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愛媛出身ですが 海外に出て30年になります。四国の歴史を知れば知るほど 魅了されます。私の故郷は佐田岬ですが(昔 このあたりは 神山県でした) 猿田彦大神から採られた地名で 古代の祭祀の形跡も残ります。海外の人に 日本のどこから来たのかと問われると 四国だ。日本の聖地だと答えています。とても興味深く拝見しました。
@hjnmylove さんそうですか。30年も海外に、羨ましくありますが、一方大変だったであろう事を想像します。愛媛の神社を今回初めて調べましたが、素晴らしい神社が沢山ありました。また日本に戻られたら神社巡りという楽しみがあると思って、お仕事頑張って下さい。お身体ご自愛ください。そうですね。四国は日本の聖地だと私も思います。
四国は聖地と思っている人々が歴史から抹消しているのではないでしょうか?神武東征 など明らかに四国を避けているとしか思えません。あとの天武天皇が白村江で百済救済にいったとき松山に3か月も滞在して軍備を整えて、額田王が潮待ちの歌を歌ったのに、通過なんてありえないと思います。工学博士芸人 遼子規キンジロウ
11ヶ月振りに日本に帰っています。明日 大山祗神社に初めてお参りします。楽しみ!!!
1度や2度視聴しても安心できないほど情報量が多すぎます。驚きと共に尊敬しております松山出身の両親の介助で8年ほど生活していますが親の故郷という事で幼少の頃より夏休みになると訪れていたので四国主役の動画は大変に興味をそそられます普段、コンピュータやオーディオに余暇を費やしているので歴史などの分野は聞き齧りなんですが理解できるようリピートさせてください聖徳太子が道後温泉に訪れたとか愛媛にも古墳が点在しているとか、謎の解明となるかもと期待していますこれからも頑張ってください、チャンネル登録しましたw
@user-su1jr3op7c さんご視聴・コメントありがとうございます。松山がご両親の故郷なんですね。素敵な所ですね。今回初めて調べたので、まだまだ調べられていませんが色々と謎が多いです(笑)介助大変かと思いますが、ご自身のお身体もご自愛ください。動画が息抜きになってくれれば幸いです。
凄い動画です。感動しました。力作です。私は香川出身ですが、四国の地名と神社でこんなに面白くさせていただいたのは、はじめてです。ジグソーパズルのピースがはまるように1-9代まで四国に、はまっていくのは、圧巻です。なお、古事記上は、四国と阿波の話と思いますが、下から平城京遷都までは、朝鮮半島との闘いの歴史でもあり、おそらく、古代讃岐が、軍港、中継地の港の役目があり、仁徳天皇、大化の改新の孝徳天皇、その後の藤原氏などは、讃岐に強く関わっていたと考えております。その痕跡を定年後、じっくり調べてみようと思っております。
@TA-xc7ib さんご視聴・コメントありがとうございます。楽しんで頂けたみたいで、それが一番うれしいです。そうですよね、仁徳天皇の痕跡は、讃岐でも見られました。ぜひ痕跡を追って頂き、また情報共有して頂ければありがたいです。
香川県の方であればもう少し冷静に。坂出の埋蔵文化財センターか玉藻城隣りのミュージアムで専門家にお話を聞いてみてください。一次資料や発掘調査の結果が全てです。どちらも懇切丁寧に教えていただけますが図書館で過去の発掘調査などを読むだけでもここに書いてあるような説がいかなるものか分かるんと思います。
檮原町取り上げていただきありがとうございます。昔から神の里と言われるくらいなんとなく不思議な町です。
@jacko8029 さんご視聴・コメントありがとうございます。檮原の方ですか。勝手に仮説たててしまい恐縮です。そうですか。神の里ですか。いいですね~私も、いつか訪れたいと思います。
昔四国を一周した時に何故か梼原に行きました。何も無いのに豊かな感じがする不思議な地域でした。欠史が四国にあるというのは真実のように思います。
@cheri-kichi さんご視聴・コメントありがとうございます。四国一周したんですね、それに檮原にも行かれたのですね、良いですね~
梼原で一番のおすすめは図書館です。梼原に住んでる人達が羨ましくなるほど素敵な空間でした。
四国にも海辺から山頂まで古墳があるから、何かしらの文明があった事は間違いない。
@Eilanya1945 さん、ありがとうございます。
すごい。研究論文のように調べてますね。最後のユスハラはワクワクしました。
@tfujisawa2628 さんご視聴・コメントありがとうございます。ワクワクして頂き、嬉しいです。仕事の延長線上で調べものしていた感じです(笑)
こんにちはこの動画製作大変だったでしょう。勉強になりました。ありがとうございました。
はい、1か月以上かかりました(笑)いえいえ、いつもGPWさんの動画で勉強させてもらっています。あと途中でGPWさんの田村神社の動画紹介させて頂いてます。事後報告になり、すみませんm(_ _)m
@@right-post ありがとうございます。見ました。2時間くらいで台本も無く製作している、自分の動画が恥ずかしい!
@@gpwjeep2323 いえいえ、現地の情報はとても貴重です。私はいつもGPWさんの動画楽しみにしています。
香川在住です。四国にも王朝があった説に賛同してたので楽しい1時間でした。
@FX-NaoGii さんご視聴ありがとうございます。楽しんで頂き、何よりです。楽しんで頂ける事が、一番うれしいです。
これは保存版ですねv
ありがとうございますm(_ _)m 調べるのに時間かかりました(笑)
@@right-post そやろうね、すごいですv
はじめまして。高知県出身&在住の者です。幕末が大好きで昔色々調べていた頃に知ったことなのですが、土佐勤王党以前に土佐には庄屋連合みたいな組織があって、庄屋身分だった中岡慎太郎や吉村寅太郎の家も連盟していたようです。この庄屋身分の中から多数の勤王志士が誕生した理由に「土佐の他は天皇の土地で、その土地を預かり農地を開拓していった農民(庄屋)は天皇の民であって、けっして徳川の民ではない。」という考え方があったからだと読んだことがあらました。こちらの動画を見て、そのことを思い出してなんだか熱くなりました(笑)歴史ってなんて面白いのでしょう!
@user-rs9bg8qh5b さんご視聴・コメントありがとうございます。情報もありがとうございます。土佐の地には、何代かの古代天皇の痕跡があるので、それを知っている者は、きっとそう言いますよね。本当歴史って面白いですね
高知県高岡郡梼原村の母の実家で生まれました。実家は現在も従妹の子供が住んでおります。子供の頃に、両親と共に大阪に引っ越し60年が経ちましたが、自然豊かな梼原で過ごした日々の楽しい思い出は、私をいつでも幸せな気分にしてくれます。梼原を取り上げてくださり、ありがとうございました。
四国の動画ありがとうございます。勉強になります。今後とも楽しみにしていますので宜しくお願いします。
@yn4194 さんいつもご視聴・コメントありがとうございます。こちらこそ、よろしくお願いします。
9代まで、阿波周辺だとは思ってましたが、これほど四国全体に痕跡が分布してたとは。四国八十八ヶ所のお寺の地図みたいです。四国は昔、山つながりで一つだったということだと思います。県境とか関所とか無いですしね。四万十市と徳島市は四国山地を通る国道があるらしいです。神武東征の四国山上ルート説。大発見かもです。
@akiraooq8498 さんコメントありがとうございます。本当ですよね、動画の中では言いませんでしたが、調べた結果を見た時、「お遍路だな」と思いました。
発掘で出てくる埋蔵物や文化圏、文献からも四国はそれぞれが違っていますよ
そもそも違いの話をしてるのではなく、共通の話をしたつもりです。四国八十八ヶ所が四国全体に分布してるのも、文化だと思います。文化圏には、海つながりや川つながりがあることは承知しています。けど、四国は一つの島なわけですから、山つながりを無視することはできないと思うんです。
古代は街道が山の尾根の上でした。とくに倭国大乱の時期は高い場所に住み、高い場所を移動したと思います。実際に1000mを超える山脈の尾根に沿って道があり、道に沿って神社や磐座が点在しています。もしそのころ吉備の勢力と争っていたのなら、瀬戸内海の四国側は吉備に対抗する勢力にとって対岸の重要な拠点だったと思います。
倭国大乱で、天皇や姫が讃岐山脈を越えたと思います。讃岐山脈に、五名という地名があります。5人の家臣が、徳島側から攻めて来る勢力から防衛してたという伝説があることを聞きました。五名は、倭の五王かもしれないと思います。
凄いですね。ビックリ致しました。愛媛県伊予三島出身地です。只今、東京ですが、古事記と何か?ご縁があると思っていました❗ 配信ありがとうございます‼️
@kalenselene4456 さんご視聴・コメントありがとうございます。故郷、素晴らしいところですよ。帰省されたときには神社にお参りに行ってみては如何でしょうか。
@@kalenselene4456 今日井川神社攻略してきました。一見だと車で登るには勇気のいる高い山の中でした。凸凹で勾配もきついので四駆か軽トラは必須かも。廃村の神秘性もカンじることができます。しかもその廃村、どうやら弥生時代から高地性集落としてあったみたいです。その辺りに多い河村さん、井川さん、猪川さんがこの村発祥であることがわかりました。神代の時代からあったものと思います。河村さん井川さんが神武天皇の息子である綏靖天皇の兄弟神の名前から来てたなんて発見です。
@@kalenselene4456 また、麓にミミガミ様の祠があり、穴を開けた多くの石を祀っていました。かむやいみみ、かむぬなかわみみの名前からみみ神信仰があったようです。
@@kalenselene4456 あと、井川神社の末社に天皇宮と言う祠がありました。近くの山中の祠をまとめたものだと思いますが、興味深いですね。
@@TheKzit1969 えっ近くに有名な大王製紙の創設者は井川と名乗ります。あの有名なティッシュ、エリエールです‼️大企業です‼️
初めて視聴させて頂きましたカタカムナの中に四国の地名が4つ共出てくるのが不思議で不思議で、なんだろうと気になっていたのですが、四国の神社がこんなにも調べ尽くされていて感激です💕ありがとうございます。凄い情熱を感じます。少しずつ回ってみたいと思います。先ずはノート、ノート💦これからも頑張って下さいね😊
@user-vl5fw4hv1o さんご視聴・コメントありがとうございます。カタカムナに四国の地名が出てくるのですね。神社や古代史への興味や情熱への一助になれば幸いです。
神社ねこさまありがとうございます🌸カタカムナ第33首カムナガラ エヒメ サヌキヂ アワトサヂ アメノオシコロ オキミツゴ ツクシトヨワケ ヒノクニクマソ イヤシロ チバイキツサキヨリ イヤシロコトサトリ久しぶりに神旅さんのカタカムナを聞いて癒されました☺️音だけなら他の首でもアワはよく出てきます。それが阿波なのかアとワでそれぞれ意味があってなのか..又知りたい部分です😸💕
@@user-vl5fw4hv1o さん、ご丁寧にありがとうございます。カタカムナも興味深いですね。
私もカタカムナを初めて聞いた時に、四国?なんで?いやっ!なんかある!って思ってました😊阿波の國在住です。
大作ですね❣流石、神社ねこさんです😍僕も講演では「四国において欠史八代は決して欠史ではないのです。」とダジャレを言っています😂トテモ面白いです、挙げていただいた神社も他県は1/3ぐらいしか行けてません、徳島県は1200強はお参りしているのでほぼ理解できました。これからも、益々精度を上げていってください、期待して待っています❣それから、気になったことが1つ🙄新居田神社は県内各地に在ります、恐らく高知からの移入ではないかと・・・祭神の統一性は見られませんが。阿波国神社研究会拝
@user-mt1kv6fz8o さんご視聴・コメントありがとうございます。私も欠史は決して欠史ではないと言っています(笑)はい、仁井田大明神こと高岡神社の由緒に仁井田七郷六十八村の総鎮守と書かれていましたので昔はきっともっと多かったのと、その氏子さん達が広がっているのかなと想像します。また私が調べた昭和9年著の高知神社誌も仁井田神社には祭神不詳も多くありました。徳島県の1200強の神社お参りしているのですね、すごい!はい、精進して精度あげていけるよう努力いたします。中川さん、阿波ヤマト財団の設立パーティーのチラシに写真が掲載されていましたが出席されますでしょうか。もし、出席されるのであれば会話させて頂ければと嬉しいです。個人的にですが、鳴門の神社で一つ気になっている神社がありまして…
@@right-post さん お招きいただいておりますので、一応出席予定です❣お会いできるなら楽しみですね🥰今週、鳴門古事記の依頼で、阿波井・妙見・葛城の瀬戸・北灘町を案内します😅何方の神社が気になりますか❓鳴門地域はは古代には大津・大麻まで海が入り込んでいたので山際には由緒のある社が多いですが・・・🙂
@@中川洋作 さん出席されるのですね。お会いできるのを楽しみにしております。阿波井神社行かれるんですか、良いですね~。羨ましい限りです。すみません、本当に個人的なので、分からなかった分からないで大丈夫です。鳴門町の高島にある高島八幡神社の歴代宮司を調べたくてもし宮司さんとか氏子さん等で、お知りあいの方がいましたら教えて頂ければと思った次第です。自分でもいつか訪れてみようと思っていますので、分かったらで大丈夫です。理由は、お会いした時話させて頂ければと思います。maps.app.goo.gl/iKpaxyXni8qYgRZZA(Googleマップを見ると、宮司:中條さん、氏子総代:橋本さん)
四国幡多には孝霊天皇系よりも大国主を主祭神とした白皇神社が多数存在します。ヤマトとイズモの支配の変遷が気になりますね
@kokoriri2168 さんコメント頂きありがとうございます。まさに私も、白皇(白王)神社が気になっています。高知には、白皇(白王)神社、仁井田神社、河内神社が多数あり、とても興味深いです。いつか白王神社も調べていきたいと思います。もし何か情報ありましたら教えて頂けますと嬉しいです。
@@right-post 返信ありがとうございます。四万十市には国見という駅名、下車すると楠島(九州島)という地名に飯盛神社、三宝荒神神社が鎮座します。四万十市は土佐一条氏が有名ですが方言的に九州、筑前から安芸、伊予系統が強く、豊後水道をルートとして移住してきた民族ではないかと考えております。四万十市からは七星剣の出土もあったりします。この幡多地区の足摺岬、唐人駄馬にはかつて大規模な環状列石群があったと伝えられておりますが、教育委員会によって公園に変えられたとされており…まあロマンいっぱいな土地です。
@@kokoriri2168 さん情報ありがとうございます。幡多地方は、すぐにはでないですが、調べて行こうと思います。
@@right-post ありがとうございます。是非に調べてみてください。ここからは私の妄想なので読み飛ばしてください。四万十町(旧窪川)の仁井田神社には牛鬼の祭りがあります。四万十市半家天満宮にも同様に牛鬼の祭りがありますね。牛鬼で有名なのは宇和島、そのあたりから白王→白皇神社は南下するに従い増えていっているように思います。話は逸れますが土佐一条氏(藤原氏)の支配によってどうも元々の神々ではないものが祀られている様子がある…と妄想しております。四万十川に沿うように天満宮はありますが.その中に鳥身龍首の魔除け、十六葉菊花紋の意匠をもつ瓦の天満宮があります。が、例大祭などで飾られるのぼりには梅花紋が描かれており、どうも違和感がある。天神社、星神社などの神社も高知県には多くあり、元々天満宮というものはもっと別の役割ではなかったか。そんなふうにも思います。長々と失礼いたしました。
ハンターですね。凄いです。鉱脈を探し当ててるように凄い!応神天皇〜雄略天皇までも御願い致します😊
目から鱗さん、ありがとうございます。今回1か月以上かかり、かなり疲れました。前回の研究会の時にも、ニギハヤヒと同時にすでに調べ始めていたのに今やっと公開です(笑)仁徳天皇はあちこちに痕跡があるのですが雄略天皇は、まだ見ていないですね。また、時間と気力がある時にですね。でも次は、軽いのにします。
ワクワクできる動画作成しUPして頂きありがとうございました!神社ねこさんの切り口が私にとっては新しく楽しいです。「もう一人の天孫降臨」ニギハヤヒを拝見した際にイワレビコが東征したとしたなら「伊予の二名島」からだと予(夜)の辺りからになるのかなと想像してみてたのですが、今回の神武説面白かったです(笑)欠史八代が核論なのに申し訳ありません。イワレビコが日に向かうのを避け、長国と言われていたであろう阿南市の半島から迂回し、八重事代主とイワレビコが結びき結果として高天原の統治権を手中に収めたのかなという妄想が繋がりました。幸せな時間でした。ありがとうございました(^^)/また気のせいか、竜馬の声も聴けたことに感謝しています(笑)
@maosama6035 さんコメントありがとうございます。楽しんで頂き、嬉しいです。鋭いです。私はニギハヤヒが、豫(愛媛か高知)に最初降りているんじゃないかと思ったんです。愛媛と高知に河内神社というのが沢山あるので、ニギハヤヒは最初河内に居りて、その後東へ移動して、色々あって最終的な居住地を冨家村のあたりにしたのではないかと想像しています。龍馬の声が聞こえましたか!凄いです(笑)
@@right-post 「河内(こうち)」神社ともよみますもんね(^^)/場所は高知ですし!!高智神社も愛媛県と高知県境にあるようです。文献上の高智保(たかちほ)のひびきありです。妄想です(笑)伊豫には国津比古神社もあり物部の痕跡もたくさんあるようですね。味耳命の考察は共感できます。東予に古代からの地名で宇摩郡があります。「ウマシマジ」もしくは神代「ウマシアシカビヒコジ」どちらも関係性はあると思っています。瀬戸内海地域に限定されてしまう「平形銅剣」の出土領域が大きなワクワクのカギになると秘かに思っています(笑)銅剣、銅矛及び銅鐸の領域との共存領域になってるようです。興味がありましたら覗いてみてください。では、ちゅーるタイムがきてしまったので失礼いたします。(^^)/
愛媛県の地名・氏名の呼び方が多数誤っていますよ地名だと味酒(みさけ)・松前(まさき)氏名だと河野(こうの)です
@user-mv4lo8ve3o さんご指摘ありがとうございます。四国の地名や名前の読み方、間違えている箇所があると思いました。概要欄の正誤表に記載します。他にもありましたら教えて頂ければ助かります。
バブル期生まれの通りすがりの者です。間違いないと思いますが戦前には少し裕福な家には家系図を作れるような商売があったと思います。なぜかというと自分の親は長男ではないですがこの話を生前よくしていました。嘘っぽい話で信じていませんでしたが別の家に行ったとき同じ話をされたんですね。。。うちと同じ先祖の話。。。おどろきました!!先祖は10代崇神天皇。四国での逸話がたくさんあって蜂須賀が出てきます。最近四国説を見るにつけこの話をちゃんと聞いておけば良かったなと思います。この先祖の話は四国が始まりでしたね。。。。
初代長国造(徳島県南部) 観松彦伊侶止命(父:事代主)と、孝昭天皇("観松彦"香殖稲天皇)の関連性までは推測してましたが、まさか欠史八代全てとは…
@user-jr5uq2ms5x さんご視聴ありがとうございます。私も調べてみて、こんなにも沢山の痕跡、そして輪郭をもって現れるとは思いもしませんでした。
素晴らしいと思います。四国に何かしらのピースがあるのは間違いないと思ってはいましたがここまで具体的なものははじめてみました。そして思ったのですが欠史八代の拠点を見ると綺麗にエリア分けされてますよね。記紀は同時代の人物をあたかも何世代にも繋いでるように見せてるのはと疑うことがあったのでとても腑に落ちました。
