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真冬の帰り道は名曲ですね。ランチャーズの言葉の意味が初めて解りました。ありがとうございます。
真冬の帰り道の間奏、原曲とそんなに変わらずとても素晴らしかったです!
江戸さんの楽しい懐かしいエレキの話、いつも楽しく聞かせてもらってます。「真冬の帰り道」のカラオケ最高でしたよ。そういえば茅ヶ崎で北嶋さんのお母さんが喫茶スナックやってる時何回かお邪魔したことがありますよ。駅から真っ直ぐ歩いた信号の右角にありました。あと江戸さんと言えば40年以上前にフラリと入った東京駅八重洲口のすぐ側の地下にあった「デラパート」ワンかツーというライブハウスで私が寺内さんの大ファンのため江戸さんがバニーズやらその前の全盛期のブルージーンズの裏話をたくさん聞かせてくれて感激したことがあります。懐かしい懐かしい思い出です。今年70歳になるエレキで育った私です。
ありがとうございます!エドの原点にデラpart1が存在しま〜す。
エドさん、返信ありがとうございました。あの日のことが蘇りました。ほとんど寺内さんの話をしてくださったことを。あと喜多嶋さんを北嶋と書いてスミマセン。いつかリードギターが中村さんになったTBJと共演してるエドさんを聴きに行きたいです。
@@さいとうともや-t1p
真冬の帰り道は昔ラジオから流れてて知った曲で大好きです。小生、72歳の爺ぃですが懐かしく、この曲聞くとなぜかしら泪がでます。
ブラボー!喜多嶋氏と同じS24年生まれの私の結婚披露宴の最後に会社の同僚とギターかき鳴らしハモリ熱唱した思い入れのある曲です。間奏が難しく相棒にお任せ。1968年、ヨット部の合宿所が江ノ島だったので加山雄三の光進丸を何度拝見したことか。合宿中に友人と抜け出して内藤洋子を目指して北鎌倉駅そばの内藤医院の前をウロチョロしたりも。あー、あの頃が、、、。
エドさんイイね!真冬の帰り道大好きでした。
「進水する」という意味でザ・ランチャーズと名付けられたと今日初めて知って、グ-グルで検索したら、やはりそうでした。50年以上前の週刊誌や音楽番組の司会者も、加山さんが学生当時ドカベンで昼食を食べていたので弁当箱から名付けたと言ってました。それ以来ずっと今日まで、そう思ってました。「真冬の帰り道」とアダモの「雪が降る」は、今もCDに録音して、雪国新潟の雪道走行で聴いています。
ザ・ランチャーズ、懐かしいですね、ギターの大矢さん二代目若大将で俳優デビューしましたね。確か、鼻にほくろがあったような(?)、長身で二枚目で、モテたでしょうね。内藤洋子さんのご実家は、鎌倉のお医者様ですね、本当に育ちの良いお嬢様でした。私も、ハードロックは苦手です。ジャズとは一線を画していますね。
噂では、聞いていました。でも時代が変わっても歌は、残って行くからまた子供が歌って行くでしょうね!歌は、絶対残って行きます。
なつかしい当時の状況が蘇ります。映画見に行きました。
すごーいグループ・サウンズの黎明期の歴史講座、エドさん版、第1回ですよね。貴重!東宝映画の歴史含め、やっぱり、企画、ライターですね。深夜のBSテレビ,ラジオ番組出来ますね。24日楽しみ!花粉症の症状が数年振りに!苦しい!水曜日の配信が嬉しい!ありがとうございます!真冬の帰り道のカラオケ披露も!良いな!作りたい!
