイモラで?ブラジルの時も改造はしてたのかな?
ロータスへの移籍が決まった時トールマンのスタッフに涙ながらに本心を伝えたエピソードを思い出しました。津川氏や他のスタッフも内心快く思っていなかったようですがセナの勝利への執念にほだされてしまったとか。アラン・プロストやシド・ワトキンス博士もプライベートのセナは全く別人だったと語っていますね。
エアトンの貴重な話ありがとうございます!!
エアトンって言ったらセナは怒りますよ アイルトンだって
セナはトップのまま天国に行ったんだと当時思っていました。津川さんと思いは一緒かも知れません。セナがいないF1はもう見ない!と当時は混乱をしていた事を思い出します。 それから30年F1の歴史を見続けて感じた事、F1はやはり素晴らしい!
良い話でした。トップで勝利を確信しながら天に召されて行く…本当にセナらしい最期。劇的にすら思える人生のエンディングです。改めて、あのエアトン・セナに合掌。
なるほど…津川さんを知っていてよかった
泣ける
ステアリングロッドが原因とばかり思っていましたがそういう可能性もあるんですね いつの間にかセナより20歳年上になっちゃいました
もう30回忌かぁ……あのイモラは人が死にすぎた。
本来なら車両規則の大幅改正には期間を取るだろうに、それが仇になった。ウィリアムズがあまりに勝ちすぎるから他のコンストラクターもたいして反対しなかったんでしょうね。
●未来のチャンピオン候補と目されながらセナに追われるようにロータスを去り転落していったエリオ・デ・アンジェリスが、キャリア2勝のうち最後に勝利したのが1985年のサンマリノGP。●セナ没後、ジョー・ホンダの写真集に封入されていた5枚の特典カードのうち1枚に何故かエリオの写真が紛れ込んでいる。●2人共3月第1デークの牡羊座生まれで5月に逝去。●セナ曰く良好な関係を築けたチームメイトはベルガーとアンジェリスの2名のみそれが偶然の出来事であっても、エリオのカードに気付いた時は気味が悪く流石に絶句したのを覚えている。
津川さんお顔久しぶりに拝見しました後方のヘルメットはナニーニのですか?何巻も続いたグランプリボーイズ単行本読んでましたよテオファビやベルガー達のエピソードよく覚えてますベルガーのことを「ガーティー」って呼ばれてましたよねそれでファンもなぜガーティーなのかはわからないのに真似してガーティーって呼んでました(遠い目)エヤトン呼び、カイアラミ呼び、みな懐かしいです中嶋さんはエイトンって呼んでたなあ
今年で没後30年、ネット上ではセナの話題が多いですが、30年前を想い出すと私は子供の頃で、F1に夢中になっていた矢先にあんな悲劇が起こった。驚くほど今でもあの日は忘れていない。セナが走ってた頃は楽しくって仕方なかった。津川さんはトールマンのセナ専属メカニックだったのと、色々なエピソードは知ってましたが、改めて聞くとセナは勝つことにしか目的はなかった。私たちもセナはアイドルだった。あの5/1のサンマリノGPは一生忘れることはない。想い出すと涙が止まらない。F1=セナだから。
Sky Sports F1のチャネルに懐かしい動画がアップされていますね!"Pierre Gasly and Naomi Schiff drive Ayrton Senna's FIRST F1 car"
ayrton=エアトン(*´ω`)事故の起きたタンブレロも路面の段差でリアのDFが抜けてしまってすっ飛んだ、と個人的に思ってます。
30年も経ちました。事故はダウンフォースの事も考えられるんですね‥セナが降ろされた直後の写真に ステアリングに折れたロッドがくっ付いてぶら下がってる写真がありますが ぶつかった衝撃なのか 走行中に折れたのか…。ステアリング切ってるのに曲がらないという オンボードカメラを検証した動画も視ましたが よく分かりませんでした。当時 セナが居なくなってしまって 直後のモナコやその後のレースに面白味がなくなってしまった と感じた事を思い出しました。
93年の鈴鹿を生で観戦しました!自分の中でのF-1は、イモラで止まってしまった
バウンシングやポーポジングが原因であの悲劇になってしまったからこそのレッドブルの現在があるとは、口が裂けてもあのデザイナーは言わないでしょうねぇ…。
そのデザイナーさんは、ホームストレートのカーボンパーツを踏んだ結果、右リアタイヤのパンクチャーで姿勢が右へ変化~クラッシュではないかと思ってるそうです。
セナつながりで今宮純さんについても熱く語って欲しい
ま、津川なんて今宮を心の中ではバカにしてたんじゃない?
