倭人とは?倭国について書かれた最後の史書「旧唐書」からわかる倭国と日本国

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  • เผยแพร่เมื่อ 6 ก.ย. 2024

ความคิดเห็น • 34

  • @flat1701
    @flat1701 7 หลายเดือนก่อน +13

    朝貢してた「倭」と、対等の外交をしようとした大和朝廷って文化的に別物じゃないかという気はする

  • @flightdeck5165
    @flightdeck5165 7 หลายเดือนก่อน +7

    「倭」はどうも中国南部、揚子江沿岸一帯と、日本にかけての種族につけた名称のようです。当然、「小さな」という意味をつけるあたりは「中華」思想が入っているわけですが、「匈奴」や「韃靼」等と他の国と比較すると、それほど蔑称とは言えないかも知れません。
     一方で「倭」を「わ」と発音するのは、当時の中国語の発音で有り、一字一音一意の原則から外れていません。この字は当然、漢字を輸入したばかりの日本では「国号」として外交の際に使用した可能性は高いですが、元々の大和言葉の訓読みは「やまと」です。この事から「倭国」と書いて「やまと国」と読んでいたことが解ります。つまり「倭」=「やまと」であると解して問題無さそうです。日本人が「やまと」と発音しても、そういう読みを知らない中国人は「やまたい」と聞き違えた可能性も有り得ますね。
     その「倭国」が「日本」と融合したかどうかについてですが、それは朝鮮半島や揚子江の民の出自と関係してきます。奄美大島に存在する鬼海カルデラ(アカホヤ)の大噴火で7300年前に、縄文人は大幅に人口を減らしましたが、居住環境の劣悪となった列島の自然が回復する間、縄文人は東北、北海道、裏日本に移住し、あるいは朝鮮半島(当時は無人)、そして揚子江下流域にと避難し、そこで新たな生活を開始したものと思われます。その際に、半島には「馬韓、弁韓、辰韓」の3つの国、これに加えて高麗(高句麗)を造り、揚子江下流域に「呉」の国を造り、呉の民族は川を遡って「殷、秦」の国々を造っていったと考えられます。ミトコンドリアDNAがこれら諸国と一致するのは、この推測の傍証です。YAP遺伝子は見つかりませんから、その後の歴島中でこれらの国は、半島では「新羅」「百済」「任那」「高麗」になって、その後三国時代の後に中国によって攻め滅ぼされ、呉は魏に、滅ぼされたものと思います。その際に男系男子は全て殺されたと考えるしかありません。そして、その支配下から命からがら故郷に帰ってきた人々は当然中国人のDNAを持っていたわけですが、日本には暖か迎え入れ、そこである程度の遺伝子の混合があったものと推測されます。
     個人的史観につき、証拠はありませんが、遺跡、言語文化、土地の名称などから、この説はありうるのでは無いかと思います。

    • @nandai_ittei
      @nandai_ittei หลายเดือนก่อน

      「鬼海カルデラ(アカホヤ)の大噴火」から「半島には「馬韓、弁韓、辰韓」の3つの国、これに加えて高麗(高句麗)を造り、揚子江下流域に「呉」の国を造り」ってのは時代が飛び過ぎでは?これらの国ができたのって7300年前じゃないですよね。

  • @MsIrina24
    @MsIrina24 2 หลายเดือนก่อน

    リュークとか名前かっこいい

  • @user-cg4kx6xq5d
    @user-cg4kx6xq5d 7 หลายเดือนก่อน +3

    ずんちゃん可愛い😊

  • @yukitakamasuta3501
    @yukitakamasuta3501 7 หลายเดือนก่อน +4

    王の王たるを大王(オオキミ)と称するなら、倭の中の倭を大和(大倭)としと考えても良いんでね?
    倭国大乱を勝ち残った邪馬台国連合の中の一国家が大和朝廷で良いと思うのだけど
    あと、自国の事を我が国というところから倭国と当てられた説もあったような…

