ขนาดวิดีโอ: 1280 X 720853 X 480640 X 360
แสดงแผงควบคุมโปรแกรมเล่น
เล่นอัตโนมัติ
เล่นใหม่
モーガン先生のピンマイクがネクタイと擦れて雑音が入ります。マイクの位置を確認しなかった音声担当の茂木の責任です。お聞き苦しい点、ご容赦ください。
01の時にあれ、何の音?と思いました。そうだったんですね。
気になりません。内容に集中させてくれますから。
お二人の会話が面白く興味深いので気になりません
まったく気になりません。内容も最高です。
分析が的確(笑)
茂木先生の素晴らしい質問と、モーガン先生の素晴らしい心。
複写モーガン先生やっぱやべぇです素晴らしい
高校生息子が「え?この人日本人?」と呟きました。モーガン先生が日本人に見えたようです。なので「大和魂をお持ちの、日本人より日本人。でも生まれはアメリカ。」と答えておきました。息子、モーガン先生のファンになりました。『西洋哲学入門』を早く読みたいとバタバタしています!
モーガン先生の優しい語り口調の日本語が好きです。一音一音が綺麗です。日本語は母音語族?で、一音一音にお母さんがついているのでさみしくないとか。日本語を話すことで、日本の文化を理解できると聞いたことあります。本当に日本の好きな外国出身の方の日本語は美しい。日本語は美しい言語だと、逆に教えられました。
良いことを聞かせてもらった!日本人の本質を作っているものは、やはり日本語なんでしょうね(文字で表されるところだけではなく、全体的な音・波・流れ・・)
勉強になります🙇♂おもしろいし😊
茂木先生が言う「世界中の人が日本語をしゃべったら平和になる」に賛成です。実際平和になると思います。日本語は変と言うか特殊だと思います。主語抜き文が当たり前にあるほどに自分を表すような語が弱いです。1人称代名詞を考えるとわかりやすいです。場によったり相手によって自分を表す語が変わり、場合によっては入れ替わり自分も相手も変わりが無くなったりする変な言語が日本語です。何時でも自分を「I アイ」ひとつで押し通すような英語などと日本語ではわけが違います。「お母さんはね」と母親が子供から見た立ち位置で自分を語り、「先生はね」と先生は生徒からの目線を自分として語る。大阪では話相手の事を自分と称し話したりもします。「自分昨日駅前歩いてたやろ。見かけたで。」といった調子です。大阪の人は親切とかよく言いますが、他人も自分も関係なくなってる言葉遣いのせいで他者を自分のように扱うので親切なのでしょう。わたくし、わたし、おれ、僕・・・等々 なぜ日本語の1人称代名詞は多い?と数年前に考えてて、環境依存型1人称代名詞と言うか、絶対的な自分が無い主語というか、入れ替わってすら平気でなんなら自分・主語抜いてしまう・・・という、いつ何時も英語で言う所の「I アイ」的な自分がないのが日本語なんだと気が付いて、ああだから特攻隊は突撃できたのだななどと理解できた気がしました。他言語の人では特攻隊無理ですよ。特殊な人ひとりふたり出せても次々続くとかは無理と思います。日本語は良くも悪くも自分が無くて平気な特殊な自分感を持つ言語だと思います。自分と他者がバシっと区別されない自分感の言語なのでモーガンさんが仰るような心を開くというか心のやり取りがしやすい言語だと思います。
御意
モーガン先生と山口敬之さんの動画は必ずチェックしてしまう。山口さんとの動画も過激でしたね。
尊い冥土土産が増えました!感謝❗
まだ全て読んではいませんが、本を読んで視聴すると理解が深まります。ありがとうございます。
モーガン先生が仰ったように、幾ら日本語を完璧な文法で論理的に組み立て話をしたとしても、「ああそうですか」という応えしか返って来ないのは、そもそも日本語が相手をやり込める為に元々存在してないからであり、「この人は何を言ってるの?」「何が言いたいの?」という反応にしか結び付かないからですね。つまりその話の要点が、相手を思いやっての内容かそうでないか、見えて来ない場合は当然そうなるでしょう。この点が口先だけの議論や会話の手段である西洋の言語と日本語は大いに異なると思う。日本人はそこを直感やテレパシーみたいな物で感じ取っていると思う。論理的、合理的に納得するのとは次元の違う現象で、その反応こそが「ああそうですか」であり、あまり意味の無い物として脳内で処理されると思う。つまり、論理的な思考を組み立てた話は想定内であり、少しも日本人にとっては面白くないのですよ。日本語と日本人はその様なステージから既に遠く抜け出した上の段階に居ると思って間違いないですよ。
例え外人であったとしても、日本語話者になれば虫の音が音色として聞こえるようになる。と聞きます。虫の音が聞こえるようになって、「もののあわれ」が理解出来るようになるのでは無いでしょうか。それが、世界平和の礎となりませんかねぇ。
中国人の周さん(ここが変だよ日本人に出ていた方)が、「世界中の人が日本語を話したら戦争はなくなるよ!」とおっしゃっていました。本当かもしれないですね。
大人から、子供まで解る『腑に落ちる』‼素晴らしい日本語ですね❓☺
日本語の話、大変面白かったです。ありがとうございました。最後まで観ましたら、まだまだ面白かった。
日本人独自の感性なんですよね、感覚で相手を知ろうとする、理屈では無い。ただ、気をつけないと同調圧力となる。空気とか雰囲気を大事にするのが日本人。物事を定義して緻密に分析するのが西洋人。どちらも大事だけど、日本人は特に「考えるな! 感じろ!」と言う感覚を大事にする。
プラトンのイデアに浪漫を感じます。その完全な原本の存在は、生きがいに繋がります。自分は日本教ですが、善の大もとが天上にあると考えます。03も楽しみにしております。
そうですね。日本語以外の言語は喧嘩をする為の言語だと思います。その裏に隠された、涙ぐましい闘争や殺し合いの歴史が垣間見えますね。映像までは浮かびませんが、そう言った言葉は浮かんで来ます。私は日本語は不思議な言語だと思いますし、自分自身も不思議な存在だと思います。日本以外ではアメリカでの生活しか経験が無いですが、この年齢に成ると他の文化には興味が無いですね。これから日本に入って来るだろう文化は、自分なりに咀嚼して取り入れるでしょうけど。茂木先生が良い事を仰った。日本人はあまり言葉を信用してない。つまり、反論しようと思ったら幾らでも出来るけどやらない。切りが無い事を知ってるからだと思いますよ。目の前の問題に対する最善の答えは何か?それはある時は沈黙であり、分からなければ無理に答えを出す事を控える事でもあると思う。それだと自分も周囲も心が掻き乱される事も無いから。敢えて議論するのは無粋であるとも思う。
物事を構造化出来る(歴史・理系分野問わず)教師は本質を突きますね。
最初の4分の話は非常に重要な事ですね!!この4分の話で 日本人と西洋人、&他国人との会話・コミュニ―ケーションの関わりが 非常に差異があるので面白い!!意思伝達は各国によって、僕も話し方を変えています😊一長一短ですね。「声無き声を聞く」のと「声のまま、声を聞く」、2つともうまくできれば 外交はとても楽しいかも??😊日本は外交が下手ですね・・。 なので 我が日本は、声のまま、声を聞いて、それに対して毅然と対応、主張・意見すれば、相手国の反応・対応も変るかも??😊 それ以降の動画での話は まーなかなか一筋縄にいかぬものです。 であるがゆえに たくさんの哲学者が生まれ、色々なことを考え、主張するのですから。哲学なのに、比較的簡単にわかりそうな内容っぽいモノの代表が ルソーやマルクスなので、共感しやすい 理解しやすいだけのこと と!勘違いするだけのこと。 引き続き哲学漫才、楽しみに拝聴いたします😊
哲学って本当に面白いですね.とてもいい番組.知識が無いけれど、この討論に加わってずーっと話を聞いていたい
マイクの雑音は味があります😁西洋哲学入門を読んでます😉TH-camで拝見しますと整理されますありがとうございます😌
初っ端から楽しい😂口ごたえで対応する。私はラテン系の国民と思われていたけど、正にそれ、口答え、先ずします。それを越えた話を展開する相手の方に出逢うとドキドキ💓します。そして茂木先生の言う通り?かな?多くの日本人は怖くてめんどくさく感じます。言葉のやり取りの面白さに指導を乗っけないからです。私はスペイン語系の方にその面白さを感じていました。上智大の方なので渡部先生やサイデンステッカ先生の薫りもあったかもですが。
たしかに・・・哲学漫才ですね😆😆😆
あの世なんて全く信じてないけど、死そのものは怖くない。ただ死に方だけは怖い。
外国人の体験談として日本で暮らして日本語を話すと性格が変わるらしい。相手を思いやる心だったり、性格が優しくなると。
坂東忠信先生も同じ趣旨の発言をされてますね。中国人は、あの発声により好戦的であり、長く日本に暮らしていると大人しくなると。
深いお話です。使ってる言語で感覚が違ってくる🤔
お二人のお話しがとても面白く、また皆さんのコメントが余りに深くホントに勉強になります。素晴らしいです。皆様、ありがとうございます。
モーガン先生🌱 茂木先生🌱愉快な哲学、本音配信!ありがとうございます🍀
主体と客体の二元性を重要視する社会と主体と客体は分離出来ないとする一元性の社会の違いは大きいでしょうね!
