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私は富雄丸山古墳の被葬者は忍熊王だと思う。元々こちらが官軍(成務天皇以降の佐紀盾列古墳群のヤマト王権)だが、九州から攻め上って河内に新王朝を建てた神功・応神勢力に敗れたことから、結果的に反乱軍扱いされて前方後円墳を造れなかったのではないか。過去のナガスネヒコと同一勢力の可能性はあるが(サホヒコ・サホヒメ兄妹も)、ナガスネヒコ本人とは時代が違う。
辰砂の硬度は低いから石うすで十分挽ける
このチャンネルの投稿主さんの説は凄く自分に馴染むものばかりです。
寝ぼけながら再生したら木棺が木簡に聞こえて「マジか!」と目が覚めたw
これはなかなか具体的で興味深い考察。
古墳って1年にいくつ作られてたんだろう すごい数ですよね
辰砂といえば縄文時代の徳島県の加工場遺跡が発見されましたが、忌部氏と共に栄えた時代があったのではと思います。大和他大規模な鉱山がやがて発見され忌部氏も全国へ広がり、時代とともに辰砂の拠点が移っていったのではないでしょうか。
日本にはアワ国呼びが2つ有るんだから何らかの侵攻か災害あってどっちらかにどっちらかが移動したんじゃね?大和に負けたのかもな
地元なので地名の由来は知ってたけど、この場所が古墳でこんなに有名とは知らなんだ
吉野郡には丹生という地名も残ってたんでないかな
奈良は工期が遅れるから出土しても破棄してたという話も 古墳の周りが住宅ばかりですね
国道169号は古墳の一部切り通しテル。東大阪~奈良ノ間は古墳だらけですよ工事してたらよく出て来た
大物主の系統 ?
辰砂によって、古代がつながってきます。空海も水銀と金を求めて巡礼をしていたのだから。
ナガスネヒコなら前方古円墳の出現時期にこの円墳も築造されなければならず、時代的に合わないと思う。それに近くにある神社が埋葬地に建立されたという話もある。そう考えると神武東征から数百年後ぐらいに他界した人物なのではないか。
前方後円墳と、円墳では、違う文化圏なのでは?政権争奪期には、両方ともあるでさ?
なるほど、そういうことか!と思わせる説ですね。
神武東征ってのは神話だから史実に当てはめるのはイカれた空想家ぐらいですよでもその元ネタになったであろう侵略者と地方豪族の争いの痕跡として見れば長髄彦と呼ばれた王様の墓でしょうね物部が王様だったとすれば物部系の墓だろうし意富氏かもしれない登美氏って確か意富氏と関係があったような覚えがあるから意富氏を王様とした地方豪族の墓かな相手はやっぱり三輪山を拠点としていた物部になるのかな
ヤマトにあった東鯷国と争うため、東征して生駒山に本陣を置いた、物部活目(もののべいくめ)ではないかと、思っています。
この話とは‥ 遥かに時代は下り反れますが‥そういえば‥ 江戸時代‥福島三春の大名秋田氏が‥長髄彦の兄弟で安日という人物が祖になっていたかと‥ふと思い出してしまいました‥関係のない話で申し訳ございませんでした😅‥
学者の方が埋葬者が女性の場合、妹の可能性があると言っていたときに何故妻ではないのかと思ったら血族の縛りがあったのですね。知らなかったです。辰砂の重要度がそこまで高いとは思いませんでしたが天然で採れる鮮やかな顔料というだけでもかなり特別ですし、神社の朱塗りも防虫防湿保護以外にヤマト政権のイメージ戦略の一つだったのかもしれませんね。
ナガスネヒコの時代に2㍍の鉄剣製造できるんならバリバリの鉄器で武装した兵士を率いてた?鉄があったとしてもまだ青銅器主流な時代だぜ。
長髄彦なら神武東征の年代もおかしくなるな
別に空白ちゃうし。古事記日本書紀に書いてあるやん。大陸に記録が無いだけで。
水銀⇨フリーエネルギー
現代日本人は縄文人と弥生人と古墳人の【三重構造説】なんだよね!古墳人とはどの様な人達だったのかが気になりますね!