  • @user-zq5uc7fy2o
    @user-zq5uc7fy2o 7 หลายเดือนก่อน +2

    魏志の記述通りなら「倭国」は約100カ国中30カ国の地域連合
    斑鳩発祥のヤマトとは別物だろう

  • @user-wj9ws6yd3r
    @user-wj9ws6yd3r 6 หลายเดือนก่อน +2

    ☀枝豆は美味しいですね! 16:10

  • @user-in2jy7ov6n
    @user-in2jy7ov6n 7 หลายเดือนก่อน +3

    白村江の戦いの後の666年に唐の高宗が泰山で行った封禅に新羅王等と参加した倭王とは誰だったのか?
    ヤマト政権以前に別の国が九州に在ったことは確実だな。

  • @user-vo3xq7mk6c
    @user-vo3xq7mk6c 7 หลายเดือนก่อน +2

    國國有市交易有無使大倭監之
    の大倭が倭国を併合するのは自然な流れ

  • @user-hz4hy9oe2b
    @user-hz4hy9oe2b 13 วันที่ผ่านมา

    大和の漢字に「やまと」と読ませるのは当て字で、漢字の大和には意味を、読みはそれ以前に存在した国(地域)の発音を引き継いでいる。
    つまり、大和とは日本が共和国になった事を表していて、だから数字の発音も複数あるし方言も複数ある。
    方言は都を中心に同心円状に広がってなどいないのもその証拠。

  • @yoholake
    @yoholake 7 หลายเดือนก่อน +4

    宋書倭国伝の倭の五王と隋書倭国伝のタジリヒコの話からすると、倭国と日本は別物で、日本=大和王権だったように感じる

  • @user-gi2eu4ou3r
    @user-gi2eu4ou3r 7 หลายเดือนก่อน +1

    揚子江沿岸地域に文化を齎した皇祖アマ国が有ったと聞いています。
    祭祀文化ですね、甲羅で占い、文字さえ甲羅に残し、物々交換で生活を営み、稲作さえ伝播した倭国以前の東夷人アマ国
    ユダヤ人を伴い、豊国を目指し北へ北へ北上した海人族が有ったと推理します。
    九州北部に一大率国を吉野ケ里あたりに置いて居たと思う。
    日巫女が祭祀女王として君臨したと思う。

  • @user-gz2ty9ob6j
    @user-gz2ty9ob6j 7 หลายเดือนก่อน +1

    記紀にはニニギが筑紫の日向に降臨したとありますからニニギは九州に降臨し、また平安時代の大祓詞にはニニギが大倭日高見国を平定したとあり、ここで大倭は奈良ですから、結局ニニギは九州に降臨してから奈良にあった日高見国を平定した事になります。だから九州の倭国の邪馬台国のニニギが畿内の日高見国の日本を平定したのではないでしょうか。

  • @trinitydisconnect
    @trinitydisconnect 8 หลายเดือนก่อน +1

    正史三国志・魏志・東夷伝の記述に出てくるのは、異面の人は日の出の方向いるらしい(長老説)又は、天子爲其絕域委以海外之事。と記述しているので、陳寿は倭は半島、委は対馬以降。後漢書や裴松之は前史を検証するにあたり、見落とした。記紀編纂者も見落とした??
    または雲南地方・台湾・九州が凄く短い連続した島国だと考察したのかもしれませんね。
    なので、本来は半島の倭人・海外の委人なのを、時間経過した各歴史書も委を見落として、混合、混入したんでしょうね。百納を繰り返したようですし。
    魏志東夷伝倭人を読んでも描写が九州ですらありませんので。ので、もっと皆さんで文献を読んで精査すれば、誤訳や誤解を議論し合える日が来ると思います。
    ヒミコloveも良いけどね。
    追伸。漢委奴國王の委が、海外の事で正解だとおもいます。漢倭奴國王だと偽物、又は半島南部となるのかな?奴國(若い女性の意味)なら氣長足姫の事で間違いない?
    いやいや、奴(名前の無い人)なら王君は名前ありませんけど?2024年新たな議論が始まるのかな。?

