【自分とか、ないから。①】東大卒で元芸人で拗らせニート。布団にこもり続けて見つけた答えとは。
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- เผยแพร่เมื่อ 2 พ.ย. 2024
- 古舘が最近読んで感銘を受けた本をご紹介。
様々な経験を踏まえ書かれた仏教の本。
仏教が難しいと考える20~30代の方にお勧めです。
📚『自分とか、ないから。 教養としての東洋哲学』
しんめいP 著 サンクチュアリ出版
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📚『仏教は宇宙をどう見たか アビダルマ仏教の科学的世界観』
佐々木閑 著 化学同人
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◯古舘伊知郎/TH-camチャンネル『古舘Ch』公式
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◯【非公式】TalkingBluesファン倶楽部(仮)
/ talkingblues88
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原始仏教シリーズ、勉強にもなるし、古舘さんの語りもとても心地が良いです
長く続けてほしいです🙂
古館さん、謙虚だな~。
ますます古館さんの話を聴きたくなりました🙂
楽しみにしていました❤
どうもありがとうございます◎
僭越ですが、こういう流れも猪木さんとのお付き合い、存在が影響している感じがします。
古舘さんデニム凄くお似合いになりますね
この本を読んでほんとに面白かったです。
仏教に興味のないスタッフさんにずっと語り続けた古舘さん凄いっていつも思ってました。私ならめげてやめてしまう。今回やっと聞き手の方が歩み寄ってくれた事でこっちも嬉しくなりました。
仏教の教えを完璧に理解しなくても、部分的に素晴らしいって思える箇所があれば、私はそれで充分だと思います。そんな私もほんの一部しか知らないけど、その一部分が自分にとって心のよりどころになっています。
古舘さんの動画があったから仏教に興味が持つことが出来ました。そしてこの書籍も古舘さんが紹介したから知ることが出来ました。
上手く伝えられる人の存在も大事ですが、それと同じくらい古舘さんのような発信力も必要だと思います。ありがとうございます🙏🏼
この本大好きです。ぜひしんめいPさんとの対談おねがいします✨️
「自分とか、ないから。」あっという間に読んじゃいました!また、何回でも読みたいと思いました。
今まで学んできたことが、やっぱそうだよね〜!って、現代語で感じられて、本当に嬉しかったです。
永遠の仏陀良かったです!
古舘さんのアビダルマ仏教の解説も楽しみにしています!
みうらじゅんさんの 自分なくしの旅 とか マイ仏教 とかも面白いですよ ずいぶん前から 自分なんてないんだからって言ってらっしゃいました
1年ぐらい前にこのチャンネルにみうらじゅんさん出られてましたよ!
そこでじっくり仏教トークされてて面白かったのでぜひみてほしいです
みうらさんと古館さん、このチャンネルで仏教対談されてましたよ!
かなり面白かった!
私も最近購入していろんな人におすすめしたいと思いました。
関係性やコンテキストはとても大切ですよね
是非この本を読みたいと思います。
出版した時点ですぐに買った本ですが今年イチの本でした!
これはわかりやすい
俺、ダメじゃん…って、Naturalに言えるこの方は、無尽蔵に魅了されてしまいました✨素敵過ぎました👍
自分なんてものはありません…
ならば一切合切地位も名誉も蓄財も失くしなさい…と言われても困る
今が最後でいいか?と言われてもハイとは言えない…
書籍に感心するのと実際に執着を失くすのとは違う…
古舘氏もこの配信で銭勘定しているのである…😂
かの佐々木閑さんと、古舘さんの面白い角度の組み合わせの本は素晴らしいですが、古舘さんの釈迦の推し活と言うからには僕も目を光らせてしまう時もありました。
古舘さんの原始仏教の考えも常に学びの対象であり正解はない中で、僕も無我という言葉を使うことももちろんあります。
それは、我執をなくす意味においては、僕も無我という言葉を使っています😊
18:06 ちょうど良かったです。満員電車の中で聞けました。
みうらじゅん先生がおっしゃる自分探しではなく自分無くしと繋がる部分があります。仏教を勉強されてる方は、そこに行きつくのでしょうかね。おもしろいです。
読んでみます!!
