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5:05 しんこうぼう 心向キ棒 しんむきぼうですね。
ご視聴頂きありがとうございます。ショート動画でご指摘があり、最新動画では、注釈を入れしんむきぼうというようにしました。
3:35 ちなみに、以前山口線でサロンカーなにわによるお召し列車が運転された時は(天皇陛下だったか上皇陛下だったか忘れましたが)、津和野の街をまわられている間に1両1両転車台で方向転換していました。
C56 448さん、ご視聴頂きありがとうございます。1号編成って方向があるんですね。
今回も素晴らしい記録をありがとうございます。私事ですが、最近佐倉市に家を構え、自宅近くが旧線跡だと知り、近辺をこの蒸気達が走っていたのかと興味深く拝見いたしました。機会があれば都内を出て、関東近辺の...とりわけ千葉方面の蒸気の活躍も見せて頂けたら嬉しいです!今後も鉄道の進化、歴史を今に伝える動画を楽しみに、投稿を楽しみにしています。
たくまろさん、ご視聴頂きありがとうございます。千葉の蒸機は単発では何回か登場していますが、特集を組んだことはありません。成田線や房総線は近々まとめて動画にしたいです。
8:28 瑞穂町民なのですが、この箱根ヶ崎駅の写真はいつのものでしょうか?右にたばこ屋がありますが、昭和53年生まれである私の記憶ではそこは公衆トイレなので😅京王タクシーの詰所は、昭和60年頃もそこにありました駅前が舗装されていないので、昭和30〜40年台でしょうか?
こどおじ46歳さん、ご指摘ありがとうございます。これは昭和44年の撮影ですね。以前の八高線特集では他の駅も登場しますので是非ご視聴してください。
@@Yukkuri-Lab 御回答ありがとうございました😊
昭和30年代子供頃親父の田舎に行く時上野駅地平ホームから高架線常磐線のホームに巨大な蒸気機関車を目撃しました横浜に住んでいたので蒸気は大船や戸塚の入れ替えしか見たことなかった。とうじ子供なので東海道の特急電車151系全盛期でつばめやこだまに夢中になってました古臭い蒸気はよく知らないかったがなくなるとSLブームとか流行りだしたのは高校生位です上野で写真撮れば良かった幼稚園児ですが
ご視聴いただきありがとうございます。子供さんは何処でもいつでも、華麗な速い電車が大好きですね。当時小さい時から蒸機が好きと言うのはかなり不気味です。地磁気研究所のせいで電化が遅れ、上野の大型蒸機は昭和37年まで残りました。
小学校高学年になってから乗り鉄になって東海道線にたまに来る80系静岡方面で行ったと国府津のD52と扇形庫見ました
3:40からのC62 19号機は、写真を見ただけでは「東京じゃC62は肩身が狭い…なんて言わせないぜ!」と張り切っている様子なのかと思いきや、上り『はつかり』を上野まで牽引した後、推進運転で尾久へ引き揚げてゆく姿だったんですね。そして、下り『はつかり』の編成の向きを適正にするためだけに尾久のC57と入換え機の2両を要していたとは、これでは手間もかかれば、何も千代田の御一家からに限らず「とにかく煙をなんとかしろ!」と言われてしまうのも仕方なかったのがよく分かります。
成田さん、いつもご支援ご視聴頂きありがとうございます。19号機の推進の姿ははつかりではないんです。イメージですね。ある機関助士の映画の最終シーンがまさにこれですね。客車はつかりの面倒な転向と、電化後のはつかりとゆうづるで583系が使い倒されていたのを比べ、わずか数年での劇的な進化は凄いものです。
今回もありがとうございました。東京は山手線 東北線 東海道線など早くに電化されても郊外は非電化だと蒸機が必要でしたね。常磐線の特急をC62が牽引して乗務員が水戸で真っ黒になって交代するという動画を見たことがあります。いろいろな形式が見れて楽しかったです😂
プさん、いつもご支援ご視聴頂きありがとうございます。常磐線は地磁気研究所のせいで電化が遅れ、交流電化を待つ必要がありました。
“東京都の蒸気機関車”というから、東京都が保有する小河内ダム建設用の機関車のことかな?と思ったら…都内での蒸気となると、成田山お参りに常磐線〜成田線直通の客車内で酒盛り…の話を母から聞かされたものです。
ご視聴いただきありがとうございます。小河内ダムは蒸機だったんですね!昭和45年の高尾山の初詣臨時列車は、東京の客車列車の最後ななったようです。臨時なので取り上げませんでした。
@@Yukkuri-Lab さま国鉄から機関車(五日市機関支区の C11)や貨車を借りての運行でした。昭和31年には 土砂崩壊現場に列車が乗り上げ C11 67と貨車3両が遥か下を流れる日原川に転落する事故もありました。
そう言えば、私の先輩は五日市線のC10で通勤していたと言ってました。
昭和45年頃板橋駅でD51見たきがします。新鶴見機関区の機関車なんでしょうか。1963年ごろ80系又は153系電車にクハ16の電源車でⅭ57の引く列車で臨海学校に行きました。
ご視聴頂きありがとうございました。板橋のD51は、セメント工場の入れ替えと輸送の山手赤羽線経由して大宮に行く大宮区のD51ですね。以前紹介した事もあり出しませんでした。
東京の蒸気は蒸気に興味を持ったS44-S45にあっという前に無くなりました。動画のはつかり牽引のC6237はS45に安芸を牽引していたのを見た事があります。
k wさん、ご視聴頂きありがとうございます。東京の前に四国が全廃したんですね。四国の古い鉄道ファンの方々の郷愁はDF50なのでしょうか。私もC62-37は呉線でも撮影しました。煙室戸のステップが無くなっていました。
煙室扉のステップは進駐軍用列車番号掲示台だったかと。確かに呉線時代は無かったですね。仰る通り四国はDL/DCの聖地でした。