エドさん お疲れ様懐かしい曲ですね。エレキの話 盛り上がりますね。青春に油そそがれ燃えましたw
いつも楽しく拝見しています。懐かしいですね♪ランチャーズのファンクラブ会員でした。ドラムスの喜多嶋瑛さんが推しでした。銀座に事務所があり出入りしたり。気楽で楽しい時代でした。
貴重なものをお持ちなんですね。いつか拝見したいものです。瑛さんは引退後アメリカに留学されたと記憶しておりますがその後どうなさったのかと思い出すことがあります。引退の時に、時々ファンレターを書いて出していた私に丁寧なお礼のハガキをいただきました。ジェントルマンでしたねー。
瑛さんお元気で何より❤ずっとアメリカなんですね。妹が渡辺有三さんのファンでなぜか妹と2人で赤阪のお宅に伺ったことがあります。確か瑛さんの引退ライブのチケットを受け取りに行きました。お母様がうちにあげてくださりお茶をいただきました。個人情報とかややこしいことのなかった大らかな頃のお話。有三さんは早く亡くなられ残念でした。
富塚様、瑛さんにくれぐれもよろしくお伝えください。瑛さんの影響で司馬遼太郎の本を読んだりしました笑。本当に懐かしいです。
今日改めてこの動画を観ましたが、「真冬の帰り道」は「想い出の渚」と似てますね。上品なところ、垢抜けしているところ、、。考えるて見るとランチャーズ、ワイルドワンズ共に加山雄三氏と繋がっていますね。
当時は慶應のフィンガーズ(G/成毛滋)から始まって、同じく慶應のランチャーズ、ワイルドワンズ、成蹊・成城のヴィレッジシンガーズ、たしか法政のサベージ(V/寺尾聡)という学生バンド出身のお坊ちゃまGSと、ブルコメ、スパイダース、スイングウエストのようなダンス伴奏バンドの老舗、さらに京都の不良・タイガーズ、大宮の不良・テンプターズ、横浜の大不良・Gカップスなどに分かれてましたよね。ランチャーズとワンズは加山さんのバックでもありましたが、フォークロック系のさわやかなバンドでした。サザン桑田氏も結成時はその路線をめざしたそうですね。
素晴らしいです。間奏の部分上手いです、エドさんの味も出ていてウットリしました。合唱!
ランチャーズとは、そういう意味でしたか~!。半世紀以上かけて知りました。
いつもoh!エド日記面白いですが、今回はサイコーに面白かった。というか興味深く聴かせていただきました。寺内タケシ氏以来です。ところで「真冬の帰り道」はgsに分類されてますが、流行った当時から私は「gsにしては垢抜けしすぎている」と違和感を感じていました。カレッジフォークのエレキ版というか、、。今聴いてもほかのgs特有の泥臭さ、怪しさ、胡散臭さが全くありませんものね。ところで私は最近老化防止の為リサイクルショップでエレキ買ってベンチャーズを今更ながら練習していますが、エドさんも言っていますが、この曲の間奏の後半部分(コンキラコンコン、、、)は早すぎてむずかしい!頑張って早く弾けるようにしたいと思います!
頑張ってくださぁ〜い。
プラタナス、小学校の校庭に植わってまして、秋深くなると大きな葉っぱがバッサバッサと落ちてくるんです。高校生になって「真冬の帰り道」を聴き、♪…ひらひらこぼれてる…♪の部分に「いやぁ、そんなもんじゃないよ」って突っ込み、はしだのりひことシューベルツの「風」の ♪ …プラタナスの散る音に振り返る…♪ に、「そう、これこれ」って悦に入ってましたっけ。小6のとき、当時全国を席巻したアメリカシロヒトリがプラタナスにたかり、真っ白な幼虫の巣がびっしりと…。駆虫でやって来た市役所の職員がタオルでマスクをし、軍手で作業しているとき、葉っぱから素手で巣を剥がしたら、「かぶれるぞ!」と言うんです。でもムシ好きの当方、ヒトリガの仲間でかぶれることがないのを知ってましたから、「えっ、こいつら平気ですよ」とどんどん剥がしてゴミ袋の中へ放り込んでやりました。「こうやって手の届かない所にだけ薬をかければ安上がりですよ」と、市の臨時予算の削減にも協力した、とってもいい生徒でしたw。懐かしくなり、エドさんの唄に合わせてギターを手にしてしまいました。まだコードを覚えてました。いいものをありがとうございます。
第二期は喜多嶋弟さんと大矢さんが高校生で芸能活動できないので慶応大のプラネットというバンドのメンバー二人と喜多嶋兄で活動してたんですよね
一時期プラネットの方が出てましたね。岩崎くんと堤くん。加山さんの「旅人よ」のジャケットに写ってます。
岩崎道夫さんはアメリカに行って帰国後に宝石商を立ち上げ成功しております。私の会社の上司のお姉さんがその会社にかつて勤めていたのでいろんな話を聞きました。
加山雄三のパールホワイトのモズライトは65年夏の公演時にベンチャーズからプレゼントされたギターで、立教大学の「ビートニックス」のモズライトはサンバーストとキャンディ・レッドで、65年1月公演後に羽田飛行場でベンチャーズから直接購入たものです。最近、65年夏にノーキーが弾いたモズライトを、レアなレコードを販売している仙台の「パラダイスレコード」が手に入れたようです。
そうだったんですか~。勝ち抜きエレキ合戦観たとき、パールホワイトのピートニクスのイメージがあったもので…。ありがとうございます!