フジのF1番組ポールポジションで語っていましたが、デビューマシンはフロントウイングにラジエターがあってハンドルがえらく重たかったらしいですね。
複合的な要因はあったにせよ、個人的にはステアリングシャフトの破損が事故の原因だと考えています。結果的にポールからトップのまま逝ってしまいましたが、当時ニュース速報で亡くなった事を知った時には、何か運命的なものを感じずにはいられませんでした…🙏🏻
セナもデビューしたてはそんなだったんですね哲じいの話し聞いてたら涙にじみます『音速の貴公子』もうあの人ほどのヒーローはF1からは出てこないと思います
今、自分の心の中に存在するセナの影響は計り知れないほど大きい
この年の3月に生まれた長女に瀬奈と名づけ、このレースをリアルに観ていて・・・。
❤❤❤
もしセナが生きてたら、94年は持ち直してチャンピオン獲得して97年まで4連覇。98年はパスタのお礼にミナルディで走って引退。最後のチームメイトは中野信治。こんな感じになるのかな。
あの瞬間はテレビ中継を観ていませんでした 翌日の月曜日に会社に出社すると2つ年上の先輩が唐突に「セナ 死んじゃったよ」の一言で目が覚めました
三十年かぁ・・・時間が経つのは早いですね。今でも僕にとってセナはヒーローですよ。
その当時のFIAの会長さんはバレストルさんではなくモズレーさんだったような・・・
如何にして、音速の貴公子が出来上がって来たのかをアイルトン・セナのデビュー当初から語れる人が今や存在するのは津川さんだけ
30年か。。セナよりはるかに歳上になってました。みんなもたぶん。。がんばらなくっちゃ、ね。
セナの事故は、てつじーと同じ見解です
カートの頃はセンナダシルバ。
何で、どう考えてもあんな危ないサーキットでレースがずっと開催されていたのか理解出来ない。87年に初めて鈴鹿でF-1開催する時、バレストルは日本人に対する差別と嫌がらせで安全性にさんざんケチつけて、しかしサーキット側は完璧以上の神対応で見事な体勢で安全なレースを開催してます。それに比べて当時のイモラのお粗末な安全性無視したサーキットレイアウトには怒りを覚えます。誤解のないよう言っておきますが、イモラのコースマーシャルやワトキンス教授の救急医療チームは、当時みな素晴らしい仕事をしていました。彼らの献身的でプロフェッショナルな仕事のおかげでたくさんのドライバーの命が救われたのは間違いないです。セナの事故は本当に残念でくやしい事故でしたが当時現場にいたみなさんはTV中継を見ていてよく分かるくらいに本当に素晴らしい仕事をしていました。
oh,yeahooh,yeaho---oh,yeah!!oo--h,yeah!!!!すげ
津川さん言葉として30周年は無いっすよ!
