20:00~ this war of mineの話 This war~ではプレイヤーとの心情をリンクさせるのに成功していると思いましたが、 frost punkはそこがあんまりうまく行ってない感じがしましたね。 そこはやはり視点がマクロになってしまった所が大きい気がします。 凍傷部位をトリアージしようがスープにおがくずを混ぜようが それはダイアログとパラメータで表現されてるだけで実感が沸かないというか… シティーズスカイラインで間違えてダムを撤去しちゃって街が大洪水で阿鼻叫喚みたいな光景になっても おもちゃの街を壊しちゃったみたいな程度の受け取り方になっちゃう、みたいな… 後半でIGNJメンバーで話題になるコンクリフトについてですが、 この話題になるたびにアンダーテールは"ゲーマー"に対して誠実に作ってたなぁと思います。
death strandingはゲームプレイを通してシリアスなテーマを描くのに成功していると感じました。正直ストーリーの細かいところは難解でよくわかりませんでしたが、ソーシャル・ストランド・システムによって、「人との繋がり」というテーマをポジティブに描けていたと思います。あとは人種差別をテーマにしたデトロイト・ビカムヒューマンとかでしょうか。
やっぱりこの二人じゃないとしゃばりすぎゲーマーじゃない
イコとトリコが取り上げられていましたが、ワンダなんかも
「最後の一撃は、せつない。」というキャッチコピーの通り
敵を倒した時の演出が罪を一つ背負ったという感じがあって印象深いです。
普通なら敵を倒せば達成感を得られるファンファーレでも鳴る所なんですけどね。
やはりオープンワールドの話は激論になる
重いテーマを扱っていてシナリオが一本道のゲーム、特にJRPGでよく感じることですけど、結局キャラクターたちの言ったこと、やったことが正しかったみたいな話の畳み方をされるのが納得できないことあります。特に差別だとか宗教対立みたいな社会問題を扱ってるときに、キャラクターたちが一方的な目線でしか物事をとらえておらず、しかもそれが正しいかのような展開が多いような気がします。せっかくゲームなんだから選択肢を与えてそこからいろんな問題を突き付けるとか、立場や考え方の異なる主人公たちを描いて、だれを操作したいか選ばせるとかいろんな表現ができるように思います。
全体的に興味深い話ですね。後半の暴力を行うか否かの問題、ふと思ったのがVRChatのような世界になってくると相手のプレイヤーへ擬似的に自由に干渉できるので、相手がプレイヤーというのもありますが、変な行動ができないという点で他のオンラインゲームとはまた違ったコミュニケーションが取れます。これは一種のこの問題への答えな気がします。
20:00~ this war of mineの話
This war~ではプレイヤーとの心情をリンクさせるのに成功していると思いましたが、
frost punkはそこがあんまりうまく行ってない感じがしましたね。
そこはやはり視点がマクロになってしまった所が大きい気がします。
凍傷部位をトリアージしようがスープにおがくずを混ぜようが
それはダイアログとパラメータで表現されてるだけで実感が沸かないというか…
シティーズスカイラインで間違えてダムを撤去しちゃって街が大洪水で阿鼻叫喚みたいな光景になっても
おもちゃの街を壊しちゃったみたいな程度の受け取り方になっちゃう、みたいな…
後半でIGNJメンバーで話題になるコンクリフトについてですが、
この話題になるたびにアンダーテールは"ゲーマー"に対して誠実に作ってたなぁと思います。
ゲームでシリアスを描くことは絶対可能だし、やってはいけないということもないと思いますが、実際のところ、とんでもなくシリアスで社会的でリアルなゲームがあったとしても、それはあんまり売れない(だからメーカーも作らない)んじゃないかなって気がします。なぜなら、大体の人は、疲れて帰宅したあととか、休みの日とかに、頭からっぽにしてリラックスしたくてゲームやるんじゃなかと思われるからです。だって、ネット上のゲーマーのよくある意見を要約すると、「最低でも50時間は遊べなきゃ認めない」「楽しい戦闘がなければならない(現実ではできない体験をしたい)」「ストレスを感じる演出およびシステムがあってはならない」「深い〝世界観〟と〝没入感〟がなければならない」「登場キャラクターには、なんらかの性的フェティシズムがなければならない」みたいな感じですからね。それが良いのか悪いのかわかりませんが、やっぱり社会的メッセージを伝えたい場合などの表現方法として、今のところゲームは映画や小説に比べて不向きなんじゃないでしょうか。