あと10年早く生まれてたら、小さい頃に見ることが出来たんだな…都内でのSL運転を初めて見たのは、オリエントエクスプレス88でした。
雲助ポン助さん、ご視聴頂きありがとうございます。無煙化されても機関車がDLやELになっただけでしばらくは、変わりませんでした。でもじわじわ変わってしまう時の流れにうろたえています。
@@Yukkuri-Lab 昭和50年前後に赤羽から鴻巣まで旧客に乗車しました。確かEF57牽引だったと思います。あれが唯一記憶に残る旧客。あとは身内の不幸があった時に、やはり夜の赤羽駅で、急行越前が駆け抜けていくシーンくらいです。
東北本線はなんで完全電車化が遅れたのでしょうね。荷物車や郵便車の関係でしょうか。
@@Yukkuri-Lab 昭和50年代は電車の郵便車は高崎線?東北線?によく連結されてましたよね。荷物、新聞などの配送があったのかもしれませんね。かつてJTBの時刻表編集などの仕事をしてて、歴代編集長(現編集長も存じてます)の何人かに聞いておけばよかった。。
両国の通勤電車は101系じゃないかな
確かに。103系は、冷房装備で習志野区に入った。
いつも101と103系を間違えてすみません。
@@Yukkuri-Lab さん、101系は低窓非冷房で、103系は後から付けた冷房装備車と高運転台新製冷房車の二種類あった。
ありがとうございます。
中央総武線に103系電車が新配備されたのは蒸気機関車が全面引退後の昭和54年(1979)ですね。今まで総武線に103系を入れることを常磐線以上にダメなんじゃないかと国鉄が危惧していたのでしょう投入は慎重だったと思います。常磐線のヘマを総武線で繰り返さぬ為にも導入は慎重でした。この写真の101系も後に事故を起こしているので、総武線は魔の路線でしょう.......。
3:37 魔理沙が言っているとおり、客車1両ずつ変えていたら時間がかかって列車の運行に遅れが出てしまいますね😅
京成3050さん、ご視聴頂きありがとうございます。特急はくつるはブルトレで、そのまま品川客車区に直進し転向せずに上野にやってきたのを見ると、推進運転って無駄なんだなぁと。まして編成の転換などは今の常識では有りえないなあと思います。
首都圏なんて72系電車と旧型国電達が悲鳴をあげながら走る光景を幾度となく我々は目にしてきたと思いますが、あれが首都圏の日常です。そんなところに蒸気なんて走らせようものなら.......あとはご想像にお任せします。
そう言う意味で常磐線のC62達が上野まで国電区間を走っていたのは凄いですね。
田端機関区には、タンク蒸気機関車C12形やC50やD51形と8620形と9600といった貨物機関車が電気機関車と同居しながら配置されていたが、大量のDD13形の入線で、活躍の場を失い、廃車された機関車が多かった。
大坂さん、田端の大量廃車の晒しものはかなり有名でした。
@@Yukkuri-Lab さん、究極の晒し首解体作業が凄かったのでは。😅🚃
何処に持っていくか、車歴も若いですから。
@@Yukkuri-Lab さん、それならば、地方の機関区に持って行くか。
リアルに覚えているのは 1970年の高島線電化による D51 791牽引の『さよなら蒸気機関車』位しかなく「あと10年早く生まれていれば こういう光景も見られただろうなぁ。」と思いながら拝見致しました🙇『はつかり』が田端→隅田川→日暮里ルートで方転していたとは知りませんでした。常磐線に乗り入れて来る佐倉のカマは『常磐線無線』のアンテナが目立っていたそうですね。前にも述べましたが八高線は『金子坂』と『寄居駅手前 秩鉄アンダークロスの坂』を登れれば一人前の機関士だったとか。6:41 黄色い通勤形は『101系』です🙇津田沼や三鷹の同系は 千鉄局管内の電化の延伸毎に『成田』や『千倉』迄乗り入れていましたね。
トリリサービスさん、いつもご視聴頂きありがとうございます。791のD51は高島貨物線で、あそこはどこも東京都を走っていないので、今回のテーマから外したんです。とても微妙な場所なんですが。都内と言っても八高線はかなり都下の西なので、やはり最後は越中島のD51-21のお別れが都内の蒸機の最後となるんでしょうね。791の大騒ぎに比べひっそりしたお別れでした。
とりりサービス様誤字だとご承知と思いますが、三鷹ではなく中野です。同僚のお父上が中野電車区勤務でした。中野は一足先に、新形式201系に置き替わりましたが、千葉動労の橋頭堡、津田沼は、在来中古の103系の転属で101系を置き換えてゆきましたね。新機軸導入に関して、頑なに拒否してきた千葉動労ですが、千葉局にしたところで、103系は初物の筈なのですが、そこら辺は「意地でも千葉局には新車は送らない」と言う思惑があったのでしょう。これは私奴の推論ですが。話が脱線、101系に話を戻しますと、運用を離脱したモハユニットのトップナンバーが中野電車区の一番本線寄りの電留線に留置されていた。以前はここに処遇を待つ72系が留置されていました。いよいよ最末期、89年頃のこと。津田沼に残る101系は、廃車にともない、車種間調整が付かなくなったのか、アバウトな編成が多出した。運転台と貫通面の連結(それもダブル連結もあった)や101系史上、私奴も初見だった10輛貫通編成、でも最後の最後は6+4の編成に落ち着いた。101系は、本来では不随車組み込みの4輛は組成できませんが、編成として6Mですから、それでよしとしたのでしょう。古い話では、緩行線の[快速木更津行き]ですね。緩行線内は各駅停車、千葉↔木更津が快速運転だったと思います。そして中野電車区持ちの、朝一本のみの東京駅乗り入れがあった。たしか、快速線が早朝深夜に緩行線を往く時間帯だったと思います。最後に蒸気の話ですが私奴も、最末期に間に合った世代、新小岩機関区の蒸気のみ覚えております。あれは、小名木川貨物線を往く蒸気でしたね。以上、懐かしさのあまり長文になってしまいました。これで失礼いたします。