泣いた。
リアルで見ていた世代。テレビで見ていたがその後の中継は見る気になれなかった。もう30年、その時から琢磨が出るまであまり見なくなったかな。
F1とはセナの事である 他のドライバーさんには失礼だけど そう言う存在でした
たった3ヶ月前に前にレギュレーションが変更されてアクティブサスなどハイテクデバイスの禁止で窮地に立たされたルノーとセナ。それでもポールポジションを獲ってトップを走るセナはやっぱり他とモノが違うなと思うが、かつてホンダがターボ時代に席巻していたころホンダに内緒でターボ禁止のレギュレーション変更された過去があったけど、それはホンダを差別したり日本人を差別したりが原因と思っていたが、アクティブサス時代のルノーも似たような目に遭っていたことを受けると日本人差別でもホンダ差別でもなかったんだね。
バレストルだっけ?モズレーじゃない?(&エクレストン)
津川さん、サンマリノGP決勝は録画して寝る事に成りました。寝付けたら、夢にFW16に乗ったセナが出ましたバイザーを゙上げて一時停止して此方に手を振って走り去りました。 結果を見ないで、セナは亡くなってしまった事を知りました。あの日だけはセナを誰か止めて欲しかったです。
87年から94年までSennaが生きてる間のビデオを全部撮ってあるSennaが亡くなってからのF-1に興味が全く無くなった
インタビュアーがエアトンって言って、エアトンじゃない 俺はアイルトンだ!ってセナは言ってましたよアイルトンって呼びましょうね 津川さん
事故直後の津川さんのコラムを覚えています。
殆どのメディアが「悲劇・F1への警告」として伝えているなかで、
津川さんだけは違った。
「レースは俺の血だと言い、最速と勝利しか頭になかった男が
ポールポジションからスタートしてトップ走行中に死んだのだ。
彼にとって、これ以上に幸福な死はないだろう。」
悲しみと、故人に対する敬意をあれ以上に感じた記事は他にありませんでした。
僕はあのコラムを読んで人生観というものを学んだと思っています。
セナも津川さんも密度の高い生き方をした、それに比べるとなんて無駄な時間を送ってしまったことか
@@Fitzgerald786 僕もです。
津川さんとセナで印象に残っているのは91年のブラジルです。
悲願の地元優勝を果たしたセナに対し、解説やってた津川さんが
「彼、これでやりたい事を全部やっちゃったんじゃないかな?」
「これからどうするんだろう?」
って。
あれは正にその後のセナを予見していましたね。
F1ドライバーは命懸けの仕事 という旧来からの固定概念による最後のドライバーならではの讃辞ですね
それが美徳だった時代は確かにあった
しかし、それによって失うものの大きさをセナの事故で皆が実感した
@@venus9933
70年代、1シーズンに1人は死んでいくような時代にニキ・ラウダが言ったそうです。
「レースに命はかけていない。
けれどレースに人生をかけている」
@dadgad412
私も91ブラジルでの津川さんコメントは凄くドキッとしたのを覚えています。実際にその後のセナは92年に情に流されてマクラーレンに残った事を「自分のミスだった」と後悔する年、93年には自己中言い過ぎてマクラーレンと関係悪化、それを知ったルノーがプロストとの契約条項を裏切ってフランクウィリアムズにセナをごり押し、プロストが引退決断、ウィリアムズに「乗ってしまった」セナの94年の運命…と続くわけですね。
セナデビューした頃の貴重な話をありがとうございました!
津川哲じいらしい懐かしい話ですね
デビューの頃はセナという名前は知られてなく、A.S.ダシルバという表記だったのを思い出しました
NHKでは、「センナ」と呼んでいましたね
セナに津川さんただただ涙が止まらない、共に尊敬します
自分にとって セナはF1の全てでした
新婚旅行で行った93年ハンガリーGPのレース終了後、今宮さんと一緒に通路から出て来られた津川さんにお会いし、ビデオに収まって頂きました
お忘れでしょうが、優しく対応してくださり 本当にありがとうございました
津川さんがセナを「エヤトン」と呼ぶ事も存じております
まさか 観戦した翌年にセナが亡くなるなんて思いもせず、当時の自分には到底受け入れ難く....