確かにビートニクスはその後ヤマハでパールホワイトのモズライトも購入しています。テレビの白黒画面で白のモズライトが印象的だったのでしょう。アンプはフェンダーのバンドマスター、ドラムセットはGRETSCHとプロでも持っていない楽器を揃えていましたが、卒業したらちゃんと就職するという条件で買ってもらったので、その約束は守っています。当時私はビートニクスのリード・ギターの弟とバンドを組んでいて、65年10月日本テレビの「ニューエレキサウンド」でノーキーの使用したサンバーストでキャラバンを演奏、月間チャンピオンになりましたが決勝戦でサベ-ジに負けました。
きょうも楽しませていただきました。内藤洋子さんが、喜多嶋舞さんのおかぁさんだったのですね。
リリーズと聞いてGSの方を先に思い出してしまう偏った知識の自分ランチャーズはアルバムがビートルズっぽくて素晴らしかったですね
青山伸さんからお話しを聞いておりました。エドさんのライブ是非お邪魔させて頂きます。
ありがとうございます。お待ちしてま~す!
あっち系聴くには聴くんですが…弾いてみたい!とはなりませんでしたね😅触りで弾いて自分満足してました笑私の場合ベンチャーズからサーフインストへ走りました☝
わたくし71歳も1960年代からいまだ抜けきれないです。ベンチャ~ズ、寺内たけしとブル~ジ~ンズ、シャドウズ、ザスプ~トニクス、あとはグル~プサウンズかな。
東京ベンチャーズのエド山口。おもろいオッチャンやで。
ランチャーズのファンで埼玉人ですが東京の私立女子中学校に通いそちらで友人のあねから大矢茂が池上線沿線に住み それで見に行きました 個人情報なんてなく 現代では考えられませんね(笑) 家人は内藤医院鎌倉の隣りの医院の息子と友人で内藤洋子さんと一緒に写った写真あります 真冬の帰り道は日本放送ラジオ聞いているとたまにかかり やはり名曲となり嬉しいかぎりです
↓のコメント欄に、今ではザ・ランチャーズ研究の第一人者と呼んでも良い富塚さんがコメントされているので、あまり大層なことは書けません。エドさんが語られた部分で、ホンのちょっと足りないなと感じた点を挙げたいと思います。第一期ランチャーズが結成されたキッカケは、当時の東宝の大プロデューサー藤本真澄さんの指示だったです。音楽をやっている加山さんを知って、楽団を作れと。(楽団ごと映画に出そうと目論んだ) その頃の邦画各社は、若手の俳優にバンドを組ませたりしてましたから。(日活ヤングアンドフレッシュとか 東映・大映・松竹は失念しました)東宝もその流れに乗ったですね。第二期ランチャーズの活動が始まる頃は、まだ年齢若いメンバーを指して、ランチャーズJrなんて表現もあったみたい。喜多嶋兄弟のお父さんは、加山さんのマネージャーをやっていたとか。(1965年東宝映画「歌う若大将」のヒトコマ 小屋入りいる加山さんの傍らに一緒にいらっしゃいます)
この曲歌いやすかったのか、いろんなアマチュアバンドでも演奏してました。 実は私がいたグループも。
青山ミチさんのお話し有難うございます。晩年にミチさんと一緒にライブしてた、従兄弟の作曲家で青山しん
エドさん今回の話も面白かったです!さて「ランチャーズ」〜「ハイパーランチャーズ」その「ハイパーランチャーズ」のメンバーは「ワイルドワンズ」の島さんも入ってて、島さんが上原 修(オチャミ)に声かけてメンバーになってます。オチャミはモトさんと「ローズマリー」で一緒したメンバーです。元々ホリプロの「オックス」の弟バンド「オリーヴ」でGSデビューをしたという情報でした!知ってたかもしれない話ですが時間の関係で話せなかったのかもね(汗)
リードギターの喜多嶋修さんは、ビートルズに傾倒していて「真冬の帰り道」の頃にはリッケンバッカーのギター弾いていましたね。
渡辺有三さんは小泉今日子さんも担当されていましたね。テレビでレコーディングのドキュメンタリーをやっていた。
エドさんいつも見てます。渡辺有三さんSHARP5アルバムのコメント書いてました。
有三さんが、ポニーキャニオンに入社して。 最初の仕事が「シャープ5」でしたね!!