また私はDNAのことを結構調べているのですが、大和朝廷の中心だった近畿にO(渡来系弥生人)の遺伝子が多いのは当然だと思う一方で四国のほうがさらにOの比率が高いのが気になったんです。(元々私自身が少しだけ四国に縁があるので気になったのもありますが)古事記の国産みの順番(淡路→四国)もあながち適当ではなく、長江文明に由来した民族(百越)が漢民族の南下の影響で稲作と共に渡ってきた、それが四国だったのかなと最近考えてます。そのあとも渡来系が次々渡ってきたように思うのでスサノオが暗号を解くような物語になってると思うんですよね。また中国の古代少数民族にはアニミズムや倭でよくいう刺青文化も見られたりと共通点探していると結構面白いです。
@user-wl9sh2tz4z さんご視聴・コメントありがとうございます。DNAの話も刺青文化も面白いですよねまた神生みの順番が大切なのと同様に、私も国生みの順番は重要だと思っています。oizumir1992さんが、色々と調べていった事で新たな発見などあれば情報発信して頂ければと思います。ぜひ見させて頂きたいと思います。
(檮原と同じ読みの)豊後一宮の一つ柞原八幡宮が大分市にあります。大分市の佐賀関港には龍馬が上陸し長崎へ向かったとの案内があります。また伯耆國(鳥取県)の妻木晩田遺跡の近くには孝靈山もあり、日南町には孝靈天皇を祀る楽楽福神社もあります。武蔵一宮の氷川神社(埼玉県)の創建が孝昭天皇3年。四国周辺の神社分布も見渡すと欠史八代の謎が解けるのではないかと思います。欠史八代は異なる平行して存在した各地の複数の王朝を時系列を弄って接合した、萬世一系の皇統、婚姻による女系で繋いでいるかと思います。欠史八代を研究された書籍が殆どなく、前回のコメントに続き恐縮ですが、佐藤洋太氏第2作のかぐや姫と浦島太郎の血脈(表紙の印象と比べ、神社神名人名論拠が膨大で難解)にもこの時代の四国についての言及があります。
@wa33785 さんコメントありがとうございます。柞の字で檮原八幡宮なんですね。この神社、初めて知りました。確かに稚武彦命は、姉の百襲姫に会いに度々吉備から香川に海を渡っているとありましたので大分も、そして四国周辺の神社にも痕跡ありそうだと思っていました。佐藤さんの「かぐや姫と浦島太郎の血脈」面白そうです。読んでみます。
1日のセミナーができる内容ですね。よく調査されてますよね。1回や2回動画を見ただけでは理解しきれないです💦 何度も見返したり、自分でノートをつけたりしながら勉強しようと思います。欠史八代とかいうタワゴトを誰が言い始めたか知りませんが、物語がないというだけで記紀や実在の神社が存在するのに無いと片付ける議論は、暴論のそしりを免れないでしょう。神社ねこさんの今後のさらなる研究の進展を期待しています。
@Masaaki-Ito さんいつもご視聴頂きありがとうございます。今回のは長すぎですよね。作ってる途中で、この神社の羅列は面白いのかと、少し心配しながら作っていました。でも皆さん楽しんでくれているみたいなので、ホッとしました。伊藤さんのコメントに古代史への情熱を感じてます。少しでも役に立てれば嬉しいです。
香川の善通寺町には、りっぱなこふんがいくつかあるので、もしかさたらてんのうのおはかではとおもったことはありました。
@user-fi7ro7iq3b さんご視聴・コメントありがとうございます。そうですよね。香川県も古墳多いですものね。調べてみたらいかがでしょうか。戸田さんの興味の一助になれば幸いです。
徳島県東三好町昼間の綏靖天皇を一柱を祀る若宮神社、式内社天椅立神社もある興味深い所です。歩いて行けるほど近い吉野川の川向は井川町、面白いですね。お兄さんのカンヤイミミの所領は古都の隣で古都に比較的近い予の国ミシマ(愛媛)だったのではないか、子孫は東予中予南予と広がっていくたび先祖を祀ったのかなと想像を掻き立てられました。伊香色謎命は(伊加加志神社(徳島県吉野川市川島町)式内社)開化天皇の皇后であり、孝元天皇の妃ですので、孝元天皇の痕跡とも言えますね。仁徳天皇が遠征地で没した吉備津彦将軍を出征地であり故郷の皇祖の地である倭の国(イの国、現在の徳島)に祀って差し上げた話は、情が深いと伝わる仁徳天皇の伝説を物語っていますね。ありがとうございました。
@YES-dp2dy さんご視聴・コメントありがとうございます。吉野川の川向は井川町なんですね。確かに興味深い。Yesさんの言う通り、伊香色謎命は孝元天皇の妃にもなりますので孝元天皇の痕跡(讃岐と阿波にある痕跡)ともいえます。補足頂きありがとうございます。
50:04まとめ53:00神武天皇について興味深い仮説
系譜を見て名前をジーっと見てると、だんだん繋がりが見える時あります。女系が鍵な気がしてきました。大日本根子彦太瓊尊、からの崇神天皇と彦坐王からの分裂がポイントだと思うんですよね。からの鹿島神宮が繋がると良いんですよね。面白かったので、イイね登録しました♪
大変興味深く拝見しました。香川県 田村神社、一宮寺(さぬきいちのみやじ)の所在する一宮には『の』の字がありませんが『いちのみや』と読みます。日本語は難しいですね。香川県からは「村」がなくなり、熊野権現桃太郎神社の住所は、高松市鬼無町鬼無(きなしちょうきなし)となっています。
古事記の漢字を丁寧に調べられて、白川静先生の「字通」で調べられたところに感激しました。私も白川先生の文字を学ぶことから始めています。
@yorikoono2943 さんご視聴・コメントありがとうございます。細かい所に気が付いて頂いて、嬉しいです。ありがとうございます。字通面白いですよね。
詳細な調査ありがとうございます。関裕二先生がやはり神社から古代の神を追っていますね。欠史八代に関しても実在したであろうと。私も同意見です。投稿主さんがおっしゃるように、八代の天皇はいらして、記紀編纂時にはそれを知る人々がまだいたので無視することが出来なかった、事績の顕彰まではしたくないので記述が少なかった、ということだと思います。戦後の研究者が言うように天皇家の家系を権威ずける為の創作なら逆にもっと話を盛って褒め称えればいいし、年齢が人間離れしていて不自然なら何人か足して辻褄を合わせればいい、捏造ならもっと巧く書けた筈です。実在したからこそ書きたくはなくても書き留めておかざるを得なかったというのが正解だと思います。
二ューヨークで拝見させて頂いております。素晴らしい力作だと思います。続きが楽しみです。で、なんですが、沢山の地名が出て来たので、仕方のない事なんでしょうですし、松前藩の所為でそう言う読み方になりがちなんでしょうが、少なくとも愛媛県の松前町は、「『まつまえ』ちょう」ではなく、「『まさき』ちょう」です。揚げ足をを取る様で、申し訳ないのですが、気になったので書き込みました。
@Kenjixny さんニューヨークからご視聴ありがとうございます!そうなんですよね、読み方って気になりますよね。すみません。なるべく間違えないように気にはしているのですが、四国の各地の読み方かなり苦戦しています(>_
@@right-post さん、完璧にするのは、非常に難しいと思います。本なら漢字で書いて了えばそれで終わりなんですけれどもね、動画にすると読みを入れないと行けないので、これだけ変わった地名が出て来れば、本当に大変な作業だと思います。頑張って下さい!
私のおおばあちゃんがゆすはらで子どもの頃よく行きました、また行きたくなるな😊
勉強になります。(細かいが・・)三島市は今は四国中央市、伊予神社で松前の読みは「まつまえ」でなく「まさき」 テーマとは違うのかもしれないが、古事記でてくる「愛比売命(えひめのみこと)」は言ってほしかった。主祭神 彦狭島命社格等 式内社(名神大社)主祭神 彦狭島命(孝霊天皇の息子)配神 愛比売命(えひめのみこと)伊予津彦命(いよつひこのみこと)伊予津姫命(いよつひめのみこと)日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)細姫命 速後上命(はやのちあがりのみこと) 孝霊天皇の息子、娘が、伊予、讃岐、吉備にいたので注目している。
コメント・ご指摘ありがとうございます。今回の動画で、かなり色々な地を紹介したのですが読み方間違えがありそうだなと思っていましたので助かります。概要欄の正誤表に記載します。
あと、伊予では、伊予津彦命(いよつひこのみこと)は饒速日といわれている。伊予津彦命など名前としてはおかしいですもんね。伊予を統治した人とのこと。
最近、初めて愛媛県に遊びに行って、エミフルMASAKIという立派なショッピングモールに買い物に行ったのですが、MASAKIって人の名前が何かと思ってました😅初見殺しの地名って絶対何かありますよね😄愛媛では前々から気になっていた大山祇神社と阿奈波神社へ参拝に行きました。阿奈波神社は数年前の台風の影響?で社が傷んでいましたが、ものすごく優しい気で包まれる様な感じがしたので、ここに祀られている岩長姫(石長比売、磐長姫)はきっと、心の優しい神様だったんだろうなと思いました。途中の鶴姫の像も感慨深いものがあります😄誰かクラファンで阿奈波神社修復の募金募ってくれないかなぁ
@@satokatsuUT さんコメントありがとうございます。四国の地名は、独特で、動画を作るたびに、読み方を間違えています😅なるべく読み方間違えないように心がけていても、それでも、やはり読み方を間違えをしてしまいます。本当ですね、四国の神社は、どうしても管理が行き届かない神社があるようで豪華にする必要はないのですが、壊れた部分をなおしたり、雨風をしのげたり出来るようになれば有難いです。少しでも多くの方に実情を知っていただき、各県や各県の神社庁などが修理して頂けると有難いのですが。
素晴らしいです😊かなり興味深いですね。私は愛媛にいますので紹介されていた神社を参ってみようと思います。ちなみに、たるみ町と読みます😊
@user-rj5um3nb2v さんご視聴ありがとうございます。良いですね~。是非参拝して頂けたら嬉しいです。何か情報ありましたら教えて下さい。あっ、読み方間違えていましたかね?
とても分かりやすく、よくまとめられたと感心しながら視聴させて頂きました。チャンネル登録して新たな情報を待ちますね👍
@shinw2022 さんご視聴・コメントありがとうございます。今回は力を入れて作りました。はい、気長にお待ちください(笑)
面白くて、楽しく拝見しました。他の歴史的知見にも通じる、画期的な所見だとおもいます。
@user-bn4pl7ln3k さんご視聴・コメントありがとうございます。楽んで見て頂けたこと、それが一番うれしいです。
ご返事ありがとうございます‼️ どういうわけか❓天照大御神様の絵画を描くようになりました。叔母さんが、四国、神宮と言う地名出身地だと聴いています‼️絵画や、ユウチューブ等で世界に発信したいです。
@kalenselene4456 さん叔母さんが神宮という地名なんですか。凄いですね。神社や記紀の神様を、多くの人に知って貰らう活動頑張ってください。応援しています。
藤岡信勝先生の歴史講座で欠史8代について話されてました。
藤岡先生の動画見させて頂きました。
有り難うございます。何かヒントになればです狛犬が好きなネコさんに期待してます。
奈良でいくら探してもわからないのと、違和感だらけの天皇陵だけがポツンとある不自然さの謎が解けました。間違いなく四国ですね。
@user-xi5oc7xb9i さんコメントありがとうございます。そうですよね。私が調べるのも、いつも違和感から始まります。
詳しく、ありがとうございます。どれも物部忌部絡みの天皇かなと思います。物部忌部は阿波から安房へ向かい、開拓をした。まず、四国を拠点にしたという事なのかも。記紀を出雲口伝やホツマツタヱなどと照らし合わせて、読み解いているのですが、出雲口伝では、神武天皇=天村雲命で、宮崎と東海(尾張)との関係が考えられます。耳が付くのは、九州南部や琉球。天村雲命は高倉下(オオヤマツミ・三島)と久米の娘。神八井耳命は大彦(越/北陸治人)・大伴氏(天忍日命)とも考えられ、神沼河耳命(綏靖天皇)は武渟川別(阿倍臣祖・ホツマ/東海治人)で、奴奈川姫との関係が考えられる。越の奴奈川姫の息子は、諏訪の建御名方神。大彦と一緒に行動したのは大山祇を祀った三島なので、三三島の一つがある愛媛が綏靖天皇絡みなのは分かる気がします。綏靖天皇は大彦と三島の皇子。綏靖天皇の皇子の安寧天皇の浮孔宮はどこだろう?と思っていましたが、愛媛の浮穴郡かもしれませんね。大彦の祀った積羽八重事代主神の金比羅宮が何で四国にあるのか?と思っていたのですが、理由が分かった気がします。祀られたのは先祖や信仰していた神で、祀っていたのは、その子孫。祀る側と祀られる側を分けて考えないといけません。ホツマツタヱによると、積羽八重事代主神は、弟の建布都と共にイフキの宮(金比羅宮)にて四国24県を治めた。イフキの宮、アスカの宮(奈良)と住み、阿波→ハラ(静岡)→ミシマ(大阪)→ハラ(静岡)→ ミシマ(大阪)→ 伊予と移動したようです。大神神社の大物主大神は、積羽八重事代主神、または息子の天日方奇日方命と考えられ、母神は刺国若姫命で、刺国とは鹿児島の指宿辺りのことです。
キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!! 阿波説を追いながら、阿波になんかあるのなら、四国全体、瀬戸内にになんかあるだろうなあ・・・とずっと思ってます。吉備・モモソヒメ・讃岐は確実にワンセットです。物部(物部川・物部村)だらけの高知ですが、その物部村、市町村合併で今は香美市ですが。「かみ」市ですw そこに神がいたから。そこに鏡があったから。かと。わくわくして眠れません。 今後の考察も楽しみにしています!ちなみに「仁井田米」は高知で一番おいしいブランド米です。檮原の下流が産地。良い場所ってことですよね。
@user-vs7ej4vp1w さんご視聴・コメントありがとうございます。地名は大切ですよね。特に、四国・奈良・京都といった皇室がおられた場所の地名は大切です。(タモリさんがブラタモリで言っていましたが、地名は効率化などで変えてダメだと。)仁井田米は気になります。今度購入し食してみます。
@@right-post さん ご返信ありがとうございます。ついでについでに、高知市のど真ん中を流れる川は「鏡川」(笑)昔は「鏡村」(現在は高知市)という地名もありました。そして「紙」の名産地の伊野はすぐ近くです。仁井田米はにこまるがおすすめです。報告は以上ですw
@user-vs7ej4vp1w ニギハヤヒを調べている時に香我美町を見ました。カガミですね。ご丁寧にありがとうございます。にこまる、了解です。
高知県民です。香美市は八咫烏にも繋がっています。私は子供の頃、ひいばあちゃんの故郷の高岡郡加茂町に遊びに行ったり、現在在住の場所の近辺には、一ノ宮神社と星神社があります。土佐神宮にも何度か行きましたが、土佐神宮は女性の神様だと聞きましたが本当かわかりません。ただ、女性の神様だから彼氏とお祭りに行くと、別れると言うジンクスがありました。😂四国からカタカムナが発見されており、カタカムナを調べていた専門家は、皆さん変死で亡くなられています。カタカムナの58音は、四国のアワ、サヌキ、イヨ、トサの地名が入り、陰と陽を表されていると解釈されている方がおりました。アワとサヌキが陽で、イヨとトサが陰です。四国に居ながら益々、四国を知りたいと思う日々です。勉強になりました。ありがとうございました。
@@cheesecakestrawberry-ki7mw さん 私も香美市の辺りに八咫烏を感じます!奈良から土佐じゃなく、土佐から奈良だと思います。いろんなことが。八咫烏、今はあんぱんまんとして子供たちの見方です。それでいいのかもしれませんが、ホントのこと知りたいですね。
ミマキとイクメについて深掘りしてください。
@gingingingingin さんご視聴ありがとうございます。いつか、調べてみたいです。
伊予郡中山町は現在伊予市中山町ですね。出淵いずぶちです。
綏靖天皇を祭神とする社は、高岡市「有礒正八幡宮」、磯城郡「多坐弥志理都比古神社」など、数社ありますね。
@user-rx8xg7ql3l さんご視聴ありがとうございます。綏靖天皇と神八井耳命は、全国に幾つかあるようですね。
お見事。神武東征の際に四国の記述が無いので不思議だったのですが、四国は当時最強レベルの海運力があったはず。水神が多いですね。出雲の婚姻同盟ほど強固ではないながら緩い同盟だったのかも。協力した四国に王権を名義貸しみたいに分けた気がします。統一された政体ではなく古代ギリシャのボリスみたいな関係だったのかも。
@wbgu1561 さんご視聴・コメントありがとうございます。四国には、水神・山神など記紀に現れる神が式内社として多く祀られています。そうですね、古代四国は列強国の1つなはずです。
綿密に調査された労作に感服致しました。神武天皇に関する白何とか宮という漢字が記紀に出ているのでしょうか?また、大彦という名は出雲口伝でも有名なので、物部東征との関連も知りたいですね。
@UnknownUnknown-nx7ov さんご視聴・コメントありがとうございます。白檮原宮(かしはらのみや)ですね。古事記はこの字です。kojiki.kokugakuin.ac.jp/kyuto/unebinokashiharanomiya/大彦は、そのうち触れるかと思います(崇神の御代で)
@@right-post ありがとうございます。待ち遠しく大いに期待しております。
@UnknownUnknown-nx7ov さん崇神の御代で四道将軍として大彦がおりますので、そこで触れる予定ですが物部東征は出てこないのです。期待頂いたのにすみません。
@@right-post 何が真実か? そこに肉迫して頂ければ満足です。😅
ちなみに先日ごしゃ神社お参りしてました😊今は久万高原町となりました。おんせんぐんも私がこちらにすみだしてからは東温市になりました。😊😊
@user-rj5um3nb2v さんご視聴ありがとうございます。またご参拝ありがとうございます。皆さんが神社に行く切っ掛けになれば幸いです。因みに、ごしゃ神社は、房代野にあるごしゃ神社でしょうか。私が調べた神社誌が、昭和49年と古く名前が変わっているんですよね。
ウマシマジもあるけど宇摩説という物でウマシアシカビヒコヂが言われていた。三島市豊岡町と言っていた場所は合併で四国中央市になっていて、その範囲が郡県で言う所の宇摩郡に近い。
@user-sf3ps1yj8k さんご視聴・コメントありがとうございます。そうですよね、別天神(ことあまつかみ)のウマシアシカビヒコヂノカミもウマシですもんね。はい、宇摩郡とても気になっているのですが、宇摩郡に、ウマシマジやウマシアシカビヒコヂノカミの神社が、まだ見つけられていないのです。もし宇摩郡にどちらかの神を祀る神社があれば、是非教えて下さい。よろしくお願いしますm(_ _)m
神社はその子孫が移った場所に祖先を祀ることが多いので、その地にその子孫が居た記録があれば、先祖が居たとは言い切れないと思います。ただ、私もこの間、神八井耳命を追って、西条市などを旅し、神社や考古学館などを周ってきましたが、松山から今治、西条あたりはとても気になる場所ですね♪また、高知は居徳遺跡などの戦争の痕跡や鏡川(物部川)と伊加賀色許雄との関係(いかがしって伊+カガシ(蛇)では?と妄想したり)、仁井田遺跡、突如として消えた田村遺跡・・・高知は私にとってはミステリーエリアです♪
@ChikakoKawahara-gr9qn さんコメントありがとうございます。そうですね。ニギハヤヒが天下った地に祀られているのは天忍穂別神社(アメノオシホミミ)でしたので、自身の祖神を祀っていますね。前回のニギハヤヒと今回の欠史八代を調査して、高知は、何か重要な事が隠されているような気がします。白皇神社が数多くあるですが、何者なのか分からないのです。
愛媛の神社とか町誌に綏靖天皇のこととか書かれていたのですが2000年以降徐々になくなってしまった。なぜなのか?