しかし時が経つに連れ、津川さんと同じ様に思えてきました
誰よりも速かったセナ
乗りにくい車でもポールポジションだけは譲らず、トップを走ったまま天国へ駆け抜けた
誰にもセナを抜く事は出来ません
それが 史上最高のドライバー アイルトン・セナですよね
素晴らしいお話、ありがとうございます
そのレースは確かセナはリタイアでデイモン・ヒルの初優勝レースでしたね。
セナの初期のエピソード、ありがとうございます。
身体(筋力)も体力(エネルギー)も、まだ十分でない若手ドライバーながら、勝利への情熱と執念は特別だったんですね。
レースに関しては厳しかったセナが、そこから離れると優しく、細かい気遣いをするというエピソードも、聞けてよかったです。
クラッシュの原因についての考察も、ありがとうございます。
トップを走ったまま、別世界に飛び立って30年。
セナに悔いはなかったのでしょうね。
もっと、セナの走りが見たかったと思うけど、セナらしい最期だったようにも思います。
貴重なお話を、ありがとうございました。
津川さんのトークに聞き入ってしまいました。
もうそんなになりますか。
セナが生前、私はF1誌の編集部で働いていて、津川さんにも記事を書いて頂いたことがあります。
電話でお話したことも(笑)
それはさておき、当時のセナは一番ピークだった頃で、フジテレビに来た時に握手してもらったのですが意外と手が柔らかかったのを覚えています(笑)
懐かしいなぁ。
あれから30年ですか。今でも究極の伝説のレーサーだと思っています。
一緒に人生をかけて戦った仲間にたいする、津川さんの想い、深 いですね。
あのレースを観戦してました。木曜にトラックを1周した時に路面品質が悪くて、一緒に回ってた友人とパッシブだと跳ねてヤバそうと話して、その後の2件の死亡事故は非常に悲しかったです。
あのレースウイークは金曜日にバリチェロの大クラッシュがあり土曜日にラッツエンバーガーの悲しい事故そして日曜日の決勝で・・・
後の映像でスタート前のセナの表情が今まで見たことがない悲しい顔と言うか苦悩に満ちた表情に見えました
鈴鹿の130Rでセナが見た神はイモラにはいなかったのか?
当時インターネットもない時代でスポーツ新聞(東京中日スポーツ)を穴が開くほど何回も読み直したな
良いお話聞けました。当時私はまだ子供で、ニュースで流れてるのを見ながら、凄い速い人が事故で亡くなったんだな、って事だけを覚えていました。
当時後ろを走ってたミハエルが、後にセナの記録を抜いた時の会見で涙してたのが、大人になってF1ファンになっていた私にはとても印象的でした。
ガスリーもセナには強く影響を受けてるみたいで、イモラではスペシャルヘルメットを用意してますね。是非とも頑張って欲しいと思いながら観戦したいと思います。
津川さん、ありがとうございました🙇
エヤトンって呼ぶくらい深い仲…本当に形にしてくれて感謝です。
セナの担当メカニックだったって......
今思うと凄い事ですよね。
92年の鈴鹿で1周目でリタイアした時もたくさんのマイクを向けられた時も昔なじみの津川さんのマイクにだけ答えたって総集編で言ってましたよね......
セナに憧れてカートの世界に飛び込み、本格的にレースに参戦したのが94年、その年にイモラの事故が起きました。当時高校生だったのですが、クラスのみんなから事故について声をかけられたのを覚えています。F1ブーム、セナブームの直後だったので、みんながセナを認知してましたね。そのセナのデビュー時を担当していた津川さん、その後に「俺のマシンが勝った!」と日本GPで叫んでいた津川さん、いつまでもお元気で!
津川さんありがとうございます
第7戦のP1放送中に見ました
今でもセナのレースは頭に焼き付いてます
このような動画を作ってくれてありがとうございます。
私も当時、トップのまま天国へ行ったなんてセナらしいと思いました😢
涙が出てきました。
事故の津川さんの見解もなるほどと思いました。もうあれから30年ですか、皆さんも私も歳をとるはずです。
津川さんいつもお疲れ様でございます。
セナ没後、あれから30年経ちますね。
まだ記憶に新しくF1最大の悲劇として残っております。
当時セナ追悼番組にて森脇さんが感じて仰っていた[虫の知らせ]は私も感じました。
私は1991年のイモラのレースから本格的に中継を観始めて、三年後のイモラでセナが亡くなった時は何か意味深なものを感じましたし、セナがいなかったら私はF1のファンにはならなかったんです。
あの三年ちょいのシーズンではセナのレースへの意気込みや走り方の思想を学びましたし、プロストやマンセルの走り方や戦い方も学びましたね。
何よりセナがくれたのはレースでの鳥肌がたつような本物の感動と興奮そのものでしたね。
[追記]
セナはやっぱりコース上でトップを走行するのもお似合いでしたが、カーナンバー1番が一番お似合いでしたよね。
現在、無敵の天才フェルスタッペンがカーナンバー1を背負って走る姿にセナの面かげがちょっとだけ見えてたりしますよ。
彼がまだ現役だったらミハエルなんかとトップ争いを続けてきっとまたホンダとパートナーシップをとり今のフェルスタッペンみたいな次元の違う走りをしていたかも知れないですよね?