文法正しくても、?(^^)で、文法メチャクチャでも通じる。心が素直な時話せるようになるのが、日本語…面白く深いですね✨🥰ぜひお二人に言靈コトタマを学んでみて欲しいです🌈
ないことの証明は難しいですね。
素晴しいご対談でした✨🙏❤ありがとうございました!!
実は、科学を突き詰めると唯物論の限界に突き当たります。生命の起源ではDNAの情報とそれを利用する情報処理システムは物理化学法則では説明できません。意識の存在も物理化学法則で説明できませんし、意識は観察できないので科学では扱えません。
全ては物で、できてると思います。計り知れない物で。
人間、どこまで行っても他人の頭の中は覗けない、「分からない」ブラックボックスであり、それゆえ誰もが完全に分かりあうことなく、孤独に生まれ、孤独に死んでいくわけですが、それでもどこか通じ合えるはずだと心を開いているのが日本人らしさなのかなと思います。だから相手も、通じ合えることを「信じて」「心を開いて」いるかどうか、敏感に察知してしまう。唯物論だと、物理的に見えてる部分だけでお互いを判断することになります。そうすると、見えてない部分ではお互い何やってるか分からない、と疑う方が先にきてしまう。物理的に脳みそを解剖したところで考えてることは見えないわけですから、唯物論者の結論は「人は永遠に分かり合えない」となります。一方、世界は目に見えてる以上のものだ、言葉で語れる以上のものだ、と信じる人たちにとっては、物理的限界を超えて、分かり合える可能性があります。この考え方の行き着くのは性善説です。逆に、唯物論的な考え方でいくと、人間観は当然「性悪説」になります。性悪説は、人間の心を信用しないので、秩序を作り出すためには心の外に法律やルールを必要とします。よって、このような法律や契約といった外部規範が発達している社会ほど、性悪説にどっぷりです。ところが性善説社会では、自分で自分を律して「お天道様に恥じない生き方」をするのが当然で、お互いにそのように生きていると信じ合うことになるので、内部規範が発達し、外部規範は最低限となります。自分が自律的に生きているとき、他人も同じようにやっているはずだと信じるためには、自分と他人を同じ人間、同じ生き物だとして同一視する、自他合一の感覚も発達していきます。この感覚を日本的な日常語で言うなら「お互い様」の感覚でしょう。性悪説の立場から外部規範をいくら発展させたところで、人々の心を縛ることはできません。必ず規範を破る人間が現れ、裏から手を回して抜け道を利用したり、権力者になって法を捻じ曲げたりします。逆に内部規範が発達していると、個々人が自分を律するだけでどんな法律よりも強力に秩序が保たれます。これらの内部規範は長い年月をかけて「お天道様がいつも見ている」感覚として構築されていきます。無人野菜直売所のようなものは、内部規範が発達している国にしか存在できません。ああいうものは、法律や制度といった外部規範をどれだけ整備しようが、絶対に実現しません。ただ残念なことに、昨今はで田舎の無人野菜直売所ですら、監視カメラがついたりするようで、すでに日本の性善説もかなり崩れ、性悪説に侵食されているのは明白です。
とてもとてもとても共感致します!上手くまとまらなかった想いを、これ以上無いほど完璧に表して下さって、本当に感謝致します。🙇♀️✨わたしは以前、人々が善である社会は、それが倫理的に良いことだから、というよりはそのほうが理に適っているからだ、と思ったことがあって、お互いが信じられない騙し騙されの社会は、じっさい暮らしにくいじゃないかと気がついたのでした。
@@雨月物語 共感して頂きありがとうございます。おっしゃる通り、今の世の中の生きにくさ、いろいろな問題の根っこのところには、人間というものを信用しない性悪説が原因としてあると思っています。ただ、すでに周りが性悪説だらけになって、騙し騙されが当たり前の世界の中で、自分だけ性善説でいると単にカモにされてしまうだけですので、自己防衛のために他人を疑うという事も必要になってきます。だから、長期目標としては性善説を目指し、短期的戦略としては性悪説をうまく活用する、というハイブリッドな姿勢が必要なんだろうなぁ、と最近は思ってます。
@@gomiakuta 様はい。私もそう思います。子どもたちに「おかあさんはカモにされる側で心配💦」と思われていまして😰それは多分、人に対して強く出られない弱さだったりするのです。そういう弱さを自分にムリなくどうしたらいいかと考えて、私はとても小さい範囲の(慎ましい)自分は自律的に善を行って(自律的だから見返りを求めない)、社会と接する部分の自分はちゃんと賢くならなくちゃと思いました笑ですけどそうやって想いと行いを自分好みに律していると、初めてすれ違う人がニコニコ話しかけて来て下さったり、セカイが不思議に優しくなって驚きます。☺️
茂木先生とモーガン先生、お二人とも素晴らしい方ですが、「唯物論」についてだけ私の考えとは異なります。人間を不幸にするのはマルクス主義、共産主義の「みんな平等、みんな同じ」の思想です。それに対し、唯物論は「思想」ではなく、この世界の仕組みを説明しているだけです。心は、脳の働きから生まれているものですが、「心のつながり」「美しい心」を生み出します。人生は、一度きりだからこそ貴重であり、素晴らしいものだと私は思っています。死ねば、自分は無くなりますが、家族で繋がっていきます。死があるからこそ、ものの哀れがあるのだと思っています。
あの世という言及は一種の救いになるが例えば仏陀はそれに対してさえあるないに関わらずそれに執着せず今を生きろと言っているが現代の人は現世に偏りすぎている。
思考概念の内側は、あくまで人間の自我意識の視点なのですが、無我って自我意識の外側の視点で、言い換えると思考や概念の外側なのですよね。禅定(八正道の正定)という瞑想状態に意識の状態が至ると、思考の外側に視点が切り替わるわけです。ですので、思考概念だけで答えを出す方法論では、自我意識の外側ってわからないんですね。構造的にそうなんです。
「禅定(八正道の正定)という瞑想状態」というのは自己意識の一種ですから、構造的に人間は自己意識から逃れられません。人間は他人や他の生物の意識を持つことができません。
プラトンは高齢になってからの思想デモクリトスは若い頃の思想じゃないのかなぁ…高齢者と話している時ちょっと気を抜くと死ぬ話とか病気の話とかに持って行かれて閉口すること良くあります
社会主義も資本主義も同じ!?続きも楽しみです😊