古舘さんの仏教解説は予備知識のある僕にはめちゃくちゃ分かりやすくて、合点が行ったり学びが深くなりましたよ♪これからもブッディズムの深い部分のお話を楽しみにしてます。
最近、原始釈迦仏教の動画を拝見させていただいて物凄く面白いと感じたと共に
僕が大好きなワンピース(漫画)はとても仏教だなと感じ
古館さんご多忙とは存じますがワンピースと仏教で解説していただけませんでしょうか?
毎朝、鏡に向ける言葉
「私は私のままでいい」
「今日もたくさん笑おう」
「今日もなにかを学ぼう」
これやめて
「自分とかないから」
に変えてみます。それが楽だもん。
この本、買いました!同僚にも紹介して彼女も買いました😊
仏教で言う有情・非情は、人の感覚で言えばいわゆる有機物・無機物ですが、仏教はこの無機物(非情)もまた生命観に含まれます。
兄と弟の例えもそうですが、原子や元素が陽子の数などよって水素にもヘリウムにも鉄にもなるように、万物に生命的特徴を有することを釈尊は説明しました。
空だと思わないくらい頭の中を空にすればいいだけの話😉どうしても無理なら禅に触れて、一枚ずつ眼から鱗を取り出してゆくのも、一つの方法なのかも✌️
でもね。親から躾られて、物事を教育されてしまうのが人間だから、何十年も頭にこびりついた枷は外せないものですよ😅
若いうちから触れてないと、ひとりよがりになり孤独に耐えらなくなったり出たり入ったり紆余曲折です。古舘さんぐらいの歳になってしまうと、もう触れないほうがよいかも🤔分かったつもりが観念により縛りになり行き難くなりますから。
諸法無我はサンスクリット語の誤訳でお釈迦さまが説いたのは「諸法非我である」というのが、今の私には、1番しっくりくる話です。
お釈迦様は自我を否定したわけではなく、バラモン教の呪詛を否定する為に説いたのが諸法非我で、「あなたを呪う法はない」と説いたのだと思いました。
全くその通り! 無我というからちんぷんかんぷん、非我であれば、分かりやすい!
@@AioliaOfLeo 私も同じ考えです😃❤️🙏
古舘伊知郎さん❗
➡️一緒に原始仏教を勉強しましょう😊🙏私も勉強中です👍ダンマパダ・スッタニパータ。
➡️タイの托鉢僧みたいに裸足で道路を 少し歩くだけでも足の裏で体験できます🙏
➡️仏教は心の病院😔ですから。
古舘さんの多用する「俺なんてフィクションだから」という表現と無我は微妙な差異があるように感じます
良ければ「釈迦が言っているから」以外に古舘さんの言葉で実感するに至ったエピソードを聞いてみたいです
違うのはわかってますが
「釈迦が言うには真理は無だ」だから信じる。という表現と
「あの人は自分を現人神だと言っている」だから信じる。と同じ様に聞こえてしまいました
僕はこの本を読んでみて、
今まで自分が思っていた、自分なんて居ない
あらゆるフィクションの中で、
無意識に信じていた自分は存在しない
という事で、腹落ちしました。
私には「自分とか、ないから‥↓」と小声で残念そうに語りかけているように感じました。個々の脳で捉え方が違うと感じました。
シャツ素敵ですね。
エネルギー保存の法則から考えると、鳥はファミチキに変換されて、人間に変換されて行くって事ですかね。昔なら人間もハエに変わったり、土に埋もれて分解されてミミズの一部になったり植物の肥やしになったりね。釈迦の言った生もなく死もないとはこの事なのではと。 先日リハックで量子力学の野村先生のエネルギー保存の法則とエントロピーの話を聞いていて、ファミチキの話と似ていると感じました。最近は仏教と量子力学が親和性があると言われている所以かと感じました。
自分も高校受験の時同じ経験をした。
おそらく進学校で一番有名なK高に合格。
入学後成績はダダ下がりでクラス最下位も経験した。
そして2浪して地元の国立大に何とか滑り込んだ。
周囲からは変人扱いされるし、
親は泣くしでとても辛かった記憶がある。
自分の人生に前向きに活動できるようになった29歳まで
この苦しみを抱え込んだ。
“自分とかないから”はまさに真理の言葉
早い細胞は1ヶ月で約60%、遅い細胞は約200日で全て入れ替わるそうです。
日々新しく生まれ変わっている自分は、自分であって自分ではない!