@tomohiroinoue885 さんそうなんですね。2000年以降徐々になくなってしまっているのですね。理由は私にも分からないのですが、確かに佐々久神社にある由緒板にも名前が書いていなかったです。今回、調査に使った愛媛県神社誌は昭和49年に作成されたものでしたので、まだ記載があり見つける事が出来ました。でももしかしたら、欠史八代の痕跡は、欠史となってからは徐々に消されていってしまっているのかもしれません。
高知は古代の信仰の形を残しつつ、いろいろな宗教の体系が混淆しているいざなぎ流神道、特異な神道宗教家など、神社というか神社以前の信仰の形態が確実に残っている土地柄でもあります。
とうとう、出てきだしたのね、こういうのってのが感想です、元徳島県民です徳島にはスサノオの御陵とされてる古墳とツクヨミの御陵とされてる古墳がとあるゴルフ場にありますしスサノオの御陵とされてる古墳の近くには一番最初にスサノオを奉ったとされる神社があってその神社は山の中なんだけどその山を見るように、国道沿いにとある神社がありますねそんで、天照大神の葬式をした神社もありまして、そこは御陵とされてますつまり三貴子の御陵があるってわけです欠史八代だけじゃなくて色々ありますね
@kazenifukarete.ameninurete さんご視聴・コメントありがとうございます。そうですね、阿波には記紀の神代の神様たちの痕跡がたくさんありますね。これから、どんどん真実が見えてくるのはないでしょうか。
井川神社めっちゃ近所でビビった!そのうち行ってみよ!
@tenlightenmentrecords さんご視聴・コメントありがとうございます。愛媛と徳島のどちらの井川神社でしょうか。私は愛媛の井川神社に行こうとしたのですが、たどり着けませんでした。
第二代天皇のところで、住所は松山市味酒町、この地名はミサケマチと読みます😊
@syukeitai6181 さんご視聴・コメントありがとうございます。はい、ミサケマチですよね。ご指摘もありがとございます。一度公開した動画は修正出来ないため、概要欄の正誤表に記載させて頂いております。
ご苦労様でした。今回は大作でしたね。なるほど・・高知に神武天皇の橿原の宮が在った・・という事ですか?面白いとは思いますが、ただ高知県には大和朝廷のシンボルである前方後円墳が一つも存在してないんですよね・・。ですので高知が大和朝廷の版図に収まったのはかなり後の時代になってからではないか? と思うんです。徳島県人として感じるのは四国の中で高知は少々異質で北部とは異なる文化圏であるように思える事です(土佐弁は阿波弁や伊予弁などとはかなり異質)。邪馬台国の敵対国として魏志倭人伝に登場する狗奴国が高知県の事であれば阿波人としてはすごく納得できるんですよね・・。昔から土佐は戦争に強いとこちらでは言われていて、戦国時代には土佐の長宗我部に四国が全部征服されたりしてます(その際に長曾我部は阿波の歴史ある神社や寺を片っ端から焼きまくりました😱)。だから邪馬台国時代も高知にはきっと苦労させられたんだろうなぁ・・と考えてしまうんですね🤕(笑)そういう訳で徳島県民の感覚では阿波と高知は宿敵どうしみたいな感じで、古代においても同胞として仲良くやっていたとはとても思えないんですよ😓
@ernest-tachibana さんコメントありがとうございます。きっと徳島の方々からは、ご意見・ご指摘を頂くと思っておりました。私も古事記の中で、伊豫之二名島の中で一人だけ別(ワケ)である土佐国の建依別が気になっていたのは事実です。ただ前回「もう一人の天孫降臨ニギハヤヒ」で、高知県の神社誌を調べた際に、今まで見た事のない考安天皇の兄「天押帯日子命」の式内社と孝霊天皇こと「ふとに」の仁井田神社が多数ある事を見つけ、欠史八代を調べるなら、一旦フラットに四国全体を調査しないといけないと思い今回の流れとなりました。神武天皇の白檮原宮は、まだ仮説ですので、もう少し調べていこうと思います。ご意見頂き、感謝申し上げます。
@@right-post 西暦107年の委面土国が、高知ではないかと思ったりしてます。
奈良盆地の前方後円墳は欠史8代の時代よりも、新しい時代のもので、10代目以降でしょう。
素敵な動画をありがとうございました😊土佐人ですが、高知市内からゆすはらは遠すぎて行ったことがありません。でもいつか行ってみたいです✨️
@blackcherryblack さんご視聴・コメントありがとうございます。はい、ぜひ訪れてみてください。私も、先日はじめて檮原町を訪れましたが三嶋神社とても良かったです。
梼原の役場の近くにある資料館のような所で知ったのですが、梼原の地に移り住んだ人達を支援したのは愛媛は松山の河野氏でした。河野氏は信長の命を受けて四国討伐にやってきた秀吉の時代まで愛媛を治めていました。河野氏は瀬戸内海の水先案内人であり水軍でした。道後温泉そばにある湯築城跡は河野氏の城跡です。今の松山城は江戸時代以降の家康に任命された殿様の築城したものです。
21:24 霊場=れいジョウ
これ永久保存版ですね。スゴイ力作。お疲れ様でした。畝傍山観測所みたいなものはありましたが、畝傍山自身はないのでしょうか。不思議ですね。欠史八代の天皇を祀る神社は、四国以外ではゼロということでしょうか。私は一度たりとも見たことも聞いたこともありませんが。
@hayek218 さんコメントありがとうございます。畝傍山は見つけられませんでした。名前が消されてしまっているのかもしれません。(名前が消されると分からなくなるのは、映画千と千尋の神隠しのようです)欠史八代の神社が日本全国でゼロかどうかは分からないのですが欠史の八代の痕跡が、まんべんなく残っているのは、四国だけだと思います。(神八井耳命の神社がある事を、他の方の動画でおっしゃっていました。)
何々天皇というのは謚(おくりな)、何々天皇と名付けるようになったのは持統天皇の時代に始まる、聖徳太子というのも謚、令和の今上天皇陛下も上皇陛下もまだ平成天皇とか令和天皇とは言わない。
@kikuaki-fy3og さんご視聴ありがとうございます。そうですね。説明の便宜上、仕方ないのでご容赦下さい。
最後の大胆な仮説が気になりました。時間を見つけて梼原町に行ってみたいと思います。
@takashiido3160 さん良いですね~。私もいつか檮原町に行ってみたいです。何か情報ありましたらぜひ教えて下さい。
カムヤイミミノミコト、『古事記』では伊余国造・科野国造・道奥石城国造・常道仲国造・長狭国造の祖とする。とWIKIにありました。とすると、祖であるカムヤイミミをまつる神社があっても不思議ではないですね。信濃国、常陸国、など他の国の神社には先祖をまつる神社はないのでしょうか?
自分で調べてみたら、常陸には笠間市の大井神社が主祭神、信濃には合い殿神ですが、山家神社がありました。子孫は多くいるようなので彼らが祀ったのでしょう。欠史八代の方々の最大の事跡は日本全国に血統を多く残したことであると、竹田恒泰さんが言っていましたが、なぜか四国に八代をお祀りする子孫が多い、ともいえるかもしれませんね。
@TheKzit1969 さん そうですね。彼らの家系の子孫が全国に広がっている感じがします。つまり欠史ではないという事の表われだと思います。忌部氏・物部氏・海部氏が全国に広がっているのと同じような感じですね。こちらも元は四国だと私は思っています。ちなみに、竹田さんなぜか四国に多いと言われていたのでしょうか?「玄松子の記憶」という、よく参考にさせて頂くサイトを見ると以下の感じでした。(玄松子さんが参拝した神社のみらしく全部が式内社ではないですが。)genbu.net/--「玄松子の記憶」--<2代:綏靖天皇有礒正八幡宮 富山県高岡市横田町3-1-1多坐弥志理都比古神社 奈良県磯城郡田原本町大字多字宮ノ内569神部神社 山梨県山梨市上神内川920宇奈岐日女神社 大分県由布市湯布院町川上2220<兄:神八井耳命多々神社 新潟県柏崎市大字曽地1325大井神社 茨城県笠間市大渕1652阿沼美神社 愛媛県松山市味酒町3-1-1伊豫神社 愛媛県伊予市上野宮神戸郷2485佐々久神社 愛媛県西条市安用512伊達神社 和歌山県和歌山市園部1580於呂閇志胆澤川神社 岩手県奥州市胆沢区若柳字下堰袋48健御名方富命彦神別神社 長野県長野市信州新町水内斉宮3154多坐弥志理都比古神社 奈良県磯城郡田原本町大字多字宮ノ内569嶋田神社 奈良県奈良市八島町320仲神社 三重県多気郡明和町上野字仲畑245宇爾櫻神社 三重県多気郡明和町有爾中679<3代:安寧天皇なし<4代:懿徳天皇櫟原北代比古神社 石川県輪島市深見町40-60乙町<5代:孝昭天皇神田神社 境内 棋神社 滋賀県大津市真野4-7-2<6代:孝安天皇小野神社 境内 安津神社 東京都多摩市一ノ宮1-18-8<7代:孝霊天皇二宮神社 広島県福山市神辺町八尋1203三島神社 新潟県柏崎市剣野町2-18伊豫神社 愛媛県伊予郡松前町神崎字小斎院193吉備津彦神社 岡山県岡山市北区一宮1043吉備津神社 境内 本宮 岡山県岡山市北区吉備津931水主神社 境内 孝霊神社 香川県東かがわ市水主1418<8代:孝元天皇布制神社 長野県長野市篠ノ井石川布制山2173牟佐坐神社 奈良県橿原市見瀬町字庄屋垣内718矢田八幡神社 京都府京丹後市久美浜町佐野舟津神社 福井県鯖江市舟津町1-3-5津野神社 滋賀県高島市今津町北仰316-1吉備津彦神社 岡山県岡山市北区一宮1043<9代:開化天皇小幡神社 京都府亀岡市曽我部町穴太宮垣内1吉備津彦神社 岡山県岡山市北区一宮1043
追伸:この動画を会の方へシェアさせて頂きます🙇♀
@user-mt1kv6fz8o さんはい、よろしくお願いします。
シンきー歴史沼チャンネルth-cam.com/video/zBcRa-PVyac/w-d-xo.htmlsi=uifQGdFmX-xzNtZaこの若い女性は、茂木誠氏ともサシで天皇家について議論できる知識量と探究心旺盛な歴女?です。四国の歴史を正しく表に表そうとする意図が思いやる気持ちと共に伝わって来て。是非、交流してみて下さい!
コメントありがとうございます。キーちゃんは既に知合いです👍
22:46 伊予の二名洲=いよのふたなのしま
26:25 讃岐国一宮=さぬきのくにいちのみや一宮町=いちのみやちょう一宮大明神=いちのみやだいみょうじん
遥か昔の海を渡った遥か西の国から来た天皇の意味は開拓者の意味。当然、目的地である四国に天皇がいたのは当然の事だろう
五社は山内一豊入国の際、山内の使いが神社にいくと馬に乗って出迎えそれが無礼と怒りを買ったことで宝物をもって愛媛に逃げたらしい長宗我部時代は社格が高く騎馬も許されていたらしいまたいまでこそ小さくなったけど、かつては行基が聖武天皇の勅を奉じて福円満寺を建立し、さらに七難即滅、七福即生を祈念して、天の七星を模って宝福寺・長福寺など六寺を建立し、合わせて仁井田七福寺と称したといいます。 その後、弘法大師が弘仁年間(810~823)に五社五仏を建立し、七福寺と合わせて仁井田十二福寺と称し、五社は仁井田五社と呼ばれて神仏習合の霊場として栄えました敷地も広くホントの鳥居は川の上です
@sinobukawajiri9650 さん ご視聴・コメントありがとうございます。また、詳細な情報もありがとうございます。
@@right-post 明治の頃は県社なので社格がありましたね昔は神祭のときには神輿が出て宝刀やら矢箱やら弓やら行列で近くの四万十川沿いの神輿台まで練り歩き流鏑馬なんかもあったんですよ沿道に出店もズラーッと並んでいまは寂しいものですね私は邪馬台国は四国山頂及び阿波地域説を支持してるので欠史八代のこの動画たいへん面白かったです
@sinobukawajiri9650 さん返信ありがとうございます。 そうなんですね。昔はとても賑やかだったんですね。宝刀や流鏑馬見たかったです。何とか、四国の神社を維持できるようにしたいです。
11:31 国造=くにのみやつこ(コクゾウに非ズ)
失史8代としたら神武さんにも,お子さん生まれなかったみたいで、万世一系をどうやってしたのでしょうね最大の謎です
@user-lx5rz2ml5u さんご視聴・コメントありがとうございます。
本当のところ、古代社会の争いの続く世の中での万世一系なんてのは有り得ないでしょう
私もなんだか、そう考える様になりました。子供の頃は神武と言う天皇の血が途絶えはなかった万世一系なんて世界の王族でされも、中国も途切れ、途切れで王ですとしているしそれなりの親戚やいろんな所に神武の血を持つシステムがあって出来るのだと考えて来たし、GHQの縮小計画があって今に影響来たかなと、しかしながら古代には新羅から王を迎え天皇にしているし継体天皇当たりや武烈?雄略にも子供なしの危機だし、古代豪族が外戚争いし地位確保とか真剣に世継ぎなど考えなかったし、近親相姦もあったし、何回も途絶えていると思います。尊いお方だから調査も難しいし、系図で誤魔化されている感じが気がします。
万世一系なんて有り得ないと思う私も、古代は新羅から王族迎え天皇なっているし、外戚の豪族の争いに御門も巻き込まれたし、女帝の中継ぎにも果たして神武の血の子か分からないし
@@right-post 私も同感です。それに新羅の王族を日本に来てもらい天皇の例もあるし御門を誰にを外戚の豪族たちの策略で外戚の子供が天皇にの争いだらけですから万世一系は終わっていると思います
四国が 日本の原点であるのではないかという話しには 興味を持っています。神武東征は、檮原から 阿波地域に 東征したと言う事に なるんでしょうか ?
