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おかえりなさい。待っていました!仰る通り、劉備は名士層からも受け入れらてるんですよね。なので、本当に良い家の出だったのでは、と思っていました。これからも、無理ない程度に動画制作をお願いします!
お待たせしました~次は魏延があがりますので観に来て下さいね~
他にも色々な方が三国志の動画をアップしていて、勿論どれも素晴らしいのですが、個人的にはこのチャンネルが一番質が高いと感じています!😆(史料の原典をしっかり確認されている所が特に!)演義の劉備と、正史の劉備と、かなり違うのですね!若かりし頃の劉備が、関羽や張飛・曹操とさえも親交があったのかも?と考えると、また違ったワクワク感がありますね😊今後も楽しみにしています!😆
ありがとうございます!新しい視点を提供してワクワクを感じて貰えたなら何よりですよ!今後ともヨロシクお願いしますね!
劉備の人望はどこから来ているのか不思議で仕方がない。
劉備の人望といえば、荊州の官民十数万が根無し草のオッサンに従ったというのが演義の創作じゃない、というのに驚きました
久しぶりの投稿、とても楽しみです!
お待たせしました~
お帰りなさい!やっぱり史実の劉備は魅力的ですね。私は猫さんのお話が好きなので、これからも応援します!
ありがとうございます楽しんで頂けたなら何よりです
劉備推しです!楽しい動画、ありがとうございます♪
正史では控えめに言って超チンピラな劉備さん。かたや演義劉備にもっともちかい熱血曹操さんな認識です。続き楽しみに待ってます👍🏻
コメントありがとうございます。チンピラ(笑
出遅れました。久しぶりの動画ありがとうございます。次回もゆっくりお願いします。
ありがとうございます次回は北伐関連の人物やってみようかと思います
@@装甲猫 演技の劉備印象が強くて史実だと全く違う事が印象的でした。出生や洛陽まで行けた事…楽しい動画ありがとうございました。
うぽつですー流石に1回で語れる量じゃありませんよね(笑)その2その3が作られるのも楽しみにしてます!
そのうちにやっていきますよ~
「筵織り」がいまでいうなら「町工場のオーナー」だったと言われると色々と腑に落ちますね。劉邦の子孫は免税特権があったので役所に把握されており、僭称の劉姓で官吏になるのは考えにくいという話を聞いたことがあります。
属尽というやつですね実は2000年近くも前の漢代から官僚制度は驚くほど発達してて凄まじいほどなので有り得る話です
町工場のオーナーですと土方歳三なんかも薬の工場オーナーの息子ですね歳三は家業の関係で組織作りの非常に上手い人でしたが劉備の統率力なんかも実家の仕事が関係してるかもしれないですね
お帰りなさい!演義の影響力、確かにすごいですね…劉備=貧乏だった、は定説みたいになってますもんね。楽しくみさせていただきました!次回もお待ちしております!
ご無沙汰しておりました次回もご期待下さい!
黄巾の乱ノータッチなのか笑もしかしたら知られざる曹操との邂逅があったかもですね次回も期待してます!
コメントありがとうございます劉備と曹操の邂逅は最短で劉備15歳、曹操21歳なので、本当だったらお互いにかなり影響があったかもですね〜
なんかあったのかと思ってTwitterまで見に行ったらプラモ作ってましたね。しかも上手いし!待ってましたよ!!
お待たせしました〜あはは、ツイッターの方はあんまり関係ない事ばっかりですけどね(笑
PC復帰お疲れ様です。久々に見れてうれしいです
ありがとうございます。楽しんでいって下さい!
お帰りなさい😄動画お待ちしておりました☺️
お待たせ致しました〜
遂に復活ですね!中山靖王の件は非常にあやふやで学生の頃に自分も調べましたが、日本で織田家の末裔を名乗る人達の真贋を正す事より難しいと気が付いて諦めました・・
考察は色々出来るんですけど確定は無理ですよね〜出自については他にも臨邑とかありますけど今回はバッサリカットしましたそのうちに四方山話しか何かで出すかも〜
猫さん、明けましたおめでとうございました♪鄒靖なんて久しぶりに聞いた名前ですね~関羽や張飛、趙雲だけじゃなくて、太史慈も劉備に付き従っていたら・・・と、いつも思うんですよねw
子義さんとホウ統はトレードした方が活躍したかもねただ、劉備のところは足りなかったのは参謀だから陳羣や田予の方が組織全体としては惜しかったかも特に陳羣はその名士ネットワーク込みで
グリード鈴木さん、あけましておめでとうございますシギーは可能性が…なくもないですね(笑
劉備は不良少年っぽい所ありますし、若い頃は礼儀に煩い人が苦手だったのかも知れませんね〜
@@nomoney8296 田豫にしても徐庶にしても、劉備陣営に残っていたら違う展開がありそうですよね。孝行を理由に離れた二人ですが、本当に惜しいですね!