刀の数詞は"振り“❗️
記紀で参考になるのはせいぜい編纂時からさかのぼって100年くらいまでの記事だけでしょ。4,500年前の記事とか現代人が戦国時代からの伝承を書いてるようなもんだから完全にフィクションだと思っておいた方がいい
そんなことはない
口伝だから骨格は古そう
記紀編纂時から400年前の記録と、中国や朝鮮半島の古文書の記録が一致してる箇所もある。
@@たぬ-w8k 400年前というと西暦300年前後だが例えば何?考古学的裏付けが取れたものは事実認定すればいいが神武東征やらナガスネヒコなんかはあくまで神話の一部で事実とは考えられていない
考古学的裏付けがとれた物に関しては事実認定すればいいけど、とれてないものはフィクションとして扱わないとダメだわな当たり前のように「記紀では神武東征で〜」とか語り出す人を見るとその後議論する気が失せる
長髄彦では、年代が合わない。😅
8代〜10代(初代天皇)の神授😮🎉
この古墳、今まで発掘調査してないねが不思議?
ナガスネヒコは時代が合いませんね。そこから下った物部系ならわかる気もしますが、それとやはり佐紀古墳群との関わりも考察しなくては。
そもそも神武天皇の東遠征の年代が違うと思うからね
多くの皆さんは記紀が天皇の歴史書だと習っていますが、日本書紀が成立したのは天武天皇崩御の34年後です。時の権力者は藤原不比等でした。妃の鵜野讃良(持統天皇とされたが実は即位していないと推理)と組んで天武天皇の優秀な皇子たちを排除して、皇位を簒奪して権力を握ったのです。その悪事を隠し、3世紀の建国時代に活躍した祖先をもつ豪族の勢力を抑え、自らの祖神を活躍させる神話まで創作し、天皇家すら貶めて藤原氏の権力の正統性を主張するために創った勝者藤原氏の歴史書だったのですよ。日本書紀よりも先に完成したとされる古事記は、実は9世紀の朝廷で日本書紀を講義した学者多人長が突然表に出してきたものです。正史にも古事記の記録がないし、日本書紀が古事記を参照した痕跡もないのです。人長の創作なのですが、天皇の歴史書だと思い込んでいるので気づけないのです。古事記は日本書紀が隠した史実を藤原氏に悟られないようにして暴露するための暗号書だったのです。建国の史実から古事記の暗号を解くと空白の4世紀から倭の五王の時代が解明できました。初代ヤマトの祭祀王(天皇)は大国主(龍神トビヒコ、武内宿禰、日本海沿岸のムナカタ海人族を束ねる王久々遅彦)と女王台与(記紀の神功皇后のモデル、近江・北陸を拠点とするムナカタ族の姫巫女)の子の応神天皇です。狗奴国ヤマト勢に殺された両親の鎮魂のために纏向に呼ばれたヤマトの初代祭祀王(崇神天皇紀の大田田根子)です。神武天皇は史実を誤魔化すために創作された初代応神天皇の虚像です。富雄丸山古墳の被葬者は、応神天皇の皇太子菟道稚郎子(宇治天皇として即位していた)と推理しました。母が卑弥呼(宗像女神イチキシマヒメ)の弟赤坂比古(ムナカタ海人族和邇氏の祖)の娘宮主宅媛なのです。オオサザキ(仁徳天皇)に暗殺され皇位を奪われたので、和邇氏の支配地でひっそりと葬られたのです。富雄の地名はトビ(大国主)の尾(子孫)という意味です。丸山の丸は和邇ですので和邇氏の墓を意味します。卑弥呼も弟赤坂比古も父先代赤坂比古もすべて巨大円墳に葬られています。仁徳天皇の母仲姫命は記紀では景行天皇曾孫ですが、景行天皇のモデルの尾張王建稲種命(熱田神宮の祭神、ヤマトタケルのモデル)の子孫です。卑弥弓呼大王(記紀の崇神天皇)と同じニギハヤヒ大王(楯築王墓の被葬者)の子孫です。大和盆地は大国主傘下の敵対勢力ばかりなので、ニギハヤヒ大王に所縁の氏族の拠点の河内・和泉で即位した模様です。詳しくは「【刮目天の古代史】今年の大発見第1位!(^_-)-☆」をご参照ください。和爾氏を隠さねばならない理由も分かりました。これが日本書紀のメインテーマだったのです。長々とお邪魔しました(#^.^#) blog.goo.ne.jp/katumoku10/e/8d0165989f792b370b9f05bf9ab2ba0d
辰砂って、シンナバーの事よねぇ。水銀が出来るから、古代中国では、錬金術や錬丹術で使う。秦の始皇帝は、コイツのせいで短命だった。長髄彦ではなく、知られていない天皇か御子だと思うけど。
金鵄の話は無しか?