@user-sy8gb1kh2g さんご視聴・コメントありがとうございます。 今回の神武天皇の宮の仮説は、檮原という地名から白檮原(かしはら)を推定しました。その為、白檮原が檮原だとすると、そこより南西から檮原に着いたのかもしれません。例えば白王という名の人が高知県の幡多郡などから。ただ、これは現時点では証拠がないので、あくまで私の推測(仮説)になります。
@@right-post 檮原が 目指すべき 良い土地とは思えませんが。
学術的にないとされているということは探られたら困るということ。いたに違いない。
@user-sh1hd8ge5t さんありがとうございます。
46:03 記(しる)され
第73世竹内宿禰•むっちゃん先生も欠史八代ではないと仰っています。th-cam.com/video/dHQ72YlvvlM/w-d-xo.htmlfeature=shared一気に見させていただきました。どこも行って見たいです。今年は辰年なので、田村神社に行ってみたいと思います。ありがとうございます。
興味深く拝見しました。徳島出身の知り合いがショボクレてるので、さっそくこのネタ使って励まそうと思います。ただ残念だったのは、誤字や用語読み誤りの多いこと。せっかく新機軸を打ち出そうというのに、単純ミス続出では、「なんや、素人が素っ頓狂なこと、またやっとるで」と軽視されるだけです。逐一あげつらいませんが、たとえば、考昭考安・・・⇒孝昭孝安・・・ 元慶⇒がんぎょう 国造⇒くにのみやつこ 県社⇒けんしゃそれに、現地に直接訪問した上での発表ではないのですね? 「行ってみたい」といったご発言から推測しましたが。考古学を振りかざして攻めてきたかたがいるようですが、やっぱり現地を踏んだ上で、なにか現物証拠を示さないとなかなか普遍的な説得力は持たないと思います。当方はある程度の信憑性を感じますが。それから、狛犬の特徴などはあまり重視できないのでは。明治以後に(なんとなく)つくった物も多いでしょうから。
@user-zh6dy5cx6y さんご視聴・コメントありがとうございます。友人を励ますネタの一つにもでもなれば幸いです。また、ご指摘ありがとうございます。ヒョエ~、結構間違えていますね。概要欄の正誤表に追記しておきます。そうですね。考古学を振りかざして攻めてきたがる人は多いです(笑)まー、私はただのエンジニアなので、素人の素っ頓狂なことかもしれません(笑)現地はこの動画の次の動画で紹介しています(前編・中編で後編は未だですが)予想通りの場所、違った場所、また悪路でたどり着けない場所色々ありました。何回か行かないと行けない場所、氏子さんと話したり、祭りなどにも参加したりしないと見えてこないのでしょうね。また物的証拠は難しいですね。特に欠史八代は事績がないから縁の物かどうか判断しかねます。ただ面白い物は幾つかあって、四万十市の一宮神社の七星剣。原田武夫国際戦略情報研究所が寄付して年代特定を行っているのですが今年10月に一次報告が出るとの事。また土佐国二宮の小村神社の御神体の「国宝・金銅荘環頭大刀拵・大刀身」は、製作年代は古墳時代末期と推測され、大刀としては日本最古の伝世品であり、とても興味深いと思っています。欠史八代に繋がるかは分からないですが、四国には古代史における無視出来ない物はあるように感じます。これは私の趣味なので、気長に調べながら、間違えがあったら修正しながら、発信していこうと思っています。塩崎雪生さんも何か発見や情報があれば教えて頂ければと思います。
ショウドーイキもしくはオキラインてのが日本国つくりの基本霊ラインらしい
天皇の諡は時代の世相を反映して付けられたと言われてます。初代神武から4代懿徳までは平和な世の中であったと思われます。5代孝昭から8代孝元まで孝が付きます。6代孝安ですが、後漢の孝安帝の時代。後漢書に書かれた107年に生口160人を献上した帥升は師飛(シヒ)でクニオシヒト(孝安天皇)の事。孝安帝の後、孝霊帝の時代がありますが和国も孝安天皇の後、孝霊天皇なるので、時代を反映していると思われます。そう考えると孝の付く4人の天皇の時代は後漢に生口献上して朝貢しているので孝昭時代から後漢の属国となっていたと考える事ができます。魏書には孝桓帝から孝霊帝の時代(146〜189年)、互いに攻め合って主のいない時代と書かれています。(和国大乱)この頃のヤマトは磯城王朝の時代ですが、ヤマトは磯城王家、出雲系登美家、海部尾張家、高鴨家の豪族の争いで、磯城王家もヤマトの1/3程度しか統一できておらず、勢力も2番目だったと伝えられています。フトニ(孝霊)は、ヤマトから去り吉備、伯耆へ行ってます。ひょっとすると、孝の付く天皇4人はヤマトでなく、阿波に宮を置いて後漢の属国のもと、勢力巻き返しを策略した可能性もありますね。すれば阿波のヤマト説や天皇が阿波に祀られている事に辻褄が合います。魏書に、その女王が立つと戦乱が収まり和国に平和が訪れた と 書かれたのがクニクル(孝元)の皇女、モモソ姫で、開花天皇(オオヒビ)へと繋がり、ここでも時代が変わった事がわかります。魏書には、漢の時代に和国は100余りの国があり、30余りの国が漢と交流があったと記されてます。
四国は土地の土質が違う。四国は南から北上した島で龍の腹歴史は勝者により隠蔽される。
神社関係は神仏分離の際に「由緒のよくわからない祭神を祀る神社が多いがそのような神を祀るのはよくないので、由緒正しい神に変えるように」という国の方針で本来の祭神が変更され、よくわからなくなっていることが多いです。そういう理由でほぼ事績のない上代の天皇を祀ることにした社も多いかと思われます。なので、現在の社伝を引くよりは、江戸期以前の記録を探すほうがよろしいかと。
@tou_ri さんコメント・情報ありがとうございます。今回は国立国会図書館の昭和初期の四国各県の神社誌を利用させていただいたのですが(それしかなかったので。)、江戸期以前の記録はどういったものか御存知でしたら調べますので、ご教授頂けますでしょうか。
阿波説は今、流行ってるだけで後々笑い草になる気がします。
今回の動画は阿波説ではなく、四国です。笑いたい方には笑わせておけばよいのです。自分の心を動かすものに夢中になったり・情熱を注ぐことは、それだけで素晴らしい行動だと、私は思います。
こんにちは✨😃❗😊😮😊😮😊
@user-xm6kb4pz2p さん、こんにちは~
寓居=ぐうきょ
欠史、いない、などと、学術的に証明なんかされていないでしょ? 出来ないですよ、証明なんか。真正面から研究などされてきたわけじゃありませんから。
そうですね。いない事を証明する事は出来ないはずです。そういうのを悪魔の証明というらしいです。
土佐の鬼王ダイバンをご存じですか?鬼といえば、人間の敵、恐ろしい存在と思われていますが、ダイバンは英雄です。
@user-ti5sz8tn4j さんご視聴・コメントありがとうございます。ダイバン初めて知りました!そうなんですね。今度調べてみます( ..)φメモメモ情報ありがとうございます。
画面で字がちいさ過ぎて全く読めません。ピントも微妙にズレてるし。
な~んだ、ここで欠史8代の説明してたのか。てゆ~か 神社の文献探しても・・・古事記の記述があるから 後から創作したものかもよ?「年代の矛盾」が説明できてないから まあこんな推測もあるよねって感じ。「出雲口伝」を読んでいるなら 欠史8代の 妻の名前が書かれてるよ。実在した可能性が高くなるし、その年代を追えば・・・年代の矛盾は解消する。気づくはず・・・紀元前660年は 神武東征ではなく、大国主の 出雲王朝建国です。
@mrrx2364 さん出雲口伝は人気ですね。私も読みましたよ。多くの方が出雲口伝を押しますね。mrrxさんも出雲口伝が好きなら動画にして公開してみては如何でしょうか。色々な方から様々なコメント頂けると思いますよ。ちなみに、國學院大學の谷口教授の寄稿を読むと、古事記は皇后の娯楽用、または皇子の教育用に作られたという見方で、完成後に広く読まれた形跡がなく、宮中内部の私的な文書であったと言われています。日本書記は中央政府の官人が勉強目的で読んでいたようです。つまり一般的な庶民の読み物ではなかったということですね。また佛教大学の斎藤教授の講演によると、本居宣長が『古事記伝』を完成させたのは寛政10年(1798年)これにより古事記がはじめてメジャーとなるとのことです。(補足すると江戸時代に出版・印刷業が始まり1644年に古事記も出版されるているようです。古事記を研究していたのは徳川光圀(水戸黄門)であるとの事です。)動画内で説明させて頂きましたが、今回紹介した神社は、この1798年以前の延喜式内社が多くあり、また古事記編纂712年以前の神社もあります。当然神社の由緒は、合祀や祭神変更などがあり、全て信じる事は難しいと思います。私もこれが満点なんて思いません。古代史に満点回答はありませんから。ただ1人の古代天皇の神社があるのではなく、欠史八代の天皇・后妃・兄弟・皇子女の様々な神社が、少なくとも1000年以上前から、時の朝廷が認めた式内社として存在するという事実は、無視出来ないと思います。私は今迄見えていなかった情報を繋ぎ合わせたに過ぎません。あとは皆様、受け手の感性だと思います。無視しても良いですし、面白いと思って四国を探ってもよいですし、否定してもよいです。ただ古代史に興味があり、1ミリでも前に進みたいと思うなら、色々な可能性を探ってみるべきかと思います。もしmrrxさんが出雲口伝の動画作られたら教えて下さいね。必ず視聴して感想書きますから。
@@right-post up主さまは 四国に思い入れがある・・・思い込んでしまうとバイアスがかかり 正確な判断が出来なくなってる。記紀と出雲口伝だけでなく、四国神社や古史古伝も確かに読まれているが、それでは証拠不足。紀元前660年は 神武東征ではなく、大国主の 出雲王朝建国だから。日本人のDNA解析で Y染色体ハプロタイプの年代推移が発表されている。記紀や古史古伝の 「ウガヤフキアエズ王朝」が九州にあったならば渡来人である神武天皇の遺伝子が 九州と畿内の両方にあるハズ・・・だが渡来人の遺伝子は畿内だけ。だから「出雲口伝」の正当性が証明だし、出雲と青森に 同じ遺伝子があるのも 証拠。「神回!神武天皇について必見の衝撃の事実!」が間違っているのは ヒントの2つを検証するといいよ。
@@right-post あれっ、「目から鱗の歴史チャンネル」とは 別人ですか?「神回!神武天皇について必見の衝撃の事実!」の概要欄にあるリンクから来たので同一人物と思ったのですが??四国アワ説も確かに有力です。ですが 欠史8代を説明するには証拠不足。感覚や思い込みで「出雲口伝」と言ってるのではなく、DNA解析が証拠と。
@@right-post あっちから引用するね↓アワじゃなくて・・・飛鳥と元伊勢!高天原から天孫降臨です。神武天皇と 欠史8代の年代矛盾を答えてないから分からないんだろうな。★ヒント TOLAND VLOGの 【八咫烏】伊勢の語り部が・・・。建国記念の日となってる 紀元前660年は 神武東征じゃないよ。古事記の天孫降臨で ニニギの命は 明渡されたハズの出雲には降りてない・・だから出雲王朝が続いてる。★もう1つヒント TOLAND VLOGの 【超超超考察】とてつもない秘密が隠された『スセリビメ』・・・。ー引用終了ー
@@right-post 天孫降臨や倭国大乱と呼ばれる時期に 渡来系が 畿内(奈良入り)したことは共通認識でいいね?3つの部族の遺伝子(Y染色体)を辿ることになる。・出雲系(印度から来た)・古代イスラエルやシュメールから 海路で来た渡来系(因幡の白ウサギ)・同上から 陸路で中国・朝鮮から来た渡来系(徐福御一行さま)アワは お寺や古墳を作ったが 表には出て来ない秦氏で、ずっと後の年代ですよ。「な~んだ3つとも 昔日本から脱出した遠い親戚か」と気づけば 答えに近づく。
大和の古名はシキシマでもありますよ、つまり磯城です。四国はシキシマではないのは明白なのですが。孝霊天皇や百襲姫、吉備津彦はみな磯城に縁の人物です。磯城とは河内から奈良の桜井辺りを指しますからね。
@user-jf5un8fy5e さんご視聴・コメントありがとうございます。たしか敷島は、崇神天皇の宮である磯城瑞籬宮が置かれた地ですよね。この動画は、第10代崇神天皇の前の第2代~第9代の欠史八代です。前提というか時代があっていないので、大和の古名がシキシマだから欠史八代は四国にいなかったという理論は成立していないです。ちなみに、トミヤマサキオさん、もしご存じでしたら教えて頂きたいのですが奈良に欠史八代の天皇・后妃・子供達の式内社はありますでしょうか?
@@right-post 磯城の名前は師木、つまり神武伝承で神武軍が戦う在地の豪族の名前でもありますよ?現在志紀の地名でも河内平野にあるように、元々畿内一帯を指す言葉です。その磯城に対応する土地なんて四国にあるはずがないのです。そもそも四国や讃岐、香川の神社に孝霊天皇やその皇子、皇女が祀られているのはヤマトから派遣されてその地で活躍したのが由来のはずですが。
墓守り=はかモリ
御歳=おんとし
参考までに……欠史八代の外戚諸氏族について見ると、初代神武天皇外戚諸氏族について『記』では美和つまり三輪の大物主神の子女であり『紀』では事代主神の子女としている。事代主神は『旧事紀』「天皇本紀」で「大三輪大神」と記されているため三輪地域の氏族の子女を后妃として迎え入れ、血縁関係を持ったと考えられよう。また『紀』の本文において、事代主神の血縁者については、二代綏靖天皇と三代安寧天皇が后妃として迎え入れられていることから、神武天皇統(以降「大和王権」)は三輪地域(奈良県桜井市)の氏族と血縁関係を取っていたと見る。 次に『記』では、師木県主と記される磯城県主について『記』の本文では二代綏靖天皇、三代安寧天皇と四代懿徳天皇と三代続けて后妃を輩出し『紀』の「一書云」という各分注でも、二代から四代はもちろん五代孝昭天皇紀と六代孝安天皇紀の分注にも磯城県主出身の后妃伝承ある。一方『紀』の本文で磯城県主出身后妃は七代孝霊天皇紀に伝承があり『記』の本文では同一后妃名で、十市県主出身の伝承であった。十市県主については、先述の『記』の本文のみと『記』の一書云の分注での六代孝安天皇紀と七代孝霊天皇紀のみである。十市・十市郡は現在の磯城郡に当たる地域の氏族であり、磯城県主と同族とすると大和王権は地盤固めのために磯城・十市県主系と三輪地域(ここも磯城)系の氏族と婚姻による血縁関係を構築していったと見ることができる。また春日県主は『紀』の分注で綏靖天皇紀と孝霊天皇紀に記載されているが、春日は、大和国添上郡春日郷(奈良市白毫寺町付近)であり、そこにいた氏族とも地盤強化のために血縁関係を結んだとも見える。 そして『記紀』での本文で后妃を輩出した氏族は五代孝昭天皇紀の尾張氏と八代孝元天皇紀、九代開化天皇紀での物部・穂積氏という饒速日命系の氏族と、血縁関係その中でも尾張氏という東海地域の氏族とも血縁を結んだと見える。 そして開化天皇紀・記の分注と本文には丹波(『記』で旦波大県主)という京都丹波地域とも血縁関係を結んで勢力を蓄えていたと見ることができる。 以上、外戚諸氏族伝承を見ていくと、三輪と磯城・十市地域を中心として尾張・東海地域及び河内・丹波地域という日本海側の一部に至るまで大和王権の権威が氏族連合体制の形で伸張していったという伝承を見ることができる。これらについて、後述する架空及び後世造作論の一人の直木孝次郎氏は「〝やまと〟の範囲について」(1) で「天皇家と〝やまと〟とは密接な関係にあることが推測されるのであって、磯城・十市両郡地方を〝やまと〟とよぶことが比較的長くつづいたことは、この地域が天皇家にとって重要な勢力基盤であったことを暗示する」とし「(十代)崇神陵・(十二代)景行陵・桜井茶臼山古墳をはじめとする代表的前期古墳がこの地域に日本でも屈指の古墳群集地であることや、石上神社・大和神社・三輪(大神)神社など記・紀の神話伝承にすでに姿を表している霊威の高い神社がやはりこの地に多いことなどは、あらためて考慮してみる必要がある」 (2)と述べており、大和王権の発祥とヤマトの地の起源を十市・磯城地域という奈良盆地の東部山麓地域を中心として、時とともにヤマトの勢力が伸張するごとに「ヤマト」の範囲が広がっていたとみていた。筆者は、直木氏の当該記述と欠史八代の外戚諸氏族伝承の流れが、ほぼ一致しているように思わざるをえなかった。続いて、皇居の所在地伝承については、初代が橿原宮(橿原市)、二代が葛城高丘宮(御所市)、三代が片塩浮孔宮(大和高田市)、四代が軽曲峡宮(橿原市大軽町)、五代が掖上池心宮(御所市)、六代が秋津島宮(御所市)、七代が黒田廬戸宮(磯城郡田原本町)、八代が軽境原宮(橿原市大軽・見瀬町)そして九代が春日率川(奈良市)という流れで、今日の橿原地域と葛城地域を概ね往復している伝承で見て取れる。次に陵墓伝承については、初代が畝傍山東北陵(橿原市)、二代が桃花田丘上陵(橿原市)、三代が畝傍山西南御陰井上陵(橿原市)、四代が畝傍山南繊沙渓上陵(橿原市)、五代が掖上博多山上陵(御所市)、六代が玉手丘上陵(御所市)、七代が片丘馬坂陵(葛城郡王寺町)、八代劔池島上陵(橿原市)そして九代が春日率川坂上陵(奈良市)という流れで橿原地域と葛城地域に集中している伝承が見て取れる。また九代は突如として現奈良市地域に皇居と陵墓所在地伝承が見て取れる。このような伝承から鳥越憲三郎氏は「葛城王朝」と著作 (3)で欠史八代を名づけている。(1)……飛鳥奈良時代の研究』所収 塙書房 一九七五(昭和五十)年(2)……以上『同前』五〇九頁(3)……神々と天皇の間』朝日新聞社 一九七〇(昭和四十五)年
何でもかんでも阿波説って、考古学的に真っ向から成立してない事が笑えます。エンタメですね。勾玉一つとっても東日本から次第に西日本への展開になっており、四国は新しい時代。更には最後まで勾玉作ってたのは出雲。
今回の動画は阿波説ではないです。四国です。笑いたいなら笑ってください。あなたは、あなたの信じるものを追求してください。
@@right-post DNA分布でも四国は丹波から畿内と同じ渡来人構成です。青銅器の独自性も考古学的に四国は独立していません。信じる信じないというお話というよりは、目の前にある現実というものを理解してから動画を作るべきです。
今まで近畿や九州、出雲、最近では関東、東北まで..羨ましかったのですが、これで四国も楽しゅう成りました😄遊びに来てにゃー😸
間違いなく、西日本
@UC_67qb9zl4nlTKrhzYfmoZQ さん私に何を伝えたいのかよく分からないのですが、四国が独立してたなんて一言も言っていません。私は、忌部氏・海部氏・物部氏が丹波や畿内にも行っていると思います。今回の動画は、欠史八代の痕跡が四国の神社にあるという事を言っているのです。考古学も大事だと思いますが、目の前にある現実というのなら、神社も目の前にあります。古語拾遺にある通り、忌部氏の祖神天太玉が統率した神は天日鷲命(阿波国の忌部の祖神)、手置帆負命(讃岐国)、彦狭知命(紀伊国)、櫛明玉命(出雲国)、天目一箇命(筑紫・伊勢)です。出雲国の玉作りの祖神は櫛明玉命です。貴方様が記紀神話の物語や神社より考古学が重要というなら貴方様は貴方様の信じる考古学を追求すればよいと言っているのです。それも重要な事だと思います。
愛媛出身ですが 海外に出て30年になります。四国の歴史を知れば知るほど 魅了されます。私の故郷は佐田岬ですが(昔 このあたりは 神山県でした) 猿田彦大神から採られた地名で 古代の祭祀の形跡も残ります。
海外の人に 日本のどこから来たのかと問われると 四国だ。日本の聖地だと答えています。とても興味深く拝見しました。
@hjnmylove さん
そうですか。30年も海外に、羨ましくありますが、一方大変だったであろう事を想像します。
愛媛の神社を今回初めて調べましたが、素晴らしい神社が沢山ありました。
また日本に戻られたら神社巡りという楽しみがあると思って、お仕事頑張って下さい。お身体ご自愛ください。
そうですね。四国は日本の聖地だと私も思います。
四国は聖地と思っている人々が歴史から抹消しているのではないでしょうか?神武東征 など明らかに四国を避けているとしか思えません。あとの天武天皇が白村江で百済救済にいったとき松山に3か月も滞在して軍備を整えて、額田王が潮待ちの歌を歌ったのに、通過なんてありえないと思います。工学博士芸人 遼子規キンジロウ
11ヶ月振りに日本に帰っています。明日 大山祗神社に初めてお参りします。楽しみ!!!