PS:やっぱり、今回のメンツの議論がいちばん好きです。
ゲームとしてプレイヤーが選択しうるオプション(カスタマイズも含め)を実装するか否かはゲームデザインとしてそれが必要と判断されるかどうかという話で、多くの場合哲学というより単純に資源コストの問題だと思われます。特にオープンワールドだと安定性を優先しなければならないので。ただ、クラべさんの意見も正しくて、暴力的なアクションをすること自体がゲームの目的になっているような場合、暴力を行使しないという行動オプションにリソースを割くようなことはしないので、結果として簡単な操作でドンパチができるゲームが出来上がる。暴力的なアクションをしたくてそのゲームを買ったユーザもそれを問題視することはないので修正対象にはならない。そういうことだと思います。
インタラクティブ性以前に
売り切りが基本、一作で完結、一人でやれる、何十時間でも体験出来る
この辺だけでも物語を展開するのに他のメディアより圧倒的に有利だと思います
不利を上げるならゲームという定着した呼称によって
遊戯性に拘束される点か
一般化するならコンピュータエンタテインメントなんて絶対に定着しない呼称ではなく
もうちょっと言いやすい言葉を考え出せば良かったのに
その長年の枷もVRによって外れるか
The Last of Us Part IIのテーマは「復習の虚しさ、暴力の無意味さ」です
今井さんのおっしゃられていた失敗はそのメッセージを伝えるために敢えて入れられた部分だと思います
目を覆いたくなるような重くて苦しいラストバトルは正にシリアスとゲームプレイの融合でした
death strandingはゲームプレイを通してシリアスなテーマを描くのに成功していると感じました。正直ストーリーの細かいところは難解でよくわかりませんでしたが、ソーシャル・ストランド・システムによって、「人との繋がり」というテーマをポジティブに描けていたと思います。あとは人種差別をテーマにしたデトロイト・ビカムヒューマンとかでしょうか。
メタルギア3は、現実の世界情勢とフィクションが混ざりあったシナリオで、実は宇宙開発競争とキューバ危機の裏で一人の科学者を米ソで取り合うというものでした。
今回も楽しくお話聞かせていただきました。
質問コーナーであった オープンワールドでのインタラクションの多様さや暴力要素のお話、クラベさんの理想を突き詰めると、ゲームでは無くて VRチャット等の遊びに行き着くのかなと思いました。
暴力要素の少なさ(現実世界に近い倫理観)とインタラクションの多様さやクオリティを求めるほど、それってNPCが相手である必要がある?となってしまいますし、ゲームの良さのひとつである現実世界の煩雑さをデフォルメしてくれる部分が薄くなってしまうように思えました。
個人的には、シリアスさやリアリティは 今の水準くらいが ゲームを趣味として楽しむうえではちょうど良いなと感じます。
クラベ さんは以前MMOのようなオンラインゲームは 苦手だと仰っていたように記憶しているのですが、今回質問コーナーでお話されていたゲームに求めている要素は オンラインゲームの特徴のようにも感じました。
個人的に クラベ さんがそれらに違いを感じていらっしゃるのか、それはどういう点なのかお聞きしてみたいです。
@@jun_taira 確かに、現実世界に近い倫理観=「殴れるけど、殴らない」状況は、MMOが実現しやすいと思いますね。GTAのように、殴ると警察に連れていかれて罰金払うとか、名誉ポイントを失う、みたいなスクリプトされたペナルティではなく、そのコミュニティから疎外されるという、比較的、現実に近いペナルティが発生してくるので。
ゲームは小説や映画等と異なって能動的であるからこそ、シリアスなテーマを描くことの難しさがある気がします。シリアスな作品だとショッキングなシーンがあることが多いですが、それを傍観するのではなく、体験・介入する必要がある(傍観するだけならゲームである必要がそもそもない)ので、どうしても精神的ダメージが大きくなってしまいます。小説や映画でも暗くシリアスな作品を受け付けない人は一定数いるので、ゲームだとより厳しいでしょう。
しゃべりすぎゲーマーのお題提案です。
皆さんのゲームプレイ環境について、議論して欲しいです。
使ってるモニターとか、こだわりの椅子やヘッドホン。常に稼働状態(現役の)となっている、ゲーム機の種類など。
あと、移動中、出先でのプレイスタイル、持っていくハードやゲームのジャンルなど。
事前にリスナーから、上記内容について意見募集しておいて、本番中にお披露目、コメントなんかもいいかと思いました。
ゲームと比較するかたちで映画が引用されていましたが、シリアスな映像作品であればドキュメンタリーも挙げてよいかと思います。