@@装甲猫 劉繇の元に行く前に劉備を訪問してればw
若い時に、曹操と知り合ったとしたら、その一族や、袁紹とのエピソードもあったかもですね。そこに関羽や張飛の若い頃とかも絡まると、また別の物語でも出来そうですね(笑)
久々の動画嬉しかったです‼️やっぱり猫さん動画はいいなぁ♪話は全然違いますが・・・映画の話が出たので便乗して。猫さんが三國志を日本の俳優でキャスティングするならどうするか、って動画を見てみたいなぁ、と実は以前から思っていました。例えば自分のイメージだと、劉備は北野武、曹操は真田広之、孫権は石黒賢、諸葛亮は野村萬斎、司馬懿は緒形拳、etc。昔やってたblogで正史版と演義版で書いた事があるのですが、結構反響あったので、楽しめた覚えがあります。閑話休題ででもいつか取り上げて貰えると嬉しいなぁ←(笑)
なるほど〜面白い発想ですね〜私は芸能人に疎くて、俳優さんは役柄込み(というか何々役の人という感じ)で覚えて難しいかもですけど〜緒方拳は尼子経久イメージだし真田広之は足利尊氏野村萬斎は高杉晋作…的に固まってるんですよ〜(笑折角なので少し考えてみましたが劉備は渡哲也、曹操は人格が複雑過ぎて思い付かず、孫権は松田優作ですかね〜
@@装甲猫 さんありがとうございます♪渡さんの劉備もよさそうですね。確かアニメ(映画だったかな?)で曹操の声優をされていた記憶があります(笑)
お待ち致しておりました!!!自分の中で、演技の被害者の上位にくる人物だとおもってます。史実の劉備は魅力たっぷりです!
演義のはエセ聖人でも演義の劉備も好きです(笑
あっ、猫さん私元ヒムロックですwww
@@suke-karmaさんあら気付きませんでした〜
筵を織るって爪に火を灯すみたいな慣用表現だと聞いたことがあるな
へぇ~そうなんですね~聞いたことなかったです
劉備といえば孫文を思い出します。ほら吹きという意味で。
コメントありがとうございます。でも実は若い時はそんなにホラ吹いてないんですよ帝室の一員なんて若い頃は吹聴してなかったですし
洛陽時代の劉備と曹操が知り合ったとしたら、たぶん公孫瓚の引合いで「後輩に面白い奴がいますよ。今度の席で」と袁紹のサロン辺りで公孫瓚。当日、中々キメた格好で一座の笑いを取り、一転礼儀正しく振舞って話の輪の中に入る劉備、袁紹の友達ポジションで「そこにシビれる!あこがれるゥ!」ような事も担当していた曹操の目に留まり二次会突入、曹操「君は劉氏か。ならば朝廷に万一の事があれば光武帝の真似事だってできるじゃないか。君はその時どうする?」劉備「光武帝に比べるなど烏滸がましいですが、私には高祖の方法が合っていると思います」曹操「いやそうとも限らないよ、君には人を引き付ける才と人を見る目がある。あながち人の言うことに従える事に、才を限定するべくもあるまい」、などと熱く語り合っていて、それが後年の両者の様々な違いに現れたのかも。まあ妄想ですが。
良いですね~凄い良いです!そういうのロマンですよね~
蓆売りの下りは、聞き手が相手の生業が雑貨屋と聞いて勝手に剛田雑貨店をイメージしてたら実はホームセンター経営でしたという話と同義で面白いですね。かく言う私も、劉備自身が蓆を織ったり編んだりしてたと思っていました。また、175年の洛陽で不良学生の劉備(15)が新人官僚の曹操(21)との交流があったとするならば、飲みを重ねていくうちに劉備は学友の公孫瓚を曹操は遊び仲間の袁紹・張邈・許攸らを呼び、彼らが一同に集まると思うと胸熱だなと思いました。
なるほどなるほd,確かにどっちも雑貨屋ですね。劉備とジャイアン(笑遊び歩いてた不良少年の劉備と、こちらも袁紹たちとグルで悪さしてた曹操達の若き邂逅。ロマンありますよね。
劉備は若年時代に曹操との交流があった…洛陽に留学したとなるとあり得る話ですね。
絶対とは言えないですけど、状況証拠は揃ってるので、そう考えるとロマンありますよね〜
@@装甲猫 酒を片手にって、少年劉備ですが
劉備が貧しく描かれたのは劉邦のイメージが重なったからだろうか
三国志演義の元である平話が転生物だからそうかもですね~
個人的には劉備は昔でいう香具師の元締めみたいな事をやっていたのでは と思います 名士との結びつきや喧嘩慣れしているのもそういう所からきているのではないかなぁと思ってます
11:42 不自由なく育った が 不自由なクソだった に聞こえてしまった
空耳アワ〜(笑
先主率其屬從校尉鄒靖討黄巾賊有功、を張純の乱に比定するのは同意なんだけど劉備が張世平の援助で私兵を募ったのはその前なんじゃないかな?その私兵をもって活動していた結果、劉子平の推挙に至ったとすれば、劉備の活動時期を前倒しできますねこれだと旗揚げの時には関羽張飛が居なそうだけれども