1度や2度視聴しても安心できないほど情報量が多すぎます。驚きと共に尊敬しております
松山出身の両親の介助で8年ほど生活していますが親の故郷という事で幼少の頃より夏休みになると訪れていたので四国主役の動画は大変に興味をそそられます
普段、コンピュータやオーディオに余暇を費やしているので歴史などの分野は聞き齧りなんですが理解できるようリピートさせてください
聖徳太子が道後温泉に訪れたとか愛媛にも古墳が点在しているとか、謎の解明となるかもと期待しています
これからも頑張ってください、チャンネル登録しましたw
@user-su1jr3op7c さん
ご視聴・コメントありがとうございます。
松山がご両親の故郷なんですね。素敵な所ですね。
今回初めて調べたので、まだまだ調べられていませんが色々と謎が多いです(笑)
介助大変かと思いますが、ご自身のお身体もご自愛ください。
動画が息抜きになってくれれば幸いです。
凄い動画です。感動しました。力作です。私は香川出身ですが、四国の地名と神社でこんなに面白くさせていただいたのは、はじめてです。ジグソーパズルのピースがはまるように1-9代まで四国に、はまっていくのは、圧巻です。なお、古事記上は、四国と阿波の話と思いますが、下から平城京遷都までは、朝鮮半島との闘いの歴史でもあり、おそらく、古代讃岐が、軍港、中継地の港の役目があり、仁徳天皇、大化の改新の孝徳天皇、その後の藤原氏などは、讃岐に強く関わっていたと考えております。その痕跡を定年後、じっくり調べてみようと思っております。
@TA-xc7ib さん
ご視聴・コメントありがとうございます。
楽しんで頂けたみたいで、それが一番うれしいです。
そうですよね、仁徳天皇の痕跡は、讃岐でも見られました。
ぜひ痕跡を追って頂き、また情報共有して頂ければありがたいです。
香川県の方であればもう少し冷静に。坂出の埋蔵文化財センターか玉藻城隣りのミュージアムで専門家にお話を聞いてみてください。一次資料や発掘調査の結果が全てです。どちらも懇切丁寧に教えていただけますが図書館で過去の発掘調査などを読むだけでもここに書いてあるような説がいかなるものか分かるんと思います。
檮原町取り上げていただきありがとうございます。昔から神の里と言われるくらいなんとなく不思議な町です。
@jacko8029 さん
ご視聴・コメントありがとうございます。
檮原の方ですか。
勝手に仮説たててしまい恐縮です。
そうですか。神の里ですか。いいですね~
私も、いつか訪れたいと思います。
昔四国を一周した時に何故か梼原に行きました。何も無いのに豊かな感じがする不思議な地域でした。欠史が四国にあるというのは真実のように思います。
@cheri-kichi さん
ご視聴・コメントありがとうございます。
四国一周したんですね、それに檮原にも行かれたのですね、良いですね~
梼原で一番のおすすめは図書館です。
梼原に住んでる人達が羨ましくなるほど素敵な空間でした。
四国にも海辺から山頂まで古墳があるから、何かしらの文明があった事は間違いない。
@Eilanya1945 さん、ありがとうございます。
すごい。研究論文のように調べてますね。最後のユスハラはワクワクしました。
@tfujisawa2628 さん
ご視聴・コメントありがとうございます。
ワクワクして頂き、嬉しいです。
仕事の延長線上で調べものしていた感じです(笑)
こんにちは
この動画製作大変だったでしょう。
勉強になりました。
ありがとうございました。
はい、1か月以上かかりました(笑)
いえいえ、いつもGPWさんの動画で勉強させてもらっています。
あと途中でGPWさんの田村神社の動画紹介させて頂いてます。事後報告になり、すみませんm(_ _)m
@@right-post
ありがとうございます。
見ました。
2時間くらいで台本も無く
製作している、自分の動画が
恥ずかしい!
@@gpwjeep2323 いえいえ、現地の情報はとても貴重です。私はいつもGPWさんの動画楽しみにしています。
香川在住です。
四国にも王朝があった説に賛同してたので楽しい1時間でした。
@FX-NaoGii さん
ご視聴ありがとうございます。
楽しんで頂き、何よりです。楽しんで頂ける事が、一番うれしいです。
これは保存版ですねv
ありがとうございますm(_ _)m 調べるのに時間かかりました(笑)
@@right-post そやろうね、すごいですv
はじめまして。高知県出身&在住の者です。
幕末が大好きで昔色々調べていた頃に知ったことなのですが、土佐勤王党以前に土佐には庄屋連合みたいな組織があって、庄屋身分だった中岡慎太郎や吉村寅太郎の家も連盟していたようです。
この庄屋身分の中から多数の勤王志士が誕生した理由に「土佐の他は天皇の土地で、その土地を預かり農地を開拓していった農民(庄屋)は天皇の民であって、けっして徳川の民ではない。」という考え方があったからだと読んだことがあらました。
こちらの動画を見て、そのことを思い出してなんだか熱くなりました(笑)
歴史ってなんて面白いのでしょう!
@user-rs9bg8qh5b さん
ご視聴・コメントありがとうございます。情報もありがとうございます。
土佐の地には、何代かの古代天皇の痕跡があるので、それを知っている者は、きっとそう言いますよね。
本当歴史って面白いですね
高知県高岡郡梼原村の母の実家で生まれました。実家は現在も従妹の子供が住んでおります。子供の頃に、両親と共に大阪に引っ越し60年が経ちましたが、自然豊かな梼原で過ごした日々の楽しい思い出は、私をいつでも幸せな気分にしてくれます。梼原を取り上げてくださり、ありがとうございました。
四国の動画ありがとうございます。勉強になります。
今後とも楽しみにしていますので宜しくお願いします。
@yn4194 さん
いつもご視聴・コメントありがとうございます。
こちらこそ、よろしくお願いします。
9代まで、阿波周辺だとは思ってましたが、これほど四国全体に痕跡が分布してたとは。四国八十八ヶ所のお寺の地図みたいです。四国は昔、山つながりで一つだったということだと思います。県境とか関所とか無いですしね。四万十市と徳島市は四国山地を通る国道があるらしいです。神武東征の四国山上ルート説。大発見かもです。
@akiraooq8498 さん
コメントありがとうございます。
本当ですよね、動画の中では言いませんでしたが、
調べた結果を見た時、「お遍路だな」と思いました。
発掘で出てくる埋蔵物や文化圏、文献からも四国はそれぞれが違っていますよ
そもそも違いの話をしてるのではなく、共通の話をしたつもりです。四国八十八ヶ所が四国全体に分布してるのも、文化だと思います。文化圏には、海つながりや川つながりがあることは承知しています。けど、四国は一つの島なわけですから、山つながりを無視することはできないと思うんです。
古代は街道が山の尾根の上でした。とくに倭国大乱の時期は高い場所に住み、高い場所を移動したと思います。実際に1000mを超える山脈の尾根に沿って道があり、道に沿って神社や磐座が点在しています。もしそのころ吉備の勢力と争っていたのなら、瀬戸内海の四国側は吉備に対抗する勢力にとって対岸の重要な拠点だったと思います。
倭国大乱で、天皇や姫が讃岐山脈を越えたと思います。讃岐山脈に、五名という地名があります。5人の家臣が、徳島側から攻めて来る勢力から防衛してたという伝説があることを聞きました。五名は、倭の五王かもしれないと思います。
凄いですね。ビックリ致しました。愛媛県伊予三島出身地です。只今、東京ですが、古事記と何か?ご縁があると思っていました❗ 配信ありがとうございます‼️
@kalenselene4456 さん
ご視聴・コメントありがとうございます。
故郷、素晴らしいところですよ。
帰省されたときには神社にお参りに行ってみては如何でしょうか。
@@kalenselene4456 今日井川神社攻略してきました。一見だと車で登るには勇気のいる高い山の中でした。凸凹で勾配もきついので四駆か軽トラは必須かも。廃村の神秘性もカンじることができます。しかもその廃村、どうやら弥生時代から高地性集落としてあったみたいです。その辺りに多い河村さん、井川さん、猪川さんがこの村発祥であることがわかりました。神代の時代からあったものと思います。河村さん井川さんが神武天皇の息子である綏靖天皇の兄弟神の名前から来てたなんて発見です。
@@kalenselene4456 また、麓にミミガミ様の祠があり、穴を開けた多くの石を祀っていました。かむやいみみ、かむぬなかわみみの名前からみみ神信仰があったようです。
@@kalenselene4456 あと、井川神社の末社に天皇宮と言う祠がありました。近くの山中の祠をまとめたものだと思いますが、興味深いですね。
@@TheKzit1969 えっ近くに有名な大王製紙の創設者は井川と名乗ります。あの有名なティッシュ、エリエールです‼️大企業です‼️
初めて視聴させて頂きました
カタカムナの中に四国の地名が4つ共出てくるのが不思議で不思議で、なんだろうと気になっていたのですが、四国の神社がこんなにも調べ尽くされていて感激です💕ありがとうございます。
凄い情熱を感じます。少しずつ回ってみたいと思います。先ずはノート、ノート💦
これからも頑張って下さいね😊
@user-vl5fw4hv1o さん
ご視聴・コメントありがとうございます。
カタカムナに四国の地名が出てくるのですね。
神社や古代史への興味や情熱への一助になれば幸いです。
神社ねこさま
ありがとうございます🌸
カタカムナ第33首
カムナガラ エヒメ サヌキヂ アワトサヂ アメノオシコロ オキミツゴ ツクシトヨワケ ヒノクニクマソ イヤシロ チバイキツサキヨリ イヤシロコトサトリ
久しぶりに神旅さんのカタカムナを聞いて癒されました☺️
音だけなら他の首でもアワはよく出てきます。それが阿波なのかアとワでそれぞれ意味があってなのか..又知りたい部分です😸💕
@@user-vl5fw4hv1o さん、ご丁寧にありがとうございます。カタカムナも興味深いですね。
私もカタカムナを初めて聞いた時に、四国?なんで?いやっ!なんかある!って思ってました😊
阿波の國在住です。
大作ですね❣流石、神社ねこさんです😍僕も講演では「四国において欠史八代は決して欠史ではないのです。」とダジャレを言っています😂トテモ面白いです、挙げていただいた神社も他県は1/3ぐらいしか行けてません、徳島県は1200強はお参りしているのでほぼ理解できました。これからも、益々精度を上げていってください、期待して待っています❣それから、気になったことが1つ🙄新居田神社は県内各地に在ります、恐らく高知からの移入ではないかと・・・祭神の統一性は見られませんが。阿波国神社研究会拝
@user-mt1kv6fz8o さん
ご視聴・コメントありがとうございます。
私も欠史は決して欠史ではないと言っています(笑)
はい、仁井田大明神こと高岡神社の由緒に仁井田七郷六十八村の総鎮守と書かれていましたので
昔はきっともっと多かったのと、その氏子さん達が広がっているのかなと想像します。
また私が調べた昭和9年著の高知神社誌も仁井田神社には祭神不詳も多くありました。
徳島県の1200強の神社お参りしているのですね、すごい!
はい、精進して精度あげていけるよう努力いたします。
中川さん、阿波ヤマト財団の設立パーティーのチラシに写真が掲載されていましたが出席されますでしょうか。
もし、出席されるのであれば会話させて頂ければと嬉しいです。
個人的にですが、鳴門の神社で一つ気になっている神社がありまして…
@@right-post さん お招きいただいておりますので、一応出席予定です❣お会いできるなら楽しみですね🥰今週、鳴門古事記の依頼で、阿波井・妙見・葛城の瀬戸・北灘町を案内します😅何方の神社が気になりますか❓鳴門地域はは古代には大津・大麻まで海が入り込んでいたので山際には由緒のある社が多いですが・・・🙂
@@中川洋作 さん
出席されるのですね。お会いできるのを楽しみにしております。
阿波井神社行かれるんですか、良いですね~。羨ましい限りです。
すみません、本当に個人的なので、分からなかった分からないで大丈夫です。
鳴門町の高島にある高島八幡神社の歴代宮司を調べたくて
もし宮司さんとか氏子さん等で、お知りあいの方がいましたら教えて頂ければと思った次第です。
自分でもいつか訪れてみようと思っていますので、分かったらで大丈夫です。
理由は、お会いした時話させて頂ければと思います。
maps.app.goo.gl/iKpaxyXni8qYgRZZA
(Googleマップを見ると、宮司:中條さん、氏子総代:橋本さん)
四国幡多には孝霊天皇系よりも大国主を主祭神とした白皇神社が多数存在します。ヤマトとイズモの支配の変遷が気になりますね
@kokoriri2168 さん
コメント頂きありがとうございます。
まさに私も、白皇(白王)神社が気になっています。高知には、白皇(白王)神社、仁井田神社、河内神社が多数あり、とても興味深いです。
いつか白王神社も調べていきたいと思います。もし何か情報ありましたら教えて頂けますと嬉しいです。
@@right-post 返信ありがとうございます。四万十市には国見という駅名、下車すると楠島(九州島)という地名に飯盛神社、三宝荒神神社が鎮座します。
四万十市は土佐一条氏が有名ですが方言的に九州、筑前から安芸、伊予系統が強く、豊後水道をルートとして移住してきた民族ではないかと考えております。
四万十市からは七星剣の出土もあったりします。
この幡多地区の足摺岬、唐人駄馬にはかつて大規模な環状列石群があったと伝えられておりますが、教育委員会によって公園に変えられたとされており…まあロマンいっぱいな土地です。
@@kokoriri2168 さん
情報ありがとうございます。
幡多地方は、すぐにはでないですが、調べて行こうと思います。
@@right-post
ありがとうございます。是非に調べてみてください。
ここからは私の妄想なので読み飛ばしてください。
四万十町(旧窪川)の仁井田神社には牛鬼の祭りがあります。四万十市半家天満宮にも同様に牛鬼の祭りがありますね。牛鬼で有名なのは宇和島、そのあたりから白王→白皇神社は南下するに従い増えていっているように思います。
話は逸れますが土佐一条氏(藤原氏)の支配によってどうも元々の神々ではないものが祀られている様子がある…と妄想しております。
四万十川に沿うように天満宮はありますが.その中に鳥身龍首の魔除け、十六葉菊花紋の意匠をもつ瓦の天満宮があります。が、例大祭などで飾られるのぼりには梅花紋が描かれており、どうも違和感がある。
天神社、星神社などの神社も高知県には多くあり、元々天満宮というものはもっと別の役割ではなかったか。
そんなふうにも思います。
長々と失礼いたしました。
ハンターですね。凄いです。
鉱脈を探し当ててるように凄い!
応神天皇〜雄略天皇までも御願い致します😊
目から鱗さん、ありがとうございます。
今回1か月以上かかり、かなり疲れました。
前回の研究会の時にも、ニギハヤヒと同時に
すでに調べ始めていたのに今やっと公開です(笑)
仁徳天皇はあちこちに痕跡があるのですが
雄略天皇は、まだ見ていないですね。
また、時間と気力がある時にですね。
でも次は、軽いのにします。
ワクワクできる動画作成しUPして頂きありがとうございました!
神社ねこさんの切り口が私にとっては新しく楽しいです。
「もう一人の天孫降臨」ニギハヤヒを拝見した際にイワレビコが東征したとしたなら「伊予の二名島」からだと予(夜)の辺りからになるのかなと想像してみてたのですが、今回の神武説面白かったです(笑)欠史八代が核論なのに申し訳ありません。
イワレビコが日に向かうのを避け、長国と言われていたであろう阿南市の半島から迂回し、八重事代主とイワレビコが結びき結果として高天原の統治権を手中に収めたのかなという妄想が繋がりました。幸せな時間でした。ありがとうございました(^^)/
また気のせいか、竜馬の声も聴けたことに感謝しています(笑)
@maosama6035 さん
コメントありがとうございます。
楽しんで頂き、嬉しいです。
鋭いです。私はニギハヤヒが、豫(愛媛か高知)に最初降りているんじゃないかと思ったんです。
愛媛と高知に河内神社というのが沢山あるので、ニギハヤヒは最初河内に居りて、その後東へ移動して、
色々あって最終的な居住地を冨家村のあたりにしたのではないかと想像しています。
龍馬の声が聞こえましたか!凄いです(笑)
@@right-post 「河内(こうち)」神社ともよみますもんね(^^)/場所は高知ですし!!高智神社も愛媛県と高知県境にあるようです。文献上の高智保(たかちほ)のひびきありです。妄想です(笑)
伊豫には国津比古神社もあり物部の痕跡もたくさんあるようですね。
味耳命の考察は共感できます。東予に古代からの地名で宇摩郡があります。「ウマシマジ」もしくは神代「ウマシアシカビヒコジ」どちらも関係性はあると思っています。瀬戸内海地域に限定されてしまう「平形銅剣」の出土領域が大きなワクワクのカギになると秘かに思っています(笑)
銅剣、銅矛及び銅鐸の領域との共存領域になってるようです。興味がありましたら覗いてみてください。
では、ちゅーるタイムがきてしまったので失礼いたします。(^^)/
愛媛県の地名・氏名の呼び方が多数誤っていますよ
地名だと味酒(みさけ)・松前(まさき)
氏名だと河野(こうの)
です
@user-mv4lo8ve3o さん
ご指摘ありがとうございます。
四国の地名や名前の読み方、間違えている箇所があると思いました。
概要欄の正誤表に記載します。
他にもありましたら教えて頂ければ助かります。
バブル期生まれの通りすがりの者です。
間違いないと思いますが戦前には少し裕福な家には家系図を作れるような商売があったと思います。
なぜかというと自分の親は長男ではないですがこの話を生前よくしていました。嘘っぽい話で信じていませんでしたが
別の家に行ったとき同じ話をされたんですね。。。うちと同じ先祖の話。。。おどろきました!!