20:16
ドキュメンタリーはエンターテイメントとは縁遠く、かつ最近のシリアスなドキュメンタリーは社会性が強い傾向にあると感じます。その点「This War of Mine」の遊びのなさはドキュメンタリー的な視点、またそういった作品と比較しながら語ることができる作品と言えるのかもしれません。
ドキュメンタリーめいた作品というのもいい加減な言い方ですが、「Papers, Please」などもこの範疇に入るかもと思いました。
クラベさんが言うようにゲームの表現にはまだまだ余地があり、それは技術面以外でも開拓の余地があると思います。たとえゲーム性が低くても “あなたが介入した物語” として説得力のあるシリアスな作品が、もう少し増えてもいいのかなと期待しています。
動画内で既に語られている通り、
ゲームがシリアスなテーマを扱うかどうかは作り手の自由であり、
最近は技術的にも不可能ではなくなっています。
私が扱っているテーマに惹かれてプレイしたゲームといえば、
洋ゲーならばCall of Duty:Black Ops、和ゲーなら龍が如く0をすぐに取り上げています。
詳しく書くとやっぱりネタバレになるので控えますが、
どちらも「今となってはその国の方々があまり触れたがらない時代を正面から扱っている」
という点で共通していました。
特に龍0は私が完全に忘れていたいくつかの問題(これが特に重要なネタバレ)にも避けずに取り組んでおり、
単なるエンタメではない真摯な姿勢を感じる事が出来てとても満足する事が出来ました。
あまりに重すぎるテーマを扱う事に慎重にならざるを得ないのも当然分かりますが、
あれほどいいゲーム体験につながるのならば時にはチャレンジしてほしいと考えています。
ちなみに私は龍ゾンビを発売時にプレイしたきりでそれ以降龍シリーズについて何も知らなかったため、
どうしても気になって極をプレイしてそのストーリーに本当に驚きました。
シリーズファンからしたら「なに言ってんの」という感じかもしれませんが、
まさかあいつと敵対する事になろうとは…もう、辛かったです。
人によってシリアスって感じる要素が違うから難しいですね。
ほんでクラベさん出る回はクラベさんが理想のゲームの話してるイメージしかない。
あと、NPCをキル出来る出来ないって話されてますが、出来るならするよねって感覚はストーリー進行中にプレイヤーは思わないと思う。
出来るかできないかじゃなくて、する必要が有るか無いかで判断してるし、その判断はゲーム内のプレイヤーキャラクターの状況によるのであって、
その状況のバリエーション、シチュエーションを用意出来るように拡張性の為に基礎がデザインされているので、単純に誤操作やコリジョンバグで望んでいないNPCとの衝突が気になるのであれば、例えば"非武装状態"だとワンボタン誤操作やコリジョンのヒットに攻撃判定が起きない等のようにしてほしいっていうならすごく同意できます。
RDRで列車に轢かせる実績ありましたが、あれも出来るならするでしょってスタンスではなく、シミュレーションとしてよく試そうとしたね!っていう開発からのゲームを隅々まで楽しもうと模索したプレイヤーへの気持ちだと思う。大半のプレイヤーが自主的に残虐行為で実績探して発見したのではなく、動画・攻略サイトで知った人がほとんどのはず。
シリアスっていうのは状況の温度差も大きく関与してと思うので、平時から街でNPCに誤操作で銃突きつけてたらストーリーの緊迫感とか薄れちゃうっていうのはあるあるかもですね。
”一般市民の主人公が殺人の濡れ衣を着せられた!(既に道中で3名ほど誤射と車の操作ミスって・・・)”
ほんとクソコメしてごめんなさい
テーマの提案ですが、「取り返しのつかない要素」についての話とかどうでしょう?
攻略サイトにはたいてい「取り返しのつかない要素」を見逃したくないプレイヤーのための記載がされていますよね。
今井さんのように、雑にプレイしていろいろ取りこぼして「それがわたしのゲームプレイだった」といえるプレイヤーは少なく、かなりの数のひとが「取りこぼしとかまじ無理、もらえるものは全部もらいたい、出来るだけ得した状態でいたい、」と思ってしまうが故に、ゲームはどんどん親切な方向に縛られていくよなぁと感じたりします。
それを強制的に喪失させるデザインとして「時間を絡めて10時間×5周」は是非やってみたいアイデアです。
映画や小説よりも、ゲームは人間の欲望に忠実につくられてきた、きてしまったんだよな、と思いますね。
それが悪いことだなんて言いませんが。
ゲームを人間の為の文化として捉えた時に、どこまで描いてよいのか?