私はスペインに住んで7年になります。 言語は英語、スペイン語、フランス語、とドイツ語、イタリア語を少々話します。 西洋の会話は、 知識の競争と、 最終目的は自分の意見が正しい事を示すためにあります。 スペイン人の妻とは8年一緒にいますが、彼女は未だに瞬間的に口答えばかりで、 素直に受け止めることがありません。 そもそも、日本人の会話は共感が基本ですから、私が正しいだの、 あなたが正しいだのは、どうでもいいのです。 一説では、 日常会話で必要な語彙数は、 スペイン語イタリア語 フランス語で2000から2300語、 英語で3000語、 ドイツ語で5000語、 日本語で1万語と言われていますが、実体験でこれは間違いではありません。 日本語の5分の1の単語で済む言語が、 日本人の感性を表せるわけもなく、それは逆に日本人にすれば、 道具箱にプライヤーひとつしかないようなもので、不便でとストレスでしかありません。 なるほど、 工夫も改善もない西洋の文化ですから、 プライヤーひとつで現地人は不自由しないけれど、 世界をより良く平和に変えるなら、 日本語ほど適切な言語はないでしょう。 それは" 心" という単語ひとつで明白です。西洋は感情と理性と魂を別々の単語で言いますが、心は 精神も魂も含みますから。 つまり、 西洋言語では、自己の統一すらままならないという事です。
なるほど!
0.5秒後の世界しか認識できず、無意識がほとんどを決定しているという解釈もあり、加えて錯覚で歪められる可能性もあるとなると唯物論でも唯我論でもなければ、イデアや純粋経験を完全に理解できずとも、その朧気な輪郭を掴もうとすれば隠れている何かを読もうとする直感でしかなく膨大な情報を処理しているらしい無意識に、意識側がほんの少しでも寄ることで第六感や悟りのような、いわゆる右脳的なモノになるのではないと思います。全然言語化できていませんし、おそらくできないものなのでしょうか。本来は主体と客体を分けること、そのものが無粋では無いかとも。
スウェーデン人もまず、口ごたえ、口先で勝負しますよ。そして人の話を聞かない。
欧米人はこれやから • • •。💢
社会主義vs資本主義、冷戦は唯物論の内戦…。「あなたと私は似たもの同志 欠点ばかりが目立つ二人よ」昭和の名曲の脳内再生が止まりません・・・🤣。
今読んでます
本来の唯物論=物質主義ではない。後に曲解された。「物」の意味はマテリアルではないです。自然の、宇宙の法則を「物」と表現しているだけで、それは「理(ことわり)」のこと。つまり物理のことです。
キリスト教と仏教が繋がってるかもとのことで思い出しました。聖書のキリストはナザレ出身ですが、サンスクリット語でNazareth, Nazarene =どの組織からも離れた者のこと=Buddhist (仏教徒)=Mercury (水星)=Wisdom (知恵)。ヒンズー教でNazar=Sight(視界、視野)なので、Nazarene=Seer( 先見者)だろうと聞きました。
お二人が書かれる本が偶然に生まれることはない。一冊の本であっても、その誕生にはその本を書いた目的がある。ところでお二人が生きている肉体の仕組みはもう医学が解明できているだろうか?人間は人間の生命活動の仕組みさえ未だにすべてを解いたわけではない。それほど複雑なミクロコスモスと呼ばれる人間や、宇宙の誕生が無目的に偶然に誕生する可能性や確率はどのくらいだろうか?無機物が有機物になり最高に進化した人間が現れたという。一輪車が100億年経っても二輪車に進化するとは誰も考えないだろう。しかし、進化というのはそれ以上の変化ではないのか。キリンはキリンに、猿は猿に、人は人にはじめから目的をもって進化してきたというのなら理解できる。そういう考えが否定されるのは、目的とは意思を持った存在が立てるのだから、その進化をもたらした目的があるなら、その目的を持った意思の主体は誰か?という話にならざるを得ない。だから、進化論者は進化に目的を認めない。進化論とは偶然という神を信じる偶然教という一種の宗教ではないのか?デモクリトスを否定するなら、その代替案はどうなるのだろうか?それが問題だ!さて、茂木先生は仏教のキリスト教への影響を語られたが、一般には逆であると思うので、独創的である。ぜひ詳しくいつかお話されてほしい。それにしても不思議な対談ですな。続きを楽しみにしております。
プラトンの説は岡田茂吉という有る宗教の教祖が言われた霊界と現界の関係性において霊主体従の法則に繋がるものですね霊主体従の法則も霊界で先に起こった事象が現界に転写されると言っていますそして現界に映る時にその人間の徳ややってきたことやっていること思っていること話していることなどで大難なのか小難なのか無難なのか幸運なのか変わると言われています唯物主義の行き着く先が共産主義だと私は教わり共産主義は悪魔の思想だと教わってました私が10代最後の頃ですから30年以上まえのことですですが、共産主義唯物主義が悪魔の思想だと学んだのは最近のことでこの動画再認識出来ましたし世の中ようやくこの水準に達したことを嬉しく思うのと私が信じている教祖が言われるにはどんどん見えてないものが明らかになると言われていますこの動画はその明らかになったものの一つだとも思いましたとは言えこの動画で私の考えが正しかったと改めて認識ができました感謝です素晴らしい動画ですありがとうございます
哲学好きの友人、マルクス推しなんよなぁ
めっちゃ面白い。こういった授業を受けて見たかったな。知性をものすごく刺激されました。
俺も幼少期はプラトンみたいな考えをしていたなぁ、自分以外は世界の普遍的無意識と繋がっていて根っこは同じなんだから人間は全て同一存在なんだろうと中の人が同じでもアバターと言う人格を纏っている限り同じにはなれないので、人は人として生きるのが幸せかなと思想と哲学はとある漫画で言うところの人間病みたいなものだから上手く付き合うしかない
魂と云う物質 まとめ方 死ぬことって怖くない 禁止されました マーノ カールマルクス あの世がない 経済効率を求める
唯物論を信じたら、成仏できなくなるよ。
資本主義も社会主義も唯物論というのはそうですね。霊魂やあの世や生まれ変わりを排除した経済思想。相続税を廃止して、生まれ変わり先の自分へ全相続させる経済システムなら霊魂が加わった資本主義経済システム的になりそうです。
MUSHINO KOE GA KIKOERU YOUNI NARU. HEIWAJA NAITO YOKU KIKOENAI. ITSUMO USO BAKARI TSUITERUTO , KAO MADE KAWATE KITESHIMAU.