中身の遺伝子は受け継がれてて、そこから全ては生まれているので入れ替わってるようで入れ替わってないんですねぇ(変わったと言えるのは数十年に一度見られる突然変異くらいかな)。家を引越ししても住んでる人は同じで、引っ越したら他人が住んでて自分は野宿でしたなんて起きませんよね。
その遺伝子はもともと1人の人間「私」から受け継がれてきたので、コアの部分は同じと言うこと。つまり元はあなたも「私」、私も「私」だった。
「私」という領域を俯瞰して見た時にコレが自分だと指さしてるだけで「私」には変わりない
私が分岐することで私は解剖・解明されていき、私達が繋がって私に帰る。
宇宙の始まりと終わりも似たようなものなのかなぁ…
一度今まで持っていたものをごっそり失うことで、違う何かが見えてくるというのは、この著者だけでなく宗教関係ではよくある話かもしれませんね。
釈迦は王子の地位も家族も何もかも捨てて四門遊出しましたし、イエスは家業の大工をやめて自らの教えを伝える旅に出ましたし・・・。
仏教的な観点からすると、人はもともと何も持っておらず真理はいつでも身近にあるのだけれど、何か持っているという意識に囚われ続けている限りそれに気付けない、ということなのかもしれませんね。
ぜひCOTENラジオに出てほしい
パラレルワールドやホーキングの11次元宇宙でもいいのでは。
スマナサーラ長老と苫米地英人博士もお忘れなく…
読みました
夢を追ってさえも人生は安泰は無く孤独である苦である(幸せなはずなのだが・・・)。そういう想いに達する時期(半生・年齢)がないと…仏教の理念は言葉では理解しがたいと思います。夢を追ってワクワクしてる我の最中の若者には、まだ仏教は伝え辛いです。また、夢が無く苦を避けて生きる若者にも伝え辛いです。しかし、初期仏教の理念は宇宙の真理です。
これが自分だと言えるものは一つもない。こうやって一つもないと言っていることもそもそも意味はない。だからあえて、自分とするものこそ、この世の自分というもの。言葉遊びに没入することが苦しみ。
若い人で「自分探しにやっきになってる」など伊知郎は勘違いも甚だしい。おそらくそれは古舘さんが若者の頃まだ「本を読み勉強する」時代の発想で、その下の世代は「そういう面倒くせーのはうざい」、さらに超えていまの悟り世代は「わーすごいですね。ボクも勉強してみます」と大人受けのする空っぽな返事の上手な人たちで、辛く心が苦しくなるものは「見ない」で過ごす人が大半だと思います
気功の世界と同じ!
みうらじゅんがずーっと言ってる事。みうらじゅんの本の方が圧倒的に面白いし、わかりやすく、楽しい。
そのみうらじゅんは、比較三原則。比べることが苦しむを生むと言ってますよ。
だからそうやって比べるな!
@@関西のパンダ 読者として感想言ってるだけですけど?自分との比較じゃないので、苦しみなんてうまれません。余計なお世話
@@kyoko575 ←こいつ頭悪いなw
相変わらず、「俺が古舘伊知郎」だと主張しているのですが・・・・・。
アダムとイブみたいな一個体「私」がどんどん分岐して行っただけで、遺伝子皆んな同じでしょ?発現の仕方が違うだけで。
私達の中を指さして「コレが自分です」と言っても「私」という領域から外れてはいないのだから、全員「私」ですよね。
ヨーヨーですよ ヨーヨーですよ ですよの最近は、謝ることいっぱーい
仏教の経典の中で 実際の釈迦の言葉は 0.001%も ないと考える みんな取ってつけただけ
仏教哲学は専門に研究したものがお勧め。素人はいろいろ間違った解釈をしてしまうので、
中観 唯識は時に間違いやすいので。
仏教は最高峰だと思う。くそ野郎でたまらなく嫌いな奴が人生最後になると坊主になる。そのままでも十分なのにわざわざ糞坊主にまでならなくてもと思う。報道にしろ、医療にせよ、宗教にせよ聖域がある職業には本当に糞野郎が多い気がする。報道は7割、医療は8割、中でも仏教は最高峰だと思う。
仏教経典は、サンスクリット語の中国語翻訳ですよね?