天才F1ドライバーという意味ではセナを継いでミハエルとフェルスタッペンの二人と言えるような気がします。
いい話を聞かせて頂き有難うございます。津川さんも益々お元気でこれからも御活躍を期待します。😂
いつも詳しい解説ありがとうございます。
もう30年経つんですね・・・
当時、高校生で当時のイモラは高速サーキットでしたよね。LIVEで見てました。
三宅さんの「あ~セナが~なんと~ウォールにクラッシュ~イモラが今度はセナに牙をむきました!!!」いまでも耳に残ってます。
ボトミングしながら壁に直進していくセナのマシンは今でも鮮明に覚えていますね。
今は今宮さんや本田宗一郎さんと天国で仲良くF1見てるんでしょうね(笑)
もしセナが生きてたら、いまのF1をなんて言うのかな?
天邪鬼なので主役級より脇役を応援することが多いのですが、83年のイギリスF3に「アイルトン・センナ・ダ・シルヴァ」として彗星の様に現れトップを独走した時も彼よりも2位に甘んじることが多かったマーティン・ブランドルを応援していました。F1に来てからも関心は持っていましたが特に応援することはありませんでした。しかし乍らセナの事故の際はリアルタイムで中継を観ていて背中が凍り付くくらいショックを受けたのを覚えています。津川さんのエレベータ―でセナと会った時のお話、臨場感に溢れていて情景が目に浮かびました。
1987年以前、車雑誌を買いあさってむさぼるように読んでました。津川先生はベストカーガイドだったかな。エアトンでしたね。雑誌によってはアイルトンセンナ、A センナ ダ シルバ、エアトン センナ、ダ シルバ どれが正しいのか?でした。1987年のフジテレビ放映後はアイルトンセナで事実上統一されましたが、私はエアトンが一番好きです。今日のTH-cam 涙流しながら聴いています。有り難うございました。
感慨深いですね。日本は今ひとつですが、F1も世界規模で人気が出てきて、でもそれは安全あってこそですね。セナの死は無駄では無かったと思います。
放送中の事故を見て、なぜ真っすく突っ込んだのか不思議で仕方がなかった。鉄人の話を聞くとレース直前に大きなセッテングの変更があったのではないかと思いたくなる、ボルトの締め忘れなど・・・スタッペンがタイヤ付近から火を噴いてリタイヤ、原因はボルトの締め忘れ・・・ありえないミスをしていた。
あの杜撰なステアリングコラムの改造、溶接、セナ自身は知らなかった気がする。
細かく指示する神経質なセナがもし知ってたら絶対乗ってないと思う。
自分も怖くて乗れない。
マクラーレンの時と同じ感覚で仕事してくれてると思ってたとおもう。
マクラーレン なら溶接じゃなくてちゃんとしたパーツを作って装備させてたと思う。
ウィリアムズチームもマンセル、プロストと違ってセナ面倒だなーって思われてた気がする、、
勝手な想像ですけどね〜
ウィリアムズとホンダの仕事に対する違いもあったし、、
いつあの改造はされたんだろうか。。木曜日のイモラで?ブラジルの時も改造はしてたのかな?
ロータスへの移籍が決まった時トールマンのスタッフに涙ながらに本心を伝えたエピソードを思い出しました。
津川氏や他のスタッフも内心快く思っていなかったようですがセナの勝利への執念にほだされてしまったとか。
アラン・プロストやシド・ワトキンス博士もプライベートのセナは全く別人だったと語っていますね。
エアトンの貴重な話ありがとうございます!!
エアトンって言ったらセナは怒りますよ アイルトンだって
セナはトップのまま天国に行ったんだと当時思っていました。津川さんと思いは一緒かも知れません。セナがいないF1はもう見ない!と当時は混乱をしていた事を思い出します。 それから30年F1の歴史を見続けて感じた事、F1はやはり素晴らしい!