くらしの良品研究所『右脳と左脳と虫の声』についての「左脳で虫の音を聞く日本人」『人間の脳は右脳と左脳とに分かれていて、それぞれに得意分野があります。言葉や計算などの知的作業を分担するのは、言語脳といわれる左脳。これに対して音楽脳といわれる右脳は、非言語音を感覚的にとらえるのにすぐれているといわれます。この脳の働きを日本人と西欧人で比較してみると、西欧人は虫の音を右脳(音楽脳)で処理するのに対し、日本人は左脳(言語脳)で受けとめる、つまり虫の「声」として聞いていることが角田博士の研究で明らかになりました。一体どうしたら、そんなことがわかるのでしょう? 人間の耳から脳への神経系の構造は、左耳から入った情報は右脳へ、右耳から入った情報は左脳へ行く、という交叉状態になっています。そこで、左右の耳に同時に違った音を流した後でどちらの音を聞きとれたかを調べることで、どちらの脳が認識しているかを判定。いろいろな音でこうした実験を積み重ねていくと、音楽や機械音、雑音は右脳で、言語音は左脳で受け止めていることがわかったのです。ここまでは、日本人も西洋人も共通なのですが、違いが出るのは虫や動物の鳴き声。こうした音を、西洋人は楽器や雑音と同じように右脳で聞いているのですが、日本人は言語と同じく左脳で聞いていることがわかりました。』「日本語の脳」『こうしたことの背景には、その言語における「母音」が大きく関わっているといわれます。母音より子音の方が重要な役割をもつことの多い西洋人は、母音を音楽脳で処理するのに対して、母音で言葉を形成する部分が大きい日本語を話す日本人は、母音を言語脳で処理するのだとか。そして、虫や動物の声は母音に非常に似ていることから、日本人はこれらの音を言語脳で聞くと推察されています。それだけでなく、波・風・雨の音・小川のせせらぎといった自然音や邦楽器の音なども、日本人は左脳で聞いているのだそうです。さらに興味深いのは、日本人でも外国語を母語として育てられると西洋型になり、外国人でも日本語を母語として育つと日本型になってしまうこと。西洋型か日本型かは、人種の違いではなく、幼児期にどんな言語を母語として覚えたかの違いである可能性が高く、「日本人の脳というより"日本語の脳"と言うべきだろう」と角田博士は語っています。(省略)』ところで、私は乳児の頃髄膜炎にかかり「高音障害」があり、虫の声は低い蝉の声しか聞こえません。しかし、その分、霊的な音や匂いは分かり、人の危機、予知夢、直感なども割と鋭いと思っています。人は、肉体の中に魂が入った存在なので、肉体的に何かが不利的になると、生きて行くにあたって欠落した機能をフォローする何かしらの機能が備わる様になっているのかも知れません😅。長文失礼致します。🙏💭💗。
古事記と万葉集の研究を、いつから始められるのかなぁと楽しみにしています。視聴者も巻き込んでくださると嬉しいのですが、、、。
本物のアメリカン・カウボーイ‼😇😇ルン
こんにちは🌷本間華稲です。ハイコンテクスト文化とローコンテクスト文化の違いですね。
小泉珍次郎くん風に言えば「おぼろげにうかんできた 18:28 」のですが😅、要は哲学とはこの世の意味づけの話で、言葉抜きでは成立しない。だからそれを補うために宗教が必要となる。大胆に言っちゃえば「感じる世界」。ところが、大乗仏教では不立文字なんて禅宗で説明されるように言葉を超えた世界を相手にしているか。唯識は無意識の奥底までを透徹したような議論がある。単なる生き物としての生でなく、人間として最高の生き方を求めている。言葉で世界を分けちゃわからなくなるんだな。😂
デモクリトスが唯物論の祖で、マルクスが焼き直したんですね…。
タタミゼ効果を科学してみると面白いかもしれない。発声の違いも関係ありそうだ。スペイン人が日本人の「生きがい」を探求し書籍で紹介していたりする。世界で500万部、米国でも100万部売れているとか。こういう日本語と日本人の生き方を護りたいが、お注射などの勢力がそれを破壊しようとしてくる。武力を用いない戦争は続いている。
仏教とキリスト教インドヨーロッパ語族だから一緒なんかもしれないですね。
おふたりで禅問答や ソクラテス式問答法みたいに 二律背反な テーマでライブ配信して欲しいな(´・ω・`)
先生 質問があります。デモクリトスが「世界は原子だ。つぶつぶだ!」と説いたとき、古代人は「おおっ!」となったのでしょうか。社会や倫理への言及はありましたか。調べましたが、資料が断片的で、専門家も判断しかねるような感じでした。機会がありましたら、よろしくお願いいたします。
デモクリトスの著作は残っていません。後世の学者がデモクリトスの引用を断片的に伝えているだけです。
先生 教えていただきありがとうございます。それが2000年以上も受け継がれてきているのは凄いです。
紀元前5世紀から、精神性高まる興隆期はメシア降臨準備時代と考えれば、天の摂理と考えられませんか?
唯物論はデモクラ テス もうそうですが フォイエルバッハではないですか
お二人の呼吸の重なりや微妙なズレが楽しい対談ですね。正に漫才(*>∇<)ノ想像なのですが資本主義や社会主義が唯物論の内ゲバなら、欠けたものを補えば融合し、人類にとって役に立つものとして再生出来るのでは??σ(´・ε・`*)それではどっちつかずになるから駄目なのでしょうか?(*´・∀・`*)さながらに 絵に描くごとき もくもくの雲立ち上る 夏の青垣
「唯物論の内ゲバ」→ うまいことを言う。💧😅(ザブトン一枚!)
あの世が無い信者の方には自分の中に柱が無い様に感じられてしまいます、上手く表現出来ませんが。。
鬼畜米英とソ連の冷戦は啓蒙思想の内戦に過ぎなかった。日本語そのものに世界史を最適化する余地がある?
お釈迦さんは唯一神(バラモン)を排除。
唯物論て?今だけかな?唯物論であるから子供が堪らなく可愛かったり親を大事にしたり伝統に畏敬の念を感じるんだけど物の憐れってモノをイチバン感じる。
「大乗仏教とキリスト教は似ている」と動画のなかで言っていますが、そういう言説はきわめて概念的であり、中身を見ていません。阿弥陀如来はイエスのような生贄の神の子でありません。阿弥陀如来だけが救いの道だとも言っていません。ナザレのイエスは名号を唱えなさいと言っていませんし、体が金色に輝いてもいません。キリスト教の「自分を愛することが他者を愛する基盤である」という考え方は仏教的な思考からかけ離れています。むしろヒンドゥー教のバクティ思想の方がキリスト教に近似性があるとおもいます。もちろん、それも細かく見ていけばヒンドゥー教とキリスト教はまったく違いますが。歴史がまったく異なる宗教思想に近似性を見出そうとするのはもとより無謀な営為であり、スーパーマンとウルトラマンが同一だと主張するようなナンセンスな議論になりがちです。
なぜにこのガサゴソ音が入ってしまったのかと思うんですが話されていることを聞くのに邪魔。初めての経験です。
飼い慣らされた外国人
人間は感情なんだよ。実在をやれよ。噛み付いてやっから。
モーガン先生のピンマイクがネクタイと擦れて雑音が入ります。マイクの位置を確認しなかった音声担当の茂木の責任です。お聞き苦しい点、ご容赦ください。
01の時にあれ、何の音?と思いました。そうだったんですね。
気になりません。内容に集中させてくれますから。
お二人の会話が面白く興味深いので気になりません
まったく気になりません。内容も最高です。
分析が的確(笑)
茂木先生の素晴らしい質問と、モーガン先生の素晴らしい心。
複写
モーガン先生やっぱやべぇです
素晴らしい
高校生息子が「え?この人日本人?」と呟きました。モーガン先生が日本人に見えたようです。なので「大和魂をお持ちの、日本人より日本人。でも生まれはアメリカ。」と答えておきました。息子、モーガン先生のファンになりました。『西洋哲学入門』を早く読みたいとバタバタしています!