  • @kotobuki75
    @kotobuki75 7 หลายเดือนก่อน +4

    ずんだもんは可愛い♪ (ー∀ー)

  • @gla_sun
    @gla_sun 7 หลายเดือนก่อน

    漢字とて、いい加減なとこもある。音の仮借、誤字、当て字…。「倭」は中国側が音だけで倭を当てただけで、仮に「ワ」と称した勢力(もしくは地域)があり、これは和に通ずる。勢力拡大や大きな連合体となり、大和としたかもしれない。
    古来より大和をヤマトと読むが、ヤマトと大和(倭)の関係が同一であるか別の組織が後に融合された結果なのかは分からない。
    また邪馬台国については、台(臺)は「ト」と発音できるので、その場合はヤマト国となる。
    「日本」は漢文知識がついてから、後に便宜的に称したものであると思う。上記から勢力が別々にあり呼称が違うとする一方で、全てが同じ意味(地域&勢力)であるとも考えられる。

  • @suzaki7771
    @suzaki7771 8 หลายเดือนก่อน +1

    判断する程の知識がないので全く分かりません。
    ただ現代日本人のハプログループからすると、
    何か特殊な歴史がこの辺であったのでは?と思ったりもします。

  • @h.hashimoto
    @h.hashimoto 4 หลายเดือนก่อน

    ド素人ですが、そもそも魏志倭人伝には「邪馬台国」ではなく、「邪馬壹国」と書かれており、発音上はヤマイ国であったものが、「後漢書」では「どうも今は違うか元々間違いのようだ」ってことで邪馬臺国(ヤマタイ国)に注釈付きで修正されたらしいですね。パッと見同じ漢字に見えることから、これについて歴代の歴史研究家も気付いておらず、この学説が発表されて盲点だったと猛省したらしい(その割にメジャーな話ではないのは謎だが)。
    とにかく、当初はヤマイ国で、その中国における蔑称が倭国、ヤマトは近畿に存在した別の国もしくはヤマイ国を継承した国で倭国より大きな国という意味で中国は大倭と呼んでいた。ヤマト政権も中国の表記に習って大倭と書き、ヤマトと呼んでいたが、後に倭という文字は卑しいことから、「日本」に改めたということでは??

    • @h.hashimoto
      @h.hashimoto 4 หลายเดือนก่อน

      ちなみに中国の文献にヤマトという発音に漢字を当てた表記はないらしい。日本での発音は重視されていなかったことは確実。漢の時代は使者を送ってなかったそうなので、当時既にヤマイ→ヤマトに政権が変わっていたが、朝鮮経由で情報が伝わる過程で、ヤマト→ヤマタイと誤って伝わり、後漢書でヤマイをヤマタイに修正(実際はヤマトの間違い)されるに至ったのかもしれない。

  • @akb2301
    @akb2301 7 หลายเดือนก่อน +1

    縄文、弥生時代前期の北部九州の先端技術の優位性も渡来人の日本全土に住み着き始めた数が近畿より北も入って来た段階で勝敗は決まった。
    ヤマト王権の前身になる近畿地方やその周辺地域と交易、婚姻連合になってまとまった。ヤマト王権には海洋文化圏の刺青が消えていった事を考えたら奈良(近畿)の勢力に北部九州連合は飲み込まれた。
    実際、倭がどこかとかヤマト王権が日本と名乗ってたとか、邪馬台国がどこだったとかはロマンがあるかもしれないが、正直どうでもいいし関係ない。
    ヤマト王権って言う奈良にいた後に天皇を中心とした国家が今までシステムとして続いてて、そのシステムが日本の文化だから。その国の国民にすぎない