本当の愛を手に入れるために【愛するということ(後)】
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- เผยแพร่เมื่อ 5 ก.พ. 2025
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自由からの逃走
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動画の書き起こし版です。
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こんにちは。哲学チャンネルです。
前回【自由からの逃走】が理論面を担当する内容ならば
【愛するということ】は愛の実践面を担当するものである。
と表現しました。
いきなり本末転倒なことをいいますが
フロムは本著において
『愛する技術の解説はできない』
としました。
愛の技術はそんなに簡単に身につくものではなく
ましてやテキストで解説できるものでもないといいます。
ただし『愛の技術の修練の修練』は可能だとします。
つまり愛の技術を習得する可能性がある
環境を作ることは出来るし、
その環境作りの努力こそが愛の修練への第一歩だとするのです。
愛の修練をその他技術の修練と照らし合わせて考えると
いくつかの『コツ』が見つかります。
フロムは大きく3つの『コツ』を提示します。
一つは【規律】
決められたルールを守ること。
または正しい生活習慣を心がけることです。
技術の習得には、本人の健康状態や精神状態が大きく影響します。
それらを正常に保つための規律が必要なのは感覚的にも納得できます。
とはいえ、現代人は規律に対して無条件の拒否感を持つと彼は考えます。
それはこれまで権威と戦ってきた反動であり
西洋的な『規律は辛いもの』だという価値観から来るものでもあります。
フロムは東洋的な【規律】に対する感覚を持ちだして
【規律】に向き合うための姿勢を提示します。
曰く「東洋においては、善いものを得るためには最初に辛い規律が必要であるという価値観がある」
また、規律には他者に強制されるものと
自分自身で自分自身を縛るものの二つがあります。
つまり、自分の意志で自分を縛る規律を作り、
それをポジティブに捉えながら実行する。
これが第一の『修練の修練』です。
二つ目は【集中】
何事も集中力なくしては大成しません。
フロムは集中とは一人でいられる強さだといいました。
つまり孤独に耐えうる強さ。
そして孤独に耐えうる強さは人を愛するようになるための
必須条件だとします。
集中を修練する一番の方法は、
『何もしない時間を作る』ことです。
毎朝20分、できればもっと長く、理想は夜も。
何もせずにただ座って、無心になる時間を作ります。
私たちが思っている以上に、一人でじっとするのは難しいことです。
それは世の中が推奨する【能率性】とは真逆の行為だからです。
しかし、その呪縛を振り払うことで、
一つのことに集中できる能力が身につきます。
それによって、自分自身の変化にも敏感になることが出来ます。
フロムは集中をこう表現します。
「集中するということは、今ここで、全身で、現在を生き抜くことである」
これもまた、西洋的な未来志向とは相反した考え方ですね。
最後の修練は【忍耐】
何かの技術を習得する際に忍耐が必須なのは説明の必要がないでしょう。
忍耐は『信じること』であると彼は考えました。
確かに、自分の信じることのためならばある程度の忍耐が可能です。
一方でそうでないものに対して気合いだけで忍耐するのは非常に辛いことです。
とはいえ『根拠のない信念』
つまり道理に適わない権威への服従に基づいた信念は
本当の信念ではありません。
『根拠ある信念』とは、自分の思考や経験の感情に基づいた信念であり
大多数の意見とは無関係な、他の一切から独立した確信です。
フロムはこれらの例として
スピノザ・ガリレオ・コペルニクスなどを挙げます。
確かに彼らは自分の信念を貫き通しました。
私たちにそのレベルの信念が持てるかはわかりませんが
信念が強力な忍耐を生むことには疑問の余地がないでしょう。
そもそも、なぜ愛の修練に信念が必要なのでしょうか?