三鷹電車区は良く行きました。武蔵境との間ぐらいにグリーンパークに行く引込線があったのですが、気が付いたら廃線になっていましたね。その頃は写真は撮っていませんでした。当時鉄道写真は趣味ではなかったんです。でも蒸機は撮影していました。鉄道ファンというより蒸機ファンとかなり偏ってました。
東京都内のSLもバラエティーに富んでていいね〜
0721さん、いつもご視聴頂きありがとうございます。結局最後はD51とC58、C57なんですね。
だね・・・
都内の蒸気機関車と言えば、尾久機関区のC62形牽引の特急はつかりと急行北上などの常磐線や山手貨物線のD51形牽引の貨物列車。新小岩操車場には、入替機8620形や9600形がいた。昭和47年10月14日の鉄道開業100周年記念列車牽引は、C577号機が汐留(新橋)ー横浜(高島町)間を牽引した。都内から蒸気型消えて、EL.DL化の際のさよなら列車牽引は、C58形が旧型客車を牽引して、横浜に向かった。東京下町では、蒸気機関車の煙が最後まで残っていた。
大坂さん、いつもご視聴頂きありがとうございます。C62の常磐線の東京駅乗り入れがすぐ終わった本当の理由を知りたいです。超特急燕のC51も東京と品川の間は練炭を炊いて煙が出ないようにしていたのですが、皇居の儀式や儀礼に引っかかるんでしょうかね?
@@Yukkuri-Labさん、すぐに電化して、EF51形やEF53形に牽引させたのは、天皇家だけではなく、軍部からの圧力が鉄道省(当時・現国土交通省)にあったのでは。
東海道線は熱海辺りまででしたか?お召列車の機関車はどこでも蒸気機関車だったと言うのが面白いですね。
@@Yukkuri-Lab さん、国府津駅まで電化して、御殿場線が非電化だった為に蒸気機関車がお召し列車を引いた。
なるほどです。
ちなみに戦前の特急は、燕や鴎は明石、富士や桜は下関で、本当にターンテーブルで車両を方向転換してたとか…
北村さん、ご視聴頂きありがとうございます。貴重な情報ありがとうございました霊夢の言っているのはあながちおかしいことではないんですね。
関東圏の蒸機をリアルで見られなかった年代の私、この様な動画を興味津々で見ていますこんなに近場で蒸機がゴロゴロ居たんですね今じゃ貨物以外のカマは風前の灯火…カマ好きの私は寂し思いです…
デカミツさん、ご視聴頂きありがとうございます。機材を担いで長い列車に揺られて遠くの蒸機を見るのも一興ですが、駅撮りが好きなものとしては、東京近郊の蒸機は日常の延長でそれも楽しいものでした。
田端にSLがごろごろしていた時代はたまにおじさんに連れて行ってもらっていた。でも子供すぎて形式までわからなかった。貴重な写真ありがとうございます。
ご視聴いただきありがとうございます。田端と品川の入換の無煙化が、国鉄で最も早くDD13が大量に投入されました。それだけで煤煙が結構減ったそうです。
東京の隣の横浜の話になるが、昔、SLファンであった親戚の家に、貨物を牽いているC58が田畑の中を走る白黒の写真が飾ってあった。どこのローカル線で撮ったの?と訊いたら、「これ、小机付近だよ」と答えが返って来た。そんなすぐ近く(親戚の家は現在の都筑区で港北インター近く)で…と驚いたものだった。横浜線は戦前には全線が電化されてはいたが、線路規格の関係で適当な電機が無いのと、横浜線と繋がっていた高島貨物線もまだ蒸気機関車の時代だったので、貨物列車はC58の蒸機が、煙を架線に吹き付けて走っていた…そんな時代があったなんて、現在では信じられない思いだ。
ヒストレインさん、ご視聴頂きありがとうございます。横浜線は本当に当時から話題に上らなかったですね。八王子辺りは山が迫っていて楽しそうなのですが、架線がありますからねぇ。八高線の1年前に無煙化されていたと思います。
昔親戚の家に行く途中バック運転で走っていたなー子供だったから型式、線は分からないけど
ご視聴いただきありがとうございます。今でもカシオペアがバックで上野に入るのが唯一になりました。
東京都とは関係ないですが、特急かもめの客車がスハ44系から10系の軽量客車に変更になったのはデルタ線での方向転換が省けるためだと聞きました。10系は急行型の固定ボックスシートで私は乗ったことはありませんが、なんか特急料金を払って損をした感じだったのではないか!後に特急しおじ等に12系座席車が使用されたけど料金100円引きでした。こちらには小郡(現在の新山口駅)から三宮まで乗った事がありました。
もりわききくおさん、ご視聴頂きありがとうございます。そうなんですよね。かもめを前回出したときにそれを言おうとしたのですが、尺が長くなるので止めました。編成を逆転するコストは莫大だったでしょうね。その分国鉄が雇用を確保していた良い時代だったわけで、そういうところから今の線路の夏草の見苦しさがとても気になります。
リンゲルマンチャート付きの129、保存されていたのに解体されてしまったんですね〜😭😭😭
びゅーんさん、いつもご視聴頂きありがとうございます。あっ、保存されていたのですか。C57の錆びてやれた姿は見るに堪えないです。
魔理沙<< なに言っテンダーい。ターンテーブル短いのにテンダー機の向き変える場合は本機とテンダー切り離してそれぞれ向き変えてから繋ぎ直す。と妄想。。。
のえるさん、ご視聴頂きありがとうございます。確かに切り離しして転車台に乗ることはありますけど、整備や検査の時だけじゃないかと思います。以前梅小路のD51が中間Aでテンダーを切り離されてC11に転車台に押し込められているのを見たことがあります。
SLがかつて日常だった時代では都内や近郊でも見ることが出来たのですね。今東京から最も近い場所で毎日SLを走行させているのはTDLくらいでしょうか。