先祖は10代崇神天皇。四国での逸話がたくさんあって蜂須賀が出てきます。
最近四国説を見るにつけこの話をちゃんと聞いておけば良かったなと思います。
この先祖の話は四国が始まりでしたね。。。。
初代長国造(徳島県南部) 観松彦伊侶止命(父:事代主)と、孝昭天皇("観松彦"香殖稲天皇)の関連性までは推測してましたが、まさか欠史八代全てとは…
@user-jr5uq2ms5x さん
ご視聴ありがとうございます。
私も調べてみて、こんなにも沢山の痕跡、そして輪郭をもって現れるとは思いもしませんでした。
素晴らしいと思います。四国に何かしらのピースがあるのは間違いないと思ってはいましたがここまで具体的なものははじめてみました。
そして思ったのですが欠史八代の拠点を見ると綺麗にエリア分けされてますよね。
記紀は同時代の人物をあたかも何世代にも繋いでるように見せてるのはと疑うことがあったのでとても腑に落ちました。
また私はDNAのことを結構調べているのですが、大和朝廷の中心だった近畿にO(渡来系弥生人)の遺伝子が多いのは当然だと思う一方で四国のほうがさらにOの比率が高いのが気になったんです。
(元々私自身が少しだけ四国に縁があるので気になったのもありますが)
古事記の国産みの順番(淡路→四国)もあながち適当ではなく、長江文明に由来した民族(百越)が漢民族の南下の影響で稲作と共に渡ってきた、それが四国だったのかなと最近考えてます。
そのあとも渡来系が次々渡ってきたように思うのでスサノオが暗号を解くような物語になってると思うんですよね。
また中国の古代少数民族にはアニミズムや倭でよくいう刺青文化も見られたりと共通点探していると結構面白いです。
@user-wl9sh2tz4z さん
ご視聴・コメントありがとうございます。
DNAの話も刺青文化も面白いですよね
また神生みの順番が大切なのと同様に、私も国生みの順番は重要だと思っています。
oizumir1992さんが、色々と調べていった事で新たな発見などあれば情報発信して頂ければと思います。
ぜひ見させて頂きたいと思います。
(檮原と同じ読みの)豊後一宮の一つ柞原八幡宮が大分市にあります。大分市の佐賀関港には龍馬が上陸し長崎へ向かったとの案内があります。また伯耆國(鳥取県)の妻木晩田遺跡の近くには孝靈山もあり、日南町には孝靈天皇を祀る楽楽福神社もあります。武蔵一宮の氷川神社(埼玉県)の創建が孝昭天皇3年。四国周辺の神社分布も見渡すと欠史八代の謎が解けるのではないかと思います。
欠史八代は異なる平行して存在した各地の複数の王朝を時系列を弄って接合した、萬世一系の皇統、婚姻による女系で繋いでいるかと思います。
欠史八代を研究された書籍が殆どなく、前回のコメントに続き恐縮ですが、佐藤洋太氏第2作のかぐや姫と浦島太郎の血脈(表紙の印象と比べ、神社神名人名論拠が膨大で難解)にもこの時代の四国についての言及があります。
@wa33785 さん
コメントありがとうございます。
柞の字で檮原八幡宮なんですね。
この神社、初めて知りました。
確かに稚武彦命は、姉の百襲姫に会いに度々吉備から香川に海を渡っているとありましたので
大分も、そして四国周辺の神社にも痕跡ありそうだと思っていました。
佐藤さんの「かぐや姫と浦島太郎の血脈」面白そうです。読んでみます。
1日のセミナーができる内容ですね。よく調査されてますよね。1回や2回動画を見ただけでは理解しきれないです💦 何度も見返したり、自分でノートをつけたりしながら勉強しようと思います。
欠史八代とかいうタワゴトを誰が言い始めたか知りませんが、物語がないというだけで記紀や実在の神社が存在するのに無いと片付ける議論は、暴論のそしりを免れないでしょう。
神社ねこさんの今後のさらなる研究の進展を期待しています。
@Masaaki-Ito さん
いつもご視聴頂きありがとうございます。
今回のは長すぎですよね。
作ってる途中で、この神社の羅列は面白いのかと、少し心配しながら作っていました。
でも皆さん楽しんでくれているみたいなので、ホッとしました。
伊藤さんのコメントに古代史への情熱を感じてます。少しでも役に立てれば嬉しいです。
香川の善通寺町には、りっぱなこふんがいくつかあるので、もしかさたらてんのうのおはかではとおもったことはありました。
@user-fi7ro7iq3b さん
ご視聴・コメントありがとうございます。
そうですよね。香川県も古墳多いですものね。
調べてみたらいかがでしょうか。
戸田さんの興味の一助になれば幸いです。
徳島県東三好町昼間の綏靖天皇を一柱を祀る若宮神社、式内社天椅立神社もある興味深い所です。歩いて行けるほど近い吉野川の川向は井川町、面白いですね。お兄さんのカンヤイミミの所領は古都の隣で古都に比較的近い予の国ミシマ(愛媛)だったのではないか、子孫は東予中予南予と広がっていくたび先祖を祀ったのかなと想像を掻き立てられました。
伊香色謎命は(伊加加志神社(徳島県吉野川市川島町)式内社)開化天皇の皇后であり、孝元天皇の妃ですので、孝元天皇の痕跡とも言えますね。
仁徳天皇が遠征地で没した吉備津彦将軍を出征地であり故郷の皇祖の地である倭の国(イの国、現在の徳島)に祀って差し上げた話は、情が深いと伝わる仁徳天皇の伝説を物語っていますね。
ありがとうございました。
@YES-dp2dy さん
ご視聴・コメントありがとうございます。
吉野川の川向は井川町なんですね。確かに興味深い。
Yesさんの言う通り、伊香色謎命は孝元天皇の妃にもなりますので孝元天皇の痕跡(讃岐と阿波にある痕跡)ともいえます。
補足頂きありがとうございます。
50:04
まとめ
53:00
神武天皇について興味深い仮説
系譜を見て名前をジーっと見てると、だんだん繋がりが見える時あります。
女系が鍵な気がしてきました。大日本根子彦太瓊尊、からの崇神天皇と彦坐王からの分裂がポイントだと思うんですよね。からの鹿島神宮が繋がると良いんですよね。
面白かったので、イイね登録しました♪
大変興味深く拝見しました。
香川県 田村神社、一宮寺(さぬきいちのみやじ)の所在する一宮には『の』の字がありませんが『いちのみや』と読みます。
日本語は難しいですね。
香川県からは「村」がなくなり、熊野権現桃太郎神社の住所は、高松市鬼無町鬼無(きなしちょうきなし)となっています。
古事記の漢字を丁寧に調べられて、白川静先生の「字通」で調べられたところに感激しました。私も白川先生の文字を学ぶことから始めています。
@yorikoono2943 さん
ご視聴・コメントありがとうございます。
細かい所に気が付いて頂いて、嬉しいです。ありがとうございます。
字通面白いですよね。
詳細な調査ありがとうございます。
関裕二先生がやはり神社から古代の神を追っていますね。
欠史八代に関しても実在したであろうと。
私も同意見です。
投稿主さんがおっしゃるように、八代の天皇はいらして、
記紀編纂時にはそれを知る人々がまだいたので無視することが出来なかった、
事績の顕彰まではしたくないので記述が少なかった、
ということだと思います。
戦後の研究者が言うように天皇家の家系を権威ずける為の創作なら
逆にもっと話を盛って褒め称えればいいし、年齢が人間離れしていて不自然なら
何人か足して辻褄を合わせればいい、捏造ならもっと巧く書けた筈です。
実在したからこそ書きたくはなくても書き留めておかざるを得なかったというのが正解だと思います。
二ューヨークで拝見させて頂いております。素晴らしい力作だと思います。続きが楽しみです。
で、なんですが、沢山の地名が出て来たので、仕方のない事なんでしょうですし、松前藩の所為でそう言う読み方になりがちなんでしょうが、少なくとも愛媛県の松前町は、「『まつまえ』ちょう」ではなく、「『まさき』ちょう」です。揚げ足をを取る様で、申し訳ないのですが、気になったので書き込みました。
@Kenjixny さん
ニューヨークからご視聴ありがとうございます!
そうなんですよね、読み方って気になりますよね。すみません。
なるべく間違えないように気にはしているのですが、四国の各地の読み方かなり苦戦しています(>_
@@right-post さん、完璧にするのは、非常に難しいと思います。本なら漢字で書いて了えばそれで終わりなんですけれどもね、動画にすると読みを入れないと行けないので、これだけ変わった地名が出て来れば、本当に大変な作業だと思います。
頑張って下さい!
私のおおばあちゃんがゆすはらで子どもの頃よく行きました、また行きたくなるな😊
勉強になります。(細かいが・・)三島市は今は四国中央市、伊予神社で松前の読みは「まつまえ」でなく「まさき」 テーマとは違うのかもしれないが、古事記でてくる「愛比売命(えひめのみこと)」は言ってほしかった。主祭神 彦狭島命
社格等 式内社(名神大社)主祭神 彦狭島命(孝霊天皇の息子)配神 愛比売命(えひめのみこと)伊予津彦命(いよつひこのみこと)伊予津姫命(いよつひめのみこと)日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)細姫命 速後上命(はやのちあがりのみこと) 孝霊天皇の息子、娘が、伊予、讃岐、吉備にいたので注目している。
コメント・ご指摘ありがとうございます。
今回の動画で、かなり色々な地を紹介したのですが
読み方間違えがありそうだなと思っていましたので助かります。
概要欄の正誤表に記載します。
あと、伊予では、伊予津彦命(いよつひこのみこと)は饒速日といわれている。伊予津彦命など名前としてはおかしいですもんね。伊予を統治した人とのこと。
最近、初めて愛媛県に遊びに行って、エミフルMASAKIという立派なショッピングモールに買い物に行ったのですが、MASAKIって人の名前が何かと思ってました😅
初見殺しの地名って絶対何かありますよね😄
愛媛では前々から気になっていた大山祇神社と阿奈波神社へ参拝に行きました。阿奈波神社は数年前の台風の影響?で社が傷んでいましたが、ものすごく優しい気で包まれる様な感じがしたので、ここに祀られている岩長姫(石長比売、磐長姫)はきっと、心の優しい神様だったんだろうなと思いました。
途中の鶴姫の像も感慨深いものがあります😄
誰かクラファンで阿奈波神社修復の募金募ってくれないかなぁ
@@satokatsuUT さん
コメントありがとうございます。
四国の地名は、独特で、動画を作るたびに、読み方を間違えています😅
なるべく読み方間違えないように心がけていても、それでも、やはり読み方を間違えをしてしまいます。
本当ですね、四国の神社は、どうしても管理が行き届かない神社があるようで
豪華にする必要はないのですが、壊れた部分をなおしたり、雨風をしのげたり出来るようになれば有難いです。
少しでも多くの方に実情を知っていただき、各県や各県の神社庁などが修理して頂けると有難いのですが。
素晴らしいです😊
かなり興味深いですね。
私は愛媛にいますので紹介されていた神社を参ってみようと思います。
ちなみに、たるみ町と読みます😊
@user-rj5um3nb2v さん
ご視聴ありがとうございます。
良いですね~。是非参拝して頂けたら嬉しいです。何か情報ありましたら教えて下さい。
あっ、読み方間違えていましたかね?
とても分かりやすく、よくまとめられたと感心しながら視聴させて頂きました。
チャンネル登録して新たな情報を待ちますね👍
@shinw2022 さん
ご視聴・コメントありがとうございます。
今回は力を入れて作りました。
はい、気長にお待ちください(笑)
面白くて、楽しく拝見しました。他の歴史的知見にも通じる、画期的な所見だとおもいます。
@user-bn4pl7ln3k さん
ご視聴・コメントありがとうございます。
楽んで見て頂けたこと、それが一番うれしいです。
ご返事ありがとうございます‼️ どういうわけか❓天照大御神様の絵画を描くようになりました。叔母さんが、四国、神宮と言う地名出身地だと聴いています‼️絵画や、ユウチューブ等で世界に発信したいです。
@kalenselene4456 さん
叔母さんが神宮という地名なんですか。凄いですね。
神社や記紀の神様を、多くの人に知って貰らう活動頑張ってください。応援しています。
藤岡信勝先生の歴史講座で欠史8代について話されてました。
藤岡先生の動画見させて頂きました。
有り難うございます。何かヒントになればです
狛犬が好きなネコさんに期待してます。
奈良でいくら探してもわからないのと、違和感だらけの天皇陵だけがポツンとある不自然さの謎が解けました。間違いなく四国ですね。
@user-xi5oc7xb9i さん
コメントありがとうございます。
そうですよね。私が調べるのも、いつも違和感から始まります。
詳しく、ありがとうございます。
どれも物部忌部絡みの天皇かなと思います。
物部忌部は阿波から安房へ向かい、開拓をした。
まず、四国を拠点にしたという事なのかも。
記紀を出雲口伝やホツマツタヱなどと照らし合わせて、読み解いているのですが、出雲口伝では、神武天皇=天村雲命で、宮崎と東海(尾張)との関係が考えられます。
耳が付くのは、九州南部や琉球。天村雲命は高倉下(オオヤマツミ・三島)と久米の娘。
神八井耳命は大彦(越/北陸治人)・大伴氏(天忍日命)とも考えられ、神沼河耳命(綏靖天皇)は武渟川別(阿倍臣祖・ホツマ/東海治人)で、奴奈川姫との関係が考えられる。越の奴奈川姫の息子は、諏訪の建御名方神。
大彦と一緒に行動したのは大山祇を祀った三島なので、三三島の一つがある愛媛が綏靖天皇絡みなのは分かる気がします。綏靖天皇は大彦と三島の皇子。
綏靖天皇の皇子の安寧天皇の浮孔宮はどこだろう?と思っていましたが、愛媛の浮穴郡かもしれませんね。大彦の祀った積羽八重事代主神の金比羅宮が何で四国にあるのか?と思っていたのですが、理由が分かった気がします。
祀られたのは先祖や信仰していた神で、祀っていたのは、その子孫。祀る側と祀られる側を分けて考えないといけません。
ホツマツタヱによると、積羽八重事代主神は、弟の建布都と共にイフキの宮(金比羅宮)にて四国24県を治めた。
イフキの宮、アスカの宮(奈良)と住み、阿波→ハラ(静岡)→ミシマ(大阪)→ハラ(静岡)→ ミシマ(大阪)→ 伊予と移動したようです。
大神神社の大物主大神は、積羽八重事代主神、または息子の天日方奇日方命と考えられ、母神は刺国若姫命で、刺国とは鹿児島の指宿辺りのことです。
キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!! 阿波説を追いながら、阿波になんかあるのなら、四国全体、瀬戸内にになんかあるだろうなあ・・・とずっと思ってます。吉備・モモソヒメ・讃岐は確実にワンセットです。物部(物部川・物部村)だらけの高知ですが、その物部村、市町村合併で今は香美市ですが。「かみ」市ですw そこに神がいたから。そこに鏡があったから。かと。
わくわくして眠れません。
今後の考察も楽しみにしています!
ちなみに「仁井田米」は高知で一番おいしいブランド米です。檮原の下流が産地。良い場所ってことですよね。
@user-vs7ej4vp1w さん
ご視聴・コメントありがとうございます。
地名は大切ですよね。
特に、四国・奈良・京都といった皇室がおられた場所の地名は大切です。
(タモリさんがブラタモリで言っていましたが、地名は効率化などで変えてダメだと。)
仁井田米は気になります。今度購入し食してみます。
@@right-post さん ご返信ありがとうございます。ついでについでに、高知市のど真ん中を流れる川は「鏡川」(笑)昔は「鏡村」(現在は高知市)という地名もありました。そして「紙」の名産地の伊野はすぐ近くです。仁井田米はにこまるがおすすめです。報告は以上ですw
@user-vs7ej4vp1w ニギハヤヒを調べている時に香我美町を見ました。カガミですね。ご丁寧にありがとうございます。にこまる、了解です。
高知県民です。香美市は八咫烏にも繋がっています。私は子供の頃、ひいばあちゃんの故郷の高岡郡加茂町に遊びに行ったり、現在在住の場所の近辺には、一ノ宮神社と星神社があります。土佐神宮にも何度か行きましたが、土佐神宮は女性の神様だと聞きましたが本当かわかりません。ただ、女性の神様だから彼氏とお祭りに行くと、別れると言うジンクスがありました。😂四国からカタカムナが発見されており、カタカムナを調べていた専門家は、皆さん変死で亡くなられています。カタカムナの58音は、四国のアワ、サヌキ、イヨ、トサの地名が入り、陰と陽を表されていると解釈されている方がおりました。アワとサヌキが陽で、イヨとトサが陰です。四国に居ながら益々、四国を知りたいと思う日々です。勉強になりました。ありがとうございました。
@@cheesecakestrawberry-ki7mw さん 私も香美市の辺りに八咫烏を感じます!奈良から土佐じゃなく、土佐から奈良だと思います。いろんなことが。八咫烏、今はあんぱんまんとして子供たちの見方です。それでいいのかもしれませんが、ホントのこと知りたいですね。
ミマキとイクメについて深掘りしてください。
@gingingingingin さん
ご視聴ありがとうございます。いつか、調べてみたいです。
伊予郡中山町は現在伊予市中山町ですね。出淵いずぶちです。
綏靖天皇を祭神とする社は、高岡市「有礒正八幡宮」、磯城郡「多坐弥志理都比古神社」など、数社ありますね。
@user-rx8xg7ql3l さん
ご視聴ありがとうございます。
綏靖天皇と神八井耳命は、全国に幾つかあるようですね。
お見事。神武東征の際に四国の記述が無いので不思議だったのですが、四国は当時最強レベルの海運力があったはず。水神が多いですね。出雲の婚姻同盟ほど強固ではないながら緩い同盟だったのかも。協力した四国に王権を名義貸しみたいに分けた気がします。統一された政体ではなく古代ギリシャのボリスみたいな関係だったのかも。
@wbgu1561 さん
ご視聴・コメントありがとうございます。
四国には、水神・山神など記紀に現れる神が式内社として多く祀られています。
そうですね、古代四国は列強国の1つなはずです。
綿密に調査された労作に感服致しました。神武天皇に関する白何とか宮という漢字が記紀に出ているのでしょうか?