それそれ!さすがよくご存知ですね典略のあの記事だと関羽・張飛は何してたのかな?と思ってしまうんですよね。実は張世平の援助で私兵を募った時期をもっと前にってのは考えたんですよ。そもそも文が前段にあるわけですしね。ただ、劉備が資金援助を募ってまで、私兵団を組織する理由と蓋然性が薄いんですよね。貧乏だから傭兵仕事で糊口を凌いだ、という風に解釈すればしっくり来るんですが、劉備の劉氏は傭兵に身をやつす身分じゃない。なら傭兵ではなく自警団的に私兵を組織・維持しなきゃいけなくなる時期はいつか?と考えて張純の乱の混乱期を設定しました。あくまで私個人の考えでは、ですけど
@@装甲猫 私兵は任侠を気取って賊徒を退治してたってのも無くはないですし張世平だって無償で援助したとは思わないのですよねその護衛、警護をしてたことをぼかしてるってこともあるかも?関羽・張飛は何してたのかな?って点は充少孤、晋書賈充伝より、賈充は数え12歳で父を亡くしています張飛伝の少與關羽倶事先主が数え12歳くらいとして、関羽が数歳年上の仮に15歳なら、まだ特筆すべき活躍はなくても不思議はないかなーって加えて関羽張飛の加わった募兵を、公孫瓚を頼った時や、董卓討伐の初平元年頃に比定すると劉備が崩御したとき二人はまだ40代半ば!諸葛亮の北伐に余裕で従軍できる年齢なんですよね街亭で張飛張郃のリターンマッチが見たかったなあ
良いですね!こういう語り合いは大好きです。私も張飛は若かったと思いますが関羽が亡命してるという点を勘案するとあまりにも後ろにズラす事は難しいかな?とも思います。また、劉備の用心棒説については、実は当時の社会制度は群雄割拠で崩れるまではしっかりしていて、県城外の通行には許可と通行証が要るんですよ。さらに妥当な理由なく武器を持った私兵団が県城内に駐屯は出来ないんです。その辺を考えると、世が乱れてからかなあ、と思う次第でもあります。
@@装甲猫私の説は、黄忠を老兵呼ばわりしたこと、馬超へのライバル意識から関羽が馬超と同世代と仮定したうえでの仮説なので異論は多いと自覚していますw 関羽の亡命については、母丘殻旗下から劉備に心酔しての逃亡兵とすれば、やや苦しくも説明はつくんじゃないかな?県城内の駐屯、県城外への通行は、張世平と劉氏の力次第ですかね劉備の父や祖父が劉性で官職についてたってことは、除籍されたとはいえ皇族の末であることは周知されてたと思いますし劉備ならなんとかするだろ、みたいなw後漢の幽州支配なんて完璧とは程遠いものですしね論破するつもりも説得するつもりもないので、こういう解釈もあるんだなーくらいに眺めてください次の動画も楽しみにしています
生きとったんかぁ〜ずっと更新なくて心配してました明けましておめでとうございます。新解釈三国志は………うん、僕は良いと思いますよ(遠くを見つめる虚な眼)劉備の知ってる事知らなかった事があって楽しかったです曹操と同じ時期に洛陽に居たと言うのが運命を感じる………そういえば洛陽が首都なんですか?現代の歴史書とか地図だと長安の方が良く書かれているような………?董卓が遷都したから??
あけましておめでとうございますお待たせしました前漢の首都は長安で、後漢では洛陽が首都になったんですよ〜だから前漢を西漢、後漢を東漢と呼んだりもします勿論、首都の位置が東西に分かれてるからです
@@装甲猫 早速ありがとうございます次回も楽しみにしてます
お久しぶりですね!洛陽への留学は、目からウロコですわ!関羽の名は、洛陽留学中でも響いていて、劉備、曹操も聞き知っていたら、面白い因縁になりますね!演義では極貧のイメージがありますけど、若い頃から、結構な遊び人と言うのも聞いてましたので、それなりに裕福だったんですね^^;
お久しぶりです!コメントありがとうございます!劉備じゃないですが、三国志などの史書でも家産を傾けて豪傑と交友したって記述が出てくるように、この頃の交友ってのは歓待のしあいみたいな感じで結構な費用が掛かるみたいなんですよ。だから貧乏だと難しいようです
いつも装甲猫さんの解説動画楽しませて頂いてます!今更ながらのコメントですが、劉備の幼少期が貧乏だったかどうかの話なんですが、父親達は名士層特有の「私財を投じて清貧さをアピールする」みたいなことをしていたなら、たとえ給料はよくても蓄財はなかっただろうから父親が亡くなったあとには貧乏になったかも?という可能性は考えられるかなと思いました!