kid.1さん、ご視聴頂きありがとうございます。それ以外でも回送とか臨時作業で蒸機が駆り出されることは多くて、国電に乗っているとあちこちに黒い機関車が煙を吐いていたイメージがあります。
てっきり港湾局の話かと思った笑 蒸気機関車の情報はある程度あるんですけど、模型で再現しようとしたときにあまりいい資料が無く客車の編成で悩むんですよね・・・
4864427さん、ご視聴頂きありがとうございます。東京23区の・・・にしようかと思いましたが、私の好きな八高線を出したくて東京都にしました。
486427さん、ご視聴頂きありがとうございます。東京都のマークでそう思われました?私はC62の12系は嫌ですが、その他の蒸機であればどんな旧型でもブルトレでも好きです。
動画内容が、興味深いので、各線区の蒸機、最終運転日を、調べてみましたら、最も早いのが、横須賀線の6760形(1944年10月、時代が時代だから、もしかしたら戦災廃車かも😢)【著書、日本の蒸気機関車より】
小樽築港機関区さん、いつもご支援ご視聴頂きありがとうございます。まぁ、細かい事を言えば三鷹や吉祥寺あたりにもB6が居たり、水道橋や池袋にも入換機が居たり、昭和40年頃をベースに構成しました。今でも横須賀線の鎌倉辺りには蒸気が居ても不思議でない風景を醸していますね。
総武線貨物が両国止まりなのは、実は秋葉原付近に30‰の勾配があって機関車の走行ができなかったからだそうですそのため、千葉方面からの貨物は新小岩に集めて新金線で常磐線に回していましたSL牽引が終わっても、八高線ではDD51による重連が行われていたのを思い出しますな
電光刑事さん、いつもご視聴頂きありがとうございます。秋葉原なんですか。両国には房総に行くとき乗り換えで面倒だったですが、今はトンネルで新橋からもすぐに行けていいですねぇ。DD51の八高線はタブレット閉塞が長く残っていました。
これらの蒸気についてですが、東京都内ともなると昭和30年代から既に首都圏では旧型国電含めて置き換え対象となり、DD51のみならず電化されているので新性能電機の置き換えであったりもしたと思われます。また普通列車に関して言えば新高性能電車で交直流両用対応の401系がありましたので、こちらでの置き換えもあったと思われます。単純に昔から電機で引っ張る客レも都内だったら珍しくないでしょうから、入れ替え機以外だと私のイメージでは長距離の鈍行以外はあんま蒸気は都内ではいなかったのではないかという推測です。特に中央線とかは戦前、ひいては明治の頃から電化されてる路線であるからして、高尾以西でなければ特に蒸気は必要ないですしね。来ても貨物か西側から来た鈍行ぐらいなものではないでしょうか。そうこうしているうちに中央急行線は電化されて牽引の釜が蒸気から電気に変わったものだから見れた人はかなり幸運だと思われます。横浜線は旧型国電のイメージでしたので蒸気がいた事はほとんど知りませんでしたな。
ご視聴いただきありがとうございます。コメントもありがとうございました。上野の常磐線は、急行、各駅同時期に無くなりました。成田線は残ったわけですが。地磁気研究所のおかげで、遅かったんですね。ですから上野の蒸機と言えばこちらになり、東北、上信越は、関東の端までいかないと、蒸機はなかったのが、正常な姿だったんでしょう。
東京都の蒸気汽関車と言ったら八高線のD51,C58のさよなら運転しか記憶にない他に埼玉、西武園の山口線で頸城のコッペル2号機が引く列車に乗ったこと。これぐらいしかない。因みに山手線原宿駅にある御召し列車専用ホーム。あそこのプラットホーム に蒸気汽車が入庫する際煙を出さない様に排出バルブを閉めて入ったと言った話がある。人間なら息を止めて100mを走る様なものか❓
芋谷さん、ご視聴頂きありがとうございます。原宿の宮廷ホーム、C51のお召専用機の古い写真はよく見かけますが、その後を引き継いだ専用機がC57-126で、あまり知られていないようです。
昭和30年代にほぼ電化されていたので、特段蒸気が必要な路線が都内にないのが理由ですね。僕も蒸気は常磐線しか知らないです。
非常に貴重な動画です。よく東京のSL時代の事情を思うことがありますが、詳しくは分かりませんでした。この動画だととてもよくわかります。C57は、DD54程の馬力であり、C58は、DF50₅₀₀MAN型とほぼ同等の馬力でした。このくらいの馬力の機関車が多用され、首都圏の輸送が支えられていたということに、改めて驚きます。
権三郎平衛さん、ご視聴頂きありがとうございます。お役に立てる内容であればとてもうれしいです。池袋まで来ていた大宮のD51があったのですが、駒込の白黒写真をぎりぎりで挿入して済ませてしまいました。両国のC57の客レの後、高尾山の初詣用の臨客で昭和45年のお正月にD51が八高線を走ったのですが、こちらは臨時ですから省きました。
5:05 しんこうぼう 心向キ棒 しんむきぼうですね。
ご視聴頂きありがとうございます。ショート動画でご指摘があり、最新動画では、注釈を入れしんむきぼうというようにしました。
3:35 ちなみに、以前山口線でサロンカーなにわによるお召し列車が運転された時は(天皇陛下だったか上皇陛下だったか忘れましたが)、津和野の街をまわられている間に1両1両転車台で方向転換していました。
C56 448さん、ご視聴頂きありがとうございます。
1号編成って方向があるんですね。
今回も素晴らしい記録をありがとうございます。
私事ですが、最近佐倉市に家を構え、自宅近くが旧線跡だと知り、近辺をこの蒸気達が走っていたのかと興味深く拝見いたしました。
機会があれば都内を出て、関東近辺の...とりわけ千葉方面の蒸気の活躍も見せて頂けたら嬉しいです!