また、大彦という名は出雲口伝でも有名なので、物部東征との関連も知りたいですね。
@UnknownUnknown-nx7ov さん
ご視聴・コメントありがとうございます。
白檮原宮(かしはらのみや)ですね。古事記はこの字です。
kojiki.kokugakuin.ac.jp/kyuto/unebinokashiharanomiya/
大彦は、そのうち触れるかと思います(崇神の御代で)
@@right-post
ありがとうございます。
待ち遠しく大いに期待しております。
@UnknownUnknown-nx7ov さん
崇神の御代で四道将軍として大彦がおりますので、そこで触れる予定ですが
物部東征は出てこないのです。期待頂いたのにすみません。
@@right-post
何が真実か? そこに肉迫して頂ければ満足です。😅
ちなみに先日ごしゃ神社お参りしてました😊
今は久万高原町となりました。
おんせんぐんも私がこちらにすみだしてからは東温市になりました。😊😊
@user-rj5um3nb2v さん
ご視聴ありがとうございます。
またご参拝ありがとうございます。
皆さんが神社に行く切っ掛けになれば幸いです。
因みに、ごしゃ神社は、房代野にあるごしゃ神社でしょうか。
私が調べた神社誌が、昭和49年と古く名前が変わっているんですよね。
ウマシマジもあるけど宇摩説という物でウマシアシカビヒコヂが言われていた。三島市豊岡町と言っていた場所は合併で四国中央市になっていて、その範囲が郡県で言う所の宇摩郡に近い。
@user-sf3ps1yj8k さん
ご視聴・コメントありがとうございます。
そうですよね、別天神(ことあまつかみ)のウマシアシカビヒコヂノカミもウマシですもんね。
はい、宇摩郡とても気になっているのですが、
宇摩郡に、ウマシマジやウマシアシカビヒコヂノカミの神社が、まだ見つけられていないのです。
もし宇摩郡にどちらかの神を祀る神社があれば、是非教えて下さい。よろしくお願いしますm(_ _)m
神社はその子孫が移った場所に祖先を祀ることが多いので、その地にその子孫が居た記録があれば、先祖が居たとは言い切れないと思います。
ただ、私もこの間、神八井耳命を追って、西条市などを旅し、神社や考古学館などを周ってきましたが、松山から今治、西条あたりはとても気になる場所ですね♪
また、高知は居徳遺跡などの戦争の痕跡や鏡川(物部川)と伊加賀色許雄との関係(いかがしって伊+カガシ(蛇)では?と妄想したり)、仁井田遺跡、突如として消えた田村遺跡・・・高知は私にとってはミステリーエリアです♪
@ChikakoKawahara-gr9qn さん
コメントありがとうございます。
そうですね。ニギハヤヒが天下った地に祀られているのは天忍穂別神社(アメノオシホミミ)でしたので、自身の祖神を祀っていますね。
前回のニギハヤヒと今回の欠史八代を調査して、高知は、何か重要な事が隠されているような気がします。
白皇神社が数多くあるですが、何者なのか分からないのです。
愛媛の神社とか町誌に綏靖天皇のこととか書かれていたのですが2000年以降徐々になくなってしまった。なぜなのか?
@tomohiroinoue885 さん
そうなんですね。2000年以降徐々になくなってしまっているのですね。
理由は私にも分からないのですが、確かに佐々久神社にある由緒板にも名前が書いていなかったです。
今回、調査に使った愛媛県神社誌は昭和49年に作成されたものでしたので、まだ記載があり見つける事が出来ました。
でももしかしたら、欠史八代の痕跡は、欠史となってからは
徐々に消されていってしまっているのかもしれません。
高知は古代の信仰の形を残しつつ、いろいろな宗教の体系が混淆しているいざなぎ流神道、特異な神道宗教家など、神社というか神社以前の信仰の形態が確実に残っている土地柄でもあります。
とうとう、出てきだしたのね、こういうのってのが感想です、元徳島県民です
徳島にはスサノオの御陵とされてる古墳とツクヨミの御陵とされてる古墳がとあるゴルフ場にありますし
スサノオの御陵とされてる古墳の近くには一番最初にスサノオを奉ったとされる神社があってその神社は山の中なんだけど
その山を見るように、国道沿いにとある神社がありますね
そんで、天照大神の葬式をした神社もありまして、そこは御陵とされてます
つまり三貴子の御陵があるってわけです
欠史八代だけじゃなくて色々ありますね
@kazenifukarete.ameninurete さん
ご視聴・コメントありがとうございます。
そうですね、阿波には記紀の神代の神様たちの痕跡がたくさんありますね。
これから、どんどん真実が見えてくるのはないでしょうか。
井川神社めっちゃ近所でビビった!そのうち行ってみよ!
@tenlightenmentrecords さん
ご視聴・コメントありがとうございます。
愛媛と徳島のどちらの井川神社でしょうか。私は愛媛の井川神社に行こうとしたのですが、たどり着けませんでした。
第二代天皇のところで、住所は松山市味酒町、この地名はミサケマチと読みます😊
@syukeitai6181 さん
ご視聴・コメントありがとうございます。
はい、ミサケマチですよね。ご指摘もありがとございます。
一度公開した動画は修正出来ないため、概要欄の正誤表に記載させて頂いております。
ご苦労様でした。今回は大作でしたね。
なるほど・・高知に神武天皇の橿原の宮が在った・・という事ですか?
面白いとは思いますが、ただ高知県には大和朝廷のシンボルである前方後円墳が一つも存在してないんですよね・・。ですので高知が大和朝廷の版図に収まったのはかなり後の時代になってからではないか? と思うんです。
徳島県人として感じるのは四国の中で高知は少々異質で北部とは異なる文化圏であるように思える事です(土佐弁は阿波弁や伊予弁などとはかなり異質)。
邪馬台国の敵対国として魏志倭人伝に登場する狗奴国が高知県の事であれば阿波人としてはすごく納得できるんですよね・・。昔から土佐は戦争に強いとこちらでは言われていて、戦国時代には土佐の長宗我部に四国が全部征服されたりしてます(その際に長曾我部は阿波の歴史ある神社や寺を片っ端から焼きまくりました😱)。だから邪馬台国時代も高知にはきっと苦労させられたんだろうなぁ・・と考えてしまうんですね🤕(笑)
そういう訳で徳島県民の感覚では阿波と高知は宿敵どうしみたいな感じで、古代においても同胞として仲良くやっていたとはとても思えないんですよ😓
@ernest-tachibana さん
コメントありがとうございます。
きっと徳島の方々からは、ご意見・ご指摘を頂くと思っておりました。
私も古事記の中で、伊豫之二名島の中で一人だけ別(ワケ)である土佐国の建依別が気になっていたのは事実です。
ただ前回「もう一人の天孫降臨ニギハヤヒ」で、高知県の神社誌を調べた際に、今まで見た事のない考安天皇の兄「天押帯日子命」の式内社と
孝霊天皇こと「ふとに」の仁井田神社が多数ある事を見つけ、欠史八代を調べるなら、一旦フラットに四国全体を調査しないといけないと思い
今回の流れとなりました。神武天皇の白檮原宮は、まだ仮説ですので、もう少し調べていこうと思います。
ご意見頂き、感謝申し上げます。
@@right-post
西暦107年の委面土国が、高知ではないかと思ったりしてます。
奈良盆地の前方後円墳は欠史8代の時代よりも、新しい時代のもので、10代目以降でしょう。
素敵な動画をありがとうございました😊
土佐人ですが、高知市内からゆすはらは遠すぎて行ったことがありません。
でもいつか行ってみたいです✨️
@blackcherryblack さん
ご視聴・コメントありがとうございます。
はい、ぜひ訪れてみてください。
私も、先日はじめて檮原町を訪れましたが
三嶋神社とても良かったです。
梼原の役場の近くにある資料館のような所で知ったのですが、梼原の地に移り住んだ人達を支援したのは愛媛は松山の河野氏でした。
河野氏は信長の命を受けて四国討伐にやってきた秀吉の時代まで愛媛を治めていました。
河野氏は瀬戸内海の水先案内人であり水軍でした。
道後温泉そばにある湯築城跡は河野氏の城跡です。
今の松山城は江戸時代以降の家康に任命された殿様の築城したものです。
21:24 霊場=れいジョウ
これ永久保存版ですね。スゴイ力作。お疲れ様でした。
畝傍山観測所みたいなものはありましたが、畝傍山自身はないのでしょうか。不思議ですね。
欠史八代の天皇を祀る神社は、四国以外ではゼロということでしょうか。私は一度たりとも見たことも聞いたこともありませんが。
@hayek218 さん
コメントありがとうございます。
畝傍山は見つけられませんでした。名前が消されてしまっているのかもしれません。
(名前が消されると分からなくなるのは、映画千と千尋の神隠しのようです)
欠史八代の神社が日本全国でゼロかどうかは分からないのですが
欠史の八代の痕跡が、まんべんなく残っているのは、四国だけだと思います。
(神八井耳命の神社がある事を、他の方の動画でおっしゃっていました。)
何々天皇というのは謚(おくりな)、何々天皇と名付けるようになったのは持統天皇の時代に始まる、聖徳太子というのも謚、令和の今上天皇陛下も上皇陛下もまだ平成天皇とか令和天皇とは言わない。
@kikuaki-fy3og さん
ご視聴ありがとうございます。
そうですね。説明の便宜上、仕方ないのでご容赦下さい。
最後の大胆な仮説が気になりました。時間を見つけて梼原町に行ってみたいと思います。
@takashiido3160 さん
良いですね~。私もいつか檮原町に行ってみたいです。何か情報ありましたらぜひ教えて下さい。
カムヤイミミノミコト、『古事記』では伊余国造・科野国造・道奥石城国造・常道仲国造・長狭国造の祖とする。とWIKIにありました。とすると、祖であるカムヤイミミをまつる神社があっても不思議ではないですね。信濃国、常陸国、など他の国の神社には先祖をまつる神社はないのでしょうか?
自分で調べてみたら、常陸には笠間市の大井神社が主祭神、信濃には合い殿神ですが、山家神社がありました。子孫は多くいるようなので彼らが祀ったのでしょう。欠史八代の方々の最大の事跡は日本全国に血統を多く残したことであると、竹田恒泰さんが言っていましたが、なぜか四国に八代をお祀りする子孫が多い、ともいえるかもしれませんね。
@TheKzit1969 さん
そうですね。彼らの家系の子孫が全国に広がっている感じがします。つまり欠史ではないという事の表われだと思います。
忌部氏・物部氏・海部氏が全国に広がっているのと同じような感じですね。こちらも元は四国だと私は思っています。
ちなみに、竹田さんなぜか四国に多いと言われていたのでしょうか?
「玄松子の記憶」という、よく参考にさせて頂くサイトを見ると以下の感じでした。
(玄松子さんが参拝した神社のみらしく全部が式内社ではないですが。)
genbu.net/
--「玄松子の記憶」--
<2代:綏靖天皇
有礒正八幡宮 富山県高岡市横田町3-1-1
多坐弥志理都比古神社 奈良県磯城郡田原本町大字多字宮ノ内569
神部神社 山梨県山梨市上神内川920
宇奈岐日女神社 大分県由布市湯布院町川上2220
<兄:神八井耳命
多々神社 新潟県柏崎市大字曽地1325
大井神社 茨城県笠間市大渕1652
阿沼美神社 愛媛県松山市味酒町3-1-1
伊豫神社 愛媛県伊予市上野宮神戸郷2485
佐々久神社 愛媛県西条市安用512
伊達神社 和歌山県和歌山市園部1580
於呂閇志胆澤川神社 岩手県奥州市胆沢区若柳字下堰袋48
健御名方富命彦神別神社 長野県長野市信州新町水内斉宮3154
多坐弥志理都比古神社 奈良県磯城郡田原本町大字多字宮ノ内569
嶋田神社 奈良県奈良市八島町320
仲神社 三重県多気郡明和町上野字仲畑245
宇爾櫻神社 三重県多気郡明和町有爾中679
<3代:安寧天皇
なし
<4代:懿徳天皇
櫟原北代比古神社 石川県輪島市深見町40-60乙町
<5代:孝昭天皇
神田神社 境内 棋神社 滋賀県大津市真野4-7-2
<6代:孝安天皇
小野神社 境内 安津神社 東京都多摩市一ノ宮1-18-8
<7代:孝霊天皇
二宮神社 広島県福山市神辺町八尋1203
三島神社 新潟県柏崎市剣野町2-18
伊豫神社 愛媛県伊予郡松前町神崎字小斎院193
吉備津彦神社 岡山県岡山市北区一宮1043
吉備津神社 境内 本宮 岡山県岡山市北区吉備津931
水主神社 境内 孝霊神社 香川県東かがわ市水主1418
<8代:孝元天皇
布制神社 長野県長野市篠ノ井石川布制山2173
牟佐坐神社 奈良県橿原市見瀬町字庄屋垣内718
矢田八幡神社 京都府京丹後市久美浜町佐野
舟津神社 福井県鯖江市舟津町1-3-5
津野神社 滋賀県高島市今津町北仰316-1
吉備津彦神社 岡山県岡山市北区一宮1043
<9代:開化天皇
小幡神社 京都府亀岡市曽我部町穴太宮垣内1
吉備津彦神社 岡山県岡山市北区一宮1043
追伸:この動画を会の方へシェアさせて頂きます🙇♀
@user-mt1kv6fz8o さん
はい、よろしくお願いします。
シンきー歴史沼チャンネル
th-cam.com/video/zBcRa-PVyac/w-d-xo.htmlsi=uifQGdFmX-xzNtZa
この若い女性は、茂木誠氏ともサシで天皇家について議論できる知識量と探究心旺盛な歴女?です。
四国の歴史を正しく表に表そうとする意図が思いやる気持ちと共に伝わって来て。是非、交流してみて下さい!
コメントありがとうございます。
キーちゃんは既に知合いです👍
22:46 伊予の二名洲=いよのふたなのしま
26:25 讃岐国一宮=さぬきのくにいちのみや
一宮町=いちのみやちょう
一宮大明神=いちのみやだいみょうじん
遥か昔の海を渡った遥か西の国から来た天皇の意味は開拓者の意味。
当然、目的地である四国に天皇がいたのは当然の事だろう
五社は
山内一豊入国の際、山内の使いが神社にいくと馬に乗って出迎えそれが無礼と怒りを買ったことで宝物をもって愛媛に逃げたらしい
長宗我部時代は社格が高く騎馬も許されていたらしい
またいまでこそ小さくなったけど、かつては行基が聖武天皇の勅を奉じて福円満寺を建立し、さらに七難即滅、七福即生を祈念して、天の七星を模って宝福寺・長福寺など六寺を建立し、合わせて仁井田七福寺と称したといいます。
その後、弘法大師が弘仁年間(810~823)に五社五仏を建立し、七福寺と合わせて仁井田十二福寺と称し、五社は仁井田五社と呼ばれて神仏習合の霊場として栄えました
敷地も広くホントの鳥居は川の上です
@sinobukawajiri9650 さん
ご視聴・コメントありがとうございます。
また、詳細な情報もありがとうございます。
@@right-post
明治の頃は県社なので社格がありましたね
昔は神祭のときには神輿が出て宝刀やら矢箱やら弓やら行列で近くの四万十川沿いの神輿台まで練り歩き流鏑馬なんかもあったんですよ
沿道に出店もズラーッと並んで
いまは寂しいものですね
私は邪馬台国は四国山頂及び阿波地域説を支持してるので欠史八代のこの動画たいへん面白かったです
@sinobukawajiri9650 さん
返信ありがとうございます。
そうなんですね。昔はとても賑やかだったんですね。
宝刀や流鏑馬見たかったです。
何とか、四国の神社を維持できるようにしたいです。
11:31 国造=くにのみやつこ(コクゾウに非ズ)
失史8代としたら神武さんにも,お子さん生まれなかったみたいで、万世一系をどうやってしたのでしょうね最大の謎です
@user-lx5rz2ml5u さん
ご視聴・コメントありがとうございます。
本当のところ、古代社会の争いの続く世の中での万世一系なんてのは有り得ないでしょう
私もなんだか、そう考える様になりました。子供の頃は神武と言う天皇の血が途絶えはなかった万世一系なんて世界の王族でされも、中国も途切れ、途切れで王ですとしているしそれなりの親戚やいろんな所に神武の血を持つシステムがあって出来るのだと考えて来たし、GHQの縮小計画があって今に影響来たかなと、しかしながら古代には新羅から王を迎え天皇にしているし継体天皇当たりや武烈?雄略にも子供なしの危機だし、古代豪族が外戚争いし地位確保とか真剣に世継ぎなど考えなかったし、近親相姦もあったし、何回も途絶えていると思います。尊いお方だから調査も難しいし、系図で誤魔化されている感じが気がします。
万世一系なんて有り得ないと思う私も、古代は新羅から王族迎え天皇なっているし、外戚の豪族の争いに御門も巻き込まれたし、女帝の中継ぎにも果たして神武の血の子か分からないし
@@right-post
私も同感です。それに新羅の王族を日本に来てもらい天皇の例もあるし
御門を誰にを外戚の豪族たちの策略で外戚の子供が天皇にの争いだらけですから万世一系は終わっていると思います
四国が 日本の原点であるのではないかという話しには 興味を持っています。
神武東征は、檮原から 阿波地域に 東征したと言う事に なるんでしょうか ?