エウカシ
トミ ノ ナカ スネ ヒコ .順番を替えると ナカ トミ ノ スネ ヒコ、中臣ノ宿禰彦 あら不思議。
それ誰
私だ
シン長髄彦さんですよ!あの有名な!
何で入れ替える必要があるのか
タカラトミー
ニギハヤミ?
新羅の第17代王(在位:356年 - 402年)から王家の血統が朴氏から金氏に替わっている。これに当時の倭国が介入したのが神武皇后の三韓征伐だと仮定して大和朝廷での実力者で、4世紀後半の三韓征伐を実施した皇后を補佐した、武内宿禰が(古墳中央部の)被葬者じゃないかな。
すみません、せっかく高評価をいただき申し訳ありませんが別の可能性を見つけてしまいました。今回造り出し部分から見つかった「蛇行剣」ですが、本当の名前は「比比羅木之八尋矛(ヒヒラギノヤヒロホコ」では無いでしょうか?古事記では東国遠征の際のヤマトタケルに景行天皇が授けたとの記述があり、蛇の様に見えるのは柊(ひいらぎ)の葉をデザイン化したもの、「八尋」は途轍もなく大きいものの意味だとすれば、今回出土した巨大剣と合致します。そして古墳中央の被葬者はヤマトタケルのモデルになった人物で、剣や盾型銅鏡と共に埋葬されたのはその近親者(巫女?)になります。あくまで自分の妄想ですけど。
この円墳は長髄彦のものでしょう。長髄彦と貶められているが、ヤマトに最初に連合王国を築いていた大国主命のことだ。倒したのは高句麗から南下してきて北九州の邪馬台国の卑弥呼を倒し東進した東川王(東遷王でもある)だ。これを日本書紀は神武天皇と呼ぶ。前方後円墳は大陸・半島の方墳と列島の円墳を合わせたもので、二つの国の王という意味になる。空白の4世紀は大陸でも五胡十六国時代の戦乱の時代でもあり、続々と日本に渡ってきていたのです。
東川王と倭国女王で親魏倭王である卑弥呼は同時期に亡くなります。魏と倭国は連携して東川王と戦い、結局東川王は敗戦します。晋の時代になると中国の半島に対する関心が薄くなります。高句麗の影響は四隅突出墳などにもみられます。九州北部を中心とした倭地の30カ国は女王国が服属させていますが倭国が倭王として伊都国に刺史を置き、邪馬壹国を都(禄採地or軍府)として間接的に統治しています。半島勢力が日本列島に侵攻するには鉄製武器を持つ抵抗力のある北九州を中心とした女王国の勢力より無防備な畿内の銅鐸祭祀文化の水稲耕作集落を日本海から上陸し直接狙う方が簡単です。そしてそうした遠征軍は現地で独立してしまう事はよくある事だと思います。ただ外来勢力は2c後半には機内に侵攻している筈です。さしたる抵抗も受けず畿内の支配を広げ3c半ばには風変わりな纒向遺跡を作るに至ります。公孫軍及び傘下の扶余軍が倭韓を支配して伊都国に軍府を置いたのは3cに入ってすぐからだとすると東川王は時期が遅いかなと思います。
何でもかんでもルーツを中国にを求めるのはいかがなものかw 岡山の楯築遺跡双方中円墳こそが前方後円墳の原型である。大和建国には出雲国、吉備国が大いに関係している。渡来系は付属でしかない。
古墳時代になって弥生人(北東アジア人+縄文人+江南人)から古墳人(現代人の5、6割が東アジア人+弥生人)へと人種的に変化していますので現地文化との融合・変容も含めて合理的解釈をしたまでです。歴史的に列島は女真族や新羅、元と侵略を受けていますがそれらは列島の軍事力が発達していた為に退ける事が可能でした。しかし弥生時代や古墳時代初期の未だ貧弱な装備で侵略に対応できたとは考えられません。
古事記と日本書紀を疑えば真実が見えて来るんでしょうね
「富雄」について卑見雑感。別に「士」の字が男をあらわす象形文字であることと考え併せてゆけば。「富雄」⇔「富士」であり、女子ダンスの登美丘高校の名に通じるものを感じたり、実戦には長過ぎて不向きだが「剣舞」には目立って良いのかも。スネも長過ぎ剣も長過ぎ。
で、何が解明したの?