良い話でした。
トップで勝利を確信しながら天に召されて行く…本当にセナらしい最期。
劇的にすら思える人生のエンディングです。
改めて、あのエアトン・セナに合掌。
なるほど…
津川さんを知っていてよかった
泣ける
ステアリングロッドが原因とばかり思っていましたがそういう可能性もあるんですね いつの間にかセナより20歳年上になっちゃいました
もう30回忌かぁ……あのイモラは人が死にすぎた。
本来なら車両規則の大幅改正には期間を取るだろうに、それが仇になった。ウィリアムズがあまりに勝ちすぎるから他のコンストラクターもたいして反対しなかったんでしょうね。
●未来のチャンピオン候補と目されながらセナに追われるようにロータスを去り転落していったエリオ・デ・アンジェリスが、キャリア2勝のうち最後に勝利したのが1985年のサンマリノGP。
●セナ没後、ジョー・ホンダの写真集に封入されていた5枚の特典カードのうち1枚に何故かエリオの写真が紛れ込んでいる。
●2人共3月第1デークの牡羊座生まれで5月に逝去。
●セナ曰く良好な関係を築けたチームメイトはベルガーとアンジェリスの2名のみ
それが偶然の出来事であっても、エリオのカードに気付いた時は気味が悪く流石に絶句したのを覚えている。
津川さんお顔久しぶりに拝見しました
後方のヘルメットはナニーニのですか?
何巻も続いたグランプリボーイズ単行本読んでましたよ
テオファビやベルガー達のエピソードよく覚えてます
ベルガーのことを「ガーティー」って呼ばれてましたよね
それでファンもなぜガーティーなのかはわからないのに真似してガーティーって呼んでました(遠い目)
エヤトン呼び、カイアラミ呼び、みな懐かしいです
中嶋さんはエイトンって呼んでたなあ
今年で没後30年、ネット上ではセナの話題が多いですが、30年前を想い出すと私は子供の頃で、F1に夢中になっていた矢先にあんな悲劇が起こった。驚くほど今でもあの日は忘れていない。セナが走ってた頃は楽しくって仕方なかった。津川さんはトールマンのセナ専属メカニックだったのと、色々なエピソードは知ってましたが、改めて聞くとセナは勝つことにしか目的はなかった。私たちもセナはアイドルだった。あの5/1のサンマリノGPは一生忘れることはない。想い出すと涙が止まらない。F1=セナだから。
Sky Sports F1のチャネルに懐かしい動画がアップされていますね!"Pierre Gasly and Naomi Schiff drive Ayrton Senna's FIRST F1 car"
ayrton=エアトン(*´ω`)事故の起きたタンブレロも路面の段差でリアのDFが抜けてしまってすっ飛んだ、と個人的に思ってます。
30年も経ちました。
事故はダウンフォースの事も考えられるんですね‥
セナが降ろされた直後の写真に ステアリングに折れたロッドがくっ付いてぶら下がってる写真がありますが ぶつかった衝撃なのか 走行中に折れたのか…。
ステアリング切ってるのに曲がらないという オンボードカメラを検証した動画も視ましたが よく分かりませんでした。
当時 セナが居なくなってしまって 直後のモナコやその後のレースに面白味がなくなってしまった と感じた事を思い出しました。
93年の鈴鹿を生で観戦しました!
自分の中でのF-1は、イモラで止まってしまった
バウンシングやポーポジングが原因であの悲劇になってしまったからこそのレッドブルの現在があるとは、口が裂けてもあのデザイナーは言わないでしょうねぇ…。
そのデザイナーさんは、ホームストレートのカーボンパーツを踏んだ結果、
右リアタイヤのパンクチャーで姿勢が右へ変化~クラッシュではないかと思ってるそうです。
セナつながりで今宮純さんについても熱く語って欲しい
ま、津川なんて今宮を心の中ではバカにしてたんじゃない?