今後も鉄道の進化、歴史を今に伝える動画を楽しみに、投稿を楽しみにしています。
たくまろさん、ご視聴頂きありがとうございます。
千葉の蒸機は単発では何回か登場していますが、特集を組んだことはありません。
成田線や房総線は近々まとめて動画にしたいです。
8:28 瑞穂町民なのですが、この箱根ヶ崎駅の写真はいつのものでしょうか?
右にたばこ屋がありますが、昭和53年生まれである私の記憶ではそこは公衆トイレなので😅
京王タクシーの詰所は、昭和60年頃もそこにありました
駅前が舗装されていないので、昭和30〜40年台でしょうか?
こどおじ46歳さん、ご指摘ありがとうございます。
これは昭和44年の撮影ですね。以前の八高線特集では他の駅も登場しますので是非ご視聴してください。
@@Yukkuri-Lab
御回答ありがとうございました😊
昭和30年代子供頃親父の田舎に行く時上野駅地平ホームから高架線常磐線のホームに巨大な蒸気機関車を目撃しました横浜に住んでいたので蒸気は大船や戸塚の入れ替えしか見たことなかった。とうじ子供なので東海道の特急電車151系全盛期でつばめやこだまに夢中になってました古臭い蒸気はよく知らないかったがなくなるとSLブームとか流行りだしたのは高校生位です上野で写真撮れば良かった幼稚園児ですが
ご視聴いただきありがとうございます。
子供さんは何処でもいつでも、華麗な速い電車が大好きですね。当時小さい時から蒸機が好きと言うのはかなり不気味です。地磁気研究所のせいで電化が遅れ、上野の大型蒸機は昭和37年まで残りました。
小学校高学年になってから乗り鉄になって東海道線にたまに来る80系静岡方面で行ったと国府津のD52と扇形庫見ました
3:40からのC62 19号機は、写真を見ただけでは「東京じゃC62は肩身が狭い…なんて言わせないぜ!」と張り切っている様子なのかと思いきや、上り『はつかり』を上野まで牽引した後、推進運転で尾久へ引き揚げてゆく姿だったんですね。そして、下り『はつかり』の編成の向きを適正にするためだけに尾久のC57と入換え機の2両を要していたとは、これでは手間もかかれば、何も千代田の御一家からに限らず「とにかく煙をなんとかしろ!」と言われてしまうのも仕方なかったのがよく分かります。
成田さん、いつもご支援ご視聴頂きありがとうございます。
19号機の推進の姿ははつかりではないんです。イメージですね。
ある機関助士の映画の最終シーンがまさにこれですね。
客車はつかりの面倒な転向と、電化後のはつかりとゆうづるで583系が使い倒されていたのを比べ、わずか数年での劇的な進化は凄いものです。
今回もありがとうございました。東京は山手線 東北線 東海道線など早くに電化されても郊外は非電化だと蒸機が必要でしたね。常磐線の特急をC62が牽引して乗務員が水戸で真っ黒になって交代するという動画を見たことがあります。いろいろな形式が見れて楽しかったです😂
プさん、いつもご支援ご視聴頂きありがとうございます。
常磐線は地磁気研究所のせいで電化が遅れ、交流電化を待つ必要がありました。
“東京都の蒸気機関車”というから、東京都が保有する小河内ダム建設用の機関車のことかな?と思ったら…
都内での蒸気となると、成田山お参りに常磐線〜成田線直通の客車内で酒盛り…の話を母から聞かされたものです。
ご視聴いただきありがとうございます。
小河内ダムは蒸機だったんですね!