モーガン先生の優しい語り口調の日本語が好きです。一音一音が綺麗です。日本語は母音語族?で、一音一音にお母さんがついているのでさみしくないとか。日本語を話すことで、日本の文化を理解できると聞いたことあります。本当に日本の好きな外国出身の方の日本語は美しい。日本語は美しい言語だと、逆に教えられました。
良いことを聞かせてもらった!日本人の本質を作っているものは、やはり日本語なんでしょうね(文字で表されるところだけではなく、全体的な音・波・流れ・・)
勉強になります🙇♂おもしろいし😊
茂木先生が言う「世界中の人が日本語をしゃべったら平和になる」に賛成です。実際平和になると思います。日本語は変と言うか特殊だと思います。
主語抜き文が当たり前にあるほどに自分を表すような語が弱いです。1人称代名詞を考えるとわかりやすいです。場によったり相手によって自分を表す語が変わり、場合によっては入れ替わり自分も相手も変わりが無くなったりする変な言語が日本語です。何時でも自分を「I アイ」ひとつで押し通すような英語などと日本語ではわけが違います。
「お母さんはね」と母親が子供から見た立ち位置で自分を語り、「先生はね」と先生は生徒からの目線を自分として語る。大阪では話相手の事を自分と称し話したりもします。「自分昨日駅前歩いてたやろ。見かけたで。」といった調子です。大阪の人は親切とかよく言いますが、他人も自分も関係なくなってる言葉遣いのせいで他者を自分のように扱うので親切なのでしょう。
わたくし、わたし、おれ、僕・・・等々 なぜ日本語の1人称代名詞は多い?と数年前に考えてて、環境依存型1人称代名詞と言うか、絶対的な自分が無い主語というか、入れ替わってすら平気でなんなら自分・主語抜いてしまう・・・という、いつ何時も英語で言う所の「I アイ」的な自分がないのが日本語なんだと気が付いて、ああだから特攻隊は突撃できたのだななどと理解できた気がしました。他言語の人では特攻隊無理ですよ。特殊な人ひとりふたり出せても次々続くとかは無理と思います。日本語は良くも悪くも自分が無くて平気な特殊な自分感を持つ言語だと思います。
自分と他者がバシっと区別されない自分感の言語なのでモーガンさんが仰るような心を開くというか心のやり取りがしやすい言語だと思います。
御意
モーガン先生と山口敬之さんの動画は必ずチェックしてしまう。山口さんとの動画も過激でしたね。
尊い冥土土産が増えました!
感謝❗
まだ全て読んではいませんが、本を読んで視聴すると理解が深まります。ありがとうございます。
モーガン先生が仰ったように、幾ら日本語を完璧な文法で論理的に組み立て話をしたとしても、「ああそうですか」という応えしか返って来ないのは、そもそも日本語が相手をやり込める為に元々存在してないからであり、「この人は何を言ってるの?」「何が言いたいの?」という反応にしか結び付かないからですね。つまりその話の要点が、相手を思いやっての内容かそうでないか、見えて来ない場合は当然そうなるでしょう。この点が口先だけの議論や会話の手段である西洋の言語と日本語は大いに異なると思う。日本人はそこを直感やテレパシーみたいな物で感じ取っていると思う。論理的、合理的に納得するのとは次元の違う現象で、その反応こそが「ああそうですか」であり、あまり意味の無い物として脳内で処理されると思う。つまり、論理的な思考を組み立てた話は想定内であり、少しも日本人にとっては面白くないのですよ。日本語と日本人はその様なステージから既に遠く抜け出した上の段階に居ると思って間違いないですよ。
例え外人であったとしても、日本語話者になれば虫の音が音色として聞こえるようになる。と聞きます。
虫の音が聞こえるようになって、「もののあわれ」が理解出来るようになるのでは無いでしょうか。
それが、世界平和の礎となりませんかねぇ。
中国人の周さん(ここが変だよ日本人に出ていた方)が、「世界中の人が日本語を話したら戦争はなくなるよ!」とおっしゃっていました。本当かもしれないですね。
大人から、子供まで解る『腑に落ちる』‼
素晴らしい日本語ですね❓☺
日本語の話、大変面白かったです。ありがとうございました。
最後まで観ましたら、まだまだ面白かった。
日本人独自の感性なんですよね、感覚で相手を知ろうとする、理屈では無い。
ただ、気をつけないと同調圧力となる。
空気とか雰囲気を大事にするのが日本人。
物事を定義して緻密に分析するのが西洋人。
どちらも大事だけど、日本人は特に
「考えるな! 感じろ!」
と言う感覚を大事にする。
プラトンのイデアに浪漫を感じます。その完全な原本の存在は、生きがいに繋がります。自分は日本教ですが、善の大もとが天上にあると考えます。03も楽しみにしております。
そうですね。日本語以外の言語は喧嘩をする為の言語だと思います。その裏に隠された、涙ぐましい闘争や殺し合いの歴史が垣間見えますね。映像までは浮かびませんが、そう言った言葉は浮かんで来ます。私は日本語は不思議な言語だと思いますし、自分自身も不思議な存在だと思います。日本以外ではアメリカでの生活しか経験が無いですが、この年齢に成ると他の文化には興味が無いですね。これから日本に入って来るだろう文化は、自分なりに咀嚼して取り入れるでしょうけど。茂木先生が良い事を仰った。日本人はあまり言葉を信用してない。つまり、反論しようと思ったら幾らでも出来るけどやらない。切りが無い事を知ってるからだと思いますよ。目の前の問題に対する最善の答えは何か?それはある時は沈黙であり、分からなければ無理に答えを出す事を控える事でもあると思う。それだと自分も周囲も心が掻き乱される事も無いから。敢えて議論するのは無粋であるとも思う。
物事を構造化出来る(歴史・理系分野問わず)教師は本質を突きますね。
最初の4分の話は非常に重要な事ですね!!この4分の話で 日本人と西洋人、&他国人との会話・コミュニ―ケーションの関わりが 非常に差異があるので面白い!!意思伝達は各国によって、僕も話し方を変えています😊一長一短ですね。「声無き声を聞く」のと「声のまま、声を聞く」、2つともうまくできれば 外交はとても楽しいかも??😊日本は外交が下手ですね・・。 なので 我が日本は、声のまま、声を聞いて、それに対して毅然と対応、主張・意見すれば、相手国の反応・対応も変るかも??😊 それ以降の動画での話は まーなかなか一筋縄にいかぬものです。 であるがゆえに たくさんの哲学者が生まれ、色々なことを考え、主張するのですから。哲学なのに、比較的簡単にわかりそうな内容っぽいモノの代表が ルソーやマルクスなので、共感しやすい 理解しやすいだけのこと と!勘違いするだけのこと。 引き続き哲学漫才、楽しみに拝聴いたします😊
哲学って本当に面白いですね.とてもいい番組.知識が無いけれど、この討論に加わってずーっと話を聞いていたい
マイクの雑音は味があります😁
西洋哲学入門を読んでます😉
TH-camで拝見しますと整理されます
ありがとうございます😌
初っ端から楽しい😂口ごたえで対応する。私はラテン系の国民と思われていたけど、正にそれ、口答え、先ずします。それを越えた話を展開する相手の方に出逢うとドキドキ💓します。そして茂木先生の言う通り?かな?多くの日本人は怖くてめんどくさく感じます。言葉のやり取りの面白さに指導を乗っけないからです。私はスペイン語系の方にその面白さを感じていました。上智大の方なので渡部先生やサイデンステッカ先生の薫りもあったかもですが。
たしかに・・・哲学漫才ですね😆😆😆
あの世なんて全く信じてないけど、死そのものは怖くない。
ただ死に方だけは怖い。
外国人の体験談として日本で暮らして日本語を話すと性格が変わるらしい。相手を思いやる心だったり、性格が優しくなると。
坂東忠信先生も同じ趣旨の発言をされてますね。
中国人は、あの発声により好戦的であり、長く日本に暮らしていると大人しくなると。
深いお話です。使ってる言語で感覚が違ってくる🤔
お二人のお話しがとても面白く、また皆さんのコメントが余りに深くホントに勉強になります。
素晴らしいです。
皆様、ありがとうございます。
モーガン先生🌱 茂木先生🌱
愉快な哲学、本音配信!