フジのF1番組ポールポジションで語っていましたが、デビューマシンはフロントウイングにラジエターがあってハンドルがえらく重たかったらしいですね。
複合的な要因はあったにせよ、個人的にはステアリングシャフトの破損が事故の原因だと考えています。
結果的にポールからトップのまま逝ってしまいましたが、当時ニュース速報で亡くなった事を知った時には、何か運命的なものを感じずにはいられませんでした…🙏🏻
セナもデビューしたてはそんなだったんですね
哲じいの話し聞いてたら涙にじみます
『音速の貴公子』
もうあの人ほどのヒーローはF1からは出てこないと思います
今、自分の心の中に存在するセナの影響は計り知れないほど大きい
この年の3月に生まれた長女に瀬奈と名づけ、このレースをリアルに観ていて・・・。
❤❤❤
もしセナが生きてたら、94年は持ち直してチャンピオン獲得して97年まで4連覇。
98年はパスタのお礼にミナルディで走って引退。最後のチームメイトは中野信治。こんな感じになるのかな。
あの瞬間はテレビ中継を観ていませんでした 翌日の月曜日に会社に出社すると2つ年上の先輩が唐突に「セナ 死んじゃったよ」の一言で目が覚めました
三十年かぁ・・・時間が経つのは早いですね。
今でも僕にとってセナはヒーローですよ。
その当時のFIAの
会長さんはバレストルさんではなくモズレーさんだったような・・・
如何にして、音速の貴公子が出来上がって来たのかをアイルトン・セナのデビュー当初から語れる人が今や存在するのは津川さんだけ
30年か。。
セナよりはるかに歳上になってました。みんなもたぶん。。
がんばらなくっちゃ、ね。
セナの事故は、てつじーと同じ見解です
カートの頃はセンナダシルバ。
何で、どう考えてもあんな危ないサーキットでレースがずっと開催されていたのか理解出来ない。
87年に初めて鈴鹿でF-1開催する時、バレストルは日本人に対する差別と嫌がらせで安全性にさんざんケチつけて、しかしサーキット側は完璧以上の神対応で見事な体勢で安全なレースを開催してます。
それに比べて当時のイモラのお粗末な安全性無視したサーキットレイアウトには怒りを覚えます。
誤解のないよう言っておきますが、
イモラのコースマーシャルやワトキンス教授の救急医療チームは、当時みな素晴らしい仕事をしていました。彼らの献身的でプロフェッショナルな仕事のおかげでたくさんのドライバーの命が救われたのは間違いないです。セナの事故は本当に残念でくやしい事故でしたが当時現場にいたみなさんはTV中継を見ていてよく分かるくらいに本当に素晴らしい仕事をしていました。
oh,yeah
ooh,yeah
o---oh,yeah!!
oo--h,yeah!!!!
すげ
津川さん言葉として30周年は無いっすよ!
泣いた。
リアルで見ていた世代。テレビで見ていたがその後の中継は見る気になれなかった。もう30年、その時から琢磨が出るまであまり見なくなったかな。
F1とはセナの事である 他のドライバーさんには失礼だけど そう言う存在でした
たった3ヶ月前に前にレギュレーションが変更されてアクティブサスなどハイテクデバイスの禁止で窮地に立たされたルノーとセナ。それでもポールポジションを獲ってトップを走るセナはやっぱり他とモノが違うなと思うが、かつてホンダがターボ時代に席巻していたころホンダに内緒でターボ禁止のレギュレーション変更された過去があったけど、それはホンダを差別したり日本人を差別したりが原因と思っていたが、アクティブサス時代のルノーも似たような目に遭っていたことを受けると日本人差別でもホンダ差別でもなかったんだね。
バレストルだっけ?モズレーじゃない?(&エクレストン)
津川さん、サンマリノGP決勝は録画して寝る事に成りました。
寝付けたら、夢にFW16に乗ったセナが出ましたバイザーを゙上げて一時停止して此方に手を振って走り去りました。
結果を見ないで、セナは亡くなってしまった事を知りました。
あの日だけはセナを誰か止めて欲しかったです。
87年から94年までSennaが生きてる間のビデオを全部撮ってある
Sennaが亡くなってからのF-1に興味が全く無くなった
インタビュアーがエアトンって言って、エアトンじゃない 俺はアイルトンだ!ってセナは言ってましたよ
アイルトンって呼びましょうね 津川さん