昭和45年の高尾山の初詣臨時列車は、東京の客車列車の最後ななったようです。臨時なので取り上げませんでした。
@@Yukkuri-Lab さま
国鉄から機関車(五日市機関支区の C11)や貨車を借りての運行でした。
昭和31年には 土砂崩壊現場に列車が乗り上げ C11 67と貨車3両が遥か下を流れる日原川に転落する事故もありました。
そう言えば、私の先輩は五日市線のC10で通勤していたと言ってました。
昭和45年頃板橋駅でD51見たきがします。新鶴見機関区の機関車なんでしょうか。
1963年ごろ80系又は153系電車にクハ16の電源車でⅭ57の引く列車で臨海学校に行きました。
ご視聴頂きありがとうございました。
板橋のD51は、セメント工場の入れ替えと輸送の山手赤羽線経由して大宮に行く大宮区のD51ですね。
以前紹介した事もあり出しませんでした。
東京の蒸気は蒸気に興味を持ったS44-S45にあっという前に無くなりました。動画のはつかり牽引のC6237はS45に安芸を牽引していたのを見た事があります。
k wさん、ご視聴頂きありがとうございます。東京の前に四国が全廃したんですね。四国の古い鉄道ファンの方々の郷愁はDF50なのでしょうか。
私もC62-37は呉線でも撮影しました。煙室戸のステップが無くなっていました。
煙室扉のステップは進駐軍用列車番号掲示台だったかと。確かに呉線時代は無かったですね。仰る通り四国はDL/DCの聖地でした。
あと10年早く生まれてたら、小さい頃に見ることが出来たんだな…
都内でのSL運転を初めて見たのは、オリエントエクスプレス88でした。
雲助ポン助さん、ご視聴頂きありがとうございます。
無煙化されても機関車がDLやELになっただけでしばらくは、変わりませんでした。
でもじわじわ変わってしまう時の流れにうろたえています。
@@Yukkuri-Lab 昭和50年前後に赤羽から鴻巣まで旧客に乗車しました。確かEF57牽引だったと思います。あれが唯一記憶に残る旧客。あとは身内の不幸があった時に、やはり夜の赤羽駅で、急行越前が駆け抜けていくシーンくらいです。
東北本線はなんで完全電車化が遅れたのでしょうね。荷物車や郵便車の関係でしょうか。
@@Yukkuri-Lab 昭和50年代は電車の郵便車は高崎線?東北線?によく連結されてましたよね。荷物、新聞などの配送があったのかもしれませんね。かつてJTBの時刻表編集などの仕事をしてて、歴代編集長(現編集長も存じてます)の何人かに聞いておけばよかった。。
両国の通勤電車は101系じゃないかな
確かに。103系は、冷房装備で習志野区に入った。
いつも101と103系を間違えてすみません。
@@Yukkuri-Lab さん、101系は低窓非冷房で、103系は後から付けた冷房装備車と高運転台新製冷房車の二種類あった。
ありがとうございます。
中央総武線に103系電車が新配備されたのは蒸気機関車が全面引退後の昭和54年(1979)ですね。今まで総武線に103系を入れることを常磐線以上にダメなんじゃないかと国鉄が危惧していたのでしょう投入は慎重だったと思います。常磐線のヘマを総武線で繰り返さぬ為にも導入は慎重でした。この写真の101系も後に事故を起こしているので、総武線は魔の路線でしょう.......。
3:37 魔理沙が言っているとおり、客車1両ずつ変えていたら時間がかかって列車の運行に遅れが出てしまいますね😅
京成3050さん、ご視聴頂きありがとうございます。
特急はくつるはブルトレで、そのまま品川客車区に直進し転向せずに上野にやってきたのを見ると、推進運転って無駄なんだなぁと。まして編成の転換などは今の常識では有りえないなあと思います。
首都圏なんて72系電車と旧型国電達が悲鳴をあげながら走る光景を幾度となく我々は目にしてきたと思いますが、あれが首都圏の日常です。そんなところに蒸気なんて走らせようものなら.......あとはご想像にお任せします。
そう言う意味で常磐線のC62達が上野まで国電区間を走っていたのは凄いですね。
田端機関区には、タンク蒸気機関車C12形やC50やD51形と8620形と9600といった貨物機関車が電気機関車と同居しながら配置されていたが、大量のDD13形の入線で、活躍の場を失い、廃車された機関車が多かった。
大坂さん、田端の大量廃車の晒しものはかなり有名でした。
@@Yukkuri-Lab さん、究極の晒し首解体作業が凄かったのでは。😅🚃
何処に持っていくか、車歴も若いですから。
@@Yukkuri-Lab さん、それならば、地方の機関区に持って行くか。
リアルに覚えているのは 1970年の高島線電化による D51 791牽引の『さよなら蒸気機関車』位しかなく
「あと10年早く生まれていれば こういう光景も見られただろうなぁ。」と思いながら拝見致しました🙇
『はつかり』が田端→隅田川→日暮里ルートで方転していたとは知りませんでした。
常磐線に乗り入れて来る佐倉のカマは『常磐線無線』のアンテナが目立っていたそうですね。
前にも述べましたが八高線は『金子坂』と『寄居駅手前 秩鉄アンダークロスの坂』を登れれば一人前の機関士だったとか。
6:41 黄色い通勤形は『101系』です🙇
津田沼や三鷹の同系は 千鉄局管内の電化の延伸毎に『成田』や『千倉』迄乗り入れていましたね。
トリリサービスさん、いつもご視聴頂きありがとうございます。
791のD51は高島貨物線で、あそこはどこも東京都を走っていないので、今回のテーマから外したんです。とても微妙な場所なんですが。都内と言っても八高線はかなり都下の西なので、やはり最後は越中島のD51-21のお別れが都内の蒸機の最後となるんでしょうね。791の大騒ぎに比べひっそりしたお別れでした。
とりりサービス様
誤字だとご承知と思いますが、三鷹ではなく中野です。