返信が遅くなりましてごめんなさい。幾つか誤解を解きますと、まず名士というのはいません。あれは歴史学の中の学問的定義に過ぎないんですね。次に士大夫層には確かに清貧が美徳とされますが、同時に生活を困窮させない程度の装いは最低限必要で、困窮するまで施すのは本気で救済をやってるか限度を知らない阿呆のどちらかなんですね。だから一族の中に困窮者がいると恥になるんです。というのをお知らせいたします。
お返事ありがとうございます。そうだったんですね、まだまだ理解してない部分がたくさんありました。おかげでまた三国志のことを知ることができました、ありがとうございます!
こってり史料に寄り添った考察、面白かったです。牽招と義兄弟の契りを交わしたのはどのあたりになるんでしょうかね?
ああ~それも気になりますよね~ってこういうのを全部入れてると本当に尺がいくらあっても足りない(笑個人的には牽招は多分、留学を終えて帰ってからだと思いますね~だって北方で交友を結んだって書いてありますし小長をどう訳すかですねこれを若い時ってするか長い間ってするか
@@装甲猫 なるほど、留学後ですか。北方でかつ長い間交友を結んだと、なぜ一緒に旗揚げしなかったかがだいぶ謎になってきますね。
謎ですね~劉備の涿県と牽招の観津県は離れてて接点がないですし、牽招が学問に出て洛陽で面識を得て交友を結んだんだと、河サク(北方)で交友したと書いてるのと矛盾するので正直分からんです~
親がそれだけの立場の人なら普通に劉氏の血筋でいい気もするな
ですね〜ただ劉備の他の血族がその後に一切出てこないのが不思議で疑問符をつけときました〜
少なくとも県レベルではかなりの豪族のようですが...むしろ売りとかも単に装っていただとか...
@@すず-w1t6u さんコメントありがとうございます。筵売りは別に装わなくても良いんですよ~華陽国志って書物には、内職みたいに織ってどこかに納めたわけではなく、自ら販売までを兼ねた事業としてたって書いてるんで
劉備ってよく高祖に例えられるけど本人的には光武帝みたいになりたかったんだろうな。
最初はともかく後半は漢の名を継ぐ別王朝を作りたかったんでしょうね。
後漢時代はむしろムシロを使っていたのですか。
そうなんですよ~コレ国立博物館の三国志展で解説してました~
新解釈三国志ってギャグなのかな?ちょっと興味湧いた。
気になりますよね~
変な言い方ですが・・・最初に三国志に触れたころ:世間一般にイメージされる謙遜の強めな聖人君子色々な三国志解説動画などを見た今:戦国無双の前田慶次というのが個人的な劉備のイメージになりつつある。多分違う、いや絶対違う。
前田慶次とは面白いですね!武力的な意味じゃないでしょうし、傾奇者というか任侠物っぽいからかな?
御無沙汰です。どうかしたのかな❔と考えてみたりしていました。所で、中山靖王劉勝には、沢山子供がいたとか本で見た記憶がある。
ご無沙汰しておりました〜中山靖王には男子だけで21人?だったかな子供がいますね〜
張飛がわいろ請求してきた役人ぶったたいた話、劉備がやった話だしなあ。
というか賄賂要求自体されてないですね~劉備は公私のけじめをつけただけの無実の役人を叩きまくって去ったヤンキーですね(笑
初めまして。下手な劉備推しの者です。演技と正史の違いがあるのは知っていましたが、貧乏っぽく演出されていましたね・・演義では(;^_^A 汎用品を販売していた=貧乏ということではありません。黄巾の乱にはノータッチはびっくりでした。σ(-ω-僕))が知っている違いといえば、賄賂を要求されてぼこぼこにしたのが演義では張飛ですが、正史では劉備くらいです。これくらいやったら、普通死ぬのとちゃうか?と思ったくらいです。ちなみに自分は劉備と性格が似ていて蜀とは地形の近い京都在住です。
実は督郵が賄賂を要求した、というの自体が演義の創作なんですよ。督郵は州の観察官で、劉備は督郵が知り合いだったんで、観察の前に面会を申し込んだんです。そしたら督郵は会えない、と面会を断ったら劉備が笞打ちして逃げた、というのが大筋です。監察官が職務前に私的な交友を控えた、だけなんですけどね(汗
@@装甲猫 ご指摘ありがとうございました。何かで鞭打ったのは張飛ではなく、劉備と書いてあったと記憶していていました。今調べなおしたら、劉備は免官されるかもと思ったので呼び出そうとしたところ断られて鞭打ったとされています。結構無茶苦茶な人だったんですね(;^_^A
劉氏を名乗り、軍のリーダーなるなら、この時代箔をつけないと信用、信頼されないと思う。都で有名な私塾に通うならそれなりのお金や身分がないと難しいのではと思う。人たらしはこの頃からだなと感じる。魅力だけでなく気風や気前の良さも人惹きつける魅力なので金払いとかも良かったのかもしれない。曹操と出会っていた解釈は面白いですね。後に曹操に使えて高待遇なのもわかります。
次も楽しみにしています。ちょっとしゃべりすぎました。自分の口に戸は立てられませんなw
なんの会話が多いほうが賑やかですよ(笑
桃園の誓いがあったから世に出れた、でも桃園の誓いで、呉を感情的に攻め、自惚れそれまで重用していた孔明を蔑ろにし漢室復興できなかった。
桃園の誓いはなかったようですけどね。でも兄弟同然に可愛がってたんでしょう
演義の劉備は儒教のプロパガンダや。蒼天航路の原作者が言うとった。
コメントありがとうございます!そうなんですね!