どこまで示唆に富んだものを描いても良いのか?を知りたいですね。
例えば合理主義について。とか、民主主義と独裁的な国家との将来の未来予想等々。
少し勉強くさいものになるかと思いますが、
それなんかは今の統制の強い中国何かでは難航が予想されますし、
とはいえ結局、長い目でみたときに
大作とされるテーマは今の「現代」をどこまでも深い視点に立って
見つめなおしたものにならざるを得ないと思えます。
シリアスとはそういう事に成ってくるんじゃないのかなぁ。
だからどこまで描いても良いのか?とか。或いは限界は永遠に作らない方がよいのか?とか。笑
初めに云った「人間の文化として捉えた時に」という視点からですが。
自分で自由に動かせる時点でふざけるから、いくら物語がシリアスでも全部台無しになるぜ((
故にノベルが一番やりやすいけど、それ以外は何かしら制限しないとな〜
楽しませるよりストレス重視で、面白くやるにはサイコ野郎と化すしかねぇみたいな(
リアルに拘らなくとも良いが、道徳的な診断みたいに人間性試される感じ。
例えるタイトル浮かばんけどな…!
クラベさんか今井さんLife is strange true colorsやりましたか?もし遊んでいたら今週遊んだゲームでしゃべってほしいです。
なんでもない言葉を聞きたいがために不特定の知らない人に話しかけるという行為は、受け手からしたらある意味暴力的といえないですか?
NPCに接触時の過剰な反応に関しては龍が如くやジャッジアイズはひどいと思うのでクレイジータクシーばりに勝手に避けていただきたい。
ラスアス2の場合はディレクターがポリコレに配慮じゃなくて媚びた結果、破綻したと思う
例えば無理やりエリーをLGBTにして、暴力は何も解決しないんだ、だからエリーはアビーを
許したとするよりか、ジョエルが前作守ろうとしたエリーがさらわれ、ラスボスが改心して
ジョエルとエリーの存在を許す展開でも十分贖罪はできるし、LGBTや人種マイノリティも
サブキャラとしてメインストーリーにからませ、ジョエルが理解を示していく展開でも良い
エリーも前作ではノーマルだったけど今作ではレズとしたことで生まれつき性について
悩んでいる方々を冒涜するようなものだと向こうでも意見があり、安直だったなと思った
よく言われることだけど、作り手以上のものはできない。奇跡は起きない。ゲームクリエーターとしての才能だけでなく、哲学書を読んだり、世界史を学んだりして、人とこの世界について、深く考えることが必要なんだろうな、と思いますね。たとえばヨコオタロウさんはショーペンハウアーのファンらしくて、エッセイなどを読むと、ときどき引用されています。一見無駄に思える経験がゲーム作りのこだわりに繋がってゆく。映画とそっくりの表現ができる時代になったからこそ、パソコンが登場する時代の前と、原稿用紙と鉛筆と本だけで成り立っていた時代の才能が必要になっている。そんな気がしますね。わたしは『デトロイト』のいくつかのシーンが好きです。『ブレードランナー』にも描かれていた作り手、神との遭遇のシーンとか。ワンシーンを描きたいために、ゲームのシーンを重ねてゆく。あらゆるシーンが交錯して、そのシーンでカタルシスされる。そういう意味では、アニメや映画や小説と変わらないかもしれない。
デススト
デススト?ああ、ポストマンのパクリでしょ
ドラクエのシルビアですね。接客臭くなく愛しいキャラとしてLGBTQを描くのがいいです。洋ゲーの時流だから取り上げる感じがどうにも苦手です
死んでも気軽にやり直せる時点で無理ですね。
そういう意味では、さんざん待たされたゼルダの最新作が「一回でもゲームオーバーしたら二度と起動できない仕様」だったら何よりもシリアスな気分になるかも。
テキストやムービーなどのストーリーパートでシリアス描けるのは当たり前なので、ゲームならではとは思わないです。
今回の全般的にしゃらくさい話してんなと思ってしまった。シリアスにリアルにしようとするほどクソゲーと紙一重になるってファミコン時代からあるような現象を解釈でカバーしていく感じ。
納得。