同僚のお父上が中野電車区勤務でした。中野は一足先に、新形式201系に置き替わりましたが、千葉動労の橋頭堡、津田沼は、在来中古の103系の転属で101系を置き換えてゆきましたね。新機軸導入に関して、頑なに拒否してきた千葉動労ですが、千葉局にしたところで、103系は初物の筈なのですが、そこら辺は「意地でも千葉局には新車は送らない」と言う思惑があったのでしょう。これは私奴の推論ですが。
話が脱線、101系に話を戻しますと、運用を離脱したモハユニットのトップナンバーが中野電車区の一番本線寄りの電留線に留置されていた。以前はここに処遇を待つ72系が留置されていました。いよいよ最末期、89年頃のこと。津田沼に残る101系は、廃車にともない、車種間調整が付かなくなったのか、アバウトな編成が多出した。運転台と貫通面の連結(それもダブル連結もあった)や101系史上、私奴も初見だった10輛貫通編成、でも最後の最後は6+4の編成に落ち着いた。101系は、本来では不随車組み込みの4輛は組成できませんが、編成として6Mですから、それでよしとしたのでしょう。
古い話では、緩行線の[快速木更津行き]ですね。緩行線内は各駅停車、千葉↔木更津が快速運転だったと思います。そして中野電車区持ちの、朝一本のみの東京駅乗り入れがあった。たしか、快速線が早朝深夜に緩行線を往く時間帯だったと思います。
最後に蒸気の話ですが私奴も、最末期に間に合った世代、新小岩機関区の蒸気のみ覚えております。あれは、小名木川貨物線を往く蒸気でしたね。
以上、懐かしさのあまり長文になってしまいました。これで失礼いたします。
三鷹電車区は良く行きました。武蔵境との間ぐらいにグリーンパークに行く引込線があったのですが、気が付いたら廃線になっていましたね。その頃は写真は撮っていませんでした。当時鉄道写真は趣味ではなかったんです。でも蒸機は撮影していました。鉄道ファンというより蒸機ファンとかなり偏ってました。
東京都内のSLもバラエティーに富んでていいね〜
0721さん、いつもご視聴頂きありがとうございます。
結局最後はD51とC58、C57なんですね。
だね・・・
都内の蒸気機関車と言えば、尾久機関区のC62形牽引の特急はつかりと急行北上などの常磐線や山手貨物線のD51形牽引の貨物列車。
新小岩操車場には、入替機8620形や9600形がいた。
昭和47年10月14日の鉄道開業100周年記念列車牽引は、C577号機が汐留(新橋)ー横浜(高島町)間を牽引した。
都内から蒸気型消えて、EL.DL化の際のさよなら列車牽引は、C58形が旧型客車を牽引して、横浜に向かった。
東京下町では、蒸気機関車の煙が最後まで残っていた。
大坂さん、いつもご視聴頂きありがとうございます。
C62の常磐線の東京駅乗り入れがすぐ終わった本当の理由を知りたいです。
超特急燕のC51も東京と品川の間は練炭を炊いて煙が出ないようにしていたのですが、皇居の儀式や儀礼に引っかかるんでしょうかね?
@@Yukkuri-Labさん、すぐに電化して、EF51形やEF53形に牽引させたのは、天皇家だけではなく、軍部からの圧力が鉄道省(当時・現国土交通省)にあったのでは。
東海道線は熱海辺りまででしたか?お召列車の機関車はどこでも蒸気機関車だったと言うのが面白いですね。
@@Yukkuri-Lab さん、国府津駅まで電化して、御殿場線が非電化だった為に蒸気機関車がお召し列車を引いた。
なるほどです。
ちなみに戦前の特急は、燕や鴎は明石、富士や桜は下関で、本当にターンテーブルで車両を方向転換してたとか…
北村さん、ご視聴頂きありがとうございます。貴重な情報ありがとうございました霊夢の言っているのはあながちおかしいことではないんですね。
関東圏の蒸機をリアルで見られなかった年代の私、この様な動画を興味津々で見ています
こんなに近場で蒸機がゴロゴロ居たんですね
今じゃ貨物以外のカマは風前の灯火…
カマ好きの私は寂し思いです…
デカミツさん、ご視聴頂きありがとうございます。
機材を担いで長い列車に揺られて遠くの蒸機を見るのも一興ですが、
駅撮りが好きなものとしては、東京近郊の蒸機は日常の延長でそれも楽しいものでした。
田端にSLがごろごろしていた時代はたまにおじさんに連れて行ってもらっていた。でも子供すぎて形式までわからなかった。貴重な写真ありがとうございます。
ご視聴いただきありがとうございます。
田端と品川の入換の無煙化が、国鉄で最も早くDD13が大量に投入されました。それだけで煤煙が結構減ったそうです。
東京の隣の横浜の話になるが、昔、SLファンであった親戚の家に、貨物を牽いているC58が田畑の中を走る白黒の写真が飾ってあった。どこのローカル線で撮ったの?と訊いたら、「これ、小机付近だよ」と答えが返って来た。そんなすぐ近く(親戚の家は現在の都筑区で港北インター近く)で…と驚いたものだった。横浜線は戦前には全線が電化されてはいたが、線路規格の関係で適当な電機が無いのと、横浜線と繋がっていた高島貨物線もまだ蒸気機関車の時代だったので、貨物列車はC58の蒸機が、煙を架線に吹き付けて走っていた…そんな時代があったなんて、現在では信じられない思いだ。
ヒストレインさん、ご視聴頂きありがとうございます。
横浜線は本当に当時から話題に上らなかったですね。八王子辺りは山が迫っていて楽しそうなのですが、架線がありますからねぇ。八高線の1年前に無煙化されていたと思います。
昔親戚の家に行く途中バック運転で走っていたなー子供だったから型式、線は分からないけど
ご視聴いただきありがとうございます。
今でもカシオペアがバックで上野に入るのが唯一になりました。
東京都とは関係ないですが、特急かもめの客車がスハ44系から10系の軽量客車に変更になったのはデルタ線での方向転換が省けるためだと聞きました。10系は急行型の固定ボックスシートで私は乗ったことはありませんが、なんか特急料金を払って損をした感じだったのではないか!後に特急しおじ等に12系座席車が使用されたけど料金100円引きでした。こちらには小郡(現在の新山口駅)から三宮まで乗った事がありました。
もりわききくおさん、ご視聴頂きありがとうございます。