おかえりなさい。
待っていました!
仰る通り、劉備は名士層からも受け入れらてるんですよね。
なので、本当に良い家の出だったのでは、と思っていました。
これからも、無理ない程度に動画制作をお願いします!
お待たせしました~
次は魏延があがりますので観に来て下さいね~
他にも色々な方が三国志の動画をアップしていて、勿論どれも素晴らしいのですが、個人的にはこのチャンネルが一番質が高いと感じています!😆
(史料の原典をしっかり確認されている所が特に!)
演義の劉備と、正史の劉備と、かなり違うのですね!
若かりし頃の劉備が、関羽や張飛・曹操とさえも親交があったのかも?と考えると、また違ったワクワク感がありますね😊
今後も楽しみにしています!😆
ありがとうございます!
新しい視点を提供してワクワクを感じて貰えたなら何よりですよ!
今後ともヨロシクお願いしますね!
劉備の人望はどこから来ているのか不思議で仕方がない。
劉備の人望といえば、荊州の官民十数万が根無し草のオッサンに従ったというのが演義の創作じゃない、というのに驚きました
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お待たせしました~
お帰りなさい!
やっぱり史実の劉備は魅力的ですね。
私は猫さんのお話が好きなので、これからも応援します!
ありがとうございます
楽しんで頂けたなら何よりです
劉備推しです!楽しい動画、ありがとうございます♪
正史では控えめに言って超チンピラな劉備さん。かたや演義劉備にもっともちかい熱血曹操さんな認識です。続き楽しみに待ってます👍🏻
コメントありがとうございます。
チンピラ(笑
出遅れました。久しぶりの動画ありがとうございます。次回もゆっくりお願いします。
ありがとうございます
次回は北伐関連の人物やってみようかと思います
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属尽というやつですね
実は2000年近くも前の漢代から官僚制度は驚くほど発達してて凄まじいほどなので有り得る話です
町工場のオーナーですと土方歳三なんかも薬の工場オーナーの息子ですね
歳三は家業の関係で組織作りの非常に上手い人でしたが劉備の統率力なんかも実家の仕事が関係してるかもしれないですね
お帰りなさい!
演義の影響力、確かにすごいですね…
劉備=貧乏だった、は定説みたいになってますもんね。
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次回もお待ちしております!
ご無沙汰しておりました
次回もご期待下さい!
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もしかしたら知られざる曹操との邂逅があったかもですね
次回も期待してます!
コメントありがとうございます
劉備と曹操の邂逅は最短で劉備15歳、曹操21歳なので、本当だったらお互いにかなり影響があったかもですね〜
なんかあったのかと思ってTwitterまで見に行ったらプラモ作ってましたね。
しかも上手いし!
待ってましたよ!!
お待たせしました〜
あはは、ツイッターの方はあんまり関係ない事ばっかりですけどね(笑
PC復帰お疲れ様です。久々に見れてうれしいです
ありがとうございます。楽しんでいって下さい!
お帰りなさい😄
動画お待ちしておりました☺️
お待たせ致しました〜
遂に復活ですね!
中山靖王の件は非常にあやふやで学生の頃に自分も調べましたが、日本で織田家の末裔を名乗る人達の真贋を正す事より難しいと気が付いて諦めました・・
考察は色々出来るんですけど確定は無理ですよね〜
出自については他にも臨邑とかありますけど今回はバッサリカットしました
そのうちに四方山話しか何かで出すかも〜
猫さん、明けましたおめでとうございました♪
鄒靖なんて久しぶりに聞いた名前ですね~
関羽や張飛、趙雲だけじゃなくて、太史慈も劉備に付き従っていたら・・・
と、いつも思うんですよねw
子義さんとホウ統はトレードした方が活躍したかもね
ただ、劉備のところは足りなかったのは参謀だから陳羣や田予の方が組織全体としては惜しかったかも
特に陳羣はその名士ネットワーク込みで
グリード鈴木さん、あけましておめでとうございます
シギーは可能性が…なくもないですね(笑
劉備は不良少年っぽい所ありますし、若い頃は礼儀に煩い人が苦手だったのかも知れませんね〜
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孝行を理由に離れた二人ですが、本当に惜しいですね!