ありがとうございます🍀
主体と客体の二元性を重要視する社会と
主体と客体は分離出来ないとする一元性の社会の違いは大きいでしょうね!
文法正しくても、?(^^)で、文法メチャクチャでも通じる。心が素直な時話せるようになるのが、日本語…面白く深いですね✨🥰
ぜひお二人に言靈コトタマを学んでみて欲しいです🌈
ないことの証明は難しいですね。
素晴しいご対談でした✨🙏❤
ありがとうございました!!
実は、科学を突き詰めると唯物論の限界に突き当たります。
生命の起源ではDNAの情報とそれを利用する情報処理システムは物理化学法則では説明できません。
意識の存在も物理化学法則で説明できませんし、意識は観察できないので科学では扱えません。
全ては物で、できてると思います。
計り知れない物で。
人間、どこまで行っても他人の頭の中は覗けない、「分からない」ブラックボックスであり、
それゆえ誰もが完全に分かりあうことなく、孤独に生まれ、孤独に死んでいくわけですが、
それでもどこか通じ合えるはずだと心を開いているのが日本人らしさなのかなと思います。
だから相手も、通じ合えることを「信じて」「心を開いて」いるかどうか、敏感に察知してしまう。
唯物論だと、物理的に見えてる部分だけでお互いを判断することになります。
そうすると、見えてない部分ではお互い何やってるか分からない、と疑う方が先にきてしまう。
物理的に脳みそを解剖したところで考えてることは見えないわけですから、
唯物論者の結論は「人は永遠に分かり合えない」となります。
一方、世界は目に見えてる以上のものだ、言葉で語れる以上のものだ、と信じる人たちにとっては、
物理的限界を超えて、分かり合える可能性があります。この考え方の行き着くのは性善説です。
逆に、唯物論的な考え方でいくと、人間観は当然「性悪説」になります。
性悪説は、人間の心を信用しないので、秩序を作り出すためには心の外に法律やルールを必要とします。
よって、このような法律や契約といった外部規範が発達している社会ほど、性悪説にどっぷりです。
ところが性善説社会では、自分で自分を律して「お天道様に恥じない生き方」をするのが当然で、
お互いにそのように生きていると信じ合うことになるので、内部規範が発達し、外部規範は最低限となります。
自分が自律的に生きているとき、他人も同じようにやっているはずだと信じるためには、
自分と他人を同じ人間、同じ生き物だとして同一視する、自他合一の感覚も発達していきます。
この感覚を日本的な日常語で言うなら「お互い様」の感覚でしょう。
性悪説の立場から外部規範をいくら発展させたところで、人々の心を縛ることはできません。
必ず規範を破る人間が現れ、裏から手を回して抜け道を利用したり、権力者になって法を捻じ曲げたりします。
逆に内部規範が発達していると、個々人が自分を律するだけでどんな法律よりも強力に秩序が保たれます。
これらの内部規範は長い年月をかけて「お天道様がいつも見ている」感覚として構築されていきます。
無人野菜直売所のようなものは、内部規範が発達している国にしか存在できません。
ああいうものは、法律や制度といった外部規範をどれだけ整備しようが、絶対に実現しません。
ただ残念なことに、昨今はで田舎の無人野菜直売所ですら、監視カメラがついたりするようで、
すでに日本の性善説もかなり崩れ、性悪説に侵食されているのは明白です。
とてもとてもとても共感致します!
上手くまとまらなかった想いを、これ以上無いほど完璧に表して下さって、本当に感謝致します。🙇♀️✨
わたしは以前、人々が善である社会は、それが倫理的に良いことだから、というよりはそのほうが理に適っているからだ、と思ったことがあって、
お互いが信じられない騙し騙されの社会は、じっさい暮らしにくいじゃないかと気がついたのでした。
@@雨月物語
共感して頂きありがとうございます。
おっしゃる通り、今の世の中の生きにくさ、いろいろな問題の根っこのところには、人間というものを信用しない
性悪説が原因としてあると思っています。
ただ、すでに周りが性悪説だらけになって、騙し騙されが当たり前の世界の中で、自分だけ性善説でいると
単にカモにされてしまうだけですので、自己防衛のために他人を疑うという事も必要になってきます。
だから、長期目標としては性善説を目指し、短期的戦略としては性悪説をうまく活用する、という
ハイブリッドな姿勢が必要なんだろうなぁ、と最近は思ってます。
@@gomiakuta 様
はい。私もそう思います。
子どもたちに「おかあさんはカモにされる側で心配💦」と思われていまして😰
それは多分、人に対して強く出られない弱さだったりするのです。
そういう弱さを自分にムリなくどうしたらいいかと考えて、私はとても小さい範囲の(慎ましい)自分は自律的に善を行って(自律的だから見返りを求めない)、社会と接する部分の自分はちゃんと賢くならなくちゃと思いました笑
ですけどそうやって想いと行いを自分好みに律していると、初めてすれ違う人がニコニコ話しかけて来て下さったり、
セカイが不思議に優しくなって驚きます。☺️
茂木先生とモーガン先生、お二人とも素晴らしい方ですが、「唯物論」についてだけ私の考えとは異なります。
人間を不幸にするのはマルクス主義、共産主義の「みんな平等、みんな同じ」の思想です。
それに対し、唯物論は「思想」ではなく、この世界の仕組みを説明しているだけです。
心は、脳の働きから生まれているものですが、「心のつながり」「美しい心」を生み出します。
人生は、一度きりだからこそ貴重であり、素晴らしいものだと私は思っています。
死ねば、自分は無くなりますが、家族で繋がっていきます。
死があるからこそ、ものの哀れがあるのだと思っています。
あの世という言及は一種の救いになるが
例えば仏陀はそれに対してさえあるないに関わらずそれに執着せず今を生きろと言っている
が現代の人は現世に偏りすぎている。
思考概念の内側は、あくまで人間の自我意識の視点なのですが、無我って自我意識の外側の視点で、言い換えると思考や概念の外側なのですよね。禅定(八正道の正定)という瞑想状態に意識の状態が至ると、思考の外側に視点が切り替わるわけです。
ですので、思考概念だけで答えを出す方法論では、自我意識の外側ってわからないんですね。
構造的にそうなんです。
「禅定(八正道の正定)という瞑想状態」というのは自己意識の一種ですから、構造的に人間は自己意識から逃れられません。人間は他人や他の生物の意識を持つことができません。
プラトンは高齢になってからの思想デモクリトスは若い頃の思想じゃないのかなぁ…高齢者と話している時ちょっと気を抜くと死ぬ話とか病気の話とかに持って行かれて閉口すること良くあります
