ขนาดวิดีโอ: 1280 X 720853 X 480640 X 360
แสดงแผงควบคุมโปรแกรมเล่น
เล่นอัตโนมัติ
เล่นใหม่
私の先祖は、吉見氏の分家の側室との間に生まれた子です。こうなればもう単なる家来ということでしょうが、血が範頼から繋がっていることが不思議です。😌
大江広元に讒言されて謀反人として亡くなった後世でその大江広元の子孫といわれる毛利氏に従うことになろうとは…
小山氏の分家結城氏の初代朝光は頼朝の落胤とも伝えられ(結城系図)、小山氏が範頼一族を引き取ったのもそういった頼朝との密接なつながりがあったことも理由だと思います。小山氏は比企一族も滅亡後に一族を引取り、子孫は小山領内の下野小金井に残って江戸時代は名主として存続しています。
今回も忠誠に嘘偽りなしとして範頼が書いた起請文に対し、その起請文に難癖を付けた大江広元の末裔同士の関わり合いが何とも面白かったです。吉見氏の名跡は潰えたかも知れないですが、血脈は今も続いているものだと思いたいものですね。。。
今回も流石の深掘り。
すごく詳しいと敬服いたします。当時のことに詳しい方はたくさんいらっしゃるとは思いますが、子孫のことまで詳しくて驚きです。
生き残った子孫の歴史のつながり見たいのが面白いですね
吉見横穴は聞いたことがあると思いました。調べたら心霊スポットだったのですね。
義朝の子供で明確に子孫が確認できるのは範頼、義円、全成、坊門姫ぐらいか?(希義にも子がいたらしいがはっきりしない)スター格の頼朝や義経じゃないのが皮肉
関東武者は広島とはなんだか縁があるなぁ毛利、吉見、熊谷などみんな関東出身
かつての毛利氏の領土であった山口県内にはニヶ所、吉見と言う地区があります。宇部市内と下関市内ですが、下関市内は山陰本線の駅名にもなっております。私の知り合いで、かつてここ吉見地区の庄屋さんであった久保田さんという方がおられますが、ひょっとしたらこの久保田さんは蒲冠者範頼氏の子孫ではないでしょうか?因みに関東の地図を見たら埼玉県比企郡吉見町に久保田と言う地名があります。毛利氏に逆らった事で士籍を剥奪され、農民階級に落とされましたが、姓を久保田と変え出自の地を庄屋として赴任した地域名としたのかと考えられなくはないでしょうか?
吉見氏て、一度鎌倉時代後期に、北条貞時に滅ぼさてなかった? 太平記(91年放送)の初回に出てきたね。
愛知県蒲郡市には吉見姓がたくさん存在しています。
中日の元エースの吉見は蒲殿の末裔かな?
(三河国)蒲郡市西部に多いでしょうか。武蔵国から移った能登国守護家の能登吉見氏の一族が三河国に移住し広がったと何かで読んだことがあります。大河ドラマでは全く触れていませんでしたが、源範頼公は平家討伐、木曽義仲討伐の恩賞で三河守に任ぜられ、失脚まで三河国を実際に支配したといいます。縁はあったのでしょうね。
@@義和菊池 かもしれませんね。因みにトヨタ自動車から入った元中日の吉見は、一見愛知っぽいけど実は京都福知山(丹波国)出身だそうで。ただし武蔵吉見氏の一族が丹波国に移住し続いたと言います。今でも福知山市は吉見さんが沢山いるそうで。
蒲郡市内の吉見姓は、1系ではなく2系統以上あると思います、うちの系統は室町時代に移住している。
一昨年の天皇誕生日に、親族旅行で蒲郡に行きました。子連れ世帯がこどもの国に集まったようで、もしかしたら吉見姓の方々にもお世話になっていたかも知れません。
鎌倉殿では足利義兼辺りが出て来ないからあてになる身内が範頼位しかいなかったのに殺しちゃった、みたいになってしまいましたね…
私は範頼の事を昔から興味もっていましたからとても良かったです😃
奥さんの亀さんのお墓にはよく行きます。阿弥陀堂の案内の木の板が腐っていて読めません。遠くから来た人は頑張って千以上ある墓石から頑張って探して下さい。奥さんの墓石は頭がピンク色ですよ。源範頼、地元では今一つ盛り上がっていません。
北本市選出の大島敦代議士の祖先は源範頼の叔父源為朝です、為朝は平治の乱で伊豆の大島に流され大島氏を名乗り、後程に後北条の家臣にな対上杉戦の遊撃隊鴻巣7騎の一員して北本に在住して後北条没後に帰農しました。
他の御家人の手前、死んだコトにしなきゃいけなかったんだろけど、義経も奥州への道の途中・阿佐ケ谷の宝仙寺で生きてたと思う。中野には後に馬で長者になる鈴木九郎が突然現れるけど、鈴木三郎の子孫だし、南北朝あたりには先達・中野殿が旦那のあさかや氏を熊野に連れて行ってる。結局は太田道灌に蹴散らされて、宝仙寺は今の中野に移るんだけど
こんにちは。
「あられもない疑い」意味不明w。「いわれのない疑い」じゃないですか?