@user-sy8gb1kh2g さん
ご視聴・コメントありがとうございます。
今回の神武天皇の宮の仮説は、檮原という地名から白檮原(かしはら)を推定しました。
その為、白檮原が檮原だとすると、そこより南西から檮原に着いたのかもしれません。
例えば白王という名の人が高知県の幡多郡などから。
ただ、これは現時点では証拠がないので、あくまで私の推測(仮説)になります。
@@right-post 檮原が 目指すべき 良い土地とは思えませんが。
学術的にないとされているということは探られたら困るということ。いたに違いない。
@user-sh1hd8ge5t さん
ありがとうございます。
46:03 記(しる)され
第73世竹内宿禰•むっちゃん先生も欠史八代ではないと仰っています。th-cam.com/video/dHQ72YlvvlM/w-d-xo.htmlfeature=shared
一気に見させていただきました。どこも行って見たいです。今年は辰年なので、田村神社に行ってみたいと思います。ありがとうございます。
興味深く拝見しました。
徳島出身の知り合いがショボクレてるので、さっそくこのネタ使って励まそうと思います。
ただ残念だったのは、誤字や用語読み誤りの多いこと。
せっかく新機軸を打ち出そうというのに、単純ミス続出では、「なんや、素人が素っ頓狂なこと、またやっとるで」と軽視されるだけです。
逐一あげつらいませんが、たとえば、
考昭考安・・・⇒孝昭孝安・・・ 元慶⇒がんぎょう 国造⇒くにのみやつこ 県社⇒けんしゃ
それに、現地に直接訪問した上での発表ではないのですね? 「行ってみたい」といったご発言から推測しましたが。
考古学を振りかざして攻めてきたかたがいるようですが、やっぱり現地を踏んだ上で、なにか現物証拠を示さないとなかなか普遍的な説得力は持たないと思います。当方はある程度の信憑性を感じますが。
それから、狛犬の特徴などはあまり重視できないのでは。明治以後に(なんとなく)つくった物も多いでしょうから。
@user-zh6dy5cx6y さん
ご視聴・コメントありがとうございます。
友人を励ますネタの一つにもでもなれば幸いです。
また、ご指摘ありがとうございます。ヒョエ~、結構間違えていますね。
概要欄の正誤表に追記しておきます。
そうですね。考古学を振りかざして攻めてきたがる人は多いです(笑)
まー、私はただのエンジニアなので、素人の素っ頓狂なことかもしれません(笑)
現地はこの動画の次の動画で紹介しています(前編・中編で後編は未だですが)
予想通りの場所、違った場所、また悪路でたどり着けない場所色々ありました。
何回か行かないと行けない場所、氏子さんと話したり、祭りなどにも参加したりしないと
見えてこないのでしょうね。
また物的証拠は難しいですね。特に欠史八代は事績がないから縁の物かどうか判断しかねます。
ただ面白い物は幾つかあって、四万十市の一宮神社の七星剣。原田武夫国際戦略情報研究所が寄付して年代特定を行っているのですが今年10月に一次報告が出るとの事。また土佐国二宮の小村神社の御神体の「国宝・金銅荘環頭大刀拵・大刀身」は、製作年代は古墳時代末期と推測され、大刀としては日本最古の伝世品であり、とても興味深いと思っています。欠史八代に繋がるかは分からないですが、四国には古代史における無視出来ない物はあるように感じます。
これは私の趣味なので、気長に調べながら、間違えがあったら修正しながら、発信していこうと思っています。
塩崎雪生さんも何か発見や情報があれば教えて頂ければと思います。
ショウドーイキもしくはオキラインてのが日本国つくりの基本霊ラインらしい
天皇の諡は時代の世相を反映して付けられたと言われてます。
初代神武から4代懿徳までは平和な世の中であったと思われます。
5代孝昭から8代孝元まで孝が付きます。
6代孝安ですが、後漢の孝安帝の時代。後漢書に書かれた107年に生口160人を献上した帥升は師飛(シヒ)でクニオシヒト(孝安天皇)の事。
孝安帝の後、孝霊帝の時代がありますが和国も孝安天皇の後、孝霊天皇なるので、時代を反映していると思われます。
そう考えると孝の付く4人の天皇の時代は後漢に生口献上して朝貢しているので孝昭時代から後漢の属国となっていたと考える事ができます。
魏書には孝桓帝から孝霊帝の時代(146〜189年)、互いに攻め合って主のいない時代と書かれています。(和国大乱)
この頃のヤマトは磯城王朝の時代ですが、ヤマトは磯城王家、出雲系登美家、海部尾張家、高鴨家の豪族の争いで、磯城王家もヤマトの1/3程度しか統一できておらず、勢力も2番目だったと伝えられています。
フトニ(孝霊)は、ヤマトから去り吉備、伯耆へ行ってます。
ひょっとすると、孝の付く天皇4人はヤマトでなく、阿波に宮を置いて後漢の属国のもと、勢力巻き返しを策略した可能性もありますね。
すれば阿波のヤマト説や天皇が阿波に祀られている事に辻褄が合います。
魏書に、その女王が立つと戦乱が収まり和国に平和が訪れた と 書かれたのがクニクル(孝元)の皇女、モモソ姫で、開花天皇(オオヒビ)へと繋がり、ここでも時代が変わった事がわかります。
魏書には、漢の時代に和国は100余りの国があり、30余りの国が漢と交流があったと記されてます。
四国は土地の土質が違う。
四国は南から北上した島で龍の腹
歴史は勝者により隠蔽される。
神社関係は神仏分離の際に「由緒のよくわからない祭神を祀る神社が多いがそのような神を祀るのはよくないので、由緒正しい神に変えるように」という国の方針で本来の祭神が変更され、よくわからなくなっていることが多いです。
そういう理由でほぼ事績のない上代の天皇を祀ることにした社も多いかと思われます。
なので、現在の社伝を引くよりは、江戸期以前の記録を探すほうがよろしいかと。
@tou_ri さん
コメント・情報ありがとうございます。
今回は国立国会図書館の昭和初期の四国各県の神社誌を利用させていただいたのですが
(それしかなかったので。)、江戸期以前の記録はどういったものか御存知でしたら
調べますので、ご教授頂けますでしょうか。
阿波説は今、流行ってるだけで後々笑い草になる気がします。
今回の動画は阿波説ではなく、四国です。
笑いたい方には笑わせておけばよいのです。
自分の心を動かすものに夢中になったり・情熱を注ぐことは、それだけで素晴らしい行動だと、私は思います。
こんにちは✨😃❗😊😮😊😮😊
@user-xm6kb4pz2p さん、こんにちは~
寓居=ぐうきょ
欠史、いない、などと、学術的に証明なんかされていないでしょ?
出来ないですよ、証明なんか。
真正面から研究などされてきたわけじゃありませんから。
そうですね。いない事を証明する事は出来ないはずです。そういうのを悪魔の証明というらしいです。
土佐の鬼王ダイバンをご存じですか?鬼といえば、人間の敵、恐ろしい存在と思われていますが、ダイバンは英雄です。
@user-ti5sz8tn4j さん
ご視聴・コメントありがとうございます。
ダイバン初めて知りました!
そうなんですね。今度調べてみます( ..)φメモメモ
情報ありがとうございます。
画面で字がちいさ過ぎて全く読めません。ピントも微妙にズレてるし。
な~んだ、ここで欠史8代の説明してたのか。
てゆ~か 神社の文献探しても・・・古事記の記述があるから 後から創作したものかもよ?
「年代の矛盾」が説明できてないから まあこんな推測もあるよねって感じ。
「出雲口伝」を読んでいるなら 欠史8代の 妻の名前が書かれてるよ。
実在した可能性が高くなるし、その年代を追えば・・・年代の矛盾は解消する。
気づくはず・・・紀元前660年は 神武東征ではなく、大国主の 出雲王朝建国です。
@mrrx2364 さん
出雲口伝は人気ですね。私も読みましたよ。多くの方が出雲口伝を押しますね。mrrxさんも出雲口伝が好きなら動画にして公開してみては如何でしょうか。色々な方から様々なコメント頂けると思いますよ。
ちなみに、國學院大學の谷口教授の寄稿を読むと、古事記は皇后の娯楽用、または皇子の教育用に作られたという見方で、完成後に広く読まれた形跡がなく、宮中内部の私的な文書であったと言われています。日本書記は中央政府の官人が勉強目的で読んでいたようです。つまり一般的な庶民の読み物ではなかったということですね。
また佛教大学の斎藤教授の講演によると、本居宣長が『古事記伝』を完成させたのは寛政10年(1798年)これにより古事記がはじめてメジャーとなるとのことです。(補足すると江戸時代に出版・印刷業が始まり1644年に古事記も出版されるているようです。古事記を研究していたのは徳川光圀(水戸黄門)であるとの事です。)
動画内で説明させて頂きましたが、今回紹介した神社は、この1798年以前の延喜式内社が多くあり、また古事記編纂712年以前の神社もあります。
当然神社の由緒は、合祀や祭神変更などがあり、全て信じる事は難しいと思います。私もこれが満点なんて思いません。古代史に満点回答はありませんから。
ただ1人の古代天皇の神社があるのではなく、欠史八代の天皇・后妃・兄弟・皇子女の様々な神社が、少なくとも1000年以上前から、時の朝廷が認めた式内社として存在するという事実は、無視出来ないと思います。
私は今迄見えていなかった情報を繋ぎ合わせたに過ぎません。あとは皆様、受け手の感性だと思います。無視しても良いですし、面白いと思って四国を探ってもよいですし、否定してもよいです。ただ古代史に興味があり、1ミリでも前に進みたいと思うなら、色々な可能性を探ってみるべきかと思います。
もしmrrxさんが出雲口伝の動画作られたら教えて下さいね。必ず視聴して感想書きますから。
@@right-post up主さまは 四国に思い入れがある・・・
思い込んでしまうとバイアスがかかり 正確な判断が出来なくなってる。
記紀と出雲口伝だけでなく、四国神社や古史古伝も確かに読まれているが、それでは証拠不足。
紀元前660年は 神武東征ではなく、大国主の 出雲王朝建国だから。
日本人のDNA解析で Y染色体ハプロタイプの年代推移が発表されている。
記紀や古史古伝の 「ウガヤフキアエズ王朝」が九州にあったならば
渡来人である神武天皇の遺伝子が 九州と畿内の両方にあるハズ・・・だが渡来人の遺伝子は畿内だけ。
だから「出雲口伝」の正当性が証明だし、出雲と青森に 同じ遺伝子があるのも 証拠。
「神回!神武天皇について必見の衝撃の事実!」が間違っているのは ヒントの2つを検証するといいよ。
@@right-post あれっ、「目から鱗の歴史チャンネル」とは 別人ですか?
「神回!神武天皇について必見の衝撃の事実!」の概要欄にあるリンクから来たので
同一人物と思ったのですが??
四国アワ説も確かに有力です。
ですが 欠史8代を説明するには証拠不足。
感覚や思い込みで「出雲口伝」と言ってるのではなく、DNA解析が証拠と。
@@right-post あっちから引用するね↓
アワじゃなくて・・・飛鳥と元伊勢!
高天原から天孫降臨です。
神武天皇と 欠史8代の年代矛盾を答えてないから分からないんだろうな。
★ヒント TOLAND VLOGの 【八咫烏】伊勢の語り部が・・・。
建国記念の日となってる 紀元前660年は 神武東征じゃないよ。
古事記の天孫降臨で ニニギの命は 明渡されたハズの出雲には降りてない・・だから出雲王朝が続いてる。
★もう1つヒント TOLAND VLOGの 【超超超考察】とてつもない秘密が隠された『スセリビメ』・・・。
ー引用終了ー
@@right-post 天孫降臨や倭国大乱と呼ばれる時期に 渡来系が 畿内(奈良入り)したことは
共通認識でいいね?
3つの部族の遺伝子(Y染色体)を辿ることになる。
・出雲系(印度から来た)
・古代イスラエルやシュメールから 海路で来た渡来系(因幡の白ウサギ)
・同上から 陸路で中国・朝鮮から来た渡来系(徐福御一行さま)
アワは お寺や古墳を作ったが 表には出て来ない秦氏で、ずっと後の年代ですよ。
「な~んだ3つとも 昔日本から脱出した遠い親戚か」と気づけば 答えに近づく。
大和の古名はシキシマでもありますよ、つまり磯城です。四国はシキシマではないのは明白なのですが。
孝霊天皇や百襲姫、吉備津彦はみな磯城に縁の人物です。
磯城とは河内から奈良の桜井辺りを指しますからね。
@user-jf5un8fy5e さん
ご視聴・コメントありがとうございます。
たしか敷島は、崇神天皇の宮である磯城瑞籬宮が置かれた地ですよね。
この動画は、第10代崇神天皇の前の第2代~第9代の欠史八代です。
前提というか時代があっていないので、大和の古名がシキシマだから
欠史八代は四国にいなかったという理論は成立していないです。
ちなみに、トミヤマサキオさん、もしご存じでしたら教えて頂きたいのですが
奈良に欠史八代の天皇・后妃・子供達の式内社はありますでしょうか?
@@right-post 磯城の名前は師木、つまり神武伝承で神武軍が戦う在地の豪族の名前でもありますよ?現在志紀の地名でも河内平野にあるように、元々畿内一帯を指す言葉です。その磯城に対応する土地なんて四国にあるはずがないのです。
そもそも四国や讃岐、香川の神社に孝霊天皇やその皇子、皇女が祀られているのはヤマトから派遣されてその地で活躍したのが由来のはずですが。
墓守り=はかモリ
御歳=おんとし
参考までに……欠史八代の外戚諸氏族について見ると、初代神武天皇外戚諸氏族について『記』では美和つまり三輪の大物主神の子女であり『紀』では事代主神の子女としている。事代主神は『旧事紀』「天皇本紀」で「大三輪大神」と記されているため三輪地域の氏族の子女を后妃として迎え入れ、血縁関係を持ったと考えられよう。また『紀』の本文において、事代主神の血縁者については、二代綏靖天皇と三代安寧天皇が后妃として迎え入れられていることから、神武天皇統(以降「大和王権」)は三輪地域(奈良県桜井市)の氏族と血縁関係を取っていたと見る。
次に『記』では、師木県主と記される磯城県主について『記』の本文では二代綏靖天皇、三代安寧天皇と四代懿徳天皇と三代続けて后妃を輩出し『紀』の「一書云」という各分注でも、二代から四代はもちろん五代孝昭天皇紀と六代孝安天皇紀の分注にも磯城県主出身の后妃伝承ある。一方『紀』の本文で磯城県主出身后妃は七代孝霊天皇紀に伝承があり『記』の本文では同一后妃名で、十市県主出身の伝承であった。
十市県主については、先述の『記』の本文のみと『記』の一書云の分注での六代孝安天皇紀と七代孝霊天皇紀のみである。十市・十市郡は現在の磯城郡に当たる地域の氏族であり、磯城県主と同族とすると大和王権は地盤固めのために磯城・十市県主系と三輪地域(ここも磯城)系の氏族と婚姻による血縁関係を構築していったと見ることができる。また春日県主は『紀』の分注で綏靖天皇紀と孝霊天皇紀に記載されているが、
春日は、大和国添上郡春日郷(奈良市白毫寺町付近)であり、そこにいた氏族とも地盤強化のために血縁関係を結んだとも見える。
そして『記紀』での本文で后妃を輩出した氏族は五代孝昭天皇紀の尾張氏と八代孝元天皇紀、九代開化天皇紀での物部・穂積氏という饒速日命系の氏族と、血縁関係その中でも尾張氏という東海地域の氏族とも血縁を結んだと見える。
そして開化天皇紀・記の分注と本文には丹波(『記』で旦波大県主)という京都丹波地域とも血縁関係を結んで勢力を蓄えていたと見ることができる。
以上、外戚諸氏族伝承を見ていくと、三輪と磯城・十市地域を中心として尾張・東海地域及び河内・丹波地域という日本海側の一部に至るまで大和王権の権威が氏族連合体制の形で伸張していったという伝承を見ることができる。
これらについて、後述する架空及び後世造作論の一人の直木孝次郎氏は「〝やまと〟の範囲について」(1) で「天皇家と〝やまと〟とは密接な関係にあることが推測されるのであって、磯城・十市両郡地方を〝やまと〟とよぶことが比較的長くつづいたことは、この地域が天皇家にとって重要な勢力基盤であったことを暗示する」とし「(十代)崇神陵・(十二代)景行陵・桜井茶臼山古墳をはじめとする代表的前期古墳がこの地域に日本でも屈指の古墳群集地であることや、石上神社・大和神社・三輪(大神)神社など記・紀の神話伝承にすでに姿を表している霊威の高い神社がやはりこの地に多いことなどは、あらためて考慮してみる必要がある」 (2)と述べており、大和王権の発祥とヤマトの地の起源を十市・磯城地域という奈良盆地の東部山麓地域を中心として、時とともにヤマトの勢力が伸張するごとに「ヤマト」の範囲が広がっていたとみていた。
筆者は、直木氏の当該記述と欠史八代の外戚諸氏族伝承の流れが、ほぼ一致しているように思わざるをえなかった。
続いて、皇居の所在地伝承については、初代が橿原宮(橿原市)、二代が葛城高丘宮(御所市)、三代が片塩浮孔宮(大和高田市)、四代が軽曲峡宮(橿原市大軽町)、五代が掖上池心宮(御所市)、六代が秋津島宮(御所市)、七代が黒田廬戸宮(磯城郡田原本町)、八代が軽境原宮(橿原市大軽・見瀬町)そして九代が春日率川(奈良市)という流れで、今日の橿原地域と葛城地域を概ね往復している伝承で見て取れる。
次に陵墓伝承については、初代が畝傍山東北陵(橿原市)、二代が桃花田丘上陵(橿原市)、三代が畝傍山西南御陰井上陵(橿原市)、四代が畝傍山南繊沙渓上陵(橿原市)、五代が掖上博多山上陵(御所市)、六代が玉手丘上陵(御所市)、七代が片丘馬坂陵(葛城郡王寺町)、八代劔池島上陵(橿原市)そして九代が春日率川坂上陵(奈良市)という流れで橿原地域と葛城地域に集中している伝承が見て取れる。また九代は突如として現奈良市地域に皇居と陵墓所在地伝承が見て取れる。
このような伝承から鳥越憲三郎氏は「葛城王朝」と著作 (3)で欠史八代を名づけている。
(1)……飛鳥奈良時代の研究』所収 塙書房 一九七五(昭和五十)年
(2)……以上『同前』五〇九頁
(3)……神々と天皇の間』朝日新聞社 一九七〇(昭和四十五)年
何でもかんでも阿波説って、考古学的に真っ向から成立してない事が笑えます。エンタメですね。
勾玉一つとっても東日本から次第に西日本への展開になっており、四国は新しい時代。
更には最後まで勾玉作ってたのは出雲。
今回の動画は阿波説ではないです。四国です。
笑いたいなら笑ってください。
あなたは、あなたの信じるものを追求してください。
@@right-post DNA分布でも四国は丹波から畿内と同じ渡来人構成です。
青銅器の独自性も考古学的に四国は独立していません。信じる信じないというお話というよりは、目の前にある現実というものを理解してから動画を作るべきです。
今まで近畿や九州、出雲、最近では関東、東北まで..羨ましかったのですが、これで四国も楽しゅう成りました😄遊びに来てにゃー😸
間違いなく、西日本
@UC_67qb9zl4nlTKrhzYfmoZQ さん
私に何を伝えたいのかよく分からないのですが、四国が独立してたなんて一言も言っていません。
私は、忌部氏・海部氏・物部氏が丹波や畿内にも行っていると思います。
今回の動画は、欠史八代の痕跡が四国の神社にあるという事を言っているのです。
考古学も大事だと思いますが、目の前にある現実というのなら、神社も目の前にあります。
古語拾遺にある通り、忌部氏の祖神天太玉が統率した神は
天日鷲命(阿波国の忌部の祖神)、手置帆負命(讃岐国)、彦狭知命(紀伊国)、櫛明玉命(出雲国)、天目一箇命(筑紫・伊勢)です。
出雲国の玉作りの祖神は櫛明玉命です。
貴方様が記紀神話の物語や神社より考古学が重要というなら
貴方様は貴方様の信じる考古学を追求すればよいと言っているのです。それも重要な事だと思います。