社会主義も資本主義も同じ!?続きも楽しみです😊
私はスペインに住んで7年になります。 言語は英語、スペイン語、フランス語、とドイツ語、イタリア語を少々話します。 西洋の会話は、 知識の競争と、 最終目的は自分の意見が正しい事を示すためにあります。 スペイン人の妻とは8年一緒にいますが、彼女は未だに瞬間的に口答えばかりで、 素直に受け止めることがありません。 そもそも、日本人の会話は共感が基本ですから、私が正しいだの、 あなたが正しいだのは、どうでもいいのです。 一説では、 日常会話で必要な語彙数は、 スペイン語イタリア語 フランス語で2000から2300語、 英語で3000語、 ドイツ語で5000語、 日本語で1万語と言われていますが、実体験でこれは間違いではありません。 日本語の5分の1の単語で済む言語が、 日本人の感性を表せるわけもなく、それは逆に日本人にすれば、 道具箱にプライヤーひとつしかないようなもので、不便でとストレスでしかありません。 なるほど、 工夫も改善もない西洋の文化ですから、 プライヤーひとつで現地人は不自由しないけれど、 世界をより良く平和に変えるなら、 日本語ほど適切な言語はないでしょう。 それは" 心" という単語ひとつで明白です。西洋は感情と理性と魂を別々の単語で言いますが、心は 精神も魂も含みますから。 つまり、 西洋言語では、自己の統一すらままならないという事です。
なるほど!
0.5秒後の世界しか認識できず、無意識がほとんどを決定しているという解釈もあり、加えて錯覚で歪められる可能性もあるとなると
唯物論でも唯我論でもなければ、イデアや純粋経験を完全に理解できずとも、その朧気な輪郭を掴もうとすれば隠れている何かを読もうとする直感でしかなく
膨大な情報を処理しているらしい無意識に、意識側がほんの少しでも寄ることで第六感や悟りのような、いわゆる右脳的なモノになるのではないと思います。
全然言語化できていませんし、おそらくできないものなのでしょうか。本来は主体と客体を分けること、そのものが無粋では無いかとも。
スウェーデン人もまず、口ごたえ、口先で勝負しますよ。そして人の話を聞かない。
欧米人はこれやから • • •。
💢
社会主義vs資本主義、冷戦は唯物論の内戦…。「あなたと私は似たもの同志 欠点ばかりが目立つ二人よ」昭和の名曲の脳内再生が止まりません・・・🤣。
今読んでます
本来の唯物論=物質主義ではない。後に曲解された。「物」の意味はマテリアルではないです。
自然の、宇宙の法則を「物」と表現しているだけで、それは「理(ことわり)」のこと。つまり物理のことです。
キリスト教と仏教が繋がってるかもとのことで思い出しました。
聖書のキリストはナザレ出身ですが、サンスクリット語でNazareth, Nazarene =どの組織からも離れた者のこと=Buddhist (仏教徒)=Mercury (水星)=Wisdom (知恵)。
ヒンズー教でNazar=Sight(視界、視野)なので、Nazarene=Seer( 先見者)だろうと聞きました。
お二人が書かれる本が偶然に生まれることはない。一冊の本であっても、その誕生にはその本を書いた目的がある。ところでお二人が生きている肉体の仕組みはもう医学が解明できているだろうか?人間は人間の生命活動の仕組みさえ未だにすべてを解いたわけではない。それほど複雑なミクロコスモスと呼ばれる人間や、宇宙の誕生が無目的に偶然に誕生する可能性や確率はどのくらいだろうか?無機物が有機物になり最高に進化した人間が現れたという。一輪車が100億年経っても二輪車に進化するとは誰も考えないだろう。しかし、進化というのはそれ以上の変化ではないのか。キリンはキリンに、猿は猿に、人は人にはじめから目的をもって進化してきたというのなら理解できる。そういう考えが否定されるのは、目的とは意思を持った存在が立てるのだから、その進化をもたらした目的があるなら、その目的を持った意思の主体は誰か?という話にならざるを得ない。だから、進化論者は進化に目的を認めない。進化論とは偶然という神を信じる偶然教という一種の宗教ではないのか?デモクリトスを否定するなら、その代替案はどうなるのだろうか?それが問題だ!さて、茂木先生は仏教のキリスト教への影響を語られたが、一般には逆であると思うので、独創的である。ぜひ詳しくいつかお話されてほしい。それにしても不思議な対談ですな。続きを楽しみにしております。
プラトンの説は
岡田茂吉という有る宗教の教祖が言われた
霊界と現界の関係性において
霊主体従の法則に繋がるものですね
霊主体従の法則も霊界で先に起こった事象が
現界に転写されると言っています
そして現界に映る時に
その人間の徳ややってきたことやっていること
思っていること話していることなどで
大難なのか小難なのか無難なのか
幸運なのか変わると言われています
唯物主義の行き着く先が
共産主義だと私は教わり共産主義は悪魔の思想だと教わってました
私が10代最後の頃ですから30年以上まえのことです
ですが、共産主義唯物主義が悪魔の思想だと
学んだのは最近のことで
この動画再認識出来ましたし
世の中ようやくこの水準に達したことを嬉しく思うのと
私が信じている教祖が言われるには
どんどん見えてないものが明らかになると言われています
この動画はその明らかになったものの一つだとも思いました
とは言えこの動画で私の考えが正しかったと
改めて認識ができました
感謝です
素晴らしい動画ですありがとうございます
哲学好きの友人、マルクス推しなんよなぁ
めっちゃ面白い。こういった授業を受けて見たかったな。知性をものすごく刺激されました。
俺も幼少期はプラトンみたいな考えをしていたなぁ、自分以外は世界の普遍的無意識と繋がっていて根っこは同じなんだから人間は全て同一存在なんだろうと
中の人が同じでもアバターと言う人格を纏っている限り同じにはなれないので、人は人として生きるのが幸せかなと
思想と哲学はとある漫画で言うところの人間病みたいなものだから上手く付き合うしかない
魂と云う物質 まとめ方 死ぬことって怖くない 禁止されました マーノ カールマルクス あの世がない 経済効率を求める
唯物論を信じたら、成仏できなくなるよ。
資本主義も社会主義も唯物論というのはそうですね。
霊魂やあの世や生まれ変わりを排除した経済思想。
相続税を廃止して、生まれ変わり先の自分へ全相続させる経済システムなら
霊魂が加わった資本主義経済システム的になりそうです。
MUSHINO KOE GA KIKOERU YOUNI NARU. HEIWAJA NAITO YOKU KIKOENAI.