エドさんスタジオ録音でノ~キ~エドワ~ドさんの影武者が何曲か弾いていたのを御存知ですか?初期頃の忙しい時に別人が⁉️
「シリウスの涙」を加山さんが歌っていたような覚えがあるんですけど…
エドさん一度探してみてくださいノ~キ~エドワ~ドの影武者が弾いてるレコ~ドを‼️
モト冬樹さんのお兄様ですよね!
エドサンが今持っているモズライトはてらさんのモズライトと同じ金額らしいです‼️
ハードロックには向かわなかったのは分かりますね、メロディラインやハーモニーを大切にしてらっしゃいますもんね。
👏👏👏👏👏👏👏👏👏👏👏👏👏👏👏
BLACK SAND BEACH '94 はハイパー ランチャーズだったのかな第1期の写真 昔見たことある〜喜多島さんは内容洋子さんと結婚した後にアメリカに渡ったような
自分はスパンク好きだし、YMOもシーナ&ザロケッツも好き
喜多嶋さん、学生結婚だったんですね。知らなかった😳
エドさん、だいぶ前にコメントしようと思っていたのですが、今日改めてコメントします。残念でした。ランチャーズの2期は、旅人よのレコーディングをしたメンバーでした。日劇のショーにも出演していました。エレキを弾いて。喜多嶋兄弟は、3期でした。へっへっへっ。
最近ですど、元オックスの赤松 愛さんがなくなっていた、知らせを知りました。とても残念です。
スミマセン、エドさんを江戸さんと書いてしまいました。ゴメンナサイ。
ranchers 牧童 かと思ってた
Launchersだったらローンチャーズっていわなければ分からないじゃないか。
そうですね、すいません?
Eか!
真冬の帰り道は名曲ですね。ランチャーズの言葉の意味が初めて解りました。ありがとうございます。
真冬の帰り道の間奏、原曲とそんなに変わらずとても素晴らしかったです!
江戸さんの楽しい懐かしいエレキの話、いつも楽しく聞かせてもらってます。「真冬の帰り道」のカラオケ最高でしたよ。そういえば茅ヶ崎で北嶋さんのお母さんが喫茶スナックやってる時何回かお邪魔したことがありますよ。駅から真っ直ぐ歩いた信号の右角にありました。あと江戸さんと言えば40年以上前にフラリと入った東京駅八重洲口のすぐ側の地下にあった「デラパート」ワンかツーというライブハウスで私が寺内さんの大ファンのため江戸さんがバニーズやらその前の全盛期のブルージーンズの裏話をたくさん聞かせてくれて感激したことがあります。懐かしい懐かしい思い出です。今年70歳になるエレキで育った私です。
ありがとうございます!エドの原点にデラpart1が存在しま〜す。
エドさん、返信ありがとうございました。あの日のことが蘇りました。ほとんど寺内さんの話をしてくださったことを。あと喜多嶋さんを北嶋と書いてスミマセン。いつかリードギターが中村さんになったTBJと共演してるエドさんを聴きに行きたいです。
@@さいとうともや-t1p
真冬の帰り道は昔ラジオから流れてて知った曲で大好きです。小生、72歳の爺ぃですが懐かしく、この曲聞くとなぜかしら泪がでます。
ブラボー!喜多嶋氏と同じS24年生まれの私の結婚披露宴の最後に会社の同僚とギターかき鳴らしハモリ熱唱した思い入れのある曲です。間奏が難しく相棒にお任せ。1968年、ヨット部の合宿所が江ノ島だったので加山雄三の光進丸を何度拝見したことか。合宿中に友人と抜け出して内藤洋子を目指して北鎌倉駅そばの内藤医院の前をウロチョロしたりも。あー、あの頃が、、、。
エドさんイイね!真冬の帰り道大好きでした。
「進水する」という意味でザ・ランチャーズと名付けられたと今日初めて知って、グ-グルで検索したら、やはりそうでした。50年以上前の週刊誌や音楽番組の司会者も、加山さんが学生当時ドカベンで昼食を食べていたので弁当箱から名付けたと言ってました。それ以来ずっと今日まで、そう思ってました。「真冬の帰り道」とアダモの「雪が降る」は、今もCDに録音して、雪国新潟の雪道走行で聴いています。