範頼が曽我兄弟の仇討その他による処罰を受けた?時期には比企氏は北条氏を上回る大変な勢力を持っていて、頼朝は比企尼を含む乳母三人には頭が上がらないような所があったので、確かに北条氏の本拠地、伊豆修善寺に幽閉、殺害されたのではなく、比企氏の所領に引いて吉見氏を名乗り生きたと考えた方が自然だと思いました。
源以外で名前てあったんですか?
自分で源の姓を捨てて誠意を見せろってことでしょうか…源以外の姓は範頼は持っていないので、源と名乗ることは至極まっとうですが…
結局一番血を残せたのって範頼っぽいなこれ
講談や歌舞伎のストーリーが史実と勘違いする輩が多いから、本当の所は事務的な理由で解任させられた説に賛成
私の母方の祖父の本家(栃木県真岡市)に立派な巻物の家系図が有ったらしく実母が子どもの頃に見たそうです世の中の全ての事に疎い母が「うちは源範頼の末裔なんだって~、立派な巻物の家系図を見たんだ~」と、35年位前に言っていました祖父の本家とは昔から疎遠に成っているので調べる事は皆無私は何かの間違えかと思っていましたが「小山氏」との繋がりが出てきた事で真実味が(゚Д゚)!!知らなければ母の口から「源範頼」等と一生涯聞く事は無いと思うので末裔だと言う事は事実だったのかなぁ~🤔
真岡市といえば小山氏の勢力圏ですし、そんな立派な家系図ならば何らかの関係がありそうですね!
@@rekishock さん立派な巻物の家系図私も何か有ると思います祖父の名字は「黒子(くろご)」と言います変わった名字、しかも黒子ってイメージ的に裏方ですよね~支えていた家臣か何かかなぁ...と、ずっと思っていましたがどうなんでしょうか???本家とは昔にいざこざが有ったそうで私は全く行った事も何処の家なのかも知りませんこれ以上手掛かりが無くてもやもやしています(^^;)出来る事なら真相を知りたいですねぇ~
黒子氏は源平合戦で敗れた平貞能を祖として、小山氏と並んで栃木県に勢力を持っていた宇都宮氏に仕えていた一族がいるようです。ja.m.wikipedia.org/wiki/黒子_(氏族)宇都宮氏家中だと小山氏とは関係が無さそうですから、小山氏関係者が黒子氏に巻物と一緒に嫁いで、お祖父様の家にその巻物が伝わったとかですかね…真相は分かりませんが、調べがいのありそうなご家系ですね!
@@rekishock さん情報ありがとうございます(*´∀人)まさか「黒子」がそんな凄い氏族なんて思いもよらず母方だった事もあり調べていませんでした家紋も見た事も無くお墓の家紋はよく覚えておらず「桐」だった様な...???と、まぁこんな感じでご先祖様に大変失礼で申し訳なかったと思いましたずっと源氏だと思っていたので平家の流れだったとはビックリ‼️揚羽蝶ですね実はわが家(実父)の家紋は「丸に揚羽蝶」なんですよ祖父は長崎県で「高宮」から「髙木」に養子に出されたそうなのですが...祖父は私が生まれる以前に亡くなっており実父も私が27歳の時に亡くなってしまい、しかも実父の家庭が複雑だった事もあって実父はあまり過去の話をする事が無かった為、全くの情報難民状態最悪、戸籍を辿って役所を調べて行くしかご先祖様が明らかに成る事は無いのかと半分諦めていましたまさか、母方で揚羽蝶の家紋が出て来るとは~何だか不思議な縁を感じています諦めないでまた、少しずつ調べられたらと(^^;)一筋の光を与えて頂きましてありがとうございました