ITSUMO USO BAKARI TSUITERUTO , KAO MADE KAWATE KITESHIMAU.
くらしの良品研究所
『右脳と左脳と虫の声』についての
「左脳で虫の音を聞く日本人」
『人間の脳は右脳と左脳とに分かれていて、それぞれに得意分野があります。言葉や計算などの知的作業を分担するのは、言語脳といわれる左脳。これに対して音楽脳といわれる右脳は、非言語音を感覚的にとらえるのにすぐれているといわれます。この脳の働きを日本人と西欧人で比較してみると、西欧人は虫の音を右脳(音楽脳)で処理するのに対し、日本人は左脳(言語脳)で受けとめる、つまり虫の「声」として聞いていることが角田博士の研究で明らかになりました。
一体どうしたら、そんなことがわかるのでしょう? 人間の耳から脳への神経系の構造は、左耳から入った情報は右脳へ、右耳から入った情報は左脳へ行く、という交叉状態になっています。そこで、左右の耳に同時に違った音を流した後でどちらの音を聞きとれたかを調べることで、どちらの脳が認識しているかを判定。いろいろな音でこうした実験を積み重ねていくと、音楽や機械音、雑音は右脳で、言語音は左脳で受け止めていることがわかったのです。
ここまでは、日本人も西洋人も共通なのですが、違いが出るのは虫や動物の鳴き声。こうした音を、西洋人は楽器や雑音と同じように右脳で聞いているのですが、日本人は言語と同じく左脳で聞いていることがわかりました。』
「日本語の脳」
『こうしたことの背景には、その言語における「母音」が大きく関わっているといわれます。母音より子音の方が重要な役割をもつことの多い西洋人は、母音を音楽脳で処理するのに対して、母音で言葉を形成する部分が大きい日本語を話す日本人は、母音を言語脳で処理するのだとか。そして、虫や動物の声は母音に非常に似ていることから、日本人はこれらの音を言語脳で聞くと推察されています。それだけでなく、波・風・雨の音・小川のせせらぎといった自然音や邦楽器の音なども、日本人は左脳で聞いているのだそうです。
さらに興味深いのは、日本人でも外国語を母語として育てられると西洋型になり、外国人でも日本語を母語として育つと日本型になってしまうこと。西洋型か日本型かは、人種の違いではなく、幼児期にどんな言語を母語として覚えたかの違いである可能性が高く、「日本人の脳というより"日本語の脳"と言うべきだろう」と角田博士は語っています。(省略)』
ところで、私は乳児の頃髄膜炎にかかり「高音障害」があり、虫の声は低い蝉の声しか聞こえません。しかし、その分、霊的な音や匂いは分かり、人の危機、予知夢、直感なども割と鋭いと思っています。
人は、肉体の中に魂が入った存在なので、肉体的に何かが不利的になると、生きて行くにあたって欠落した機能をフォローする何かしらの機能が備わる様になっているのかも知れません😅。
長文失礼致します。
🙏💭💗。
古事記と万葉集の研究を、いつから始められるのかなぁと楽しみにしています。視聴者も巻き込んでくださると嬉しいのですが、、、。
本物のアメリカン・カウボーイ‼😇😇ルン
こんにちは🌷
本間華稲です。
ハイコンテクスト文化とローコンテクスト文化の違いですね。
小泉珍次郎くん風に言えば「おぼろげにうかんできた 18:28 」のですが😅、要は哲学とはこの世の意味づけの話で、言葉抜きでは成立しない。だからそれを補うために宗教が必要となる。大胆に言っちゃえば「感じる世界」。
ところが、大乗仏教では不立文字なんて禅宗で説明されるように言葉を超えた世界を相手にしているか。唯識は無意識の奥底までを透徹したような議論がある。単なる生き物としての生でなく、人間として最高の生き方を求めている。言葉で世界を分けちゃわからなくなるんだな。😂
デモクリトスが唯物論の祖で、マルクスが焼き直したんですね…。
タタミゼ効果を科学してみると面白いかもしれない。発声の違いも関係ありそうだ。スペイン人が日本人の「生きがい」を探求し書籍で紹介していたりする。世界で500万部、米国でも100万部売れているとか。
こういう日本語と日本人の生き方を護りたいが、お注射などの勢力がそれを破壊しようとしてくる。武力を用いない戦争は続いている。
仏教とキリスト教
インドヨーロッパ語族だから一緒なんかもしれないですね。
おふたりで
禅問答や ソクラテス式問答法みたいに
二律背反な テーマで
ライブ配信して欲しいな
(´・ω・`)
先生 質問があります。デモクリトスが「世界は原子だ。つぶつぶだ!」と説いたとき、古代人は「おおっ!」となったのでしょうか。社会や倫理への言及はありましたか。調べましたが、資料が断片的で、専門家も判断しかねるような感じでした。機会がありましたら、よろしくお願いいたします。
デモクリトスの著作は残っていません。後世の学者がデモクリトスの引用を断片的に伝えているだけです。
先生 教えていただきありがとうございます。それが2000年以上も受け継がれてきているのは凄いです。
紀元前5世紀から、精神性高まる興隆期はメシア降臨準備時代と考えれば、天の摂理と考えられませんか?
唯物論はデモクラ テス もうそうですが フォイエルバッハではないですか
お二人の呼吸の重なりや微妙なズレが楽しい対談ですね。正に漫才(*>∇<)ノ
想像なのですが資本主義や社会主義が唯物論の内ゲバなら、欠けたものを補えば融合し、人類にとって役に立つものとして再生出来るのでは??σ(´・ε・`*)
それではどっちつかずになるから駄目なのでしょうか?(*´・∀・`*)
さながらに 絵に描くごとき もくもくの
雲立ち上る 夏の青垣
「唯物論の内ゲバ」
→ うまいことを言う。💧😅
(ザブトン一枚!)
あの世が無い信者の方には自分の中に柱が無い様に感じられてしまいます、上手く表現出来ませんが。。
鬼畜米英とソ連の冷戦は啓蒙思想の内戦に過ぎなかった。日本語そのものに世界史を最適化する余地がある?
お釈迦さんは唯一神(バラモン)を排除。
唯物論て?今だけかな?
唯物論であるから子供が堪らなく可愛かったり
親を大事にしたり伝統に畏敬の念を感じるんだけど
物の憐れってモノをイチバン感じる。
「大乗仏教とキリスト教は似ている」と動画のなかで言っていますが、そういう言説はきわめて概念的であり、中身を見ていません。
阿弥陀如来はイエスのような生贄の神の子でありません。阿弥陀如来だけが救いの道だとも言っていません。
ナザレのイエスは名号を唱えなさいと言っていませんし、体が金色に輝いてもいません。
キリスト教の「自分を愛することが他者を愛する基盤である」という考え方は仏教的な思考からかけ離れています。
むしろヒンドゥー教のバクティ思想の方がキリスト教に近似性があるとおもいます。もちろん、それも細かく見ていけばヒンドゥー教とキリスト教はまったく違いますが。
歴史がまったく異なる宗教思想に近似性を見出そうとするのはもとより無謀な営為であり、スーパーマンとウルトラマンが同一だと主張するようなナンセンスな議論になりがちです。
なぜにこのガサゴソ音が入ってしまったのかと思うんですが話されていることを聞くのに邪魔。初めての経験です。
飼い慣らされた外国人
人間は感情なんだよ。実在をやれよ。噛み付いてやっから。