そうなんですよね。かもめを前回出したときにそれを言おうとしたのですが、尺が長くなるので止めました。編成を逆転するコストは莫大だったでしょうね。その分国鉄が雇用を確保していた良い時代だったわけで、そういうところから今の線路の夏草の見苦しさがとても気になります。
リンゲルマンチャート付きの129、保存されていたのに解体されてしまったんですね〜😭😭😭
びゅーんさん、いつもご視聴頂きありがとうございます。
あっ、保存されていたのですか。C57の錆びてやれた姿は見るに堪えないです。
魔理沙<< なに言っテンダーい。
ターンテーブル短いのにテンダー機の向き変える場合は
本機とテンダー切り離してそれぞれ向き変えてから繋ぎ直す。
と妄想。。。
のえるさん、ご視聴頂きありがとうございます。
確かに切り離しして転車台に乗ることはありますけど、整備や検査の時だけじゃないかと思います。以前梅小路のD51が中間Aでテンダーを切り離されてC11に転車台に押し込められているのを見たことがあります。
SLがかつて日常だった時代では都内や近郊でも見ることが出来たのですね。
今東京から最も近い場所で毎日SLを走行させているのはTDLくらいでしょうか。
kid.1さん、ご視聴頂きありがとうございます。
それ以外でも回送とか臨時作業で蒸機が駆り出されることは多くて、国電に乗っているとあちこちに黒い機関車が煙を吐いていたイメージがあります。
てっきり港湾局の話かと思った笑 蒸気機関車の情報はある程度あるんですけど、模型で再現しようとしたときにあまりいい資料が無く客車の編成で悩むんですよね・・・
4864427さん、ご視聴頂きありがとうございます。東京23区の・・・にしようかと思いましたが、私の好きな八高線を出したくて東京都にしました。
486427さん、ご視聴頂きありがとうございます。
東京都のマークでそう思われました?私はC62の12系は嫌ですが、その他の蒸機であればどんな旧型でもブルトレでも好きです。
動画内容が、興味深いので、各線区の蒸機、最終運転日を、調べてみましたら、最も早いのが、横須賀線の6760形
(1944年10月、時代が時代だから、もしかしたら戦災廃車かも😢)
【著書、日本の蒸気機関車より】
小樽築港機関区さん、いつもご支援ご視聴頂きありがとうございます。
まぁ、細かい事を言えば三鷹や吉祥寺あたりにもB6が居たり、水道橋や池袋にも入換機が居たり、昭和40年頃をベースに構成しました。
今でも横須賀線の鎌倉辺りには蒸気が居ても不思議でない風景を醸していますね。
総武線貨物が両国止まりなのは、実は秋葉原付近に30‰の勾配があって機関車の走行ができなかったからだそうです
そのため、千葉方面からの貨物は新小岩に集めて新金線で常磐線に回していました
SL牽引が終わっても、八高線ではDD51による重連が行われていたのを思い出しますな
電光刑事さん、いつもご視聴頂きありがとうございます。
秋葉原なんですか。両国には房総に行くとき乗り換えで面倒だったですが、今はトンネルで新橋からもすぐに行けていいですねぇ。
DD51の八高線はタブレット閉塞が長く残っていました。
これらの蒸気についてですが、東京都内ともなると昭和30年代から既に首都圏では旧型国電含めて置き換え対象となり、DD51のみならず電化されているので新性能電機の置き換えであったりもしたと思われます。また普通列車に関して言えば新高性能電車で交直流両用対応の401系がありましたので、こちらでの置き換えもあったと思われます。単純に昔から電機で引っ張る客レも都内だったら珍しくないでしょうから、入れ替え機以外だと私のイメージでは長距離の鈍行以外はあんま蒸気は都内ではいなかったのではないかという推測です。特に中央線とかは戦前、ひいては明治の頃から電化されてる路線であるからして、高尾以西でなければ特に蒸気は必要ないですしね。来ても貨物か西側から来た鈍行ぐらいなものではないでしょうか。そうこうしているうちに中央急行線は電化されて牽引の釜が蒸気から電気に変わったものだから見れた人はかなり幸運だと思われます。横浜線は旧型国電のイメージでしたので蒸気がいた事はほとんど知りませんでしたな。
ご視聴いただきありがとうございます。コメントもありがとうございました。上野の常磐線は、急行、各駅同時期に無くなりました。成田線は残ったわけですが。地磁気研究所のおかげで、遅かったんですね。ですから上野の蒸機と言えばこちらになり、東北、上信越は、関東の端までいかないと、蒸機はなかったのが、正常な姿だったんでしょう。
東京都の蒸気汽関車と言ったら八高線のD51,C58のさよなら運転しか記憶にない他に埼玉、西武園の山口線で頸城のコッペル2号機が引く列車に乗ったこと。これぐらいしかない。因みに山手線原宿駅にある御召し列車専用ホーム。あそこのプラットホーム に蒸気汽車が入庫する際煙を出さない様に排出バルブを閉めて入ったと言った話がある。人間なら息を止めて100mを走る様なものか❓
芋谷さん、ご視聴頂きありがとうございます。
原宿の宮廷ホーム、C51のお召専用機の古い写真はよく見かけますが、その後を引き継いだ専用機がC57-126で、あまり知られていないようです。
昭和30年代にほぼ電化されていたので、特段蒸気が必要な路線が都内にないのが理由ですね。僕も蒸気は常磐線しか知らないです。
非常に貴重な動画です。よく東京のSL時代の事情を思うことがありますが、詳しくは分かりませんでした。この動画だととてもよくわかります。C57は、DD54程の馬力であり、C58は、DF50₅₀₀MAN型とほぼ同等の馬力でした。このくらいの馬力の機関車が多用され、首都圏の輸送が支えられていたということに、改めて驚きます。
権三郎平衛さん、ご視聴頂きありがとうございます。
お役に立てる内容であればとてもうれしいです。池袋まで来ていた大宮のD51があったのですが、駒込の白黒写真をぎりぎりで挿入して済ませてしまいました。
両国のC57の客レの後、高尾山の初詣用の臨客で昭和45年のお正月にD51が八高線を走ったのですが、こちらは臨時ですから省きました。