源範頼の子孫の方達が範頼死後生き延びていましたが、範頼の弟の源義経の子孫も現在岩手県で生きています、岩手県の方々は知っている人がたくさんいます、平将門の子孫の方達も福島県いわき市や福島県の県南地区で生きています、将門の15男の子孫がいわき市で今も生きでいます、加藤清正の子孫は山形県で生きています、加藤清正は日蓮宗でしたが熊本52万石を没収された後に山形県に移り庄内地方に2万石で現在まで続いています現在は曹洞宗天鐸寺に清正公以来の当主が皆お世話になって眠っています、武田信玄の家臣馬場美濃守の子孫は会津で坂内という苗字で生きています、山本勘助の子孫も会津で生きていましたその子孫が明治時代に京都市長になった山本覚馬氏や山本八重その後の子孫が新潟県に移り住み新潟県出身した山本が山本五十六元帥です、源頼朝の平泉攻めの功績で福島県の伊達郡をもらったのは茨城県下館市中村町伊佐から来た藤原時永でしたが時永氏は苗字を藤原からもらった領地の地名を取り伊達として名前は頼朝の朝をとって朝宗とし伊達朝宗と名乗り伊達家の初代となり福島県福島市と伊達市に初代から15代伊達晴宗公のお墓があります16伊達輝宗公のお墓は山形県米沢市にあり独眼竜政宗以降のお墓は宮城県にあります伊達家は初代から今まで34代泰宗まで続いています。
平将門の第二夫人あかね様は将門追討軍によって、多摩川の上流で追討軍にに殺されその時多摩川は血で染まり真っ赤になりそれが多摩川渓谷の紅葉の色になって赤く綺麗な色をしていると観光か何かの宣伝で話してましたが平将門が茨城県岩井市の営所を出陣して葛飾小金井あたりで平貞盛の軍に殺されたのにあかね夫人が茨城県岩井市の営所から将門の殺された方角に逃げて多摩川を登って追討軍に殺されたのは誰が考えてもおかしいです、将門が殺されたとわかったら逆の方へ子供達や使いの者たちを連れて逆の方へ逃げるのが正解でしょう、将門の三女滝夜叉姫はいわき市四倉町恵日寺のお墓があります15男の子孫の方達はいわき市遠野町に住んでます、あかね夫人一族は奥州街道を北上して平将門が建てた出羽の国の五重塔の方を目指して落ち延びて行く予定だったらしいのですが着ている服はぼろぼろになり履いていたワラジも擦り切れて出羽の国までは行く事が困難になって福島県福島市のある場所でぼろぼろの姿で一族郎党皆身を隠して住むようになりその場所を今でもあかね坂と呼ぶようになってます。
NHKの放送を一回見たがシナリオがめちゃくちゃで見る価値は無いと思った!
私の先祖は、吉見氏の分家の側室との間に生まれた子です。こうなればもう単なる家来ということでしょうが、血が範頼から繋がっていることが不思議です。😌
大江広元に讒言されて謀反人として亡くなった後世でその大江広元の子孫といわれる毛利氏に従うことになろうとは…
小山氏の分家結城氏の初代朝光は頼朝の落胤とも伝えられ(結城系図)、小山氏が範頼一族を引き取ったのもそういった頼朝との密接なつながりがあったことも理由だと思います。小山氏は比企一族も滅亡後に一族を引取り、子孫は小山領内の下野小金井に残って江戸時代は名主として存続しています。
今回も忠誠に嘘偽りなしとして範頼が書いた起請文に対し、その起請文に難癖を付けた大江広元の末裔同士の関わり合いが何とも面白かったです。
吉見氏の名跡は潰えたかも知れないですが、血脈は今も続いているものだと思いたいものですね。。。
今回も流石の深掘り。
すごく詳しいと敬服いたします。当時のことに詳しい方はたくさんいらっしゃるとは思いますが、子孫のことまで詳しくて驚きです。
生き残った子孫の歴史のつながり見たいのが面白いですね
吉見横穴は聞いたことがあると思いました。調べたら心霊スポットだったのですね。
義朝の子供で明確に子孫が確認できるのは範頼、義円、全成、坊門姫ぐらいか?(希義にも子がいたらしいがはっきりしない)
スター格の頼朝や義経じゃないのが皮肉
関東武者は広島とはなんだか縁があるなぁ
毛利、吉見、熊谷などみんな関東出身
かつての毛利氏の領土であった山口県内にはニヶ所、吉見と言う地区があります。宇部市内と下関市内ですが、下関市内は山陰本線の駅名にもなっております。私の知り合いで、かつてここ吉見地区の庄屋さんであった久保田さんという方がおられますが、ひょっとしたらこの久保田さんは蒲冠者範頼氏の子孫ではないでしょうか?因みに関東の地図を見たら埼玉県比企郡吉見町に久保田と言う地名があります。毛利氏に逆らった事で士籍を剥奪され、農民階級に落とされましたが、姓を久保田と変え出自の地を庄屋として赴任した地域名としたのかと考えられなくはないでしょうか?