ザ・ランチャーズ、懐かしいですね、ギターの大矢さん二代目若大将で俳優デビューしましたね。
確か、鼻にほくろがあったような(?)、長身で二枚目で、モテたでしょうね。
内藤洋子さんのご実家は、鎌倉のお医者様ですね、本当に育ちの良いお嬢様でした。
私も、ハードロックは苦手です。ジャズとは一線を画していますね。
噂では、聞いていました。でも時代が変わっても歌は、残って行くからまた子供が歌って行くでしょうね!歌は、絶対残って行きます。
なつかしい当時の状況が蘇ります。映画見に行きました。
すごーいグループ・サウンズの黎明期の歴史講座、エドさん版、第1回ですよね。貴重!東宝映画の歴史含め、やっぱり、企画、ライターですね。深夜のBSテレビ,ラジオ番組出来ますね。24日楽しみ!花粉症の症状が数年振りに!苦しい!水曜日の配信が嬉しい!ありがとうございます!真冬の帰り道のカラオケ披露も!良いな!作りたい!
エドさん お疲れ様
懐かしい曲ですね。
エレキの話 盛り上がりますね。
青春に油そそがれ燃えましたw
いつも楽しく拝見しています。
懐かしいですね♪
ランチャーズのファンクラブ会員でした。ドラムスの喜多嶋瑛さんが推しでした。銀座に事務所があり出入りしたり。気楽で楽しい時代でした。
貴重なものをお持ちなんですね。いつか拝見したいものです。
瑛さんは引退後アメリカに留学されたと記憶しておりますがその後どうなさったのかと思い出すことがあります。引退の時に、時々ファンレターを書いて出していた私に丁寧なお礼のハガキをいただきました。ジェントルマンでしたねー。
瑛さんお元気で何より❤ずっとアメリカなんですね。
妹が渡辺有三さんのファンでなぜか妹と2人で赤阪のお宅に伺ったことがあります。確か瑛さんの引退ライブのチケットを受け取りに行きました。お母様がうちにあげてくださりお茶をいただきました。
個人情報とかややこしいことのなかった大らかな頃のお話。有三さんは早く亡くなられ残念でした。
富塚様、瑛さんにくれぐれもよろしくお伝えください。瑛さんの影響で司馬遼太郎の本を読んだりしました笑。本当に懐かしいです。
今日改めてこの動画を観ましたが、「真冬の帰り道」は「想い出の渚」と似てますね。
上品なところ、垢抜けしているところ、、。
考えるて見るとランチャーズ、ワイルドワンズ共に加山雄三氏と繋がっていますね。
当時は慶應のフィンガーズ(G/成毛滋)から始まって、同じく慶應のランチャーズ、ワイルドワンズ、成蹊・成城のヴィレッジシンガーズ、
たしか法政のサベージ(V/寺尾聡)という学生バンド出身のお坊ちゃまGSと、ブルコメ、スパイダース、スイングウエストのようなダンス
伴奏バンドの老舗、さらに京都の不良・タイガーズ、大宮の不良・テンプターズ、横浜の大不良・Gカップスなどに分かれてましたよね。
ランチャーズとワンズは加山さんのバックでもありましたが、フォークロック系のさわやかなバンドでした。サザン桑田氏も結成時は
その路線をめざしたそうですね。
素晴らしいです。
間奏の部分上手いです、エドさんの味も出ていてウットリしました。
合唱!
ランチャーズとは、そういう意味でしたか~!。半世紀以上かけて知りました。
いつもoh!エド日記面白いですが、今回はサイコーに面白かった。というか興味深く聴かせていただきました。寺内タケシ氏以来です。
ところで「真冬の帰り道」はgsに分類されてますが、流行った当時から私は「gsにしては垢抜けしすぎている」と違和感を感じていました。カレッジフォークのエレキ版というか、、。今聴いてもほかのgs特有の泥臭さ、怪しさ、胡散臭さが全くありませんものね。
ところで私は最近老化防止の為リサイクルショップでエレキ買ってベンチャーズを今更ながら練習していますが、エドさんも言っていますが、この曲の間奏の後半部分(コンキラコンコン、、、)は早すぎてむずかしい!頑張って早く弾けるようにしたいと思います!