石丸は超一流だ、議員や記者をいや人を罵倒し誹謗中傷することは最高だ、世界の宝田明だ、人間国宝に認定だ。
八咫烏の起源は中国だから、大陸との関係を問うべき。
同意です。八咫烏(三足烏)は中国古代の架空の鳥です。これを国旗にしたのは高句麗を建国した朱蒙です。吉野山中で絶滅しかかった時八咫烏が救うというのは彼等は高句麗から来たことを意味します。
@@迪也杉浦 概ねそう言う事でいいと思います。ついでですが、鳥居の起源も中国雲南省あたりでしょうね。
@@迪也杉浦全然違う高句麗とか半島の初代国王はだいたい卵から生まれてる。日本の場合は高皇産霊神→伊邪那岐→天照大神→神武天皇と神々の系譜がある。まったく違う
@@迪也杉浦 それはデタラメ
八咫烏のモチーフはもっと古い時代のペルシャ発祥大陸から入ってきたらすべて中国朝鮮のものではないのをもうそろそろ理解しなければならない まぁ気持ちはわかるが
邪馬台国阿波説って日本の文献抜きに考えたら実はかなり有力なんじゃ…?
私は富雄丸山古墳の被葬者は忍熊王だと思う。元々こちらが官軍(成務天皇以降の佐紀盾列古墳群のヤマト王権)だが、九州から攻め上って河内に新王朝を建てた神功・応神勢力に敗れたことから、結果的に反乱軍扱いされて前方後円墳を造れなかったのではないか。過去のナガスネヒコと同一勢力の可能性はあるが(サホヒコ・サホヒメ兄妹も)、ナガスネヒコ本人とは時代が違う。
辰砂の硬度は低いから石うすで十分挽ける
このチャンネルの投稿主さんの説は凄く自分に馴染むものばかりです。
寝ぼけながら再生したら木棺が木簡に聞こえて「マジか!」と目が覚めたw
これはなかなか具体的で興味深い考察。
古墳って1年にいくつ作られてたんだろう すごい数ですよね
辰砂といえば縄文時代の徳島県の加工場遺跡が発見されましたが、忌部氏と共に栄えた時代があったのではと思います。大和他大規模な鉱山がやがて発見され忌部氏も全国へ広がり、時代とともに辰砂の拠点が移っていったのではないでしょうか。
日本にはアワ国呼びが2つ有るんだから何らかの侵攻か災害あってどっちらかにどっちらかが移動したんじゃね?大和に負けたのかもな
地元なので地名の由来は知ってたけど、この場所が古墳でこんなに有名とは知らなんだ
吉野郡には丹生という地名も残ってたんでないかな
奈良は工期が遅れるから出土しても破棄してたという話も 古墳の周りが住宅ばかりですね
国道169号は古墳の一部切り通しテル。
東大阪~奈良ノ間は古墳だらけですよ
工事してたらよく出て来た
大物主の系統 ?
辰砂によって、古代がつながってきます。空海も水銀と金を求めて巡礼をしていたのだから。
ナガスネヒコなら前方古円墳の出現時期にこの円墳も築造されなければならず、時代的に合わないと思う。それに近くにある神社が埋葬地に建立されたという話もある。そう考えると神武東征から数百年後ぐらいに他界した人物なのではないか。
前方後円墳と、円墳では、違う文化圏なのでは?政権争奪期には、両方ともあるでさ?