吉見氏て、一度鎌倉時代後期に、北条貞時に滅ぼさてなかった? 太平記(91年放送)の初回に出てきたね。
愛知県蒲郡市には吉見姓がたくさん存在しています。
中日の元エースの吉見は蒲殿の末裔かな?
(三河国)蒲郡市西部に多いでしょうか。武蔵国から移った能登国守護家の能登吉見氏の一族が三河国に移住し広がったと何かで読んだことがあります。大河ドラマでは全く触れていませんでしたが、源範頼公は平家討伐、木曽義仲討伐の恩賞で三河守に任ぜられ、失脚まで三河国を実際に支配したといいます。縁はあったのでしょうね。
@@義和菊池 かもしれませんね。因みにトヨタ自動車から入った元中日の吉見は、一見愛知っぽいけど実は京都福知山(丹波国)出身だそうで。ただし武蔵吉見氏の一族が丹波国に移住し続いたと言います。今でも福知山市は吉見さんが沢山いるそうで。
蒲郡市内の吉見姓は、1系ではなく2系統以上あると思います、うちの系統は室町時代に移住している。
一昨年の天皇誕生日に、親族旅行で蒲郡に行きました。
子連れ世帯がこどもの国に集まったようで、もしかしたら吉見姓の方々にもお世話になっていたかも知れません。
鎌倉殿では足利義兼辺りが出て来ないからあてになる身内が範頼位しかいなかったのに殺しちゃった、みたいになってしまいましたね…
私は範頼の事を昔から興味もっていましたからとても良かったです😃
奥さんの亀さんのお墓にはよく行きます。
阿弥陀堂の案内の木の板が腐っていて読めません。
遠くから来た人は頑張って千以上ある
墓石から頑張って探して下さい。
奥さんの墓石は頭がピンク色ですよ。
源範頼、地元では今一つ盛り上がっていません。
北本市選出の大島敦代議士の祖先は源範頼の叔父源為朝です、為朝は平治の乱で伊豆の大島に流され大島氏を名乗り、後程に後北条の家臣にな対上杉戦の遊撃隊鴻巣7騎の一員して北本に在住して後北条没後に帰農しました。
他の御家人の手前、死んだコトにしなきゃいけなかったんだろけど、義経も奥州への道の途中・阿佐ケ谷の宝仙寺で生きてたと思う。中野には後に馬で長者になる鈴木九郎が突然現れるけど、鈴木三郎の子孫だし、南北朝あたりには先達・中野殿が旦那のあさかや氏を熊野に連れて行ってる。結局は太田道灌に蹴散らされて、宝仙寺は今の中野に移るんだけど
こんにちは。
「あられもない疑い」意味不明w。「いわれのない疑い」じゃないですか?
範頼が曽我兄弟の仇討その他による処罰を受けた?時期には比企氏は北条氏を上回る大変な勢力を持っていて、頼朝は比企尼を含む乳母三人には頭が上がらないような所があったので、確かに北条氏の本拠地、伊豆修善寺に幽閉、殺害されたのではなく、比企氏の所領に引いて吉見氏を名乗り生きたと考えた方が自然だと思いました。
源以外で名前てあったんですか?
自分で源の姓を捨てて誠意を見せろってことでしょうか…
源以外の姓は範頼は持っていないので、源と名乗ることは至極まっとうですが…
結局一番血を残せたのって範頼っぽいなこれ
講談や歌舞伎のストーリーが史実と勘違いする輩が多いから、本当の所は事務的な理由で解任させられた説に賛成
私の母方の祖父の本家(栃木県真岡市)に立派な巻物の家系図が有ったらしく実母が子どもの頃に見たそうです
世の中の全ての事に疎い母が
「うちは源範頼の末裔なんだって~、立派な巻物の家系図を見たんだ~」
と、35年位前に言っていました
祖父の本家とは昔から疎遠に成っているので調べる事は皆無
私は何かの間違えかと思っていましたが「小山氏」との繋がりが出てきた事で真実味が(゚Д゚)!!
知らなければ母の口から「源範頼」等と一生涯聞く事は無いと思うので末裔だと言う事は事実だったのかなぁ~🤔
真岡市といえば小山氏の勢力圏ですし、そんな立派な家系図ならば何らかの関係がありそうですね!
@@rekishock さん
立派な巻物の家系図
私も何か有ると思います
祖父の名字は「黒子(くろご)」と言います
変わった名字、しかも黒子ってイメージ的に裏方ですよね~
支えていた家臣か何かかなぁ...と、ずっと思っていましたがどうなんでしょうか???