それは愛することには何の保証もないからです。
保証がないことに熱量を注ぐためには勇気が必要です。
その勇気の源泉となるのが信念であり、
その行動自体が忍耐だというわけですね。
フロムはそれを踏まえた上で
私たちがどんなときに信念を失い、ずるく立ち回り、
それをどんな口実で正当化するのかをよく調べよといいます。
それによって、私たちは愛されないことではなく、
愛することを恐れていることに気付くだろうと指摘しています。
これらの修練を繰り返すことで、
まずは【ナルシシズム】を克服する必要があります。
自分の内に存在するものだけを現実として経験し
外界の現象はそれ自体では意味を持たず
自分にとって有益か危険かという基準からのみ判断される状態。
これを【ナルシシズム】と定義します。
一方でその対極にあるのが【客観力】です。
人間や事物をありのままに見て
その客観的なイメージを自分の欲望と恐怖によって
作り上げたイメージと区別する力。
正気を失った人、眠っている人は
客観力を一切保有していません。
しかし、我々もその一部では客観力を失っている状態
言い換えれば『正気を失っている状態』であるとフロムは考えます。
愛の修練の修練によって、ナルシシズムに影響されて
ゆがめられた世界から抜け出さなくてはならないのです。
また、フロムは愛の性質と同様に客観性に関しても
場面によって使い分けることは出来ないといいます。
つまり他人を客観的に見ることが出来なければ
同様に自分を客観的に見ることも出来ない。
ナルシシズムというモザイクを取り払わない限り、
愛の技術の習得はあり得ないのです。
以上が、愛の技術を習得するための前提です。
これらを踏まえた上で能動性を発揮することが重要です。
能動性とはたんに何かをすることではなく
内的能力を生産的に用いることです。
思いっきり意訳をすると
『ものすごく真剣に生きること』
フロムは「起きている間はずっと」その状態でいるべきだと主張します。
これらのことを実践してはじめて
【愛の技術】を習得できる可能性があります。
現在の資本主義はこのような愛の原理と完全に対立していると彼は考えました。
だから、現在のシステムを根幹から変えないと
真の意味での愛の修練は難しいともいっています。
確かにそうなのかもしれません。
が、それがいつ、どう変化するかは我々にはわかりません。
しかし、フロムが提示する愛の修練の修練が
直接的に愛するということに結びつかないとしても
現代を生きる我々に何かのヒントをくれていると感じるのは
わたしだけでしょうか。
エーリッヒ・フロムシリーズ。
予想よりも長くなってしまいましたが
お付き合いいただきありがとうございます。
一連の動画が何かのきっかけになったら
こんなにうれしいことはありません。
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#エーリッヒ・フロム
#愛するということ
#哲学チャンネル
何度かこの回の動画を拝聴しましたが、エーリヒ・フロムシリーズを通して聴いて、ここにまた来ることができた今回は、一番こころに響きました。
わたしが自分なりに思うに至っていることを、フロムの解説を通してリフレクションのように教えてもらえたような感覚で聴くことが叶いました。感謝です。
このチャンネルが大好きです。フロムシリーズ全部見ました。
これからも素晴らしい動画を期待しています。
フロムの考え方が、系統的に論理立てて解説されていることに感謝します。だだ、解説を聞いて分かったようで分からないというのが、正直なところです。
ですので、実際の場面で体感しながら、解説を振り返ることで、愛の力を少しずつ信じる力が増していくように感じました。
考え方のヒントを提供していただき、ありがとうございました。
二度目に視聴して更に心に浸透し、大きく深呼吸しました。 昨日心にトゲ刺さったまま安眠出来なかった事が、スーッと泡と共に空中に舞い散った様な解放感を感じています~🎶 愛を感じています。
心からこの動画に出会えたことに感謝します。
最近この本を読みました。端的にまとめ上げてくださって感謝です。真理の愛へ近づくことができるよう修練を重ねて参ります。
自由に拠る孤独を受容することには,現代は、ポケットにその阻害物(スマホ)があるから難しい世の中ですね
だからこそ実践した先には言葉にできない安堵のようなものがあるのかもしれませんね
勇気をもらえるシリーズでした
有難うございました
いつも素晴らしい動画を作っていただきありがとうございます。これからも応援してます
ナルシシズムに対しての説明が凄くしっくり来ました。自分はナルシなんかじゃないだろうと思ってましたけど、全然そうでした。
わかりやすかったです
自由からの逃走は読んでいませんが、自由は広大無辺の宇宙にただ一人の自覚ですから、自我にそんな重圧背負えませんよね。
天上天下唯我独尊になれば、宇宙と私の垣根は無くなるらしいですが…
ありがとうございました。
面白い
ただ観念的すぎて3日後には忘れてそうw
>それはこれまで権威と戦ってきた反動であり
>「東洋においては、善いものを得るためには最初に辛い規律が必要であるという価値観がある」
フロムの哲学は「人間は自由である(自由を目指す存在である)」「人間は理性を備えている」と言った西洋哲学の公理を覆したところが画期的だと思う。
ところで、『根拠のない信念』と『根拠ある信念』とはどう区別するのか?トンデモさんは自分の思想を『根拠ある信念』と信じて疑わない。人間にそれらを区別することは不可能だと思う。そう理解したうえでそれを目指すのが正しいのではないか?