なるほど、そういうことか!と思わせる説ですね。
神武東征ってのは神話だから史実に当てはめるのはイカれた空想家ぐらいですよ
でもその元ネタになったであろう侵略者と地方豪族の争いの痕跡として見れば長髄彦と呼ばれた王様の墓でしょうね
物部が王様だったとすれば物部系の墓だろうし意富氏かもしれない
登美氏って確か意富氏と関係があったような覚えがあるから意富氏を王様とした地方豪族の墓かな
相手はやっぱり三輪山を拠点としていた物部になるのかな
ヤマトにあった東鯷国と争うため、東征して生駒山に本陣を置いた、物部活目(もののべいくめ)ではないかと、思っています。
この話とは‥ 遥かに時代は下り反れますが‥
そういえば‥ 江戸時代‥
福島三春の大名秋田氏が‥
長髄彦の兄弟で安日という人物が祖になっていたかと‥
ふと思い出してしまいました‥
関係のない話で申し訳ございませんでした😅‥
学者の方が埋葬者が女性の場合、妹の可能性があると言っていたときに何故妻ではないのかと思ったら血族の縛りがあったのですね。知らなかったです。
辰砂の重要度がそこまで高いとは思いませんでしたが天然で採れる鮮やかな顔料というだけでもかなり特別ですし、神社の朱塗りも防虫防湿保護以外にヤマト政権のイメージ戦略の一つだったのかもしれませんね。
ナガスネヒコの時代に2㍍の鉄剣製造できるんならバリバリの鉄器で武装した兵士を率いてた?鉄があったとしてもまだ青銅器主流な時代だぜ。
長髄彦なら神武東征の年代もおかしくなるな
別に空白ちゃうし。古事記日本書紀に書いてあるやん。大陸に記録が無いだけで。
水銀⇨フリーエネルギー
現代日本人は縄文人と弥生人と古墳人の【三重構造説】なんだよね!
古墳人とはどの様な人達だったのかが気になりますね!
刀の数詞は"振り“❗️
記紀で参考になるのはせいぜい編纂時からさかのぼって100年くらいまでの記事だけでしょ。4,500年前の記事とか現代人が戦国時代からの伝承を書いてるようなもんだから完全にフィクションだと思っておいた方がいい
そんなことはない
口伝だから骨格は古そう
記紀編纂時から400年前の記録と、中国や朝鮮半島の古文書の記録が一致してる箇所もある。
@@たぬ-w8k 400年前というと西暦300年前後だが例えば何?
考古学的裏付けが取れたものは事実認定すればいいが神武東征やらナガスネヒコなんかはあくまで神話の一部で事実とは考えられていない
考古学的裏付けがとれた物に関しては事実認定すればいいけど、とれてないものはフィクションとして扱わないとダメだわな
当たり前のように「記紀では神武東征で〜」とか語り出す人を見るとその後議論する気が失せる
長髄彦では、年代が合わない。😅
8代〜10代(初代天皇)の神授😮🎉
この古墳、今まで発掘調査してないねが不思議?