本家とは昔にいざこざが有ったそうで私は全く行った事も何処の家なのかも知りません
これ以上手掛かりが無くてもやもやしています(^^;)
出来る事なら真相を知りたいですねぇ~
黒子氏は源平合戦で敗れた平貞能を祖として、小山氏と並んで栃木県に勢力を持っていた宇都宮氏に仕えていた一族がいるようです。
ja.m.wikipedia.org/wiki/黒子_(氏族)
宇都宮氏家中だと小山氏とは関係が無さそうですから、小山氏関係者が黒子氏に巻物と一緒に嫁いで、お祖父様の家にその巻物が伝わったとかですかね…
真相は分かりませんが、調べがいのありそうなご家系ですね!
@@rekishock さん
情報ありがとうございます(*´∀人)
まさか「黒子」がそんな凄い氏族なんて思いもよらず母方だった事もあり調べていませんでした
家紋も見た事も無くお墓の家紋はよく覚えておらず「桐」だった様な...???
と、まぁこんな感じでご先祖様に大変失礼で申し訳なかったと思いました
ずっと源氏だと思っていたので平家の流れだったとはビックリ‼️
揚羽蝶ですね
実はわが家(実父)の家紋は「丸に揚羽蝶」なんですよ
祖父は長崎県で「高宮」から「髙木」に養子に出されたそうなのですが...
祖父は私が生まれる以前に亡くなっており実父も私が27歳の時に亡くなってしまい、
しかも実父の家庭が複雑だった事もあって実父はあまり過去の話をする事が無かった為、全くの情報難民状態
最悪、戸籍を辿って役所を調べて行くしかご先祖様が明らかに成る事は無いのかと半分諦めていました
まさか、母方で揚羽蝶の家紋が出て来るとは~
何だか不思議な縁を感じています
諦めないでまた、少しずつ調べられたらと(^^;)
一筋の光を与えて頂きましてありがとうございました
源範頼の子孫の方達が範頼死後生き延びていましたが、範頼の弟の源義経の子孫も現在岩手県で生きています、岩手県の方々は知っている人がたくさんいます、平将門の子孫の方達も福島県いわき市や福島県の県南地区で生きています、将門の15男の子孫がいわき市で今も生きでいます、加藤清正の子孫は山形県で生きています、加藤清正は日蓮宗でしたが熊本52万石を没収された後に山形県に移り庄内地方に2万石で現在まで続いています現在は曹洞宗天鐸寺に清正公以来の当主が皆お世話になって眠っています、武田信玄の家臣馬場美濃守の子孫は会津で坂内という苗字で生きています、山本勘助の子孫も会津で生きていましたその子孫が明治時代に京都市長になった山本覚馬氏や山本八重その後の子孫が新潟県に移り住み新潟県出身した山本が山本五十六元帥です、源頼朝の平泉攻めの功績で福島県の伊達郡をもらったのは茨城県下館市中村町伊佐から来た藤原時永でしたが時永氏は苗字を藤原からもらった領地の地名を取り伊達として名前は頼朝の朝をとって朝宗とし伊達朝宗と名乗り伊達家の初代となり福島県福島市と伊達市に初代から15代伊達晴宗公のお墓があります16伊達輝宗公のお墓は山形県米沢市にあり独眼竜政宗以降のお墓は宮城県にあります伊達家は初代から今まで34代泰宗まで続いています。
平将門の第二夫人あかね様は将門追討軍によって、多摩川の上流で追討軍にに殺されその時多摩川は血で染まり真っ赤になりそれが多摩川渓谷の紅葉の色になって赤く綺麗な色をしていると観光か何かの宣伝で話してましたが平将門が茨城県岩井市の営所を出陣して葛飾小金井あたりで平貞盛の軍に殺されたのにあかね夫人が茨城県岩井市の営所から将門の殺された方角に逃げて多摩川を登って追討軍に殺されたのは誰が考えてもおかしいです、将門が殺されたとわかったら逆の方へ子供達や使いの者たちを連れて逆の方へ逃げるのが正解でしょう、将門の三女滝夜叉姫はいわき市四倉町恵日寺のお墓があります15男の子孫の方達はいわき市遠野町に住んでます、あかね夫人一族は奥州街道を北上して平将門が建てた出羽の国の五重塔の方を目指して落ち延びて行く予定だったらしいのですが着ている服はぼろぼろになり履いていたワラジも擦り切れて出羽の国までは行く事が困難になって福島県福島市のある場所でぼろぼろの姿で一族郎党皆身を隠して住むようになりその場所を今でもあかね坂と呼ぶようになってます。
NHKの放送を一回見たがシナリオがめちゃくちゃで見る価値は無いと思った!