@@装甲猫 劉繇の元に行く前に劉備を訪問してればw
若い時に、曹操と知り合ったとしたら、その一族や、袁紹とのエピソードもあったかもですね。そこに関羽や張飛の若い頃とかも絡まると、また別の物語でも出来そうですね(笑)
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やっぱり猫さん動画はいいなぁ♪
話は全然違いますが・・・映画の話が出たので便乗して。
猫さんが三國志を日本の俳優でキャスティングするならどうするか、って動画を見てみたいなぁ、と実は以前から思っていました。
例えば自分のイメージだと、劉備は北野武、曹操は真田広之、孫権は石黒賢、諸葛亮は野村萬斎、司馬懿は緒形拳、etc。
昔やってたblogで正史版と演義版で書いた事があるのですが、結構反響あったので、楽しめた覚えがあります。
閑話休題ででもいつか取り上げて貰えると嬉しいなぁ←(笑)
なるほど〜面白い発想ですね〜
私は芸能人に疎くて、俳優さんは役柄込み(というか何々役の人という感じ)で覚えて難しいかもですけど〜
緒方拳は尼子経久イメージだし
真田広之は足利尊氏
野村萬斎は高杉晋作…
的に固まってるんですよ〜(笑
折角なので少し考えてみましたが劉備は渡哲也、曹操は人格が複雑過ぎて思い付かず、孫権は松田優作ですかね〜
@@装甲猫 さん
ありがとうございます♪
渡さんの劉備もよさそうですね。
確かアニメ(映画だったかな?)で曹操の声優をされていた記憶があります(笑)
お待ち致しておりました!!!
自分の中で、演技の被害者の上位にくる人物だとおもってます。
史実の劉備は魅力たっぷりです!
演義のはエセ聖人
でも演義の劉備も好きです(笑
あっ、猫さん私元ヒムロックですwww
@@suke-karmaさん
あら気付きませんでした〜
筵を織るって爪に火を灯すみたいな慣用表現だと聞いたことがあるな
へぇ~そうなんですね~聞いたことなかったです
劉備といえば孫文を思い出します。ほら吹きという意味で。
コメントありがとうございます。
でも実は若い時はそんなにホラ吹いてないんですよ
帝室の一員なんて若い頃は吹聴してなかったですし
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良いですね~
凄い良いです!そういうのロマンですよね~
蓆売りの下りは、聞き手が相手の生業が雑貨屋と聞いて勝手に剛田雑貨店をイメージしてたら実はホームセンター経営でしたという話と同義で面白いですね。かく言う私も、劉備自身が蓆を織ったり編んだりしてたと思っていました。また、175年の洛陽で不良学生の劉備(15)が新人官僚の曹操(21)との交流があったとするならば、飲みを重ねていくうちに劉備は学友の公孫瓚を曹操は遊び仲間の袁紹・張邈・許攸らを呼び、彼らが一同に集まると思うと胸熱だなと思いました。
なるほどなるほd,確かにどっちも雑貨屋ですね。劉備とジャイアン(笑
遊び歩いてた不良少年の劉備と、こちらも袁紹たちとグルで悪さしてた曹操達の若き邂逅。ロマンありますよね。
劉備は若年時代に曹操との交流があった…洛陽に留学したとなるとあり得る話ですね。
絶対とは言えないですけど、状況証拠は揃ってるので、そう考えるとロマンありますよね〜
@@装甲猫 酒を片手にって、少年劉備ですが
劉備が貧しく描かれたのは劉邦のイメージが重なったからだろうか
三国志演義の元である平話が転生物だからそうかもですね~
個人的には劉備は昔でいう香具師の元締めみたいな事をやっていたのでは と思います 名士との結びつきや喧嘩慣れしているのもそういう所からきているのではないかなぁと思ってます
11:42 不自由なく育った が 不自由なクソだった に聞こえてしまった
空耳アワ〜(笑
先主率其屬從校尉鄒靖討黄巾賊有功、を張純の乱に比定するのは同意なんだけど
劉備が張世平の援助で私兵を募ったのはその前なんじゃないかな?
その私兵をもって活動していた結果、劉子平の推挙に至ったとすれば、劉備の活動時期を前倒しできますね
これだと旗揚げの時には関羽張飛が居なそうだけれども
それそれ!さすがよくご存知ですね
典略のあの記事だと関羽・張飛は何してたのかな?と思ってしまうんですよね。
実は張世平の援助で私兵を募った時期をもっと前にってのは考えたんですよ。
そもそも文が前段にあるわけですしね。
ただ、劉備が資金援助を募ってまで、私兵団を組織する理由と蓋然性が薄いんですよね。
貧乏だから傭兵仕事で糊口を凌いだ、という風に解釈すればしっくり来るんですが、劉備の劉氏は傭兵に身をやつす身分じゃない。
なら傭兵ではなく自警団的に私兵を組織・維持しなきゃいけなくなる時期はいつか?と考えて張純の乱の混乱期を設定しました。
あくまで私個人の考えでは、ですけど
@@装甲猫 私兵は任侠を気取って賊徒を退治してたってのも無くはないですし
張世平だって無償で援助したとは思わないのですよね
その護衛、警護をしてたことをぼかしてるってこともあるかも?