ナガスネヒコは時代が合いませんね。そこから下った物部系ならわかる気もしますが、それとやはり佐紀古墳群との関わりも考察しなくては。
そもそも神武天皇の東遠征の年代が違うと思うからね
多くの皆さんは記紀が天皇の歴史書だと習っていますが、日本書紀が成立したのは天武天皇崩御の34年後です。時の権力者は藤原不比等でした。妃の鵜野讃良(持統天皇とされたが実は即位していないと推理)と組んで天武天皇の優秀な皇子たちを排除して、皇位を簒奪して権力を握ったのです。その悪事を隠し、3世紀の建国時代に活躍した祖先をもつ豪族の勢力を抑え、自らの祖神を活躍させる神話まで創作し、天皇家すら貶めて藤原氏の権力の正統性を主張するために創った勝者藤原氏の歴史書だったのですよ。
日本書紀よりも先に完成したとされる古事記は、実は9世紀の朝廷で日本書紀を講義した学者多人長が突然表に出してきたものです。正史にも古事記の記録がないし、日本書紀が古事記を参照した痕跡もないのです。人長の創作なのですが、天皇の歴史書だと思い込んでいるので気づけないのです。
古事記は日本書紀が隠した史実を藤原氏に悟られないようにして暴露するための暗号書だったのです。
建国の史実から古事記の暗号を解くと空白の4世紀から倭の五王の時代が解明できました。初代ヤマトの祭祀王(天皇)は大国主(龍神トビヒコ、武内宿禰、日本海沿岸のムナカタ海人族を束ねる王久々遅彦)と女王台与(記紀の神功皇后のモデル、近江・北陸を拠点とするムナカタ族の姫巫女)の子の応神天皇です。狗奴国ヤマト勢に殺された両親の鎮魂のために纏向に呼ばれたヤマトの初代祭祀王(崇神天皇紀の大田田根子)です。神武天皇は史実を誤魔化すために創作された初代応神天皇の虚像です。
富雄丸山古墳の被葬者は、応神天皇の皇太子菟道稚郎子(宇治天皇として即位していた)と推理しました。母が卑弥呼(宗像女神イチキシマヒメ)の弟赤坂比古(ムナカタ海人族和邇氏の祖)の娘宮主宅媛なのです。
オオサザキ(仁徳天皇)に暗殺され皇位を奪われたので、和邇氏の支配地でひっそりと葬られたのです。富雄の地名はトビ(大国主)の尾(子孫)という意味です。丸山の丸は和邇ですので和邇氏の墓を意味します。卑弥呼も弟赤坂比古も父先代赤坂比古もすべて巨大円墳に葬られています。
仁徳天皇の母仲姫命は記紀では景行天皇曾孫ですが、景行天皇のモデルの尾張王建稲種命(熱田神宮の祭神、ヤマトタケルのモデル)の子孫です。卑弥弓呼大王(記紀の崇神天皇)と同じニギハヤヒ大王(楯築王墓の被葬者)の子孫です。大和盆地は大国主傘下の敵対勢力ばかりなので、ニギハヤヒ大王に所縁の氏族の拠点の河内・和泉で即位した模様です。詳しくは「【刮目天の古代史】今年の大発見第1位!(^_-)-☆」をご参照ください。和爾氏を隠さねばならない理由も分かりました。これが日本書紀のメインテーマだったのです。長々とお邪魔しました(#^.^#) blog.goo.ne.jp/katumoku10/e/8d0165989f792b370b9f05bf9ab2ba0d
辰砂って、シンナバーの事よねぇ。
水銀が出来るから、古代中国では、錬金術や錬丹術で使う。
秦の始皇帝は、コイツのせいで短命だった。
長髄彦ではなく、知られていない天皇か御子だと思うけど。
金鵄の話は無しか?
エウカシ
トミ ノ ナカ スネ ヒコ .順番を替えると ナカ トミ ノ スネ ヒコ、中臣ノ宿禰彦 あら不思議。
それ誰
私だ
シン長髄彦さんですよ!あの有名な!
何で入れ替える必要があるのか
タカラトミー
ニギハヤミ?