しょせんは外来の宗教だと思います。
やっぱり日本は神道の国⛩️。
天皇陛下は神道のTOPです🇯🇵
外来の宗教とか、ないから
無常無我、されど自明灯法明灯
面白い
三島奔馬九識本覚の方向
自分には時間がないと
陽明から飛躍
荒野より英霊の聲
三毒を方向で考える
貪欲は上下(優劣)を見て生じる
瞋恚は左右(正誤)を見て生じる
愚痴は前後(良し悪し)を見て生じる
相対的に対象を判断して
”私”と”他”を無理矢理位置づけしようとする
そこに”苦”が生じる
位置づけられる”私”などいない
相対的判断から離れ、
無常・無我を悟れば”苦”が生じることはない
天文物理学者のBossBさんと対談して欲しいです❤
自分を探してるのは誰?愚門です
抽象的ですが、釈迦の教えって毒を持って毒を制すような教えですねw
人生辛いのにさらに辛い現実をたたきつける荒療治的なw
不立文字👏
「我はない」とのことですが、釈迦の最後の言葉にある「自灯明、法灯明」の「自」とは「自分」、つまり無我の「我」のことではないのですか? 矛盾しませんか。教えて下さい。
更にもう一点、「自分とかは無いから」の本を読みながら、チキンを食べた自分、あるいは電車の中で吸った他人の空気を例にお話されていますが、当然その時はチキンだけでなく他の食物も一緒に食べているはずですから、それらの食物の中の栄養素だけを腸を介して吸収し、残りは便として排泄しているのではないですか。しかもこれらの栄養素は、チキン固有のものではなくて、今日では健康食品の「錠剤」からでも吸収できる一般的な物質ですね。同じく他人が吐いた呼気を吸収したのではなく、その中の「酸素」を吸収しただけ、残りの空気は全部吐き出していますね。こう見てくると、本のお話、つまり無我の説明には無理があり、どうしても古舘さんのように信じることはできませんが。どうか、私の疑問にコメントの返信にてご説明ください。
自灯明法灯明(自洲法洲じすほっす)は四念処を指す言葉ですね
身念処 身体・五感
受念処 五感で感じる部分
心念処 受で起きる想い
法念処 心で判断した認識(好悪・優劣・正誤・善悪など)
身・受・心念処までを”自”
法念処を”法”としました
身念処で不浄を観じ
受念処で苦を観じ
心念処で無常を観じ
法念処で無我を観じることで、煩悩から離れ解脱に至れる
最期まで釈尊はただただ解脱の方法を教えたということです
以上が上座部仏教の無我の教えです
これは私見ですが、諸法無我を悟るとは、相対的判断をしている主観に気付くこと
移ろい続ける主観に執着しても苦しみしかないと気付きます
認識している自分も世界も主観でしかないと理解することが肝要と考えます
以下は原始仏教の無我の認識です
当時、インドではバラモン思想が一般的であり、生命には我(アートマン)があるとされてきました
我=”自分という所有物”と言いましょうか
我があり続けると、輪廻転生を繰り返しても、バラモンはバラモンに生まれかわり続け、奴隷は奴隷に生まれかわり続けることになります
釈尊は生まれかわりの結果は”我”ではなく”業”だと説きました
無我ではなく非我のほうが分かりやすいかも知れません
日本語だと「自」と「我」が同義に聞こえるからややこしいですよね
外野から、そして長文失礼しました
それぞれ解釈に差異があると思いますが、私の考えを述べて良いでしょうか
ブッダの無我の教えは西洋哲学の実存主義の「実存は本質に先立つ」という言葉に近い概念ではと思います
ここで言う人間の本質と同じく、我も思考によって発生している概念上のものと言えるでしょう
この我とは例えばプライドに直結するものであり、覚りにおいてはバイアスで作られた自らを現世に縛る鎖と言えます
あえて我がないと強調するのは一つの逆説的な真理であると同時に、解脱への指針とする意図があるかと思います