フロムのこの考え方は70年近く経った今、マインドフルネスの流行などによってマニュアル化しつつあるし、権威化しつつもありますね
最後の忍耐に関してはまだ方法論として確立していない、あるいはその前段階までの実践が前提である以上、マニュアル化できない=これこそが真実として価値があるのかもしれません
しかしまあ…権威や慣習への反発こそが自由と捉え、それを求める者にとって、もはや権威化しつつあるマインドフルネスかあ…とちょっと腰砕けになるところもありますがw
それすらも社会や情報からの束縛に囚われていると理解し、まずは実践、とりあえず実践しかないですかね
他人を客観的に観る事が出来なければ、
自体を客観的に観れない、
なるほどなぁ、と思いました。
本物の愛を知ってる人って…
身近にいない気がする…
その気持ちわかります
多分だと思いますけど
だからアドラーは誰もやらないならあなたから動くべきだ って言ったと思います🤔
16." 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。"
17." 神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。"
ヨハネによる福音書 3: 16-17 (日本聖書)
9." 神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。"
10." わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。"
ヨハネの手紙一 4: 9-10 (日本聖書)
" すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、"
ローマの信徒への手紙 3: 23 (日本聖書)
8." しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。"
9." わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。"
ローマの信徒への手紙 5: 8-9 (日本聖書)
9." すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。"
10." なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。"
13." なぜなら、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」とあるからである。"
ローマの信徒への手紙 10: 9-10+13 (日本聖書)
1."兄弟たちよ。わたしが以前あなたがたに伝えた福音、あなたがたが受けいれ、それによって立ってきたあの福音を、思い起してもらいたい。"
2." もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである。"
3." わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、"
4." そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、"
コリントの信徒への手紙一 15: 1-4 (日本聖書)
8." あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。"
9." 決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。"
エフィソの信徒への手紙 2: 8-9 (日本聖書)
27." そして、一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっているように、
28." キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである。"
ヘブライ人への手紙 9: 27-28 (日本聖書)
" しかし、おくびょうな者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者には、火と硫黄の燃えている池が、彼らの受くべき報いである。これが第二の死である」。"
ヨハネの黙示録 21: 8 (日本聖書)
"罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。"
ローマの信徒への手紙 6: 23 (日本聖書)
良い一日を! ;)
エーリヒフロムシリーズ投稿お疲れ様でした。
今回の動画では取り上げられていませんでしたが、真剣に信仰している人は愛について体得しているという部分が印象的でした。以前は宗教に対して懐疑的でしたが、哲学を学ぶ中で、宗教には存在意義があると考えるようになりました。ですが他人の信仰を利用して自分の私利私欲を満たす人が世の中にいるので注意したいです。
エーリヒフロムの思想をよりよく理解するため、マルクスやフロイトの思想についても学びを広げていきたいと感じました。
ご指摘の部分は意図的に省いておりました。私も『宗教の存在意義』は非常に大きなものだと思っています。と言ってもここでいう『宗教』は一般的な解釈よりもかなり広い意味のものではありますが。
1:55 3:20 0:20 1:40 2:50 3:00 3:40 4:10 4:40 5:00
主客を二分するものなんてないと思う。
自由を獲得することとナルシズムを脱却することは同立する事ができるのだろうか…
客観の部分はわからない。自分が客観している認識もまた主観の域をでないのではないか。それもまたナルシシズムの中にいる気がする。
フロムの説は善的な自由や愛の解釈しかない気がするな~…。例えば蟹食べたい!(自由)。蟹メチャ旨い!(自由)。アカン!毎日食べたいから蟹は高いから資本稼ぐぞ!(自由)……となる。蟹を漁師から直接仕入れると安めだけど、流通や店での販売には消費者へ届くまでに当然の如く流通者への利益が必要になるから、ある程度高くなるのも仕方無い(蟹の価値もあるだろうが)。フロムの自由考察は自由主義的資本主義の自由の本質を取り入れてない様に思う。節制するのも自由だが(フロムの考えだと人々に節制を押し付けてる様に思う)、ブランド品の様に無くてもイイ価値は幻想の価値を求める偽物の自由として本当の自由で求める価値の無いものとしても、美味しいモノを食べたい飲みたいは、食べるという人の本質の中にあり、その中で発生する美味しいモノを選択するというのは選択の自由と感じる。他にも人間の三大欲求から生じる選択の自由がある。これらは幻想の価値の無いモノではないので、選択によりそれらを求め、それらを手にする為に資本を求めるのも自由選択だと思うな~…。僕は自由を尊重する人で、ある程度色々な経験したから、自然欲求から生じるイイ物を求める事も、もう別にイイヤ…って感じで節制の比較的自由に生きてるけども、他者の選択の自由(幻想ではない物)について、それらを咎め様とは思わないな~…。仕方無いんじゃね?みたいな感じで…。美味しいモノは美味しいし、毎日食べたいと思う人がいても何ら不思議ではないと思う…。
自分の本物の欲を知っているなら、もちろんそれでもいいと思います。 フロムが言っているのは、社会に生きる中で焦燥感に駆られ、目的もないまま生きる、働くことだと言っているのだと捉えていました 個人の目的達成のための経済的な活動は、フロムの主張と矛盾しないのではと思います
どのような社会であっても、それらを把握した上で自ら選択している、という状態が重要なのだと感じます