頑張ってくださぁ〜い。
プラタナス、小学校の校庭に植わってまして、秋深くなると大きな葉っぱがバッサバッサと落ちてくるんです。高校生になって「真冬の帰り道」を聴き、♪…ひらひらこぼれてる…♪の部分に「いやぁ、そんなもんじゃないよ」って突っ込み、はしだのりひことシューベルツの「風」の ♪ …プラタナスの散る音に振り返る…♪ に、「そう、これこれ」って悦に入ってましたっけ。
小6のとき、当時全国を席巻したアメリカシロヒトリがプラタナスにたかり、真っ白な幼虫の巣がびっしりと…。駆虫でやって来た市役所の職員がタオルでマスクをし、軍手で作業しているとき、葉っぱから素手で巣を剥がしたら、「かぶれるぞ!」と言うんです。でもムシ好きの当方、ヒトリガの仲間でかぶれることがないのを知ってましたから、「えっ、こいつら平気ですよ」とどんどん剥がしてゴミ袋の中へ放り込んでやりました。「こうやって手の届かない所にだけ薬をかければ安上がりですよ」と、市の臨時予算の削減にも協力した、とってもいい生徒でしたw。
懐かしくなり、エドさんの唄に合わせてギターを手にしてしまいました。まだコードを覚えてました。いいものをありがとうございます。
第二期は喜多嶋弟さんと大矢さんが高校生で芸能活動できない
ので慶応大のプラネットという
バンドのメンバー二人と喜多嶋兄で活動してたんですよね
一時期プラネットの方が出てましたね。岩崎くんと堤くん。加山さんの「旅人よ」のジャケットに写ってます。
岩崎道夫さんはアメリカに行って帰国後に宝石商を立ち上げ成功しております。私の会社の上司のお姉さんがその会社にかつて勤めていたのでいろんな話を聞きました。
加山雄三のパールホワイトのモズライトは65年夏の公演時にベンチャーズからプレゼントされたギターで、立教大学の「ビートニックス」のモズライトはサンバーストとキャンディ・レッドで、65年1月公演後に羽田飛行場でベンチャーズから直接購入たものです。最近、65年夏にノーキーが弾いたモズライトを、レアなレコードを販売している仙台の「パラダイスレコード」が手に入れたようです。
そうだったんですか~。勝ち抜きエレキ合戦観たとき、パールホワイトのピートニクスのイメージがあったもので…。ありがとうございます!
確かにビートニクスはその後ヤマハでパールホワイトのモズライトも購入しています。テレビの白黒画面で白のモズライトが印象的だったのでしょう。アンプはフェンダーのバンドマスター、ドラムセットはGRETSCHとプロでも持っていない楽器を揃えていましたが、卒業したらちゃんと就職するという条件で買ってもらったので、その約束は守っています。
当時私はビートニクスのリード・ギターの弟とバンドを組んでいて、65年10月日本テレビの「ニューエレキサウンド」でノーキーの使用したサンバーストでキャラバンを演奏、月間チャンピオンになりましたが決勝戦でサベ-ジに負けました。
きょうも楽しませていただきました。
内藤洋子さんが、喜多嶋舞さんのおかぁさんだったのですね。
リリーズと聞いてGSの方を先に思い出してしまう偏った知識の自分
ランチャーズはアルバムがビートルズっぽくて素晴らしかったですね
青山伸さんからお話しを聞いておりました。エドさんのライブ是非お邪魔させて頂きます。
ありがとうございます。お待ちしてま~す!