関羽・張飛は何してたのかな?って点は
充少孤、晋書賈充伝より、賈充は数え12歳で父を亡くしています
張飛伝の少與關羽倶事先主が数え12歳くらいとして、関羽が数歳年上の仮に15歳なら、まだ特筆すべき活躍はなくても不思議はないかなーって
加えて関羽張飛の加わった募兵を、公孫瓚を頼った時や、董卓討伐の初平元年頃に比定すると劉備が崩御したとき二人はまだ40代半ば!諸葛亮の北伐に余裕で従軍できる年齢なんですよね
街亭で張飛張郃のリターンマッチが見たかったなあ
良いですね!
こういう語り合いは大好きです。
私も張飛は若かったと思いますが関羽が亡命してるという点を勘案するとあまりにも後ろにズラす事は難しいかな?とも思います。
また、劉備の用心棒説については、実は当時の社会制度は群雄割拠で崩れるまではしっかりしていて、県城外の通行には許可と通行証が要るんですよ。
さらに妥当な理由なく武器を持った私兵団が県城内に駐屯は出来ないんです。
その辺を考えると、世が乱れてからかなあ、と思う次第でもあります。
@@装甲猫私の説は、黄忠を老兵呼ばわりしたこと、馬超へのライバル意識から関羽が馬超と同世代と仮定したうえでの仮説なので
異論は多いと自覚していますw
関羽の亡命については、母丘殻旗下から劉備に心酔しての逃亡兵とすれば、やや苦しくも説明はつくんじゃないかな?
県城内の駐屯、県城外への通行は、張世平と劉氏の力次第ですかね
劉備の父や祖父が劉性で官職についてたってことは、除籍されたとはいえ皇族の末であることは周知されてたと思いますし
劉備ならなんとかするだろ、みたいなw後漢の幽州支配なんて完璧とは程遠いものですしね
論破するつもりも説得するつもりもないので、こういう解釈もあるんだなーくらいに眺めてください
次の動画も楽しみにしています
生きとったんかぁ〜ずっと更新なくて心配してました
明けましておめでとうございます。
新解釈三国志は………うん、僕は良いと思いますよ(遠くを見つめる虚な眼)
劉備の知ってる事知らなかった事があって楽しかったです
曹操と同じ時期に洛陽に居たと言うのが運命を感じる………
そういえば洛陽が首都なんですか?
現代の歴史書とか地図だと長安の方が良く書かれているような………?董卓が遷都したから??
あけましておめでとうございます
お待たせしました
前漢の首都は長安で、後漢では洛陽が首都になったんですよ〜
だから前漢を西漢、後漢を東漢と呼んだりもします
勿論、首都の位置が東西に分かれてるからです
@@装甲猫 早速ありがとうございます
次回も楽しみにしてます
お久しぶりですね!洛陽への留学は、目からウロコですわ!関羽の名は、洛陽留学中でも響いていて、劉備、曹操も聞き知っていたら、面白い因縁になりますね!
演義では極貧のイメージがありますけど、若い頃から、結構な遊び人と言うのも聞いてましたので、それなりに裕福だったんですね^^;
お久しぶりです!コメントありがとうございます!
劉備じゃないですが、三国志などの史書でも家産を傾けて豪傑と交友したって記述が出てくるように、この頃の交友ってのは歓待のしあいみたいな感じで結構な費用が掛かるみたいなんですよ。
だから貧乏だと難しいようです
いつも装甲猫さんの解説動画楽しませて頂いてます!今更ながらのコメントですが、劉備の幼少期が貧乏だったかどうかの話なんですが、父親達は名士層特有の「私財を投じて清貧さをアピールする」みたいなことをしていたなら、たとえ給料はよくても蓄財はなかっただろうから父親が亡くなったあとには貧乏になったかも?という可能性は考えられるかなと思いました!
返信が遅くなりましてごめんなさい。
幾つか誤解を解きますと、まず名士というのはいません。
あれは歴史学の中の学問的定義に過ぎないんですね。
次に士大夫層には確かに清貧が美徳とされますが、同時に生活を困窮させない程度の装いは最低限必要で、困窮するまで施すのは本気で救済をやってるか限度を知らない阿呆のどちらかなんですね。
だから一族の中に困窮者がいると恥になるんです。
というのをお知らせいたします。
お返事ありがとうございます。そうだったんですね、まだまだ理解してない部分がたくさんありました。おかげでまた三国志のことを知ることができました、ありがとうございます!
こってり史料に寄り添った考察、面白かったです。牽招と義兄弟の契りを交わしたのはどのあたりになるんでしょうかね?