肉体の自分は器に過ぎず、仏教では無常や無我を観察するのに良いサンプルとして取り上げられます
材料も設計図も常に変化してますし、輪廻転生思想をふまえれば肉体を取り替えるというような思考実験もできます
直感的に考えて、肉体が完全に変われば自分は我ではないとはならないでしょう
我が存在しないという真理はあらゆる次元に使われるのが望ましいのではく、常識的には我という意味の単語を使うのが便利な場合も多いでしょう
自灯明法灯明は真理を説く言葉というよりは実践的な指針の言葉だと思います
解説しようとすればこぼれる部分があると思いますが、灯明というより州とか島、つまり頼りにせよという解釈の方がしっくりきます
師が去った後も、実存在の我に仏法を転写する事で涅槃へと向かう頼りとせよ、というようなニュアンスかと思います
お話はよく分かるのですが、人間の脳とは「高度に発展したコンピュータ」みたいなもので、母親の子宮の中に出現したその瞬間からあらゆる感覚を通して得た膨大な情報を脳細胞の中に整理・記憶し、その情報を元に一つのあり方として「自分」という概念を計算して導き出し、その変化して止まないその概念を絶えず脳細胞にもどしながら記録し続けている。つまり、総ては「諸行無常」ですから、取り入れる情報も常に変化し続け記録され続けていますね。従って、「自分」という概念も絶えずアップデートされ続けます。この絶えずアップデートされる脳の情報が「自分」であり、「自我」であると考えます。従って、自我は「無我」ではなく、諸行無常する「自分」であり「自我」ではないかと考えるのですが。自分や自我はあると考えてもよろしいのでは。
確かに我はあるとも言えますし、現実的にはないとも言えるでしょう
我が無常であるという事は、自分が考える我は過去のものであり、また希望的観測に彩られています
現在の我は現在の一瞬にしかなく常人には非常にとらえがたいものであり、それを幻想のイメージでフィギュア化し大事に抱え込む事が我執であり、もろもろの苦しみ(不満)の原因であるといったニュアンスの事をブッダは説いたと聞きます
だいぶん分かりやすくなってきましたね。私は、無我ではなく「非我」と捉えています。
どうも、仏教、特に龍樹を含めて大乗仏教は、中国思想も混じってしまい、観念的でわかりにくくなってしまいましたね。今こうして、書いている私は、「私」、つまり自我が書けよと私の肉体に命令して、この文章を書いているのでしょうね。1分後には、変わってしまうかも知れませんが! いわゆる「知識人」は、観念論が大好きですが、あたしゃ、観念論は、デー嫌いです。勿論、釈迦の四苦八苦の説には大賛成。常々“あたしも”、この四苦八苦に取り憑かれ、悩んでいますが・・・。80歳の齢を迎え、だんだん諦める、捨てる、忘れるなんて事ができるようになり、少しは心安らかな「私」を感じられるようになりましたが! ハイ。
佐々木先生の理解は中途半端だと思います。やはり、一番わかり易いのは、スマサラーナの解説だと思います。
古舘さん、「工藤くんはどうか?」なんて、君呼ばわり。やっぱり、釈迦哲学からは遠い理解の方と見ました。
やはり、「工藤さん」と自然に呼べるといいのでしょうが!
ホントですか! だったら、「オイ!工藤」った方が良かないですか。映像屋や芸能は、先輩・後輩のけじめが厳しい世界。古舘さん、いまさら悟ろうなんて、止めて! 止めて! 煩悩と我欲まっしぐら! そのうち、歳をとるごとに、いろんなこと「諦め」ざるを得なくなりますから! それこそ時間とともに「悟り」の一歩手前になりますから、心配なんかご無用です。ハイ!
古舘さん紹介の本、龍樹の空論だったんですか! 中村元やなんかで結構読みましたが、オイラ観念論は大の苦手、がっかりでした! ハイ!
@@08gaikotsu15 なんちゅう俗物だこりゃw
いつも ありがとうございます