あっち系聴くには聴くんですが…弾いてみたい!とはなりませんでしたね😅
触りで弾いて自分満足してました笑
私の場合ベンチャーズからサーフインストへ走りました☝
わたくし71歳も1960年代からいまだ抜けきれないです。ベンチャ~ズ、寺内たけしとブル~ジ~ンズ、シャドウズ、ザスプ~トニクス、あとはグル~プサウンズかな。
東京ベンチャーズのエド山口。おもろいオッチャンやで。
ランチャーズのファンで
埼玉人ですが東京の私立女子中学校に通いそちらで友人のあねから大矢茂が池上線沿線に住み それで見に行きました 個人情報なんてなく 現代では考えられませんね(笑) 家人は内藤医院鎌倉の隣りの医院の息子と友人で内藤洋子さんと一緒に写った写真あります 真冬の帰り道は日本放送ラジオ聞いているとたまにかかり やはり名曲となり嬉しいかぎりです
↓のコメント欄に、今ではザ・ランチャーズ研究の第一人者と呼んでも良い富塚さんがコメントされているので、あまり大層なことは書けません。エドさんが語られた部分で、ホンのちょっと足りないなと感じた点を挙げたいと思います。第一期ランチャーズが結成されたキッカケは、当時の東宝の大プロデューサー藤本真澄さんの指示だったです。音楽をやっている加山さんを知って、楽団を作れと。(楽団ごと映画に出そうと目論んだ) その頃の邦画各社は、若手の俳優にバンドを組ませたりしてましたから。(日活ヤングアンドフレッシュとか 東映・大映・松竹は失念しました)東宝もその流れに乗ったですね。第二期ランチャーズの活動が始まる頃は、まだ年齢若いメンバーを指して、ランチャーズJrなんて表現もあったみたい。喜多嶋兄弟のお父さんは、加山さんのマネージャーをやっていたとか。(1965年東宝映画「歌う若大将」のヒトコマ 小屋入りいる加山さんの傍らに一緒にいらっしゃいます)
この曲歌いやすかったのか、いろんなアマチュアバンドでも演奏してました。 実は私がいたグループも。
青山ミチさんのお話し有難うございます。晩年にミチさんと一緒にライブしてた、従兄弟の作曲家で青山しん
エドさん今回の話も面白かったです!
さて「ランチャーズ」〜「ハイパーランチャーズ」
その「ハイパーランチャーズ」のメンバーは「ワイルドワンズ」の島さんも入ってて、島さんが上原 修(オチャミ)に声かけてメンバーになってます。
オチャミはモトさんと「ローズマリー」で一緒したメンバーです。
元々ホリプロの「オックス」の弟バンド「オリーヴ」でGSデビューをしたという情報でした!
知ってたかもしれない話ですが時間の関係で話せなかったのかもね(汗)
リードギターの喜多嶋修さんは、ビートルズに傾倒していて「真冬の帰り道」の頃にはリッケンバッカーのギター弾いていましたね。
渡辺有三さんは小泉今日子さんも担当されていましたね。テレビでレコーディングのドキュメンタリーをやっていた。
エドさんいつも見てます。渡辺有三さんSHARP5アルバムのコメント書いてました。
有三さんが、ポニーキャニオンに入社して。 最初の仕事が「シャープ5」でしたね!!
エドさんスタジオ録音でノ~キ~エドワ~ドさんの影武者が何曲か弾いていたのを御存知ですか?初期頃の忙しい時に別人が⁉️
「シリウスの涙」を加山さんが歌っていたような覚えがあるんですけど…
エドさん一度探してみてくださいノ~キ~エドワ~ドの影武者が弾いてるレコ~ドを‼️
モト冬樹さんのお兄様ですよね!
エドサンが今持っているモズライトはてらさんのモズライトと同じ金額らしいです‼️
ハードロックには向かわなかったのは分かりますね、メロディラインやハーモニーを大切にしてらっしゃいますもんね。
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BLACK SAND BEACH '94 はハイパー ランチャーズだったのかな
第1期の写真 昔見たことある〜
喜多島さんは内容洋子さんと結婚した後にアメリカに渡ったような
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喜多嶋さん、学生結婚だったんですね。知らなかった😳
エドさん、だいぶ前にコメントしようと思っていたのですが、今日改めてコメントします。残念でした。ランチャーズの2期は、旅人よのレコーディングをしたメンバーでした。日劇のショーにも出演していました。エレキを弾いて。喜多嶋兄弟は、3期でした。へっへっへっ。
最近ですど、元オックスの赤松 愛さんがなくなっていた、知らせを知りました。とても残念です。
スミマセン、エドさんを江戸さんと書いてしまいました。ゴメンナサイ。
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Launchersだったらローンチャーズっていわなければ分からないじゃないか。
そうですね、すいません?
Eか!