ああ~それも気になりますよね~
ってこういうのを全部入れてると本当に尺がいくらあっても足りない(笑
個人的には牽招は多分、留学を終えて帰ってからだと思いますね~
だって北方で交友を結んだって書いてありますし小長をどう訳すかですね
これを若い時ってするか長い間ってするか
@@装甲猫 なるほど、留学後ですか。北方でかつ長い間交友を結んだと、なぜ一緒に旗揚げしなかったかがだいぶ謎になってきますね。
謎ですね~
劉備の涿県と牽招の観津県は離れてて接点がないですし、牽招が学問に出て洛陽で面識を得て交友を結んだんだと、河サク(北方)で交友したと書いてるのと矛盾するので正直分からんです~
親がそれだけの立場の人なら普通に劉氏の血筋でいい気もするな
ですね〜
ただ劉備の他の血族がその後に一切出てこないのが不思議で疑問符をつけときました〜
少なくとも県レベルではかなりの豪族のようですが...
むしろ売りとかも単に装っていただとか...
@@すず-w1t6u さん
コメントありがとうございます。
筵売りは別に装わなくても良いんですよ~
華陽国志って書物には、内職みたいに織ってどこかに納めたわけではなく、自ら販売までを兼ねた事業としてたって書いてるんで
劉備ってよく高祖に例えられるけど本人的には光武帝みたいになりたかったんだろうな。
最初はともかく後半は漢の名を継ぐ別王朝を作りたかったんでしょうね。
後漢時代はむしろムシロを使っていたのですか。
そうなんですよ~コレ国立博物館の三国志展で解説してました~
新解釈三国志ってギャグなのかな?
ちょっと興味湧いた。
気になりますよね~
変な言い方ですが・・・
最初に三国志に触れたころ:世間一般にイメージされる謙遜の強めな聖人君子
色々な三国志解説動画などを見た今:戦国無双の前田慶次
というのが個人的な劉備のイメージになりつつある。多分違う、いや絶対違う。
前田慶次とは面白いですね!
武力的な意味じゃないでしょうし、傾奇者というか任侠物っぽいからかな?
御無沙汰です。どうかしたのかな❔と考えてみたりしていました。所で、中山靖王劉勝には、沢山子供がいたとか本で見た記憶がある。
ご無沙汰しておりました〜
中山靖王には男子だけで21人?だったかな子供がいますね〜
張飛がわいろ請求してきた役人ぶったたいた話、劉備がやった話だしなあ。
というか賄賂要求自体されてないですね~
劉備は公私のけじめをつけただけの無実の役人を叩きまくって去ったヤンキーですね(笑
初めまして。下手な劉備推しの者です。演技と正史の違いがあるのは知っていましたが、貧乏っぽく演出されていましたね・・演義では(;^_^A 汎用品を販売していた=貧乏ということではありません。黄巾の乱にはノータッチはびっくりでした。σ(-ω-僕))が知っている違いといえば、賄賂を要求されてぼこぼこにしたのが演義では張飛ですが、正史では劉備くらいです。これくらいやったら、普通死ぬのとちゃうか?と思ったくらいです。ちなみに自分は劉備と性格が似ていて蜀とは地形の近い京都在住です。
実は督郵が賄賂を要求した、というの自体が演義の創作なんですよ。督郵は州の観察官で、劉備は督郵が知り合いだったんで、観察の前に面会を申し込んだんです。
そしたら督郵は会えない、と面会を断ったら劉備が笞打ちして逃げた、というのが大筋です。
監察官が職務前に私的な交友を控えた、だけなんですけどね(汗
@@装甲猫 ご指摘ありがとうございました。何かで鞭打ったのは張飛ではなく、劉備と書いてあったと記憶していていました。今調べなおしたら、劉備は免官されるかもと思ったので呼び出そうとしたところ断られて鞭打ったとされています。結構無茶苦茶な人だったんですね(;^_^A
劉氏を名乗り、軍のリーダーなるなら、この時代箔をつけないと信用、信頼されないと思う。都で有名な私塾に通うならそれなりのお金や身分がないと難しいのではと思う。人たらしはこの頃からだなと感じる。魅力だけでなく気風や気前の良さも人惹きつける魅力なので金払いとかも良かったのかもしれない。曹操と出会っていた解釈は面白いですね。後に曹操に使えて高待遇なのもわかります。
次も楽しみにしています。ちょっとしゃべりすぎました。自分の口に戸は立てられませんなw
なんの会話が多いほうが賑やかですよ(笑
桃園の誓いがあったから世に出れた、
でも桃園の誓いで、呉を感情的に攻め、自惚れそれまで重用していた孔明を蔑ろにし漢室復興できなかった。
桃園の誓いはなかったようですけどね。でも兄弟同然に可愛がってたんでしょう
演義の劉備は儒教のプロパガンダや。
蒼天航路の原作者が言うとった。
コメントありがとうございます!
そうなんですね!