新羅の第17代王(在位:356年 - 402年)から王家の血統が朴氏から金氏に替わっている。
これに当時の倭国が介入したのが神武皇后の三韓征伐だと仮定して大和朝廷での実力者で、
4世紀後半の三韓征伐を実施した皇后を補佐した、武内宿禰が(古墳中央部の)被葬者じゃないかな。
すみません、せっかく高評価をいただき申し訳ありませんが別の可能性を見つけてしまいました。今回造り出し部分から見つかった「蛇行剣」ですが、
本当の名前は「比比羅木之八尋矛(ヒヒラギノヤヒロホコ」では無いでしょうか?古事記では東国遠征の際のヤマトタケルに景行天皇が授けたとの記述があり、
蛇の様に見えるのは柊(ひいらぎ)の葉をデザイン化したもの、「八尋」は途轍もなく大きいものの意味だとすれば、今回出土した巨大剣と合致します。そして
古墳中央の被葬者はヤマトタケルのモデルになった人物で、剣や盾型銅鏡と共に埋葬されたのはその近親者(巫女?)になります。あくまで自分の妄想ですけど。
この円墳は長髄彦のものでしょう。長髄彦と貶められているが、ヤマトに最初に連合王国を築いていた大国主命のことだ。倒したのは高句麗から南下してきて北九州の邪馬台国の卑弥呼を倒し東進した東川王(東遷王でもある)だ。これを日本書紀は神武天皇と呼ぶ。前方後円墳は大陸・半島の方墳と列島の円墳を合わせたもので、二つの国の王という意味になる。空白の4世紀は大陸でも五胡十六国時代の戦乱の時代でもあり、続々と日本に渡ってきていたのです。
東川王と倭国女王で親魏倭王である卑弥呼は同時期に亡くなります。魏と倭国は連携して東川王と戦い、結局東川王は敗戦します。晋の時代になると中国の半島に対する関心が薄くなります。高句麗の影響は四隅突出墳などにもみられます。九州北部を中心とした倭地の30カ国は女王国が服属させていますが倭国が倭王として伊都国に刺史を置き、邪馬壹国を都(禄採地or軍府)として間接的に統治しています。半島勢力が日本列島に侵攻するには鉄製武器を持つ抵抗力のある北九州を中心とした女王国の勢力より無防備な畿内の銅鐸祭祀文化の水稲耕作集落を日本海から上陸し直接狙う方が簡単です。そしてそうした遠征軍は現地で独立してしまう事はよくある事だと思います。ただ外来勢力は2c後半には機内に侵攻している筈です。さしたる抵抗も受けず畿内の支配を広げ3c半ばには風変わりな纒向遺跡を作るに至ります。公孫軍及び傘下の扶余軍が倭韓を支配して伊都国に軍府を置いたのは3cに入ってすぐからだとすると東川王は時期が遅いかなと思います。
何でもかんでもルーツを中国にを求めるのはいかがなものかw 岡山の楯築遺跡双方中円墳こそが前方後円墳の原型である。大和建国には出雲国、吉備国が大いに関係している。渡来系は付属でしかない。
古墳時代になって弥生人(北東アジア人+縄文人+江南人)から古墳人(現代人の5、6割が東アジア人+弥生人)へと人種的に変化していますので現地文化との融合・変容も含めて合理的解釈をしたまでです。歴史的に列島は女真族や新羅、元と侵略を受けていますがそれらは列島の軍事力が発達していた為に退ける事が可能でした。しかし弥生時代や古墳時代初期の未だ貧弱な装備で侵略に対応できたとは考えられません。
古事記と日本書紀を疑えば真実が見えて来るんでしょうね
「富雄」について卑見雑感。別に「士」の字が男をあらわす象形文字であることと考え併せてゆけば。「富雄」⇔「富士」であり、女子ダンスの登美丘高校の名に通じるものを感じたり、実戦には長過ぎて不向きだが「剣舞」には目立って良いのかも。スネも長過ぎ剣も長過ぎ。
で、何が解明したの?
石丸は超一流だ、議員や記者
をいや人を罵倒し誹謗中傷することは最高だ、世界の宝田明だ、人間国宝に認定だ。
八咫烏の起源は中国だから、大陸との関係を問うべき。
同意です。八咫烏(三足烏)は中国古代の架空の鳥です。これを国旗にしたのは高句麗を建国した朱蒙です。吉野山中で絶滅しかかった時八咫烏が救うというのは彼等は高句麗から来たことを意味します。
@@迪也杉浦
概ねそう言う事でいいと思います。
ついでですが、鳥居の起源も中国雲南省あたりでしょうね。
@@迪也杉浦
全然違う
高句麗とか半島の初代国王はだいたい卵から生まれてる。
日本の場合は高皇産霊神→伊邪那岐→天照大神→神武天皇と神々の系譜がある。
まったく違う
@@迪也杉浦
それはデタラメ
八咫烏のモチーフはもっと古い時代のペルシャ発祥
大陸から入ってきたらすべて中国朝鮮のものではないのをもうそろそろ理解しなければならない まぁ気持ちはわかるが
邪馬台国阿波説って日本の文献抜きに考えたら実はかなり有力なんじゃ…?